【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
ゼノスを巡る議論が始まってから半年ほど経った頃、迷宮に異変が起きた。
最初に気づいたのは冒険者ではない。ウラノスだった。
いつものように地下祭壇で祈っていた彼は、突然目を開いた。何千日、何万日と繰り返してきた祈りの中で、迷宮から返ってくる感触は常に曖昧だった。怒りとも、苦しみとも、生物的な脈動とも言える何か。それを鎮めるように神威を送り続ける。それが彼の役割になっていた。
その日だけは違った。
返ってきた。
言葉ではない。
声でもない。
それでも、明確に。
何かがこちらを向いた。
「……私を見ているのか」
返事はない。
しかし地下深くで、巨大なものが身じろぎしたような感覚があった。
直後。
オラリオ全域が揺れた。
*
揺れは短かった。建物が倒れるほどではなく、棚から瓶が落ち、吊り下げられた看板が音を立てる程度だった。しかし問題は、その直後から始まった。
迷宮上層で魔物の出現数が急減したのである。
冒険者たちは最初、幸運だと思った。
「今日は楽だな」
「こんな日もあるんだな」
だが二日目。
三日目。
五日目。
異常は続いた。
討伐数が減れば、当然魔石の供給も減る。冒険者の収入が落ち、魔石を利用する工房や商会が不安を示し始めた。
その一方で。
中層。
深層。
より深い場所では、逆の現象が起きていた。
魔物が増えている。
しかも。
上ではなく。
下へ向かっていた。
「避難?」
ギルドの調査官が、報告を前に呟いた。
「何から?」
誰にも分からなかった。
*
パチカンへ緊急書簡が届いたのは七日目だった。
『下へ逃げてる?』
「そのように推測されております」
ソフィアが地図を広げる。
「上層・中層の複数地点で、魔物が冒険者との交戦を避け、より深い階層へ移動する行動が確認されております。通常は縄張りを離れない種まで含まれます」
『ゼノスは?』
「同様に移動を始めているとのことです」
『理由は聞いた?』
「彼らにも分からない。ただし、『下から呼ばれているように感じる』と」
神聖四文字は黙った。
『……呼ばれてる』
「はい」
『誰に?』
「分かりません」
『嫌な答えばっかり増えるね』
その日のうちに。
ウラノスから通信が入った。
「来られるか」
『オラリオに?』
「いや」
少し間があった。
「ダンジョンへ」
神聖四文字は止まった。
『……俺が?』
「そうだ」
『入っていいの?』
「今さらそこか」
『二千年近く止められてたんだけど』
「今回は私が許可する」
『ウラノスに決定権あるの?』
「少なくともギルドにはある」
『俺の騎士団が納得するかな』
「それは君が何とかしろ」
『急に雑だな』
それでも。
神聖四文字は断らなかった。
二千年間。
ずっと見たかった場所だった。
*
「なりません」
予想通り。
教皇は反対した。
『だよね』
「当然でございます。主御自身が迷宮へ入られるなど、危険以前の問題です」
『どういう問題?』
「主が迷宮で死亡された場合、十字教そのものがどうなるかという問題です」
『死ぬかどうかも分からないけど』
「だからこそ試してはなりません」
『でもウラノスが来てほしいって』
「ウラノス殿には丁重にお断りを」
『俺も行きたい』
「なりません」
『二千年待ったよ』
「二千一年お待ちください」
『来年ならいいの?』
「言葉の綾でございます」
交渉は二時間続いた。
最終的に。
折れたのは教皇だった。
ただし条件は多かった。
護衛。
退路。
地上との通信。
探索階層の制限。
危険を感知した場合の即時撤退。
さらに。
第十三騎士団。
「我々まで同行する必要がありますかね」
ハインケルが言った。
『あるらしい』
「銃使いにくいんだけどな、ダンジョン。音響くし」
「ならば刀でよい」
由美江が答える。
「お前みたいに何でも刀で解決できねえんだよ」
「鍛錬不足だ」
「そういう問題じゃねえ」
アンデルセンだけは機嫌がよかった。
「主をお守りしながら魔物を討つ。実に分かりやすい任務です」
『今回はゼノスいるかもしれないから、見境なく斬らないでね』
「……急に複雑になりましたな」
*
ベル・クラネルも同行することになった。
理由は単純だった。
ゼノスと意思疎通できる。
迷宮にも詳しい。
そして何より。
ウラノスが推薦した。
「僕が、唯一神様の護衛ですか?」
ベルは聞き返した。
『護衛というより案内役かな』
「でも、僕より強い人なんていくらでもいますよ!」
『強い人なら他にもいるよ』
ベルは周囲を見た。
アンデルセン。
由美江。
ハインケル。
さらに十二騎士団から選抜された数名の古参騎士。
一人一人から感じる圧が普通ではない。
「……ですよね」
『だからベル君は、強さ以外の担当』
「何をすれば」
『何か変なの見つけたら、先に話して』
「それだけですか?」
『それが一番大事』
ベルは少し考えた後。
頷いた。
「分かりました」
ヘスティアは最後まで反対した。
*
「嫌だ!」
出発前夜。
ベルの部屋で。
ヘスティアは全力で反対していた。
「ベル君が危険なところへ行くのはいつものことだけど、今回は規模がおかしい! ウラノスと唯一神が揃って調査するような異変だよ!? そういうのは絶対、普通じゃない!」
「でも、僕が必要だって」
「神様に頼まれたら何でもやるの!?」
ベルは言葉に詰まった。
「……ヘスティア様に頼まれたら」
「僕なら危ないこと頼まない!」
「前に戦争遊戯やらせましたよね」
「それとこれは別!」
しばらく言い合った末。
ヘスティアは諦めた。
ベルの胸元を掴み。
額を胸へ押しつける。
「帰ってきて」
「はい」
「英雄にならなくていいから」
「はい」
「誰かを助けられなくても、自分だけ逃げていいから」
ベルはすぐには返事をしなかった。
「……努力します」
ヘスティアが顔を上げる。
「その答え、唯一神にも怒られたんでしょう?」
「何で知ってるんですか」
「君ならそう答えると思ったからだよ!」
*
一行が迷宮へ入ったのは翌朝だった。
神聖四文字にとって。
初めてのダンジョン。
入口を越え。
地下へ続く石段を見る。
『おお……』
ベルが振り返る。
「どうしました?」
『いや。二千年間ずっと入りたかったから』
「二千年?」
『最初から騎士団に止められてた』
「……それは、長かったですね』
『分かってくれる?』
「少しだけ」
ベルも。
初めて迷宮へ入った日のことを覚えていた。
恐怖。
期待。
胸が高鳴る感覚。
唯一神が同じものを感じていると思うと。
妙に親近感が湧いた。
*
第一階層。
異常はすぐに分かった。
『魔物いないね』
「普段なら、もう何体か出てます」
ベルが周囲を見る。
洞窟は静かだった。
足音だけが響く。
時折。
壁が小さく動く。
通常ならそこから魔物が生まれる。
だが。
何も出ない。
神聖四文字は壁へ近づいた。
「主」
アンデルセンが止める。
『触らないよ』
黒い球体が。
白い壁の前で静止する。
『……何か感じる』
全員が止まった。
「何を」
『分からない』
ハインケルが小さく笑う。
「最近それ多いな」
『本当にね』
しかし。
冗談を言った直後。
壁が震えた。
神聖四文字の前だけ。
ゆっくりと。
脈打つように。
一度。
二度。
三度。
ベルが息を呑んだ。
「これ……」
ソフィアの翼が開く。
騎士たちが武器へ手をかける。
由美江の刀がわずかに抜かれる。
『待って』
壁は攻撃してこない。
ただ。
震えている。
神聖四文字は。
なぜか。
その動きを見て。
一つの言葉を連想した。
『……心臓?』
誰も答えなかった。
*
さらに下へ。
五階層。
七階層。
十階層。
異常は強くなった。
魔物は少ない。
いる個体も。
一行を見ると。
襲うのではなく。
逃げる。
「こんなの、見たことありません」
ベルが呟いた。
一体のゴブリンが通路の奥へ消える。
由美江が追おうとした。
ベルが止めた。
「待ってください」
「通常の魔物だぞ」
「でも、今こっちを襲いませんでした」
「それだけで?」
「今は」
由美江は不満そうだったが。
刀を収めた。
「主の悪影響だな」
『悪影響って言った?』
「良い意味です」
『便利だね、その言葉』
*
第十二階層で。
ゼノスと合流した。
リド。
レイ。
グロス。
その他数体。
神聖四文字が彼らと直接会うのは初めてだった。
互いに。
しばらく見つめ合う。
「……これが」
リドが言った。
「人間たちの神?」
『十字教徒の神。人間全体じゃないよ』
「黒いな」
『よく言われる』
レイが周囲を飛ぶ。
「本当に顔がないのね」
『ないね』
「不便ではない?」
『二千年慣れた』
ベルが少し笑った。
ゼノスたちの緊張も。
わずかに解けた。
「呼ばれる感じって、まだする?」
ベルが尋ねる。
リドが頷いた。
「ああ。下だ。ずっと深いところからな。声じゃねえ。でも、行かなきゃならねえ気がする」
『怖い?』
「怖いさ」
『でも行く?』
「仲間も同じものを感じてる。放っとけねえ」
神聖四文字は少し黙った。
『ベル君と似てるね』
「え?」
「誰が?」
『両方』
*
問題が起きたのは十五階層へ向かう途中だった。
通路が。
閉じた。
後方の壁が。
突然隆起したのである。
「退路が!」
騎士が叫ぶ。
前方も。
変形する。
迷宮が。
道を作り変えている。
「主を囲め!」
アンデルセンの声。
騎士が神聖四文字の周囲へ集まる。
由美江が刀を抜く。
ハインケルも隠していた銃器へ手を伸ばした。
だが。
ベルだけが。
違うものを見ていた。
「待ってください」
「何です!」
「閉じ込めようとしてるんじゃない」
新しい通路が。
開いていた。
本来の地図には存在しない。
下へ。
一直線に伸びる道。
リドの顔が強張る。
「……呼んでる」
全員が。
新しい道を見る。
『俺たちを?』
「たぶん」
『誰が』
リドは。
壁へ手を触れた。
「ダンジョンが」
*
普通なら。
撤退すべきだった。
未知の通路。
地図にない。
迷宮自身が作った可能性。
危険要素しかない。
「戻るべきです」
古参騎士が言った。
「後方の壁を破壊し、既知の経路へ復帰します」
「賛成だ」
ハインケルも頷く。
「何があるか分からねえ」
由美江は反対だった。
「進めばよい。敵なら斬る」
「お前は毎回それだな」
ベルは新しい通路を見ていた。
「僕は……行った方がいいと思います」
全員の視線が集まる。
「理由は?」
アンデルセンが尋ねる。
「ダンジョンが本当に僕たちを殺そうとしてるなら、こんな道を作らなくてもいいと思うんです。もっと魔物を出せばいい。壁を閉じて潰すことだってできるかもしれない」
「だから安全だと?」
「安全とは思いません。でも、何か伝えたいんじゃないでしょうか」
アンデルセンが神聖四文字を見る。
『俺も行きたい』
「主」
『分かってる。でも』
神聖四文字は通路を見る。
『二千年ずっと、ここのこと知りたかった』
沈黙。
『それに』
少し間を置く。
『向こうから話したいって言ってるなら、無視したくない』
アンデルセンは長く神聖四文字を見た。
やがて。
「では」
銃剣へ手を置く。
「我々が先頭を」
*
道は。
深く。
深く。
続いていた。
本来の階層構造を無視している。
階段でもない。
坂でもない。
どこか。
空間そのものを折り畳んでいるようだった。
ベルの感覚でも。
どれほど下ったのか分からない。
やがて。
通路の先に。
光が見えた。
白い。
迷宮の壁と同じ色。
しかし。
柔らかい。
広い空間へ出る。
そこには。
魔物はいなかった。
宝もない。
建物もない。
ただ。
中央に。
巨大な白い壁があった。
いや。
壁ではない。
ゆっくり。
上下している。
呼吸するように。
「何だ……これ」
ベルが呟いた。
ゼノスたちが。
一斉に膝をついた。
「母……」
レイが。
小さく言った。
『母?』
その瞬間。
空間全体が。
震えた。
*
声は。
聞こえなかった。
それでも。
神聖四文字には。
分かった。
何かが。
目の前にいる。
大きすぎて。
形を認識できない。
迷宮という建造物そのものなのか。
その奥にいる何かなのか。
分からない。
ただ。
意識がある。
そして。
こちらを見ている。
『こんにちは』
ハインケルが。
思わず神聖四文字を見た。
「最初それなのかよ」
『他に何て言えばいいの』
返事はない。
『俺は……神聖四文字』
空間が。
震えた。
『名前。俺の』
また。
震える。
ソフィアが息を呑む。
この場で。
その名を聞いている者は。
全員。
最高機密を知る者か。
今ここで初めて知った者だった。
ベルの目が大きく開いている。
「それが……お名前?」
『あとで秘密ね』
「今言うんですか!?」
『必要な気がした』
巨大な何かは。
再び。
動いた。
そして。
神聖四文字の中へ。
感覚が流れ込んだ。
痛み。
恐怖。
怒り。
孤独。
長い。
長い。
時間。
生まれて。
殺されて。
また生まれる。
無数の命。
地上へ出れば殺される。
迷宮内でも殺される。
それでも産む。
止められない。
止まらない。
そして。
時折。
生まれたものの中に。
違うものが現れる。
考えるもの。
夢を見るもの。
地上を望むもの。
ゼノス。
『……君が作ったの?』
震え。
『ゼノスを』
震え。
意味は。
肯定。
そう感じた。
神聖四文字は。
しばらく何も言えなかった。
*
次に流れ込んできたものは。
映像に近かった。
地上。
空。
太陽。
人々。
神々。
オラリオ。
そして。
ベル。
「僕?」
ベルにも。
見えていた。
幼いゼノスが。
地上を夢見る。
しかし。
出られない。
出れば殺される。
何度も。
何度も。
それでも。
願う。
地上へ。
青い空へ。
その願いが。
積み重なっている。
「この子たちは……」
ベルの声が震える。
「ずっと、外に出たかったんだ」
リドが拳を握る。
レイが泣いていた。
由美江は。
刀を握ったまま。
動かなかった。
アンデルセンも。
何も言わない。
神聖四文字は。
ようやく。
理解した。
迷宮が彼らを呼んだ理由を。
『……助けてほしいの?』
長い。
長い沈黙。
そして。
空間全体が。
一度だけ。
大きく。
震えた。
神聖四文字は。
それを。
肯定だと受け取った。
*
『困ったな』
その場で。
唯一神が最初に言った言葉は。
それだった。
「何がでしょう」
アンデルセンが尋ねる。
『また、知らなかった相手から助けてって言われた』
ベルは。
神聖四文字を見る。
『俺、こういうの断るの苦手なんだよね』
ベルが。
少し笑った。
「僕もです」
『知ってる』
そのとき。
二千年の時を生きる神と。
まだ少年の冒険者が。
初めて。
同じものを見ていた。
地上へ出たいと願う。
怪物たち。
そして。
その願いを。
抱き続けてきた。
巨大な迷宮。
問題は。
彼らを救えるかどうかではない。
救った後。
地上が。
彼らを受け入れられるのか。
その方が。
はるかに難しかった。