【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
ミラが冒険者として初めて迷宮へ入った翌朝、彼女の存在はすでに一部の商人たちの間で商品価値として語られていた。知性を持ち、人語を解し、契約まで理解する魔物。珍獣として見れば破格であり、研究材料として見ても価値がある。さらに戦闘能力まで備えているとなれば、金を出す者はいくらでもいる。本人が市民登録を受けたことも、ギルドが保証していることも、その種の人間にとっては障害ではなく、「所有者がいるなら奪えばよい」という程度の意味しか持たなかった。
最初に異変へ気づいたのはハインケルだった。ミラの護衛そのものはギルドが担当しており、第十三騎士団は表向き関与していない。しかし彼女の住居周辺で、同じ男が三日続けて異なる服装で現れた。尾行としては下手ではない。だが、教皇庁の影で生きてきた人間を相手にするには少し足りなかった。
「商人じゃないな。歩き方が護衛崩れだ。腰の位置を気にしすぎるし、路地へ入るたび出口を確認してる」
屋根の上から通りを見下ろしながら、ハインケルが小声で言った。隣にいる由美江は男を一瞥し、「斬る?」と聞く。ハインケルは即座に首を振った。
「斬るな。まだ何もしてない」
「怪しい」
「怪しいだけで斬ったら、俺たちが一番怪しい集団になる」
「もう十分怪しいでしょう」
「自覚があるなら助かる」
由美江は不満そうだったが、刀から手を離した。二人の下では、ミラが薬草園の仕事を終え、買い物袋を抱えて帰宅している。彼女自身は尾行に気づいていないようだった。だからこそハインケルは動かなかった。相手が何者なのかを知るには、もう少し泳がせる必要がある。
その夜、尾行役の男は西区の安宿へ入った。さらに二時間後、裏口から別の男が出て、歓楽街を抜けた先の倉庫へ向かう。倉庫の持ち主は表向き香辛料商だったが、数年前から違法奴隷取引への関与が疑われている。決定的証拠はなく、ギルドも市警も手を出せていなかった。
報告を受けたマクスウェルは、珍しく嬉しそうではなかった。
「なるほど。思ったより早い」
「予想していたのか」
アンデルセンが尋ねると、マクスウェルは机上の書類を指で叩いた。
「当然です。人間は、価値を見つければ値段をつける。希少であればなおさらです。聖遺物、魔剣、希少種、奴隷、果ては人の命まで。知性ある魔物だけ例外になると考える理由がありません」
「不愉快だな」
「同感です。しかし、不愉快だからこそ制度が必要になる」
そこで由美江が腕を組んだ。「制度では間に合わない時は?」と聞く。マクスウェルは一拍置き、「そのために我々がいる」と答えた。ただし、彼はすぐに条件を付け加えた。捕まえて終わりではない。誰が金を出し、誰が運び、どこへ売るつもりなのか。その網を一度に把握しなければ、別の人間が同じ仕事を引き継ぐだけだ。
*
ミラ本人には、すべてを知らせなかった。警戒対象がいることだけは伝えたが、囮として使うことは避ける。神聖四文字が最も嫌うやり方だからである。ただし、彼女は自分が狙われている可能性を聞くと、思ったほど怯えなかった。
「前にも言った。人間が全部いいとは思ってない」
ベルと一緒に教会の食堂で夕食を取っていたミラは、スープを飲みながら淡々と言った。ベルの方が明らかに顔色を変えている。
「でも、捕まえられたりしたら危ないよ」
「分かってる」
「しばらく外出を減らした方がいいかもしれない」
「嫌」
「即答!?」
ミラはベルを見る。「怖いから外に出ないなら、ダンジョンにいた時と同じになる」と言った。その言葉に、ベルは何も返せなくなる。彼女は続けて、「危険なら気をつける。でも、誰かが私を狙ったからって、私の生活を全部変えるのは違うと思う」と話した。
その言い方が、あまりにも地上の住民らしくて、ベルは少しだけ笑った。
「強いね」
「ベルほどじゃない」
「僕は結構怖がってるよ」
「知ってる」
「知ってるんだ……」
二人の会話を少し離れた席で聞いていた司祭は、何も口を挟まなかった。ただ、自分の皿へ目を落としながら静かに息を吐いた。半年前なら、教会の食堂で魔物と冒険者が同じ卓を囲んでいる光景など想像もしなかった。それが今では、少なくともこの場所では日常になりつつある。
*
動きがあったのは四日後だった。
ミラが薬草園から戻る途中、いつもの道を外れたところで荷馬車が道を塞いでいた。御者が車輪を直すふりをし、通行人を迂回路へ誘導している。ミラも同じように細い裏路地へ入ったが、そこで前方から二人、後方から三人の男が現れた。
「騒ぐな」
先頭の男は低い声で言った。手には布と小瓶がある。
「怪我はさせない。眠ってもらうだけだ」
ミラは周囲を見た。逃げ道は一つしかない。屋根の上には誰も見えない。
「私を売るの?」
男たちの動きが一瞬止まった。
「……話が早いな」
「最近、警戒するように言われた」
「なら抵抗しないことだ。こっちも高く売れる方がいい」
その言葉で、ミラの表情が変わった。
「私は物じゃない」
男の一人が舌打ちした。「知ってるよ。喋るから高いんだ」と言いながら距離を詰める。次の瞬間、彼の足元へ細い金属片が突き刺さった。男が動きを止める。
「そこから先は、あまりおすすめしない」
屋根の上から声がした。
ハインケルだった。
ただし彼は銃を持っていない。人目のある地上で、しかも正体を伏せた任務である。手にしているのは小型の投擲刃だけだった。
「誰だ!」
「通りすがりの教会関係者」
「そんなわけあるか!」
「分かってるなら聞くなよ」
男たちが散開する。しかし、その時には由美江が路地の出口に立っていた。普段の黒装束ではなく、市民に紛れるための地味な外套姿である。刀も布で巻かれ、一見して武器とは分からない。
「退け」
由美江の声は静かだった。
「今なら、骨の数はそのまま帰れる」
男たちは迷った。前には由美江、上にはハインケル。さらに奥から足音が聞こえてくる。ギルドの巡回員かもしれない。
「行け!」
誰かが叫び、男たちは左右へ散った。二人は由美江に向かい、残りは壁を越えようとする。由美江は刀を抜かなかった。最初の男の腕を取り、その勢いのまま地面へ投げ、二人目の膝を蹴って崩す。ハインケルも屋根から飛び降り、逃げようとした男の肩を押さえた。
「生け捕り。命令だ」
「分かっている」
由美江は倒れた男の手首を踏みながら答えた。
*
捕えられた者たちは、市警へ渡された。しかし、それだけでは終わらなかった。第十三騎士団は、男たちの連絡先と金の流れを別に追っていた。表の捜査では辿れない部分を、影から拾い上げていく。
買い手は一人ではなかった。
希少種を収集する貴族。
魔物の知性を研究したい魔術師。
闘技場へ売ろうとする商人。
そして、ゼノスを兵器として利用できないかと考える軍事関係者。
西方の十字教圏にまで、その話は広がっていた。
報告書を読んだ神聖四文字は、長いこと何も言わなかった。マクスウェルはその沈黙を急かさず待つ。
『……俺たちが地上に出したから、狙われたんだよね』
「それは事実の一部にすぎません」
『でも原因にはなってる』
「地上に出なければ、確かにこの件は起きなかったでしょう。しかし、それは彼らが自由を得ないことと同義です」
『分かってる』
神聖四文字は少し間を置いた。
『助けるって、難しいな』
「今さらでございますか」
『今さらだね』
そこでマクスウェルが少しだけ笑った。
「主は、救済という言葉を好まれませんな」
『だって、助けた側が偉くなりすぎる言葉に聞こえる』
「では保護ですか」
『それも上からっぽい』
「共存」
『一番近い。でも、共存って綺麗すぎる』
「では何と」
神聖四文字は考えた。
『普通に生きられるようにする、かな』
マクスウェルはその言葉を少しだけ反芻した。
「なるほど。随分と厄介な目標です」
『そう?』
「普通というものは、最も維持に金と手間がかかります」
『……嫌なこと言うね』
「職業柄です」
*
事件を受けて、オラリオでは新しい規定が作られた。
知性迷宮種に対する誘拐、売買、強制拘束は、人間に対するものと同じ犯罪として扱う。研究目的であっても本人の同意なしに拘束、解剖、実験を行ってはならない。雇用契約や冒険者契約も本人の意思を必要とする。
文章にすれば、それだけだった。
だが、その規定を通す会議は長引いた。
「人間と同じ刑罰を適用するのですか」
議員の一人が尋ねた。
「同じ犯罪なら」
ギルド側の法務担当者が答える。
「しかし相手は魔物です」
「その言葉は、理由になりません」
「危険性が違う」
「危険性が高い個体への管理規則は別に設ければよい。誘拐していい理由にはならない」
議論は何度も同じ場所を回った。
やがて、一人の老議員が小さく手を上げた。
「私は、この制度に賛成しているわけではない」
全員がそちらを見る。
「だが、市民登録を認めたのは我々だ。税を取り、規則に従わせ、犯罪を犯せば処罰すると決めた。それなら、犯罪から守らないというのは筋が通らん」
その言葉で、空気が少し変わった。
好きか嫌いかではない。
仲間だと思うかどうかでもない。
制度へ入れた以上、制度の側にも責任が生まれる。
それは誰かを愛することより、ずっと地味で。
そして、ずっと重かった。
*
事件から一週間後、ミラはまた同じパン屋へ行った。
主人は彼女を見るなり、眉を寄せた。
「大丈夫だったのか」
「うん」
「怖くないのか?」
「怖い」
「なのに来たのか」
「蜂蜜のパン食べたいから」
主人はしばらく黙り、それから店の奥へ引っ込んだ。
「今日は焼きたてがある」
「高い?」
「同じだ」
「よかった」
主人は紙袋へパンを入れながら、小声で言った。
「……変な奴に声かけられたら、店に逃げ込め」
ミラが目を瞬く。
「守ってくれる?」
「戦えねえよ。裏口から逃がすくらいはできる」
「ありがとう」
「礼はいらん。客が攫われると評判が悪い」
「じゃあ、また買いに来る」
「そうしろ」
それだけだった。
友情と呼ぶには、まだ遠い。
だが、隣人と呼ぶには。
たぶん、十分だった。
*
一方その頃、パチカンでは別の問題が始まっていた。
オラリオから届いた「知性迷宮種保護規定」の写しが、一部の神学者たちの手に渡ったのである。
「魔物を人と同じ法で守る?」
「教義に反するのではないか」
「迷宮そのものに意思があるという噂もある」
「聖地が汚染されているのではないか」
まだ小さな囁きだった。
神聖四文字が迷宮で何を見たのか、知る者はほとんどいない。ゼノスの存在も、西方では断片的な情報しか伝わっていなかった。
だからこそ。
空白には。
人々の想像が入り込む。
ある者は奇跡だと言った。
ある者は異端だと言った。
ある者は、聖地が魔物に奪われつつあると言った。
そして、その言葉を聞いた一人の若い司祭が。
古い歴史書を開いた。
そこには。
かつてオラリオを救った軍勢のことが記されていた。
後世の人々が。
《第一回十字軍》と呼ぶことになった遠征だった。
司祭は、その名を指でなぞりながら。
長いあいだ考えていた。
力尽きたんやでえ。。。いつか改稿したのを表でアップロードするかもしれません。
ありがとうございました。