【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
大巡幸の準備には三か月を要した。神聖四文字としては、街道を順番に回り、いくつかの大都市で話をすれば済むと思っていたのだが、教皇庁はそう考えなかった。唯一神が千年以上ぶりに西方諸国を直接巡るのである。訪問先の警備、宿営、食料、街道封鎖、各国との外交調整、群衆整理、医療班、記録官、騎士団の配置まで、あらゆる問題が発生した。しかも神聖四文字本人は食事も宿も必要としないため、その感覚がまるで分からない。
『俺一人で飛んでいけば早くない?』
「なりません」
教皇は即答した。
『ソフィアと護衛を何人か連れて』
「なりません」
『じゃあ百人』
「最低でも二千です」
『布教戦争でも始めるの?』
「主が訪れる都市には、数万人から十数万人が集まる可能性がございます。その群衆を守るための人員です」
『俺を見るだけなのに?』
「主を見るためです」
神聖四文字は返事ができなかった。
結局、巡幸団は二千三百余名となった。十二騎士団から護衛隊、教皇庁の外交・法務担当、医師と治療師、給糧隊、記録官、さらに各地との連絡要員が同行する。教皇自身も参加を希望したが、パチカンを完全に空けるわけにはいかず、途中まで同行した後に戻ることになった。
ウラノスも来たがった。
「私も西を見たい」
『それは絶対やめて』
「なぜだ」
『俺が「天界神とは仲良くしてください」って言いに行く横を、天界神本人が歩いてたら話がややこしくなる』
「むしろ分かりやすいのではないか」
『分かりやすすぎる』
ウラノスは不満そうだったが、最終的にはオラリオへ残った。ただし「帰ったら西方人が私をどう思っていたか教えろ」と言い残した。
*
最初の訪問地はラグナル王国だった。
かつて一つの伯領にすぎなかった土地は、何度もの王統交代と領土再編を経て、西方でも有数の大国となっている。首都も、神聖四文字が最初に知っていた石造りの小さな城塞都市ではない。人口三十万を超える城郭都市へ変わり、中央には巨大な大聖堂が建っていた。
神聖四文字が首都上空へ入ったとき、街全体の鐘が鳴った。
一つではない。
数十。
城壁の外まで人が並んでいる。
屋根の上にまで人がいる。
『多くない?』
ソフィアが答えた。
「周辺からも集まっております」
『何人』
「城外を含め、推定で二十万ほど」
『……帰りたい』
「もう見えております」
『だよね』
黒い球体が都市上空を通過すると、人波が動いた。
跪く者。
泣く者。
手を伸ばす者。
祈る者。
声を上げられず、その場に立ち尽くす者もいた。
神聖四文字は、それを見て初めて気づいた。
彼らのほとんどは、自分を見たことがない。
当然だった。
パチカンやオラリオから離れれば、唯一神とは聖典と説教の中の存在である。黒い球体という姿を絵では知っていても、本当に空を飛んで現れるところを見た者などほとんどいない。
だから。
神聖四文字がただそこにいるだけで。
信仰は、現実になる。
*
最初の演説は王宮前広場で行われた。
神聖四文字は、何度も原稿を直した。
教皇庁が最初に作ったものは、荘重すぎて没にした。
次の案は神学的すぎた。
三案目は政治的すぎた。
結局、自分で書いた。
『今日は、一つだけ言いたくて来た』
増幅魔術によって声が広場全体へ届く。
『オラリオに、天界から来た神たちが住んでる。それを心配してる人が多いのは知ってる。俺以外の神なんて認めたくない、って思う人もいると思う』
群衆は静かだった。
『俺も最初、びっくりした。というか今でもよく分かってない』
前列の聖職者が微妙な顔をした。
『でも、分からないからって敵にする必要はない。話せる人とは話す。悪いことをしたら、その行為を裁く。何もしてないなら、神って名乗ってるだけで攻撃しない。それでいきたい』
誰かが声を上げた。
「主よ! 彼らは真なる神なのですか!」
広場がざわついた。
神聖四文字は少し迷った。
『分からない』
ざわめきが大きくなる。
『でも、分からないことを分かったふりする方が危ないと思ってる』
「では、我らは彼らを拝むべきでしょうか!」
『拝まなくていい』
今度は即答した。
『十字教徒として俺を信じるなら、それでいい。でも、他の人が別の神を信じることまで止めなくていい。オラリオでは、もうそういう人たちと一緒に暮らしてる』
「主は、お怒りではないのですか!」
『怒ってない』
「彼らは主の座を奪おうとしているのでは!」
『今のところ、そんな話は聞いてない』
群衆の一部から笑いが起きた。
神聖四文字も少しだけ気が楽になった。
『だから、俺のために勝手に戦わないで。聖地を守るとか、信仰を守るとか言って、俺が頼んでないのに人を殺さないで』
ここだけは、はっきりと言った。
『俺は、それを望んでない』
広場は静まり返った。
その沈黙を、神聖四文字は良いものだと思った。
理解してくれたのだと。
少なくとも、その日は。
*
翌朝。
王都の大聖堂前には、前日以上の人間が集まっていた。
『何で増えてるの』
「昨日の御言葉を聞き、さらに周辺から人々が集まったようです」
『昨日聞いたなら帰ってよ』
「主の御姿を一度でも多く拝したいのでしょう」
『話の内容、聞いてた?』
「聞いております」
『俺、拝みすぎないでって話もしたよね』
「いたしました」
神聖四文字は嫌な予感を覚えた。
その予感は、街を出るときに確信へ変わった。
沿道には人が並び、神聖四文字が通った後の土を布へ包んで持ち帰る者がいた。
『何してるの、あれ』
「主がお通りになった地の土を……」
『見れば分かる。何で持って帰るの』
「聖なるものとして」
『ただの土だよ』
ソフィアは少し考えた。
「主がお触れになったわけではありません」
『そこじゃない』
数日後、その土が病気を治したという噂が発生した。
当然、神聖四文字には心当たりがない。
さらに一週間後には、「大巡幸の道を歩けば罪が軽くなる」という話が生まれた。
その二週間後には、「主の姿を三度見れば死後の救いが約束される」という教えまで現れた。
『誰が言ったの、それ』
「不明です」
『全部違うって発表して』
「しております」
『止まってる?』
「いいえ」
『……だよね』
千年以上生きて、神聖四文字は噂との戦いに勝ったことがなかった。
*
巡幸は西へ進んだ。
都市ごとに同じことを話した。
天界神を理由なく攻撃しないこと。
信仰は強制しないこと。
異教徒と共存すること。
聖地を守るという名目で勝手に武装しないこと。
そして、自分の言葉であっても、誰かを殺す理由に使う前に本当にそう命じたのか確認すること。
しかし、人々はそれとは別のものも受け取っていた。
神が来た。
我々の町へ。
千年以上前から聖典に書かれていた存在が、本当に空から現れた。
王も跪いた。
司教も跪いた。
騎士も農民も同じ地面へ膝をついた。
その光景は、神聖四文字が望んだ寛容の教え以上に強烈だった。
ある村では、百歳を越えた老婆が担架で運ばれてきた。
「死ぬ前に、一度だけ主を見たかったのです」
神聖四文字は予定を変更して、その村へ降りた。
『無理して来なくてもよかったのに』
老婆は泣いた。
「本当におられた」
『いるよ』
「母も、祖母も、そのまた母も信じておりました。誰もお会いできませんでした」
神聖四文字は、何も言えなかった。
老婆は震える手を伸ばした。
黒い表面へ触れることはできない。
そこで神聖四文字は少しだけ高度を下げた。
老婆は額を地面につけた。
「これで、いつ死んでも構いません」
『いや、それは困るよ。できれば長生きして』
老婆は笑った。
その場にいた者も笑った。
神聖四文字にとっては、それだけの出来事だった。
翌月。
その村には「主が老女へ寿命を与えた」という伝承が生まれた。
老婆は百四歳まで生きた。
伝説は確定した。
*
大巡幸開始から半年。
教皇庁が恐れていたことが起き始めた。
巡幸経路の教会で、志願兵登録者が増えたのである。
『なんで?』
神聖四文字は理解できなかった。
「主を直接拝した若者たちの間で、教会や騎士団へ奉仕したいという者が増えております」
『聖職者とかなら分かるけど、何で兵士』
「主を守りたい、と」
『俺を?』
「はい」
『誰から』
教皇代理は答えに詰まった。
「……天界神から、と考えている者もおります」
『俺、仲良くしろって言いに来たんだけど』
「承知しております」
『意味ないじゃん』
「いいえ。天界神への直接的な暴力を支持する声は減っております。ただ、その代わり『万一、主へ害をなす天界神が現れた場合に備えるべきだ』という意見が増えております」
『……一歩進んで半歩下がった感じ?』
「その程度ならばよいのですが」
報告は続いた。
騎士団への志願。
神学校への入学。
巡礼。
寄進。
修道会への参加。
すべて増えている。
神聖四文字が「他の神を敵にするな」と言うために姿を見せた結果、十字教そのものの信仰熱が急激に高まっていた。
皮肉というには、規模が大きすぎた。
*
七か月目。
巡幸団は西端の都市サン・エルモへ入った。
ここは天界神との接触がまだほとんどない地域だった。そのため、住民の反応も東部とは違う。
神聖四文字が演説を終えた後、一人の少年が声を上げた。
「主よ!」
『うん?』
「僕も騎士になれば、主のお役に立てますか!」
十六歳くらいだろう。
目を輝かせている。
『騎士じゃなくても役に立てるよ』
「でも、もし偽神が主を襲ったら、戦えません!」
『その呼び方やめようって言ってるんだけど』
「申し訳ありません! 天界神が襲ったら!」
『そのときは俺たちで考えるから。君はまず、自分の生活ちゃんとして』
「ですが、主のために命を――」
『捨てないで』
少年が止まった。
『俺、君の命をもらうために来たんじゃないよ』
静かな声だった。
『俺のために死にたいって言われるより、自分のためにちゃんと生きてほしい。家族でも、仕事でも、好きな人でもいい。何か守りたいものができたら、それを守って。それで十分』
少年は戸惑っていた。
「それで……主のお役に立てるのでしょうか」
『たぶん、それが一番役に立つ』
少年は深く頭を下げた。
この言葉も記録された。
後世、《生の教え》と呼ばれる。
神聖四文字は、その名称を知ったとき本気で嫌がった。
*
一年余りをかけ、大巡幸は終わった。
神聖四文字がパチカンへ戻った日、最初にしたことは報告書を読むことだった。
教皇庁の分析では、巡幸後一年間で天界神に対する直接的な襲撃事件は四割近く減少していた。異教徒への暴力も減った。少なくとも、当初の目的は達成している。
『よかった』
「はい」
教皇は言った。
ただし、その表情は明るくなかった。
『何?』
「同時に、十字教徒の巡礼者数は前年の三倍。騎士団志願者は二・四倍。修道会への入会希望者もほぼ倍増しております」
『……うん』
「さらに、各地で新たな在俗宗教団体が生まれております」
『どんな?』
「主の御言葉を広める会。大巡幸路を保存する会。主を護る騎士会。聖地オラリオの安全を祈る会。天界神との和平を支援する会。逆に、天界神を監視する会もございます」
『最後のいらない』
「合法的な活動の範囲に留まっております」
『でも絶対面倒になるやつじゃん』
「私もそう思います」
さらに、巡幸先の国王たちはこぞって記念聖堂を建て始めた。
主が降り立った場所。
主が語った場所。
主が老婆と言葉を交わした場所。
主が雨宿りした場所。
『俺、雨宿り必要ないけど』
「それは承知しております」
『じゃあ何で』
「その日、雨が降っていたため、随行団が宿へ入り、主もそこにおられたからかと」
『それを聖堂にするの?』
「すでに基礎工事が始まっております」
神聖四文字は、長く黙った。
*
数日後。
ウラノスがパチカンへ来た。
「聞いたぞ」
『何を』
「君が西方を一周して、信者を増やして帰ってきたそうだな」
『増やしに行ったんじゃない』
「結果として増えた」
『言わないで』
「天界神を攻撃するなと説いて回った結果、君のために剣を取りたい者まで増えた、と」
『本当に言わないで』
ウラノスは楽しそうだった。
「神とは、そういうものだ」
『何が』
「存在するだけで、人に意味を作られる」
神聖四文字は黙った。
「君が何を意図したかは関係ない。人間は君を見て、自分が必要とするものを受け取る。慈悲を求める者は慈悲深い神を見る。戦いたい者は守るべき神を見る。平和を望む者は平和を説く神を見る」
『じゃあ、何言っても無駄なの?』
「そうは言っていない。言葉には意味がある。実際、暴力は減ったのだろう」
『うん』
「ならば意味はあった。ただ、君が与えた意味だけが残るとは思わない方がいい」
神聖四文字はしばらく考えた。
『面倒だな、神って』
「今さらか」
『君たちはよく何千年もやってるね』
「だから地上へ遊びに来る」
『理由そこだったの?』
ウラノスは答えず、笑った。
*
大巡幸から五十年。
神聖四文字の恐れていた暴発は起きなかった。
天界神と十字教徒の共存は、むしろ安定していった。
オラリオではファミリアがさらに増え、神々同士の争いもあったが、その多くは市法とギルドによって処理された。西方各国にも少数ながらファミリアが現れ、十字教会の隣に天界神の館が建つ都市さえ生まれた。
神聖四文字は少し安心した。
このままなら。
何とかなるかもしれない。
唯一神教と、多数の神々。
普通なら相容れないものでも、時間をかければ共存できる。
そう考え始めていた。
そして。
その考えが完全に間違っていたわけでもない。
実際、その後も何百年もの間、十字教会と神々は時に争いながらも、同じ世界に存在し続けた。
問題は別のところにあった。
神々は、人間よりはるかに長く生きる。
だが。
同じ場所に永遠に留まるとは限らない。
*
大巡幸から二百六十余年後。
一柱の有力神がオラリオを去った。
さらに数十年後。
別の神も去った。
理由は様々だった。
別の土地へ興味を持った。
眷族を失い、気力をなくした。
他の神と争った。
ただ旅に出たくなった。
神々にとっては、それほど異常なことではない。
だが、人間側には違った。
神が去れば。
ファミリアが揺らぐ。
政治が動く。
そして、次の神が来る。
オラリオは少しずつ、神々の流動する都市になっていった。
その変化の中で。
ウラノスだけは残った。
迷宮へ祈り続け。
都市を見守り。
長い年月の中で、次第に表へ出なくなっていった。
そして神聖四文字もまた。
パチカンの奥へ戻っていった。
二柱の神が直接会う回数は減った。
教会も、ファミリアも、国々も、自分たちの制度だけで動くことが増えた。
それは。
神聖四文字が望んでいたことでもある。
自分がいなくても回る世界。
しかし同時に。
神が直接口を出さなくなったとき。
神の言葉を解釈する者の力が、強くなる。
大巡幸から四百年以上。
西方の騎士学校では、ある一節が教えられるようになっていた。
――主は命を捨てることを望まれない。
だからこそ。
守るべきものを失わぬために、備えよ。
――主は理由なく天界神を攻撃することを禁じられた。
だからこそ。
理由が生じたならば、剣を取ることを禁じてはいない。
――主は聖地を守る者を否定された。
ただし。
正式な命令による防衛までは、否定されていない。
どれも。
完全な嘘ではなかった。
だからこそ、危険だった。
言葉そのものを変えなくても。
置く場所を変えれば。
意味はいくらでも変わる。
そして、さらに長い年月が過ぎる。
オラリオに降りる神々は増え続けた。
ファミリアは巨大化した。
迷宮都市は、かつてパチカンが築いた自治都市とは別の社会へ変貌していった。
ギルドも変わった。
冒険者も変わった。
聖地という言葉の意味も変わった。
やがて、西方からオラリオを眺める人々にとって。
そこは《開かれた聖地》ではなくなっていく。
主が名を与えた地。
主が愛した迷宮。
かつて十字教徒が築き、守った都市。
それなのに。
今では何百柱もの天界神が集まり。
その眷族たちが支配的な力を持ち。
巨大なファミリアが街を動かしている。
その事実だけを並べれば。
ある言葉が。
あまりにも自然に成立してしまった。
――聖地は、神々に占められている。
神聖四文字がその表現を最初に知ったとき。
彼は。
千年以上前と同じ言葉を口にした。
『……いや、どうしてそうなるんだよ』
しかし。
今度ばかりは。
その言葉だけでは止まらなかった。