【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
最初の報告には、誤記ではないかと思わせる一文があった。
――迷宮内部において、人語を解する魔物を確認。
神聖四文字はそこで読むのを止め、報告書を少し遠ざけた。もう一度読む。やはり同じことが書いてある。さらに先には、単に命令へ反応したという程度ではなく、意思疎通が可能であり、仲間意識や恐怖、喜怒哀楽に相当する感情まで示している可能性がある、と記されていた。
『……喋るの?』
「そのようでございます」
『魔物が?』
「はい」
『本当に?』
「ウラノス殿からの報告ですので、少なくとも本人はそう判断しているものと思われます」
教皇の答えを聞いても、神聖四文字はしばらく動かなかった。
二千年近く前、この世界へ来たばかりの頃から、魔物は明確な敵だった。人間を襲う。村を滅ぼす。迷宮から湧く。倒せば魔石を残す。そこに倫理的な迷いが生じる余地は、ほとんどなかった。人間同士ならば敵にも事情がある。異教徒にも家族がいる。盗賊ですら投降すれば裁判を受ける。しかし魔物は、そうではない。
少なくとも、これまでは。
『それ、人を襲う?』
「個体による、と」
『個体による』
神聖四文字はその言葉を繰り返した。
『……それ、もう「魔物だから」で一括りにできなくない?』
教皇はすぐには答えなかった。
「神学上、非常に大きな問題となります」
『やっぱり?』
「十字教において迷宮の魔物は、長く人類へ害をなす存在として扱われてきました。騎士団規範にも、討伐対象として明記されております」
『でも、喋れるんだよね』
「はい」
『怖いとか、死にたくないとかも分かる』
「報告が正しければ」
『じゃあ、とりあえず殺すなって言って』
あまりにも早い結論に、教皇がわずかに目を見開いた。
「調査の前に、でございますか」
『調査するためにも殺したら駄目でしょ。危険なら止める。でも、存在してるだけで殺さない。まず話を聞く』
教皇は神聖四文字を見た後、諦めたように息を吐いた。
「二千年前と同じでございますな」
『何が?』
「未知の神々が現れた際も、主は同じことを仰せでした」
『だって、分からないものを先に殺したら、永遠に分からないじゃん』
「仰る通りでございます」
それは神聖四文字にとって、ごく単純な話だった。
だが。
世界にとっては、そうではなかった。
*
オラリオでは、その頃。
一人の少女が泣いていた。
青みを帯びた肌。額に赤い宝石。人の少女によく似ているが、人ではない。ベル・クラネルの前で震えながら、怯えた目を向けていた。
魔物。
そう呼ぶしかない姿だった。
ベルも最初は剣へ手をかけた。
冒険者として、それは反射に近い。迷宮で魔物と出会えば倒す。迷えば死ぬ。何度も身体へ叩き込まれた常識である。
だが。
「……こわい」
声がした。
ベルの手が止まった。
「こわい……」
魔物が泣いている。
自分から逃げようとしている。
攻撃しようとはしていない。
ベルは剣を抜けなかった。
後になって何度考えても、その瞬間に立派な理屈があったわけではない。ただ、目の前の存在が怯えているのを見て、斬れなかった。
「大丈夫」
自分でも何を言っているのだろうと思いながら、ベルは手を伸ばした。
「僕は、君を傷つけないから」
少女は、その手を見つめた。
そして。
恐る恐る。
握った。
*
少女はウィーネと名付けられた。
彼女を匿うという選択が何を意味するのか、ベルは十分には理解していなかった。理解していれば、もっと迷ったかもしれない。魔物を地上へ連れ出す。ファミリアの拠点に隠す。他の冒険者に見つかれば、ただでは済まない。
ヘスティアですら、最初は言葉を失った。
「ベル君。僕が聞き間違えてなければ、この子はダンジョンから連れてきたんだよね」
「はい」
「魔物だよね」
「……はい」
「喋るね」
「喋ります」
「君、どうしてこういう大事件を毎回すごく困った顔で持ち帰ってくるのかな」
「すみません……」
ヘスティアは額へ手を当てた。
「いや、怒ってるわけじゃない。怒ってるわけじゃないけど、普通の冒険者は迷宮から拾ってくるなら武器とか魔石とか、そういうものなんだよ。喋る魔物を拾ってくるのは普通じゃない」
「僕もそう思います」
「思うんだ……」
ウィーネは会話の意味を完全には理解できていないらしく、不安そうにベルの服を掴んでいた。
その仕草を見て。
ヘスティアの顔から困惑が少し消えた。
「この子、人を襲った?」
「僕が見た限りでは」
「君を食べようとは?」
「してません」
「……そう」
ヘスティアはウィーネの前へしゃがみ込んだ。
「君、名前は?」
「ウィーネ」
「ベル君につけてもらったの?」
少女が頷く。
「ベル、やさしい」
「うん。それは僕も知ってる」
ヘスティアは少しだけ笑った。
「そこが、この子のいいところで、一番心配なところなんだ」
*
ウラノスから神聖四文字へ二通目の書簡が届いたのは、その直後だった。
今度の内容は、より具体的だった。
人語を解する魔物は一体ではない。
複数存在する。
自らを《ゼノス》と呼ぶ者たちがいる。
彼らには集団があり、意思があり、人間との接触を望む者もいる。ウラノス自身は以前からその存在を把握し、極秘に保護していた。
『……前から知ってたの?』
「そのようです」
『何で教えてくれなかったんだろ』
「情報が漏れた場合、討伐される危険があったからでは」
『俺にも?』
「主が秘密を漏らすと疑ったという意味ではないかと」
『じゃあ何で今教えたの』
答えは書簡の後半にあった。
ベル・クラネルが、一体のゼノスと接触した。
そして保護した。
『……またベル君じゃん』
「はい」
『何でこの子、毎回こういうところにいるの』
「ウラノス殿も似たようなことを書いております」
神聖四文字は少し読み進めた。
『「彼ならば、人とゼノスを繋ぐ可能性がある」……ずいぶん期待してるな』
「主はいかが思われますか」
『まだ会ったことないから分からない。でも、最初に魔物を見て殺さなかったんでしょ』
「はい」
『それだけで、結構すごいと思う』
騎士ならば。
冒険者ならば。
迷宮で異形を見た瞬間、身体が先に動く。
それは臆病だからではない。
生きるために必要な習慣だ。
その習慣を。
一声の「怖い」で止めた。
神聖四文字には、その意味が分かった。
*
問題は、ゼノスの存在を十字教会がどう扱うかだった。
秘密を共有したのは、教皇と数名の枢機卿、それに古参のごく一部だけである。情報を広げるつもりはない。しかし、いつまでも隠し続けられる保証もない。
「人間と同等の人格を認めるのであれば、現行法との整合が必要となります」
法務担当枢機卿が言った。
『例えば?』
「魔物討伐命令です。騎士が遭遇した場合、現状では原則として討伐することになっております」
『じゃあ変えよう』
「全ての魔物へ適用するのは危険です」
『それはそうだね』
「意思疎通が可能であり、明確な敵対行動を取らない個体について、即時討伐義務を解除する程度が妥当かと」
『それで』
「ただし、理由を公表できません」
『ゼノスの存在が秘密だから?』
「はい。突然『喋る魔物は殺すな』との命令を出せば、それだけで存在を推測されます」
『……面倒だな』
結局、規則はより広い形で変更された。
未知の魔物、既知の種と異なる行動を示す個体、戦闘意思を示さない個体については、周囲の安全が確保できる場合に限り、観察・報告を優先してよい。
ゼノスという言葉は使わない。
人権という言葉も使わない。
ただ。
「魔物だから殺す」という原則へ。
小さな例外を作った。
千年以上続いた規則に。
初めて。
*
「主よ」
アンデルセンが低い声で言った。
第十三騎士団の作戦室だった。
ゼノスの存在を知らされたイスカリオテは、ごく少数の古参だけである。
「確認しておきたいことがございます」
『うん』
「人語を解し、感情を持つ魔物であっても、人を襲えば討つ。これは変わりませんな」
『変わらないよ。人間だって人を襲えば止めるでしょ』
「ならば異存はございません」
由美江は納得していない顔だった。
「魔物を人と同じように扱うのですか」
『同じかどうかを、これから調べる。でも少なくとも喋れる、考えられる、怖がる、仲間を大事にする。それが本当なら、普通の魔物と同じ扱いはできないと思う』
「魂はあるのでしょうか」
『知らない』
「主にも分からないのですか」
『俺、魂見えないし』
由美江は少し困った。
『だから、分からないことで殺す理由作らないの』
アンデルセンが横から言った。
「由美江。主が殺すなと仰せなら、それで十分でしょう」
「ですが神父。魔物は二千年間、人を殺してきました」
「人間も二千年間、人を殺しております」
由美江が黙った。
ハインケルが少し笑った。
「アンデルセンがそれ言うと重いな」
「何か?」
「何でもねえ」
マクスウェルは資料を眺めながら、珍しく真面目な顔をしていた。
「政治的には厄介ですね。存在が知られれば、オラリオだけの問題では済まない。魔物によって家族を失った者が、彼らを人として扱うことを受け入れるとは思えません」
『分かってる』
「逆に、我々が保護を表明すれば『十字教会は魔物の味方になった』と利用する者も出ます」
『それも分かる』
「では、どうなさいます」
『隠れてる間は守る。表に出たら、そのとき考える』
マクスウェルは眉を上げた。
「随分と場当たり的で」
『二千年やって分かったんだけど、未知の問題で最初から完璧な制度作ろうとすると、大体おかしくなる』
「……経験に裏打ちされた御言葉でございますね」
『褒められてる気がしない』
*
そして。
秘密は破れた。
怪物が街へ現れた。
翼を持つ者。
獣の姿をした者。
人に似た者。
彼らが地上に姿を見せた瞬間、オラリオが積み重ねてきた常識は崩れた。
「魔物だ!」
誰かが叫ぶ。
それだけで十分だった。
冒険者が武器を抜く。
市民が逃げる。
鐘が鳴る。
噂が走る。
魔物が街へ侵入した。
ファミリアが匿っている。
ギルドも関与している。
そして。
ベル・クラネルが、魔物を守っている。
*
ベルは剣を抜いていた。
ただし。
刃の先は魔物へ向いていなかった。
「どけ、ベル・クラネル!」
冒険者が怒鳴る。
「そいつはモンスターだ!」
「分かってます!」
「なら何で庇う!」
ベルには、うまく説明できなかった。
後ろではウィーネが震えている。
人々の恐怖も理解できる。
冒険者たちが間違っているとも言い切れない。
彼らは毎日のように迷宮で仲間を失う。
魔物は敵だ。
それが常識だ。
「この子は、違うんです!」
「何が違う!」
「話せる! 考えてる! 怖がってる! 僕たちと同じように――」
「姿を見ろ!」
その一言で。
ベルは何も言えなくなった。
姿。
それだけなら、確かに違う。
爪。
翼。
鱗。
角。
人間ではない。
だが。
後ろで自分の服を掴む手は。
震えていた。
「……それでも」
ベルは剣を握り直した。
「僕は、この子を殺せません」
*
その報告がパチカンへ届いたとき。
神聖四文字は珍しく、即座に動いた。
『オラリオへ行く』
教皇が固まった。
「今、でございますか」
『うん』
「お待ちください。現在オラリオ市内は混乱しております。主が御姿を現されれば、事態がさらに――」
『分かってる。でも、今回俺が黙ってたらまずい』
「なぜでしょう」
『十字教徒もオラリオにいるから』
教皇は黙った。
『あの街で「魔物は全部殺せ」って話になったとき、十字教の人たちが何するか分からない。俺たち、二千年ずっと魔物を討つ側だったから』
「しかし――」
『それに』
神聖四文字は少し間を置いた。
『ベル君に会ってみたかったし』
「今、その理由を加えますか」
『半分くらい本気』
*
神聖四文字がオラリオへ向かうという情報は、公表されなかった。
大巡幸のようなことになれば、混乱に油を注ぐ。
随行は最小限。
ソフィア。
数名の古参騎士。
そして。
「なぜ我々まで」
ハインケルが尋ねた。
『万が一のため』
アンデルセン、由美江、ハインケル。
第十三騎士団から三名。
もちろん、彼らの所属は伏せられる。
「マクスウェルは?」
『留守番』
「本人が知ったら怒りますな」
『もう怒ってた』
「でしょうね」
黒い球体と白い翼の少女。
そのさらに後方を。
名もない聖職者と護衛を装った三人が進む。
目的は。
魔物を討つことではない。
救うこととも。
まだ決まっていない。
ただ。
見るためだった。
言葉を話す魔物を。
その魔物を守ろうとした少年を。
そして。
二千年かけて築かれた人と魔物の境界が。
本当に。
越えられないものなのかを。
確かめるために。
神聖四文字は。
久しぶりに。
自らオラリオへ向かった。