「正しい答え」   作:はい

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第16話

 

 

 

雄英高校。

 

昼前。

 

一年A組寮。

 

金木零無は、冷蔵庫の中を覗き込んでいた。

 

昨日の夕食で使った食材が、まだ少し残っている。

 

鶏肉。

 

卵。

 

長ねぎ。

 

それから、いくつかの野菜。

 

「……うどんでいいか」

 

必要なものを取り出し、調理台へ並べる。

 

今日もA組の生徒達は、それぞれの活動へ出ていた。

 

捜索活動。

 

避難民への対応。

 

各地で発生しているヴィラン犯罪への対処。

 

ヒーローの人手が足りない現状では、彼らにも出来ることが多い。

 

一方、零無は寮に残っていた。

 

条件付きでの在籍継続こそ認められたが、行動には依然として制限がある。校外活動への参加も許可されていない。

 

もっとも、それについて不満はなかった。

 

自分のしたことを考えれば、当然の扱いだ。

 

零無は鶏肉を切り分け、鍋に火をかけた。

 

昼食の準備を進めていると、玄関の方から声が聞こえた。

 

「……あの」

 

包丁を動かす手が止まる。

 

「こんにちは……」

 

聞き覚えのある声だった。

 

零無は包丁を置き、手を拭いて共有スペースへ向かった。

 

「……エリ?」

 

そこには、小さな鞄を抱えた少女が立っていた。

 

「あっ。金木さん」

 

零無を見つけると、エリは少しだけ表情を明るくした。

 

「こんにちは」

 

「ああ。こんにちは」

 

零無は彼女へ近づく。

 

「どうした? 一人か?」

 

「いえ。ここまでは先生が送ってくれました。相澤先生が、金木さんは今日は寮にいるって……」

 

「……」

 

零無は黙った。

 

相澤先生。

 

あの人は、一体何を考えているんだ。

 

自分の現在の立場について、誰よりもよく理解しているはずだ。

 

AFOの内通者。

 

雄英の情報を敵へ流し、関係のない人間達を危険に晒した。

 

その事実は何も変わっていない。

 

にもかかわらず、そんな人間が一人でいる場所へ、わざわざ子供を訪ねさせる。

 

……不用心にも程があるだろう。

 

自分を信用しているのかもしれない。

 

だが、それと安全性の判断は別問題だ。

 

監視下に置いている人間に、何故わざわざ幼い子供を会わせる必要がある。

 

そもそも、事前に一言も聞いていない。

 

……全く。

 

後で話しておく必要がありそうだった。

 

「……金木さん?」

 

エリがこちらを見上げていた。

 

「どうかしましたか?」

 

零無は顔を戻す。

 

「……いや。何でもない」

 

「……」

 

「少し考え事をしていただけだ。君が気にすることじゃない」

 

エリは少しだけ安心したようだった。

 

「……はい」

 

「それで、何か用事があったんだろう?」

 

「あの……」

 

エリは鞄を抱え直した。

 

「お勉強を、教えてもらえないかなって……」

 

「勉強?」

 

「はい」

 

零無は少し考える。

 

「……僕でいいのか?」

 

エリが頷いた。

 

「はい」

 

「他にも教えられる人間はいると思うが」

 

「……金木さんが、よかったので」

 

零無は数秒、彼女を見た。

 

それから。

 

「……そうか」

 

短く頷いた。

 

「なら構わない。鞄はそこの椅子に置いてくれ」

 

「……!」

 

エリの表情が明るくなる。

 

「ありがとうございます!」

 

「礼はまだ早いだろう。何も教えていないんだから」

 

零無はキッチンへ戻った。

 

「ただ、今は昼飯を作っているところなんだ。エリはもう食べたか?」

 

「まだです」

 

「なら、一緒に食べよう。勉強はその後でいいだろう」

 

「……いいんですか?」

 

「何が?」

 

「お昼ごはん……」

 

零無は振り返る。

 

「元々多めに作るつもりだったからな。問題ない」

 

「……でも」

 

「嫌いなものでもあるのか?」

 

エリは慌てて首を振った。

 

「ありません!」

 

「なら、決まりだな」

 

そう言って、冷蔵庫から卵をもう一つ取り出した。

 

◇

 

「……すごい」

 

キッチンの前で、エリが呟いた。

 

鍋の中では、鶏肉と野菜が煮込まれている。

 

零無は火加減を調整しながら顔を上げた。

 

「何が?」

 

「金木さん、お料理できるんですね」

 

「ああ。好きだからな」

 

「……すごいです」

 

「そうか?」

 

「はい!」

 

エリは調理台を興味深そうに眺めている。

 

零無はその様子に気づいた。

 

「エリも料理をしてみたいのか?」

 

「……はい。でも、まだあんまり……」

 

「なら、これから覚えればいい」

 

「……私にもできますか?」

 

零無は僅かに眉を寄せた。

 

「何故できないと思うんだ?」

 

エリは答えなかった。

 

零無は鍋の蓋を閉める。

 

「誰だって最初は出来ないだろう。練習すればいいだけだ」

 

「……」

 

「まあ、包丁や火を使うものは危ないからな。最初は誰かと一緒にやった方がいい」

 

少し考えてから、付け加える。

 

「今度、何か作ってみるか?」

 

エリが顔を上げた。

 

「……いいんですか?」

 

「ああ。簡単なものなら、僕でも教えられる」

 

「……!」

 

エリは嬉しそうに頷いた。

 

「はい!」

 

その後、エリは自分から食器を並べることを申し出た。

 

零無は箸と小さな器の場所を教え、あとは彼女に任せた。

 

慎重に食器を並べ終えたエリが振り返る。

 

「……できました!」

 

「ああ。ありがとう」

 

零無は何気なく答えた。

 

エリは一瞬、その顔を見た。

 

それから、少し照れたように笑った。

 

◇

 

昼食は、鶏肉と卵の入った温かいうどんになった。

 

エリの器には、少し短めにした麺と、食べやすい大きさに切った具材が盛られている。

 

零無の前には、当然のように大きな器が置かれていた。

 

「いただきます」

 

「いただきます!」

 

エリは箸を取り、慎重に麺を持ち上げた。

 

息を吹きかけてから、一口。

 

「……!」

 

目が大きくなる。

 

「おいしいです!」

 

「そうか」

 

零無は頷いた。

 

「熱いから気をつけろよ」

 

「はい!」

 

エリは嬉しそうに食事を続けた。

 

零無も、自分の箸を動かす。

 

しばらくして。

 

「……あれ?」

 

エリが顔を上げた。

 

「どうした?」

 

「金木さん、もう食べちゃったんですか?」

 

零無の前には、空になった器があった。

 

「ああ」

 

「……早いです」

 

「そうか?」

 

エリは頷く。

 

零無は立ち上がり、鍋から二杯目を取り分けた。

 

その様子を見ていたエリが、ぽつりと呟く。

 

「……いっぱい食べるんですね」

 

「そうだな」

 

「……私より、ずっといっぱいです」

 

零無は自分の器を見た。

 

それから、エリの器を見る。

 

「……比べる相手が悪いな」

 

「……?」

 

「僕は少し食事量が多いんだ」

 

エリはもう一度、大きな器を見る。

 

「……少し?」

 

零無の手が止まった。

 

数秒。

 

「……まあ、少しではないか」

 

エリが小さく笑った。

 

零無は僅かに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。

 

代わりに、彼女の器へ視線を向ける。

 

「足りなかったら言ってくれ。まだあるからな」

 

「はい!」

 

エリは嬉しそうに返事をした。

 

それから、再びうどんを食べ始める。

 

零無は特別に話を盛り上げようとはしなかった。

 

聞かれたことには答えるが、必要以上に話しかけてくるわけでもない。

 

食べるのが遅くても、気にしない。

 

エリが麺を落としてしまった時も、叱ることなく布巾を渡してくれた。

 

そんな零無との食事が、エリは不思議と心地よかった。

 

静かで。

 

落ち着いていて。

 

無理に何かをしなくてもいい。

 

そんな気がした。

 

◇

 

昼食を終えた後。

 

二人は共有スペースのテーブルへ移動した。

 

エリが鞄から取り出したのは、算数と国語のプリントだった。

 

「相澤先生から、ここをやっておくようにって」

 

「なるほど」

 

零無は隣へ腰を下ろし、プリントを確認する。

 

二桁の計算。

 

文章問題。

 

それから、漢字の読み書き。

 

「……随分進んでいるんだな」

 

エリが顔を上げる。

 

「そうですか?」

 

「ああ。頑張っているじゃないか」

 

「……!」

 

嬉しそうに笑ったエリにプリントを返す。

 

「じゃあ、まずは自分でやってみろ。分からなければ聞けばいい」

 

「はい!」

 

エリは鉛筆を握った。

 

最初の問題。

 

次の問題。

 

少し考えながらも、順番に答えを書き込んでいく。

 

零無はその様子を眺めていた。

 

やがて、エリの手が止まる。

 

「……あれ?」

 

「どうした?」

 

「ここが……」

 

差し出されたプリント。

 

零無は途中まで書かれた数字を確認した。

 

「……繰り下がりか」

 

「はい」

 

「何処まで分かった?」

 

エリは自分の書いた数字を指した。

 

「ここまでは……」

 

「ああ。そこは合っている」

 

零無は頷いた。

 

「じゃあ、次はどうする?」

 

エリは考え込んだ。

 

零無は答えを急かさなかった。

 

しばらくして、エリが顔を上げる。

 

「……あっ」

 

「分かったか?」

 

「はい!」

 

「なら、書いてみろ」

 

エリは鉛筆を動かした。

 

答えを書き終えてから、零無を見る。

 

「……どうですか?」

 

零無はプリントを確認する。

 

「ああ。合っている」

 

「……!」

 

「出来るじゃないか」

 

エリが嬉しそうに笑った。

 

その表情を見て、零無も僅かに口元を緩める。

 

エリはまた次の問題へ進んだ。

 

◇

 

『……零無くん』

 

不意に。

 

別の少女の声が、頭の片隅を過ぎった。

 

『心配してくれてたんです?』

 

零無は、あの時の光景を覚えていた。

 

第一次全面戦争の後。

 

まだ、自分の負傷が完全には癒えていなかった頃。

 

ミッドナイトを救出した際の傷が残り、身体を動かすだけでも痛みが走ることがあった。

 

そんな状態で、トガヒミコと再会した。

 

場所は、使われなくなった建物の裏手だった。

 

以前から何度も顔を合わせていた少女。

 

だが、あの日の彼女は少し違っていた。

 

頬が痩せていた。

 

目元にも疲れが見えた。

 

それでも、零無の姿を見つけると、いつものように笑っていた。

 

『零無くん、久しぶりですねえ』

 

『……そうだな』

 

『怪我してるって聞きましたけど、大丈夫なんです?』

 

『君に心配されるほどじゃない』

 

『えー。せっかく心配してあげてるのに』

 

軽い調子だった。

 

以前と何も変わらない。

 

そう思えるほどに。

 

けれど。

 

彼女が、もう以前と同じではないことくらい、零無にも分かっていた。

 

トゥワイス。

 

分倍河原仁。

 

彼は、あの戦いで命を落とした。

 

トガにとって、随分と大切な人間だったはずだ。

 

零無は、自動販売機で買っておいた缶のお茶を彼女へ渡した。

 

トガは少し驚いたようにそれを見て、それから笑った。

 

『ありがとうございます』

 

受け取った缶を、両手で包む。

 

そして。

 

『……零無くん』

 

『何だ』

 

『血、ください!』

 

『嫌だ』

 

『即答ですか!?』

 

『僕の血だ。誰に渡すかくらい僕が決める』

 

『むぅ……』

 

トガは不満そうに頬を膨らませた。

 

いつものやり取りだった。

 

零無も、呆れたように息を吐いていた。

 

その時は。

 

まだ。

 

◇

 

「……金木さん?」

 

エリの声で、零無は顔を上げた。

 

「何だ?」

 

「できました」

 

差し出されたプリントを確認する。

 

「……ああ。正解だ」

 

「やった!」

 

エリが小さく笑った。

 

零無はプリントを返す。

 

「随分進んだな。少し休憩するか?」

 

「……いいんですか?」

 

「ずっと勉強していても疲れるだろう」

 

エリは少し考えた。

 

「……はい!」

 

零無は席を立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出した。

 

二人分のコップを用意して戻る。

 

「ほら」

 

「ありがとうございます」

 

「ああ」

 

エリはコップを両手で持ち、少し飲んだ。

 

それから、プリントを眺める。

 

「……金木さん」

 

「何だ?」

 

「お勉強って、楽しいですね」

 

零無は僅かに眉を上げた。

 

「……そうか?」

 

「はい」

 

エリは頷いた。

 

「知らなかったことが、分かるようになるので」

 

「……なるほど」

 

零無は少し考えた。

 

「まあ、それは確かに楽しいな」

 

「はい!」

 

エリは嬉しそうに笑った。

 

零無は、その笑顔を眺めていた。

 

エリ。

 

個性。

 

巻き戻し。

 

その特異性を理由に、幼い頃から多くのものを奪われてきた少女。

 

けれど今は、こうして勉強している。

 

分からない問題に悩み、正解すれば喜ぶ。

 

何処にでもある光景だった。

 

だが。

 

彼女にとって、それが最初から当たり前だったわけではない。

 

そう考えると。

 

零無は、どうしてもあの少女のことを思い出してしまう。

 

◇

 

『……トゥワイスさんって、うるさい人でしたよねえ』

 

トガは、缶のお茶を見つめながらそう言った。

 

零無は隣に立っていた。

 

『いつも何か喋ってて、突然変なこと言い出して』

 

少し笑う。

 

『……でも、優しい人でした』

 

『……そうだな』

 

零無は短く答えた。

 

トガは、缶を握り直した。

 

『私のことも、ちゃんと見てくれました』

 

その声は、先ほどまでより少しだけ小さかった。

 

零無は何も言わなかった。

 

彼女も、すぐには次の言葉を口にしなかった。

 

遠くを走る車の音。

 

風に揺れる草の音。

 

それだけが聞こえていた。

 

やがて。

 

『……もうちょっと』

 

トガが呟く。

 

『もうちょっと、ちゃんと出来たら良かったです』

 

零無は彼女を見た。

 

『……何を?』

 

『色々、ですよ』

 

トガは笑った。

 

困ったような。

 

少しだけ、泣きそうな。

 

そんな笑顔だった。

 

『……トゥワイスさん、私のこと助けてくれたんです』

 

『ああ』

 

『なのに、私……』

 

言葉が途切れる。

 

零無は続きを促さなかった。

 

しばらくして、トガが顔を上げた。

 

『……零無くん』

 

『何だ』

 

『私、もっとちゃんと出来たら良かったです』

 

同じ言葉だった。

 

けれど、今度は少しだけ違って聞こえた。

 

零無は数秒、彼女を見ていた。

 

『……君一人でどうにか出来たことだとは思わないが』

 

『……』

 

『少なくとも、彼は君を大切にしていた。それは間違いないだろう』

 

トガは黙った。

 

そして、俯く。

 

『……そう、ですね』

 

小さな声だった。

 

零無はそれ以上何も言わなかった。

 

慰めの言葉など、簡単には出てこなかった。

 

彼女が何を失ったのか。

 

それを、零無が全て理解出来るわけでもない。

 

ただ。

 

今は、何かを言わせる必要もないと思った。

 

だから、黙っていた。

 

トガも、それ以上話さなかった。

 

しばらくしてから、いつものように顔を上げた。

 

『……零無くんって、変な人ですよね』

 

『君に言われたくはないな』

 

『ふふ』

 

彼女が笑う。

 

いつもの笑顔に、少しだけ戻っていた。

 

◇

 

「……金木さん?」

 

零無は顔を上げた。

 

エリが、少し心配そうにこちらを見ていた。

 

「……何だ?」

 

「難しい顔をしていたので……」

 

零無は少し考えた。

 

「……考え事をしていただけだ」

 

「……難しいことですか?」

 

「まあ、そうだな」

 

エリは少しだけ首を傾げた。

 

「金木さんも、分からないことがあるんですか?」

 

「当然だろう」

 

零無は即答した。

 

「僕が何でも知っているように見えるか?」

 

エリは少し考えてから、小さく頷いた。

 

「……はい」

 

零無は僅かに眉を寄せる。

 

「……それは買い被りすぎだな」

 

「……かいかぶり?」

 

「実際より、ずっとすごいと思っているということだ」

 

「……」

 

「僕にも分からないことくらい、いくらでもある」

 

エリは目を丸くした。

 

「……そうなんですね」

 

「ああ」

 

零無はプリントを指した。

 

「だから勉強するんだろう。分からないことを、そのままにしておく必要はない」

 

エリはしばらく考えていた。

 

そして。

 

「……はい!」

 

嬉しそうに頷いた。

 

零無は小さく息を吐く。

 

「……何でそこで喜ぶんだ」

 

「えっと……」

 

エリは少し恥ずかしそうに笑った。

 

「金木さんも、私と同じなんだなって」

 

零無は黙った。

 

それから。

 

「……そうか」

 

短く答えた。

 

否定する理由もなかった。

 

◇

 

第一次全面戦争後。

 

トガと別れたあの日。

 

帰り際になって、彼女は零無の袖を指先で摘んだ。

 

『……トガ?』

 

『……』

 

『何だ』

 

少しして、彼女は手を離した。

 

『……何でもないです』

 

笑っていた。

 

零無はその表情を見ていた。

 

『……ちゃんと食べろよ』

 

『……え?』

 

『随分痩せたんじゃないか』

 

トガは少し驚いたように目を瞬かせた。

 

それから、笑い出した。

 

『えへへ。零無くん、お母さんみたいですね』

 

『……誰がお母さんだ』

 

『ふふ』

 

楽しそうな声だった。

 

けれど、その笑顔は長くは続かなかった。

 

『……零無くん』

 

『何だ』

 

『会えて良かったです』

 

零無は少しだけ目を細めた。

 

『……そうか』

 

『はい』

 

彼女は頷いた。

 

『私の好きまで、嫌いにならなかったので』

 

零無は数秒、トガを見ていた。

 

『……君が何を好こうと自由だろう』

 

『……』

 

『ただ、それを理由に何をしてもいいわけではない。それだけの話だ』

 

トガは少しだけ唇を尖らせた。

 

『またそういうこと言います』

 

『事実だろう』

 

『そうですけどぉ』

 

彼女は小さく笑った。

 

それから、手に持っていた缶を見た。

 

中身は、もうほとんど残っていなかった。

 

『……零無くん』

 

『今度は何だ』

 

『また、会えますかね』

 

零無は少し考えた。

 

『……分からないな』

 

『えー』

 

『僕が決められることじゃない』

 

『……そうですけど』

 

トガは不満そうに頬を膨らませた。

 

それから、にっこり笑った。

 

『じゃあ、またね』

 

零無は彼女を見た。

 

『……ああ』

 

トガは手を振り、建物の向こうへ歩いていった。

 

それが。

 

最後に見た、彼女の姿だった。

 

◇

 

「……あっ」

 

エリが声を上げた。

 

零無は顔を上げる。

 

「どうした?」

 

「これ……」

 

エリは国語のプリントの隅を指差した。

 

そこには、小さな花の絵が描かれていた。

 

「かわいいですね」

 

「そうだな」

 

「……私も描いていいですか?」

 

零無はプリントを見る。

 

「問題を解く場所じゃなければいいんじゃないか?」

 

「……ほんとですか?」

 

「ああ。ただ、先生に怒られない程度にな」

 

エリが小さく笑う。

 

「はい!」

 

それから、鉛筆を握り直した。

 

余白に、小さな花を描き始める。

 

花びら。

 

茎。

 

葉っぱ。

 

随分と時間をかけて、丁寧に。

 

零無は隣で、その様子を眺めていた。

 

「……出来ました!」

 

エリがプリントを持ち上げる。

 

そこには、少し不格好な花が描かれていた。

 

零無は一度、絵を見る。

 

「……上手だな」

 

「……!」

 

エリの顔が明るくなる。

 

「ありがとうございます!」

 

「何の花なんだ?」

 

「……分かりません」

 

少し恥ずかしそうに答える。

 

「でも、かわいいなって思ったので……」

 

「そうか」

 

零無は頷いた。

 

「なら、それでいいだろう」

 

「……いいんですか?」

 

「何が?」

 

「何のお花か、分からなくても……」

 

零無は僅かに眉を寄せた。

 

「君が気に入って描いたんだろう?」

 

「……はい」

 

「なら、別に名前が分からなくても構わないと思うが」

 

エリは、しばらく絵を見つめていた。

 

そして。

 

「……はい!」

 

嬉しそうに笑った。

 

零無はその笑顔を見ていた。

 

好きなものを好きだと思う。

 

それを口にする。

 

何も不思議なことではない。

 

けれど、そんな当たり前のことさえ、否定され続けた人間がいる。

 

零無は、ふと机の上のプリントに目を落とした。

 

エリが描いた、小さな花。

 

名前は分からない。

 

それでも、彼女は気に入っている。

 

それで十分なのだろう。

 

零無は小さく息を吐いた。

 

◇

 

トガと別れてから、しばらく経った頃。

 

零無はスピナーと会っていた。

 

場所は、人気のない廃建物だった。

 

二人の間には、零無が持ってきたものが置かれている。

 

『……断る』

 

返答は早かった。

 

スピナーは、それへ手を伸ばそうともしなかった。

 

『理由を聞いても?』

 

『聞くまでもねえだろ』

 

スピナーは顔をしかめた。

 

『お前のことは嫌いじゃねえよ』

 

少し間を置く。

 

『けど、信用してるわけじゃねえ』

 

『知っている』

 

『だったら、何で俺に持ってきた』

 

零無は目を伏せる。

 

『君なら、話くらいは聞くだろうと思ったからだ』

 

『……』

 

『違ったか?』

 

スピナーが舌打ちする。

 

『……そういうところが気に食わねえんだよ』

 

零無は何も言わなかった。

 

スピナーは続ける。

 

『お前は俺達の仲間じゃない。何度会おうが、そこは変わらねえ』

 

『同感だな』

 

『……お前な』

 

『事実だろう』

 

スピナーは呆れたように息を吐いた。

 

互いに信用していない。

 

それは、以前から変わらないことだった。

 

零無は敵連合の思想に賛同していたわけではない。

 

スピナーも、そのことを理解していた。

 

だからこそ、仲間としては信用できなかった。

 

零無が誰かを助けようとする人間であることを、スピナーは否定しなかった。

 

むしろ、そういう部分を評価している節すらあった。

 

ただ、その善性が自分達にとって都合よく働くとは限らない。

 

彼らのために、無関係な人間の犠牲を許すような男ではないことも分かっていた。

 

『……そんな奴が持ってきたもんを』

 

スピナーは、二人の間に置かれたものを見た。

 

『何の疑いもなく受け取ると思ってんのか?』

 

『思っていない』

 

『だったら――』

 

『だから、まず話を聞けと言っている』

 

零無は淡々と答えた。

 

スピナーは眉をひそめる。

 

『……お前、本当に何考えてんだ』

 

『少なくとも、君に不利益を与えるためではない』

 

『俺の話じゃねえだろ』

 

『そうだな』

 

スピナーは苛立ったように頭を掻いた。

 

『……トガに関わることなら、なおさら簡単には信用出来ねえぞ』

 

『当然だろう』

 

『分かってんなら、少しは説明の仕方考えろよ』

 

零無は少し考えた。

 

『……そうだな。それは認める』

 

『……は?』

 

スピナーが顔を上げる。

 

『お前、今素直に認めたか?』

 

『間違っていると思えば否定するし、正しければ認める。それだけだが』

 

『……ほんっと面倒くせえな、お前』

 

零無は何も言わなかった。

 

スピナーは、しばらく黙っていた。

 

やがて。

 

『……何で俺なんだよ』

 

そう尋ねた。

 

零無は彼を見る。

 

『君が、仲間を大切にしているからだ』

 

『……』

 

『僕が信用できるかどうかと、トガを助けたいと思うかどうかは別だろう』

 

スピナーは顔をしかめた。

 

『……勝手に決めつけんな』

 

『違うのか?』

 

『……』

 

零無はそれ以上追及しなかった。

 

スピナーは、しばらく黙っていた。

 

やがて。

 

『……お前は、俺のこと信用してねえんだろ』

 

『ああ』

 

『だったら、何でだよ』

 

零無は少し考えた。

 

『君がトガを見捨てるとは思わない』

 

スピナーの目が僅かに動いた。

 

『僕を信用しているかどうかは、関係ないだろう』

 

『……』

 

『君が仲間を大切にしていることは疑っていない。それだけだ』

 

スピナーは黙っていた。

 

それから、深く息を吐いた。

 

『……ほんっと、気に食わねえ奴だな』

 

『そうか』

 

『ああ』

 

再び、沈黙。

 

やがてスピナーが口を開いた。

 

『……俺にも、考えさせろ』

 

『構わない』

 

『お前の言うことを、そのまま信じるつもりはねえからな』

 

『当然だろう』

 

『……それでもいいんだな?』

 

零無は頷いた。

 

『ああ』

 

スピナーは、ようやく目の前のものへ手を伸ばした。

 

ただし。

 

最後まで、零無を信用したわけではなかった。

 

『……勘違いすんなよ』

 

『何がだ』

 

『お前のためじゃねえからな』

 

零無は彼を見る。

 

『知っている』

 

少し間を置いた。

 

『だから、君に頼んだんだ』

 

スピナーは、心底気に食わなさそうに顔をしかめた。

 

◇

 

「……金木さん!」

 

エリの声がした。

 

零無は顔を上げる。

 

「何だ?」

 

「終わりました!」

 

差し出されたプリントを確認する。

 

最後の問題まで、答えが書き込まれていた。

 

「……ああ。全部合っている」

 

「……!」

 

エリが顔を輝かせた。

 

「やった!」

 

「よく頑張ったな」

 

零無はプリントを返す。

 

「今日はここまででいいだろう」

 

「……もう終わりですか?」

 

「随分やったからな。疲れただろう」

 

「……少しだけ」

 

「なら休め。勉強は逃げないんだから」

 

エリは小さく笑った。

 

「はい!」

 

零無は席を立ち、冷蔵庫から麦茶を取り出した。

 

二人分のコップを用意して戻る。

 

「ほら」

 

「ありがとうございます」

 

「ああ」

 

エリはコップを両手で持ち、少し飲んだ。

 

それから、プリントを眺める。

 

「……金木さん」

 

「何だ?」

 

「また、お勉強を教えてもらってもいいですか?」

 

零無は少し考えた。

 

「僕がいる時なら構わない」

 

「……ほんとですか?」

 

「ああ。ただ、相澤先生にはちゃんと確認しておけよ」

 

「はい!」

 

エリは元気よく頷いた。

 

「ありがとうございます!」

 

零無は小さく息を吐いた。

 

「……だから、礼を言うほどのことじゃないだろう」

 

エリは首を横に振った。

 

「でも、嬉しかったので」

 

零無は少し黙った。

 

それから。

 

「……そうか」

 

短く答えた。

 

エリは、そんな零無を見て笑った。

 

金木さんは、少し変わった人だと思う。

 

あまり笑わないし、時々難しいことも言う。

 

けれど。

 

分からないことを聞いても、怒られない。

 

出来ないことがあっても、責められない。

 

自分の話を、最後まで聞いてくれる。

 

だから。

 

一緒にいると、何だか安心するのだった。

 

◇

 

その後、迎えに来た教師が寮を訪れた。

 

エリは鞄を抱えて立ち上がる。

 

「……じゃあ、行ってきます」

 

「ああ。気をつけろよ」

 

「はい!」

 

玄関へ向かいかけて、エリが振り返った。

 

「……金木さん!」

 

「何だ?」

 

「今日のお昼ごはん、とっても美味しかったです!」

 

零無は頷いた。

 

「そうか。それは良かった」

 

「また食べたいです!」

 

「なら、今度は別のものを作ってやる」

 

「……!」

 

エリが顔を輝かせた。

 

「ほんとですか?」

 

「ああ。何がいいか考えておけ」

 

「はい!」

 

そして、嬉しそうに頭を下げた。

 

「ありがとうございました!」

 

「……ああ。またな」

 

「またね、です!」

 

エリは笑って、寮を出ていった。

 

◇

 

静かになった共有スペース。

 

零無は、一人で食器を片付けていた。

 

エリが使っていた小さな器。

 

勉強していたテーブル。

 

何度も消しゴムを使いながら、一生懸命問題を解いていた姿。

 

何も特別なことはなかった。

 

ただ、一緒に昼食を食べた。

 

勉強を教えた。

 

少し話をした。

 

それだけだった。

 

零無は洗い終えた食器を水切りかごへ並べる。

 

そして。

 

ふと、スピナーと交わした最後の会話を思い出した。

 

『……お前のためじゃねえからな』

 

あの時、彼は最後まで警戒を解かなかった。

 

当然だった。

 

互いに信用していない。

 

それでも、零無は彼を頼った。

 

スピナーが敵連合の仲間達を大切に思っていることだけは、疑っていなかったからだ。

 

あれから、何も聞いていない。

 

彼が最終的にどう判断したのか。

 

零無には分からなかった。

 

確かめる手段もない。

 

もっとも、今更どうにか出来ることでもなかった。

 

零無は蛇口を閉めた。

 

窓の外へ目を向ける。

 

穏やかな陽射しが、校庭を照らしていた。

 

エリは今頃、教師と一緒に戻っている頃だろう。

 

次に会った時には、また新しい問題を解けるようになっているかもしれない。

 

昼食には何を作ってやろうか。

 

そんなことを考える。

 

そして。

 

また、あの少女の笑顔が浮かんだ。

 

トガヒミコ。

 

最後に会った時も、彼女は笑っていた。

 

いつものように。

 

楽しそうに。

 

『……じゃあ、またね』

 

あれから、随分と時間が経った。

 

敵連合を取り巻く状況は変わり続けた。

 

トガが今、何処で何をしているのか。

 

零無は知らない。

 

彼女がどんなことを考え、どんな道を選ぼうとしているのかも。

 

ただ。

 

あの少女には、生きていてほしかった。

 

それだけは、今も変わらない。

 

零無は小さく息を吐いた。

 

「……さて」

 

共有スペースへ戻る。

 

エリが使っていた椅子を元の位置へ戻し、テーブルを拭く。

 

次に彼女が来た時も、気持ちよく勉強出来るように。

 

それだけのことだった。

 

そして、零無は何事もなかったように、いつもの片付けを続けた。

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