「正しい答え」 作:はい
雄英高校。
昼前。
一年A組寮。
金木零無は、冷蔵庫の中を覗き込んでいた。
昨日の夕食で使った食材が、まだ少し残っている。
鶏肉。
卵。
長ねぎ。
それから、いくつかの野菜。
「……うどんでいいか」
必要なものを取り出し、調理台へ並べる。
今日もA組の生徒達は、それぞれの活動へ出ていた。
捜索活動。
避難民への対応。
各地で発生しているヴィラン犯罪への対処。
ヒーローの人手が足りない現状では、彼らにも出来ることが多い。
一方、零無は寮に残っていた。
条件付きでの在籍継続こそ認められたが、行動には依然として制限がある。校外活動への参加も許可されていない。
もっとも、それについて不満はなかった。
自分のしたことを考えれば、当然の扱いだ。
零無は鶏肉を切り分け、鍋に火をかけた。
昼食の準備を進めていると、玄関の方から声が聞こえた。
「……あの」
包丁を動かす手が止まる。
「こんにちは……」
聞き覚えのある声だった。
零無は包丁を置き、手を拭いて共有スペースへ向かった。
「……エリ?」
そこには、小さな鞄を抱えた少女が立っていた。
「あっ。金木さん」
零無を見つけると、エリは少しだけ表情を明るくした。
「こんにちは」
「ああ。こんにちは」
零無は彼女へ近づく。
「どうした? 一人か?」
「いえ。ここまでは先生が送ってくれました。相澤先生が、金木さんは今日は寮にいるって……」
「……」
零無は黙った。
相澤先生。
あの人は、一体何を考えているんだ。
自分の現在の立場について、誰よりもよく理解しているはずだ。
AFOの内通者。
雄英の情報を敵へ流し、関係のない人間達を危険に晒した。
その事実は何も変わっていない。
にもかかわらず、そんな人間が一人でいる場所へ、わざわざ子供を訪ねさせる。
……不用心にも程があるだろう。
自分を信用しているのかもしれない。
だが、それと安全性の判断は別問題だ。
監視下に置いている人間に、何故わざわざ幼い子供を会わせる必要がある。
そもそも、事前に一言も聞いていない。
……全く。
後で話しておく必要がありそうだった。
「……金木さん?」
エリがこちらを見上げていた。
「どうかしましたか?」
零無は顔を戻す。
「……いや。何でもない」
「……」
「少し考え事をしていただけだ。君が気にすることじゃない」
エリは少しだけ安心したようだった。
「……はい」
「それで、何か用事があったんだろう?」
「あの……」
エリは鞄を抱え直した。
「お勉強を、教えてもらえないかなって……」
「勉強?」
「はい」
零無は少し考える。
「……僕でいいのか?」
エリが頷いた。
「はい」
「他にも教えられる人間はいると思うが」
「……金木さんが、よかったので」
零無は数秒、彼女を見た。
それから。
「……そうか」
短く頷いた。
「なら構わない。鞄はそこの椅子に置いてくれ」
「……!」
エリの表情が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「礼はまだ早いだろう。何も教えていないんだから」
零無はキッチンへ戻った。
「ただ、今は昼飯を作っているところなんだ。エリはもう食べたか?」
「まだです」
「なら、一緒に食べよう。勉強はその後でいいだろう」
「……いいんですか?」
「何が?」
「お昼ごはん……」
零無は振り返る。
「元々多めに作るつもりだったからな。問題ない」
「……でも」
「嫌いなものでもあるのか?」
エリは慌てて首を振った。
「ありません!」
「なら、決まりだな」
そう言って、冷蔵庫から卵をもう一つ取り出した。
◇
「……すごい」
キッチンの前で、エリが呟いた。
鍋の中では、鶏肉と野菜が煮込まれている。
零無は火加減を調整しながら顔を上げた。
「何が?」
「金木さん、お料理できるんですね」
「ああ。好きだからな」
「……すごいです」
「そうか?」
「はい!」
エリは調理台を興味深そうに眺めている。
零無はその様子に気づいた。
「エリも料理をしてみたいのか?」
「……はい。でも、まだあんまり……」
「なら、これから覚えればいい」
「……私にもできますか?」
零無は僅かに眉を寄せた。
「何故できないと思うんだ?」
エリは答えなかった。
零無は鍋の蓋を閉める。
「誰だって最初は出来ないだろう。練習すればいいだけだ」
「……」
「まあ、包丁や火を使うものは危ないからな。最初は誰かと一緒にやった方がいい」
少し考えてから、付け加える。
「今度、何か作ってみるか?」
エリが顔を上げた。
「……いいんですか?」
「ああ。簡単なものなら、僕でも教えられる」
「……!」
エリは嬉しそうに頷いた。
「はい!」
その後、エリは自分から食器を並べることを申し出た。
零無は箸と小さな器の場所を教え、あとは彼女に任せた。
慎重に食器を並べ終えたエリが振り返る。
「……できました!」
「ああ。ありがとう」
零無は何気なく答えた。
エリは一瞬、その顔を見た。
それから、少し照れたように笑った。
◇
昼食は、鶏肉と卵の入った温かいうどんになった。
エリの器には、少し短めにした麺と、食べやすい大きさに切った具材が盛られている。
零無の前には、当然のように大きな器が置かれていた。
「いただきます」
「いただきます!」
エリは箸を取り、慎重に麺を持ち上げた。
息を吹きかけてから、一口。
「……!」
目が大きくなる。
「おいしいです!」
「そうか」
零無は頷いた。
「熱いから気をつけろよ」
「はい!」
エリは嬉しそうに食事を続けた。
零無も、自分の箸を動かす。
しばらくして。
「……あれ?」
エリが顔を上げた。
「どうした?」
「金木さん、もう食べちゃったんですか?」
零無の前には、空になった器があった。
「ああ」
「……早いです」
「そうか?」
エリは頷く。
零無は立ち上がり、鍋から二杯目を取り分けた。
その様子を見ていたエリが、ぽつりと呟く。
「……いっぱい食べるんですね」
「そうだな」
「……私より、ずっといっぱいです」
零無は自分の器を見た。
それから、エリの器を見る。
「……比べる相手が悪いな」
「……?」
「僕は少し食事量が多いんだ」
エリはもう一度、大きな器を見る。
「……少し?」
零無の手が止まった。
数秒。
「……まあ、少しではないか」
エリが小さく笑った。
零無は僅かに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、彼女の器へ視線を向ける。
「足りなかったら言ってくれ。まだあるからな」
「はい!」
エリは嬉しそうに返事をした。
それから、再びうどんを食べ始める。
零無は特別に話を盛り上げようとはしなかった。
聞かれたことには答えるが、必要以上に話しかけてくるわけでもない。
食べるのが遅くても、気にしない。
エリが麺を落としてしまった時も、叱ることなく布巾を渡してくれた。
そんな零無との食事が、エリは不思議と心地よかった。
静かで。
落ち着いていて。
無理に何かをしなくてもいい。
そんな気がした。
◇
昼食を終えた後。
二人は共有スペースのテーブルへ移動した。
エリが鞄から取り出したのは、算数と国語のプリントだった。
「相澤先生から、ここをやっておくようにって」
「なるほど」
零無は隣へ腰を下ろし、プリントを確認する。
二桁の計算。
文章問題。
それから、漢字の読み書き。
「……随分進んでいるんだな」
エリが顔を上げる。
「そうですか?」
「ああ。頑張っているじゃないか」
「……!」
嬉しそうに笑ったエリにプリントを返す。
「じゃあ、まずは自分でやってみろ。分からなければ聞けばいい」
「はい!」
エリは鉛筆を握った。
最初の問題。
次の問題。
少し考えながらも、順番に答えを書き込んでいく。
零無はその様子を眺めていた。
やがて、エリの手が止まる。
「……あれ?」
「どうした?」
「ここが……」
差し出されたプリント。
零無は途中まで書かれた数字を確認した。
「……繰り下がりか」
「はい」
「何処まで分かった?」
エリは自分の書いた数字を指した。
「ここまでは……」
「ああ。そこは合っている」
零無は頷いた。
「じゃあ、次はどうする?」
エリは考え込んだ。
零無は答えを急かさなかった。
しばらくして、エリが顔を上げる。
「……あっ」
「分かったか?」
「はい!」
「なら、書いてみろ」
エリは鉛筆を動かした。
答えを書き終えてから、零無を見る。
「……どうですか?」
零無はプリントを確認する。
「ああ。合っている」
「……!」
「出来るじゃないか」
エリが嬉しそうに笑った。
その表情を見て、零無も僅かに口元を緩める。
エリはまた次の問題へ進んだ。
◇
『……零無くん』
不意に。
別の少女の声が、頭の片隅を過ぎった。
『心配してくれてたんです?』
零無は、あの時の光景を覚えていた。
第一次全面戦争の後。
まだ、自分の負傷が完全には癒えていなかった頃。
ミッドナイトを救出した際の傷が残り、身体を動かすだけでも痛みが走ることがあった。
そんな状態で、トガヒミコと再会した。
場所は、使われなくなった建物の裏手だった。
以前から何度も顔を合わせていた少女。
だが、あの日の彼女は少し違っていた。
頬が痩せていた。
目元にも疲れが見えた。
それでも、零無の姿を見つけると、いつものように笑っていた。
『零無くん、久しぶりですねえ』
『……そうだな』
『怪我してるって聞きましたけど、大丈夫なんです?』
『君に心配されるほどじゃない』
『えー。せっかく心配してあげてるのに』
軽い調子だった。
以前と何も変わらない。
そう思えるほどに。
けれど。
彼女が、もう以前と同じではないことくらい、零無にも分かっていた。
トゥワイス。
分倍河原仁。
彼は、あの戦いで命を落とした。
トガにとって、随分と大切な人間だったはずだ。
零無は、自動販売機で買っておいた缶のお茶を彼女へ渡した。
トガは少し驚いたようにそれを見て、それから笑った。
『ありがとうございます』
受け取った缶を、両手で包む。
そして。
『……零無くん』
『何だ』
『血、ください!』
『嫌だ』
『即答ですか!?』
『僕の血だ。誰に渡すかくらい僕が決める』
『むぅ……』
トガは不満そうに頬を膨らませた。
いつものやり取りだった。
零無も、呆れたように息を吐いていた。
その時は。
まだ。
◇
「……金木さん?」
エリの声で、零無は顔を上げた。
「何だ?」
「できました」
差し出されたプリントを確認する。
「……ああ。正解だ」
「やった!」
エリが小さく笑った。
零無はプリントを返す。
「随分進んだな。少し休憩するか?」
「……いいんですか?」
「ずっと勉強していても疲れるだろう」
エリは少し考えた。
「……はい!」
零無は席を立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
二人分のコップを用意して戻る。
「ほら」
「ありがとうございます」
「ああ」
エリはコップを両手で持ち、少し飲んだ。
それから、プリントを眺める。
「……金木さん」
「何だ?」
「お勉強って、楽しいですね」
零無は僅かに眉を上げた。
「……そうか?」
「はい」
エリは頷いた。
「知らなかったことが、分かるようになるので」
「……なるほど」
零無は少し考えた。
「まあ、それは確かに楽しいな」
「はい!」
エリは嬉しそうに笑った。
零無は、その笑顔を眺めていた。
エリ。
個性。
巻き戻し。
その特異性を理由に、幼い頃から多くのものを奪われてきた少女。
けれど今は、こうして勉強している。
分からない問題に悩み、正解すれば喜ぶ。
何処にでもある光景だった。
だが。
彼女にとって、それが最初から当たり前だったわけではない。
そう考えると。
零無は、どうしてもあの少女のことを思い出してしまう。
◇
『……トゥワイスさんって、うるさい人でしたよねえ』
トガは、缶のお茶を見つめながらそう言った。
零無は隣に立っていた。
『いつも何か喋ってて、突然変なこと言い出して』
少し笑う。
『……でも、優しい人でした』
『……そうだな』
零無は短く答えた。
トガは、缶を握り直した。
『私のことも、ちゃんと見てくれました』
その声は、先ほどまでより少しだけ小さかった。
零無は何も言わなかった。
彼女も、すぐには次の言葉を口にしなかった。
遠くを走る車の音。
風に揺れる草の音。
それだけが聞こえていた。
やがて。
『……もうちょっと』
トガが呟く。
『もうちょっと、ちゃんと出来たら良かったです』
零無は彼女を見た。
『……何を?』
『色々、ですよ』
トガは笑った。
困ったような。
少しだけ、泣きそうな。
そんな笑顔だった。
『……トゥワイスさん、私のこと助けてくれたんです』
『ああ』
『なのに、私……』
言葉が途切れる。
零無は続きを促さなかった。
しばらくして、トガが顔を上げた。
『……零無くん』
『何だ』
『私、もっとちゃんと出来たら良かったです』
同じ言葉だった。
けれど、今度は少しだけ違って聞こえた。
零無は数秒、彼女を見ていた。
『……君一人でどうにか出来たことだとは思わないが』
『……』
『少なくとも、彼は君を大切にしていた。それは間違いないだろう』
トガは黙った。
そして、俯く。
『……そう、ですね』
小さな声だった。
零無はそれ以上何も言わなかった。
慰めの言葉など、簡単には出てこなかった。
彼女が何を失ったのか。
それを、零無が全て理解出来るわけでもない。
ただ。
今は、何かを言わせる必要もないと思った。
だから、黙っていた。
トガも、それ以上話さなかった。
しばらくしてから、いつものように顔を上げた。
『……零無くんって、変な人ですよね』
『君に言われたくはないな』
『ふふ』
彼女が笑う。
いつもの笑顔に、少しだけ戻っていた。
◇
「……金木さん?」
零無は顔を上げた。
エリが、少し心配そうにこちらを見ていた。
「……何だ?」
「難しい顔をしていたので……」
零無は少し考えた。
「……考え事をしていただけだ」
「……難しいことですか?」
「まあ、そうだな」
エリは少しだけ首を傾げた。
「金木さんも、分からないことがあるんですか?」
「当然だろう」
零無は即答した。
「僕が何でも知っているように見えるか?」
エリは少し考えてから、小さく頷いた。
「……はい」
零無は僅かに眉を寄せる。
「……それは買い被りすぎだな」
「……かいかぶり?」
「実際より、ずっとすごいと思っているということだ」
「……」
「僕にも分からないことくらい、いくらでもある」
エリは目を丸くした。
「……そうなんですね」
「ああ」
零無はプリントを指した。
「だから勉強するんだろう。分からないことを、そのままにしておく必要はない」
エリはしばらく考えていた。
そして。
「……はい!」
嬉しそうに頷いた。
零無は小さく息を吐く。
「……何でそこで喜ぶんだ」
「えっと……」
エリは少し恥ずかしそうに笑った。
「金木さんも、私と同じなんだなって」
零無は黙った。
それから。
「……そうか」
短く答えた。
否定する理由もなかった。
◇
第一次全面戦争後。
トガと別れたあの日。
帰り際になって、彼女は零無の袖を指先で摘んだ。
『……トガ?』
『……』
『何だ』
少しして、彼女は手を離した。
『……何でもないです』
笑っていた。
零無はその表情を見ていた。
『……ちゃんと食べろよ』
『……え?』
『随分痩せたんじゃないか』
トガは少し驚いたように目を瞬かせた。
それから、笑い出した。
『えへへ。零無くん、お母さんみたいですね』
『……誰がお母さんだ』
『ふふ』
楽しそうな声だった。
けれど、その笑顔は長くは続かなかった。
『……零無くん』
『何だ』
『会えて良かったです』
零無は少しだけ目を細めた。
『……そうか』
『はい』
彼女は頷いた。
『私の好きまで、嫌いにならなかったので』
零無は数秒、トガを見ていた。
『……君が何を好こうと自由だろう』
『……』
『ただ、それを理由に何をしてもいいわけではない。それだけの話だ』
トガは少しだけ唇を尖らせた。
『またそういうこと言います』
『事実だろう』
『そうですけどぉ』
彼女は小さく笑った。
それから、手に持っていた缶を見た。
中身は、もうほとんど残っていなかった。
『……零無くん』
『今度は何だ』
『また、会えますかね』
零無は少し考えた。
『……分からないな』
『えー』
『僕が決められることじゃない』
『……そうですけど』
トガは不満そうに頬を膨らませた。
それから、にっこり笑った。
『じゃあ、またね』
零無は彼女を見た。
『……ああ』
トガは手を振り、建物の向こうへ歩いていった。
それが。
最後に見た、彼女の姿だった。
◇
「……あっ」
エリが声を上げた。
零無は顔を上げる。
「どうした?」
「これ……」
エリは国語のプリントの隅を指差した。
そこには、小さな花の絵が描かれていた。
「かわいいですね」
「そうだな」
「……私も描いていいですか?」
零無はプリントを見る。
「問題を解く場所じゃなければいいんじゃないか?」
「……ほんとですか?」
「ああ。ただ、先生に怒られない程度にな」
エリが小さく笑う。
「はい!」
それから、鉛筆を握り直した。
余白に、小さな花を描き始める。
花びら。
茎。
葉っぱ。
随分と時間をかけて、丁寧に。
零無は隣で、その様子を眺めていた。
「……出来ました!」
エリがプリントを持ち上げる。
そこには、少し不格好な花が描かれていた。
零無は一度、絵を見る。
「……上手だな」
「……!」
エリの顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
「何の花なんだ?」
「……分かりません」
少し恥ずかしそうに答える。
「でも、かわいいなって思ったので……」
「そうか」
零無は頷いた。
「なら、それでいいだろう」
「……いいんですか?」
「何が?」
「何のお花か、分からなくても……」
零無は僅かに眉を寄せた。
「君が気に入って描いたんだろう?」
「……はい」
「なら、別に名前が分からなくても構わないと思うが」
エリは、しばらく絵を見つめていた。
そして。
「……はい!」
嬉しそうに笑った。
零無はその笑顔を見ていた。
好きなものを好きだと思う。
それを口にする。
何も不思議なことではない。
けれど、そんな当たり前のことさえ、否定され続けた人間がいる。
零無は、ふと机の上のプリントに目を落とした。
エリが描いた、小さな花。
名前は分からない。
それでも、彼女は気に入っている。
それで十分なのだろう。
零無は小さく息を吐いた。
◇
トガと別れてから、しばらく経った頃。
零無はスピナーと会っていた。
場所は、人気のない廃建物だった。
二人の間には、零無が持ってきたものが置かれている。
『……断る』
返答は早かった。
スピナーは、それへ手を伸ばそうともしなかった。
『理由を聞いても?』
『聞くまでもねえだろ』
スピナーは顔をしかめた。
『お前のことは嫌いじゃねえよ』
少し間を置く。
『けど、信用してるわけじゃねえ』
『知っている』
『だったら、何で俺に持ってきた』
零無は目を伏せる。
『君なら、話くらいは聞くだろうと思ったからだ』
『……』
『違ったか?』
スピナーが舌打ちする。
『……そういうところが気に食わねえんだよ』
零無は何も言わなかった。
スピナーは続ける。
『お前は俺達の仲間じゃない。何度会おうが、そこは変わらねえ』
『同感だな』
『……お前な』
『事実だろう』
スピナーは呆れたように息を吐いた。
互いに信用していない。
それは、以前から変わらないことだった。
零無は敵連合の思想に賛同していたわけではない。
スピナーも、そのことを理解していた。
だからこそ、仲間としては信用できなかった。
零無が誰かを助けようとする人間であることを、スピナーは否定しなかった。
むしろ、そういう部分を評価している節すらあった。
ただ、その善性が自分達にとって都合よく働くとは限らない。
彼らのために、無関係な人間の犠牲を許すような男ではないことも分かっていた。
『……そんな奴が持ってきたもんを』
スピナーは、二人の間に置かれたものを見た。
『何の疑いもなく受け取ると思ってんのか?』
『思っていない』
『だったら――』
『だから、まず話を聞けと言っている』
零無は淡々と答えた。
スピナーは眉をひそめる。
『……お前、本当に何考えてんだ』
『少なくとも、君に不利益を与えるためではない』
『俺の話じゃねえだろ』
『そうだな』
スピナーは苛立ったように頭を掻いた。
『……トガに関わることなら、なおさら簡単には信用出来ねえぞ』
『当然だろう』
『分かってんなら、少しは説明の仕方考えろよ』
零無は少し考えた。
『……そうだな。それは認める』
『……は?』
スピナーが顔を上げる。
『お前、今素直に認めたか?』
『間違っていると思えば否定するし、正しければ認める。それだけだが』
『……ほんっと面倒くせえな、お前』
零無は何も言わなかった。
スピナーは、しばらく黙っていた。
やがて。
『……何で俺なんだよ』
そう尋ねた。
零無は彼を見る。
『君が、仲間を大切にしているからだ』
『……』
『僕が信用できるかどうかと、トガを助けたいと思うかどうかは別だろう』
スピナーは顔をしかめた。
『……勝手に決めつけんな』
『違うのか?』
『……』
零無はそれ以上追及しなかった。
スピナーは、しばらく黙っていた。
やがて。
『……お前は、俺のこと信用してねえんだろ』
『ああ』
『だったら、何でだよ』
零無は少し考えた。
『君がトガを見捨てるとは思わない』
スピナーの目が僅かに動いた。
『僕を信用しているかどうかは、関係ないだろう』
『……』
『君が仲間を大切にしていることは疑っていない。それだけだ』
スピナーは黙っていた。
それから、深く息を吐いた。
『……ほんっと、気に食わねえ奴だな』
『そうか』
『ああ』
再び、沈黙。
やがてスピナーが口を開いた。
『……俺にも、考えさせろ』
『構わない』
『お前の言うことを、そのまま信じるつもりはねえからな』
『当然だろう』
『……それでもいいんだな?』
零無は頷いた。
『ああ』
スピナーは、ようやく目の前のものへ手を伸ばした。
ただし。
最後まで、零無を信用したわけではなかった。
『……勘違いすんなよ』
『何がだ』
『お前のためじゃねえからな』
零無は彼を見る。
『知っている』
少し間を置いた。
『だから、君に頼んだんだ』
スピナーは、心底気に食わなさそうに顔をしかめた。
◇
「……金木さん!」
エリの声がした。
零無は顔を上げる。
「何だ?」
「終わりました!」
差し出されたプリントを確認する。
最後の問題まで、答えが書き込まれていた。
「……ああ。全部合っている」
「……!」
エリが顔を輝かせた。
「やった!」
「よく頑張ったな」
零無はプリントを返す。
「今日はここまででいいだろう」
「……もう終わりですか?」
「随分やったからな。疲れただろう」
「……少しだけ」
「なら休め。勉強は逃げないんだから」
エリは小さく笑った。
「はい!」
零無は席を立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出した。
二人分のコップを用意して戻る。
「ほら」
「ありがとうございます」
「ああ」
エリはコップを両手で持ち、少し飲んだ。
それから、プリントを眺める。
「……金木さん」
「何だ?」
「また、お勉強を教えてもらってもいいですか?」
零無は少し考えた。
「僕がいる時なら構わない」
「……ほんとですか?」
「ああ。ただ、相澤先生にはちゃんと確認しておけよ」
「はい!」
エリは元気よく頷いた。
「ありがとうございます!」
零無は小さく息を吐いた。
「……だから、礼を言うほどのことじゃないだろう」
エリは首を横に振った。
「でも、嬉しかったので」
零無は少し黙った。
それから。
「……そうか」
短く答えた。
エリは、そんな零無を見て笑った。
金木さんは、少し変わった人だと思う。
あまり笑わないし、時々難しいことも言う。
けれど。
分からないことを聞いても、怒られない。
出来ないことがあっても、責められない。
自分の話を、最後まで聞いてくれる。
だから。
一緒にいると、何だか安心するのだった。
◇
その後、迎えに来た教師が寮を訪れた。
エリは鞄を抱えて立ち上がる。
「……じゃあ、行ってきます」
「ああ。気をつけろよ」
「はい!」
玄関へ向かいかけて、エリが振り返った。
「……金木さん!」
「何だ?」
「今日のお昼ごはん、とっても美味しかったです!」
零無は頷いた。
「そうか。それは良かった」
「また食べたいです!」
「なら、今度は別のものを作ってやる」
「……!」
エリが顔を輝かせた。
「ほんとですか?」
「ああ。何がいいか考えておけ」
「はい!」
そして、嬉しそうに頭を下げた。
「ありがとうございました!」
「……ああ。またな」
「またね、です!」
エリは笑って、寮を出ていった。
◇
静かになった共有スペース。
零無は、一人で食器を片付けていた。
エリが使っていた小さな器。
勉強していたテーブル。
何度も消しゴムを使いながら、一生懸命問題を解いていた姿。
何も特別なことはなかった。
ただ、一緒に昼食を食べた。
勉強を教えた。
少し話をした。
それだけだった。
零無は洗い終えた食器を水切りかごへ並べる。
そして。
ふと、スピナーと交わした最後の会話を思い出した。
『……お前のためじゃねえからな』
あの時、彼は最後まで警戒を解かなかった。
当然だった。
互いに信用していない。
それでも、零無は彼を頼った。
スピナーが敵連合の仲間達を大切に思っていることだけは、疑っていなかったからだ。
あれから、何も聞いていない。
彼が最終的にどう判断したのか。
零無には分からなかった。
確かめる手段もない。
もっとも、今更どうにか出来ることでもなかった。
零無は蛇口を閉めた。
窓の外へ目を向ける。
穏やかな陽射しが、校庭を照らしていた。
エリは今頃、教師と一緒に戻っている頃だろう。
次に会った時には、また新しい問題を解けるようになっているかもしれない。
昼食には何を作ってやろうか。
そんなことを考える。
そして。
また、あの少女の笑顔が浮かんだ。
トガヒミコ。
最後に会った時も、彼女は笑っていた。
いつものように。
楽しそうに。
『……じゃあ、またね』
あれから、随分と時間が経った。
敵連合を取り巻く状況は変わり続けた。
トガが今、何処で何をしているのか。
零無は知らない。
彼女がどんなことを考え、どんな道を選ぼうとしているのかも。
ただ。
あの少女には、生きていてほしかった。
それだけは、今も変わらない。
零無は小さく息を吐いた。
「……さて」
共有スペースへ戻る。
エリが使っていた椅子を元の位置へ戻し、テーブルを拭く。
次に彼女が来た時も、気持ちよく勉強出来るように。
それだけのことだった。
そして、零無は何事もなかったように、いつもの片付けを続けた。