FF14で現代ダンジョン 作:黒蓮
秋の澄んだ朝空が、都内の閑静な住宅街を白々と染め上げていた。日曜日の午前八時前。
最寄り駅から徒歩数分の距離にある一戸建て住宅の前に、閃は静かにたたずんでいた。
「……ふぅ」
息をひとつ吐き出し、玄関前で服の皺を伸ばす。
昨夜のミスト・ヴィレッジでの濃厚すぎる時間――ルトラとミエルの甘く熱い「お仕置き」と、その後に迎えた幸福感に満ちた朝の余韻が、今も体に心地よい疲労感として残っている。
「平日に朝帰りしたらさすがに言い訳に困るけど……日曜日で助かったな」
そっと鍵を差し込み、カチャリと静かに音を立ててドアを開けた。
玄関をくぐると、家の中には香ばしいトーストの香りが漂っていた。
足音を殺して廊下を進み、リビングの扉を開けると――案の定、一家全員が揃っていた。
ダイニングテーブルの奥では、父親が新聞に目を通しながらコーヒーを啜り、向かいでは母親がフライパンで目玉焼きを焼いている。
「あ、お帰り。昨日もダンジョンで野宿したの?」
キッチンから母親がトングを片手に振り返る。怒る様子もなければ、咎めるような色もない。完全なる日常のトーンだ。
「……いや、昨日は友達の家で徹夜でゲームしてた」
「ふーん。ご飯食べる? トースト焼くけど」
「いや、向こうで軽く食べてきたからいいや」
「そ。来年には十八なんだから、羽目外しすぎて補導とかされないようにしなさいよー」
「わかってるって」
我が家の両親は筋金入りの放任主義だ。
閃が普段からどこか要領良く立ち回り、変な犯罪やトラブルに巻き込まれるようなマヌケではないことを知っているからこそ、細かい干渉はしてこない。
大学に行く気がないらしいということにも気づいているようだが、「まあ、あいつなら高卒で働くなり何なりして勝手に生きてくだろ」程度に思われている。この適度な距離感は、二つの世界を行き来する閃にとって非常にありがたかった。
――と、リビングの隅にあるソファから、じとーっとした視線を感じた。
「……兄ちゃん」
低い声で呼んできたのは、中学一年生になる妹の舞だ。
スマホを片手にソファに深々と腰掛け、オーバーサイズの部屋着に身を包んだ十三歳の妹は、半目で閃を凝視している。
「なに?」
「徹夜でゲーム? 嘘でしょ。服からなんか……甘い匂いするんだけど」
「……!」
閃の背中に一瞬、冷や汗が流れた。
ルトラの秘伝のお香か、あるいは二人と肌を重ねた時に移った特有の甘い香りだろうか。鼻が利く年頃の妹を侮っていた。
「……気のせいだろ。ファブリーズの匂いじゃないか?」
「ふーん……」
舞は怪訝そうに眉をひそめ、閃の全身を上から下へと品定めするように視線で舐まわした。
「ていうかさ。そのジャージ、裏返しに着てない?」
「……え?」
言われて自分の胸元を見下ろすと、確かに縫い目が丸見えになっていた。
朝方、二人と時間ギリギリまでイチャコラしていたので、慌てて服を着たためだろう。
「……ッ」
「……ダサ」
舞は心底呆れたように大きなため息をつき、再びスマホの画面に目を戻した。
「ほんとダサいんだけど。女の子と遊んでたのかと思ったけど、そんなんじゃ相手にされないよね」
「……うるさいな。急いで着替えたんだよ」
「はいはい。ダサいお兄ちゃんは早く部屋行って顔洗ってきたら?」
キモいとまでは言われないが、年相応に「ダサい兄」として雑に扱われるこの感じ。
さっきまでの甘い空間から一転して落差が激しい。
「……じゃ、部屋戻って寝るから」
「お昼には起こすからねー」とキッチンから母の声。
「ああ」
閃は苦笑いを浮かべながらリビングを後にし、自分の部屋へと続く階段を上っていった。
自室のベッドに倒れ込むと、天井を見上げながら深く息を吐き出す
。
(ふぅ……危ねぇ危ねぇ。俺はこの家じゃただの『ダサい兄』だからな……)
だが、この実家のくだらない平穏さもまた、自分にとっては守りたい大切な日常なのだ。
「……ちょっと寝るか」
二重生活の心地よい疲れに身をまかせ、閃はゆっくりと瞼を閉じた。
◆
第六層の『氷結晶の大神殿』攻略成功と、それに伴う【森の家】の解禁でダンジョン内不動産バブルに沸く世界で、ある一人のソロ探索者の名が彗星のごとく響き渡っていた。
——『紅の女王』エリカ。
かつてどこにでもいる弱小パーティの剣士に過ぎなかった少女は、今や朱赤のコートを翻し、第六層の極寒の世界をソロで縦横無尽に疾走する超一流の赤魔道士へと変貌を遂げていた。
一切の無駄を削ぎ落とした静寂の剣技と洗練された魔法の精度、そしてあらゆる不測の事態にも動じない圧倒的な生存能力。その姿を見た探索者たちは敬意と畏怖を込めて、彼女をそう呼ぶようになったのだ。
ダンジョンの玄関口
【森の家】の抽選結果発表から数日が過ぎた今日も、大理石の広場は不動産バブルの熱気に包まれていた。
そんな喧騒の真っ只中を、エリカは静かな足取りで歩いていた。腰には洗練された細身のレイピア。朱赤のコートの裾をなびかせる彼女が通り過ぎるたび、周囲の探索者たちがざわめき、自然と道が開いていく。
「おい、あれ……『紅の女王』だろ……?」
「マジかよ、ソロで第六層を巡回してるっていう……」
「かっこいいなぁ……」
羨望と尊敬の視線を一身に浴びながらも、エリカの心は至って穏やかだった。
(今日の第六層の素材採取も無事に終わったわね。……閃くん、今頃何してるかしら。)
ふっと唇に柔らかい笑みを浮かべた——その時だった。
「……え? おい、ウソだろ……エリカ、なのか……!?」
人混みをかき分けるようにして現れた男の声に、エリカは足を止めた。
振り返った視線の先に立っていたのは、見覚えのある大剣を背負った男と、派手なローブを纏った女性。
かつてエリカが所属していたパーティのリーダー・翔馬と、黒魔道士の祥子だった。二人の表情は驚愕で引きつっている。
二カ月ほど前、第五層でモンスターの群れに襲われた際、重傷を負ったエリカを「足手まとい」として見捨てて逃げ去った元仲間たちだ。
あの時、絶命寸前だったエリカは閃によって救われ、無事に生還することが出来た。
彼女は帰還した後、一方的に「パーティを抜ける」とだけメッセージを残して姿を消したのだった。
「やっぱりエリカじゃないか! 連絡も無視して急に抜けやがって、今までどこで何して……って、なんだその格好……?」
翔馬は怒鳴り散らそうとしたが、目の前に立つエリカが放つ「圧倒的な気配」に気圧され、語尾を萎ませた。
かつて自信なさげに二人の後ろをついてきていた少女の面影は、そこには微塵もなかった。隙のない立ち姿、澄み渡るような瞳、そして身に纏う上質な装備。
「久しぶりね、翔馬、祥子」
エリカの声は静かだった。怒りも、憎しみも、未練すら感じさせない、完全なる無関心のトーン。
「な、なあエリカ! お前、ネットで噂になってる『紅の女王』って……まさか、本当にお前なのか!?」
祥子が引きつった笑みを浮かべながら、縋るように尋ねてくる。
「ええ。そう呼ばれているみたいね」
「嘘だろ……!? お前、俺たちのパーティにいた頃は魔法の一発打つのが精一杯だったろ!? なんでそんな……ソロで第六層に行けるレベルになってるんだよ!?」
翔馬は信じられないといった様子で叫んだ。
二人にとって、エリカは「守ってやっていて、最後は邪魔になったから捨てた存在」だったはずだ。それが自分たちを遥か高みから見下ろすほどのトップ探索者になっている現実が、理解できないようだった。
「……強くなったのよ、本当の『強さ』と『覚悟』を教えてくれた……大切な人に巡り会えたから」(閃くんのスパルタ特訓は、本当に死ぬかと思うくらい大変だったけれど……)と心の中で付け加えながら。
その言葉に、翔馬と祥子は顔を見合わせた。翔馬が露骨に媚びるような笑みを浮かべ、一歩身を乗り出してくる。
「そ、そうだったのか! いやぁ、俺たちもずっと心配してたんだよ! ほら、あの時はパニックになっててさ……でも、お前がそこまで強くなったんなら話は別だ! なあ、もう一回俺たちとパーティ組もうぜ! 前衛の俺と、魔法の祥子、そして第六層に行けるエリカがいれば、トップギルドだって夢じゃない——」
「お断りよ」
エリカの冷徹な一言が、翔馬の言葉を遮った。
「え……?」
「私にはもう、隣に立つべき人がいるの。それに……」
エリカの凛とした瞳が、まっすぐに翔馬と祥子を射抜く。
「ピンチになったら仲間を置いて逃げるような人たちと、二度と背中を預ける気はないわ」
「っ……!」
二人は顔を真っ赤にし、ぐうの音も出ず固まった。周囲で二人の会話を聞いていた野次馬の探索者たちから、「なんだあいつら、仲間見捨てて逃げたのかよ」「クズだな……」という蔑むようなヒソヒソ声が漏れ始める。
「それでは、失礼」
一礼することすらなく、エリカは綺麗に踵を返した。
朱赤のコートが鮮やかにひらりと翻る。
「あ、待てよエリカ!!」
慌てて追いかけようとした翔馬だったが、エリカが振り返りざまに放った、氷のように冷たい一瞥を受けた瞬間、縛り付けられたように足が止まった。
一度死にかけたあの日、自分を捨てた過去の幻影は、もう二度とエリカの歩みを止めることはできない。
元仲間たちの視線を置き去りにし、『紅の女王』は愛しい恩人の待つ場所へと、軽やかな足取りで去っていくのだった。