【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
神聖四文字が最初に警戒したのは、敗北ではなく勝利だった。
オラリオ救援軍が帰還してから半年も経たないうちに、西方各国では記念祭が始まった。教皇庁が命じたものではない。帰還兵の故郷で家族が無事を祝い、地方領主が慰労の宴を開き、教会が戦死者のためにミサを行う。その程度なら問題はなかった。ところが、吟遊詩人が歌を作り、画家が壁画を描き、騎士学校が戦例研究を始めると、出来事は少しずつ別の姿へ変わっていった。
――聖地に邪悪が満ちたとき、主は西方の騎士を遣わされた。
――十字架を掲げた軍勢は東へ進み、神々の都を救った。
――異なる信仰を持つ者さえ、主の軍勢によって守られた。
最後の一文だけを見れば、神聖四文字の意図にかなり近い。しかし、全体として読むと気になるところが多い。
『「主の軍勢」って何』
「一般的な比喩かと」
教皇が答えた。
『俺、軍勢持ってるけど、今回そういう意味で送ったんじゃないよね』
「民衆にとっては、主の命令で出征した以上、主の軍勢なのでしょう」
『じゃあ「第一回十字軍」は?』
「定着しております」
『消せない?』
「難しいかと」
『教会の正式文書では使わないようにして』
「すでにそのようにしております。しかし、大学、年代記、民間出版物にまで禁止を及ぼすおつもりですか」
『それやったらもっと定着しそうだな……』
「私もそう思います」
神聖四文字は諦めた。
名前だけなら、まだよかった。
問題は、成功したことである。
軍を出した。
オラリオを救った。
目的を果たした。
そして撤退した。
あまりにも綺麗に終わった。
そのため、西方では一つの考え方が急速に力を得た。
――正しく統制された聖地遠征は、善であり得る。
*
「それ自体は、間違いではないのではございませんか」
十三枢機卿会議でそう発言したのは、まだ五十代の若い枢機卿だった。
『何が?』
「今回の遠征です。オラリオ側から正式な救援要請があり、市民への無差別攻撃があり、外交的解決の余地もほとんどなく、我々は限定された目的のために兵を送りました。戦後に領土を得ることもなく撤兵しております。主御自身も、この軍事行動を正当と判断されたからこそ命令されたのでしょう」
『それはそうだよ』
「ならば問題は、十字軍という名称ではなく、どのような条件なら武力行使が許されるのかを明確にすることではないでしょうか」
神聖四文字は黙った。
嫌ではある。
しかし理屈としては正しい。
今後も同じようなことが起きないとは限らない。むしろ世界に神々が増え、ファミリアや国家が複雑に絡み合うほど、武力を使うべきか判断しなければならない状況は増えるだろう。そのたびに「そのとき考える」で済ませ続けるのも危険だった。
『じゃあ、条件を作ろうか』
「よろしいので?」
『戦争をやりやすくする条件じゃなくて、やりにくくする条件ね』
教皇庁は一年をかけて基準を作った。
後に《救援七原則》と呼ばれる。
重大かつ継続的な生命への危険が存在すること。現地の正統な統治機関、あるいは被害を受ける共同体から救援要請があること。外交・避難・制裁など、より小さな手段では危険を止められないこと。軍事目的を事前に限定すること。信仰のみを敵味方の基準としないこと。占領や領土獲得を目的としないこと。そして、目的達成後には撤兵すること。
『これで「聖地だから攻めていい」はかなり防げるよね』
神聖四文字は満足していた。
ヨハネスは少し微妙な顔をした。
『何?』
「いえ。よくできていると思います」
『その言い方、絶対何かある』
「主は二千年間、制度を作るたびに制度の悪用を心配されてきました」
『うん』
「今回も、いずれ誰かが七つ全部を満たしていると主張するのでしょうな、と」
『やめてよ』
「歴史からの推測でございます」
『やめてって』
*
その懸念は、思ったより早く現れた。
ただし、戦争ではなかった。
オラリオに駐留していた救援軍が完全撤退してから三年後、西方の有力貴族四十七家が連名で教皇庁へ請願書を提出した。
内容は、オラリオに恒久的な《聖地守護隊》を置くべきだというものだった。
理由は分かりやすい。
エヴィルスは弱体化したが、完全に消えたわけではない。
再び大規模な混乱が起きるかもしれない。
毎回西方から軍を送るのでは遅い。
ならば、少数でも常駐させておくべきだ。
『駄目』
神聖四文字は一読して却下した。
「まだ説明が――」
『駄目。絶対あとで増える』
請願を持参した司教が困った顔をする。
「しかし、五百名程度でございます。オラリオの統治へ介入せず、大聖堂と巡礼者の保護だけを――」
『最初は五百人。そのうち「危険だから千人」、次に「兵站が必要だから施設」、その次に「施設を守るため城壁」。気づいたらパチカンの軍事基地になる』
「そこまで進めないよう法で制限すれば」
『二千年間、法が永遠に同じ解釈されたことあった?』
司教は黙った。
『オラリオ自身が大使館みたいな警備要員を認めるなら別だけど、俺たちから「聖地だから兵を置く」はやらない』
「巡礼者が不安を訴えております」
『じゃあ現地の警備と協力する。兵を置く理由にはしない』
請願は却下された。
だが、この判断には西方から不満も出た。
第一回十字軍で血を流したのに、何の権利も得なかった。
死んだ騎士たちは何のために戦ったのか。
そのような声もあった。
神聖四文字は、その問いを聞くたびに同じ答えをした。
『人を助けるためだよ。それ以外に何かもらわないと駄目なの?』
返事は、なかなか返ってこなかった。
*
オラリオ側にも変化があった。
救援軍への感謝は、本物だった。
少なくとも当事者世代は、西方の十字教徒を「聖地を奪い返そうとする狂信者」と一括りにはできなくなった。実際に肩を並べて戦った騎士たちがいた。自分たちを異教徒と呼びながら、それでも命を懸けて守った者がいた。
だが、次の世代になると話は少し違う。
彼らが知るのは、歴史である。
かつて西方から一万を超える軍がやってきた。
オラリオ内部で戦った。
そして西方では、それを《第一回十字軍》と呼んでいる。
さらに《聖地奪還論》という思想まで存在する。
「つまり、次は僕たちを助けに来るとは限らないわけだ」
ギルドの若い幹部が言った。
会議室にはウラノスがいる。
「西方が敵になると?」
「可能性の話です。彼らは今回、規律を守った。だからこそ危険でもある。あれだけの軍を遠征させ、都市へ展開し、補給を維持し、目的達成後に撤収できた。能力は証明されたわけでしょう」
「能力があることと、敵になることは同じではない」
「分かっています。ですが、備えることは必要です」
ウラノスは反対しなかった。
こうしてオラリオ側も、西方からの侵攻を想定した防衛計画を作り始めた。
それ自体は合理的だった。
しかし。
西方の諜報機関がそれを知る。
――オラリオが対十字教戦争を想定している。
その報告が西方へ届く。
すると西方も備える。
オラリオは、その備えを見る。
さらに備える。
戦争を望んでいない者同士が。
少しずつ。
戦争の準備だけを進めていった。
*
『やめられないの、これ』
神聖四文字は頭を抱える代わりに、黒い球体を少し低く浮かせていた。
ウラノスは向かいに座っている。
「難しいだろうな」
『俺たち、戦う気ないよ』
「知っている」
『そっちもないよね』
「今のところは」
『今のところって言わないで』
「未来までは保証できない」
『それはそうだけどさ』
二柱は長い年月を経て、かなり気軽に話すようになっていた。
『じゃあ、お互い軍事計画作らないようにする?』
「それも危険だ」
『何で』
「君の次の教皇が君の言葉を無視するかもしれん」
『無視したら止めるよ』
「君が動ける状況ならな」
『……そういうのやめて』
「私も同じだ。今後オラリオへ来る神が何をするかは分からない。備えは必要だ」
『備えた結果、相手が怖がってもっと備える』
「そうだ」
『面倒だな』
「人間も神も、昔からそうしている」
神聖四文字はしばらく考えた。
『せめて、話せる仕組み作ろうか』
「何をする」
『常設の連絡会議。何か軍を動かすときは、できる範囲で先に伝える。演習とか城壁強化とか、相手が攻撃準備と勘違いしそうなことも』
「信用するか?」
『信用できないから話すんだよ』
ウラノスは少し笑った。
「君は時々、神らしくないことを言う」
『君にそれ言われるの、もう慣れた』
こうしてパチカン、オラリオ、ギルドの間に常設の連絡機関が設けられた。
名称は《聖地連絡会議》。
神聖四文字は「聖地」を外したかったが、西方側が譲らなかった。
オラリオ側は「連絡会議なら好きに呼べ」と気にしなかった。
その温度差もまた、両者の違いだった。
*
一方、第十三騎士団イスカリオテには別の仕事が残っていた。
エヴィルスは敗れた。
しかし消えてはいない。
捕縛された構成員の供述から、オラリオ外にも協力者がいることが判明していた。武器や薬品を売った者。逃亡者を匿った者。思想的に共鳴する者。そして、エヴィルスが弱体化した今もなお、別の名で活動を続ける者。
表の軍が撤退しても。
影の仕事は終わらない。
パチカン地下。
第十三騎士団の作戦室で、マクスウェルが地図を広げていた。
「二十二か所」
ハインケルが言った。
「確認できただけでな。実際はもっとある」
「随分と散らばったものです」
「逃げた連中が東西に散ってる。国境越えた奴もいるし、普通の犯罪組織に混ざった奴もいる。全員追うのか?」
「当然でしょう」
由美江が答えた。
「主へ刃を向ける者を残す理由がない」
「主に向けたわけじゃねえけどな」
「聖地を害した」
「その言い方すると、また主に怒られるぞ」
由美江は口を閉じた。
アンデルセンが地図を見ている。
「優先順位を付けなければなりませんな。思想を持っているだけの者と、次の殺戮を準備している者は分けるべきです」
由美江が驚いた顔をした。
「神父がそのようなことを言うとは」
「何です、その顔は」
「もっと全員斬れと仰るかと」
「主は、思想のみを理由として斬るなと何度命じられたと思っているのです」
「二千年ほど」
「ならば覚えなさい」
ハインケルが笑った。
「それ、アンデルセンが言うと説得力あるな」
「どういう意味です」
「そのままだよ」
マクスウェルが机を叩いた。
「静粛に。話を進めます。武装準備が確認されている七拠点を優先。ハインケルは北方二件。由美江は南東部。アンデルセンは私と中央部へ」
「なぜ私は一人なのだ」
「貴女に部下を付けると、部下の方が危険です」
「どういう意味だ」
「文字通りです」
「斬るぞ」
「主命の範囲でお願いします」
二千年経っても、そこだけは変わらなかった。
*
第一回十字軍から十年。
オラリオは再び活気を取り戻していた。
破壊された街路は修復され、焼けた商店には新しい看板がかかり、迷宮へ潜る冒険者も増えた。神々は相変わらず騒がしく、ファミリア同士の競争もなくならない。
ただ。
いなくなった者も多かった。
イヴィルスとの戦いで命を落とした冒険者。
市民。
騎士。
そして。
アストレア・ファミリア。
かつて第十三騎士団と情報を共有し、由美江と肩を並べた者たちの姿も、今ではほとんどない。
神聖四文字は、その報告を読んだ。
『また、死んだんだ』
ソフィアが静かに答える。
「はい」
『強い人たちだったよね』
「強さと、生き残ることは同じではありません」
『……そうだね』
神聖四文字は二千年を生きてきた。
それでも。
死に慣れることはなかった。
*
さらに数年後。
オラリオから一人の少女についての報告が届いた。
特別な政治案件ではない。
脅威でもない。
本来なら神聖四文字のところまで上がってくるような情報ではなかった。
ただ、ウラノスから送られた私信の末尾に、短く記されていた。
――最近、興味深い子供がいる。
『何この子』
神聖四文字は尋ねた。
「冒険者のようでございます」
『レベルは?』
「まだ低いかと」
『じゃあ何が面白いの』
「ウラノス殿の書簡には、それ以上ございません」
『わざわざ書いてきたのに?』
「はい」
神聖四文字は首を傾げた。
白い髪。
赤い目。
小柄な少年。
迷宮都市オラリオで、冒険者になったばかり。
名は。
ベル・クラネル。
神聖四文字にとっては。
その時点では。
ただ、それだけの少年だった。