【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
神聖四文字がオラリオへ入ったのは、夜明け前だった。大巡幸のときのような鐘も、群衆も、騎士団の整列もない。ウラノスとギルド上層部のごく一部にだけ到着時刻を伝え、西門ではなく、大聖堂が管理する古い搬入口から入城した。巨大な黒い球体を完全に隠す方法などないため、最も人通りの少ない時間帯を選んだのである。
『なんか密入国してる気分』
「御自身の聖地へ入るのに、でございますか」
ソフィアが小声で応じる。
『俺の街じゃないって何回言ったと思ってるの』
「存じております。ただ、その考えが西方全体に完全に共有されているかは別問題です」
『朝から嫌なこと言うね』
少し離れた場所を、アンデルセン、由美江、ハインケルが歩いている。三人とも普段とは装いを変えていた。アンデルセンは地方教会の巡回司祭、由美江とハインケルは護衛役ということになっている。銃器も外からは見えないよう隠されていた。
由美江だけは落ち着かなかった。
「本当に魔物と会うのですか」
『会うよ』
「主御自身が?」
『だから来たんだけど』
「危険です」
『アンデルセンにも同じこと言われた』
「ならば神父の意見をお聞きください」
アンデルセンは穏やかに首を振った。
「私は危険だから会うなとは申しておりません。危険ならば我々を前へ出せと申し上げただけです」
「同じではありませんか」
「違いますな」
ハインケルが後ろから口を挟んだ。
「どうせ主は止めても行くだろ。だったら近くで守った方が早えよ」
『ハインケル、最近俺の扱い分かってきたよね』
「二千年見てりゃな」
由美江は納得していないようだったが、それ以上は言わなかった。
*
ウラノスは地下礼拝堂で待っていた。
神聖四文字を見ると、立ち上がるでもなく、いつものように静かに視線を向けた。
「来たか」
『来たよ。大変そうだね』
「大変という言葉で済めばよいがな」
『ベル君は?』
「今は動いている。彼らを逃がすために」
『彼らって、ゼノス?』
「そうだ」
神聖四文字は少し沈黙した。
『ウラノス』
「何だ」
『何で今まで教えてくれなかったの』
責める口調ではなかった。
それでもウラノスはしばらく答えなかった。
「君ならば、殺さないと思っていた」
『じゃあ、なおさら』
「君の周囲が、君と同じとは限らない」
神聖四文字は何も言わなかった。
「教会が悪いと言っているのではない。秘密は、知る者が増えるほど弱くなる。君に伝えれば教皇が知る。教皇が知れば法務官が必要になる。法を変えれば理由を探る者が出る。君自身が善意で動くほど、制度が動く」
『……それはそうだね』
「ゼノスはまだ弱い。人間側が彼らを社会の一員として受け入れる準備もない。だから隠した」
『でも、隠してた結果、今こうなってる』
「そうだ」
ウラノスは否定しなかった。
「私の判断が正しかったとは言わん。ただ、他の選択がより良かったとも言い切れない」
『そういう答え嫌いじゃない』
「君なら何をした」
『たぶん同じくらい迷って、別の間違いする』
ウラノスはわずかに笑った。
*
ベル・クラネルと神聖四文字が初めて顔を合わせたのは、その日の午後だった。
場所は大聖堂の地下にある古い保管庫である。現在はほとんど使われておらず、外部からの出入りも少ない。ギルドを通じて呼び出されたベルは、何の用件なのか知らされていなかった。
「失礼します……」
扉を開けた少年は、中へ入った瞬間に固まった。
黒い球体。
白い翼の少女。
そして、見覚えのない聖職者たち。
数秒。
誰も喋らない。
『こんにちは』
「…………」
『ベル君?』
「は、はい!」
ベルは反射的に背筋を伸ばした。
「え、あの、もしかして……」
『たぶん想像してるやつ』
ベルの顔が青くなった。
「唯一神様!?」
『声大きい』
「す、すみません!」
『あと、そんなに畏まらなくていいよ。今日は説教しに来たわけじゃないから』
「は、はい!」
『全然楽になってないね』
ソフィアがわずかに笑った。
ベルはしばらく、どこを見ればよいのか分からない様子だった。そもそも目がない。顔もない。視線を合わせようにも合わせる場所がない。
『座っていいよ』
「はい!」
『怒らないから』
「はい!」
『……駄目だなこれ』
神聖四文字が呟くと、ようやくベルの緊張が少しだけ解けた。
*
『ウィーネって子について聞きたい』
ベルの表情が変わった。
さっきまでの緊張とは違う。
警戒だった。
神聖四文字は、その変化を見逃さなかった。
『大丈夫。場所は聞かない』
「……どうしてですか」
『聞いたら、俺も管理する側になるから』
ベルは意味を測りかねた。
『俺が場所を知ったら、教会として守る方法を考える。守るために人を置く。記録を作る。記録を守る人が増える。秘密を知る人が増える。そうすると、守るための仕組みが逆に危険になることもある』
「……ウラノス様と同じことを言ってます」
『あ、本当?』
「はい」
『じゃあ結構正しいのかも』
ベルは少しだけ笑った。
『その子、本当に人を襲わない?』
「僕が知る限りでは」
『喋る?』
「はい」
『怖がる?』
「怖がります」
『嬉しいとか、悲しいとかも』
「あります」
『仲間を大事にする?』
「します」
『死にたくないって思う?』
ベルは少し間を置いた。
「……はい」
神聖四文字は黙った。
それだけで、かなりの部分は決まった。
『じゃあ少なくとも、普通の魔物と同じようには扱えないね』
ベルが目を見開いた。
「信じてくれるんですか?」
『君を完全に信じるって意味じゃないよ』
ベルの表情が少し曇る。
『でも、「喋る魔物なんているはずがない」って最初から否定もしない。実際いるんでしょ。だったら調べる。それだけ』
「……それだけですか」
『それだけって結構大事だよ』
ベルはゆっくり頷いた。
*
「一つ、聞いてもいいでしょうか」
『どうぞ』
「もし、ウィーネたちが本当に人間と同じように考えられるなら……十字教では、どうなるんですか」
神聖四文字は少し困った。
『そこ、今みんなで困ってる』
「え」
『二千年ずっと魔物は敵って教えてきたからね。急に「一部は違うかも」って言ったら、そりゃ混乱するよ』
「神様でも、すぐには分からないんですね」
『分からないことだらけだよ』
ベルは思わず神聖四文字を見た。
目はない。
それでも見た。
『何?』
「いえ……神様って、全部知ってるものかと思ってました」
『天界神たちにもそれ言った?』
「言ったことはないですけど……」
『たぶん笑われるよ』
少し離れたところで、ハインケルが咳をして笑いを誤魔化した。
ベルはそこで、ようやく部屋の隅にいる三人を気にした。
「この方たちは?」
『護衛』
「騎士団の?」
ほんの一瞬。
空気が変わった。
神聖四文字は何でもないことのように答えた。
『教会の人たち。詳しくは秘密』
「秘密なんですね」
『うん。聞かない方がお互い楽』
ベルは素直に頷いた。
第十三騎士団という名は、当然出なかった。
*
話が終わりかけた頃。
由美江が口を開いた。
「ベル・クラネル。一つよいか」
「はい」
「お前はなぜ、魔物を守った」
ベルはすぐには答えなかった。
「……泣いていたからです」
「それだけか」
「はい」
「魔物に仲間を殺された者もいる。家族を食われた者もいる。それでもか」
ベルの顔が強張った。
「それは……分かっています。僕も魔物に何度も殺されそうになりました」
「ならば、なぜ剣を向けなかった」
「分かりません」
由美江が眉を寄せる。
「分からない?」
「立派な理由があったわけじゃないんです。ただ、怖いって言ってる子が目の前にいて、その子が僕を襲ってなくて、それなのに僕が斬ったら……あとで絶対、自分を許せないと思ったんです」
由美江は黙った。
「もし騙されてたら、僕が間違ってたことになります。でも、間違えるかもしれないからって、最初から殺す方を選びたくなかった」
アンデルセンがわずかに視線を上げた。
神聖四文字は何も言わなかった。
自分が二千年前にした選択と。
よく似ていた。
*
ベルが帰った後。
由美江はしばらく黙っていた。
『どうだった?』
「甘いと思います」
『うん』
「危ういとも」
『それもそう思う』
「ですが」
由美江は少し言葉を探した。
「嫌いではありません」
ハインケルが吹き出した。
「最大級の褒め言葉じゃん」
「黙れ」
アンデルセンは静かだった。
『アンデルセンは?』
「危険な少年ですな」
『危険?』
「信念を持ちながら、自分が正しいと確信していない。そのような者は、時に非常に強い」
『褒めてる?』
「半分は」
『残り半分は?』
「いつか死ぬのではないかと」
神聖四文字は答えなかった。
それは、自分も少し思っていた。
*
問題は翌日に起きた。
ゼノスの一団が移動中、市民に発見されたのである。
場所は東区。
最初に悲鳴が上がった。
次に鐘が鳴った。
冒険者が集まる。
そして、誰かが叫んだ。
「魔物を匿ってる奴がいるぞ!」
群衆は瞬く間に膨らんだ。
ベルたちはゼノスを地下通路へ逃がそうとしていたが、経路の一部が塞がれている。ウィーネは怯え、他のゼノスも武器を持つ冒険者たちへ警戒していた。
「下がってください!」
ベルが叫ぶ。
「この子たちは戦うつもりはありません!」
「騙されるな!」
「魔物だぞ!」
「何人殺されたと思ってる!」
石が飛んだ。
ウィーネの肩に当たる。
「痛っ……」
ベルの顔が変わった。
「やめてください!」
彼が前へ出る。
その姿を見て。
誰かが叫んだ。
「ベル・クラネルも魔物の仲間だ!」
空気が一気に悪くなった。
*
その頃。
神聖四文字は大聖堂地下にいた。
報告を受けた瞬間、動いた。
『行く』
「主」
ソフィアが止めようとする。
『今行かないと間に合わない』
「御姿を見せれば、混乱が広がる可能性もございます」
『分かってる。でも、十字教徒も集まってるんでしょ』
「はい」
『なら俺が言わないと』
アンデルセンが前へ出た。
「先に我々が道を開きます」
『武器使わないでよ』
「心得ております」
「由美江」
ハインケルが彼女を見る。
「刀抜くなよ」
「分かっている」
「本当に?」
「斬るぞ」
「それだよ」
*
東区の広場では、状況がぎりぎりのところまで来ていた。
ベルの前には数十人の冒険者。
その後ろには市民。
そして。
十字架を胸に下げた者たちもいた。
「主の聖地に魔物を入れるな!」
誰かが叫んだ。
ベルが振り返る。
「違います! 十字教の主は――」
「お前が主の御心を語るな!」
その瞬間。
広場の上から声がした。
『じゃあ、俺が言う』
静かだった。
だが。
全員に届いた。
人々が顔を上げる。
空に。
黒い球体が浮かんでいた。
誰も動かなかった。
悲鳴も。
怒号も。
剣の音も。
全部止まった。
『こんにちは』
場違いなくらい普通の挨拶だった。
誰かの剣が地面へ落ちた。
「……主?」
『うん』
次の瞬間。
十字教徒たちが一斉に跪いた。
冒険者も。
信徒ではない市民さえ、反射的に道を開ける。
ベルだけが。
立ったままだった。
『ベル君、そのままでいいよ』
「は、はい!」
結局、声は裏返った。
*
神聖四文字は、群衆とゼノスの間へ降りた。
ウィーネが黒い球体を見上げる。
怖がっていた。
当然だった。
三メートル近い黒い球が空から降りてきたのである。
『怖い?』
ウィーネはベルの後ろへ少し隠れた。
「……ちょっと」
『正直でいいね』
ベルが青ざめた。
「す、すみません!」
『何でベル君が謝るの』
群衆の緊張が、ほんの少しだけ緩んだ。
神聖四文字は、周囲を見渡した。
『先に言うね。この子たちが何なのか、俺もまだ分からない』
ざわめきが起きる。
『でも、分からないから殺す、はやめて』
一人の冒険者が勇気を振り絞って声を上げた。
「主よ! しかし、それは魔物です! 我々は何世代も、魔物に仲間を殺されてきました!」
『知ってる』
「ならば!」
『君が怖いのも正しいと思う』
冒険者が止まる。
『魔物に家族を殺された人に、「今日から仲良くしろ」なんて俺は言えない。信用しろとも言わない。でも、この子が今、君を襲ってないなら、君も今すぐこの子を殺さないでほしい』
「もし襲ったら」
『止める』
「討つことも?」
『必要なら』
ウィーネが怯えた。
神聖四文字は続けた。
『人間でも、人を襲えば止める。神でも犯罪をしたら裁く。魔物でも同じにする。それだけ』
しばらく沈黙があった。
『姿じゃなくて、何をするかで決めよう』
ベルは、その言葉を聞いていた。
自分が言いたかったことより。
ずっと簡単だった。
*
群衆はすぐには納得しなかった。
当然である。
二千年近い恐怖が、数分の演説で消えるはずがない。
それでも。
剣は下がった。
一人。
また一人。
最後まで武器を握っていた男も。
ゆっくりと。
剣先を地面へ向けた。
神聖四文字はウィーネを見る。
『君たちも、人間を襲わないって約束できる?』
ウィーネはベルを見る。
ベルが小さく頷く。
「……できる」
『他の子たちにも伝えて』
「うん」
『じゃあ今日は、それでいい』
あまりにも簡単だった。
法もない。
条約もない。
神学上の結論もない。
ただ。
殺さない。
襲わない。
最初はそれだけでよかった。
*
その夜。
ベルは再び大聖堂地下へ呼ばれた。
今度は、少しだけ緊張が薄かった。
『今日、大変だったね』
「はい……」
『後悔してる?』
ベルは考えた。
「怖かったです」
『うん』
「冒険者の人たちが怒るのも分かりました。僕が間違ってるって言われたとき、自分でも本当にそうかもしれないと思いました」
『それでも立ってた』
「ウィーネが後ろにいたので」
『そっか』
それ以上の理由は必要なかった。
ベルが少し迷ってから尋ねた。
「神様は、どうして来てくれたんですか」
『俺も昔、似たことやったから』
「似たこと?」
『よく分からない相手が出てきて、周りが「敵かもしれない」って言って。それで、とりあえず話してみようって決めた』
「天界の神様たちですか」
『そう』
ベルは驚いた。
「今では普通に一緒に暮らしてるのに」
『最初は全然普通じゃなかったよ』
「じゃあ、ゼノスもいつか……」
神聖四文字は答えなかった。
『そうなるといいね』
「ならないかもしれない?」
『なるって約束はできない』
ベルの表情が少し曇った。
『でも、なる可能性があるなら、それを最初から潰さない方がいいと思う』
ベルはゆっくり頷いた。
*
帰り際。
神聖四文字はベルを呼び止めた。
『ベル君』
「はい」
『一つお願い』
「何でしょう」
『死なないでね』
ベルが目を丸くした。
『君、報告読むたび危ないことしてるから』
「……努力します」
『「努力します」って言う人、大体また危ないことするんだよ』
「すみません」
『謝らなくていいけど』
ベルは少し笑った。
「でも、困ってる人がいたら、多分また助けようとすると思います」
『知ってる』
神聖四文字も。
たぶん笑っていた。
顔はないけれど。
『だから死なないで、って言ってる』
*
その日の深夜。
アンデルセンは大聖堂の屋上にいた。
オラリオの灯りを見下ろしている。
由美江が隣へ来た。
「神父」
「何です」
「主は、魔物まで救われるおつもりなのでしょうか」
アンデルセンは少し考えた。
「分かりませんな」
「神父にも」
「主御自身が分からないと仰っているのです。私が分かったふりをする必要もありますまい」
「私は、まだ信用できません」
「それでよいでしょう」
由美江が意外そうに見る。
「よいのですか」
「主は信用せよとは仰っておられません。殺す前に見よ、と命じられただけです」
由美江はしばらく黙っていた。
「難しいですね」
「信仰とは、時にそういうものです」
少し離れた場所から、ハインケルが言った。
「アンデルセンがまともな宗教家みたいなこと言ってる」
「撃ちますぞ」
「ほら戻った」
*
翌朝。
神聖四文字はパチカンへ戻る準備を始めた。
ゼノスの問題は解決していない。
むしろ。
始まったばかりだった。
しかし、一つだけ変わった。
オラリオの大聖堂には、新しい通達が掲示された。
――言葉を解し、意思を示し、明確な敵意を持たぬ存在については、その姿のみを理由として攻撃してはならない。
魔物という語は使われなかった。
ゼノスという語もない。
それでも。
読む者には意味が分かった。
そして、その文面の下には。
神聖四文字の名による一文が添えられていた。
――分からないものを、分からないという理由だけで殺してはならない。
その言葉は。
二千年前。
神々が初めて地上へ現れたときにも。
ほとんど同じ形で語られていた。
世界は変わる。
相手も変わる。
恐怖の形も変わる。
それでも。
神聖四文字が選ぶ答えだけは。
あまり変わらなかった。