世界一優しいストライカーの辞め方   作:かなりゆっくりめ

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ようやく始まった、青い監獄での本格的なトレーニング。

走って、跳んで、鍛えて、競う。

今度こそ何事もなく、普通にサッカー選手らしい一日を過ごせそうです。

なお、菖蒲田慎吾は育ち盛りです。


アスリートの食事は基本的人権です

隣の靴音が、マシンの低い唸りを押しのけて耳へ届く。

 

雷市君、まだ走れるのか。すごいな。

 

横目に見える腕は大きく振れて、顎から飛ぶ汗は途切れない。食いしばる歯まで見えるのに、ベルトの上で後ろへ流される様子はない。俺も歩幅を崩さず、正面の表示へ目を戻す。

 

「ハァッ……! ハァッ……! クソがぁぁぁッ! おいチビ……! てめぇ……最後まで……走りやがれ……ッ!」

 

うん。あと少し。

 

一時間二分五十八秒。五十九秒。

 

息を吐き、次の足を出す。三分ちょうど。ここでストップボタンを押す。

 

ベルトの速度に合わせて歩幅を縮めると、足裏にかかる重みも変わる。走るところから歩くところへ、ゆっくり。最後は両足をそろえる。

 

手の甲で額を拭う。汗の粒が指先へ流れて、機械の縁へ一滴落ちる。雷市君の表示も、もう一時間を越えている。

 

「雷市君、すごいね! 高校生で時速20kmを1時間超えるなんて、なかなかできることじゃないよ! 心肺機能は日本代表クラスだ!」

 

「お前……ッ! なんで……そんな……ケロっと……走っ……おえええええっ!!」

 

あっ。

 

隣の靴音が乱れる。ベルトへ戻るはずの足はもう片方の脚へ引っかかり、伸びる腕は手すりに届かない。

 

マシンを下り、すぐにしゃがむ。目の前の背中は汗で濡れて、大きく上下する。両手は床へついているけれど、喉からはまだ苦しそうな音が続く。

 

大丈夫かな。まず、タオルだ。

 

近くの一枚を差し出すと、汗まみれの手がこちらへ伸びる。握れるならひとまず安心だ。吐きそうなら無理に立たず、このまま休んでもらおう。

 

壁際の潔君とも目が合う。膝を立てて座る姿の向こうには、三十分で止まるマシンの表示。その視線は雷市君から俺へ、俺から一時間三分の数字へ移る。

 

数字が気になるのかな。

 

俺もタオルを取って顔へ当てる。頬から首まで拭うと、汗の冷たさがようやく消える。

 

「俺は身体が小さいからね。スタミナがないとピッチで生き残れないんだ。まだまだ頑張らないと!」

 

体をぶつけ合うなら、大きい相手が有利だ。だから、離されても追いつきたい。前で奪えなくても、もう一度戻って止める。ゴールへ走るときにも、戻るときにも、脚が動いてくれないと困る。

 

北拓では、皆に付き合ってもらう練習も多い。走りすぎだと笑われるけれど、最後まで一緒に走れるのは嬉しい。

 

……あれ。向こうはまだ続いている。

 

吉良君の靴音には、ほとんど乱れがない。

 

俺が水を飲む間も、雷市君の息が落ち着く間も、皆と話す間も、同じ間隔でベルトを叩く音が続く。隣の画面では数字が増えていく。まだいくのか。もう少しいけるのか。

 

その音がようやく緩む。

 

止まる表示へ身を寄せると、一時間四十四分八秒。

 

「ふぅ……限界まで追い込まなくても、基礎心拍数を上げる良いトレーニングになるよね」

 

水を飲む吉良君と目が合う。口元を拭うタオルの上から、こちらへ向く目は涼しげだ。

 

「さすが日本の宝……」

 

本当だ。すごいな。一緒に試合をするなら、最後まで走り込んでくれるんだろうな。俺の出すパスにも、どんどん追いついてくれそうだ。

 

早く試してみたい。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

今度は百メートル。スタートの機械と、ゴールのセンサー。学校で測るときはストップウォッチだから、こんな設備を使えるのは少しわくわくする。線も真っすぐだし、足元も走りやすそうだ。

 

前の組には千切君がいる。

 

きれいな髪だな。構える姿勢を確かめていると、右脚へ体重を乗せるところで腰の動きが小さくなる。

 

ん。左は、あんなふうにならないのに。

 

「ふぅ……行くぞ……おおおおッ!」

 

速い。

 

最初の数歩に目が引きつけられる。あの踏み込みなら、ここからもっと伸びる。中盤へ入るところで上体も――。

 

あれ。

 

右足の蹴り出しが弱くなる。次も、その次も。左で進む勢いを右でそっと受け止めるような走り方だ。

 

ゴールの表示は十一秒一二。

 

俺は顎へ指を添え、レーンの向こうまで歩く。さっきの右脚と左脚を、頭の中で並べてみる。

 

「んん?? 千切君、怪我明けかい? 本気で走れてないね」

 

「……な、何言ってんだよ。俺はこれが普通――」

 

「ちょっと右足、見せてごらん」

 

「お、おい……触るなッ!?」

 

膝の後ろへ指を添え、もう片方の手を皿の周りへ滑らせる。脚にぐっと力が入る。

 

指先へ強い熱は伝わってこない。触れるところから痛そうに膝を引く様子もない。腿の張りを確かめて、手を離す。

 

あの走り方、痛むところから逃げている感じじゃないんだよな。もっと出せそうなのに、速くなるところで抑えてしまう。

 

「大腿四頭筋の筋力バランス、靭帯の再建部の可動域、炎症反応……うん、完全寛解(かんかい)してるね。患部の補強トレーニングも完璧だ。ドクターからも全開のプレー許可が出てるはずだよ。あとは、君の心の『思い切り』だけさ!」

 

返事がない。

 

膝へ向く視線を追うと、やがて顔がこちらへ上がる。目が合う。口元が少し動くけれど、言葉より先に、次の組を呼ぶ声が背後から届く。

 

俺の順番か。

 

「よし、僕の番だね!」

 

ラインに足を合わせ、遠くのゴールを見据える。

 

息を吐く。肩を下げる。手を一度開いて、指先の力も抜く。

 

押す。腕を引き、次の足でまた押す。最初の数歩は低く、脚の回転に合わせて顔を上げていく。

 

横の景色が後ろへ流れる。

 

三十メートル。三・〇秒の数字が目の端に入る。いい感じだ。もう前へ足を伸ばしすぎず、この速さに合わせて運ぼう。

 

ゴールの線を越える。

 

少しずつ速度を落とし、顔を戻すと、掲示板に俺の名前が見える。

 

十秒四八。

 

お。いい記録だ。

 

吉良君の欄は十秒八九。長く走れるうえに、こっちも速いんだな。

 

「「「じゅ、10秒48……!?!?!?」」」

 

皆の声が一度に耳へ飛び込む。

 

戻る先では、五十嵐君の指が掲示板へ向いている。口も目も大きく開いて、俺の顔へ、また数字へと視線が忙しい。

 

「インターハイの陸上短距離で決勝に残るレベルじゃねぇかァァッ!!」

 

「あはは、追い風のおかげかな! さぁ、次は垂直跳びだね! これはちょっと自信があるんだ!」

 

「へぇ〜、面白い! よし、勝負しよう!」

 

吉良君の笑顔につられて、俺も頬が緩む。

 

「俺も混ぜてよ! 高さは武器だからね!」

 

久遠君も一緒か。いいね。競う相手が増えると、思い切り跳ぶのがもっと楽しくなる。

 

測定マットへ立ち、足の位置を決める。左右から見える膝の曲がりに合わせて、俺も腰を落とす。両腕を後ろへ引く。

 

「せ〜のっ!!」

 

腕を振り上げる。足で床を押す。

 

ふわりと胸が軽くなる。

 

床が遠い。もう一瞬、この高さで浮いていたいな。頭上のボールへ先に触れるときは、この浮く感じを逃したくない。

 

下り始める体に合わせて脚を伸ばし、足裏が床へ触れるところで膝を曲げる。横からも二つ、着地の音が響く。

 

モニターへ顔を寄せる。三人で覗くには少し狭いので、横へ半歩ずれる。

 

久遠君、六十八センチ。吉良君、八十二センチ。

 

俺は――八十八センチ。

 

「よし!! 一番!!」

 

「す……すげーな慎吾!! 助走なしで88cmって……バスケのNBA選手並みだぞ!?」

 

「身長160cmだからね! 空中のボール競り合いで大きな選手に負けないよう、バネだけは中学時代から徹底的に鍛えたんだ〜!」

 

届かないから諦める、じゃ悔しい。相手より先に跳んで、上がってくる前に触れればいい。

 

中学では、何度もタイミングを外した。高く跳べても、ボールに合わなければ空振りだ。皆に笑われながら合わせるうちに、頭へ当たる回数も少しずつ増えた。

 

八十八か。北拓でも、今度測ってもらおう。皆と一緒にやってみたいな。

 

 

 

◇

 

 

 

次の場所には懸垂のバーがある。

 

潔君の手元を見ながら、俺も順番を待つ。上がって、下りて、また上がる。三回目になると肘が震え、靴の爪先まで力が入り始める。

 

「ぐぐぐ……! サッカーに……こんな筋肉……関係あるのかよ……ぐあっ!」

 

五回で指が離れる。

 

床へ下りる足音と、長く吐く息。目の前で両腕がぶらぶら揺れるのを見ると、俺まで肩を回したくなる。

 

我牙丸君の番か。長い腕なら、そのぶん上がるのも大変そう――いや、もう顎がバーを越えている。

 

「まあ……上半身の引きつける力はあるに……越したことは……ない」

 

喋りながらでも、すいすい上がる。

 

引っかかるところがない。顔とバーの間が近づいて、離れる。その繰り返しを見ているうちに、回数は四十へ届く。

 

着地のあとに聞こえる息も、ひどく乱れるほどじゃない。身軽だなあ。ピッチでも、あんなふうに飛び出すのかな。

 

國神君の握る手には、甲まで筋が浮いている。

 

「ふんッ! はッ! まだまだぁッ!!」

 

背中が動くたび、服の形まで変わる。三十二回目で顎がバーを越え、そこから腕がゆっくり伸びる。

 

あの肩を試合でぶつけられるのは困るな。できれば味方でいてほしい。俺なら、ボールを運ぶときに横へ入ってもらいたいな。

 

「体幹と広背筋を連動させて、全身をバランスよく鍛えないとね」

 

隣のバーから届く吉良君の声は、まだ落ち着いている。

 

俺も両手の位置を決める。上げる。下ろす。脚を振ってしまわないよう、腹へ力を入れる。

 

横で上がる頭が、視界の端へ入る。同じくらいの間隔だ。負けずに上がろうとして顎を突き出さないように、自分の肩と腕を確かめる。

 

五十を越えるころには、少しずつ遅れる。

 

指先が熱い。腕も重い。もう一回。これで六十七。最後まで下ろして、手を離す。

 

隣からはまだ、同じ間隔の息が聞こえる。

 

七十。八十。八十九。

 

「吉良君……結構ヤバい記録だね」

 

床へ下りる吉良君と目が合う。涼しい顔だ。

 

懸垂も勝てないか。あんなふうに、最後まで形を崩さず続けられるのは羨ましい。俺ももう少し鍛えよう。腕に力が残れば、競り合うときの姿勢も保ちやすそうだ。

 

 

 

◇

 

 

最後の種目は反復横跳び。

 

向かう先に三本の線が見える。潔君の足元からは、床を引きずるような音が届く。

 

「ぜぇ……はぁ……最後に……これは……足腰に堪える……!」

 

線をまたいで、戻る。

 

何度か続くと、着地の音が重くなる。

三十二回。顔はすっかり下向きだ。

 

きついよな。俺の脚にも、ここまでの疲労がまだ残っている。次に何が来るか分かるぶん、もうひと頑張りするのも大変だ。

 

「ほっ、ほっ、ほっ!」

 

吉良君の靴は、線のぎりぎりをまたぐ。行きすぎない。戻るところで体も浮かない。

 

一〇二回。

 

まだそんなに動けるのか。

 

俺も真ん中の線へ足をそろえる。膝を曲げ、重心を低くする。次は負けたくないな。横へ動くのなら、普段からずいぶん練習する。

 

「吉良君、やっぱりすごいね! でも僕も負けないよ!」

 

合図に合わせ、左で押して右で受ける。

 

線を越えるところで、その足から押し返す。体を起こさず、同じ高さで。目線を上下させると、足の運びまで乱れそうになる。

 

踵を強く落とさない。足の裏で短く床をつかみ、そのまま次へ戻る。

 

これなら、相手の切り返しにもついていける。右へ行くふりをされても、左へ戻れる。ボールを追うときと同じように、足元へ気持ちを集める。

 

終わりの合図。

 

止まって顔を上げると、一一五回。

 

よし。こっちは俺の勝ちだ。

 

床へ座り込む潔君と目が合う。笑いかけると、口元が動く。言葉は聞こえず、視線がまた俺の足へ戻る。

 

ずいぶん疲れているみたいだ。ひとまず水を飲んで、休もう。俺も、さすがに腹が減る。

 

 

 

 

 

◇◇

 

 

 

 

 

 

 

ああ、嬉しい。何を食べられるんだろう。測定の話も、食べながら皆としたいな。吉良君には、いつもどんな練習をするのかも聞いてみよう。

 

味噌汁の湯気を見ながらトレイを受け取り、席へ向かう。

すぐそばの潔君の箸は、まだ机の上だ。トレイへ向く顔が動かない。

 

「ご飯と……ワカメの味噌汁と……納豆だけ……? 肉は……?」

 

納豆の容器が一つ。ご飯と味噌汁。その隣には、皿を置けそうな空きがある。

まだ配られるのかな。

 

「ふざけんなァァァッ! 俺なんか、麦飯とたくあん2切れだけだぞ!! 寺の修行よりひでぇよ!!」

 

五十嵐君のトレイには、もっと大きな空きが見える。

 

麦飯の横に、黄色いものが二切れ。持ち上がる皿の下を俺も覗くけれど、そこには何もない。下へ隠してあるわけじゃないらしい。

 

向こうの席には、ステーキとサラダが並ぶ。吉良君と國神君のところだ。

 

あっちにはあるんだ。

 

『……ケッハハ、不満そうだな負け犬ども。それがお前たちの「現在の価値」だ。美味い飯を食いたければ、サッカーで結果を出して這い上がれ。飢餓感こそがストライカーを育てる――』

 

「異議あり!!!!!」

 

『ま……またお前かァァァッッ!!』

 

また、と言われても。

こんな食事で明日を迎えろと言うのか。

 

「食事はもっと必要です! 基礎代謝と消費カロリーの計算がまるでできていません!」

 

『あァ!? チーム内のランキングに応じた正当な競争報酬だ! 資本主義の縮図を学ばせてやってんだよ!』

 

強くなりたいからここへ来るんだ。勝ちたいから練習するんだ。腹を空かせて動けなくなれば、順位を上げるどころじゃない。

 

こんなのを競争のご褒美にしないでほしい。

 

「成長期のアスリートに対して、過酷なトレーニングを課しながら必要な三大栄養素(タンパク質・脂質・炭水化物)を意図的に剥奪する行為は――児童虐待の防止等に関する法律第2条第2号【身体的虐待】、および同条第3号【保護者としての養育を著しく怠る行為(ネグレクト)】に明確に抵触します!!」

 

『は、虐待だとォォッ!?』

 

「成人未満の青少年の健康を著しく損なう食事制限は、刑法第218条の保護責任者遺棄罪にも該当します! 直ちに通報案件です!!」

 

我慢してもらうつもりはない。

 

一、八、九。

 

「もしもし、児童相談所虐待対応ダイヤル『189』ですか? 事件です。未成年に対する計画的な栄養失調の強要事案が発生しておりまして――」

 

『やめろぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!!!!』

 

耳よりも、部屋中のスピーカーのほうがうるさい。

 

続けて配膳口から、ガラガラと大きな音が響く。上がるシャッターの向こうに、大きなトレイを抱える人たちが見える。こちらへ運ぶ皿から、湯気まで上がる。

 

「ひぃぃぃ! 全員分! 全員分の牛サーロインステーキと野菜サラダと牛乳、今すぐ出します!! 通報だけはやめてくださいぃぃっ!!」

 

あるじゃないですか。

 

潔君の前へ、肉の皿が置かれる。五十嵐君のところにもサラダと牛乳が届く。黄色い二切れの隣が、ようやく食事らしく埋まる。

 

「ス……ステーキだァァァッ! 肉だ肉ぅぅぅッ!!」

 

皿へ近づく五十嵐君の顔には、涙まで浮かぶ。

そんなに嬉しいか。うん。嬉しいよな。俺も、この匂いを嗅ぐと、腹がますます減ってくる。

 

通報をいったん保留にして、端末を下ろす。スタッフさんと目が合うので、笑って頷く。ちゃんと食べさせてもらえるなら、それが一番いい。

 

「ふぅ、話が早くて助かります。皆さん、バランスよく咀嚼して、しっかりタンパク質を補給してくださいね!」

 

ゆっくりでいいよ。取られないから。

 

よし。まずは全部、いただこう。




菖蒲田慎吾、本日の記録。

100m 10秒48。
垂直跳び 88cm。
反復横跳び 115回。
時速20kmで1時間3分。

それでも本人が一番気にしていたのは、

「みんなのご飯が足りない」

でした。

世界一のストライカーを育てる前に、まずはちゃんと食べさせましょう。

なお絵心甚八は今回、
「189」
という新たな数字を覚えました。
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