あの魔法少女に恋はしない 作:毎日残業
乾心寿がその少年に気づいたのは、買い物を終えて家へ帰る途中だった。
駅から少し離れた遊歩道は、休日ということもあって普段より人が多く、犬を連れて歩く人や自転車で横を抜けていく学生の姿が途切れない。
心寿もいつもなら買い物袋を提げたまま真っ直ぐ家へ帰るところだったのだが、植え込みの近くで一人の少年がカメラを構えては下ろし、二、三歩移動してまた同じことを繰り返しているのが目に入った。
首から提げているのは一眼レフで、持ち方を見る限り、今日初めて触ったというわけではなさそうだった。
それなのにファインダーを覗いてもシャッターを切らず、液晶を確認しては首を傾げ、場所を変えてまた構えている。
最初は撮影する場所を探しているだけだと思ったものの、心寿が近くまで歩いてきてもまだ同じことを続けている。
そのまま通り過ぎようとして、少しだけ足が遅くなった。
普段から自分もカメラを触っているからだろうか。故障しているのなら気になるし、そうでなくても、あれだけ困った顔をされると放っておくのも落ち着かなかった。
「あの……」
声をかけてから、心寿は少し後悔した。
知らない人へ自分から話しかけるのは得意ではない。それでも今さら何でもありませんと逃げる方がよほど恥ずかしくて、こちらを振り返った少年へ恐る恐る近づいていく。
「大丈夫ですか?」
「え?」
少年は自分が呼び止められたとは思っていなかったらしく、一度左右を見てから心寿を見た。
年齢は紗寿叶と同じくらいに見える。黒いキャップを深く被り、パーカーに細身のパンツという特に目立たない格好をしていたが、帽子の下に覗く顔立ちはかなり整っていた。
「さっきから、ずっとカメラを触ってたので……壊れちゃったのかなって」
「ああ、違う違う。カメラは大丈夫。俺の方がちょっと壊れてるだけだから」
「えっ」
「……今の言い方、怖いな。忘れて」
少年は自分でも変なことを言ったと思ったらしく、苦笑しながらカメラを下ろした。少し考えてから液晶を操作し、その画面を心寿へ向けてくる。
写っていたのは道路脇の花壇やベンチ、街路樹、それから少し離れたところを歩いている人たちだった。何枚か見せてもらったものの、心寿にはどこか致命的に失敗しているようには見えなかった。
「写真、変ですか?」
「いや、それが俺にも分かんないんだよ。ピントは合ってるし、暗すぎたり明るすぎたりもしてないと思う。でも後から見ると、何で俺これ撮ったんだろってなる」
「撮りたいものがないんですか?」
「多分、それ」
少年は思わずといった様子で心寿へ人差し指を向け、すぐに「あ、ごめん」と手を引っ込めた。
「写真好きな人って、何を見たら撮ろうって思うんだ?」
「何を……ですか?」
「ほら、そこに花があるだろ。綺麗だから撮るっていうのは俺にも分かるんだけどさ。でも、ずっと写真撮ってる人って、それだけじゃない気がするんだよな」
心寿は少年につられて花壇へ目を向けた。
赤や黄色の花が綺麗に並んではいるものの、自分なら綺麗だからという理由だけで必ずカメラを向けるわけではない。何を撮ることが一番多いのかと考えれば、答えはすぐに浮かんだ。
「私は……お姉ちゃんを撮ることが多いんですけど」
「お姉さん?」
「はい。お姉ちゃんが一番素敵に見えるところを残したくて、撮ってます」
言葉にすると少し照れくさくなり、心寿は手元へ目を落とした。
少年は笑うでもなく、続きを待つようにこちらを見ている。
「その、一番素敵に見えるところって、どうやって分かる?」
「たくさん見ます」
「たくさん?」
「顔とか、手とか、髪とか……着てる服も見ますし、光がどこから当たってるかも見ます。同じお姉ちゃんでも、そのときのキャラクターによって全然違うので」
「キャラクター?」
「あっ……」
そこまで話してから、心寿は思わず口元を押さえた。
少年は意味が分からなかったらしく、少しだけ首を傾げている。
「お姉ちゃん、コスプレをしてるんです」
「へえ」
「だから撮るときも、ただ綺麗に撮るだけじゃなくて、そのキャラクターに見えるところを探すんです。表情とか、立ち方とか……お姉ちゃんがその子になったって思える瞬間を撮りたくて」
自分でもうまく説明できている自信はなかったが、少年は口を挟まずに聞いていた。
やがて手にしていたカメラへ目を落とし、ストラップを指で弄りながら小さく頷く。
「なるほどなあ。最初から『これを撮る』って決めなくてもいいのか。見てるうちに見つけるっていうか」
「そういうことも、あると思います。私、お姉ちゃんばっかり撮ってるので、偉そうなことは言えないですけど……」
「いや、めちゃくちゃ参考になった。ありがとう」
「いえ……」
あまりにも素直に礼を言われて、心寿は少し戸惑いながら頭を下げた。
そこで話を終えてもよかったのだが、少年がもう一度辺りを見回しているのを見て、心寿は昨日撮影に来た場所を思い出した。
「風景を撮るなら、この時間はこっちより河川敷の方がいいかもしれません」
「河川敷?」
「はい。夕方になると横から光が入るので、草とか水面がすごく綺麗なんです。この道を真っ直ぐ行って、橋の手前を右に曲がったところで……今日はもう少し遅いかもしれないですけど、明日なら四時くらいがいいと思います」
「じゃあ、明日行ってみる」
「えっ、本当に行くんですか?」
「教えてもらったのに行かなかったら、聞いた意味ないだろ」
少年はごく普通のことを言ったような顔で答えると、カメラを鞄へしまった。
「助かった。えっと、名前聞いても大丈夫?」
「乾、心寿です」
「乾さんか。俺は朝比奈玲央」
「朝比奈さん」
「今日はありがと。お姉さんの撮影も頑張って」
軽く手を上げて歩き出した玲央の背中を、心寿は少しの間だけ見送った。
結局、連絡先を聞かれることもなければ、自分から聞くこともなかった。たまたま道端で話しただけなのだから、それで普通なのだと思う。
ただ、明日行ってみると言ったときの玲央があまりにも迷いなく答えたせいで、本当に来るのだろうかと少しだけ気になった。
家へ帰ると、紗寿叶はリビングのソファに座ってスマートフォンを眺めていた。
「ただいま」
「おかえり、心寿。思ったより遅かったじゃない」
「うん。途中でちょっとお話ししてて」
「誰と?」
紗寿叶は画面から目を離さないまま何気なく聞き返したが、心寿が買ってきたものをテーブルへ置きながら今日の出来事を話しているうちに、その指が止まった。
「カメラを持った人が困ってて、写真のことをちょっと聞かれたの」
「へえ。珍しいわね、心寿が知らない人に話しかけるなんて」
「なんとなく、放っておけなくて」
「相手はいくつくらい?」
「多分、お姉ちゃんと同じくらいかな」
そこでようやく紗寿叶がスマートフォンから顔を上げた。
「男?」
「うん」
「……心寿」
「な、何?」
スマートフォンを膝の上へ置いた紗寿叶が、妹の顔を正面から見る。
「高校生くらいの知らない男に、自分から話しかけたの?」
「困ってたから……」
「どのくらい話した?」
「十五分くらいだと思う」
「長いわよ!」
急に声が大きくなり、心寿の肩がぴくりと跳ねた。
「でも、変な人じゃなかったよ」
「十五分話したくらいで何が分かるのよ。連絡先は?」
「知らないよ」
「聞かれなかった?」
「うん。名前だけ」
紗寿叶は何か言おうとして、そのまま黙った。
相手から心寿へ近づいてきたわけではなく、連絡先も聞かれていないとなると、頭ごなしに怪しい男だと決めつけるのも違う気はする。
それでも、人を疑うことに慣れていない妹が知らない男子高校生へ自分から話しかけ、十五分も一緒にいたと聞かされれば、姉として気にならないはずがなかった。
「で、何話してたの?」
「写真の撮り方っていうより、何を見たら撮りたいって思うのかって聞かれたの。それで私が河川敷を教えたら、明日行ってみるって」
「明日?」
「四時くらいがいいですよって……言っちゃった」
紗寿叶は心寿の顔を数秒見つめ、そのままソファから立ち上がった。
「明日、そこ行くわよ」
「え?」
「その朝比奈って人、私も見る」
「お姉ちゃん、わざわざ行くの?」
「当たり前でしょ。心寿が知らない男と十五分も話してたのよ?」
「でも、本当に悪い人じゃ――」
「悪い人じゃないかどうかを確認するの!」
そこまで言われると、心寿にはもう止められなかった。
翌日の午後四時前、二人は河川敷へ向かっていた。
心寿が教えた場所は橋から少し離れていて、遊歩道の両側には背の高い草が伸びている。休日とはいえ人通りはそれほど多くなく、時折ランニングをする人や犬を連れた人が通り過ぎるくらいだった。
「本当に来るって言ったの?」
「うん」
「知らない人の言葉、そんな簡単に信用しちゃ駄目だからね」
「お姉ちゃんが一番会う気になってるけど……」
「私は確認しに来ただけ!」
言い切った紗寿叶が、ふと先へ目を向けた。
土手を少し降りたところに、黒いキャップを被った少年がいる。
昨日と同じカメラを構え、夕方の光を受けて揺れている草の穂へレンズを向けていた。何枚か撮ると今度は川の近くまで移動し、水面を覗き込むようにしゃがんで角度を探している。
「あっ、朝比奈さん」
心寿が声を上げると、少年がカメラを下ろして振り返った。
「あれ、乾さん?」
昨日会った相手が来るとは思っていなかったのか、一瞬驚いたあとで玲央は笑った。
「昨日教えてもらったけど、確かにこっちの方がいいね」
「よかったです」
「光が変わると同じ場所でも全然違って見えるんだな。まだ上手く撮れてるかは分かんないけど」
玲央がカメラの液晶を心寿へ見せようとしたところへ、紗寿叶がすっと一歩入った。
「あなたが朝比奈玲央?」
「そうだけど」
「心寿の姉よ」
玲央は紗寿叶の顔を見たあと、隣にいる心寿へ視線を動かした。
心寿が申し訳なさそうに小さく頭を下げる。
その様子を見ると、ことさら姉と妹逆なのではないかという思考が過るが、そのことを口に出せば明日の命は無いように思えた。
「ああ……昨日のこと?」
「そうよ」
「それなら、ごめん」
「……何が?」
思っていた返事ではなかったのか、紗寿叶が少し眉を寄せる。
「昨日は写真のことで頭いっぱいだったけど、帰ってから考えたら、中学生の女の子と道端で十五分くらい話してたんだよな。俺から声かけたわけじゃないにしても、お姉さんからしたら心配するよなって」
「……分かってるならいいけど」
問い詰めるつもりで来た勢いを少し削がれたのか、紗寿叶は玲央から目を逸らした。
少なくとも昨日の話を適当に合わせただけではないらしい。本当に心寿に教えられた場所まで来て、一人で写真を撮っている。
「それにしても、何でそんなに写真のこと知りたいの?」
紗寿叶が尋ねると、玲央は手にしていたカメラへ目を落とした。
「仕事で必要だから」
「仕事?」
「次にやる役が写真好きなんだよ」
「……役?」
「俺、役者やってるから」
心寿が目を丸くし、紗寿叶も改めて玲央の顔を見る。
言われてみると、どこかで見たことがあるような気はした。ただ、紗寿叶は俳優やドラマに詳しいわけでもなく、名前を聞いてすぐ出演作が出てくるほどではない。
「役のために、わざわざそこまでするの?」
「カメラ持って立ってるだけなら誰でもできるだろ。でも写真が好きな役なのに、撮ってる本人が全然写真に興味なさそうだったら変じゃん」
玲央は撮ったばかりの写真を液晶で確認しながら、特別なことを話している様子もなく続けた。
「それに、今もらってる役をちゃんとやってれば、それ見た誰かがまた違う役くれるかもしれないし。好きな役が来るまで待ってたって、俺がやりたい役なんか来ないだろうしな」
「やりたい役があるの?」
「これって決まってるわけじゃないけど、いつか俺にしかできない役をやりたい」
紗寿叶は返事をせず、玲央を見る。
有名になりたいとも、主演をやりたいとも言わない。それよりもずっと曖昧なのに、本人の中では妙にはっきりしているらしかった。
そして、そのいつ来るとも分からない役のために、今は写真好きの人間を演じようとしてカメラを持ち歩き、偶然会った中学生の話まで聞いている。
「昔から役者やってるの?」
「子役からだから、結構長いよ」
「じゃあ、子供の頃はどんなの出てたの?」
「色々。CMとかホームドラマとか、女児向けの特撮もやった」
「女児向け特撮?」
紗寿叶の声が少し変わった。
「魔法少女のやつ」
「……何て作品?」
「『魔法少女ルミナスハート』。結構前だから、知らないかもしれないけど」
紗寿叶の顔から表情が消えた。
知らないどころではない。
幼い頃、テレビの中で誰よりも眩しく見えた魔法少女たちに憧れて、自分もいつかああなれるのだと本気で思っていた。その夢が現実には叶わないと分かってからも、それなら別の形で近づけばいいと思わせてくれた作品の一つが『魔法少女ルミナスハート』だった。
「……ちょっと待って」
「ん?」
「あなた、その作品で何やってたの?」
「白咲リリア」
聞き間違いかと思った。
紗寿叶は玲央の顔をじっと見つめ、幼い頃に何度も見返した映像の中にいた少女と、目の前の少年の面影を重ねていく。
「途中から変身するマジカルリリィ。俺、あれやってた」
何でもないことのように玲央が言う。
その隣で心寿が姉を見上げたが、紗寿叶はしばらく何も言えなかった。
「…………あなたが、リリィ?」
「そうだけど」
妹に近づいた怪しい男を確かめるために、わざわざ河川敷まで来たはずだった。
それなのに紗寿叶の目の前に立っていたのは、子供の頃、テレビの中で魔法を使っていた少女だった。