FIREからはじまるゾンビアポカリプス 作:うらいみちね
上階からの物音に目を覚ます。時刻は深夜三時を回ったばかりで日もまだ出ていない。再度目を閉じるも、何かを引き摺るような物音が上階から響き続けるせいで、眠ろうにも眠れない。
「……うるせ」
上階の住民が脳裏に浮かび、一言文句でも言おうとベッドから抜け出した。
エレベーターを使うまでもなく、階段で目当ての部屋に向かう。部屋の前まで来ても、いまだ物音は続いている。
ため息を吐きながらチャイムを鳴らす。部屋の中から「ひっ……」という息を飲む音が聞こえた。どうやら扉のすぐそばにいるようだ。
「下の階の本多です。さっきから物音スゴいんですけど、何事ですか」
「人の声、ゾンビじゃない……良かった」
扉があき、隙間から顔が覗く。何度か顔を合わせたことも、言葉を交わしたこともある女性だ。名前は確か平野だったか。
顔には焦燥感が見て取れる。数日前に見かけたときにはここまで追い詰められたような雰囲気はなく、むしろ明るい印象を受けたものだ。
「うるさかったですか? そうですよね、すいません……」
扉の隙間から見えるリビングまでの廊下は電気もつけられていない。リビングから漏れる明かりでかろうじて見える範囲では、家具がめちゃくちゃに配置されて障害物となっている。これでは彼女自身も外出するのに苦労するだろう。
「ネットでいろんなニュース見てたら、部屋に感染した人たちが襲ってきたらどうしようって不安になって……。それで、玄関にバリケードでも作っておこうって……」
「いや、来るわけないでしょう。このマンション、オートロックですよ」
「へ?」
断定的に切り捨てると、女性は気の抜けた声を出す。会話を否定から入る男はモテないとはよく言われるが、そんなことを気にしている場合ではない。パニくった睡眠不足の女が奇行に走ってバリケードを作り始めたという、今までの人生で経験したことのないご近所トラブルだ。
「仮にエントランスまで入り込んだとして、ゾンビがここまで上がって来ますかね」
生身の人間でもできれば階段は遠慮したくなるような高層階に、ゾンビがわざわざ登ってくるとも思えなかった。
「……エレベーターとか」
「余計にないでしょう」
ゾンビが昇降ボタンを押して、エレベーターを使うイメージも全く想像できない。自分で言いながらありえないと思い至ったのか、平野さん自身も言葉に詰まっていた。
「そう、ですよね……」
「それに襲われるとしたら、順番的に下の階にいる私が先でしょう」
彼女は髪の毛を指で所在なさげにいじりながら、徐々に納得するように呟く。
「本当にすいませんでした、今度改めてお詫びに伺います……」
目を伏せながら改めて謝罪を口にしながら、女性は扉を閉めようとする。
「ちゃんとご飯食べてますか?」
ついおせっかいが口をついた。以前、ゴミ捨ての際に敷地内ですれ違ったときよりも明らかにやつれている女性の顔を見て、少し心配になったのだ。
「そういえば、今日は食べてないかも。家に何かあったかな……」
「カップ麺で良ければ差し上げます。飯食ってさっさと寝てください」
飯も食わずにネットで不穏な情報ばかり漁っていれば、こうもなるかと納得半分、呆れ半分で、今日買ったばかりのカップ麺を取りに自室へ戻る。
薄暗いコンクリートの階段を再度登ると、その先で平野さんはドアの外に出て待っていた。
「ありがとうございます」
彼女は食料を受け取り、それを見つめる。そのまま一向に部屋に戻る気配がない。
「嫌いなやつだったりしました? ほかのやつもありますけど」
一番オーソドックスなものを持ってきたつもりだったが、人の好みはそれぞれだ。苦手な食べ物を押し付ける厄介おじさんになっている可能性も考え、顔色を伺った。
「いえ! そういうことではなく……。あのお茶でも飲んでいきませんか?」
「……は?」
思ってもいない申し出に、我ながら間抜けな声が出る。
「騒音で迷惑を掛けた上に、食べ物まで貰ってしまうのも少し気が引けて……。せめてお茶くらい、と思ったん、ですけど……」
「あぁ、そういうことなら」
彼女の声は途切れ途切れになりながら、しりすぼみに小さくなるも、それでも最後まで聞き取ることは出来た。それに、別に仲の良いわけでもないご近所さんに、あまり貸し借りを作りたくないというロジックは個人的には納得できるものだった。ただしかし、
「こんな時間に私みたいなおっさんが女性の家に入るのは気が引けるので」
「……それなら、今から淹れてくるので待っててください」
遠慮の意思を示すも食い下がる。何ならこちらの返事も待たずに部屋へ戻っていった。
諦めて共有部の手すりにもたれかかりマンションの敷地を見下ろす。地上からある程度の高さがあるためか、昼間のような臭いは届かない。腐敗臭の元と思われる感染者は、まだ付近にいるのだろうか。
もしかすると彼女も日中にあの不快な臭いを嗅いだりしたのだろうか。それであれば、あの錯乱染みた行動も理解できなくはない。
昼間のスーパーで話した水野さんや、オンラインで軽口を叩き合っていた安東のように楽観的な者ばかりではない。むしろそういう人間の方が珍しかったりするのかも知れない。
「お待たせしました、どうぞ」
しばらくして平野さんはグラスを一つ持ちながら、ドアを開けて出てくる。
「ありがとうございます」
開いたドアを支えつつ、彼女が差し出してきたグラスを受け取る。紅茶に氷が浮いてるグラスには、すでに結露ができかけている。
「実は今日、友人と連絡が取れなくなって」
「……それは、心配ですね」
なんとなく始まった会話にしては、重めな内容だ。自分に当てはめると、定期的に連絡を取っている友人といえば安東くらいしか思い浮かばない。しかし、例えばそう、彼と急に連絡が取れなくなると考えれば多少動揺するだろう。
出来るだけ同情しているように聞こえるよう、声を落とす。そして、彼女がどういうつもりで呼び止めたのか得心がいった。お礼がどう、というよりも不安を誰かに吐き出したいのだろう。
「それに今日、駐車場で一人見つけたんです。気付きました?」
「外出からの帰宅時、臭いが酷かったので近くにはいるだろうなとは思ってました。そんなところにいたんですね」
日中気になっていた臭いの元は駐車場にいたらしい。マンションの裏手にある駐車場は、車の所有者でもなければわざわざ足を運ばない区域だ。
「本多さんも、お一人で暮していて不安じゃないですか?」
「……逆に一緒に住んでいる人がいる方が不安な気がします。もし同居人が感染してしまったら……、ほら平野さんが今作っていたバリケードなんて、逆に逃げ場をなくすようなもんですし」
平野さんは黙り込む。本音ではあったが、少しだけ茶化した言い方をしてしまったかも知れないと反省した。
「……実はバリケード作ってた理由、もう一つあるんです」
感情を抑え込むような、不自然に抑揚の少ない声だった。
「寝てる間に私がゾンビになったらどうしようって」
彼女の声は徐々に震え始める。
「……嚙まれでもしたんですか?」
「いえ、そういうことではないんです」
感染が広まってから数週間、このゾンビウイルスについての情報はある程度公開されていた。空気感染は今のところ確認されておらず、傷口や粘膜からの感染が主経路となっているとのことだった。彼女自身が感染しているかもと思う根拠が何かしらあるのであれば、警戒するべきかも知れないと思ったのだが。
「おかしいですよね、冷静に考えれば可能性は低いって分かるはずなのに」
自嘲して笑う彼女に、何も良い返せない。
「私自身がもしそうなったら、せめてこの部屋から出られないようにしなきゃ、ほかの人を襲っちゃうんじゃないかって。……それで結局、本多さんには騒音って形で迷惑掛けちゃったんですけど。……本当、すいません」
やがて嗚咽を挟みながら続けられる言葉を頭で反芻し、ようやく声の方を見ると、まっすぐと平野さんの涙が溜まった瞳がこちらを見ていた。
「そうなったら、私のこと殺してくれませんか?」
返事をしようとするも、口の中が乾いて上手く開けない。グラスから紅茶を一口すすり、一息おいて口を開いた。
「……いいですよ、それで安心できるなら」