【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
巡礼者の列が西門の外に常態化するまで、それほど時間はかからなかった。最初は病人を連れた家族や、サリウ村の噂を聞きつけた好奇心の強い者が中心だった。だが一月もすると、その様子は明らかに変わった。杖をついた老人、荷車に子供を乗せた夫婦、村ぐるみでやって来た一団、あるいは数日の食料だけを持って徒歩で来た若者。彼らは皆、パチカンに入るために並び、門前では修道士が名前と出身地を記録し、病人は別の列へ案内された。誰かが命じたわけでもないのに、人々は十字架の形を真似るようになり、宿営地にはいつの間にか小さな祭壇まで作られていた。
問題は、パチカンの側がまったく準備できていなかったことである。巡礼者を想定した宿泊施設など存在しない。城内の施療院には限界があり、食料の配給も増え続けていた。教皇庁は急遽、城外に仮設宿舎と炊き出し場を設け、商人には露店の出店許可を与えたが、それでも追いつかない。しかも、巡礼者の中には帰ろうとしない者まで出始めていた。
『帰らないって、どういうこと?』
大聖堂の会議室で、神聖四文字は本気で困っていた。長机の上には巡礼者の人数推移、食料消費量、仮設宿舎の建設計画が積み上げられている。
「文字通りでございます。巡礼を終えたあとも、この地で暮らしたいと願う者が増えております」
行政担当の枢機卿が答えた。
『元の村とか家族は』
「家族ごと来ている者も少なくありません。そもそも土地を持たぬ者もおります」
『また難民が増えてるのか』
「難民というより、移住希望者と申し上げる方が正確でしょう。彼らの多くは、自らの意思でこちらへ来ております」
神聖四文字はしばらく黙った。助けを求める者を受け入れることには、まだ納得できる。しかし「ここで暮らしたい」と言われると話が違ってくる。住民が増えれば家も畑も必要になるし、治安や税、教育、宗教の問題も出てくる。何より、周辺の領主たちが人口流出を黙って見ているとは思えない。
『勝手に移住させるのはまずいよな』
「どの点がでしょう」
『他所の領民を引き抜いたことになる』
「本人が望んだ場合でも?」
『そこが面倒なんだよ。本人の自由を認めたいけど、相手の領主から見たら税を払う人間が消えるわけだろ』
枢機卿たちは互いに顔を見合わせた。そういう観点は、少なくとも彼らにはあまり馴染みがないらしい。
「では、移住を禁じますか」
『いや、それも違う。来たい人を追い返す理由もない』
「では受け入れる」
『それも雑だなあ』
神聖四文字は悩んだ末、結論を先送りするように言った。
『ひとまず、元の領主と揉めそうな人は確認してからにしよう。家族が残ってるなら、ちゃんと意思確認させる。借金とか犯罪とか、こっちに逃げてきたら都合が悪い事情があるかもしれないし。あと、移住したらすぐ洗礼、みたいなのは禁止』
「入信を希望する場合もですか」
『希望するのはいい。でも、住むための条件には絶対するな』
その言葉に、教皇ヨハネスが小さく頷いた。
「主は、信仰と生活の保障を分けよと仰せなのですね」
『そう。そこは絶対に混ぜたくない』
「承知いたしました」
神聖四文字は少し安心した。少なくとも、この点については意図がそのまま伝わったらしい。
だが、問題は巡礼者だけではなかった。
「もう一点、ございます」
ヨハネスが新しい書状を差し出した。
『まだあるの?』
「近隣の三領主より、使者が参っております」
『……何で』
「いずれも、我々が自領の民を奪っていると主張しております」
やっぱり来た。
神聖四文字は、見えない頭を抱えたい気分になった。
*
その日の午後、パチカン外郭の迎賓館には三人の使者が集められた。誰も互いを信用していないらしく、席に着いてからも視線を交わそうとしない。ラグナル伯の使者だけは以前の交渉で多少事情を知っていたが、残る二人にとってパチカンは完全に未知の存在だった。
「まず確認したい」
北方の領主から来た男が口を開いた。
「貴国は、我々の領民に移住を勧めているのか」
外交担当のマティアス枢機卿は首を振った。
「勧めてはおりません。来訪者の中に、この地へ残りたいと申し出る方がいるだけです」
「それを受け入れているではないか」
「希望者すべてを無条件に受け入れているわけではありません。家族関係や負債、犯罪歴の有無などを確認しております」
「だが、帰そうとはしない」
「本人が帰りたくないと申している場合に、力ずくで帰す理由はございません」
その言葉に、二人の使者が顔をしかめた。
「理由ならある。彼らは我々の民だ」
マティアスは少しだけ首を傾げる。
「人は土地の所有物なのでしょうか」
「詭弁を弄するな。領民がいなくなれば畑は荒れる。税も入らない。兵も集められない。我々は土地だけを支配しているのではない」
「なるほど」
「なるほど、ではない」
ラグナル伯の使者エドガーが、そこで初めて口を挟んだ。
「マティアス殿。この件は、そちらが思っているより深刻だ。領主にとって、人が減るというのは単なる不便ではない。領地そのものが成り立たなくなる」
「我々も、その点は理解しつつあります」
「ならば、移住を止めろ」
「それはできません」
エドガーがため息をついた。
「そこまで言うなら、なぜできない」
マティアスは少し考えてから答えた。
「我らが主が、そのように望んでおられないからです」
空気が変わった。
宗教の話になると、外部の人間はどうしても身構える。それを理解しているのか、マティアスは言葉を続けた。
「誤解なさらぬように申し上げますが、主は他国の民を奪えと命じておられるのではありません。むしろ逆です。信仰を理由に生活や自由を奪うことを、明確に禁じておられます。ゆえに、我々はここへ来たいと願う者を、その出自だけを理由に追い返すこともできません」
「つまり、お前たちの神の考えで、我々の領地が空になっても構わないと?」
「そこまでは申しておりません。だからこそ、移住の手続きと情報共有について協議したいと考えております」
使者たちは黙った。
それまでの彼らの予想では、パチカンは狂信的な宗教国家だった。だが実際には、宗教を理由に無理やり民を奪っているわけでもなく、かといって領主の権利を絶対視しているわけでもない。分かりにくい相手だった。
「では、どうするつもりだ」
「移住希望者について、出身地を確認し、領主側へ通知いたします。犯罪者や逃亡兵については個別に協議する。負債がある場合も同様です。ただし、単に『領民だから返せ』という要求には応じられません」
「随分と勝手な基準だな」
「否定はいたしません」
マティアスは穏やかに答えた。
「ですが、互いに何も決めず、国境で人を奪い合うよりはましかと」
その言葉に、エドガーだけが小さく笑った。
「そこは同意する」
*
交渉が行われているころ、西門の外では別の騒ぎが起きていた。
巡礼者の列の中に、奇妙な一団がいた。
十人ほど。全員が粗末な旅装をしているが、歩き方が旅人らしくない。周囲を頻繁に確認し、互いの位置を意識している。門衛の一人がそれに気づき、さりげなく合図を送った。
「止まってください。出身地と来訪目的を確認します」
先頭の男は笑顔を作った。
「北の村から来た巡礼です。天使様のお姿を一目拝みたくて」
「村の名は」
「ホルン村」
門衛は記録係を見た。
「北にホルンという村はあったか」
「少なくとも、これまでの調査では確認されていません」
男の表情がほんの少し固くなった。
「小さな村ですから、ご存じないだけでしょう」
「そうかもしれません。では、そこで何を作っていますか。穀物は?」
「麦を」
「川はありますか」
「……あります」
「名前は」
答えが止まった。
門衛の手が剣へ近づく。
「申し訳ありませんが、詳しく話を聞かせてください」
その瞬間、男は動いた。
懐から短剣を抜き、門衛へ突き出す。
だが、刃は届かなかった。
門衛が手首を掴み、そのまま捻り上げる。骨の折れる音がし、男が悲鳴を上げた。他の者たちも一斉に走り出したが、すでに周囲には騎士が集まっている。
抵抗は数十秒で終わった。
死者は出なかった。
捕らえられた者の荷物からは、短剣、毒、火をつけるための油、そしてパチカン内部の簡単な見取り図が見つかった。
神聖四文字への報告は、その日の夕方に上げられた。
『スパイ?』
「その可能性が高いかと」
治安担当の枢機卿が答える。
『誰の』
「まだ分かりません。本人たちは口を割っておりません」
『拷問は禁止』
「……まだ何も申し上げておりませんが」
『先に言っておく』
「承知いたしました」
神聖四文字は少し考え込んだ。
『でも、見取り図まで持ってたってことは、前から中に誰か入ってた?』
「可能性はございます」
『巡礼者に紛れて』
「はい」
『まずいな』
善意で門を開いた。
それで人が集まった。
人が集まれば、当然そこには別の目的を持つ者も混じる。
『門を閉じる?』
自分で言ってから、神聖四文字は黙った。
それをすれば簡単だった。
パチカンの城門を閉じ、住民以外を入れない。巡礼者も移住者も拒絶する。安全だけを考えるなら、それが最も合理的だ。
だが。
最初の日に、自分は門を開けた。
あのとき助けた三百人がいたから、今がある。
「主よ」
ヨハネスが静かに声をかけた。
「城門を閉ざされますか」
『……いや』
神聖四文字は答えた。
『検査を厳しくする。入城できる区画も分けよう。でも、門は閉めない』
「危険は増します」
『分かってる』
「それでも?」
『閉めたら、助けを求めて来た人まで締め出すことになる』
ヨハネスはしばらく何も言わなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「承知いたしました」
『あと、その反応やめて』
「何がでしょう」
『どうせ今、また何か教義っぽくまとめようとしただろ』
ヨハネスは少しだけ視線を逸らした。
『やっぱり』
*
その夜、パチカンでは新しい規則が決められた。
巡礼者は外郭区画で身元確認を受けること。武器は原則として預けること。病人は検疫を受けること。移住希望者は一定期間を仮住民として過ごし、その後に正式な居住許可を得ること。そして、信仰の有無によって扱いを変えてはならないこと。
この最後の一文について、教皇庁内部では小さな議論があった。
「異教徒も、同じ権利を持つのでしょうか」
若い司祭が尋ねると、ヨハネスは答えた。
「少なくとも、主はそう命じておられる」
「しかし、主を認めぬ者まで」
「だからこそ、だ」
ヨハネスは窓の外へ目を向けた。城壁の外には、夜になっても巡礼者の焚き火がいくつも見えている。
「信じる者に慈悲を与えることは、誰にでもできる。信じぬ者にも同じように与えることを、主は我々に求めておられるのだろう」
若い司祭は、長い時間その言葉を考えていた。
その解釈が神聖四文字本人の意図と完全に一致していたかどうかは分からない。
だが、こうして少しずつ。
主人公が何気なく口にした言葉が制度になり。
制度が慣習になり。
慣習が、やがて教義へ変わっていった。
後世、十字教神学において《門の教え》と呼ばれる思想の始まりである。
もっとも。
その名を聞いた当人は、二千年後まで一貫してこう主張することになる。
『いや、そんな大層なこと言ってないんだけど』