【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
ウラノスは帰らなかった。
正確には、一度宿へ戻り、翌朝また神聖四文字を訪ねてきた。そして二度目の会談では、昨日までの神学的な話をほとんどせず、いきなり迷宮について尋ねた。
「地下へ入ったことはあるか」
『ない』
「ないのか」
『止められてる』
ウラノスは黒い球体を見上げ、それから周囲の騎士へ視線を向けた。
「神を迷宮へ入れないのか」
「主の御身に万一があってはなりませんので」
騎士団長が答えると、ウラノスは少し考えた。
「合理的だ」
『そこ納得するの?』
「神は死なぬとは限らない」
神聖四文字が止まった。
『……死ぬの?』
「知らない」
『またそれ?』
「天界で死んだ神を見たことはない。下界では何が起こるか分からん」
『君たち、本当に思ってたより適当だな』
「長く生きると、分からぬものを分からぬまま置いておくことに慣れる」
『それはちょっと分かる』
千年以上生きてきた者同士、妙なところで意見が一致した。
ウラノスが迷宮に興味を示した理由は、単なる好奇心ではなかった。彼はオラリオへ入った時点から、地下にある何かを感じ取っていたという。
「街そのものより、下の方が騒がしい」
『魔物がいるから?』
「それだけではない。もっと大きいものだ。眠っているのか、考えているのか、それすら分からんが」
会議室の空気が変わった。
オラリオの迷宮は、千年以上にわたって調査されてきた。階層構造、魔物の発生、魔石、鉱物、特殊な植生。分からないことはまだ多いが、少なくとも巨大な地下生態系として扱われている。だが、ウラノスの言い方は、それとは違っていた。
『生き物みたいに言うんだね』
「生き物ではないのか」
『知らない』
「ならば、似た者同士だな」
『何が』
「知らないことばかりだ」
神聖四文字は否定できなかった。
「一度、入口まで行きたい」
ウラノスはそう言った。
『俺も行っていい?』
「なりません」
騎士団長の返事は、千年以上経っても変わらなかった。
『入口だよ?』
「なりません」
『ウラノスは行くのに?』
「ウラノス殿は我が主ではございませんので」
ウラノスが低く笑った。
「随分と愛されているな」
『不自由とも言う』
*
結局、神聖四文字は遠隔視認で見守ることになった。
ウラノスはソフィアと騎士団の護衛を伴い、迷宮入口へ向かった。千年以上の増改築を経た入口は、すでに巨大な神殿のような構造になっている。ただし信仰施設ではない。冒険者の出入りを管理し、魔物の氾濫が起きた場合には封鎖するための防御施設だった。
ウラノスは入口の手前で足を止めた。
しばらく動かなかった。
「どうされました」
ソフィアが尋ねても、返事がない。
やがて彼は床へ片膝をついた。
その瞬間だった。
空気が変わった。
魔術ではない。
少なくとも、パチカンの術者たちが知る魔力の流れとは異なっていた。
ウラノスから何かが広がった。
光はない。
風もない。
それなのに、その場にいた全員が感じた。
重い。
深い。
自分たちが立っている地面のさらに遥か下へ、何かが染み込んでいく。
そして。
迷宮が静かになった。
*
『どういうこと?』
その日の夕方、神聖四文字は同じ質問を三度していた。
ウラノスは平然としている。
「祈った」
『何に?』
「迷宮に」
『迷宮に祈るの?』
「鎮まれ、と」
『それで鎮まるの?』
「多少は」
『何で?』
「知らん」
『絶対それで済ませてるだろ』
「事実だから仕方あるまい」
調査結果は、ウラノスの言葉を裏づけていた。迷宮全体が停止したわけではない。魔物は依然として発生しているし、冒険者も探索できる。ただ、入口付近で観測されていた魔物発生頻度が急激に低下した。さらに過去数百年に何度か起きていた、大量の魔物が一斉に上層へ移動する兆候も消えている。
ギルドの研究者たちは混乱した。
千年以上かけて築いた迷宮学のどこにも、「神が入口で祈ると迷宮が大人しくなる」という項目はなかった。
『毎日やらないと駄目?』
「おそらく」
『おそらくなんだ』
「初めてやったのでな」
『何でやろうと思ったの?』
「できる気がした」
『感覚?』
「神だからな」
『便利すぎるだろ、その言葉』
神聖四文字は少し悔しかった。
自分も神として千年以上崇められてきたというのに、そういう神らしい直感は一度も経験したことがない。
『俺にもできるかな』
「試してみるか」
『入口へ行かせてもらえればね』
騎士団長が無言で首を振った。
『ほら』
「本当に不自由な神だな」
『最近分かってきた?』
「少し」
*
問題は、その翌日に起きた。
「しばらく、ここへ住む」
ウラノスが言った。
教皇は聞き間違いかと思った。
「……どちらへ?」
「オラリオに」
「どの程度の期間を想定されておりますか」
「決めていない」
「宿をご用意いたしましょうか」
「迷宮の近くがいい」
教皇の顔が固まった。
神聖四文字はあまり深く考えずに答えた。
『いいんじゃない?』
「主よ」
『だって祈ってると迷宮が安定するんだろ。いてくれた方が助かるじゃん』
「それは、その通りではございますが」
『何か問題ある?』
教皇は問題をどこから説明すべきか迷っているようだった。
「十字教最大の聖地に、別の神を自称する存在が恒久的に居住することになります」
『聖地宣言で異教徒も住んでいいって決めただろ』
「何度も申し上げますが、これは異教徒の人間ではありません」
『でも犯罪もしてないし』
「教義上の問題が」
『またそれ?』
神聖四文字は少し考えた。
『じゃあ、教義の方で考えてよ』
教皇が言葉を失った。
「……教義を、現実に合わせると?」
『現実にいる人を、教義に合わないから追い出すよりは』
「神を名乗る存在でございます」
『だからこそ話し合った方がいいだろ。追い出して敵になった方が怖いよ』
教皇は深く息を吐いた。
「実務上の合理性だけで、千年以上の神学を動かされますな」
『千年以上生きて分かったけど、現実って教義に合わせてくれないんだよ』
ウラノスが横で静かに笑った。
「私は気に入ったぞ、その考え方」
「あなたは少し黙っていていただけますか」
教皇が、初めて神に対してやや失礼な口調を使った。
ウラノスはむしろ楽しそうだった。
*
ウラノスの滞在は、秘密にはできなかった。
神がオラリオへ入ったことだけでも大騒ぎだったのである。さらに、迷宮入口付近で日々祈りを捧げ始めれば、隠しようがない。
最初の反応は、恐怖だった。
次に怒り。
その後に、好奇心が来た。
十字教徒の一部は「偽神を聖地から追放せよ」と訴えた。しかし、神聖四文字自身が滞在を許可したと教皇庁が公表すると、声は急速に小さくなった。
代わりに別の疑問が広がった。
――なぜ主は、偽神を追放しないのか。
――本当に偽神なのか。
――もし偽神なら、なぜその祈りで迷宮が鎮まるのか。
――主は彼を何と考えているのか。
そして最も答えにくい問い。
――主とウラノスは、どちらが強いのか。
『絶対それ聞かれると思った』
神聖四文字は報告書を読んでいた。
「各地の神学校からも照会が来ております」
『戦ったことないから分からない、で』
「戦えば分かるのでは、という反論が予想されます」
『戦わないよ』
「では、なぜ戦わないのか、と」
『子供かよ』
ウラノス本人へ同じ質問をした冒険者もいた。
「黒い神と、あんたはどっちが強いんだ?」
酒場でそう聞かれたウラノスは、少し考えてから答えた。
「知らん」
「戦ってみればいいだろ」
「街が壊れるかもしれん」
「そんなに?」
「分からん」
「またそれかよ」
その答えは翌日には街中へ広まり、なぜか「二柱が戦えばオラリオが滅ぶ」という噂へ変わった。
神聖四文字はすぐに否定した。
『誰もそんなこと言ってないから』
しかし、否定したことでかえって信憑性が増した。
神聖四文字は何世紀ぶりかに、噂というものを心底嫌いになった。
*
ウラノスがオラリオへ住み始めて三年後。
二柱目の神が来た。
今度は女神だった。
さらに半年後、三柱目。
その翌年には五柱。
彼らはウラノスを訪ねてきた者もいれば、迷宮に興味を持った者もいる。単純に、神と人間が入り混じって暮らす都市が面白そうだから来た者もいた。
当然、ファミリアも増えた。
最初は小さかった。
神一柱に、眷族が数人から数十人。
彼らは鍛冶工房を作り、薬屋を開き、商売を始め、迷宮へ潜った。
ファルナを受けた冒険者は、十字教式のレベルを持たない者でも強くなれた。
ここで、千年以上続いてきたオラリオの社会構造が初めて大きく変わった。
それまで強くなるには、十字教へ改宗して職業システムへ接続するか、純粋に人間として鍛錬するしかなかった。後者には明確な限界がある。そのため、冒険者になった者の多くが、いずれ十字教へ入る傾向にあった。
だが、ファルナが現れた。
十字教へ改宗しなくても強くなれる。
それどころか、迷宮で命を懸けた者ほど急速に成長する。
冒険者にとって、それは革命だった。
*
「洗礼を取り消したい?」
オラリオ中央教会の司祭は、目の前の青年を見た。
「はい」
二十二歳の冒険者だった。幼児洗礼を受けているため十字教徒だが、信仰心は薄い。
「理由を聞いても?」
「ファミリアに入りたいんです」
「洗礼を受けたままでは入れないと?」
「いや、女神様は別にいいって。でも、俺が嫌なんです。二つの神から力をもらうみたいで」
司祭は困った。
「十字教の職業システムとファルナが同時に機能するかは、まだ確認されていません」
「だから余計に怖い」
「なるほど」
「主は、棄教しても怒らないって本当ですか」
「教会法上、棄教そのものに刑罰はありません」
「教会法じゃなくて、主が」
司祭は少し考えた。
「千年以上前から、同じことを仰っておられます。信じられない者を無理に信じさせる意味はない、と」
「地獄へ落ちたりは」
「それについては、主ご自身が『死後のことはよく分からない』と」
青年はぽかんとした。
「神なのに?」
「その質問は、我々も長いことしております」
「……変な宗教ですね」
「最近、よく言われます」
青年は棄教した。
職業システムがどうなるか。
千年以上前から理論上だけ存在していた問題に、ようやく実例が生まれた。
*
結果は、教皇庁の予想と少し違った。
職業は消えなかった。
レベルも失われなかった。
能力も残った。
ただし、それ以降、十字教式の経験値による成長が止まった。
『なるほど』
神聖四文字は報告書を読んだ。
「恩寵そのものは、一度与えられれば失われない。しかし、信仰を離れた後は新たな恩恵が加わらない、と考えるべきでしょう」
『昔言った通りだったな』
「何をでしょう」
『あげたものは、その人のもの。取り上げるつもりはないって』
ヨハネスは千年以上前の会議を覚えていた。
「結果として、そのようになりましたな」
『俺が決めたから?』
「それは分かりません」
『本当にこの世界、分からないこと多いな』
「ようやく主がお慣れになったようで何よりです」
『千年以上かかった』
さらに興味深いことが起きた。
棄教した青年は、その後ファルナを受けた。
二つの成長体系は完全には融合しなかった。
だが、共存した。
旧来の職業能力は残り、その上にファルナによる能力が加わったのである。
教皇庁。
ギルド。
神々。
そして冒険者。
全員が、それを見て同じことを考えた。
――これを利用すれば、非常に強い人間を作れるのではないか。
神聖四文字だけは違った。
『絶対、変な実験するなよ』
*
当然、変な実験をする者は出た。
十字教の高レベル者へファルナを与えればどうなるか。
逆に、ファミリアの冒険者を洗礼させればどうなるか。
二つの体系を使って効率的に育成できないか。
最初は研究者の好奇心だった。
次に軍が興味を持った。
その次に王侯が興味を持った。
「主よ。理論上は、双方の体系を併用することで――」
『駄目』
「まだ説明の途中ですが」
『人を実験材料にするなら駄目』
「志願者に限ります」
『危険性は分かってる?』
「未知です」
『じゃあ余計駄目』
「ですが、ファルナを受けること自体は危険ではないと神々が」
『二つ混ぜたときは分からないんだろ』
「はい」
『なら、まず小さく調べて。本人に全部説明して、途中でやめられるようにして、軍事目的の大量運用は禁止』
研究そのものは許された。
神聖四文字が全面禁止しなかったのは、禁止すれば地下で行われると思ったからである。
その判断は正しかった。
*
神々が増えるほど、オラリオの姿は変わっていった。
神の名を冠する店ができた。
ファミリア同士の競争が始まった。
迷宮の深度記録が急速に更新された。
十字教の冒険者とファルナを持つ冒険者が同じ隊を組むことも珍しくなくなった。
街では、以前なら考えられなかった会話が普通に聞かれるようになった。
「お前、どこの神様んとこ?」
「うちは鍛冶神。お前は?」
「十字教」
「それファミリアじゃないだろ」
「似たようなもんだろ」
「違うって神父に怒られるぞ」
「うちの主はその辺あんまり気にしないらしい」
神学者は頭を抱えた。
冒険者は気にしなかった。
地下で背中を預けられるなら、信仰の違いなど二の次だった。
皮肉なことに。
神々の到来によって最初に生まれたものは、宗教戦争ではなかった。
共存だった。
*
それでも、教会の不安は消えなかった。
十字教徒は減り始めていた。
急激ではない。
西方全体から見れば誤差に近い。
だが、オラリオでは明確だった。
若い冒険者の中に、ファミリアを選ぶ者が増えている。
神が直接話してくれる。
一緒に食事をする。
酒を飲む。
悩みを聞く。
時には喧嘩もする。
それは、巨大な制度となってしまった十字教にはない近さだった。
ある神学校教師は、苦々しく言った。
「我々は千年をかけて主を天まで遠ざけ、その間に本当に天から降りてきた神々が人間と酒を飲み始めた」
その言葉は、教会内部で大きな議論を呼んだ。
神聖四文字本人は、それを読んで妙に納得した。
『……それ、かなり当たってるかも』
教皇は困った顔をした。
「主は、もっと人前へ出られますか」
『それで信徒を取り戻そうとするのは違うだろ』
「しかし、このままでは」
『減ってもいいよ』
「主」
『信じたい人が他の神を選ぶなら、それは仕方ない。俺たちが選択の自由を言ってきたんだから、自分たちが選ばれなくなった途端に禁止するのは変だろ』
教皇は長いこと黙っていた。
「私は、そこまで強くありません」
『何が?』
「千年以上続いたものが、失われるかもしれないと思うと怖い」
神聖四文字は返事をしなかった。
森の母を祀っていた老人の言葉を思い出した。
十字教が広がっていくのを見て、何も残らなくなることを恐れていた男。
今度は。
自分たちが、その側に立ち始めている。
『そうだよな』
ようやく言った。
『怖いよな』
「はい」
『でも、昔の人たちも同じだったんだろうな』
教皇は何も答えられなかった。
*
ウラノスはその話を聞くと、静かに言った。
「ならば、ちょうどよい」
『何が』
「君たちも、選ばれる側になった」
『厳しいこと言うなあ』
「選ぶ自由を与えるということは、選ばれない自由も認めるということだ」
『分かってるよ』
「ならば問題ない」
『頭ではね』
「神でも心は別か」
『あるのか分からないけど、たぶん』
ウラノスは少し笑った。
「やはり君は面白い」
『君、最初からそればっかりだね』
「だからここにいる」
その言葉の通り。
ウラノスはオラリオを離れなかった。
毎日。
迷宮へ祈りを捧げた。
そして、一柱、また一柱と神々が街へ集まってきた。
十柱。
二十柱。
五十柱。
ファミリアが増え。
神殿が増え。
人々が神々の名を日常の中で口にするようになった。
かつて西方世界で「神」といえば一つしか意味を持たなかった。
それが、オラリオでは違う。
神。
その言葉が、複数形になった。
十字教会にとって。
それは小さな言葉の変化ではなかった。
世界そのものが変わったということだった。
そして、その変化に最も早く適応したのは、神学者でも教皇でもなかった。
神聖四文字本人だった。
『まあ、いるものは仕方ないよね』
千年以上かけて築かれた唯一神教の危機に対する言葉としては、あまりにも軽かった。
だが、その軽さがあったからこそ。
この時代。
まだ、十字軍は生まれなかった。