【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
神聖四文字がパチカンへ戻ってから一か月もしないうちに、問題はオラリオの外へ漏れ始めた。
最初は噂だった。「オラリオには人の言葉を話す魔物がいる」「唯一神が魔物を庇った」「ベル・クラネルという冒険者が魔物を連れて歩いている」。どれも一部は正しく、一部は間違っている。とりわけ最後の話は、二週間もすると「ベル・クラネルは魔物を使役する異端の術師」へ変わり、さらに西方へ届く頃には「オラリオで魔物の軍団が組織されている」まで膨らんでいた。
『最後どこから出てきたの』
神聖四文字は、地方司教から送られてきた報告書を前にしていた。
「不明でございます」
『俺、広場でちゃんと話したよね』
「はい」
『姿だけで殺すなって』
「はい」
『魔物を軍隊にするなんて一言も言ってないよね』
「もちろんです」
『何でこうなるの』
教皇は少し考えてから答えた。
「人は、理解できないものについて空白を残すことを嫌うからではないでしょうか。その空白を、自分が知っている恐怖で埋めるのです」
『それ、かなり嫌な性質だな』
「人間だけとも限りません」
『俺も?』
「主も時折」
『……否定しづらい』
噂そのものより厄介だったのは、それが既存の教義へ触れ始めたことだった。十字教は長い歴史の中で、異教徒との共存について膨大な議論を積み重ねてきた。天界神の出現後は、「唯一なる主」と「天界の神々」をどのように区別するかについても、いくつもの公式見解が作られている。しかし魔物については、ほとんど議論されてこなかった。
理由は単純である。
議論する必要がなかった。
魔物は人を襲う。
だから討つ。
それだけだった。
ところが今、その大前提が崩れた。
*
「人語を解することだけで、人格を認めるべきでしょうか」
十三枢機卿会議で、法務担当の枢機卿が問いを投げた。
「鸚鵡も人の言葉を真似ます。高度な魔術で命令を理解する使い魔もおります。言葉だけを基準とするのは危険です」
『それはそうだね』
「では、感情でしょうか。しかし動物も恐怖を示し、仲間を守ります」
『それもそう』
「自己認識。将来への意思。善悪判断。他者の権利への理解。どこに線を引くかによって、対象は大きく変わります」
『……難しいな』
「主が広場で仰せになった『姿ではなく、何をするかで決める』という原則は実務上有用です。しかし、それだけでは法的地位までは決められません」
『じゃあ、急いで決めなくていいんじゃない?』
枢機卿たちが一斉に神聖四文字を見る。
『今すぐ「人間と完全に同じです」とか、「やっぱり魔物だから権利ありません」とか決めなくていいと思う。分かってないんだから』
「暫定的地位を設けると?」
『うん。少なくとも、自分の意思を伝えられて、他人と約束できて、理由なく人を襲わないなら、勝手に殺しちゃ駄目。その先は調べながら決める』
教皇が確認した。
「人と同一の権利を認めるのではなく、まず生命と身体を保護する?」
『そう。それと、拘束するときも理由が必要。実験材料にも駄目。売るのも駄目』
「奴隷化も?」
『当然駄目』
「信仰を強制することも?」
『それ、人間にも駄目って言ってるよね』
「確認でございます」
『最近その確認多くない?』
「二千年の経験上、明文化しておいた方がよろしいかと」
『それはそう』
こうして、十字教会は《知性存在暫定保護令》を制定した。
名称から、魔物という言葉は意図的に外された。
対象は「自らの意思を持ち、意思疎通が可能で、他者との継続的な関係を形成し、明確な敵対行動を取らない存在」。
該当する者は、人間・亜人・魔物その他の外形を問わず、理由なく殺害、拘束、売買、解剖、強制改宗の対象としてはならない。
それは完全な人権宣言ではない。
むしろ。
分からないからこそ。
最低限の線だけを引いた法律だった。
*
反発は、すぐに起きた。
「魔物に権利を与えるのか!」
西方のある都市では、司教館の前へ数百人が集まった。
「俺の息子は迷宮で魔物に食われた!」
「妻を失った者に、魔物を愛せと言うのか!」
現地司教は、教皇庁から送られた説明文を何度も読み上げた。
「愛せとは命じられておりません。信用せよとも、家へ迎えよとも書かれておりません。意思を示し、敵対しない存在を、姿のみを理由として殺してはならない。それだけです」
「同じ魔物だろう!」
「同じであるかどうかを、調べている段階なのです」
「そんなもの、襲われてからでは遅い!」
その言葉に。
司教はすぐには返せなかった。
恐怖には、理由がある。
それを愚かだと切り捨てれば。
教会の方が間違える。
*
神聖四文字は、その報告を読んでいた。
『怒るのも分かるんだよね』
「はい」
ソフィアが答える。
『俺だって、目の前で魔物に家族殺されてたら、同じ姿の相手を見て怖いと思うかもしれない』
「そのように公表されますか」
『公表した方がいい?』
「少なくとも、『怖がるな』と命じているわけではないことは伝わるかと」
神聖四文字は少し考えた。
『じゃあ書こう。「恐れることを罪とはしない。でも恐れだけで殺すことも正しいとはしない」』
「よろしいかと」
『あと、「許せない人に許せとも言わない」』
「はい」
『でも、復讐で関係ないゼノスを殺すのは駄目』
「それも」
文章は短かった。
しかし西方では意外なほど受け入れられた。
全員ではない。
反発も残った。
それでも。
教会が「魔物を愛せ」と命じているわけではないと分かるだけで、少しだけ空気は変わった。
*
オラリオでは、もっと現実的な問題が起きていた。
ゼノスが地上へ出るたび、大騒ぎになる。
隠せば隠したで、秘密組織のように扱われる。
堂々と歩かせれば、戦闘になる可能性がある。
ギルドは悩んだ末、試験的な制度を設けた。
ゼノスが地上へ出る場合には、指定された区域と時間帯に限る。同行者を付ける。武器は原則として隠す。何より、相手が恐怖を示した場合には近づかない。
ゼノス側にも制限がある。
人間側にも制限がある。
誰にとっても不完全な制度だった。
だからこそ、現実的だった。
*
最初の試験日に。
ベル・クラネルはウィーネと一緒にいた。
「大丈夫?」
ベルが尋ねる。
ウィーネは深く被った外套の中で頷いた。
「ベルいるから」
「でも、人が多かったら戻ろう。無理しなくていいから」
「うん」
指定されたのは、大聖堂裏手の小さな市場だった。
十字教会が管理する区域で、事前に商人たちへ説明が行われている。
それでも。
空気は硬かった。
ウィーネが外套のフードを取った瞬間、何人かが息を呑んだ。
鱗。
爪。
額の宝石。
人ではない。
それは隠しようがない。
魚屋の主人が、じっとウィーネを見ている。
ウィーネも動かない。
長い沈黙のあと。
主人が言った。
「……魚、食うか?」
ベルが目を丸くした。
「え?」
「だから、その子。魚食うのか」
ウィーネがベルを見る。
「食べる?」
「うん」
「じゃあ、食べます」
「何が好きだ」
「……甘いの」
「魚に甘いのはねえな」
主人が少し考え、干した小魚を一本差し出した。
「ほら」
ウィーネは恐る恐る受け取った。
「ありがとう」
主人の肩が少し揺れた。
「本当に喋るんだな」
「うん」
「そうか」
それだけだった。
友達になったわけではない。
抱き合ったわけでもない。
魚屋の主人は、その後も魔物を好きにはならなかった。
ただ。
次にウィーネを見たとき。
剣を探さなくなった。
*
もちろん。
うまくいく日ばかりではない。
別の日。
市場で一人の男がウィーネを見た瞬間、顔色を変えた。
「魔物……!」
男の手が震える。
「俺の弟を返せ!」
剣が抜かれた。
ベルが前へ出る。
「待ってください!」
「どけ!」
「この子はあなたの弟さんを――」
「魔物だろうが!」
男の剣が振り下ろされる。
ベルが受け止めた。
周囲が騒然となる。
「離せ! あいつらは人を殺す! 弟は迷宮で、あいつらに!」
「分かります!」
「何が分かる!」
「分からないです!」
ベルが叫んだ。
男の動きが止まった。
「僕には、あなたの弟さんのことは分かりません。だから、分かったふりはできません。でも、この子はあなたの弟さんを殺してません!」
「同じ魔物だ!」
「じゃあ、人間が誰かを殺したら、人間全員が同じなんですか!」
男の顔が歪んだ。
「同じにするな!」
「僕も、同じにしたくないんです!」
しばらく。
二人は動かなかった。
やがて、男の手から力が抜ける。
「……俺は、無理だ」
「はい」
「そいつを見て、何も思わないなんて無理だ」
「はい」
「近くに来てほしくない」
「分かりました」
ベルは否定しなかった。
男は剣を収めた。
そして。
ウィーネを一度も見ずに。
去った。
それもまた。
共存だった。
*
この出来事は神聖四文字のもとにも届いた。
『ベル君、結構言うようになったね』
「成長しているのでしょう」
ソフィアが言う。
『強さ以外も?』
「恐らく」
神聖四文字は報告書を閉じた。
『あの男の人も偉いと思う』
「剣を抜いた者が?」
『最後に収めたでしょ。嫌いなままでも殺さないって、結構難しいよ』
「主らしい評価です」
『そう?』
「はい」
*
数か月後。
オラリオで、初めて一体のゼノスが正式な証人として法廷へ立った。
事件は単純だった。
地下道で起きた殺人。
容疑者は冒険者。
目撃者はゼノス一体だけ。
これまでなら。
証言として扱われることはなかった。
しかし今は違う。
「あなたは、自分が見たことと、他者から聞いたことを区別できますか」
裁判官が尋ねる。
「できる」
「嘘という概念を理解していますか」
「理解している」
「虚偽の証言をすれば、裁判を誤らせることも?」
「分かっている」
「では、あなたが見たことを話してください」
法廷は静まり返った。
ゼノスは話した。
淡々と。
被告人が被害者を刺したこと。
その前に口論があったこと。
被害者も先に殴っていたこと。
逃げようとした被告人を追わなかったこと。
都合の悪いことも。
都合のよいことも。
同じように。
その証言は、他の証拠と一致した。
裁判官は。
ゼノスだからといって。
特別に信用もしなかった。
特別に疑いもしなかった。
他の証人と同じように評価した。
それが。
最初の一歩だった。
*
パチカンでは、その判決文が回覧された。
「前例になりますな」
ヨハネスが言った。
『いい前例?』
「便利すぎる前例ではあります」
『どういう意味?』
「一度、証人として認めれば、次は契約能力。その次は財産所有。婚姻。相続。居住権。納税義務。兵役。宗教所属。次々に問題が出ます」
『……いっぱいあるね』
「社会の一員として認めるとは、そういうことです」
『人権だけあげて終わり、じゃないんだ』
「権利を認めれば、義務も生じます」
神聖四文字はしばらく考えた。
『じゃあ、一個ずつやろう』
「二千年かかるかもしれませんぞ」
『俺、もう二千年やってるし』
ヨハネスは少し笑った。
「確かに」
*
しかし。
すべての神が、この流れを歓迎したわけではなかった。
ゼノスは迷宮から生まれる。
迷宮は、オラリオ最大の資源でもある。
魔石。
素材。
冒険者の生計。
ファミリアの力。
もし、知性を持つ魔物を討伐してはならないとなれば。
どこまでが討伐対象なのか。
誰が判断するのか。
もしゼノスが迷宮内に領域を求めたら。
資源採掘と衝突したら。
冒険者を拒絶したら。
問題は倫理だけでは済まない。
政治になる。
経済になる。
領土になる。
そして。
ある神が。
宴席で笑いながら言った。
「だったら、迷宮の一部をあいつらにくれてやればいいじゃないか」
冗談だった。
だが。
聞いていた別の神が答えた。
「面白い。では、どこからどこまでを彼らの土地とする?」
さらに別の神が言う。
「土地? 迷宮は誰の土地なのだ」
その場にいた神々が。
一瞬。
黙った。
*
同じ問いが。
数日後。
神聖四文字のところへ届いた。
『ダンジョンって誰のもの?』
神聖四文字はウラノスへの通信越しに尋ねた。
「知らん」
『ウラノスでも?』
「私は祈っているだけだ」
『ギルドのものではない?』
「管理しているだけだ」
『オラリオのもの?』
「都市は入口を囲っている。しかし、それが所有を意味するかは別だろう」
『ゼノスのもの?』
「彼らは中で生まれた」
『じゃあ、迷宮自身のもの?』
ウラノスは沈黙した。
『……そこ黙るの怖いんだけど』
「以前も言っただろう。私は、あの地下に何か大きなものを感じる」
『生きてるって話?』
「そうかもしれん」
『じゃあ俺たち、もしかして誰かの身体の中から資源掘ってる?』
「その表現はやめろ」
『俺も言ってて嫌になった』
二柱は黙った。
ゼノスの存在は。
人と魔物の境界だけではない。
もっと根本的なものを揺らし始めていた。
迷宮とは何なのか。
魔物とは何なのか。
人間は、迷宮から何を奪ってよいのか。
そして。
もし迷宮そのものにも。
意思があるのだとしたら。
地上に住む人々は。
これまで。
何を相手にしてきたのか。
*
ベル・クラネルは。
そんな大きな問いがパチカンとギルドで議論されていることを知らなかった。
その日も。
迷宮へ潜っていた。
剣を振り。
仲間を守り。
魔物と戦う。
すべての魔物を救おうなどとは思っていない。
襲ってくるなら戦う。
殺さなければ自分が死ぬなら。
剣を振る。
それでも。
以前とは少しだけ違っていた。
魔物を見た瞬間。
一瞬だけ。
考えるようになった。
こいつは。
話せるのだろうか。
何か考えているのだろうか。
その一瞬は。
冒険者にとって。
危険でもあった。
だが。
世界が変わるときは。
たいてい。
そういう一瞬から始まる。
そして遠くパチカンで。
神聖四文字もまた。
二千年間当たり前だった地図の。
もっとも深い部分に。
初めて疑問符を書き込んでいた。
――ダンジョンとは、何だ。
その問いへの答えが。
やがて。
オラリオと十字教。
神々と人間。
そしてゼノス。
そのすべてを。
再び同じ場所へ集めることになる。