【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
村は、領都から南へ半日の距離にあった。家は三十戸にも満たず、低い土塀と木柵が集落を囲んでいる。見張り台は一つだけで、そこに立っていた少年が最初に魔物の群れを見つけた。警鐘代わりの鉄板がけたたましく打ち鳴らされると、畑にいた者たちは鍬を捨て、子供を抱き、家畜の縄を切って村の中央へ走った。普段なら柵の内側へ逃げ込めば多少の時間は稼げる。だが、この日の群れは数が多すぎた。
狼型の魔物だけでも三十を越えている。その後ろから、棍棒を持った人型の異形が続いていた。さらに群れの中央には、頭一つどころか二つは大きい個体がいる。全身を灰色の毛で覆われ、腕は異様に長い。歩くたびに地面が揺れ、他の魔物はそれを避けるように走っていた。
村には武器を扱える男が十二人いた。そのうち本当に兵士として訓練を受けた経験がある者は、三人しかいない。彼らは倉庫から槍と弓を引っ張り出し、木柵の内側へ並んだ。逃げるという選択肢もあったが、老人や幼い子供を連れて群れから逃げ切れるはずがない。男たちの顔には恐怖が浮かんでいたが、それでも誰も持ち場を離れなかった。
「矢は引きつけてからだ。狼から狙え。でかいのは後にしろ」
村長の息子が声を張った。三十を少し過ぎた男で、かつて領主軍に徴集されたことがある。彼は自分でも分かっていた。これは戦術ではない。ただ、最初に何をするかを決めておかなければ、皆が恐怖で動けなくなる。そのための言葉だった。
魔物の群れが木柵まで二百歩に迫ったところで、最初の矢が放たれた。一本は地面へ刺さり、二本は狼型の肩や脇腹に当たったが、倒すには至らない。二射目をつがえている間にも距離は縮まる。柵の内側で、誰かが祈り始めた。土地の神か、森の神か、それとも祖霊に向けたものかは分からない。似たような声があちらこちらから上がり、やがて泣き声と混じった。
巨大な個体が吠えた。
それだけで空気が震えた。
何頭かの狼が先行し、木柵へ飛びかかる。一頭が乗り越えかけたところを槍で突き落としたが、その直後に別の一頭が柵の隙間へ身体をねじ込んだ。男たちが二人がかりで押し返そうとしている間に、別の場所から悲鳴が上がる。もう一分も持たない。村長の息子はそう判断した。
「女と子供を北へ逃がせ! 俺たちがここで――」
最後まで言うことはできなかった。
白い何かが空から落ちてきた。
それは音もなく木柵の外へ着地した。白い髪、白い衣、背には翼。人の姿をしているが、人ではない。村人たちはもちろん、魔物たちでさえ一瞬動きを止めた。
ソフィアは正面に群れを見た。自分に与えられた能力を確かめるように、視界の中で一体ずつ捉える。狼型は低位。人型も大差ない。中央の大型だけが、パチカンの基準でレベル二十一から二十三程度。それでも、ソフィア自身にとっては脅威ではなかった。
問題は別にあった。
主から命じられたのは、観察と記録である。戦闘を優先するなとも言われた。しかし、目の前では村が襲われている。あの日、主は見知らぬ流浪民のために城門を開いた。そして砦に捕らわれた者たちを救うことも命じた。
ならば答えは一つしかない。
「退きなさい」
ソフィアは魔物へ向かってそう告げた。
当然、通じなかった。
先頭の狼が飛びかかってくる。ソフィアは右手を上げた。淡い光が指先に集まり、次の瞬間には細い光条となって狼の額を貫いた。身体は勢いを失ったまま地面へ落ち、煙のように崩れていく。その跡には、小さな結晶が残った。
後続の魔物たちは止まらない。
「警告はしました」
ソフィアは静かに言った。
白い翼が大きく広がった。
*
マティアスが異変に気づいたのは、帰路についてから四半刻ほど後だった。南の空が不自然に明るくなり、続いて遠くから低い破裂音が聞こえた。護衛騎士たちもほぼ同時に反応し、一行はその場で馬を止めた。
「何か起きています」
「方角は、先ほど通った村の先です」
騎士の一人がそう告げると、マティアスは眉を寄せた。直後、空の高いところで白い影が動くのが見えた。
「……ソフィア殿ですな」
「戦闘しておられるようです」
「主からは偵察を命じられていたはずですが」
「放置できない事情があったのでしょう」
マティアスは少し考え、それから手綱を南へ向けた。
「確認に参ります」
「ラグナル伯との合意直後ですが、よろしいのですか」
「だからこそです。彼の領内で何が起きているのかを知らずに帰るわけにはいきません。それに、ソフィア殿が介入された以上、説明も必要になるでしょう」
一行は進路を変えた。ほどなくして街道の向こうから、領都の兵士たちも馬で駆けてくるのが見えた。先頭にはエドガーがいる。互いに気づいたものの、挨拶を交わす暇はなかった。
「何があった!」
馬を並べるなりエドガーが尋ねた。
「我々も確認へ向かっているところです。南で魔物の群れが発生したようです」
「お前たちの仕業ではないのか」
護衛騎士の一人がわずかに眉を動かしたが、マティアスは平然としていた。
「我々が魔物を集める理由がございません。それより、あちらには村があったはずです」
エドガーの顔色が変わった。
「サリウ村か」
「名は存じませんが、三十戸ほどの集落でした」
「くそっ。あそこには兵がほとんどいない」
そこから先は競争のようになった。ラグナル側の騎兵とパチカンの使節団が並んで街道を駆ける。もっとも、速度を合わせていたのはパチカン側である。彼らが本気で馬を走らせれば、現地の馬ではついてこられない。マティアスはそれを意識しているのか、護衛に速度を上げるよう命じなかった。
村が見えたころには、戦闘はほとんど終わっていた。
木柵の外には魔石らしき結晶が点々と転がっている。土は抉れ、ところどころ焦げていた。生き残った魔物が数体だけ森へ逃げ込もうとしていたが、その頭上を白い光が横切ると、次々に倒れて消えた。
そして村の前には、一人の少女が立っている。
背に白い翼を広げたまま。
エドガーは馬上で固まった。
「……何だ、あれは」
マティアスは何でもないことのように答えた。
「天使です」
「何だと?」
「天使でございます」
「いや、言葉の意味は分かる。どうして天使がそこにいる」
「主がお創りになられたからでしょう」
エドガーはマティアスを見た。
それからソフィアを見た。
再びマティアスを見た。
「お前たちは、そういう冗談を平然と言う文化なのか」
「冗談ではございません」
「……そうか」
エドガーは何かを諦めたようだった。
*
村人たちは、誰もソフィアへ近づこうとしなかった。
助けられたことは理解している。だが、それと恐怖は別だった。人の姿をした存在が空から降りてきて、数十体の魔物をほとんど一人で消し去ったのである。しかも背中には翼がある。村人が知るどの種族にも当てはまらない。
ソフィア自身も困っていた。
戦闘は終わった。負傷者もいる。ならば治療を手伝えばよいと思ったのだが、近づくと皆が後ずさる。泣いている子供など、母親の服へ顔を押しつけてしまった。
「恐れる必要はありません」
そう言ってみたが、むしろ悪化した。
そこへマティアスたちが到着した。
ソフィアは明らかにほっとした顔をした。
「枢機卿猊下」
「御無事で何よりです。これは、あなたが?」
「はい。群れが村を襲っていたため、排除いたしました」
マティアスは周囲を見渡した。倒壊した柵はあるが、家屋の被害は少ない。地面には血が残っているものの、村人側の死者は見当たらなかった。
「村の方に死者は?」
「戦闘開始時点で一名。私が到着する前に魔物に襲われております。重傷者が五名おります」
「治療は」
「試みようとしたのですが」
ソフィアがわずかに視線を動かした。
その先にいた村人たちが、いっせいに目を逸らした。
マティアスは事情を察した。
「なるほど」
そこへエドガーが近づいてきた。彼はソフィアから一定の距離を保ったまま立ち止まり、しばらく翼を見つめていた。
「……お前は、その、天使なのか」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「誰の」
ソフィアは答える前に、マティアスへ視線を向けた。神名について口にしてよいか確認したのだろう。マティアスが小さく頷く。
「唯一なる主に創られました」
「名前は」
「ソフィアです」
「いや、お前のじゃない。神の」
ソフィアの表情が消えた。
その変化はわずかだったが、マティアスには分かった。
「エドガー殿」
穏やかな声で割って入る。
「その問いはなさらない方がよろしい」
「どうしてだ。神なら名前くらいあるだろう」
「ございます。ただし、御名を知ることを許されていない者が大半です。我々の側でもそうなのですから、教外の方に気軽にお伝えすることはできません」
「……面倒だな」
「先ほど伯も同じことをおっしゃいました」
それを聞いて、エドガーは少しだけ笑った。ようやく場の緊張が緩む。
マティアスは村人たちへ向き直った。
「まず負傷者を診せてください。我々の治療術が役に立つと思います。費用は求めません」
村長らしき老人が、恐る恐る前へ出た。
「本当に、何も取らないのですか」
「何も」
「代わりに、その……神さまを信じろとか」
マティアスは少し驚いたあと、穏やかに笑った。
「信仰は強制するものではありません。少なくとも、我らが主はそれを望まれません」
その言葉を聞いて、ソフィアがわずかに頷いた。
彼女にとって、それはすでに知っていることだった。
*
治療が始まると、村の空気は少しずつ変わった。
パチカンの騎士たちは鎧を脱ぎ、崩れた柵を直すのを手伝った。ソフィアも負傷者へ治癒術を使った。最初は身を固くしていた村人たちも、傷が塞がっていくのを見ると、恐怖より驚きの方が勝ったらしい。やがて子供の一人がソフィアの翼へ興味を示し始めた。
「触ってもいい?」
母親が慌てて子供の手を引いた。
「何を言ってるの!」
ソフィアは少し考えた。
「構いません」
「え?」
「翼ですね。触れても害はありません」
子供は母親の手を振りほどき、そっと羽毛へ触れた。柔らかいことが意外だったのか、目を丸くする。
「鳥みたい」
「構造は近いと思います」
「飛べるの?」
「飛べます」
「すごい」
ソフィアは少し困ったように首を傾げた。
「それほどでしょうか」
「すごいよ。僕、飛べないもん」
その言葉に、ソフィアはしばらく何も答えなかった。
人間は飛べない。
言われてみれば当然のことだった。
だが彼女にとって、翼を持ち、空を飛ぶことは生まれたときから当たり前だった。
「そうですね」
ようやくそう答える。
「では、私は少し珍しいのでしょう」
少年は笑った。
それを見ていた村人たちからも、小さな笑いが漏れた。
少し離れた場所で、マティアスとエドガーはその様子を眺めていた。
「お前たち、本当にあれを作ったのか」
エドガーが低い声で尋ねた。
「正確には、我らではありません」
「お前たちの神が?」
「はい」
「人を作れるのか」
「天使を、でございます」
「人と何が違う」
マティアスはすぐには答えなかった。
「私にも分かりません」
意外な返事だったのか、エドガーが眉を上げる。
「分からないのか」
「我々はすべてを知っているわけではございません。信仰とは、知らないことがなくなることではありませんので」
「神官らしくないことを言う」
「よく言われます」
二人はしばらく黙って、村人と話すソフィアを見ていた。
やがてエドガーが言った。
「今日のことは、伯に報告しなければならない」
「当然でしょう」
「天使が現れた、と書くことになる」
「事実ですから」
「誰も信じないぞ」
「ご自身も、まだ半分ほどしか信じておられないでしょう」
エドガーは否定しなかった。
*
パチカンへ報告が届いたのは二日後だった。
『……天使を作った次の日に、もう人前で戦ったの?』
大聖堂の奥で、神聖四文字の声が少しだけ低くなった。
ソフィアは跪いていた。
「申し訳ございません」
『いや、怒ってるわけじゃない。村を助けたのはいい。たぶん俺でもそうした』
「では」
『問題は、天使がいるって向こうに全部バレたこと』
ソフィアは少し考えた。
「隠す必要がございましたか」
『……そう言われると、別に完全に隠す必要はないんだけど』
神聖四文字は困った。
天使はパチカンでは珍しくない。大聖堂の中には何体もいるし、十一番目の騎士団には天使を含む部隊も存在する。しかし現地人からすれば、まったく違う意味を持つ。
『たぶんさ、俺たちが思ってるより「天使が本当にいる」って情報は重いんだよ』
「なぜでしょう」
『宗教って、普通は信じるものだから』
「我らも信じております」
『そうなんだけど、俺たちの場合、証拠が多すぎるんだよ』
自分で言って、神聖四文字は気づいた。
十字教は、現地の宗教とは根本から違う可能性がある。
神は実際にいる。
信仰すればゲーム由来の成長システムへ接続される。
聖職者は奇跡を使う。
そして天使まで実在する。
もし、この世界の神々がまだ地上にいない時代なのだとしたら。
十字教だけが、あまりにも分かりやすく「神の存在」を証明してしまう。
『……まずいな』
「何がでございますか」
『いや、長い目で見ると、たぶんこれ、めちゃくちゃ布教が強い』
「それは喜ばしいことでは?」
ソフィアは純粋に不思議そうだった。
『そういうところなんだよなあ』
神聖四文字は小さく嘆息した。
本人には肺も口もなかったが、気分としては間違いなくため息だった。
『とにかく、今後も人助けはしていい。ただし、自分から奇跡を見せびらかさないこと。改宗を迫るのも禁止。相手が信じたいと言っても、まず本人の意思をきちんと確認する。いいな』
「御意」
ソフィアは素直に頭を下げた。
それから少しだけ顔を上げる。
「主。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
『何?』
「主は、十字教徒が増えることを望まれていないのでしょうか」
難しい質問だった。
神聖四文字はすぐには答えなかった。
『増えること自体は、別に嫌じゃないよ』
「では、なぜそれほど慎重になられるのでしょう」
『信じるって、たぶん本人が決めないと駄目だから』
ソフィアは黙って聞いている。
『俺たちは強い。飯もある。治療もできる。天使もいる。しかも改宗すれば職業とレベルまで手に入る。その状態で「信じろ」って言ったら、それって信仰なのか、脅しなのか、取引なのか分からなくなるだろ』
ソフィアは長いあいだ何も言わなかった。
「難しいのですね」
『俺もよく分かってない』
「主でも?」
『俺だから、かも』
それを聞いて、ソフィアは初めて少し笑った。
*
サリウ村の出来事は、すぐに周辺へ広がった。
白い翼の少女が空から降り、魔物を滅ぼした。
傷ついた者に触れると、傷が塞がった。
その少女は、西に突然現れた白い都市から来た。
そして、その都市には人の姿を持たない神がいる。
噂は、人から人へ渡るたびに少しずつ形を変えた。
やがて「天使を従える黒い神」という言葉が生まれた。
もっと遠くでは、「死者を蘇らせる神」とまで語られた。
もちろん、誰も死者など蘇らせていない。
だが、噂とはそういうものだった。
さらにひと月が過ぎるころには、パチカンの西門へ、流浪民とは明らかに違う人々が現れるようになった。
病人を背負った家族。
歩けない子供を抱く母親。
目の見えない老人。
そして、ただ一度でよいから天使を見たいという者。
彼らは難民ではなかった。
巡礼者だった。
城門を守る騎士は、日に日に伸びていく列を見ながら、困り果てていた。
「どうするんだ、これ」
隣の兵士が答えた。
「上に聞け」
「昨日も聞いた」
「何と?」
「主は『なんでこうなった』と仰せられたそうだ」
二人は列を見た。
その先は、もう街道の曲がり角まで続いていた。
「……神様も困ることがあるんだな」
「不敬だぞ」
「でも実際、困っておられるんだろ」
「それは……そうだが」
騎士は頭を掻いた。
その日。
パチカンは初めて、巡礼者専用の宿舎を建てることを決めた。
二千年後、世界最大の巡礼路へと発展する街道の始まりだった。