世界一優しいストライカーの辞め方 作:かなりゆっくりめ
眠れない潔世一は、蜂楽廻とともに自主練へ向かいます。
そこで目にしたのは、昼間とは少し違う二人の姿でした。
今回は潔視点です。
眠れない。
毛布を顎まで引っ張っても、全然眠くならない。横を向いても、目を閉じても、昼間の測定結果が浮かんでくる。もう見なくていいだろ。あんな数字、何回思い出したって変わらない。
懸垂は五回で腕が上がらなくなった。あそこから、どうやってもう一回やればよかったんだよ。吉良君はいつまでも続けていたし、菖蒲田も着地して笑っていた。俺はバーを見上げることしかできなかった。
腕がまだ痛い。曲げると、二の腕の奥まで響く。こんなに痛くなるまでやって、あれかよ。明日、同じことをやれって言われたら、五回もできるか分からない。
寝ろって。寝ないと、明日もっと動けなくなるぞ。
……駄目だ。もう二時になっている。天井のあの影も、さっきからずっと同じ場所にある。目を閉じれば暗くなるはずなのに、測定画面の数字はかえってはっきり浮かぶ。
みんなは寝てるんだな。向こうから聞こえる寝息も、ゆっくりだ。鼻をすする音まで聞こえる。俺のベッドばかりきしんでいるのも、ちょっと恥ずかしい。
このまま朝になって、またあの二人を見るのか。
いや、ボールなら蹴れる。体が小さくても、腕が弱くても、ボールはここにある。少し触ろう。部屋で考えていても眠れないんだから、外へ出よう。
そっと下りれば、誰も起こさずに済む。床、冷たいな。よし、足音はそんなに大きくない。ウェアはここにあるし、ボールも手が届く。ファスナーを引く音には、少し気をつけよう。
ドアの音、こんなに響くのかよ。誰も起きないよな。今ならまだ戻れるけど、戻って何するんだ。さっきと同じ天井を見ることになる。行こう。
「自主練??」
うわっ、びっくりするだろ。ボールまで落としそうになる。すぐ横にいるじゃねぇか。
「ば……蜂楽!? お前、起きてたのか……?」
なんでそんなに普通の顔なんだよ。
首まで鳴らして、ずいぶん気持ちよさそうだな。何も不思議じゃないみたいに笑っている。
「うん。なんかね、胸の中の『かいぶつ』が騒いで眠れなくなっちゃった。行こっか、イサギ!」
かいぶつって、何のことだ。聞いてみたいけど、蜂楽はもう行く気だな。廊下の先を見ているし、足もそっちへ向いている。
まあ、いいか。一人で行くつもりだったけど、二人で蹴るのもいい。蜂楽が何を考えているのかは、よく分からない。でも、横に誰かいると、息がしやすい。
◇◇
……何の音だ?
今の、ボールを蹴る音だよな。廊下まで響いている。次の音もすぐに来る。
「……!? 誰か、もう練習してる……?」
「わぁ……すっごい音!」
蜂楽、顔を出すの早ぇな。ちょっと待てって。俺もそっちから見たい。
照明は昼より少ないけど、真ん中は明るい。誰かいる。二人か。遠くのゴールじゃなくて、センターサークルで向き合っている。
……速くないか。
顔を見ようとすると、もう体の向きが変わる。どっちかが横へ行けば、もう一人もそっちへ入る。こんなに広いピッチなのに、使っているのはあの辺りなんだな。十メートルも離れないうちに、またぶつかりそうになる。
吉良君と菖蒲田じゃねぇか。
二人とも、起きているのか。声をかけようと思うのに、うまく息が出ない。ボールを抱える指にも力が入る。練習を見つけたんなら、普通に近づけばいいだろ。何やってんだ、俺。
「良いね!! 『守備型FW』ってやつは……こんなに前線から息苦しいプレッシャーをかけてくるのかよ!!」
「相手に点を取らせないスポーツってことは!! FWの足元から奪い取ってナンボだからね!! ほいっ!! また捕った!!」
そこから足を入れるのかよ。吉良君の脚の横に、菖蒲田の足がある。ぶつかるだろ、あの近さなら。いや、触れていない。ボールがするっと手前へ出て、もう菖蒲田の足元にある。
体まで吉良君の背中へ回っている。あんなふうに入られると、ボールが見えなくなるな。吉良君の肩も、まだ向こうへ向いている。
「まだまだァァァッッ!!!」
そっちへ回るのか!
今度は吉良君の顔がこっちに見える。菖蒲田の体の陰へ足が入る。あ、ボールが戻る。もう吉良君のほうへ転がっている。菖蒲田の膝が追う前に、体まで間へ入っているじゃねぇか。
「おおっ!? 今のは一本取られた!!」
……笑ってる。
吉良君も菖蒲田も、笑っているな。シャツなんて汗でびしょびしょだし、顎からも雫が落ちている。こんなに動けば、苦しいだろ。なのに、二人とも相手の顔を見て、また笑う。
ボールも止まらない。外へ出すと、菖蒲田も外へ寄る。内側へ戻すと、吉良君の肩も反対へ入る。追おうとするこっちの目まで、右へ左へ忙しい。
近ぇな。シャツの袖が触れそうになるたび、こっちまで息を止めてしまう。どっちも引かない。ボールが二人の間を通ると、短く吐く息が同じ場所から聞こえる。
吉良君が外へ向く。そっちかと思うと、小さな眼鏡の顔はもう反対側にある。ずっと見ているはずなのに、どこを通るのか分からない。
「へぇ……! いいな、楽しそう!!」
今のを見て、楽しそうって思えるんだな。もっと近くで見たそうにしている。
俺も寄ってみよう。ここなら、少しは足元が見やすいはずだ。
ああ、駄目だ。ボールを見ると、顔を見失う。顔を見れば、ボールが膝の陰へ入る。
網目の向こうに菖蒲田の眼鏡が見える。その下へボールが通る。よし、今は見える。……いや、もう吉良君の背中で隠れる。次には二人とも逆を向いている。
自分の心臓の音、うるさいな。ちゃんと見よう。見ていれば、次の一回くらいは。
あ、少し離れる。今ならボールもはっきり見える。菖蒲田の足元だ。眼鏡を押し上げる余裕もあるんだな。
「いや〜吉良君……俺も、少し本気を出そうかな」
……今、何て言っているんだ?
今までのは何なんだよ。俺は見ているそばから追いつけなくなるのに。
「気が合うね……! 俺も、少しだけ本気になろうかと思ってたところだよ!!!」
吉良君も、まだ本気じゃないのかよ。
髪をかき上げると、目がよく見えるな。あんな顔もするのか。俺と話すときの、穏やかな顔とはずいぶん違う。
今度はゴールへ行くんだな。菖蒲田がゆっくり運ぶ。その前に、吉良君がいる。二人の間からゴールの枠が見えるけど、体が少しずれるたび、また隠れる。
あそこにキーパーはいない。じゃあ、あの二人でシュートまでやるのか。もっと近くで見たい。
「君のシュートはどんなものかな!? 撃たせないけど!!」
「見てみるといいよ! ストライカー志望の『お宝』さん!!」
右へ行く。いや、左へ戻る。エラシコか。外へ触る足と内側へ戻す足が、ほとんど同時に見える。吉良君の肩も一度右へ寄るけど、すぐに踏み直す。
今度はボールが浮く。踵ですくうのか。吉良君の頭の上を越す……いや、菖蒲田も膝を曲げている。
「せいっ!!」
跳ぶのかよ!
高ぇ。ボールより上に顔がある。首を上げても、まだ菖蒲田の体が上へ行く。昼の垂直跳びは、八十八センチだったよな。目の前で跳ばれると、数字を見ているときよりずっと高く見える。
吉良君の頭より上で、背中まで反る。そこから前へ体を振る……ヘディングだ。あの位置から打つのか。
「この……ッ!!」
足が届くのか、それに!
吉良君の左足が、ボールと同じ高さにある。甲へ当たって、球が下へ落ちる。菖蒲田もまだ空中なのに、吉良君は右足のほうでもう打つ構えじゃねぇか。
あ、芝で一度跳ねる。
「よし……喰らえッッ!!」
速ぇ……。
ボールの模様が動かない。無回転か。右へ寄ると思うと、今度は左へぶれる。そのままゴールへ行く……いや、今の音はどこからするんだ?
菖蒲田の足先へ当たる。そこからボールが横へ逃げる。ポストの外を通って、壁へぶつかる。入らない。あのシュート、入らないのか。
蜂楽が横で指を鳴らしている。でも、今はこいつの顔まで見られない。ボールの行く先を見て、すぐ二人へ戻さないと、次が始まってしまう。
「クク…………良いね………吉良君………! 面白くなる…………。ついてこられるかい??」
……声、低くないか。
首の後ろがぞわっとする。笑っているはずなのに、菖蒲田の顔を見続けるのがちょっと怖い。あんなふうに相手を見上げるんだな。
「次は本気でやってみるかも……しれないよ!! ノロマなら、置いていくぞ!!」
吉良君も、目つきが変わる。
ボールを取りに行くところまで目で追う。膝の前に止めて、またこっちへ戻ってくる。菖蒲田もセンターサークルへ戻る。二人の間へ落ちる汗まで見えるのに、どっちも下を向かない。
息も落ち着いてくるな。吉良君が菖蒲田へボールを転がす。菖蒲田はピタリと止める。それから腰を沈める。吉良君も、少し足を開く。
「はっ……!!」
速っ……もう、そこまで行くのか!
ボールを押すのも、走り出すのも、一気に見える。フェンスのこっちで首を回すと、二人とも横へ動いている。菖蒲田の肩へ、吉良君の肩がぴたりと寄る。離れないな。あの踏み込みにもついていくんだ。
蜂楽も横へずれる。俺もそっちを見たいけど、ボールが腕から落ちそうになる。抱え直している間にも、向こうのボールはまた前へ出る。
「まだ、捉えられる……!」
吉良君の足が届きそうだ。そこへ爪先を入れれば、ボールに触れる。
「右…………左ッッ!!」
うわ、左へ戻る!
首までそっちへ引っ張られる。菖蒲田の肩、芝に近すぎないか。こんなに体を倒して、また前へ出るんだな。ボールを追うと、顔が下に見える。次には足が出て、また元の高さに戻る。
吉良君もいる。進む先に、もう体が入っている。菖蒲田のボールが膝の前へ出ると、そこへまた足を伸ばす。どこへ行っても、二人は同じ距離にいるんだな。
「『ライトニングドリブル』……とか、漫画みたいに名付けてみるかい!?」
よく喋れるな、この速さで。
二人がこっちへ近づいてくる。髪から飛ぶ汗まで見える。ぶつからないのかって思うくらい近いのに、どっちも足を止めない。吉良君の袖が菖蒲田の肩へ触れそうになる。
……いや、今、止まる!
菖蒲田は、その場にいる。服の裾は前へ揺れるのに、体は全然流れない。ボールまで足元に止まる。吉良君の肩は、少し先へ行く。
その間から、ゴールが見える。
「もうここは…………俺の距離だ!!」
今、打つつもりか。
……え、ボールはどこへ行くんだ?
音がするのに、ゴールのほうには行かない。そっちじゃない。横だ。吉良君が真横へ伸びて、その足裏からボールが転がる。
「ダメだなあ……守備型FWが、ストライカーの真似事は!!」
あそこから、まだ取れるのか。
フェンスへボールが当たると、手までびりっとする。吉良君は芝に肘をついている。そこから起き上がって、また菖蒲田を見て笑う。
菖蒲田のほうも、全然倒れない。ちゃんと立っている。止められたのに、そんな嬉しそうな顔になるんだな。
「ハハっ!!! 最高!!!!」
最高なのかよ。
こんなに楽しそうな声、昼間も聞くけど、今はちょっと違う。菖蒲田はもうボールへ足を添える。吉良君へ送ると、その足元でまた止まる。二人とも、まだやる気じゃねぇか。
俺は何をしにここへ来てるんだ。ボールを蹴りたいからだろ。
出入口はすぐそこにある。横へ寄って、入ればいい。声をかければ、二人ともこっちを見る。その前に、もう一回始まるかもしれない。……駄目だ。足が動かない。
「あははっ! 俺も混ぜろ〜〜〜ッッ!!」
おい、そっちから入るのか!
迷わないんだな。今の二人を見ても、笑って入れるんだな。蜂楽の声が、もうピッチの真ん中から聞こえる。さっきまで隣にいるのに、急に遠くなる。
俺も行こう。ここでいつまでも立っていられない。
「えっ……? 蜂楽君と……潔君……??」
吉良君は気づいてくれる。俺と蜂楽を見て、少し目を丸くする。頬の汗を拭うと、いつもの顔に戻るな。さっきの目つきは、もう薄くなる。
菖蒲田はどうなんだ。ここまで来ると、背中もよく見える。シャツの襟は汗で肌にくっついている。さっきからあんなに動いているんだから、そりゃ汗もかくか。
「……ちっ」
……いま、舌打ちじゃないか。
菖蒲田はまだ背中を向けている。こっちの声も、足音も聞こえているよな。邪魔なのか。俺たちが入るのは、邪魔なのか。
あ、振り返る。
……いつもの顔じゃねぇか。
「あはは、二人とも自主練かい? 勤勉だね〜! 俺たちはもうヘトヘトだよー!」
ヘトヘトって、さっきまでまだ続けるつもりじゃなかったのか。
まだ、そっちを見られない。
菖蒲田慎吾は、基本的に誰とでも仲良くサッカーをしたい少年です。
基本的には。
自分を止めてくる相手。
自分についてくる相手。
もっと本気を出しても壊れない相手。
そういう相手を前にすると、少し様子が変わるようです。
そして今回、それを一番近くで見ていたのは潔でした。
なお最後の舌打ちについて、慎吾本人に聞いてもたぶん、
「え? してた?」
くらいの反応です。