世界一優しいストライカーの辞め方 作:かなりゆっくりめ
そして三日後。
今度こそ、菖蒲田慎吾はサッカーを学べるのでしょうか。
なお本人は、絵心甚八のことを今でもかなり尊敬しています。
公欠届の窓口まで作ってくれたのか。
最前列の椅子から壁を見上げる。
『公欠届発行窓口はこちら』
その隣には、もっと長い横断幕もあった。
『※本プログラムは任意参加の研修であり、いつでも自由に退室可能です』
うん。これだけ大きく書いてあれば、後ろの人にも見えるだろう。学校への説明も助かる。帰ったら顧問に渡すのを忘れないようにしよう。
壇上には演台と、パイプ椅子が一つ。椅子に座ったスーツ姿の弁護士さんは、腕を組んでじっと前を見ていた。
その横で、絵心さんがマイクへ顔を寄せる。
……顔色、悪くないか。
眼鏡の下に濃い隈がある。ここからでも分かるくらいだ。長い息がスピーカーを通って、ホールへ流れた。
『……あー。えー……帰りたい子は、帰っていいです』
後ろがざわざわし始めた。
初日とはずいぶん声が違う。疲れているんだろうか。準備するだけでも大変だものな。
『……遠方から来た生徒には、学校長宛ての公欠届をJFA名義で発行します。また、インターハイ予選および全国大会出場校の生徒には、大会期間中の一時外出の自由を認め、その間のカリキュラムは一時中断とします……くそっ』
よかった。全国大会には出られるんだ。
皆で勝ち取った出場権だ。俺だけ置いていってもらうわけには――ん?
「え? 今なんて?」
椅子から身を乗り出すと、絵心さんの肩がびくりと跳ねた。
『い……いえ、なんでもないです……』
口元を手で押さえている。隣の弁護士さんが顔を向けると、絵心さんはさっと目を逸らした。
聞き間違いかな。最後だけ、よく聞こえなかったんだけど。
『ゴホン……。えー、世界一のストライカーになることよりも……サッカー後進国のハイスクールで日本一になることの方が大事だと思うなら、どうぞお帰りください……』
いや。それじゃ、帰りたい人が帰れないでしょう。
さっき見上げた横断幕へ、もう一度目をやった。自由に退室可能。ちゃんと書いてある。
それに、全国で勝ちたいと思うことの、何がいけないんだ。雪の混じるグラウンドで、肩を組んで喜んだ皆の顔が浮かぶ。あれを、そんなふうに言われたくない。
「先生。日本サッカー界および全国4000校のサッカー部に対する明確な侮辱発言ですね。先日の事情聴取でも指摘されたはずですが、やはりこのプロジェクト自体、何か特定の思想に偏った極左的、あるいは反社会的な……」
『絵心さん!! 言動には細心の注意を!! 侮辱罪と信用毀損罪に抵触します!!』
舞台袖からアンリさんの声が飛んできた。拡声器を両手で握り締め、半分こちらへ出てきている。
近い近い。ここ、最前列です。そんなに大きな声じゃなくても聞こえます。
弁護士さんは組んでいた腕をほどき、バインダーへ何か書き込んだ。赤ペンの先が忙しく動く。
『くぅぅ……す、すいません……訂正します……』
ぎしり、と演台が鳴った。
両手が、その縁をつかんでいる。細い指の関節が白い。……そんなに力を入れたら、台が傷むんじゃないかな。
隣から視線を感じて顔を向けると、潔君が俺を見ていた。口が半分開いている。
どうしたんだろう。俺の顔に何かついている?
首を傾げたら、潔君は前へ向き直ってしまった。
『……だが、これだけは曲げられねぇ。日本の組織力は一流だ。しかしそれ以外は……一流とは言い難い。おい才能の原石ども、サッカーとはどのようなスポーツか分かるか?』
お。ようやくサッカーの話だ。
膝の上へノートを出した。せっかく来たんだから、皆に持って帰れる話を聞きたい。
『サッカーとは、相手より点を多く取るスポーツだ! 誰よりもゴールを奪う奴が一番偉いんだよ!』
「違います!!!」
『……あァ!?』
「サッカーとは、相手に点を取らせなければ絶対に負けないスポーツです!」
『はァ!? ならどうやって勝つんだよ! 点を取らなきゃ勝ちはつかねぇだろうが!』
「PK戦で勝てばいいです!」
『……は?』
そんなに驚くことかな。強い相手と同じように攻めて、同じように点を取り合えるなら、最初から苦労しない。
「近代フットボールにおける守備戦術の進歩を無視しないでください。強固なカテナチオと全員守備を90分間徹底すれば、失点確率は極限までゼロに近づきます。そして焦った相手が前がかりになった瞬間に生まれるスペースを突く、あるいはPK戦へ持ち込む。これぞリソースに劣る側の最も合理的な勝ち筋であり、日本のお家芸です!」
一人で止められなければ、もう一人が行く。その後ろも、誰かが埋める。
北拓で何度も合わせた動きだ。足が止まると間に合わないし、声を出さないと同じ相手へ二人とも出てしまう。
守るのだって、いっぱい練習するんだけどな。
絵心さんは黙っている。
……もしかして、そういう試合を見ていないんだろうか。忙しくて見られないのか。それとも。
「あの……絵心さん、もしかして最近テレビ見てないんですか? 昨今の主要国際大会のスタッツや戦術トレンドをご存じない……? いや、まさか……貧乏でテレビが買えないんですか? よければ僕の部屋のポータブルテレビ、余ってるので差し上げましょうか? ちゃんとB-CASカードも名義変更して送りますよ?」
『ぐ、ぐぬぬぬぬ……!!』
あれ。困らせてしまったかな。遠慮しなくていいのに。家で余らせておくより、使ってもらえたほうが嬉しい。
小さな拍手が聞こえた。
「……菖蒲田君の言う通りだ。守備の美学を否定するのはフットボールへの冒涜だよ」
吉良選手が頷いてくれる。嬉しくなって、俺も頷き返した。
松風黒王のエースも、そう思うんだ。帰ったら皆に話そう。うちの守備陣、絶対に喜ぶ。
潔君は頭を抱えていた。指が髪の中へ埋まっている。
……話が長かったかな。そうだよな。早く練習したいよな。俺だって、まだ一度もボールを蹴っていない。
壇上で、かさりと音がした。
絵心さんがジャケットの内側から小さな包みを取り出している。薬だろうか。口へ入れると、そのまま顎を動かした。ぼりぼりと、マイクが音を拾う。
水、要らないのかな。
こちらへ向いた目が、眼鏡の奥で光った。
『屁理屈をこねるな……! 世界一のストライカー、バロンドールに輝いたフランス代表ノエル・ノアの言葉を教えてやる。――「味方にアシストして1対0で勝つくらいなら、自分がハットトリックを決めて3対4で負ける方がいい」。これがストライカーの哲学だ!』
ああ。その言葉なら知っている。
でも、三点取って四点取られるのか。あと一回止められたら、負けずに済んだのに。俺だったら、そっちが気になって眠れないと思う。
「でもノエル・ノア選手、その発言をしたシーズン、チームは国内リーグの優勝を逃しましたよね」
『……ッ!』
好きな選手の話に水を差すのは、申し訳ないけれど。勝てなかったことまで、格好よく扱っていいのかな。
「プロスポーツは興行であると同時に、クラブの株主やスポンサー、何万人ものサポーターの生活を背負っています。チームを敗北させておいて自分だけ目立って喜ぶなんて、ただの職場放棄であり契約不履行です。格好悪いにも程があります」
うちの試合でも、寒い中で応援してくれる人がいる。朝早く車を出してくれる人もいる。
その人たちの前で、自分は三点取ったから満足です、なんて言いたくない。俺が点を取れなくても、皆と勝って帰れるほうがいい。
『エ、エリック・カントナ曰く! 「チームのことなどどうでもいい、俺が目立てばそれでいい」だ!!』
「カントナ選手、観客席のサポーターにカンフーキックを食らわせて暴行罪で起訴され、代表からも追放されましたよね」
ボールを蹴るのは大好きだけれど、人を蹴るのは駄目でしょう。
プレーを教わりに来たはずなのに、何だか違う授業になってきた。
『サッカーの神様ペレ曰く! 「世界一のFW、MF、DF、GKは誰かと問われれば、すべて自分だと答える」だッ!!』
あ。それはいいな。
全部やりたいのか。分かる。すごいセーブを見ればキーパーをやってみたくなるし、きれいなロングパスを見れば同じように蹴りたくなる。
「それは『一人で全部のポジションをやりたいくらい、サッカーという競技を愛している』という、少年のように純粋なリスペクトの言葉ですね。微笑ましいです」
『なっ……!?』
そんなに意外かな。どのポジションにも面白いところはあるんだから。自分が点を取る話だけにしてしまうのは、もったいない。
「文脈(コンテクスト)を無視して都合のいい言葉だけ切り抜くのは、悪質な情報商材屋の常套手段ですよ、絵心さん」
『黙れェェェッ! 世界一のエゴイストでなければ、世界一のストライカーにはなれねぇんだよッッ!!』
そんなに怒鳴らなくても聞こえますよ。言いたいことは分かったけれど、その世界一になるために、仲間をどうでもいいと思わなきゃいけないなら。
「じゃあ、ストライカーなんていなくていいですよ」
『……あん?』
「大空翼くんみたいな選手がいれば十分です。彼はいつだってボールを友達と呼び、チームメイトを信じてパスを繋ぎ、世界の頂点へ行きました。翼くんはエゴイストではなさそうですねぇ」
翼君の真似なら、俺もした。あんなシュートを蹴ってみたいと思ったし、味方と息を合わせてボールをつなぐのも楽しかった。
皆でやるから面白いのに。
『ふざけてんじゃねぇぞガキがァァッ!!』
え。そこまで怒る? 真面目に話しているつもりなんだけど。作品を選び間違えたんだろうか。
「えっ……ご、ごめんなさい……。もしかしてサッカー漫画じゃなくて、バスケ派でしたか? 僕も読みましたよ、『黒子のバスケ』影として光を支えるチームプレイ、胸が熱くなりますよね」
『漫画の話をしてるんじゃねぇぇぇぇッッ!!』
あ、漫画そのものが駄目なのか。
全国から集められた高校生が三百人。これから入るのは、世界一のストライカーを作るための青い監獄。
……それを言うなら。
「……高校生を300人集めて監獄に閉じ込めるっていう、漫画みたいな施設を作った大人が言っても説得力ゼロですね」
目の合った選手が頷いた。その隣も、後ろの列も。見回す先で、次々と首が縦に動く。
うん。やっぱり、そう思うよな。
漫画みたいでも、サッカーがうまくなれるなら俺は嬉しい。ただ、どうやってうまくなるのかを、そろそろ聞きたいんだけど。
荒い息がスピーカーから流れた。
絵心さんのこめかみに、血管が浮いている。マイクを握り直すと、膝を曲げ、演台の向こうから低く身を乗り出した。
『……想像してみろ。お前たち全員、目を閉じて脳味噌に焼き付けろ……!』
今度は何だろう。
目を閉じた。隣で潔君が息を吸う音がした。
『舞台はワールドカップ決勝。8万人の大観衆が見守る中、スコアは同点、後半アディショナルタイム、ラストプレー……! ピッチを駆け上がったお前の右6メートルには、完全にフリーの味方がいる。 パスを出せば、100パーセント確実にゴールが決まり、日本は初優勝を果たす。 そんな極限の局面……!』
八万人か。北海道大会のスタンドを、ずっと大きくしたらいいんだろうか。
観客の顔までは浮かばない。でも、最後の最後にボールを持つ自分なら想像できる。
脚は重いし、息は苦しい。顔を上げる。右に味方がいる。
六メートル。しかも、完全にフリー。
よし。蹴りやすいところへ出してあげよう。持ち直さずに打てるように、利き足へ。そこへ通れば、日本が優勝する。
『味方へのパスを捨て、迷わず自らの足でゴールを撃ち抜ける狂気! 国民の期待も、仲間の人生も踏み躙り、己のゴールのためだけに引き金を引けるエゴイストだけが……世界一のストライカーなんだよ!!』
……え?
目を開けると、絵心さんがこちらへ顔を突き出していた。マイクを握る拳にも、首筋にも力が入っている。
誰も喋らない。椅子を動かす音も止んでいた。
俺は少し待った。続きはないらしい。
今、パスを出せば必ず入るって言ったよな。
「パスをしない奴は、スポーツマンじゃないですね」
『……あ?』
「業務上横領、あるいは背任行為に等しいですよ。右6メートルに100パーセント決まるフリーの味方がいるのに、エゴで確率の低い無理なシュートを撃つなんて、ただのギャンブル依存症です。 仮にそれがマグレで決まって優勝したとしても、海外メディアからは『チームプレイを無視した身勝手なラッキーボーイ』として永久に戦術的欠陥を非難され続けますよ」
味方に渡せば優勝だ。抱きついて、皆でもみくちゃになって、キーパーがこっちまで走ってくるのを待てばいい。
また背の高い奴らに囲まれて、顔が見えなくなるかもしれないけど。それだって嬉しいじゃないか。
わざわざ、その全部を取り逃がすかもしれないほうへ行くのか。
『何十年経っても名を残す英雄になれるんだよッ!』
「何十年経っても悪名を残してどうするんですか? 嫌ですよ、そんなの。引退後に企業のCMにも出られないし、解説者のオファーも来なくなります。コンプライアンス的にスポンサーがつきません」
気になるよね。プロになれたとして、ずっと現役でいられるわけじゃないんだから。サッカーをやめたあとも、ご飯は食べていかなきゃいけない。
「普通に美しいアシストをしてチームを優勝させれば、国民栄誉賞ですよ? だいたいですね、今の時代、YouTubeやTikTokを見てごらんなさい。一人で無理やり決めた泥臭いゴール動画より、完璧な連動から生まれた『美しい神アシスト集』や『相手を讃える感動のフェアプレー集』の方が、圧倒的に再生回数も高くて好感度も上です」
小さな声が、後ろから聞こえた。
「あ……確かに……」
「アシストの方が切り抜き動画でバズるよな……」
「炎上して一生叩かれるの普通に嫌なんだけど……」
俺も、きれいなアシストは何度も見てしまう。最初はボールを追って、二度目はパスを出す人を見て、三度目でやっと、逆側の味方が相手を引きつけていたことに気づいたりする。
ああいうのを、ここにいる皆とやれたら楽しそうだ。
『て……テメェら……惑わされるな……! お前たちはストライカーだろ……!? 世界一の……飢えた獣に……ッ……!』
そんなに無理をして喋らなくても。獣にならなくたって、俺たちはサッカーをしたくて来ているんですよ。
「絵心さん。現代社会はタイパとリスクマネジメントの時代です。みんな、賢く健全に勝ちたいんですよ。ね、皆さん?」
体を後ろへ向けると、いくつもの顔がこちらを向いた。
「うん」
「そうだね」
近くから返事が来る。その向こうでも頷いている。ずっと奥の列まで顔が動くのを見て、俺も嬉しくなった。
やっぱり、そうだよな。せっかく全国から集まったんだから、皆でうまくなりたい。
『………………ッ』
バタムッ。
振り返った途端、甲高い音が耳に刺さった。マイクが演台の上を転がっていた。
肩が震えていた。そのまま背中が低くなって、演台の陰へずるずる沈んでいく。横には椅子があるのに、そちらへ座る様子もない。
え。ちょっと。大丈夫ですか。
『絵心さぁぁぁん!! 救護班! 胃薬と経口補水液持ってきて!!』
だから、顔色が悪かったんだ。胃が痛いなら、先に言ってくれればよかったのに。
「本日の説明会は以上となります。参加希望者は廊下の同意書にサインの上、第1次選考会場へ移動してください。なお、無理な参加の強要は一切ございません」
周りで椅子を引く音が重なった。
もう終わりか。ノートを見下ろす。選手の名前がいくつかと、書きかけのメモ。練習方法を書くところまで、今日もたどり着けなかった。
まあ、具合が悪いなら仕方ない。続きは元気になってから教わろう。
早く皆のプレーを見たい。俺も、北拓でやってきたことを見てもらおう。
菖蒲田慎吾は、絵心甚八を論破したいわけではありません。
テレビがないなら貸します。
100%決まるならパスします。
具合が悪いなら休んでほしいです。
全部、本気です。
ただしその結果、
「世界一のエゴイストを育てたい男」
VS
「みんなで賢く健全に勝ちたい男」
という、致命的に噛み合わない対決になっています。
なお慎吾はまだ一度もボールを蹴っていません。
次回こそ、たぶんサッカーをします。
たぶん。