退廃世界の傭兵稼業 作:放浪の犬
1944年、冬。
総統アドルフ・ヒトラーの野望から始まった東部戦線は、もはやドイツ軍にとって勝利を意味する場所ではなくなっていた。
ヨーロッパを瞬く間に制圧した電撃戦。
その勢いはソ連の首都モスクワへと迫ったものの、ソ連軍の頑強な抵抗と冬季の大寒波によって阻まれた。
そして1943年、スターリングラードでの大敗。
ドイツ軍は、東へ進む軍隊から、西へ逃げ延びる軍隊へと変わっていた。
だが、総統は撤退を許さなかった。
装備もない。
燃料もない。
食料さえ足りていない。
それでも、撤退は認められなかった。
失われていく東方の占領地を、一歩たりとも手放さない。
それが、総統からドイツ軍に課せられた命令だった。
雪に覆われた大地を、兵士たちが歩いていく。
東へ。
迫り来るソ連軍を迎え撃つために。
しかし、その兵士たちとは正反対の方向へ向かって進むものがあった。
軍用トラックの車列である。
東部戦線へ向かう部隊が燃料不足に喘ぐ一方、軍用物資の集積地では、西へ向かうこの車列に優先して燃料が割り当てられていた。
限界に近い疲労に襲われた兵士たちは、ほとんどその車列に興味を示さなかった。
だが、部隊を指揮する者たちは違った。
「まだ運ぶのか?」
集積地の一角。
一人のドイツ国防軍少佐が、傍らに立つ親衛隊の指揮官へ問いかけた。
少佐の視線の先では、黒い制服をまとった親衛隊員たちが、通常の軍需物資とは明らかに異なるものをトラックへ積み込んでいる。
「そうだ」
親衛隊指揮官は、短く答えた。
木箱。
厳重に封印された木箱が、何十個も並んでいる。
弾薬箱にしては大きすぎる。
食料を運ぶためのものでもない。
そして何より、その表面には軍の物資には決して使われない、奇妙な記号が刻まれていた。
親衛隊員たちは、その木箱をまるで壊れ物でも扱うかのように慎重に運んでいく。
「こんなものが、我々の補給よりも優先されるのか?」
少佐の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。
前線では兵士たちが弾薬を求め、戦車は燃料を求め、負傷兵たちは医薬品を求めている。
それなのに。
得体の知れない木箱を積んだトラックには、優先的に燃料が与えられている。
少佐には到底理解できなかった。
親衛隊指揮官は、そんな彼を一瞥した。
「こんなものだからだ」
「……何?」
「こんなものだからこそ、何よりも先に運ばなければならない」
親衛隊指揮官は自身に課せられた任務にすべての意識が向けられている。
すぐそばを通過していく疲弊し、傷ついた兵士たちになど少しの興味も示すことがない。
「これはなんなのだ?」
「遺物だ」
「遺物?」
親衛隊指揮官は、木箱へ手を伸ばした。
白い手袋を嵌めた指先が、箱に刻まれた奇妙な記号をなぞる。
「ヒムラー閣下の命により、我々アーネンエルベは、これらを一つ残らずドイツへ持ち帰らねばならん」
「アーネンエルベ……」
少佐は、その名を口の中で転がすように呟いた。
「それになんの意味があるというのだ?」
少佐の声が大きくなる。
「今、我々が置かれている状況が分かっているのか? 前線では兵士が弾薬を求めている。戦車は燃料を失い、負傷者は満足な治療すら受けられていない。それなのに、こんな得体の知れない箱を運ぶために燃料を使うだと?」
親衛隊指揮官は答えなかった。
少佐の怒声など、最初から聞こえていないかのようだった。
その視線は、木箱から離れない。
「これらが我々の手元にあることに、意味がある」
「意味だと?」
「そうだ」
親衛隊指揮官は、ゆっくりと少佐へ顔を向けた。
「これらがあれば、我々は何度でも蘇る」
その声音には、疑いがなかった。
「たとえ今、何を失おうともだ」
少佐は言葉を失った。
「総統閣下の偉大なる大ドイツを築くために、これらは必要なのだ」
そのときだった、すぐ脇を、一人の兵士が通り過ぎていった。
右腕には包帯が巻かれ、軍服は泥と血にまみれ、歩くたびに足を引きずっていた。
兵士は二人の前を通り過ぎる。
親衛隊指揮官は、一瞥もしなかった。
その目に映っているのは、ただ一つ。
目の前の木箱だけだった。
少佐はその横顔を見つめた、そして理解した。
この男にとって、ここにいる兵士たちの命など、木箱の中身よりも価値がないのだ。
親衛隊指揮官が、再び命令する。
「積み込みを急げ」
兵士たちが木箱を運び始め、やがて最後の一箱がトラックへ積み込まれた。
「行け」
エンジンが唸りを上げ、トラックが動き出す。
東へ向かう兵士たちとは逆に、敗北へ向かう軍隊とは逆に。
ドイツの未来を救うと信じられた「何か」を積んだ車列は、雪煙の向こうへ消えていった。