「正しい答え」 作:はい
ミッドナイトの姿が、廊下の向こうへ消えていく。
松葉杖の音も少しずつ遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
その場に残っていた者達も、少しずつ散っていく。
緑谷と爆豪は何か言い合いながら歩いていき、飯田がそれを注意している。上鳴と瀬呂はその後ろで笑い、耳郎が呆れたようについていく。
葉隠は。
しばらく、その場に残っていた。
零無のいる部屋の扉を見る。
防音。
中の様子は分からない。
先程。
ミッドナイトが言っていた。
昔、自分は零無を助けたことがある。
だから零無は、戦いの中で彼女を助けたことを「恩返し」だと思っていた。
自分が死ぬ危険まで含めて。
それを当然のように。
「……」
葉隠は自分の手を見る。
透明な指。
その向こうに床が見える。
「どうしたん?」
隣に残っていた麗日が聞いた。
「……ちょっと考えてた」
「何を?」
葉隠はすぐには答えなかった。
やがて。
「ミッドナイト先生は、零無を助けたんだよね」
「うん」
「だから零無は、恩があるって思ってた」
「そうみたいやね」
「じゃあ」
葉隠は少しだけ眉を寄せる。
「私は?」
麗日が見る。
「透ちゃん?」
「私、零無に何かしてあげたっけ」
「……」
「命を助けたことなんてないし。何か大きいことしてあげた覚えもないし」
葉隠は閉じた扉を見る。
「なのに零無は、私のためなら全部失ってもいいみたいなこと言った」
ミッドナイトの場合は。
少なくとも零無の中では。
救われた。
だから返す。
そういう形になっていた。
では。
自分は。
「私、何したんだろ」
麗日は少し考えた。
けれど。
答えなかった。
代わりに。
「それ、本人に聞きたい?」
葉隠はすぐに頷きかけて。
止まった。
「……うん」
「じゃあ聞く?」
「今はやめとく」
「そっか」
「今聞いたら、多分それだけじゃ済まないから」
「うん?」
「先生とのことも。昔のことも。何があったのかも。全部聞きたくなる」
少しだけ笑う。
「めちゃくちゃ気になるし」
麗日も小さく笑った。
「そりゃ気になるよな」
「でも」
葉隠はもう一度、扉を見る。
「勝手に知るのは嫌」
ミッドナイトも言っていた。
具体的なことは、本人から聞いて。
零無が自分で話すかどうかを決めるべきことまで、自分が代わりに話すつもりはない、と。
だから。
待つ。
聞かないのではなく。
聞ける時まで。
「でも、いつか聞く」
「うん」
「本人から」
麗日は柔らかく笑った。
「それがええと思う」
葉隠は頷く。
その時にはまだ。
自分が何を聞くのか。
はっきりとは決めていなかった。
ただ。
一つだけ。
数日経っても消えなかった疑問がある。
ミッドナイトには。
恩があった。
では。
自分は。
零無にとって。
何なのだろう。
◇
数日後。
葉隠は、零無のいる部屋を訪れた。
監視付き。
面会時間には、まだ制限がある。
扉の外には職員がいる。
拘束も完全には解かれていない。
それでも。
二人で話すには十分だった。
扉を開ける。
零無は以前と同じ簡素な椅子に座り、本を読んでいた。
手元の拘束は以前より幾分緩い。
とはいえ、自由とは程遠い。
葉隠が入ってくると、ページを追っていた目が上がった。
「また来たのか」
「その言い方やめて」
「事実だろう」
「嫌?」
「別に」
「じゃあいいじゃん」
「そうだな」
葉隠は向かいの椅子へ座る。
それから、しばらく何も言わなかった。
以前なら。
多分、自分から適当な話題を探した。
今日のご飯とか。
授業とか。
誰が何をしたとか。
沈黙が気まずくなる前に、何かを話していた。
今は。
少し待てる。
零無も本へ視線を戻さなかった。
数十秒ほどして、先に口を開いたのは彼だった。
「今日は何を聞きに来た?」
「何でそう思うの」
「顔」
「見えないけど」
「雰囲気だ」
「何それ」
葉隠は少し笑う。
零無も、ほんの僅かに口元を緩めた。
だが、葉隠の声はすぐに真面目なものへ戻った。
「ねえ」
「ああ」
「ミッドナイト先生に」
零無の目が僅かに動く。
「何だ」
「助けてもらったこと」
一拍。
「どう思ってる?」
零無は黙った。
葉隠は続きを急がなかった。
沈黙を埋めようともしない。
しばらくして、零無が言う。
「随分と曖昧な質問だな」
「分かってる」
「何について答えればいい」
「助けてもらって、嬉しかったとか、嫌だったとか、ありがたかったとか。今はどう思ってるのかなって」
「……」
「昔何があったとか、そういうのを無理に聞きたいんじゃないから」
零無が彼女を見る。
「聞きたくないのか?」
「聞きたいよ」
即答だった。
「……」
「めちゃくちゃ気になる」
「正直だな」
「でも、話したくないなら聞かない」
少しだけ間を置く。
「先生も、零無が話してないことを勝手に話すつもりはないって言ってたし」
零無が少し黙った。
それから。
「そうか」
「うん」
葉隠は改めて聞く。
「で、助けてもらったこと。どう思ってる?」
また、沈黙。
零無は少し考えた。
「感謝している」
「うん」
「非常に」
「うん」
「だから、借りがあると思っていた」
「それは聞いた」
葉隠の声が少し険しくなる。
「先生、怒ってたよ」
「知っている」
「なんて言われた?」
「命で返すような恩を売った覚えはない、と」
葉隠が頷く。
「それ」
「うん」
「どう思った?」
零無は少し眉を寄せた。
「言いたいことは理解出来る」
「納得は?」
「別だ」
「やっぱり」
「何が?」
「してないと思った」
零無は葉隠を数秒見た。
「君も随分と僕の扱いに慣れてきたな」
「嬉しくない」
「何故」
「慣れたくないから」
「理不尽だな」
「誰のせい」
「少なくとも僕だけの責任ではないと思うが」
「そういうとこだよ」
零無の口元が僅かに緩む。
葉隠はそれを見てから、話を戻した。
「それで、助けてもらったこと自体は?」
「どう、とは?」
「……良かった?」
零無が止まった。
葉隠は静かに待つ。
「難しいな」
「そう?」
「当時は、良かったと思う余裕はなかった」
「うん」
「状況を処理することで精一杯だった。誰に連絡するか。どこへ行くか。何を準備するか。学校をどうするか。生活をどう継続するか」
淡々と並べられる。
けれど。
葉隠は、その一つ一つに引っ掛かった。
「それ」
「何だ」
「子供が考えることじゃなくない?」
零無の返答は早かった。
「必要だった」
「でも」
「必要だったんだ」
先程より、少しだけ強い。
葉隠は黙った。
零無も、自分の声に気付いたらしい。
数秒後。
「……すまない」
「謝らなくていい」
「少し語気が強かった」
「うん」
少し間を置いて。
「珍しいね」
「そうか?」
「うん」
零無は僅かに目を逸らした。
「当時のことを話すのは……面倒なのかもしれない」
「じゃあ話さなくていい」
葉隠は即座に答えた。
「いや」
「いいって」
「君が聞いたからではない」
葉隠が止まる。
零無は、いつものように言葉を選ぶ。
ただ。
今回は。
逃げるために言葉を整えているのではなかった。
「僕が、少し話してもいいと思った」
葉隠は何も言わなかった。
喜んだ顔をするのも。
続きを急かすのも。
違うと思った。
ただ。
「うん」
とだけ答えた。
◇
「母は、精神的にかなり不安定だった」
葉隠は静かに聞く。
「常にそうだった訳じゃない。普通に生活出来る時もあった」
零無は少し視線を落とす。
「食事を作ることもあったし、僕を気遣うこともあった。僕が学校から戻る時間に合わせて、菓子を買って待っていたこともある」
「……」
「僕が体調を崩せば、自分の方が不安定なのに、夜中まで起きていたこともあった」
葉隠は何も挟まない。
「ただ、駄目な時はかなり駄目だった」
「……うん」
「僕を必要以上に手元へ置こうとすることもあった。逆に、顔を見るだけで取り乱すこともあった」
少し間を置く。
「父に似ていると言って泣いたこともある」
葉隠の指先が僅かに動いた。
零無は気付いていた。
けれど、止めない。
「愛していると言った翌日に、僕を見たくないと言うこともあった」
「……」
「それでも、僕は母が僕を愛していなかったとは思っていない」
葉隠が小さく聞く。
「傷つけられても?」
「それとこれは別だ」
迷いはなかった。
「愛情があったことと、その関係が健全だったことは同義じゃない。母に傷つけられたこともある」
一拍。
「嫌いだと思ったこともある」
「……」
「逃げたいと思ったことも……あったと思う」
それでも。
「嫌いだった時があったからといって、愛していなかったことにはならないだろう」
葉隠は何も言わない。
これは。
ミッドナイトから聞いた話ではない。
零無自身が、自分から話している。
だから、ただ受け止めた。
「それで、出来ることは僕がやった」
「家事?」
「それも。買い物。支払い。必要な連絡。母の様子を見ること」
一つずつ。
「薬を飲んだか。食事をしたか。眠れているか。一人にして問題ない状態か。外へ出して問題がないか」
葉隠の声が小さくなる。
「何歳くらい?」
零無が少し見る。
葉隠はすぐに。
「ごめん。詮索しないって言ったのに――」
「いや。構わない」
少し考え。
「今の君が想像しているよりは、若かったと思う」
葉隠は黙る。
具体的な年齢を、零無は言わなかった。
葉隠も、それ以上は聞かなかった。
「先生は、そういう家の状態に気付いた」
「うん」
「僕は問題ないと言った」
葉隠が顔を上げる。
「……やっぱり」
「何が?」
「ミッドナイト先生が言ってた。昔から、自分が我慢出来ることを問題に数えないって」
沈黙。
「余計なことを」
「怒った?」
「怒ってはいない」
「じゃあ?」
「非常に正確で不愉快だ」
葉隠が少し笑う。
「多分、もうみんな気付いてるよ」
「何を」
「零無、本当に嫌なところ突かれると、ちょっと黙るもん」
零無が眉を寄せる。
「……そんなに分かりやすいか?」
「最近はね」
「困ったな」
「困って」
「何故?」
「困った方がいいから」
「随分と雑な理屈だな」
「零無にはこれくらいでいいの」
零無は小さく息を吐いた。
「話を戻そう」
「うん」
◇
「母が亡くなる前の日から、状態は良くなかった」
葉隠の身体が僅かに固くなる。
零無は、以前ならそこで止めたかもしれない。
今は続けた。
「ほとんど眠れていなかった。夜中も何度か起きていた。僕も、その度に確認していた」
「……」
「明け方になって、ようやく静かになった」
葉隠は息を詰める。
「学校へ行く前、寝ていると思った。呼吸はしていた。水と薬を置いた。昼に食べられるものも準備した」
淡々とした声。
「行ってきます、と言った。返事はなかった」
「……」
「それ自体は珍しくなかった」
葉隠は何も言えなかった。
「帰ったら、朝置いたものがそのままだった。食事も、薬も」
零無の声は変わらない。
「寝室へ行った。呼んだ。返事がなかった」
少しだけ間が空く。
「最初は、また反応出来ない状態なのだと思った。それも以前にあったから」
「……」
「だから、その時点では慌てていなかった」
葉隠には、その言葉の方が辛かった。
慌てるべき異常が、日常の中に紛れていた。
「肩に触れた」
一拍。
「冷たかった」
葉隠の手が強く握られる。
「救急へ連絡した。呼吸と脈を確認した。蘇生した」
「……どれくらい?」
「覚えてはいるが、正確な時間に意味はないだろう」
葉隠が彼を見る。
「救急の人間が来て、止められるまで続けた」
「……うん」
「もう戻らないと言われた」
少しだけ。
零無の声が低くなる。
「僕は、他に何かすることはないのか、一度聞いた」
「……」
「ないと言われた」
だから。
次に必要なことを考えた。
誰に連絡するか。
学校はどうするか。
家は。
金は。
これからの生活は。
「先生が来た」
「……うん」
「僕を保護した」
葉隠は慎重に聞く。
「その時、怖かった?」
零無は少し考える。
「どうだろうな」
「またそれ?」
「本当に分からない」
「……」
「少なくとも、恐怖として認識した記憶はない」
「悲しくなかった?」
「違う」
返答は速かった。
「悲しかった」
今度は曖昧にしなかった。
葉隠が黙る。
「ただ、それを悲しいと認識して、悲しむことに時間を使っていた記憶がない」
「……」
「次に何をするべきかを考えていた。それだけだ」
そして、少し間を置く。
「母がいなくなった家へ、もう戻らなくてもいいと分かった時」
言葉が止まった。
「……安心した」
葉隠が僅かに息を止める。
零無はすぐに付け足した。
「少なくとも、安心した部分はあった」
「……」
「それを、当時は非常に不快に思った」
「どうして?」
「死んだばかりの母に対して、安堵するのは」
少し眉を寄せる。
「裏切りのように思えたからだ」
葉隠は静かに言う。
「でも、辛かったんでしょ」
零無は少し黙る。
以前なら。
必要だった。
耐えられた。
問題ではない。
そう答えただろう。
「……そうだな」
葉隠が僅かに顔を上げる。
零無自身も、言った後に少しだけ黙った。
「辛かったと思う」
「うん」
「なら」
葉隠は言葉を探す。
「安心しても、よかったんじゃない?」
零無はすぐには答えなかった。
「今なら、その可能性は認められる。当時は無理だった」
「……うん」
「悲しかったことと、もう戻らなくていいことに安心したことは、別に矛盾しない」
一拍。
「今なら、そう思える」
葉隠は少しだけ笑った。
「うん」
「何だ」
「いや。それ、前よりちゃんと自分の気持ちの話してるなって」
零無が僅かに眉を寄せる。
「評価されるようなことか?」
「私はする」
「そうか」
「うん」
少しだけ、部屋の重さが緩んだ。
◇
しばらくして。
葉隠が小さく聞いた。
「そのお母さん以外は?」
零無が目を上げる。
「……何が?」
「前に、お母さん“達”って言ってたことあったから」
「……」
「嫌なら答えなくていい」
零無はしばらく黙った。
「実母のことか」
「うん」
「僕には、ほとんど記憶がない」
「……そうなの?」
「ああ。僕がまだ乳児の頃に亡くなっている」
葉隠は何も言わず、続きを待った。
「個性の影響で、身体にはかなり大きな負担があったらしい」
「個性で?」
「ああ」
零無はそこで少しだけ視線を落とす。
「強い個性だった、と聞いている」
「でも」
葉隠が慎重に言う。
「本人は、それで苦しかった?」
零無が一度だけ彼女を見る。
「ああ」
短い返答だった。
「僕が彼女について知っていることは、大半が後から聞いたものだ。だから」
少し言葉を選ぶ。
「彼女自身を知っているとは言えない」
「……うん」
「好きだったのか、嫌いだったのかと聞かれても、答えようがない」
葉隠は静かに聞いている。
「ただ」
零無の声が僅かに低くなる。
「彼女が苦しんだことを、個性が強かったから仕方がない、運が悪かった。それだけで処理する気はない」
「……」
それ以上。
零無は説明しなかった。
どんな個性だったのか。
何があったのか。
どんな人生を送ったのか。
葉隠も聞かなかった。
今の零無が。
そこまでを話すつもりはないことくらい。
分かったからだ。
少しして。
「お父さんは?」
今度こそ、葉隠は少し迷った。
「……聞いていい?」
零無はしばらく彼女を見る。
そして。
「ああ」
と答えた。
「父は、ヴィランだった」
それ自体は。
葉隠も知っている。
けれど。
本人の口から聞くのは。
やはり違った。
「最初から?」
零無は僅かに目を細めた。
「いや」
一拍。
「少なくとも、最初からそうだった訳ではない」
葉隠は続きを待つ。
零無は少し考えてから。
「昔は、人を助けようとする側の人間だった」
それだけ言った。
「……じゃあ、何で」
葉隠が途中まで聞いて。
止めた。
零無はそれに気付く。
「色々あった」
「すごい誤魔化し方」
「事実だ」
「そうだろうけど」
「今は、それ以上を上手く説明出来る気がしない」
葉隠が止まった。
そして。
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
零無も、少しだけ力を抜く。
「最後には、ヴィランとして死んだ」
「……うん」
「人を傷つけた。犯罪も犯した」
声は淡々としていた。
「そうなった理由が何もなかったとは思っていない」
一拍。
「でも、理由があったことと、父がしたことへの責任は別だ」
葉隠が静かに聞く。
「零無は、お父さんのこと嫌い?」
「嫌いな部分は多い」
返答は早かった。
「したことも。考え方の一部も」
「……」
少しだけ間が空く。
「それでも、父だった」
葉隠は、それ以上聞かなかった。
零無も話さなかった。
実母については。
ほとんど記憶がない。
父についても。
まだ話していないことの方が多い。
それでも。
今の葉隠には。
その輪郭だけで十分だった。
◇
しばらく、二人の間に沈黙が落ちた。
葉隠は、さっきまで聞いたことを頭の中でゆっくり並べていた。
一番長く零無が話したのは。
やはり。
自分を育てた母のことだった。
愛していた。
愛されてもいた。
でも、傷つけられた。
怖いと思ったこともあった。
逃げたいと思ったこともあった。
嫌いだった時間もあった。
それでも。
「母だった」と零無は言った。
愛していることと。
傷つけないことは、同じではない。
傷つけられたことと。
愛していなかったことも、同じではない。
一つの感情だけで。
一人の人間全部を説明することは出来ない。
実母についても。
父についても。
零無は一つの言葉だけでは終わらせなかった。
でも。
それ以上を。
今ここで全部説明しようともしなかった。
「……そっか」
零無が見る。
「何が?」
「零無が、人のこと一個だけで決めたがらない理由」
「一個だけ?」
「善人とか、悪人とか。被害者とか、加害者とか」
零無は少し黙る。
「それだけが理由ではないが」
「うん」
「全く関係がないとも言わない」
「そっか」
葉隠は、それ以上まとめようとはしなかった。
零無の家族を。
たった今聞いた話だけで。
自分が理解したことにしたくなかった。
◇
やがて。
葉隠が小さく聞く。
「ミッドナイト先生は?」
「何だ」
「その人達とは、違う?」
零無はすぐに答えた。
「ああ」
「母親みたい?」
「違う」
これも即答。
「全く?」
「全くとは言わないが。少なくとも、僕は先生を母親の代わりだと思ったことはない」
「じゃあ」
「何?」
零無は、ほんの少しだけ目を伏せる。
「最初に」
一拍。
「僕が『大丈夫だ』と言ったことを、大丈夫だという証拠として扱わなかった大人だ」
葉隠が止まる。
「……」
「僕は問題ないと言った。実際、家事も出来ていた。学校にも通っていた。食事も最低限は取っていた。生活そのものは維持出来ていた」
「うん」
「それでも、先生はそれを、子供一人で生活を維持出来ている証拠ではなく」
一拍。
「子供一人に生活を維持させている証拠だと考えた」
葉隠は何も言えなかった。
「だから、僕をそこから出した」
その言葉は短い。
けれど。
それが零無にとってどれほど大きな出来事だったのか。
今なら少し分かる。
「それで」
葉隠は聞く。
「やっぱり、助けられてよかったと思う?」
また、沈黙。
今度は先程より長かった。
零無は目を伏せる。
「数日前、先生ともこの話をした」
葉隠は黙って待つ。
「その時、僕は先生に救われたことを後悔していない、と言った」
「……うん」
「それは今も変わらない」
「じゃあ」
葉隠は少しだけ身を乗り出す。
「良かった?」
零無が眉を寄せる。
「言葉を変えただけだろう」
「違うよ」
「どこが」
「後悔してない、と、良かった、は違う」
「……」
零無が黙った。
葉隠は逃がさなかった。
ただし。
急かしもしなかった。
長い沈黙の後。
零無が言う。
「助かった。その後も生きた。学校にも通った。先生にも会った。君達にも会った」
「……」
「その結果を、僕は失敗だったとは思っていない」
葉隠が首を傾げる。
「また逃げた」
「何が」
「良かった?」
「……」
零無が露骨に面倒そうな顔をした。
「君は随分しつこくなったな」
「誰のせい?」
「それを全て僕へ帰責するのは――」
「良かった?」
「……」
数秒。
零無は観念したように、小さく息を吐いた。
「良かったよ」
葉隠が少しだけ笑った。
「そっか」
「満足か」
「うん」
「そうか」
そして。
零無は、ほんの僅かに目を伏せる。
「慣れていないだけだ」
「何に?」
「自分が」
一度止まる。
「救われて良かった、と考えることに」
葉隠は何も言えなくなる。
「生きていること自体を、利益として評価したことがあまりない」
「……」
「必要だから生きる。目的があるから生きる。何かをするために生存が必要だから生きる。そういう理由なら理解出来る」
少し眉を寄せる。
「ただ、自分が生きたいから。生きていて良かったから、というのは」
一拍。
「どうにも扱いに困る」
葉隠は少し考えてから。
「じゃあ」
「うん」
数日前から。
頭の隅に残っていたことを。
ようやく口にした。
「私と会えたのは?」
零無が見る。
「……」
葉隠は逃げない。
「良かった?」
一拍。
零無が溜息をつく。
「質問の仕方が卑怯だな」
葉隠は少し笑う。
「答えて」
「……」
零無は小さく息を吐いた。
「良かったよ」
葉隠が止まる。
「普通に?」
「普通に」
「借りとか?」
「ない」
「恩とか?」
「ない」
「返さなきゃとか?」
零無が少し考える。
「……今のところは」
「今のところ!?」
「冗談だ」
「分かりにくい!」
「そうか」
「そうだよ!」
少しだけ。
二人とも笑った。
それが、この部屋では妙に普通のことに思えた。
◇
静かになって。
葉隠が聞く。
「じゃあ、私と一緒にいた時間って、返さなくていいの?」
「……」
零無は少し考える。
「その質問は、少し困るな」
「なんで?」
「君に対して何かをしたいと思うことまで、全て返済扱いされると困る」
葉隠が目を瞬いた。
零無は、まるで当然の事実を整理するように続ける。
「例えば、君が困っていれば助けたい。危険なら守りたい。君が喜ぶなら」
一度区切る。
「出来ることくらいはしたい」
「……」
「それは、借りを返している訳ではない」
葉隠が小さく聞く。
「じゃあ何?」
零無は黙る。
「……」
「言って」
「随分と要求が多いな」
「知ってる」
零無は、しばらく葉隠を見た。
「……好意だろう」
葉隠が止まる。
「それだけ?」
「十分だと思うが」
「……」
葉隠は少し俯く。
「そっか」
「何だ」
「いや」
小さく笑う。
「ちょっと嬉しい」
「そうか」
「それだけ?」
「何を言えばいい」
「そこは」
葉隠は少し身を乗り出す。
「僕も嬉しい、とか」
零無は一拍考えた。
「君が嬉しいなら、僕も嬉しい」
「うわ」
「何だ」
「今のちょっとズルい」
「君に言われたくない」
葉隠が笑う。
零無も。
今度は、分かる程度に笑った。
◇
少しして、また静かになる。
「ねえ」
「うん」
「ミッドナイト先生のこと」
「何だ」
「助けた時」
葉隠は、さっきより慎重に聞いた。
「死んでもいいと思ってた?」
「いいや」
即答だった。
葉隠が見る。
「死にたい訳ではなかった。ただ、死ぬ可能性を考慮しても、先生を救助する価値の方が高いと判断した」
葉隠の声が少し低くなる。
「それ、ほぼ同じだよ」
「違う」
「違わない」
「僕にとっては違う」
「でも」
葉隠は真っ直ぐ返す。
「私にとっては同じ」
零無が黙る。
「ミッドナイト先生が助けた零無が、その先生を助けるために死んだら、先生は嬉しくない」
「……」
「私だって、私を守るために零無が死んだら嬉しくない」
「分かっている」
「本当に?」
「少なくとも、以前よりは」
葉隠が少し驚く。
「変わった?」
「何が?」
「自分を守ること」
零無は少し考える。
「分からない」
「……」
「ただ、自分を助けることが、他人を助けることと完全に独立した問題ではないのだろうとは」
一拍。
「考えている」
葉隠は何も言わなくなる。
以前の零無なら。
恐らく、ここまでさえ言わなかった。
「ミッドナイト先生に何か言われたんでしょ」
「何を」
「救われて良かったと思うなら、自分だけずっと救われる側から外すのは変じゃない、みたいな」
零無が葉隠を見る。
「……盗み聞きしたか?」
「してない!」
「では何故」
葉隠は彼の顔を指差した。
「零無の顔!」
零無が僅かに眉を寄せる。
「そんなに出ていたか?」
「出てた」
「困ったな」
「あと雰囲気」
「結局それか」
数秒。
零無が少し笑う。
「でも当たってる?」
「概ね」
「そっか」
葉隠は少しだけ嬉しそうになる。
「なら、今度から自分も守って」
「状況による」
「ほら!」
「透」
零無は少し困った顔をする。
「これは簡単な問題ではない」
「分かってる」
「なら」
「でも、簡単じゃないから」
零無が見る。
葉隠は、ゆっくり一つずつ言った。
「毎回考えて。今までみたいに、最初から自分は捨てていいって決めないで」
零無は何も言わない。
「相手を助ける方法の中に、自分が死ぬ方法だけじゃなくて、自分も生き残る方法をちゃんと入れて」
一拍。
「助ける人数に、自分も入れて」
数日前。
ミッドナイトにも。
ほとんど同じことを言われた。
零無は少し目を伏せた。
「先生にも言われた」
「やっぱり」
「何故分かる」
「先生も零無のこと知ってるから」
「答えになっていないだろう」
「いいの」
葉隠は続ける。
「約束して、ってまた言おうと思ったけど」
一度、言葉を止める。
「やめる」
零無が見る。
「何だ」
「前に約束したでしょ」
「……ああ」
「私の意思を無視して、零無一人で決めないって」
「そうだな」
「それと」
葉隠は少しだけ慎重に言う。
「誰かに話すことも、最初から選択肢から外さないように努力するって」
「……ああ」
「だから」
葉隠は零無を指差した。
「その中に、これも入れて」
「何を?」
「自分が生き残る方法も考えること」
「……」
「全部、同じ話だから」
零無は黙った。
葉隠は続ける。
「絶対死なないって言えとは言わない。そんなの無理なのも分かる」
少しだけ苦笑する。
「ヒーローだし。私達だって危ない時はあるし」
それでも。
「最初から、自分だけ消さないで」
長い沈黙。
零無は目を伏せたまま、何かを考えていた。
条件。
例外。
不可能な状況。
人命の数。
成功率。
恐らく。
反論はいくらでも思いつく。
それでも。
「……分かった」
葉隠が僅かに身を乗り出す。
「ほんと?」
「ああ」
「毎回?」
「合理的に検討可能な状況であれば――」
「零無」
「……」
「今すぐ例外作らない」
零無が黙る。
そして、小さく息を吐いた。
「努力する」
葉隠の肩が少し落ちる。
「またそれ?」
「無条件に約束出来ないものを、出来ると言う方が問題だろう」
「それはそうだけど!」
「だが」
零無は少しだけ真面目な顔へ戻った。
「君とした約束を忘れた訳ではない」
葉隠が止まる。
「……うん」
「だから、考えるよ」
一拍。
「自分が生き残る方法も、最初から除外はしない」
葉隠は今度こそ、少し笑った。
「うん」
「それでいい」
「随分と要求水準が下がったな」
「誰のせいだと思ってるの」
「少なくとも――」
「零無」
「……僕だな」
葉隠が笑った。
「分かればよろしい」
◇
やがて、面会時間が近付く。
葉隠が立ち上がった。
「今日は帰る」
「そうか」
「うん」
扉の前まで行って、止まる。
「零無」
「何だ」
「今日」
少しだけ躊躇って。
「話してくれてありがとう」
零無は少し黙った。
自分から話した。
今まで。
聞かれれば答えることはあった。
必要なら説明もした。
だが、これは少し違った。
必要だからではない。
責任を説明するためでもない。
相手を説得するためでもない。
ただ。
自分が話してもいいと思った。
「……どういたしまして」
葉隠は振り返る。
「あと」
「まだあるのか」
「ある」
「何だ」
「私と会えて良かったって言ったの」
「……」
「忘れないから」
零無の眉が僅かに寄る。
「忘れていい」
「嫌」
「透」
「嫌」
「君は」
「私の気持ちは私が決める」
零無が止まった。
それは何度も、彼女から突きつけられた言葉だった。
守るかどうか。
怒るかどうか。
許すかどうか。
好きでいるかどうか。
そして。
嬉しいと思った言葉を、覚えているかどうか。
それすら。
自分が代わりに決めることではない。
やがて。
零無は小さく息を吐いた。
「……そうだったな」
「うん」
葉隠は扉を開ける。
「またね」
「ああ」
一拍。
「また」
扉が閉まった。
◇
一人になった零無は、しばらく何も言わなかった。
机の上へ視線を落とす。
数日前。
自分はミッドナイトへ言った。
救われたことを。
後悔していない。
そして今日。
もう一段、先へ進んだ。
救われて。
良かった。
葉隠と会えて。
良かった。
借りではない。
恩でもない。
返済でもない。
ただ。
会えて良かった。
その言葉を、自分で口にした。
以前なら。
それをただの因果関係として処理しただろう。
保護された。
生活が続いた。
学校へ通った。
人と会った。
今へ至った。
そこに「良かった」という評価を加える必要はない。
そう考えていた。
だが。
生きていたから、会えた人間がいる。
生きていたから、失いたくないと思う人間が出来た。
生きていたから、自分が死ぬことを嫌がる人間まで出来た。
そして今日。
生きていたから、過去について誰かへ話してもいいと思えた。
ならば。
生き残ることそのものにも。
少なくとも、ゼロではない価値がある。
未来に存在し得る何かを、失わずに済む。
そういう価値が。
自分にもある。
そこまで考えて。
零無は僅かに眉を寄せた。
どうにも、慣れない。
他人が生き残ることなら。
当然のように価値として扱える。
透が生きる。
A組の誰かが生きる。
先生が生きる。
それを守るためなら。
危険も。
損失も。
計算へ入れられる。
だが。
自分についてだけ。
同じ計算をしてこなかった。
自分が失われることは、必要経費になり得る。
そういう前提で。
最初から扱っていた。
けれど。
彼女達が求めているのは、自分の命を何より優先しろという話ではない。
絶対に死ぬな、でもない。
状況によって、自己犠牲が最も合理的な場合は存在する。
一人の死によって複数人が確実に救われる状況も、理論上はある。
全員が生存出来る案など、最初から存在しない場合もある。
その可能性を否定することは、現実的ではない。
だが。
彼女達が言っているのは、そこではない。
最初から、自分を捨てるな。
自分が生き残る案も、他の案と同じ机の上へ置け。
検討する前から、一つだけ消すな。
それだけだ。
「……」
反論しようと思えば、まだ出来る。
それでも。
反論出来ることと。
相手が間違っていることは。
同じではない。
それくらいは。
零無自身が、誰より知っている。
救われたことを、良かったと思う。
その先には。
もう一度、救われる可能性のある自分まで認めなければならなくなる。
自分を助けることを、他人を助けることより常に上へ置く必要はない。
ただ。
常に下へ置く理由も、本来はない。
「……面倒だな」
小さく呟く。
それでも。
以前ほど、不愉快ではなかった。
零無は誰もいない部屋で、小さく息を吐いた。
「……最初から除外はしない、か」
自分の口で確認するように。
それから。
ほんの少しだけ。
笑った。