「正しい答え」 作:はい
翌日。
雄英高校、校長室。
金木零無は、根津の机を挟んだ椅子に座っていた。
少し離れた壁際の椅子には、数日前に退院し、雄英へ戻った相澤が座っている。義足での生活にはまだ慣れきっていないが、担任として校内で仕事をする程度には回復していた。
机の上には数枚の書類。
昨日まで教師達が検討していた内容を、本人へ提示するために整理したものだ。
監視条件。通信制限。行動範囲。授業への参加条件。実技訓練。校外活動。AFO関連捜査への協力義務。
そして、雄英高校における在籍について。
根津は書類から顔を上げた。
「結論から言おう」
「はい」
「君の雄英在籍は継続する」
零無は動かなかった。
根津は待つ。
相澤も何も言わない。
数秒して、零無が口を開いた。
「理由を伺っても?」
相澤が横から言った。
「まずそこか」
零無が僅かにそちらを見る。
「他に何を聞くんです?」
「驚いたとかねぇのか」
「驚いていますよ」
「見えねぇ」
「表情に出すことが必要な場面でしょうか」
「いや」
「では問題ないでしょう」
根津が小さく笑った。
「退学を予想していた?」
「有力だとは考えていました」
「最も可能性が高いと?」
「そこまでは」
零無は即座に否定した。
「僕は学校側が把握している全情報を知りません。判断主体が保有している情報を欠いた状態で、処分の確率まで推測するのは無意味でしょう」
根津の耳が僅かに動く。
「なるほど。では、君が学校側なら?」
「退学を選択肢から外す理由はありません」
「質問と少し違うね」
零無が止まる。
「君が校長なら、金木零無を退学させるか、と聞いている」
数秒。
零無は考えた。
「……少なくとも、在籍継続を決定するには相応の根拠を要求します」
「退学させる、とは言わない?」
「情報不足だと言ったばかりでしょう」
根津が笑った。
「そうだったね」
相澤が小さく息を吐く。
「始まったな」
零無が見る。
「何がです?」
「長くなるやつだ」
「校長先生に言ってください」
「君も原因だよ」
根津は楽しそうだった。
「では、情報を増やそう」
一枚の書類を零無側へ滑らせる。
「在籍継続。ただし無条件ではない。外部通信は制限。行動範囲も限定する。実技訓練は教師監督下。校外活動は当面停止。AFOに関する情報提供及び捜査協力を義務付ける」
零無は受け取り、上から下まで読む。
かなり速い。
だが、飛ばしてはいない。
「監視装置も継続」
「はい」
「違反があれば追加措置」
「妥当でしょう」
「学校内での処分は別途行う。つまり、在籍継続は無罪を意味しない」
「理解しています」
紙を置く。
「だからこそ、分かりません」
根津が目を細める。
「何が?」
「何故、残すんです?」
「君は残りたくない?」
「質問を変えないでください」
即座だった。
根津が僅かに笑う。
「失礼」
「僕の希望と、学校側の判断の妥当性は別問題でしょう」
「そうだね」
あっさり認める。
零無の目が僅かに動いた。
根津は続けた。
「では学校側の判断だけを話そう。第一に、安全面だけを見ても、退学が在籍継続より優れているとは限らない」
「校内に限定すれば成立します」
「その限定に意味はあるかな?」
「雄英は在籍生徒の安全に責任を負っています」
「退学した元生徒がAFOへ再度接触され、利用された結果、雄英の生徒が危険に晒される可能性は?」
零無が一瞬止まった。
「あります」
「君を雄英の管理下にも置けば?」
「学校側からの監督は容易になる」
「警察との連携も」
「容易でしょう」
「AFOが君へ再接触した場合の把握も」
「同様です」
「なら?」
零無は僅かに視線を落とす。
「……少なくとも、安全性だけを理由に退学が優越するとは言えません」
「ありがとう」
「礼を言われることではありません」
「一つ目だ」
「一つ目?」
「君が在籍継続にも合理性があると認めた理由」
零無が少し嫌そうな顔をした。
「数えるんですか」
「分かりやすいだろう?」
「議論を勝敗のように扱うのは感心しません」
「僕も勝敗だとは言っていないよ」
「今の言い方は明らかに――」
「二つ目」
根津が遮った。
「君はまだ生徒だ」
零無の眉が寄った。
「それは既に相澤先生から聞きました」
「良い担任だね」
「その一文だけで評価するなら、基準が甘いと思います」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言いました」
「お前な」
根津が少し笑った。
「でも、今回は『生徒だから残す』だけでは終わらせない」
零無が根津を見る。
「君は問題を起こした」
「はい」
「ならば教育対象ではなくなる?」
「必ずしも」
「僕もそう思う」
「退学も教育的措置にはなり得ます」
「もちろん」
「なら、生徒であること自体は在籍継続の根拠として弱い」
「単独ではね」
根津はすぐ認めた。
「だが、ここで一つ聞こう。学校教育において処分の目的は何だと思う?」
「複数あります」
「例えば?」
「秩序維持。被害拡大の防止。規範の明示。本人への責任の明確化。再発防止。他の生徒への安全確保」
「報復は?」
「教育機関が公式に採用する目的としては不適切でしょう」
「同感だ」
根津は頷く。
「では、君を退学させることで最も達成しやすいものは?」
「校内からの物理的排除」
「最も達成しにくくなるものは?」
零無が黙る。
少しして。
「……学校による継続的な教育と観察」
「そう」
「ですが、それは在籍継続を選んだ時点で当然発生する利点です。利点が存在することと、危険を上回ることは同義ではない」
「正しい」
根津はあっさり認める。
「だから監視と制限を付ける」
「それで危険をゼロには出来ません」
「退学ならゼロになる?」
「なりません」
「なら比較すべきはゼロと非ゼロではない」
零無の目が僅かに細くなる。
「在籍させて学校による教育と監督を続ける場合と、学校としての関与を終える場合」
「そうだね」
「加えて教育可能性」
「うん」
「他生徒への影響」
「もちろん」
「学校への信頼」
「それも」
零無は数秒考えた。
「……理解は出来ます」
「納得は?」
「別です」
「結構」
根津は楽しそうだった。
「君は理解と同意を分けるから話が早い」
「校長先生もでしょう」
「だから話が長くなる」
「それは否定しません」
相澤が椅子へ身体を預けた。
「俺、いなくていいんじゃねぇか」
「担任だからいてください」
零無が即答する。
相澤が目を開ける。
「そういう時だけ使うな」
「事実でしょう」
「面倒臭ぇ」
根津が笑ってから。
「では、三つ目」
「まだ数えるんですね」
「君は、自分への処分を決める立場ではない」
「当然でしょう」
「本当に?」
零無の眉が僅かに動く。
「何を仰りたいんです?」
「君は先ほどから、退学という処分の妥当性をかなり熱心に論じている」
「意見を求められたので」
「うん。それは構わない」
根津の声は穏やかだ。
「でも、君は以前から少し違うこともしている」
「違うこと?」
「学校を失う。ヒーローになる将来を失う。クラスメイトとの関係を失う。それらを、情報漏洩への責任と一緒に束ねている」
零無が黙った。
「君が行ったことに対して学校が処分を決める。それは僕達の仕事だ」
「……」
「でも君は、その処分に自分の人生まで勝手に追加しようとする」
「その表現は不正確です」
根津の耳が動く。
「どこが?」
「失う可能性があるものを、結果として想定しているだけです。積極的に追加しているわけではありません」
「なるほど」
根津は頷いた。
「では訂正しよう。君は、自分が失うものについて、学校側が必要と判断するより広い範囲まで失っても構わないと考えている」
零無は反論しなかった。
「違う?」
「……概ね」
「それを相澤君達は問題視している」
「知っています」
「ミッドナイトも」
「聞きました」
「葉隠君も」
僅かな間。
「……はい」
「クラスメイト達も」
「人数は主張の正しさと関係ありません」
根津が笑った。
「そう来ると思ったよ」
「なら何故言ったんです?」
「人数を根拠にしたつもりはない」
「では?」
「君自身が、同じ指摘を複数の独立した人間から受けてもなお、全てを個別に反論して処理しようとする傾向があることを確認しただけだ」
零無が僅かに目を細める。
「……趣味が悪いですね」
「褒め言葉として受け取ろう」
「褒めていません」
「知っているよ」
相澤が鼻を鳴らした。
「相性いいな、お前ら」
二人が同時に相澤を見る。
「何だ」
「別に」
「何でもないよ」
「息まで合ってんじゃねぇか」
根津は話を戻した。
「ともかく。君が自分への処分について意見を述べることは認める」
「はい」
「ただし、最終決定権は学校にある」
「当然です」
「なら学校が『退学させない』と決めたことも受け入れたまえ」
零無が一瞬止まった。
「……それは」
「何か?」
「随分と都合の良い使い方ですね」
「そうかな?」
「僕が処分の主体ではないことを利用して、僕から反論の余地を奪っている」
「奪ってはいないよ」
根津は即答する。
「反論していい」
「では」
「でも最終的には僕達が決める」
「それでは結果は変わらないでしょう」
「処分というのは、元々そういうものだよ」
「……」
「君が同意した処分しか執行出来ないなら、それは処分ではなく契約だ」
零無が止まった。
数秒。
「……それはそうですね」
相澤が僅かに口元を動かした。
零無がそちらを見る。
「何です?」
「いや」
「笑いました?」
「笑ってねぇ」
「今」
「話続けろ」
根津が楽しそうに見ている。
零無は一度息を吐いた。
「分かりました。少なくとも、その点は認めます」
「ありがとう」
「だから数えないでください」
「残念だ」
「やはり数えていたんですか」
根津は答えず、次の資料を開いた。
「次に、葉隠君の件だ」
零無の表情から、僅かに遊びが消えた。
「はい」
「君は、自分への処分を軽くする材料として扱われることを望んでいない」
「ええ」
「却下する」
即答だった。
零無の眉が寄る。
「理由を」
「簡単だよ」
根津は資料を指した。
「事実だからだ」
「僕が彼女を理由に自分の責任を減らすことは――」
「待って」
根津が遮る。
零無が止まる。
「今、君は二つの話を混ぜた。葉隠君が脅迫材料にされたという事実を考慮することと、その事実によって君の責任を全て免除すること。これは同じではない」
零無は黙った。
「僕達は後者をするつもりはない」
「……」
「AFOが葉隠君を利用した」
「はい」
「君はそれによって行動を強制された」
「はい」
「一方で、脅迫下にありながら、その中で君自身が選択した部分もある」
「あります」
「君自身の社会観が影響した行動も」
「否定しません」
「AFOを利用しようとした部分も」
「あります」
「なら全部見る」
零無の目が僅かに細くなる。
「被害者だから仕方なかった、とは?」
「言わない」
「裏切ったのだから脅迫は無関係だ、とも?」
「言わない」
「思想があった以上、全て自発的だった、とも?」
「言わない」
根津は穏やかに笑った。
「君は事実を減らされるのが嫌いだろう?」
零無は数秒、根津を見た。
「……ええ」
「僕もだよ」
沈黙。
「君は被害者だった。加害者でもある。自分で選んだ部分もある。選べなかった部分もある。それを全部残した状態で処分を決める」
零無は、今度はすぐに反論しなかった。
「何か?」
根津が尋ねる。
「いえ」
「納得した?」
「その部分については」
「限定付きだね」
「当然でしょう」
「結構」
根津は嬉しそうだった。
相澤が呆れたように言う。
「楽しそうだな」
「優秀な生徒との対話は楽しいよ」
零無が根津を見る。
「今の状況で言われても嫌味にしか聞こえませんが」
「嫌味ではないよ」
「それなら尚更質が悪いですね」
「よく言われる」
「誰にです?」
「主に教師達に」
「納得しました」
「お前ら本当に話長ぇな」
相澤がぼやいた。
根津は無視した。
「さて」
少しだけ表情を変える。
「思想の話をしようか」
零無も僅かに姿勢を変えた。
「僕達は、君の考えそのものを矯正するつもりはない」
「……意外ですね」
「何故?」
「雄英はヒーローを養成する学校でしょう」
「そうだね」
「その学校が、『ヒーロー社会は一度壊れた方が良かった可能性がある』と考える生徒を在籍させる」
「問題かな?」
「学校の教育理念との衝突はあるでしょう」
「理念に疑問を持つ生徒を教育出来ない理念なら、僕はそちらを疑うよ」
零無が止まった。
根津は続ける。
「君はヒーロー社会に欠陥があると思っている」
「ええ」
「制度が救えなかった人間がいる」
「います」
「漸進的な改善では間に合わない人間もいる」
「当然です」
「社会が大きく壊れたことで、それ以前なら起こらなかった変化が起きた」
「少なくとも一部は」
「それらを考えること自体を、僕は止めない」
「では」
零無が即座に返した。
「僕が『一度壊れた方が変化は早い』という結論を維持しても?」
「構わないよ」
相澤が僅かに目を動かす。
零無も少しだけ黙った。
根津は笑う。
「何かな?」
「そこまで明言するとは思いませんでした」
「思想だけならね」
声が変わる。
「君が明日、『雄英を破壊すれば教育制度改革が進む』と考えたとしても、頭の中だけなら処分しない」
「極端な例ですね」
「君には丁度いい」
「相澤先生みたいなことを言いますね」
「心外だ」
「聞こえてるぞ」
根津は続けた。
「だが、実際に爆弾を置けば止める」
「当然でしょう」
「情報を流しても」
「はい」
「他人を危険に晒しても」
「はい」
「本人の意思を無視して、善意を理由に選択権を奪っても」
零無が僅かに止まる。
「……そこも含めますか」
「含めるよ」
「犯罪とは限らないでしょう」
「処分対象の話だけをしているわけではない」
「では?」
「教育だ」
根津は答えた。
「君は社会が人間の意思を無視して、『本人のため』という理由で何かを決めることを嫌う」
「ええ」
「なのに葉隠君に対しては、危険だからという理由で本人へ知らせず、自分で決めた」
「……」
「矛盾しているね」
零無は少し考えた。
「否定しません」
根津の耳が動く。
「随分素直だ」
「既に指摘されています」
「誰に?」
「透に。クラスメイトにも。相澤先生にも」
「なるほど」
「それに」
零無は少しだけ目を伏せる。
「僕自身、結果を優先して彼女の意思を軽視したこと自体は認めています」
「なら、次は?」
「同じ状況で同じ判断をしない、とは約束出来ません」
相澤が黙って零無を見る。
根津も。
「ただ」
零無は続けた。
「彼女が何を望むかを、僕が勝手に決めないことは約束しました」
「うん」
「誰かに話すことも、最初から選択肢から外さないように努力する」
少しだけ間を置く。
「自分が生き残る方法も、最初から除外はしない」
根津はすぐには何も言わなかった。
「続けられるかな?」
零無は少し考えた。
「努力します」
根津の耳が僅かに動く。
しかし、褒めなかった。
「では、その前提で君を扱おう」
零無の眉が僅かに寄る。
「信用するんですか?」
「違う」
即答だった。
零無が止まる。
「約束したから監視を外すわけではない」
「……」
「君を信用しているから残すわけでもない」
「では?」
「その選択肢を実際に取れる環境を作る」
根津は書類を指した。
「監視。通信制限。教師への報告義務」
そして。
「君一人で考え続けるしかない環境にも戻さない」
零無の目が僅かに細くなる。
「クラスメイトへ僕の管理を任せるつもりですか」
「いいや」
根津は即座に否定した。
「それをすれば、今度は彼らの意思を道具にすることになる」
零無は黙る。
「ただ、人間は一人で判断する時と、他人から反論される環境にいる時では、選択が変わる」
「常に良い方向へ変わる保証はありません」
「ないね」
「集団圧力によって誤った判断へ誘導される場合もある」
「当然ある」
「なら」
「だから教師もいる」
零無が止まる。
「クラスメイトだけに君を任せない。教師だけでも決めない。警察だけにも任せない」
根津は穏やかに言った。
「複数の視点を置く」
零無は少し考える。
「冗長ですね」
「安全設計では冗長性は美徳だよ」
一瞬、零無が黙った。
相澤が僅かに口元を上げる。
「一本取られたな」
零無が見る。
「勝敗ではないと言ったでしょう」
「負けず嫌いか」
「違います」
「なら顔に出すな」
「出していません」
「出てる」
「……」
根津が楽しそうに笑った。
「では、次の論点へ移ろう。父親の話だ」
空気が少し変わった。
零無は平静だった。
「はい」
「君は父親と似ている」
「そうですね」
迷いはない。
「即答だね」
「否定する理由がありますか?」
「怖くない?」
「何がです?」
「父親と同じ道へ近付くことが」
零無は少し考えた。
「その事実だけなら」
「理由は?」
「父が犯罪者になった。僕も犯罪行為に加担した。社会への問題意識にも共通部分がある」
一拍。
「だから僕の主張が誤りである」
僅かに首を傾ける。
「論理として成立していません」
「そうだね」
根津が即答した。
零無の目が動く。
「認めるんですか」
「当然」
根津は平然としている。
「『父親と同じだから間違い』では反論にならない」
「では何故聞いたんです?」
「君がどこを抑止力としているのか知りたかった」
「……」
「父親と同じになりたくない、では止まらない」
「ええ」
「世間から父親と同類だと思われたくない、でも?」
「重要ではありません」
「では」
根津は零無を見る。
「何なら止まる?」
零無は答えなかった。
「自分の論理が誤っていると証明された時?」
「当然、修正します」
「被害が想定より大きいと分かった時?」
「再計算します」
「大切な人間に止められた時?」
「それだけでは判断しません」
「でも無視もしない?」
僅かな間。
「……以前よりは」
根津の目が細くなる。
「なるほど」
「何です?」
「君の抑止力が一つ増えている」
「大袈裟でしょう」
「そうかな?」
「感情を判断材料に加えることと、感情に従うことは違います」
「もちろん」
根津はすぐに認めた。
「僕も、葉隠君が泣けば君が全ての思想を捨てる、などとは思っていない」
零無が僅かに嫌そうな顔をする。
「随分と低く見られていますね」
「むしろ逆だよ」
「?」
「君は、感情を理由に論理を捨てる人間ではない」
根津は少し間を置いた。
「ただし、これまで君は、自分の感情だけをしばしば論理の外へ追い出していた」
零無の表情が止まった。
「他人の恐怖は変数にする。他人の幸福も。他人の死も。葉隠君が死ぬ可能性に至っては、極端なほど大きく扱った」
「否定しません」
「でも」
根津の声は静かだった。
「自分が死ぬことだけは、小さく扱った」
零無は答えない。
「それは合理性かな?」
「比較対象によります」
即座に返した。
根津が僅かに笑う。
「良い答えだ」
「何がです?」
「『違う』と断言しなかった」
「実際、場合によるでしょう」
「そう。場合による」
根津は頷く。
「だから学校は、君自身の生命を常に最大価値にしろとは言わない」
零無の目が僅かに動く。
「ヒーローを養成しておいて、自己犠牲を一切否定するのは矛盾しているからね。誰かを救うために危険へ飛び込むことはある。自分より他人を優先する瞬間もある」
「はい」
「問題は、君がそれを例外ではなく、初期設定にしていたことだ」
零無が黙る。
「誰かと自分を比較した時、最初から自分の方を安く設定する。それでは、計算がどれだけ精密でも入力値が歪んでいる」
零無の目が僅かに細くなった。
長い沈黙。
相澤も口を挟まない。
やがて。
「……その指摘は」
零無がゆっくり口を開く。
「否定しづらいですね」
根津は笑わなかった。
「なら、覚えておいて」
「ただ」
「うん」
「僕と他人の生命価値が常に等しい、とまでは認めません」
「構わないよ」
零無が僅かに眉を上げる。
「構わない?」
「僕は君に思想教育をしているんじゃない」
根津は淡々と答える。
「初期値をゼロにするな、と言っているだけだ」
数秒。
零無は根津を見る。
「……ミッドナイト先生と話しましたか」
「昨日ね」
「でしょうね」
「何故分かった?」
「同じ方向から殴ってくるので」
相澤の声が飛ぶ。
「俺もいるぞ」
零無が見る。
「先生はもっと雑です」
「喧嘩売ってんのか」
「比較です」
「余計悪い」
根津が笑った。
しばらくして、最後の書類を零無の前へ置く。
「これが当面の条件だ」
零無は受け取った。
今度は最初よりさらに細かく読む。
通信制限。外出。監視。実技。捜査協力。報告義務。違反時の追加措置。通常授業への段階的復帰。寮生活の継続。クラスメイトとの接触については、双方の意思を尊重すること。
最後まで読む。
「異論は?」
「あります」
「聞こう」
「寛大過ぎる」
「却下」
即答。
零無の眉が寄った。
「まだ理由を言っていません」
「予想出来る」
「予想と確認は別でしょう」
根津の耳が動く。
「それはそうだ」
相澤が小さく笑った。
根津が零無を見る。
「では聞こう」
「僕が行った情報漏洩の規模。敵連合側が得た利益。雄英生徒及び教師へ生じた危険を考えれば、在籍継続を前提にしても、もう少し強い処分は合理的です」
「例えば?」
「長期停学。ヒーロー資格取得過程からの一時除外。実技参加停止期間の明文化」
「なるほど」
根津は頷いた。
「それらは検討した」
零無の目が動く。
「その上で?」
「現時点では固定しない」
「理由を」
「捜査が終わっていない。君が漏洩した情報の全体的影響も、まだ確定していない。AFOによる強制の範囲についても、追加証拠が出る可能性がある」
根津は零無を見る。
「つまり、君が今要求しているのは、事実認定が完了していない段階で処分の上限を先に引き上げることだ」
零無が止まる。
「それは公平かな?」
零無は数秒考えた。
「公平ではない可能性があります」
「だろう?」
「ただし、後に追加処分する余地は残る」
「もちろん」
「なら」
「だから『処分は別途決定』と書いてある」
零無が書類を見る。
確かに書いてある。
「……」
「何か?」
「いえ」
「また一つ納得した?」
「その言い方をやめてください」
根津が楽しそうに笑う。
「ともかく」
少し声を落とした。
「君は処分される側だ」
零無が顔を上げる。
「意見は聞く。不当に軽いと思うなら、それも言っていい」
「……」
「でも」
根津の目が僅かに鋭くなる。
「事実が揃う前から、自分に最も不利な処分を要求することを責任感と呼ぶつもりはない」
「……」
「それは場合によっては、自己処分だ」
零無は根津を見る。
長く。
「随分」
ようやく口を開く。
「僕に自分を罰させたくないんですね」
「うん」
根津は即答した。
零無の目が僅かに動く。
「何故?」
「権限がないから」
「……」
「そして」
根津は続ける。
「君は、自分が思っているほど自分自身について公平な裁判官ではないから」
零無の眉が寄った。
「それは根拠の必要な主張でしょう」
「あるよ」
「聞きましょう」
「君は他人の事情については複数の事実を同時に残そうとする。父親が犯罪者でも、父親が見た社会問題まで否定しない。育ての母親が君を傷つけても、愛されていなかったことにはしない」
零無の目が僅かに止まる。
「クラスメイトが君へ怒っていても、それだけで彼らとの過去の友情を虚偽とはしない。葉隠君についても同じだ」
根津は静かに言った。
「でも、自分についてだけは、『裏切った』という一つの事実で、他の全てを失っても妥当だと処理しようとした」
沈黙。
零無はすぐには反論しなかった。
「偏っていると思わない?」
長い間、根津を見る。
「……比較として」
一度言葉を切る。
「完全には否定出来ません」
「それで十分だ」
根津はそれ以上押さなかった。
相澤が腕を組み直す。
零無は小さく息を吐いた。
「校長先生」
「何だい?」
「非常に性格が悪いですね」
「ありがとう」
「褒めていません」
「二度目だね」
「覚えていたんですか」
「頭が良いので」
「自分で言いますか」
「事実を正確に扱わないと」
零無が一瞬、本当に嫌そうな顔をした。
相澤がそれを見て。
「お前みたいだな」
「やめてください」
即答だった。
根津が笑った。
やがて、書類をまとめる。
「正式な署名は後でいい。今日は条件と学校側の判断を理解してもらえれば十分だ」
零無も立ち上がる。
相澤も椅子からゆっくり立ち上がった。
「終わりか」
「うん」
「行くぞ、金木」
「はい」
二人が扉へ向かう。
その途中。
「金木君」
根津が呼び止めた。
零無が振り返る。
「何でしょう」
根津は少しだけ、校長としての表情を緩めた。
「最後に一つ」
「はい」
「僕は、君の社会批判を全て誤っているとは思っていない」
零無の目が僅かに動いた。
「制度から零れた人間はいる。ヒーローが間に合わなかった人間もいる。社会が大きく揺らいで初めて、問題を自分のこととして考え始めた人々もいる」
零無は黙って聞いている。
「君が指摘した問題の中には、現実に存在するものがある」
「……」
「だからこそ」
根津は言った。
「壊す以外の答えを探してほしい」
数秒。
零無は何も言わなかった。
そして、ゆっくり聞く。
「それは、答えが存在することを前提にしていませんか」
根津の目が僅かに細くなる。
相澤も振り返った。
「続けて」
「社会の構造的欠陥を、誰も大きく切り捨てず、変革の途中でも犠牲者を出さず、既に被害を受けた人間にも納得可能な形で是正する」
一拍。
「そんな方法が本当に存在する保証はありません」
「ないね」
根津は即答した。
零無の目が動く。
「認めるんですか」
「当然だよ」
「なら」
「存在しないことも証明されていない」
零無が止まった。
根津は続ける。
「君は『見つからないかもしれない』と言った」
「はい」
「でも、それは『存在しない』ではない」
「……」
「そして、君が破壊を選んだ場合に生じる犠牲についても、君は完全には予測出来ない」
「それは認めます」
「なら」
根津は穏やかに言う。
「どちらにも不確実性がある。漸進的改革を続ければ、その途中で救えない人が出る。急激な破壊を選べば、その破壊によって救えない人が出る」
「当然です」
「君は前者の犠牲を重く見ていた」
「社会が既に許容している犠牲だからです」
即答だった。
「見えないまま継続される犠牲と、変革のために新たに発生させる犠牲を同列には扱えません」
根津の目が鋭くなる。
「良い指摘だ」
零無が僅かに止まる。
「でも」
根津は続ける。
「見えていなかった犠牲を可視化するために、新しい犠牲を作る必要がある、とはまだ証明されていない」
「……」
「今回起きたことが示したのは、社会が壊れれば、人は変わり得るということだ」
「……」
「壊さなければ変わらない、ではない」
零無はすぐに返さなかった。
「因果関係があることと、それが必要条件であることは別だ」
静かだった。
零無の目が僅かに細くなる。
「……それは」
数秒。
「その通りです」
相澤が少しだけ目を動かした。
根津は勝ち誇らない。
「ただ」
零無は続ける。
「壊さずに変えられると実証されるまでの間にも、人は死にます」
「そうだね」
「僕の母達のように」
根津の表情から、僅かに笑みが消えた。
「……ああ」
「その人達に」
零無は淡々と聞く。
「実証を待ってくれと言うんですか?」
根津はすぐには答えなかった。
「言えない」
零無の目が僅かに動く。
「僕には言えないよ。既に死んだ人間に、もう少し待ってくれとは言えない」
「なら」
「だから次を間に合わせる」
零無が黙る。
「君はそれでは足りないと言うだろうね」
「足りません」
「知っている」
「なら、議論は平行線です」
「それでいい」
零無の眉が僅かに寄った。
「……良い?」
「今日決着を付ける必要があるのかい?」
「ありませんが」
「なら平行線のままでいい」
根津は笑った。
「君は雄英に残る。僕もここにいる。明日も話せる」
零無が僅かに目を細める。
「それを教育と呼びますか」
「少なくとも」
根津は答えた。
「君を追い出して議論を終わらせるよりはね」
長い沈黙。
零無は最後まで頷かなかった。
けれど、否定もしなかった。
「……面倒ですね」
「君に言われたくないな」
「それは先ほども聞きました」
「覚えていたんだね」
「頭が良いので」
今度は根津が止まった。
相澤が吹き出しかける。
根津の耳がぴくりと動く。
「一本取られたね」
「勝敗ではないのでしょう?」
「そうだった」
「ほら行くぞ」
相澤が扉を開けた。
「これ以上やると日が暮れる」
「もう夕方ですが」
「そういう意味じゃねぇ」
「分かっています」
二人は校長室を出た。
廊下を、しばらく無言で歩く。
零無の手には、処遇を記した書類がある。
在籍継続。監視。制限。捜査協力。処分は未確定。
退学ではない。
それだけが、まだ妙に馴染まない。
相澤が前を向いたまま聞いた。
「不満か」
「かなり」
「何が」
「全体的に」
「便利な答えだな」
「本当にそうなので」
少し歩く。
「退学したかったのか」
零無は考えた。
「したかった、とは違います」
「じゃあ何だ」
「退学になる方が、理解しやすかった」
「何で」
「因果関係が単純だからです」
零無は淡々と答える。
「裏切った。退学になる。関係が切れる。将来の選択肢が減る。そこで一度、僕が引き受けるべき結果を整理出来る」
相澤は前を向いたまま聞く。
「でもならなかった」
「ええ」
「困ったか」
「非常に」
「じゃあ困ってろ」
零無が横を見る。
「雑ですね」
「お前にはそれでいい」
「何故です」
「すぐ答えを出そうとするからだ」
零無は少し黙った。
「分かんねぇまま残ることもある。納得出来ないまま飯食うこともある。結論が出ないまま寝ることもある。次の日になっても分かんねぇこともある」
少し間を置く。
「お前は何でも処理し過ぎだ」
零無の目が僅かに動く。
「それも」
「何だ」
「既に似たことを言われました」
「誰に」
「色々な人に」
「じゃあ聞け」
「人数は――」
「正しさと関係ねぇんだろ。知ってる」
零無が止まりかけた。
相澤は歩き続ける。
「先回りしないでください」
「何回聞いたと思ってんだ」
「……」
再び歩く。
しばらくして。
零無が呼んだ。
「先生」
「何だ」
「残った場合」
相澤は返事をしない。
続きを待つ。
「僕は」
珍しく、零無が言葉を探した。
「何をすればいいんでしょう」
相澤の足が止まった。
振り返る。
零無も立ち止まる。
そこには、社会の話も、AFOも、父親も、処罰論もなかった。
ただ、残ることになった生徒が、ここで何をすればいいのか。
相澤は少しだけ考えた。
「授業受けろ」
「……はい」
「訓練しろ」
「はい」
「飯食え」
「はい」
「寝ろ」
「はい」
「クラスの奴らと話せ。必要なら謝れ。責任取れ」
「……はい」
「怪我したら治せ」
零無の目が僅かに動く。
「困ったら頼れ」
「努力します」
「そこはまだそれか」
「無条件には約束出来ません」
相澤が零無を見る。
「葉隠には約束しただろ」
「内容が違います」
「分かってる」
零無が僅かに眉を上げる。
相澤は続けた。
「お前が葉隠に約束したのは、あいつの気持ちを勝手に決めないことだ」
「……はい」
「それとは別に、誰かに話すことも最初から選択肢から外さないよう努力するって言った。自分が生き残る方法も、最初から除外はしないってな」
「はい」
「俺が言ってんのは、その選択肢の中に『誰かに頼る』も入れろって話だ」
零無が黙る。
「必ず頼れ、とは言ってない」
「……」
「最初から消すな」
零無は少し考えた。
「それなら」
一拍。
「努力します」
「今はそれでいい」
相澤はそれ以上求めなかった。
そして。
「卒業しろ」
零無は長く何も言わなかった。
遠くから、生徒達の声が聞こえる。
寮へ戻れば、上鳴がゲームへ誘ってくるかもしれない。飯田が今日の処遇について確認したがるかもしれない。爆豪とは、恐らくどうでもいいことで揉める。耳郎は何か言いたそうにして、結局、必要なところだけ聞くだろう。
透は、きっと今日何を言われたのか聞く。
そして、自分がまた勝手に一人で処理しようとしていないか確認する。
そんな、何か大きな目的のためではない未来。
誰かへの恩返しでもない。
社会を変えるためですらない。
学校へ通う。授業を受ける。飯を食う。人と話す。時々怒られる。次の日も起きる。
そして、卒業する。
零無はようやく口を開いた。
「随分」
一度、言葉を切る。
「普通ですね」
相澤は答えた。
「生徒だからな」
零無は、ほんの少し困ったような顔をした。
「それが」
一拍。
「一番難しいかもしれません」
相澤は驚かなかった。
慰めもしない。
「知ってる」
それだけだった。
そして、再び歩き出す。
「だからやれ」
零無は数秒、その背中を見ていた。
やがて、後を追った。
退学にはならなかった。罰は消えない。監視も続く。許されたわけでもない。思想を変えろとも言われなかった。根津との議論にも、結論は出なかった。
社会を壊さずに変える方法が、本当に存在するのか。
零無はまだ知らない。
根津も、存在すると証明したわけではない。
ただ、一つだけ否定された。
社会が壊れたから変化した。
だから、壊れなければ変化しなかった。
その二つは同じではない。
そこは認めるしかなかった。
なら、まだ考える余地がある。
自分についても同じだった。
裏切った。
だから、全て失うべきだ。
その二つも、必ずしも同じではない。
それについては、まだ完全には納得していない。
けれど、納得出来ないからといって、今日中に結論を出す必要もない。
残れ。
考えろ。
責任を取れ。
反論していい。
納得しなくてもいい。
ただし、自分を最初から計算の外へ出すな。
そして、卒業しろ。
随分と面倒な処分だった。
以前の零無なら、非効率だと評したかもしれない。
今も、半分ほどはそう思っている。
それでも、分からないから終わらせる、という選択を今日はしなくていい。
答えが出なければ、明日も考える。議論が終わらなければ、また校長室へ来ればいい。
寮へ戻れば、誰かがいる。
その中に、自分もいる。
少なくとも今は、それを最初から否定する必要はなかった。