【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
ラグナル伯の居城は、パチカンの人々が想像していたほど大きくなかった。二重の石壁に囲まれてはいるものの、城というより堅固な館に近い。丘の上という立地を利用し、麓には領民の家々が密集していた。城門の前には槍を持った兵士が二列に並び、その数は百に満たない。武具も不揃いで、鉄兜を持たない者さえいる。一方、白銀の鎧をまとったパチカンの使節団は十五人全員がほぼ同じ装備で揃っていた。その対照は、双方が何も言わずとも目についた。
使節を率いる枢機卿マティアスは、門の手前で馬を降りた。六十を越えているように見える痩身の老人で、赤い法衣の上から旅用の外套を羽織っている。見た目だけなら武人にはほど遠い。だが、その後ろに控える騎士たちと同じく、彼もまたこの世界の基準では尋常ではない力を持っている。本人はそのことを意識していないのか、城を見上げても特に警戒した様子はなかった。
「武器を預けていただきたい」
門を守る兵士にそう告げられ、護衛騎士の一人がマティアスへ視線を向けた。マティアスはしばらく考えたあと、穏やかに首を振った。
「申し訳ありませんが、騎士に武器をすべて手放させることはできません。ただし、謁見の間へ入るのは私と二名だけにいたしましょう。残りは城外で待機させます。それでいかがですかな」
「武器を持ったまま伯の御前へ出るつもりか」
「それでは、護衛二名については剣を鞘ごと封じましょう。私は武器を所持しておりません。互いに初対面なのですから、片方だけが完全に無防備になる必要もございますまい」
門衛は困ったように同僚と顔を見合わせた。通常なら拒絶すべき要求なのだろう。しかし、目の前にいる一行が十二人で砦を落とした連中と同じ組織に属していることは、すでに城内の兵にも伝わっている。無理に武器を取り上げようとして騒ぎになれば、自分たちに止められるのか。それを考えたらしい。やがて上役への確認が取られ、条件付きで入城が認められた。
マティアスは二人の騎士を連れ、城内へ入った。石壁の内側は外から見るより狭く、兵舎、厩舎、倉庫が肩を寄せ合うように並んでいる。井戸の近くでは女たちが洗濯をしていたが、赤い法衣の老人を見るなり手を止めた。中には胸元で何らかの印を結ぶ者もいる。おそらく、この土地の信仰に基づく仕草なのだろう。マティアスは興味深そうに一度だけ目を向けたものの、何も言わずに通り過ぎた。
謁見の間で待っていたラグナル伯は、五十歳前後の大柄な男だった。上等な服を着てはいるが、その手は剣を握る者の手をしていた。左右には家臣が並び、先日パチカンへ赴いたエドガーもその中にいる。玉座というほど立派ではない椅子に腰掛けた伯は、マティアスが部屋へ入ってくるなり、その全身をじろじろと眺めた。
「お前が、あの白い都の使者か」
「パチカン枢機卿、マティアスと申します。本日は我らが教皇の命により参りました」
「教皇の命、か。お前たちを支配しているのは、その教皇という男ではないと聞いたが」
「左様でございます。教皇猊下は教会と地上の政務を預かる者にすぎません」
「では、その上にいるという者は何者だ。王ではない、公爵でも皇帝でもない。お前たちは神だと言うそうだな」
マティアスは一瞬だけ沈黙した。その態度は、それまでよりわずかに慎重だった。
「その件について軽々しく申し上げることはできません。我らが主の御名も、教外の方へお教えすることは許されておりませんので」
伯の眉が動いた。
「名前すら言えぬ神を信じているのか」
「名を知らぬのではありません。御名を知ることそのものが許されていない者が多いのです。我々にとって、それほど重い名であるということです」
「面倒な宗教だな」
「その点については、否定いたしません」
思いがけない返事だったのか、伯は少しだけ目を見開いた。家臣の何人かも、何とも言えない顔をしている。
「では本題だ。お前たちは私の領内へ武装して入り、砦を潰した。そのうえ奴隷を勝手に連れ去った。言い分があるなら聞こう」
マティアスは用意していた書状を従者から受け取り、伯の前へ差し出した。「我々の認識を申し上げます。まず、砦には多数の人間が本人の意志に反して拘束されておりました。逃亡を図った者が殺害され、見せしめとして吊るされていたことも確認しております。また、複数の者が周辺集落から力ずくで連れ去られたと証言しています。こちらは最初から武力を用いたわけではありません。彼らの解放について交渉を求め、先方が我らの使者へ攻撃したため、やむなく制圧いたしました」
「奴隷を持つことは、この土地では禁じられていない」
「承知しました」
「なら返せ」
「それはできません」
マティアスはごく静かに答えた。
伯の顔が険しくなる。
「私の法を認めると言いながら、従わないというのか」
「認めるとは申し上げておりません。この土地にそのような法が存在することを理解した、と申し上げただけです。我々には我々の法がございます。そして、我らの保護を求めた者を、本人の意思に反して引き渡すことはできません」
「ここは私の領地だ」
「その点も議論が必要でしょう」
室内の空気が冷えた。
伯の右隣に立つ騎士が一歩前へ出かけ、エドガーが小さく手で制した。
「何を言いたい」
「パチカンが現在存在する土地について、貴殿が領有権を主張しておられるのかを確認したいのです。もしそうであるなら、その根拠も伺いたい」
「この一帯は代々ラグナル家が治めてきた」
「パチカンの立つ土地にも、村や砦があったのでしょうか」
「いや。あそこは荒野だ」
「税を徴収していた者は」
「いない」
「境界を示す標、常駐する兵、住民はいかがです」
「……いない」
「では少なくとも、我々がそこへ現れたことで、貴殿の住民を追い出した事実はないと理解してよろしいでしょう」
伯は返事をしなかった。
マティアスは追い詰めるような調子ではなく、あくまで事実を確認するように話していた。それがかえって伯には気に入らないらしい。
「随分と口の回る神官だな」
「職務ですので」
「しかも、腕も立つらしい」
「私は神学と行政を専門としております。剣は不得手です」
「レベル六十三だそうだな」
今度はマティアスが目を見開いた。
「どこで、その言葉を?」
「捕虜が話していた。お前たちの兵は、人間の強さを数字で呼ぶそうじゃないか」
マティアスの表情から、わずかに笑みが消えた。
ラグナル伯はそこを見逃さなかった。
「図星か」
「……我らに、そのような体系が存在することは事実です。ただし詳細を外部へ開示する権限は、私にはございません」
「六十三というのは強いのか」
「それもお答えできません」
「砦を落とした連中は?」
「お答えできません」
「秘密ばかりだな」
「突然現れたばかりの国に軍事機密をすべて明かせと求められても、お困りになるのは伯も同じでしょう」
今度はラグナル伯が黙った。
やがて、低く笑った。
「なるほど。お前たちを狂信者だけだと思っていたが、少し違うらしい」
「狂信者もおります」
マティアスは真顔で答えた。
その場にいた誰も、それが冗談かどうか判断できなかった。
伯は口元を歪めたあと、椅子の肘掛けに指を打ちつけた。「それで、お前たちは何を求める。奴隷は返さない。砦の者については交渉する。そこまでは聞いた。まさか、それだけの話をするために十五人も騎士を連れてきたわけではあるまい」
「まず、相互に武力を用いないこと。次に、双方の住民が行き来できるよう街道の安全を確保すること。さらに、交易について協議したいと考えております」
「交易?」
「我々には薬、工具、布、金属製品などがあります。逆に、こちらではこの土地の穀物、家畜、塩、木材などを必要としております。互いに得るものはあるでしょう」
「金は何を使う」
マティアスは少し考えた。
「その点が問題でして。こちらの貨幣が貴国で通用するとは思えませんので、当面は物々交換が現実的かと」
「国を名乗るわりには妙な話だな」
「事情がございます」
「どんな事情だ」
「それは申し上げられません」
伯は天井を仰いだ。
「本当に秘密ばかりだな、お前たちは」
「申し訳ありません」
「謝る顔ではないな」
「よく言われます」
エドガーが思わず下を向いた。笑いを堪えたらしい。
話し合いはその後も一刻以上続いた。拘束した砦の男たちについては、ラグナル伯側へ引き渡す。ただし、被害者への報復を行わないこと、今後パチカンの庇護下に入った者を連れ戻そうとしないことが条件となった。奴隷売買そのものを止めるようパチカン側は要求したが、伯は拒絶した。この時代の経済と身分秩序の一部になっている以上、伯一人が命じれば消えるものではないという。マティアスもそれ以上は押さなかった。
妥協だった。
パチカンにとっては、不愉快な妥協だった。
ラグナル伯にとっても、到底満足できる内容ではなかった。
だからこそ、合意できた。
最後にラグナル伯は、署名する前の羊皮紙を眺めながら尋ねた。
「一つ、私的に聞きたい」
「何でしょう」
「お前たちの神は、どこにいる」
マティアスは少し考えた。御名を明かすことは許されていない。しかし、存在そのものは秘匿されていない。
「パチカンに」
伯の手が止まった。
「……神殿に像がある、という意味ではないぞ」
「承知しております」
「なら、もう一度聞く。お前たちが本当に神と呼んでいる存在は、どこにいる」
「ですから、パチカンにおられます」
伯は長い間、マティアスの顔を見た。
「生きているのか」
「その表現が適切かは分かりませんが、我らに御言葉を下されます」
「お前は、直接会ったことがあるのか」
「ございます」
「話したことも?」
「毎日のように」
室内から音が消えた。
ラグナル伯は、これまで初めて少しだけ顔色を変えた。
「……どんな姿をしている」
マティアスは答えに迷った。
神の御姿を語ること自体は禁じられていない。しかし、どう表現したものか。
「黒い御方です」
「黒い?」
「完全な黒です」
「人の姿か」
「いいえ」
「では何だ」
マティアスは数秒考えた末、正直に答えた。
「球体であらせられます」
「…………」
「…………」
「……今、何と言った?」
「球体です」
長い沈黙があった。
エドガーが額を押さえていた。
伯は何かを言おうとしたが、結局やめた。
「もういい」
「左様ですか」
「ああ。その話は、もういい」
こうして、パチカンとラグナル領の最初の外交交渉は終わった。
*
城を出たマティアス一行を、ソフィアは上空から追っていた。
使節が城内にいるあいだ、彼女は周辺の集落を観察していた。領都には市場があり、鍛冶場があり、家畜を売る場所もある。その一角には人間を売る場所もあった。首に縄をつけられた者たちが並べられ、買い手が身体を調べている。
ソフィアは、長いあいだ空からそれを見ていた。
主は、現地の人間を見下すなと言った。
だから、彼女は見下さなかった。
理解しようとした。
なぜ人間が人間を売るのか。なぜ、それを周囲の人間は当たり前のものとして見ているのか。売られている者も、必ずしも暴れてはいない。諦めている者、泣いている者、何も感じていないような目をした者がいる。
パチカンならば起こらない光景だった。
少なくとも、主が許しはしないだろう。
では、この人々は悪なのか。
ソフィアには分からなかった。
生まれたばかりの彼女には、世界を善と悪の二つに分けるための経験が足りなかった。
ただ、一つだけ理解できたことがあった。
主は、こういうものを見たとき、きっと困る。
怒るのではない。
まず困る。
どうするのが正しいのか分からず、それでも目を逸らすこともできず、結局は誰かを助けようとして、さらに面倒なことを背負い込む。
ソフィアは、わずかに笑った。
そしてその瞬間、遠くから悲鳴が聞こえた。
市場の喧騒とは違う。
外壁の向こう。
さらにその先。
ソフィアは翼を広げ、一気に高度を上げた。
街道の南から、何かが近づいている。
最初は土煙に見えた。
だが違った。
土煙を上げながら走っているのは、数十体の魔物だった。狼に似たもの、人型のもの、そしてその中央には、周囲より明らかに大きな一体がいる。
その進路上に、小さな村があった。
マティアスたちも、まだ気づいていない。
ソフィアは一瞬だけ迷った。
命令を思い出す。
見ること。
聞くこと。
覚えること。
戦うことは優先しない。
だが。
目の前で人が死にかけているなら。
「……主なら、どうなさるでしょう」
答えは、考えるまでもなかった。
白い翼が翻った。