【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
第28話 白髪の少年
ベル・クラネルという名前を、神聖四文字が次に目にしたのは、それから数か月後だった。今度はウラノスの私信ではなく、オラリオの定期報告書の中である。もっとも、都市全体の治安や迷宮の変動を扱う報告の中で、一人の新人冒険者について割かれていたのは数行にすぎなかった。
『短期間で急成長……ミノタウロスを単独撃破……レベルアップ。これ、そんなに珍しいの?』
「極めて珍しいようでございます」
報告書を持ってきた枢機卿が答えた。
『こっちのレベル制度とは違うから、いまいち感覚が分からないんだよね』
「ファルナにおける一段階の上昇は、単純な身体能力の増加ではございません。器そのものが一つ上の段階へ移る、とオラリオ側では説明しております」
『ゲームでいうクラスチェンジみたいな?』
「……げえむ、というものは存じませんが」
『何でもない』
二千年近く経っても、こういうところで前世の語彙が漏れることがある。もっとも、それを理解できる者はパチカンにもほとんど残っていない。古参の者たちは意味を知っているが、わざわざ説明する必要もなかった。
神聖四文字は報告書へ視線を戻した。
『所属はヘスティア・ファミリア』
「はい。小規模なファミリアでございます」
『ヘスティアって神?』
「天界神です」
『どんな人』
「現在確認されている範囲では、戦闘系ではなく、眷族も少数。オラリオにおける政治的影響力も大きくありません」
『じゃあ、何でウラノスが気にしてるんだろ』
誰も答えられなかった。
神聖四文字も深く考えなかった。
オラリオには何万という冒険者がいる。変わった成長をする少年が一人くらいいても不思議ではない。そう思って報告書を閉じた。
だが、それからベル・クラネルという名前は、妙に頻繁に現れるようになった。
迷宮での異常事態。
冒険者同士の騒動。
神々の催事。
そして、街を巻き込む事件。
本人が事件を起こしているわけではない。むしろ逆だった。何かが起こった場所に、なぜか彼がいる。
『この子、運悪くない?』
「あるいは、運がよいのでは」
『どっち?』
「生き残っておりますので」
『なるほど』
納得してよいのかは分からなかった。
*
ベル・クラネル本人は、自分が西方最大の宗教組織の最深部で話題に上がっているなど知る由もなかった。
彼にとって十字教は、オラリオに昔からある宗教の一つだった。いや、一つという表現は正確ではない。世界最大の宗教であり、この都市そのものの歴史とも深く結びついている。ただ、ベルがオラリオへ来た時点では、それはあまりにも日常に溶け込んでいた。
街の西側には巨大な十字教大聖堂がある。巡礼者が絶えず、孤児院と施療院を併設し、冒険者向けの無料治療所まで運営している。十字教徒の冒険者も珍しくない。しかし同じ通りを少し歩けば、ヘファイストス・ファミリアの鍛冶場があり、さらに先にはガネーシャの施設がある。神々が普通に歩くオラリオでは、唯一神教の大聖堂と天界神のファミリア本拠地が同じ街区に存在することに、住民はほとんど違和感を持っていなかった。
「ベル君、十字教会行ったことある?」
ある日、ヘスティアが夕食の席で尋ねた。
「ありますよ。前に無料で治療してもらいました」
「礼拝の方」
「ああ……それはないです」
「よし」
ヘスティアが満足そうに頷いた。
ベルは箸を止めた。
「何がよしなんですか?」
「いや別に。君がいきなり唯一神へ改宗したとか言い出したら、僕は泣くところだった」
「しませんよ!」
「本当に?」
「僕はヘスティア様の眷族です!」
「そうだよね!」
途端に機嫌を直した女神を見て、ベルは苦笑した。
「でも、十字教の主って本当にオラリオに来ることあるんですか?」
ヘスティアの動きが止まった。
「……何で急にそんな話を?」
「この前、大聖堂の前で巡礼者の人たちが話してたんです。主はパチカンにおられるから、オラリオへ来ることはほとんどないって」
「ほとんどねえ」
ヘスティアは妙な顔をした。
「会ったことあるんですか?」
「ない」
「天界では?」
「ないよ」
「同じ神なのに?」
「そこがややこしいんだよ」
ヘスティアは腕を組んだ。
「僕たち天界の神と、あの黒いのは出自が違うらしい。天界にいた記録もないし、僕たちの誰も昔から知ってたわけじゃない。気づいたら地上にいて、しかも僕たちが降りるずっと前から自分の宗教を作ってたんだ」
「黒いのって……」
「黒くて丸いんだろ?」
「もっと敬意を持った方がいいんじゃ」
「君、僕の眷族なのにそっちを庇うの?」
「そういう意味じゃないです!」
ヘスティアは笑った。
「まあ、悪い神じゃないらしいよ。少なくとも、僕たちを追い出せとは言ってない。昔はずいぶん揉めたみたいだけどね」
「神様同士で?」
「人間同士で、の方が正しいかな」
ヘスティアはそこで少し声を落とした。
「神より、人間の方が神様のことで本気になるから」
ベルには、その言葉の意味がまだよく分からなかった。
*
数週間後。
ベルは大聖堂へ行った。
信仰に興味を持ったからではない。
財布を拾ったからである。
持ち主を探したところ、巡礼者用宿舎に泊まっている老人のものだと分かり、届けに来ただけだった。
「ありがとうございます。本当に助かりました」
老人は何度も頭を下げた。
「いえ、そんな。中身も確認してませんから」
「旅費がすべて入っていたのです。失えば故郷へ帰れなくなるところでした」
ベルは困ったように笑った。
「見つかってよかったです」
老人は十字架を握り、しばらくベルを見ていた。
「あなたに主の祝福がありますように」
「あ、ありがとうございます」
ベルはどう返せばよいか分からず、曖昧に頭を下げた。
その様子を少し離れたところから見ていた司祭が、穏やかに笑った。
「無理に返事をしなくても大丈夫ですよ」
「すみません。僕、十字教徒じゃなくて」
「存じています」
「え?」
「ベル・クラネルさんでしょう?」
ベルは驚いた。
「どうして僕の名前を?」
「最近、よく聞きますから」
「悪い意味じゃないですよね?」
「今のところは」
司祭は冗談めかして答えた。
「少しお茶でもいかがですか。財布を届けてくれたお礼に」
断る理由もなく、ベルは中庭へ案内された。
大聖堂の内部は思っていたより静かだった。荘厳ではあるが、威圧的ではない。中庭では孤児たちが遊び、片隅で修道女が洗濯物を干している。神殿というより、小さな町のようだった。
「主は、ここにはいないんですか?」
ベルが何気なく尋ねると、司祭は笑った。
「パチカンにおられます」
「ずっと?」
「基本的には。ただ、どこにおられようと主は主ですので」
「神様なのに、ファミリアは作らないんですね」
「十字教そのものが、ある意味では巨大なファミリアのようなものかもしれません。ただし、我々はそう呼びません」
「ファルナもない?」
「ありません。十字教徒には別の恩寵体系があります」
「聞いたことあります。職業とレベルですよね」
「ええ。ただし、オラリオではファルナの方が一般的です」
司祭はベルを見た。
「興味がありますか?」
「ちょっとだけ」
「洗礼を受けますか?」
「えっ」
ベルが固まると、司祭は笑った。
「冗談です。驚かせてしまいましたね」
「び、びっくりしました」
「主は、数字を増やすための改宗を好まれません。あなたにはすでに大切な神がおられるのでしょう」
「はい」
「なら、その方を大切になさるとよい」
ベルは少し意外に思った。
「他の神様を信じてもいいんですか?」
「十字教の教義上は、もちろん複雑です」
「複雑なんだ……」
「二千年かけて複雑になりました」
司祭は苦笑した。
「ただ、少なくとも我々の主は、あなたがヘスティア様を大切にしているという理由だけで、あなたを敵とはなさいません」
「変わった神様ですね」
「よく言われます」
*
その日の夜。
ベルが大聖堂へ行ったという話を聞いたヘスティアは、少しだけ不機嫌になった。
「ベル君」
「はい」
「洗礼とか受けてないよね?」
「受けてません!」
「職業とかもらってない?」
「もらってません!」
「黒い神と会ったりしてない?」
「そもそもパチカンにいるらしいですよ!」
「ならよし」
「ヘスティア様、気にしすぎですよ」
「だって君は僕の眷族だからね。他の神に取られたくないんだよ」
「取られませんって」
「本当に?」
「本当です」
ベルが笑うと、ヘスティアもようやく安心したようだった。
その頃。
遠く離れたパチカンでは。
神聖四文字が大聖堂から届いた報告を読んでいた。
『財布届けたんだ』
「はい」
『普通にいい子だね』
ソフィアが頷く。
「そのようです」
『ウラノスが気にするほどかな』
「成長速度については、やはり特異とのことですが」
『それ以外は?』
「少々、女性関係で騒動に巻き込まれやすいと」
『何それ』
「詳細もございますが」
『いらない』
神聖四文字は報告を閉じた。
『まあ、元気ならいいんじゃない』
それだけだった。
この時点では、まだ。
*
だが、ベル・クラネルの名前は消えなかった。
戦争遊戯。
迷宮内での異常事態。
他のファミリアとの関係。
そして、異常な速度での成長。
報告が重なるほど、神聖四文字も少しずつ興味を持つようになった。
『この子、何でこんなに伸びるの』
「ファルナには個体差がございます」
『それで説明つく範囲?』
「オラリオ側の見解では、かなり逸脱しております」
『ヘスティアが何かしてる?』
「その可能性は低いとのことです」
『じゃあ本人?』
「恐らく」
神聖四文字は考えた。
人間は強くなる。
それ自体は珍しくない。
十字教の歴史にも、常識を越えて成長した人間はいた。
マルクス。
エレナ。
何百年もの間に現れた、数多くの英雄。
ただ。
ベル・クラネルには、別の何かがある。
強さではない。
事件へ引き寄せられるような奇妙さ。
神々から注目される性質。
そして。
それでも、本人は妙に普通だった。
『一回会ってみようかな』
何気なく言った。
室内が静かになった。
『何』
「主が、ベル・クラネルと?」
『うん。何か面白そうだし』
教皇が慎重に尋ねた。
「パチカンへ召喚なさいますか」
『それは怖いでしょ。新人冒険者にいきなり教皇庁から召喚状来たら』
「では、主がオラリオへ?」
『それも大騒ぎになるな』
「はい」
神聖四文字は考えた。
『……普通に会う方法ない?』
誰も答えなかった。
唯一神が。
世界最大の宗教の中心にいて。
二千年近い歴史を背負っている。
そんな存在が、一人の少年と「普通に会う」。
実はそれが。
何より難しかった。
*
結局、神聖四文字は何もしなかった。
『まあ、そのうち機会あるでしょ』
そう言って。
報告書を閉じた。
そして、その判断から。
そう長く経たないうちに。
オラリオの地下で。
人間と魔物の境界そのものを揺るがす存在が現れる。
言葉を話す魔物。
感情を持つ魔物。
恐怖を知り。
仲間を思い。
人間と同じように涙を流す者たち。
後に《異端児》と呼ばれる彼らの存在を。
ベル・クラネルは。
誰よりも早く知ることになる。
そして。
二千年前。
未知の存在を前にした神聖四文字が。
「分からないなら、まず話を聞こう」と決めたように。
白髪の少年もまた。
剣を抜くより先に。
目の前の怪物へ。
手を伸ばすことになる。