【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
迷宮の最深部に近いどこかで、神聖四文字は長いあいだ何も言わなかった。目の前にある巨大な白い壁――それを壁と呼んでよいのかすら分からない――は、ゆっくりと脈打っている。そこから流れ込んできた感情が本当に迷宮自身のものなのか、それとも神聖四文字が勝手に意味を読み取っただけなのか、証明する術はなかった。ただ一つだけ確かなのは、ゼノスたちが同じ場所で同じような感覚を受け取っているということだった。
『助けてほしい、っていうのは分かった。でも、何をすればいいの?』
返事の代わりに、また断片的な感覚が流れ込んでくる。地上。青い空。風。人の街。笑い声。そして、その中を歩くゼノスたち。次の瞬間には場面が変わり、剣を向けられ、石を投げられ、逃げ惑う姿になる。願いと恐怖が同時に押し寄せてきた。
「地上へ出たい。しかし、地上が怖い」
ベルが呟いた。
『たぶんね』
リドが低い声で言う。
「俺たちも同じだ。外へ出たい奴は多い。でも、人間に見つかったら殺される。だから結局、ダンジョンに戻るしかねえ」
「それでも出たいのですか」
由美江が尋ねた。以前なら「魔物」と言っていたところを、今は「お前たち」と言っている。ほんのわずかな変化だったが、神聖四文字は気づいた。
「出たいさ。俺は空を見てえ。レイは風を感じたいって言ってる。地上の飯を食ってみたいって奴もいる。くだらねえだろ?」
「いや」
由美江は少し考えた。
「人間も似たようなものだ」
リドが意外そうに彼女を見た。
ハインケルが横で小さく笑う。
「お前、丸くなったな」
「斬るぞ」
「そこは変わってねえ」
いつものやり取りに、ベルまで少し笑った。
*
一行が地上へ戻ったのは、それから半日以上が経ってからだった。帰路では、迷宮が道を閉ざすことはなかった。むしろ逆に、既知の階層へ最短で戻れるような通路がいくつか開き、そこを抜けると見覚えのある場所へ出た。偶然と呼ぶには不自然だった。
地上へ戻った直後、ウラノスは全員から個別に証言を取った。誰が何を見たか。何を感じたか。互いの証言を混ぜないためである。結果は完全には一致しなかった。しかし重要な部分だけは同じだった。
迷宮には、何らかの意思があるように感じられた。
ゼノスを生み出している。
そして、彼らが地上へ出ることを望んでいる。
「問題は、我々がそう感じただけかもしれんことだ」
ウラノスが言った。
『うん。だから「ダンジョンが喋った」とか発表するのはやめよう』
「当然だ」
『でもゼノスを地上に出したいっていう話は、別に迷宮が喋った証明がなくても考えられるよね』
「そうだな」
神聖四文字はベルを見る。
『ベル君はどう思う?』
「僕ですか?」
『一番最初にウィーネを地上に連れてきたの、君でしょ』
ベルは困ったように黙り込んだ。
「出られたらいいと思います。でも……全員いっぺんに、は無理だと思います」
『俺もそう思う』
「今でもウィーネを怖がる人はたくさんいます。ゼノスが何十人も街を歩いたら、たぶんまた戦いになります」
「ならば、段階を踏む必要がある」
ウラノスが言う。
神聖四文字も頷いた。
『じゃあ、まず一人からやろうか』
「一人?」
『地上で暮らせるか試す。隠すんじゃなくて、ちゃんと身分を作って』
その場にいた全員が少し黙った。
ベルがゆっくりと理解する。
「ゼノスを……オラリオの住民にするんですか?」
『うん』
*
問題は、その瞬間から山ほど出てきた。
誰を選ぶのか。
どこに住むのか。
誰が身元を保証するのか。
税を払うのか。
働けるのか。
冒険者登録は可能なのか。
武器を持てるのか。
犯罪を犯した場合はどう裁くのか。
逆に、襲われた場合は誰が守るのか。
神聖四文字は、最初の会議だけで少し後悔した。
『一人住ませるだけで、こんなにあるの?』
「住民になるというのは、そういうことでございます」
法務官が淡々と答える。
『もっとこう、「この人住んでいいです」で終わらない?』
「終わりません」
『ですよね』
オラリオ側も同じだった。ギルドは慎重で、市民評議会はさらに慎重だった。一部の議員は強く反対した。
「前例になります」
「前例にするためにやるんだと思う」
神聖四文字が答える。
「だからこそ危険なのです。仮に一体を住民として認めた場合、次に十体、百体と来たとき、拒否する根拠が弱くなります」
『じゃあ、人数で拒否する根拠を作ればいい。住居とか治安とか、普通の移民と同じで』
「魔物を移民と呼ばれるのですか」
『知性があって、別の場所から移ってくるなら、制度上は近いんじゃない?』
議員は顔をしかめた。
「主は簡単に仰います」
『簡単じゃないよ。だから会議してる』
少し空気が硬くなった。
神聖四文字は続ける。
『でも、「魔物だから駄目」で終わらせるなら、そもそも会議する意味ないでしょ』
その言葉には、誰もすぐには返せなかった。
*
最初の候補になったのはウィーネではなかった。
ベルは意外そうだった。
「ウィーネじゃないんですか?」
『ウィーネは顔が知られすぎてる』
「あ……」
『それに、君との関係も有名。最初の事例としては政治的に目立ちすぎる』
選ばれたのは、ゼノスの中でも比較的人間に近い姿を持つ女性型の個体だった。名前はミラ。元は人型の魔物で、言葉を話し、人間の文字もある程度読める。地上への関心が強く、何より本人が「やってみたい」と希望した。
「怖くない?」
ベルが尋ねると、ミラは正直に答えた。
「怖い。でも、ずっと下にいるのも嫌」
「無理しなくても」
「ベルはそれを言うの?」
「え?」
「怖くても前へ行くのがベルでしょう」
「……僕、そんなふうに見えてます?」
「かなり」
ベルは返す言葉を失った。
*
身元保証人は、ギルドとオラリオ大聖堂の共同とされた。特定のファミリアに所属させれば「その神の所有物」と誤解される恐れがあるためである。住所は大聖堂に近い共同住宅の一室。仕事は、教会付属の薬草園での補助作業から始めることになった。
そして最大の問題。
住民登録。
「種族欄をどうします」
役人が真顔で尋ねた。
『ゼノスでいいんじゃない?』
「ゼノスは自称集団名でしょう。種族ではありません」
『じゃあ元の魔物種』
「それを書くと、書類上『魔物』になります」
『実際そうじゃないの?』
「市民記録に『魔物』という分類は存在しません」
『新しく作れば?』
「その一件のために行政分類を増やすのですか」
『最初って大体そういうものじゃない?』
役人は長く黙った。
「……では、暫定的に《知性迷宮種》という区分を設けます」
『ちょっと堅いけど、いいんじゃない』
「後世に残りますので」
『そういうこと言われると急に怖くなるな』
こうして、一枚の紙が作られた。
名前、ミラ。
出身、迷宮。
種族、知性迷宮種。
居住地、オラリオ西区。
保護・保証機関、ギルド及びオラリオ大聖堂。
たった一枚。
しかし、それは人類史上初めて。
魔物と呼ばれてきた存在が。
討伐記録ではなく。
住民台帳へ記された瞬間だった。
*
ミラが最初に街へ出た日は、護衛が多かった。
表向きは警護というより、事故防止のための同行者である。
ベル。
ギルド職員。
教会の司祭。
さらに少し離れたところに、変装したハインケル。
「なんで俺まで」
『何かあったとき一番冷静そうだから』
「アンデルセンは?」
『目立つ』
「由美江は?」
『もっと目立つ』
「納得」
ハインケルは遠くから様子を見る役目を引き受けた。
ミラは緊張していた。
だが。
街の方も同じだった。
事前に告知していたため、商店は知っている。
しかし、知識と実物は違う。
人々は見る。
目を逸らす。
また見る。
子供が母親の後ろへ隠れる。
冒険者が反射的に武器へ手をやり、隣の仲間に止められる。
ミラは何も言わず歩いた。
最初の目的地はパン屋だった。
「何が欲しい?」
ベルが尋ねる。
「甘いもの」
「ウィーネと同じだね」
「地上の甘いものは人気」
「ゼノスの間で?」
「そう」
ベルは思わず笑った。
パン屋の主人は、その会話を聞いていた。
「……それなら、蜂蜜入りがある」
ミラが主人を見る。
「買える?」
「金があればな」
ミラはギルドから支給された小銭を出した。
「これで足りる?」
「足りる。お釣りだ」
「お釣り」
「多く払った分が戻ってくる」
「知ってる」
「……そうか」
主人は少し気まずそうに咳払いした。
「悪かった」
「何が?」
「何も知らねえと思ってた」
ミラは少し考えてから答えた。
「知らないことは多い」
「俺もだよ」
それで会話は終わった。
*
最初の一週間。
何も起きなかった。
二週間目。
落書きがされた。
ミラの住む共同住宅の壁に。
《魔物は迷宮へ帰れ》。
ギルドは犯人捜索を始めた。
神聖四文字は報告を受けたが、怒るより先に尋ねた。
『ミラは?』
「落書きを消そうとしております」
『本人が?』
「はい」
『誰か一緒にいる?』
「司祭が」
『なら、とりあえずそれで』
数日後。
犯人は見つかった。
十七歳の少年だった。
父親を迷宮で失っている。
捕まったとき。
少年は泣いていた。
「何で魔物を守るんだ!」
裁判にするほどの事件ではない。
壁への落書き。
損害も小さい。
それでも。
ミラ本人が話したいと言った。
*
「あなたのお父さん、私が殺した?」
ミラは尋ねた。
少年は顔を上げなかった。
「違う」
「私と同じ種類?」
「知らない」
「じゃあ、私を嫌う理由は?」
「魔物だからだよ!」
「そう」
ミラは怒らなかった。
「私は、人間が怖い」
少年が初めて顔を上げた。
「仲間を殺した人間がいる。笑いながら殺した人間もいる。だから最初、地上へ来るのは怖かった」
「……だから何だよ」
「でもベルは違った。司祭も違った。パン屋も違った。だから、人間全部を同じにしないことにした」
少年は何も言わない。
「あなたも、今すぐ私を好きにならなくていい」
「なるわけない」
「うん。でも、壁は汚さないで」
その言葉があまりにも普通だったので。
少年は。
少しだけ。
困った顔をした。
*
ミラは住み続けた。
一か月。
三か月。
半年。
最初は毎日報告が上がった。
次に週一回になった。
やがて月一回になった。
何も起きない日々は。
記録する価値を失っていった。
神聖四文字は、そのことを喜んだ。
『最近ミラの報告少ないね』
「問題が起きておりませんので」
『いいことだ』
「はい」
『何も起きないって、すごいね』
ヨハネスが静かに笑った。
「制度とは本来、そのためのものでございます」
*
だが。
次の問題は。
ミラ自身から出た。
「冒険者になりたい」
ギルド職員が固まった。
「なぜです」
「ダンジョンへ戻りたいから」
「帰還するだけなら――」
「違う。冒険者として」
「あなたは迷宮出身ですよ」
「だから?」
「魔物を倒すことになります」
「分かってる」
「同族かもしれません」
「全部が仲間じゃない」
ギルド職員は言葉に詰まった。
ミラは続ける。
「人間は、人間と戦うでしょう」
「……戦います」
「神の眷族も、他の神の眷族と戦う」
「あります」
「なら、迷宮から生まれたからって、全部を仲間にしなくてもいい」
理屈は通っていた。
感情的には。
ひどく奇妙だった。
*
神聖四文字は、その申請を聞いて少し笑った。
『来たね』
「何がでございますか」
『ヨハネスが言ってたやつ。住民にしたら次は仕事、契約、その次はって』
「予想より早かったようです」
『冒険者登録、できない理由ある?』
「現行規則では、種族による排除規定はございません」
『じゃあできるじゃん』
「ただし、冒険者が魔物を討伐して収入を得る制度へ、魔物由来の存在が参加することになります」
『本人がいいならよくない?』
「神学者が喜びそうな問題ですな」
『喜ばせたくないなあ』
最終的に。
ミラは試験登録を認められた。
ただし。
ファルナは持たない。
十字教の洗礼も受けていない。
ゼノスとしての身体能力だけで迷宮へ入る。
パーティーを組むかどうかも自由。
職業欄には。
《冒険者》。
種族欄には。
《知性迷宮種》。
また一つ。
奇妙な記録が増えた。
*
「ベル」
初めて冒険者装備を身につけたミラが言った。
「何?」
「一緒に潜って」
「僕と?」
「最初だから」
「もちろん」
ベルは笑った。
ヘスティアは、その話を聞いて複雑な顔をした。
「ベル君」
「はい」
「君、本当にどんどん変な友達増えるね」
「すみません」
「謝るところじゃないけどね」
ヘスティアはため息をつき。
少し考えた後。
「ちゃんと帰ってくるんだよ。二人とも」
「はい」
「うん」
ミラも答えた。
ヘスティアは、その返事を聞いて。
少しだけ笑った。
*
その頃。
パチカンの地下では。
第十三騎士団が別の報告を受けていた。
「ゼノスを狙う集団?」
ハインケルが尋ねた。
マクスウェルが書類を机へ置く。
「正確には、捕獲を目的としている可能性があります。知性ある魔物。地上では希少。研究材料、見世物、奴隷、戦闘用。価値を見出す者が現れるのは当然でしょう」
由美江の顔が険しくなった。
「売るのか」
「そのつもりの者もいるでしょう」
「主は禁じられた」
「だから我々の仕事になる」
アンデルセンは黙って報告書を読んでいた。
「相手は」
「まだ特定できておりません。ただし、オラリオ内部だけではない。西方にも買い手がいるようです」
「十字教徒か」
「可能性はあります」
由美江が険しい顔をする。
「ならば異端――」
「犯罪者です」
アンデルセンが先に言った。
由美江は口を閉じた。
ハインケルが笑う。
「学習したな」
「うるさい」
マクスウェルは地図を広げた。
「主が地上へ道を開かれた。そして当然のように、その道を利用して金を稼ごうとする者が現れた。実に人間らしい」
「嬉しそうに言うな」
「嬉しくはありませんよ」
マクスウェルは微笑んでいた。
「ただ」
指先が。
地図上の一地点を押さえる。
「影で動く者を狩るのは、我々の仕事です」
*
神聖四文字はまだ知らなかった。
ゼノスを地上へ出すことは。
彼らを人間の善意へ触れさせることでもあり。
同時に。
人間の欲望へ晒すことでもある。
共存とは。
ただ仲良くなることではない。
守る法律が必要になる。
悪意を裁く制度が必要になる。
そして時には。
その法律が届かない場所で。
誰にも知られず。
悪意を止める者も必要になる。
表では。
一人のゼノスが。
冒険者として。
初めて迷宮へ向かっていた。
裏では。
第十三騎士団が。
その命を値札へ変えようとする者たちを。
静かに探し始めていた。