「正しい答え」 作:はい
数日後。
夕食を終えた共有スペースでは、食器の片付けもほとんど終わり、それぞれが好きなことをしていた。上鳴と瀬呂はゲーム機を弄り、耳郎は片耳だけイヤホンを入れている。芦戸と葉隠はソファの端で何かを話し、飯田と八百万はテーブルに広げた資料を見ていた。少し離れた場所では、障子、緑谷、麗日、轟も同じ資料を覗き込んでいる。
金木零無はソファの端で本を読んでいた。
以前なら、共有スペースにいても一人で本を読んでいる零無を気にする者はいなかった。今も基本的には同じだ。話しかけない時は話しかけない。一人でいたいなら放っておく。
ただし、姿が見えなくなれば気付く。食事に来なければ誰かが確認する。妙に静かなら、少なくとも一人くらいは視線を向ける。
一人でいることと、一人にしておくことを、彼らは勝手に分けるようになっていた。零無本人がそれを望んだわけではない。だが、以前のように拒絶することもしなくなった。
「これ、前より増えるんやね」
麗日が資料の一箇所を指した。
八百万が頷く。
「ええ。まだ検討段階ではありますけれど」
机に広げられているのは、現在の避難生活と今後の復旧を見据えた支援体制について、学校側から共有された検討資料だった。
雄英自体が多くの避難民を受け入れている。今後も生徒達が救助や避難所運営へ関わる可能性がある以上、現在どのような問題が表面化し、行政やヒーロー、医療、福祉が何を検討しているのか。その概要程度は共有され始めていた。
ヒーロー制度だけではない。避難、医療、生活支援、個性事故、家庭内支援、異形型個性を持つ人々への医療補助、個性に適応した住宅設備、地方と都市部の支援格差。
社会の機能が大きく損なわれたことで、以前から存在していたにもかかわらず、平時には後回しにされていた問題が一度に表へ出ている。
障子がページを捲った。
「異形型向けの医療支援も、独立した項目になったな」
「うん」
緑谷が資料へ顔を近付ける。
「今までは一般医療の延長で対応していた部分を、個性ごとの身体構造に合わせて専門化する……。異形型だけじゃなくて、身体そのものに強く作用する個性も対象になるみたいだ」
「ただ、専門施設を増やすだけでは不十分ですわ」
八百万が続ける。
「地方か」
轟が言った。
「ええ。設備を都市部へ集中させても、必要な方がそこまで移動出来なければ意味がありません」
「医療だけでもない」
障子が静かに言う。
「建物、衣服、公共交通、学校、仕事。人間の身体を一種類だけ想定して作れば、そこから外れた人間は毎日少しずつ負担を受ける」
「そうやね」
麗日が頷いた。
その時、本のページを捲っていた零無の指が止まった。葉隠が気付く。緑谷も一度だけそちらを見る。けれど、どちらも何も言わなかった。
以前なら、零無が何かを抱えていると察すれば、どうにか聞き出そうとしたかもしれない。今は違う。話すかどうかは零無が決める。ただし、話した時には聞く。
そのくらいの距離だった。
飯田が別の項目を読む。
「家庭内における個性由来の問題について、事件化する以前から学校、医療機関、行政、福祉部門が情報を共有し――」
耳郎がイヤホンを外した。
「事件になる前に、か」
「ああ」
飯田が頷く。
「問題が表面化してからでは、既に取り返しのつかない状況になっている場合もあるからな」
零無の視線が本から離れた。しばらく資料を見る。
やがて、本を閉じた。
「その案」
八百万が顔を上げる。
「はい?」
「家庭支援の部分だ。制度として成立させるなら、学校側の裁量だけへ依存させない方がいい」
飯田がすぐに反応した。
「理由を聞いても?」
「ああ」
零無は本を膝へ置いた。
「教師が異変へ気付くことを前提に制度を作れば、気付ける教師に当たらなかった子供が落ちる。本人からの申請を前提にしても同じだ」
誰も口を挟まない。
「自分の置かれている環境が異常だと理解出来ない子供もいる。理解していても、助けを求めれば状況が悪化すると考える人間もいる。そもそも、助けを求めるという発想自体を持たない場合もある」
壁面モニターには、病室から繋がっている相澤が映っていた。その目が僅かに零無へ向く。
「『困っているなら相談してください』だけでは、相談出来る人間だけを救う制度になる」
障子が頷いた。
「前にお前が言っていたことだな」
「ああ」
「善意と本人の申告だけを前提に社会を作るな」
「正確には、それらが存在することを期待するのは構わない。ただし、それらが存在しなかった場合に人間が落ちる構造を作るべきではない、だな」
上鳴がゲーム機から顔を上げる。
「細けぇ」
「意味が違う」
「そういうとこだぞ」
瀬呂が笑った。
緑谷は真面目に考えている。
「じゃあ、問題がなくても一定の条件で接点を作るとか?」
「少なくとも、異常が発生してから本人に申請させるよりはましだろう。ただし、今度は監視と支援の境界が問題になる」
「家庭への過剰な介入ですわね」
「ああ」
八百万が考える。
「本人や家族の意思を、どこまで尊重するかも難しいですわ」
一瞬、何人かの視線が零無へ集まった。
本人も気付いた。
「何だ」
耳郎が肩を竦める。
「いや。人の意思を勝手に決めるなって話、最近の零無に刺さりすぎるなと思って」
「……否定しにくいな」
上鳴が目を見開いた。
「認めた」
「事実なら認める」
「前より素直になったよな」
「以前から認めるべきところは認めていたと思うが」
瀬呂が笑う。
「その後の『ただし』が長かったんだよ」
「今も長ぇだろ」
少し離れた場所から爆豪まで口を挟んだ。
零無が眉を寄せる。
「それは君達が前提条件を省略し過ぎるからだろう」
「ほら始まった」
小さな笑いが起きる。零無も、ほんの僅かに口元を緩めた。
それから、もう一度資料を見る。
異形型個性への医療。身体そのものへ作用する個性への専門支援。事件になる前の家庭介入。助けを求められない人間を、どう見つけるか。
どれも、零無が足りないと言い続けてきたものだった。
そして今、このクラスは零無を論破するためにそれを考えているわけではない。本当に、次をどうするのかを考えている。
零無はしばらく黙っていた。
やがて、膝の上の本を脇へ置いた。
「少しいいか」
何人かが振り返る。
「ん?」
上鳴がゲーム機から顔を上げた。
「話がある」
「俺に?」
「何故君だけなんだ」
「いや、こっち見たから」
「全員にだ」
「……全員?」
空気が少し変わった。
飯田が立ち上がる。
「皆! 金木君から話が――」
「聞こえている」
「そうか!」
「声も大きい」
「すまない!」
耳郎が額を押さえた。
「毎回やるの?」
「意識はしている!」
「成果出てないんだよ」
やがて、1-A全員が集まった。壁面モニターの向こうには相澤もいる。
零無は一度、全員を見た。
「先に言っておくが、大した話ではない」
爆豪が鼻を鳴らした。
「テメェのその前置きは信用しねぇ」
「何故?」
「大した話じゃねぇなら全員集めねぇだろ」
零無が少し考える。
「それはそうだな」
「最初から考えろ」
「では訂正しよう」
「あ?」
「僕にとっては、これまで君達へ話す必要性をあまり感じていなかった話だ」
上鳴が小声で言う。
「もっと重くなったんだけど」
「黙って聞く」
耳郎に言われ。
「はい」
引っ込んだ。
零無は続ける。
「さっき君達が話していたことだ。異形型個性への医療。身体構造に合わせた社会設備。事件化する前の家庭支援。助けを求められない人間をどう見つけるか」
少しだけ間を置く。
「それを聞いていて、僕の側にも一つ問題があると思った」
八百万の目が僅かに動いた。
「家庭のことですか」
「ああ」
零無は頷く。
「家庭の事情を全て公開する義務があると言いたいわけではない。話したくなければ話さなくていい。それは今もそう思っている」
葉隠が静かに聞いている。
「ただ、僕は君達へ何度も考えろと言った。その一方で、僕が何故あの結論へ近付いたのかを理解するための材料を伏せたまま、君達へ考えろと言い続けるのは公平ではない」
画面の向こうで、相澤の目がほんの僅かに細くなった。
数日前、一人で決めるなと言われた。葉隠には、自分の気持ちまで計算へ入れろと言われた。相澤には、自分で勝手に自分へ刑罰を足すなと言われた。ミッドナイトには、昔から自分だけを問題から外す癖があると指摘された。
だからといって、零無が突然何もかも話す人間になるわけではない。ただ、自分から話すことまで最初から選択肢から外す理由も、以前ほど明確ではなくなった。
「だから、僕の家族について話そうと思う」
静かになった。
葉隠が一番最初に口を開いた。
「……いいの?」
「ああ」
「無理してない?」
「僕が話すと決めた」
少し間を置いて、葉隠の声が返る。
「……分かった。じゃあ、聞く」
零無も頷いた。
「僕には、親と呼べる人間が三人いる。生みの母と父。それから、僕を育てた母だ」
◇
「今まで、母の話をする時、意図的に区別しなかったことがある」
葉隠だけは既に一部を聞いている。それ以外の何人かが僅かに反応した。
「二人は無関係ではない」
芦戸が尋ねる。
「どういうこと?」
「姉妹だった」
「え?」
「血縁はない。同じ施設で育った。生みの母が姉で、僕を育てた人が妹だ」
障子が僅かに身を乗り出した。
「施設?」
「ああ」
零無は少し考えてから続ける。
「生みの母には、自分の身体全体を想像した形へ変化させる個性があった」
緑谷の表情が変わる。
「変身系?」
「便宜上はそう分類出来ると思う」
「思う?」
「強力な個性だったらしい。ただし、本人にとって有益だったかどうかは別だ」
八百万が零無を見る。
「どういうことでしょう」
「母の場合、生まれた時から発現していた」
誰もすぐには意味を理解出来なかった。
最初に緑谷の顔色が変わる。
「待って。新生児の時から?」
「ああ」
「でも、その個性って、本人が想像した形へ変わるんだよね?」
「そうだ」
「赤ちゃんには……」
緑谷の言葉が止まる。
零無が続けた。
「安定した自己像がない。自分がどういう形をしているのかも理解していない。自我すら成立していない。それでも個性だけは発現した」
本人の意思とは無関係に、身体が変化する。
障子が静かに目を伏せた。
「母の実の両親は、母を育てなかった。施設で育って、そこで後に妹と呼ぶ人間と出会った」
耳郎が顔を上げる。
「それが」
「ああ。僕を育てた母だ」
血は繋がっていない。同じ家に生まれたわけでもない。
それでも、二人は姉妹として育った。
「だから、育ての母は僕が生まれる遥か前から、生みの母を知っていた。身体の状態が良い時も、悪い時も、普通に生きようとしていた時も」
少しだけ視線を落とす。
「僕より遥かに長く、母を知っていた人だ」
「お父さんは?」
轟が聞いた。
零無はそちらを見る。
「父は精神科医だった」
今度は、ほとんど全員が反応した。
上鳴が思わず声を出す。
「医者?」
「ああ」
「ヴィランになる前?」
「ヴィランになった後も診療していたなら問題だろう」
「いや、そうなんだけど!」
『金木』
モニターから相澤の声が飛ぶ。
「はい」
『今は揚げ足を取るな』
「質問へ答えただけですが」
『いいから続けろ』
「はい」
小さく空気が緩み、すぐに戻った。
「父と生みの母は、医師と患者として出会った」
緑谷が少し首を傾げる。
「でも、お母さんの問題って個性による身体の方だよね?」
「ああ」
「精神科だったのは?」
「身体だけの問題ではなかったからだ」
零無は淡々と答える。
「幼少期から、自分の意思とは無関係に身体が変化する。痛みもあった。成長してある程度制御出来るようになってからも、不安や恐怖が強くなれば状態が安定しないことがあった」
「……」
「長期間それが続けば、精神状態に影響が出ない方が不自然だろう。父が担当したのは主にそちらだ。個性そのものや身体への治療は、別の医師や専門家と連携していた」
八百万が静かに頷く。
「複数の分野から治療されていたのですね」
「ああ。残っている記録を見る限りでは、父はかなり真面目な医師だったらしい」
誰も口を挟まない。
彼らが知っているのは、ヴィランとしての零無の父だ。その人物と今の話は簡単には結び付かない。
「すぐに治せない患者を、治せないから仕方がないと切り捨てるタイプではなかった。話を聞く。別の方法を探す。自分の専門外なら、別の医師へ繋ぐ。少なくとも、医師だった頃の父を知る人間からはそう聞いている」
「……ちゃんとした先生だったんだ」
麗日が言った。
「そうだったと思う」
零無は否定しなかった。
「母の治療も長く続いた。状態が安定していた時期もあったらしい。普通に外へ出られる。人と会える。働ける。そういう時期もあった」
「じゃあ」
芦戸が聞く。
「その間に付き合ったの?」
「いや。治療関係が続いている間ではない」
零無は首を横へ振る。
「治療が終わった後も交流が続いて、しばらくしてから交際するようになった。その後、結婚した」
そして、零無が生まれた。
「母は、僕が乳児の頃に亡くなった」
静かだった。
「長年の個性による身体への負担。精神状態が崩れた時の制御不全。それまでに蓄積していた損傷。どれか一つだけが原因だったわけではない」
緑谷が慎重に聞く。
「治療は?」
「続けていた」
「それでも?」
「ああ」
零無は僅かに目を伏せた。
「父は医師だった。身体を診る専門家もいた。育ての母も傍にいた。本人も、生きようとしていたと思う」
それでも、死んだ。
「だから、僕は母が死んだ責任を誰か一人へ押し付けるつもりはない」
社会が殺した。
医師が無能だった。
家族が悪かった。
本人が弱かった。
個性が悪かった。
そのどれか一つへ単純化することは出来ない。
「だが、母のような人間が生まれる可能性を、この社会は当然知っている」
零無は先ほどまで皆が見ていた資料へ目を向けた。
「個性が存在することを前提に社会が作られている以上、個性そのものによって普通に生活することが難しい人間が生まれる可能性も、前提に含めるべきだ。なのに、本人や家族が限界になるまで問題が家庭内へ留まることがある。問題を起こした後になって、初めてその人間が社会から見られることもある」
誰もすぐには答えなかった。
零無も答えを要求しない。
「母が死んだ後、父は僕を母の妹へ預けた。その後、父はヴィランになった」
それだけを事実として置いて、零無は続けた。
「育ての母は、僕を引き取った」
姉が残した子供だった。
まだ、自分では何も出来ない年齢だった。
「小さい頃から、ずっと育ててくれた。食事を作った。服を買った。学校へ行かせた。僕が熱を出せば、自分の方が不安定な時でも看病した。自分の物を削って、僕に必要な物を買ったこともある」
少しだけ、零無の声が遅くなる。
「僕が眠っている時に、髪を撫でていたこともある。『お姉ちゃんに似てる』と言われたこともあった」
そこで一度、言葉を切った。
「だから、僕を愛していたと思う」
誰もそこへ疑問を挟まなかった。
ただ、零無は成長した。
生みの母にも似た。
父にも似てきた。
顔。
考え方。
話し方。
人を見る癖。
「それを見ると、母が父を思い出すことがあった」
耳郎の眉間に皺が寄る。
「……それで?」
「ああ」
零無は躊躇わなかった。
「僕を傷つけることがあった。言葉だけではない」
それ以上は言わなかった。
誰も聞かなかった。
「その後に謝ることもあった。泣きながら抱き締められたこともある。僕は違うのに、と言われたことも」
愛していた。
傷つけた。
姉を愛していた。
父を憎んでいた。
そして、その二人の子供を育てた。
蛙吹が静かに言った。
「全部、本当なのね」
「ああ」
「どれか一つじゃなくて」
「ああ」
切島が慎重に聞く。
「金木は、その人のこと嫌いだったのか?」
零無は少しも迷わなかった。
「嫌いだった」
何人かが僅かに驚く。
「憎んだこともある。怖かったこともある。離れたいと思ったこともある」
そして。
「愛していた」
静かだった。
芦戸が聞く。
「……両方?」
「ああ」
「矛盾してるって思わない?」
零無が逆に少し不思議そうに彼女を見る。
「何故?」
「だって、嫌いで、怖くて、傷つけられて、それでも愛してるんでしょ?」
「両立するだろう」
零無は何でもないことのように言った。
「人間は、好きな人間を憎むこともある。憎んでいる相手を大切に思うこともある。愛していたからといって、傷つけられた事実が消えるわけではない。傷つけられたからといって、それ以前に愛されていた事実まで消えるわけでもない」
少し間を置く。
「少なくとも、僕と母についてはそうだった」
耳郎が小さく息を吐いた。
「……だからか」
零無が見る。
「何が?」
「前にさ。私達を友達だと思ってたのに裏切ったって話」
「……」
「普通なら、どっちかを嘘にしたくなるじゃん。クラスなんて本当はどうでもよかったとか、本当は裏切る気なんてなかったとか」
どちらか一つにすれば分かりやすい。
「でも零無は、最初から両方本当で何がおかしい、って感じだった」
零無は少し考えた。
「……そうだな」
「お母さんのことが影響してる?」
「可能性はある」
零無は認める。
「愛している人間が、自分を傷つけることがある。自分を傷つけた人間を、愛していることもある」
そして、葉隠がいる方へ一瞬だけ視線を向けた。
「無論、両立することと、許されることは別だ。愛していたから傷つけてもいい、とはならない」
「……うん」
葉隠の声が返る。
「母も」
一拍。
「僕も」
少しの沈黙の後。
「うん」
葉隠がもう一度だけ答えた。
零無は、それ以上何も求めなかった。
◇
「その生活の中で、僕は家の状態を見るようになった」
零無は続けた。
母の様子を見る。薬を飲んでいるか確認する。状態が悪ければ刺激しない。食事を作る。洗濯をする。家を片付ける。学校へ行く前に様子を確認し、帰ればまた確認する。
母が崩れないように。
生活が止まらないように。
「僕がやればいいと思っていた。僕なら出来る。僕が我慢出来るなら問題ではない」
画面の向こうで、相澤の目が僅かに動く。
「……昔からなんだね」
葉隠が言った。
「ああ」
零無は頷いた。
「残念ながら」
ミッドナイトとは、その頃から何度か顔を合わせていた。家のことを聞かれたこともある。
零無は、その度に問題ないと答えていた。
前夜から、育ての母の状態は良くなかった。ほとんど眠れず、何度も部屋を歩き回っていた。朝方になって、ようやく静かになった。
零無は学校へ行く前に母の様子を確認した。呼吸はあった。水を置いた。薬を置いた。昼に食べられる物を用意した。
「『行ってきます』とも言った。返事はなかった」
それ自体は珍しくなかった。
学校へ行った。
帰った。
朝に置いた食事には手が付いていなかった。
薬も減っていない。
寝室へ行き、呼んだ。
返事はなかった。
「以前にも、呼んでも反応しないことはあった。寝たまま起きてこない日もあった。だから、その時点では死んでいるとは思わなかった」
母の傍へ行った。
肩に触れた。
「冷たかった」
麗日が僅かに息を呑んだ。
「救急へ連絡した。脈と呼吸を確認した。指示に従って蘇生をした。救急隊が来て、止められるまで続けた」
耳郎が唇を噛む。
「もう戻らないと説明されて、それでも一度だけ、本当に他に出来ることはないのかと確認した」
「……」
「ないと言われた」
だから、次を考えた。
学校へどう連絡するか。
家はどうなるのか。
金銭は。
母の持ち物は。
自分はこれから、どこでどう生活するのか。
「……その直後に?」
耳郎が聞く。
「ああ」
「泣いた?」
「その時は泣かなかった」
芦戸が小さく聞く。
「悲しくなかったわけじゃないんだよね」
零無は少し考えた。
「違う。悲しかった。ただ、その時は悲しむより先に、次に何をすればいいのか考えた」
少し間が空いた。
「今なら、もっと早く誰かに話すべきだったとは思う」
何人かが顔を上げる。
「母の状態が悪いことも、家のことも。聞かれたことはあった。それでも僕は、問題ないと答えていた」
緑谷が何か言いかける。
零無は小さく首を横へ振った。
「分かっている。当時の僕は子供だった。母の状態を正確に判断出来る知識もなかったし、あの生活が普通ではないと判断する基準も持っていなかった」
声はいつもと変わらない。
「僕が誰かに話していれば母が助かった、と断言することも出来ない」
そこまで言って、ほんの少しだけ間が空いた。
「ただ、何度も大丈夫だと言ったのは僕だ」
誰も何も言わなかった。
「それが母の死因だった、と言うつもりはない。そこまで単純ではないことも分かっている」
零無は一度だけ視線を落とした。
「……だからといって、何も思わないわけでもない」
それ以上は続けなかった。
救急隊が来てから少し経って、ミッドナイトも家へ来た。
「先生は僕を一人にしなかった。必要な大人や制度へ繋いだ」
少し置いて。
「だから僕は、ミッドナイト先生に救われたと思っている」
爆豪が視線を上げる。
「だから戦場で助けに行った」
「ああ」
「返すつもりで」
「当時は」
「今は?」
零無は一瞬だけ嫌そうな顔をした。
「本人から、命で返すような恩を売った覚えはない、と言われた」
爆豪の口元が僅かに上がる。
「正論だな」
「僕は当時の判断にも一定の合理性はあったと思っている」
「まだ言うか」
「ただし、僕自身が生存する可能性を最初から切り捨てるべきではなかった、という点については、現在、検討を修正している」
一度モニターを見る。
次に、葉隠がいる方を見る。
上鳴が小声で瀬呂へ言った。
「成長したな」
「何故君達に評価されているんだ」
「聞こえてんじゃん」
小さな笑いが起きた。
◇
笑いが落ち着いた後、零無は父の話へ戻った。
「父はヴィランだった。それは君達も知っている」
誰も否定しない。
「人を傷つけた。犯罪も犯した。僕が把握していない罪もあるだろう」
零無の声には迷いがなかった。
「だから、父が医師だったことも、生みの母を愛していたことも、その後にしたことを正当化しない。同時に、父がヴィランだったという事実だけで、それ以前の全てが嘘になるとも思っていない」
八百万が静かに言う。
「別々に考えるべきだと?」
「ああ。犯罪者が正しい問題を指摘することはある。善人が、善意のまま間違った制度を維持することもある。そこに矛盾はない」
緑谷が零無を見る。
少し迷った。
けれど、避けなかった。
「じゃあ」
「何だ」
「金木君は、お父さんが間違っていたと思っていたのに、どうして同じところへ近付いたの?」
静かになった。
遠慮のない問いだった。
だが、本当に理解しようとするなら避けられない。
零無は怒らなかった。
「僕も考えた」
「……」
「父の答えを間違いだと思いながら、何故自分も社会を一度壊すという結論へ近付いたのか」
麗日が聞く。
「答えは?」
零無は少しだけ資料を見る。
「父が間違えたからといって、父が見ていた問題まで消えるわけではないからだ」
静かだった。
「父が人を傷つけた。だから、母のような人間への支援は十分だった?」
誰も答えない。
「成立しない」
零無は続ける。
「父がヴィランだった。だから、個性によって人生が左右される構造も、助けを求められない人間が零れる仕組みも存在しなかった?」
また、答えはない。
「それも成立しない」
零無は淡々と続ける。
「僕は、父の問いと父の答えを同じものとして扱いたくない。父が最終的に選んだ答えは間違っていたと思っている」
「……でも」
緑谷が言う。
「ああ」
零無が先に頷いた。
「それでも僕も近付いた」
誰も口を挟まない。
「生みの母は、自分の個性から最後まで完全には自由になれなかった。育ての母は助けを必要としていた。僕一人では、どうにも出来なかった」
少しだけ言葉を置く。
「父は、生みの母を失って壊れた」
そして。
「三人とも死んだ」
誰も動かなかった。
「だから、君達が以前『これから変える』と言った時、僕には簡単に頷けなかった」
麗日を見る。
「君達が本当に変える可能性はある。それは以前より高く見積もっている」
上鳴が何か言いかけ、耳郎に止められた。
「だが、それでも問いは残る。五年か。十年か。二十年か。その間に、母と同じような人間が死んだら? 父と同じように社会への怒りを他人へ向ける人間が生まれたら? 育ての母のように、助けを必要としているのに自分から助けを求められない家庭があったら?」
零無は全員を見る。
「その人間に、もう少し待てば良くなったと言うのか」
誰もすぐには答えなかった。
「僕には、それでは足りない」
最初に口を開いたのは障子だった。
「金木」
「何だ」
「生みの母親の話について、前より理解出来たことはある」
障子は、自分の身体へ一度だけ視線を落とす。
「俺も、生まれ持った身体のことで、中身より先に何かを決められることがある。怖がられることも、避けられることもある」
零無は黙って聞く。
「だから、お前の母親が自分の個性や身体のことで何も傷つかずに生きられたとは思わない」
「……ああ」
「でも、だからこそ、同じように生まれた人間が、ここで生きていていいと思える社会にしたい」
零無の目が僅かに細くなる。
「それに何年かかる?」
「分からない」
「その間に誰かが死んだら?」
「それでも変える」
即答だった。
「死んだ人間を忘れるという意味じゃない。その人を救えなかったことを理由に、今生きている人間の場所まで壊したくない」
零無は長く障子を見る。
反論は出来る。
恐らく、幾つも。
けれど。
「そうか」
それだけだった。
麗日も口を開いた。
「私も、金木君が何でそんなに急ぐのかは、前より分かった気がする」
零無が見る。
「賛成は出来へん。社会を一回壊した方がいいなんて、今でも思わへん」
「そうか」
「でも、うちらがこれから変えるって言っても、金木君が一番救われてほしかった人達には、もう届かへんのやもんな」
零無の目がほんの僅かに動いた。
「……ああ」
父だけは、他の二人と同じ意味ではない。それでも、生きているうちに別の道へ戻れたならと思ったことがなかったわけではない。
麗日は続ける。
「でも、それでも私は、これからって言うよ。亡くなった人には届かへん。それは変えられへん。でも、今生きてる人には届く」
零無が問う。
「それまでに零れる人間は?」
「拾う」
「全員を?」
麗日は一瞬止まった。
以前なら、勢いで全員と答えたかもしれない。今は違う。
「……全員って言いたい。でも、出来へんこともあると思う」
零無が少しだけ意外そうに見る。
「どれだけ頑張っても、間に合わへん人がおるかもしれん。見つけられへん人も、助けられへん人も、多分おる」
苦しそうに、それでも逸らさず。
「それでも、一人でも多く拾う。制度も変える。うちらも変わる。それでも間に合わん人がおったら、悔しい。ごめんなさいって思う。多分、忘れへん」
そして、零無を見る。
「でも、その人を救えへんかったことを、次の人まで救わん理由にはせえへん」
長い沈黙。
零無は考えていた。
やがて。
「なるほど」
麗日が少し拍子抜けした顔になる。
「……それだけ?」
「何を期待している?」
「いや。もっと反論来るかと思って」
「出来るよ」
全員が微妙な顔をした。
上鳴が小声で言う。
「出来るんだ……」
「当然だろう」
「今の結構いい話だったじゃん」
「良い話であることと、論理的に反論可能であることは別だ」
「出たよ」
瀬呂が笑う。
だが、零無は続けた。
「ただ、今はいい」
麗日が見る。
「なんで?」
「今日は僕が話すために集まってもらった。君達を論破するためではない」
一瞬、静かになった。
爆豪が鼻を鳴らす。
「珍しい日もあんだな」
零無がそちらを見る。
「君は僕を何だと思っている?」
「クソ面倒臭ぇ奴」
「否定はしない」
小さな笑いが起きる。
爆豪はそのまま言った。
「で、話したかったのはそれだけか」
「ああ」
「なら終わりだな」
零無が僅かに眉を寄せる。
「……随分あっさりしているな」
「何期待してんだ。テメェの親がどうだったかは分かった。それで、テメェがやったことが消えんのか?」
「ああ」
零無は即答する。
「消えない」
「だったら、やることは変わらねぇだろ」
「何を?」
「直す」
短かった。
それ以上、爆豪は説明しなかった。
零無も少し考えてから。
「相変わらず具体性がないな」
「だから今考えてんだろうが!」
「以前も聞いた」
「なら何度でも聞け!」
「同じ情報を反復する意味は薄い」
「うるせぇ!」
切島が吹き出した。
「始まった!」
上鳴も笑う。
「もう通常運転じゃん!」
耳郎が肩を竦める。
「結局こうなるんだ」
零無は小さく息を吐いた。
だが、ほんの少しだけ笑っていた。
◇
笑いが落ち着いた頃、葉隠が口を開いた。
「零無」
「ああ」
「一個聞いていい?」
「内容による」
「家族のこと」
零無が僅かに目を細める。
「何だ」
葉隠は少し考える。
「前に、私だけで会った時にも少し聞いたけどさ。三人のこと、零無は結局どう思ってるの?」
制度でもない。
社会でもない。
個性でもない。
犯罪でもない。
責任でもない。
ただ、その人達をどう思っていたのか。
零無はしばらく答えなかった。
「生みの母については、僕にはほとんど記憶がない。声も知らない。何を食べるのが好きだったのかも、どういうことで笑ったのかも、どういう時に怒ったのかも知らない」
少しだけ視線を落とす。
「だから、僕が母を愛していたと言い切るのは、記憶という意味では正確ではないかもしれない」
「……そっか」
「ただ、母が僕を愛していたことは疑っていない」
「どうして?」
「写真がある」
「写真?」
「ああ。母が僕を抱いている」
ほんの少しだけ、零無の目が柔らかくなる。
「カメラではなく、僕を見ている。その顔が、不幸だったようには見えない」
少し間が空いた。
「だから、僕も母を大事に思っているのだと思う」
葉隠の声が柔らかくなる。
「そっか。育てのお母さんは?」
今度は迷わなかった。
「愛していた」
「嫌いだったけど?」
「ああ」
「怖かった?」
「ああ」
「憎んだ?」
「そういう時もあった」
「それでも?」
「愛していた」
「そっか」
葉隠は、それ以上解釈しない。
「お父さんは?」
今度は少し長かった。
「……難しいな」
「うん」
「嫌いだった。軽蔑している部分もある。理解出来る部分もある。医師だった頃の父については、尊敬出来るところもある」
「うん」
「その後にしたことは許せない。僕と母を残して、自分が選んだことについてどう評価するべきなのかも、まだ分からない」
少し間を置く。
「それでも父だった」
「……そっか」
葉隠は静かに答えた。
零無の方が少し不思議そうに、葉隠がいる方を見る。
「それだけか?」
「うん」
「何故そんなことを聞いた?」
葉隠は本当に不思議そうな声で答えた。
「知りたかったから」
「……」
「零無が、思想とか社会とか個性とか、そういう話じゃなくて、その人達のことどう思ってたのかなって」
零無は黙った。
自分が家族について話す時、彼らは原因になる。
生みの母。
個性社会。
医療。
支援。
父。
医師。
ヴィラン。
犯罪。
育ての母。
家庭支援。
精神状態。
自分の自己犠牲傾向。
全部、現在の自分を説明する材料。
だが、葉隠が聞いたのはそのどれでもない。
どう思っていたのか。
それだけだった。
「……そうか」
「うん」
葉隠の声に少し笑いが混じる。
「話してくれてありがと」
「礼を言われるようなことでは」
言いかける。
止まる。
「……何だ」
「また『必要ない』って言おうとした?」
「……」
「最近それ減らすんでしょ?」
「感謝を受け取ることまで約束した覚えはない」
「じゃあ今から追加する?」
「しない」
「即答!」
少しだけ笑いが起きた。
それから葉隠は、もう一度零無を呼ぶ。
「今度さ」
「何だ」
「その三人の、嫌じゃなかった話も聞きたい」
零無が僅かに止まった。
「嫌じゃなかった話?」
「うん。苦しかったとか、辛かったとか、死んだとか、そういう話じゃないやつ。育てのお母さんが何作ってくれたとか、何買ってくれたとか、一緒に何してたとか」
「……」
「生みのお母さんについて、妹だった人からどんな話を聞いたとか」
「……」
「お父さんがお医者さんだった頃、どんな人だったって聞いたとか」
零無は少しだけ意外そうに、葉隠がいる方を見る。
「……何故?」
「家族だったんでしょ?」
「……」
「だったら、悲しい話だけじゃないでしょ」
長い沈黙。
零無はすぐには答えなかった。
思い出せるものはある。
育ての母と過ごした、比較的穏やかな日。
生みの母について聞かされた、社会にも個性にも関係のない話。
父についても、医師だった頃の記録や、人から聞いた話は残っている。
今まで、それらを家族について説明するために必要な情報だとは思っていなかった。
だから、語らなかった。
それだけだ。
「……そうだな」
零無は小さく言った。
「ある」
「じゃあ」
葉隠の声が少し弾む。
「機会があれば、話すよ」
「約束?」
「そこまで大袈裟な話ではない」
「じゃあ約束ね」
「何故そうなる」
「いいじゃん」
「君は最近」
零無が言いかける。
葉隠が先に。
「しつこくなった?」
零無が止まった。
「……ああ」
「誰のせい?」
「君自身の性格では?」
「違いますー」
「では何だ」
葉隠の声に笑いが混じる。
「零無のせい」
零無は数秒、そちらを見る。
それから、小さく息を吐いた。
「……否定しにくいな」
「でしょ?」
葉隠が笑う。
零無も、ほんの少しだけ笑った。
その夜、家族について話したことで何かが解決したわけではない。
生みの母は戻らない。育ての母も戻らない。父も戻らない。
当時の自分に、大人と同じ判断など出来なかった。それは今の零無にも分かっている。だからといって、何度も「大丈夫だ」と答えた自分まで、完全に過去の子供として切り離せたわけでもない。
零無の社会への疑念も消えていないし、1-Aも彼の結論を受け入れてはいない。
ただ、今まで議論の中でしか存在しなかった「母」や「父」という言葉に、少しだけ人間の輪郭が出来た。
そして零無自身も、家族について話す時、これまで必要な部分だけを選んできたことに初めて少しだけ気付いた。
社会を説明するために必要なこと。
自分の判断を説明するために必要なこと。
それ以外を嘘にしていたわけではない。
ただ、必要ではないとして語らなかった。
けれど、葉隠が知りたいと言ったのは、ずっとその「必要ではない」としていた部分だった。
それを、いつか自分から話すことまで。
今の零無は、もう最初から除外しなかった。