【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
第五騎士団の一行が砦を視界に収めたのは、翌日の正午過ぎだった。丘陵の間を縫うように続く獣道を抜けると、谷間に開けた土地が現れ、その中央に粗末な木柵で囲まれた建物の群れがあった。見張り台が四つ、門は一つ。周囲には畑らしいものもあったが、耕されている面積は小さく、長く住むための集落というより、人と物を一時的に集めておくための拠点に見えた。砦から五百メートルほど離れた森の中で一行は馬を止める。騎士団長アルブレヒトは木々の隙間から砦を眺めていた。大柄な男で、濃灰色の外套の下には使い込まれた板金鎧をまとい、腰には長剣を一本だけ下げている。第五騎士団長にしてレベル八十二。同行した騎士は十一名、最も低い者でもレベル三十四だった。砦を落とすだけなら、明らかに過剰な戦力である。
「団長」斥候役の騎士が戻ってきた。
「前回より人が増えております。武装者、五十三。地下牢と思われる建物には少なくとも四十名、主屋の裏手にも十数名おります」
「吊るされた者は」
「そのままです。生存者はおりません」
アルブレヒトは何も言わなかった。砦の外周には木製の柱が何本も立っており、そのうち幾つかには人の身体が括りつけられている。遠目にも、すでに死んでいることは分かった。
「武装者の構成は」
「弓が十二、槍が二十前後。残りは剣と斧です。装備は統一されておりません。魔術師も確認できません」
別の騎士が小さく息を吐いた。
「山賊にしか見えませんな」
「見えることと、そうであることは違う。我らは裁きに来たのではない。捕らわれている者を救出し、事情を確認する。それが主の御意だ」
反論する者はいなかった。だが、もし報告のとおり、人を狩り、売り、抵抗した者を殺しているのなら、それを見逃す理由はない――全員がそう考えていた。アルブレヒトはしばらく砦を観察したのち、「使者を出す」と言った。騎士たちの間にわずかな動揺が走る。
「団長自らでは」
「私が行く」
「危険です」
「何が危険だ」
言われた騎士は黙った。アルブレヒトが単身で砦へ入り、五十人に囲まれたところで、恐らく問題にはならない。「こちらが先に敵対行為を取ったという形は避ける。残りは配置につけ。私が手を上げるまでは動くな」そう言い残し、アルブレヒトは一人で馬を進めた。
砦の見張りが異変に気づいたのは、アルブレヒトが門から百メートルほどまで近づいたころだった。
「止まれ!」
見張り台から怒鳴り声が飛ぶ。アルブレヒトは手綱を引いた。
「私は西方より来た者だ。この砦の責任者と話がしたい」
しばらくして門が開き、中から十人ほどの男が出てきた。先頭にいたのは四十前後の太った男だった。毛皮の上着をまとい、腰には幅広の剣を下げている。左右の男たちは弓や槍を持ち、露骨に警戒していた。
「何者だ」
「第五騎士団、団長アルブレヒト」
「聞いたことがねえな」
「当然だろう。我々も、あなた方を知らない」
男はアルブレヒトの鎧を値踏みするように眺めた。「それで、その立派な騎士様が何の用だ」
「この砦に拘束されている者たちについて話を聞きたい」
空気が変わった。背後にいた男たちがわずかに武器を握り直す。太った男だけは表情を変えなかった。
「奴隷のことか」
「奴隷」
「そうだ。金を払って買った。何か問題でもあるのか」
「どこから買った」
「お前に言う義理はねえ」
「では、外に吊るされている者は」
「逃げようとした。それだけだ。見せしめだよ。人を扱うには必要なことだ。優しくしたって言うことなんぞ聞かねえ」
アルブレヒトは男の顔をしばらく見ていた。怒りはなかった。少なくとも、外から分かるほどには。
「彼らを解放してもらいたい」
「は?」
「拘束している者を全員、こちらへ引き渡せ。代価については後ほど相談する」
男は数秒、アルブレヒトを見つめ、それから笑った。「馬鹿か、お前。どこの誰かも分からねえ奴に商品を全部渡せって? しかも後払い? 頭に何か湧いてんじゃねえのか」
「交渉の余地はないか」
「ねえな」
アルブレヒトは静かに頷いた。
「では、もう一つ確認する。この近辺で人を襲い、連れ去ったことはあるか」
男の笑みが消えた。「誰に聞いた」
「答えてほしい」
短い沈黙のあと、男は鼻で笑った。
「ここじゃ、力のある奴が取る。それだけだ」
「つまり、人を襲い、連れ去り、売ったことを認めるのだな」
「だから何だ。ここじゃ普通だ。村一つ潰れたって誰も文句なんざ言わねえ。領主だって税さえ払えば目をつぶる。今さらどこの正義の味方だ、お前」
その言葉に、アルブレヒトは初めて少しだけ考え込んだ。この世界の法を知らない。この土地を支配している者が誰なのかも知らない。男の言葉が事実なら、彼らはこの地域では罪人ですらないのかもしれない。だからこそ、アルブレヒトは自分に与えられた命令を思い出した。裁くな。まず助けろ。
「分かった。法については後ほど確認しよう。ただし、拘束されている者は連れていく」
「話を聞いてたのか。渡さねえって言ってんだろ」
「なら、こちらで保護する」
男の顔が歪んだ。「ふざけるな」
「ふざけてはいない。最後に一度だけ言う。門を開け、拘束している者を解放してほしい。そうすれば、こちらから危害は加えない」
「断ったら?」
「我々が中へ入る」
「十人ちょっとで?」
アルブレヒトは答えなかった。男が右手を上げた、その瞬間、見張り台の弓兵が矢を放った。乾いた音がし、矢はアルブレヒトの胸当てに当たって地面へ落ちた。
誰も動かなかった。
アルブレヒトは一度だけ自分の胸を見下ろし、それから見張り台を見上げた。
「今のは、宣戦と受け取ってよいか」
太った男の顔から笑みが消えた。
「殺せ!」
何本もの矢が飛んだ。アルブレヒトは動かなかった。矢は肩、胸、脚へ次々と当たり、そのほとんどが鎧を貫けず弾かれた。唯一、首元を狙った一本だけを左手で掴む。少し離れた森の中で、それを見ていた騎士の一人が小さく息を吐いた。
「許可が出たな」
次の瞬間、森が動いた。
砦の者たちにとって、それは戦いと呼べるものではなかった。最初に門前へ到達した騎士が、閉じかけた門を盾ごと蹴り飛ばした。厚い木材が内側へ倒れ、その後ろにいた男たちを巻き込む。別の騎士は見張り台へ向けて地面を蹴り、ほとんど跳躍だけでその高さまで達した。
「殺すな!」
アルブレヒトの声が飛ぶ。それがなければ、恐らく数分で終わっていただろう。騎士たちは刃ではなく、柄や盾を使った。槍を折り、弓を奪い、腕を捻って地面へ押さえつける。それでも力加減が難しいのか、何人かは一撃で意識を失った。
砦側はすぐに混乱した。相手は十二人、こちらは五十を越えている。数だけなら負けるはずがない。だが、一人も倒せない。「化け物だ!」と誰かが叫び、その言葉が恐怖を一気に広げた。逃げようとする者、武器を捨てる者が出る。なおも抵抗した男が騎士の背後から斧を振り下ろしたが、騎士は振り返りもせず左腕で受け止め、そのまま肘を掴んで投げ飛ばした。人間同士の戦いとしては、あまりにも差がありすぎた。
十分後、砦の武装者は全員拘束されていた。死者は二名。一人は混乱の中で仲間の槍を受け、もう一人は逃走中に見張り台から転落した。パチカン側に死者はなく、負傷者も軽傷が一名だけだった。
報告を聞いたアルブレヒトは眉を寄せた。
「死なせるなと言った」
「我々の手によるものではありません」
「それでもだ」
「……は」
勝利を喜ぶ者はいなかった。アルブレヒトは砦の中央にある地下牢へ向かった。扉を開けた瞬間、淀んだ空気と強い臭気が押し寄せてくる。暗闇の奥には男、女、子供、老人が身を寄せ合っていた。手首や首には鉄輪が嵌められ、扉が開くと全員が一斉に壁際へ後退した。
「大丈夫だ。我々は、あなた方をここから連れ出しに来た」
反応はなかった。当然だろう。昨日まで人間に売られ、殴られ、閉じ込められていた者に、別の武装した人間が「助けに来た」と言ったところで信じられるはずがない。
アルブレヒトは腰の剣を鞘ごと外し、床へ置いた。それから片膝をついた。
「怖がらせたくはない。ここを出たい者は、我々が安全な場所まで運ぶ。ここに残りたい者がいるなら、強制はしない」
暗闇の中から、小さな声がした。
「……どこへ」
「我々の都だ」
「そこで、売るのか」
「売らない」
「働かされる?」
「働きたい者には仕事がある。嫌なら、まず休めばいい」
しばらく沈黙したあと、一人の少女が前へ出た。十歳ほどだった。
「ごはん、ある?」
アルブレヒトは一瞬だけ目を閉じた。
「ああ。少なくとも、今日食べる分はある」
少女は隣にいた女を見上げた。女が泣き出した。それが、最初だった。
*
報告がパチカンへ届いたのは、その日の夜だった。
『死者が出たのか』
「二名です」
第五騎士団長アルブレヒトは玉座の前に跪いていた。
「いずれも我々の武器による死ではございません。しかし、我らが介入しなければ死ななかった可能性はございます」
『捕まっていた人は』
「六十八名を保護いたしました。うち子供が十九名。治療を要する者が三十七名おります」
『砦の連中は』
「五十一名を拘束しております。こちらも負傷者は治療いたします」
『殺された人たちの遺体は』
「回収しております」
『……そうか』
六十八人を助けた。二人が死んだ。数字だけを見れば、十分に良い結果なのかもしれない。それでも神聖四文字は、すぐにはそう思えなかった。
『正しかったと思う?』
アルブレヒトが顔を上げた。
「御意を疑うことはございません」
『そうじゃなくて。お前自身は、どう思った』
アルブレヒトは答えなかった。かつてなら、この問いには意味がなかったはずだ。NPCは命令を実行するもので、自分の行為について悩むようには作られていない。だが、今のアルブレヒトは長く考えた末に口を開いた。
「救われた者を見たときは、正しかったと思いました。ですが、死者を見たときは分かりませんでした。彼らを放置すれば、さらに多くの者が殺されたでしょう。結果として我々の行為は正しかったのだと考えることはできます。しかし、それは結果を知った今だから言えることです。我らはこの土地の法も事情も知らずに武力を行使した。もし我らの理解していない理由があったならば――」
『怖いか』
「はい」
即答だった。
「我らが強すぎることが」
神聖四文字は返事をしなかった。
「弱ければ、考えます。勝てるか。犠牲はどれほどか。退くべきではないか。しかし、我々にはその必要がない。少なくとも、今日の敵にはありませんでした。ゆえに、正しいと思ったことを、容易に実行できてしまいます」
アルブレヒトは自分の手を見た。
「それが、少し恐ろしい」
その言葉は、神聖四文字が感じていたものとよく似ていた。
『……覚えておこう。俺たちは、この世界のことを知らない。助ける力があるからって、何でも首を突っ込んでいいわけじゃない。でも、目の前で人が吊るされてるのを見て何もしないのも違うと思う』
「左様でございますな」
『難しいな』
「はい」
それだけだった。
初めて、アルブレヒトは神の言葉を教義として受け止めなかった。ただ、一人の男として同意した。
*
翌朝、砦から救出された人々が西門へ到着した。門前では救護修道会が待機しており、負傷者はすぐに担架へ移され、子供には水と温かい粥が配られた。その中に一人の老女がいた。老女は城門を潜る直前で立ち止まり、白い城壁を見上げた。
「ここが、神様のいる街なのかい」
付き添っていた騎士が振り返った。
「主がおられる」
「その神様が、私たちを助けろと言ったのかい」
「ああ」
老女はしばらく城壁を見上げたままだった。
「変わった神様だね」
「何がだ」
「見たこともない人間を助ける神なんて、聞いたことがないよ」
騎士は答えなかった。
老女はそのまま城門を潜った。
その日の夕刻には、また一つ噂が生まれていた。西の白い都には、奴隷を嫌う神がいる。人を狩る者から弱者を救い、行き場のない者には食事を与える神がいる。その噂がどこまで広がるのか、この時点では誰にも分からなかった。
ただ一つ確かなことがある。
パチカンは、この日初めて城壁の外の世界に意思を示した。
救われた者にとっては慈悲だった。倒された者にとっては侵略だった。そして周辺の支配者たちにとっては、無視することのできない新しい勢力が現れたという知らせにほかならなかった。