【チラ裏】ダンジョンに十字軍が攻めるのは間違っているだろうか 作:d_chan
パチカンに最初の秋が訪れるころには、城壁の外の景色は転移直後とはまるで違うものになっていた。西門から伸びる街道の両側には巡礼者用の宿舎や露店が並び、そのさらに外側には新しく耕された畑が広がっている。東の大河沿いに設けられた開拓村も三つに増え、周辺から移り住んできた者を含めれば、パチカンの庇護下にある現地人はすでに五千を超えていた。最初は仮設だった家々も、冬を越すため石と木を使った恒久的な建物へと改められつつある。
神聖四文字にとって、その数字は喜ばしいと同時に恐ろしかった。五千人を助けた、と言えば聞こえはいい。だが五千人とは、毎日食事をし、病気になり、子供を産み、仕事を求め、争いも起こす人間の数である。ゲームなら人口が増えれば生産力も税収も上がった。現実では、増えた人間のぶんだけ責任も増えた。
『冬、越せる?』
大聖堂の会議室でそう尋ねると、行政担当の枢機卿は手元の帳簿を確認した。
「例年並みの寒さであれば問題ございません。ただし、この世界の冬がどの程度のものか、我々には記録がありません。備蓄については、城内人口と外郭居住者を合わせても五か月分を確保しておりますが、巡礼者が現在の速度で増え続けた場合、余裕は大きく減ります」
『つまり、止めないとまずい?』
「巡礼を禁ずる必要まではございません。しかし、長期滞在者には自活の仕組みが必要です。すでに外郭市場では現地商人も出入りしておりますので、ある程度は経済活動へ移行できるでしょう」
『経済活動か……』
神聖四文字は少し考えた。今までパチカンが外の人間に与えてきたものは、ほとんどが無償だった。食料、治療、寝床、衣服。その必要があったからそうした。だが、それを永遠に続けることはできない。
「主よ、我々も施しだけで民を支えるべきではないと考えております」
ヨハネスが言った。
『うん。働ける人までずっと配給だけ、っていうのも違うよな』
「まさに。我々が彼らの生活すべてを決めれば、いずれ自ら選ぶ力を失うでしょう」
神聖四文字は少し意外に思った。
『そこまで考えてたんだ』
「主が、最初に申されたことです。助けることと、奪うことは違う、と」
『……俺、そんな立派な言い方したっけ』
「趣旨としては」
『また教義が増えてない?』
ヨハネスは答えなかった。
この数か月で、神聖四文字は自分の言葉に妙な慎重さを持つようになっていた。何気なく言ったことを神官が記録し、その記録を別の神官が整理し、いつの間にか「主の御教え」になっている。冗談まで記録されていたと知ったときには、さすがに一部を破棄させた。
もっとも、本当に頭を悩ませているのは経済でも巡礼でもなかった。
「もう一点、神学校から報告がございます」
『今度は何』
「現地出身者の第一期生についてです」
神聖四文字の意識が少しだけそちらへ向いた。
『ああ。マルクスたちか』
「はい。入学者百二十七名のうち、百十一名が基礎課程を修了いたしました。平均レベルは十八・四。十八名がすでにレベル二十へ到達しております」
『早いな』
「低位訓練設備を利用しておりますので」
パチカンには、ゲーム時代から大量に設置していた低位用の《訓練のかかし》がある。攻撃、魔法、治療、各種技能の訓練によって安全に経験値を得られる設備で、使用できるのはレベル二十まで。それ以上になると、一切経験値が入らなくなる。
転移当初は単なる教育用施設だった。だが、現地人にもシステムが適用されると判明してから意味が変わった。洗礼を受け、職業を取得した者なら、長い時間はかかるものの、実戦経験なしでレベル二十まで成長できる。
オラリオ世界の基準に置き換えれば、レベル二相当。
神聖四文字はまだ、その数字がこの世界でどれほど異常なのかを知らなかった。
『卒業したら、みんな騎士になるの?』
「いいえ。神学校ですので、聖職者、治療師、教師、書記などが大半です。軍学校では別に九十六名が課程を修了しております」
『ちょっと待って。軍学校ももう現地人入れてるの?』
「はい」
『いつの間に』
「三か月前に許可をいただきました」
『俺が?』
「『こちらの人にも、自分の身を守れるようになってもらった方がいい』と」
覚えている。たしかに言った。
だが、神聖四文字が想像していたのは、村人向けの護身訓練程度だった。
『俺の言葉、解釈が強くない?』
「必要な制度へ落とし込んだまでです」
『そういうのを強いって言うんだよ』
とはいえ、止める理由もなかった。周辺には魔物がいる。騎士団だけですべての村を守ることはできない。現地人自身が戦えるようになるなら、それは悪いことではない。
問題は、パチカンの外からどう見えるかだった。
*
ラグナル伯が最初に異変へ気づいたのは、秋の税収を確認したときだった。
「去年より少ないな」
執務室で帳簿を眺めながら呟くと、家令は気まずそうに頭を下げた。
「北西部の三村で人口が減っております」
「また白い都か」
「はい。正式に移住手続きを取った者だけで八十七名。そのほか、巡礼に出たまま戻らぬ者もおります」
ラグナルは帳簿を閉じた。数だけなら、領地全体を揺るがすほどではない。しかし問題は増え方だった。一年前には存在すらしなかった都市へ、領民が自分から移り住んでいる。しかも、兵に追われたわけでも、金で買われたわけでもない。
「何がそんなにいい」
伯の問いに、家令は答えにくそうな顔をした。
「税が軽い、という噂はございます」
「それだけか」
「病気になれば治療を受けられる。子供は学校へ入れる。冬の食料も一定量は保障される、と」
「随分と景気のいい話だな」
「さらに……」
家令が言葉を濁した。
「何だ」
「十字教へ入れば、力を授かると」
ラグナルの表情が変わった。
「何の話だ」
「例の、レベルというものです。移住した農民の息子が、一年も経たず大人二人を相手に勝ったという話が出回っております」
「一年?」
「半年ほどとも」
「あり得ん」
「私もそう思います。しかし、複数の村で似た話を聞いております」
ラグナルは黙った。砦を十二人で制圧した騎士。空を飛ぶ天使。異常な治療術。そして今度は、信徒になれば強くなるという話。
宗教として、あまりに条件がよすぎる。
「エドガーを呼べ」
しばらくして入ってきたエドガーへ、伯は帳簿を放った。
「これをどう思う」
エドガーは目を通し、大体の事情を察したらしい。
「困りましたな」
「それだけか」
「止めようにも、向こうは勧誘しているわけではありません。むしろ、以前より移住審査を厳しくしております」
「なら、なぜ増える」
「向こうの暮らしが、こちらより良いからでしょう」
ラグナルは睨んだ。
「お前はどちらの家臣だ」
「伯のです。だからこそ申し上げています。力ずくで止めても、今度は領民が逃げます」
「では、私にどうしろと」
エドガーは少し考えた。
「こちらも、残りたいと思わせるしかありません」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。ただ、白い都と争って人を取り戻すよりは現実的です」
ラグナルは椅子へ深く腰を沈めた。
少し前まで、領民が領主を選ぶなどという発想はなかった。
生まれた土地で生きる。
土地は領主のもの。
そこに住む者は税を払う。
それが当然だった。
パチカンは、その当然を崩している。
しかも武力ではなく。
飯と、薬と、学校と。
神の名で。
「……厄介な連中だ」
「以前もそう仰いました」
「前より厄介になっている」
それについては、エドガーも否定しなかった。
*
同じころ、パチカンの北方では別の種類の不満が育っていた。
丘の上に、小さな神殿があった。石を積み上げただけの古い建物で、村人たちはそこを《森の母》の社と呼んでいる。神像はない。ただ、森そのものに意思が宿り、狩りと出産を見守ると信じられてきた。
その神殿を守ってきた老司祭は、最近めっきり参拝者が減ったことに気づいていた。
若者が来なくなった。
病人も来ない。
子供が熱を出せば、以前なら森の母へ祈った。それが今では、二日かけて白い都へ運ばれる。
そして戻ってきた者は、不思議な十字の印を切るようになった。
「森の母を捨てるのか」
老司祭がそう尋ねたとき、若い農夫は困った顔をした。
「捨てるとか、そういうつもりじゃないんです。ただ、あちらでは本当に治るから」
「母も癒しを与える」
「でも、うちの子は去年、治らなかった」
老司祭は答えられなかった。
「十字の神様は、金も取らなかった。信じろとも言われなかった。だから……俺は、あの神様の方を信じたい」
「お前の父も、祖父も、この森に祈った」
「知ってます。でも、それで子供を死なせろっていうなら、俺には無理です」
農夫は頭を下げて去った。
老司祭は、長いあいだ神殿に一人で残っていた。
信仰とは、祈れば必ず願いが叶うというものではない。それは知っている。
だが、隣に「祈れば実際に奇跡が起こる宗教」が現れたとき、人はどちらを選ぶのか。
その答えもまた、分かっていた。
その日の夜、老司祭は初めてパチカンという名を憎んだ。
*
冬が近づくにつれ、同じことが各地で起こり始めた。
土地の神。
川の神。
祖霊。
山の精。
豊穣の女神。
古くから村々を支えていた信仰の隣に、突然、十字教が現れた。
十字教徒は、少なくともこのころは積極的に古い神々を否定して回ってはいなかった。神聖四文字自身が異教徒への布教を慎重に命じていたからである。
しかし、必要がなかった。
パチカンには、目に見える奇跡があった。
治癒がある。
天使がいる。
洗礼を受ければ職業とレベルが与えられる。
そして何より、信徒たちはその恩恵を隠していなかった。
結果として、十字教は布教しなくても広がった。
*
最初の報告を受けたとき、神聖四文字は明らかに嫌そうな沈黙をした。
『……宗教対立?』
「まだ、対立と呼ぶほどではございません」
ヨハネスは慎重に答えた。
『「まだ」がついたよな』
「はい」
『やっぱり揉めてるじゃん』
「各地の旧来祭祀を担う者から、我々への不満が出ております。信徒を奪っている、と」
『実際、増えてる?』
「かなり」
『……そうか』
神聖四文字はしばらく考え込んだ。
『布教は禁止しない。でも、他所の神様を悪く言うのは禁止。神殿を壊すのも駄目。祭りを邪魔するのも駄目。それから、改宗を拒んだ人を差別するな』
ヨハネスは少し難しい顔をした。
「他神を神と認めよ、という意味でしょうか」
『いや、そこは好きに解釈していいよ』
「……好きに?」
『十字教の教義として唯一神しか認められないのは分かってる。でも、相手が信じてるものまで力ずくで否定する必要はないだろ。こっちから見て間違ってても、本人がそう思ってるならまず話せばいい』
「もし、話しても改宗を拒んだ場合は」
『そのままでいい』
ヨハネスは黙った。
『何』
「いえ。少し驚きました」
『どうして』
「主が、誤った信仰を持つ者が存在することをお許しになるとは」
神聖四文字は返事に詰まった。
『いや……許すとか許さないとかじゃなくない?』
「では、異教徒には異教徒のまま生きる自由がある、と」
『そう』
「主以外を神と信じたままでも?」
『そう』
「……なるほど」
『その「なるほど」、怖いな』
ヨハネスは何も言わなかった。
その夜。
教皇庁の記録官は、主の言葉を慎重に書き留めた。
――異なる信仰を持つ者といえど、その信仰ゆえに剣を向けてはならない。
後世、《第一寛容令》と呼ばれることになる言葉である。
だが同じ記録の末尾には、別の一文も残された。
――されど、真なる神はただ一柱のみ。
その二つが、やがて二千年にわたって十字教を悩ませ続ける矛盾になることを、この時はまだ誰も知らなかった。