「正しい答え」   作:はい

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第18話

 

 

 

雄英高校。

 

午後。

 

一年A組寮。

 

金木零無は、炊飯器の蓋を開けた。

 

白い湯気が立ち上る。

 

炊き上がりは上々だった。

 

「……よし」

 

しゃもじで米をほぐし、蓋を閉める。

 

調理台には鮭のほぐし身、塩昆布、梅干し、海苔が並んでいた。

 

今日の献立は、おにぎりだ。

 

もっとも、零無が一人で食べるために用意したわけではない。

 

数日前、エリと約束した。

 

今度、一緒に何か料理を作ろうと。

 

昨日、相澤から連絡があった。

 

エリがその約束を覚えていて、また寮へ行きたいと言っているらしい。

 

前回の件で文句を言ったことが効いたのか、今回は訪問時間も送迎担当も事前に伝えられていた。

 

……最初からそうしてくれればいいものを。

 

零無は時計を確認する。

 

予定の時間まで、あと五分。

 

手を洗い、使う食器を取り出す。

 

その途中で、ふと考えた。

 

エリは、自分が内通者だったことを知っているのだろうか。

 

前回も気にはなっていた。

 

だが、結局聞かなかった。

 

知らないのであれば、彼女が会いに来ることも理解出来る。

 

自分が何をしたのか知らなければ、以前と同じように接することも出来るだろう。

 

しかし、相澤が何も説明していないとも考えにくかった。

 

「……」

 

零無はラップの箱を手に取った。

 

知っていたとしたら。

 

何故、また会いに来るのだろう。

 

そう考えたところで、玄関の方から声が聞こえた。

 

「こんにちは!」

 

零無は顔を上げる。

 

「……来たか」

 

玄関へ向かうと、小さな鞄を抱えたエリが立っていた。

 

「あっ、金木さん!」

 

「こんにちは、エリ」

 

「こんにちは!」

 

前回と変わらず、嬉しそうな顔だった。

 

隣に立つ教師から送迎についての説明を受け、帰りの時間を確認する。

 

エリはその間、そわそわとキッチンの方を見ていた。

 

零無は教師を見送ってから尋ねた。

 

「どうした?」

 

「……あの、いい匂いがします」

 

「ああ。米を炊いていたからな」

 

「お米?」

 

「今日はおにぎりを作ろうと思っているんだが」

 

「……!」

 

エリの顔が明るくなった。

 

「おにぎり!」

 

「嫌いか?」

 

「大好きです!」

 

「なら良かった」

 

零無は頷いた。

 

「今日は君にも作ってもらう。手を洗ってこい」

 

「はい!」

 

エリは元気よく返事をして、洗面所へ向かった。

 

零無はその後ろ姿を見送り、キッチンへ戻った。

 

     ◇

 

「……こうですか?」

 

「もう少し軽く握った方がいいな」

 

「軽く……」

 

「そうだ。潰す必要はない」

 

エリは、ラップの上に乗せたご飯と格闘していた。

 

最初は零無が手本を見せた。

 

ご飯を広げる。

 

真ん中に具を置く。

 

ラップで包み、形を整える。

 

やること自体は難しくない。

 

少なくとも、零無にとっては。

 

「……あっ」

 

エリの手元で、ご飯が横へ広がった。

 

出来上がったのは、三角形というより、少し潰れた丸い塊だった。

 

エリはそれを見つめる。

 

「……変な形になっちゃいました」

 

「そうだな」

 

零無は頷いた。

 

エリの肩が少しだけ下がる。

 

「……ごめんなさい」

 

「何故謝る?」

 

「上手に出来なかったので……」

 

「僕に謝る理由にはならないだろう」

 

零無は彼女の手元を見る。

 

「食べられないわけじゃない。味も変わらないしな」

 

「……でも、三角じゃないです」

 

「三角にしたかったのか?」

 

「はい」

 

「なら、次はそうなるように握ればいい」

 

エリは少し考えた。

 

「……もう一回やってもいいですか?」

 

「当然だろう」

 

零無は新しいラップを渡した。

 

「ただし、今のも捨てるなよ」

 

「……?」

 

「僕が食べる」

 

エリが目を丸くした。

 

「……いいんですか?」

 

「何が?」

 

「変な形なのに……」

 

「だから何だ?」

 

零無は首を傾げた。

 

「食べられるんだから、問題ないだろう」

 

エリは、しばらく自分のおにぎりを見つめていた。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「……はい!」

 

二つ目は、随分と慎重だった。

 

ご飯を広げ、具を乗せる。

 

ラップで包み、少しずつ角を作っていく。

 

零無は隣で見ていたが、手を出さなかった。

 

「……ここを、こうして」

 

「力を入れすぎるなよ」

 

「はい」

 

「……そうだ」

 

やがて、エリが顔を上げた。

 

「……できました!」

 

手の中には、少し角の丸い三角形があった。

 

零無は一度それを見て、頷く。

 

「ああ。上手くなったな」

 

「……!」

 

エリが顔を輝かせた。

 

「ありがとうございます!」

 

「僕は見ていただけだろう」

 

「でも、教えてくれました」

 

「……そうか」

 

エリは嬉しそうに、二つのおにぎりを並べた。

 

一つ目は潰れている。

 

二つ目は三角形になっていた。

 

随分と形が違う。

 

けれど、彼女はどちらも大切そうに眺めていた。

 

零無は、その様子を見ていた。

 

そして、不意に昔のことを思い出した。

 

     ◇

 

まだ、幼かった頃。

 

小さな台所。

 

踏み台に乗った零無は、目の前のご飯を見つめていた。

 

「……難しい」

 

「そう?」

 

隣から声がした。

 

母だった。

 

正確には、育ての母。

 

零無にとって、母親と呼べる人だった。

 

「だって、三角にならない」

 

「最初から上手には出来ないわよ」

 

「お母さんは出来るのに」

 

「私は何回も作ってるからね」

 

母はそう言って笑った。

 

あの日は、珍しく体調が良かった。

 

朝から起きていて、昼食も一緒に食べた。

 

それから、零無がおにぎりを作ってみたいと言うと、台所に立ってくれた。

 

母の手が、ご飯を包む。

 

慣れた動きで形を整えると、綺麗な三角形が出来上がった。

 

「はい。こんな感じ」

 

零無はそれを見た。

 

それから、自分の手元へ視線を落とす。

 

形が悪い。

 

随分と違う。

 

「……もう一回」

 

「いいよ」

 

母は新しいご飯を用意した。

 

零無は慎重に手を動かす。

 

最初より少し上手く出来た。

 

だが、やはり三角形にはならない。

 

「……」

 

「どうしたの?」

 

「上手く出来ない」

 

「うん」

 

「……ごめんなさい」

 

母は少し驚いたように零無を見た。

 

「何で謝るの?」

 

「ご飯、無駄にしたから」

 

「無駄になってないでしょ」

 

母はそう言うと、零無のおにぎりを一つ手に取った。

 

「食べられるもの」

 

「……形、変だよ」

 

「そうね」

 

母は笑った。

 

「でも、美味しそう」

 

そして、そのまま一口食べた。

 

「……うん。美味しい」

 

零無は目を丸くした。

 

「……本当?」

 

「本当」

 

「……」

 

「ほら、食べてみて」

 

差し出されたおにぎり。

 

零無も一口食べた。

 

普通のご飯だった。

 

少し塩が多い。

 

具も偏っている。

 

けれど、母が美味しいと言ったので、もう一口食べた。

 

「……どう?」

 

母が尋ねた。

 

「……美味しい」

 

「でしょ?」

 

母は嬉しそうに笑った。

 

それから、零無の頭に手を置いた。

 

「上手く作るのも大事だけど、ちゃんと食べるのも大事だからね」

 

「……うん」

 

「次は、もっと上手に作れるよ」

 

「……また教えてくれる?」

 

「もちろん」

 

母はそう答えた。

 

零無は嬉しくなって、もう一つ作り始めた。

 

あの日、二人で幾つ作ったのかは覚えていない。

 

ただ、母が隣にいてくれたことが嬉しくて。

 

少しでも上手に出来ると、すぐに見せた。

 

母はその度に手を止め、零無の作ったものを見てくれた。

 

料理の手順も、塩の量も。

 

今なら、もっと上手に教えられる。

 

けれど。

 

あの時の零無が欲しかったのは、きっと料理の技術だけではなかった。

 

     ◇

 

「……金木さん?」

 

エリの声で、零無は顔を上げた。

 

「……ああ。何だ?」

 

「どうかしましたか?」

 

「いや。昔を思い出していた」

 

「昔?」

 

「ああ」

 

零無は彼女が作ったおにぎりを見る。

 

「僕も、最初は上手く作れなかったんだ」

 

「……金木さんも?」

 

「ああ。君の一つ目より酷かったかもしれない」

 

「……えっ」

 

エリが驚いたように目を丸くした。

 

零無は僅かに口元を緩めた。

 

「今は、もう少しまともに作れるが」

 

「……誰かに教えてもらったんですか?」

 

「ああ。母さんにな」

 

「お母さん?」

 

「小さい頃に、色々教えてもらったんだ」

 

エリは少し嬉しそうに笑った。

 

「……優しいお母さんですね」

 

零無は手元のご飯を見た。

 

小さな踏み台。

 

自分が作ったおにぎりを食べて、美味しいと言ってくれた母。

 

頭に置かれた手の温かさまで、今でも覚えている。

 

「……ああ」

 

零無は頷いた。

 

「大切な人だよ」

 

エリは、少し考えた。

 

「……金木さんのお料理が上手なのは、お母さんのおかげなんですね」

 

「そうだな。最初に教えてくれたのは母さんだから」

 

「……私も、金木さんみたいに上手になれますか?」

 

「練習すればな」

 

「……!」

 

「そのうち僕より上手くなるかもしれないぞ」

 

エリが目を丸くした。

 

「……ほんとですか?」

 

「ああ。僕が教えるんだからな」

 

少し得意げに答えると、エリは声を上げて笑った。

 

零無も、つられるように口元を緩めた。

 

やがて、母は台所に立つことが難しくなった。

 

代わりに食事を作るようになったのは、零無だった。

 

料理だけではない。

 

洗濯も、掃除も、薬の管理も。

 

母の体調を見ながら、その日の予定を考える。

 

気づけば、そんな生活が当たり前になっていた。

 

出来ることが増えるのは、悪いことではなかった。

 

少なくとも、幼い零無はそう思っていた。

 

自分が料理を作れば、母が食べられる。

 

薬を忘れなければ、体調が悪くなる危険を減らせる。

 

眠れない夜には、傍にいればいい。

 

必要なことを一つずつ済ませていけば、明日も同じ生活を続けられる。

 

それで十分だと思っていた。

 

けれど、今になって振り返ると。

 

母と一緒におにぎりを作ったあの日は、少し違う。

 

何かをしなければならなかったわけではない。

 

料理を覚えないと困るからでもなかった。

 

ただ、自分が作ってみたかった。

 

母と一緒に台所に立ちたかった。

 

それだけだった。

 

「……金木さん」

 

「何だ?」

 

「ここ、どうしたらいいですか?」

 

エリが崩れかけた角を指差した。

 

零無は彼女の手元を覗き込む。

 

「ああ。少し持ち上げてみろ」

 

「こうですか?」

 

「そうだ。そのまま反対側も」

 

「……できました!」

 

「ああ。上出来だ」

 

エリは、また嬉しそうに笑った。

 

母が教えてくれたことを、今度は自分が教えている。

 

それも、かつての自分とよく似た、小さな子供に。

 

零無はしばらく、エリの作ったおにぎりを眺めていた。

 

そして、次の具材を彼女の前へ置いた。

 

     ◇

 

二人で作ったおにぎりを皿に並べ、少し遅めの昼食を取ることにした。

 

エリは、自分で握ったものを一つ選び、大切そうに両手で持った。

 

「……いただきます」

 

「ああ。いただきます」

 

一口食べる。

 

エリの顔が明るくなった。

 

「……おいしいです!」

 

「そうか。良かったな」

 

「はい!」

 

エリは嬉しそうに頷いた。

 

零無もおにぎりを手に取る。

 

具材の置き方が少し偏っていたが、味は悪くなかった。

 

エリは時々、零無の皿を見ていた。

 

彼が食べ終える度に、そちらへ視線を向ける。

 

「……どうした?」

 

「……あの」

 

「何だ?」

 

「金木さん、もう二つも食べてます」

 

「ああ」

 

「……いっぱい食べるんですね」

 

「そうだな。普通の人よりは食べると思う」

 

エリは、自分のおにぎりを見た。

 

それから、零無の皿に残っているものを見る。

 

「……私のも、食べられますか?」

 

「君が食べきれないなら、貰うが」

 

「いえ!」

 

エリは慌てて首を振った。

 

「私も食べられます!」

 

「なら、自分の分を食べろ」

 

「はい!」

 

零無は小さく笑った。

 

しばらくは、食事の音だけが続いた。

 

窓から入る陽射しは暖かく、エリは時々麦茶を飲みながら、ゆっくりとおにぎりを食べている。

 

その様子を眺めているうちに、零無は朝から気になっていたことを思い出した。

 

「……エリ」

 

「はい?」

 

「一つ、聞いてもいいか?」

 

エリはおにぎりを皿に戻した。

 

「はい」

 

零無は少し考えてから口を開いた。

 

「君は、僕が以前何をしたのか知っているか?」

 

エリの表情が変わった。

 

少しして、小さく頷く。

 

「……はい」

 

「相澤先生から聞いたのか?」

 

「はい」

 

「いつ?」

 

「前に、ここへ来る前です」

 

零無の目が僅かに動いた。

 

「……勉強を教えた時の?」

 

「はい」

 

エリは頷いた。

 

「金木さんが、学校のことを悪い人に教えていたって……」

 

「ああ」

 

「それで、みんなが危ない目にあったって」

 

「そうだ」

 

零無は頷いた。

 

やはり、相澤は最初から説明していたらしい。

 

どういう言葉で伝えたのかまでは分からない。

 

だが、エリにも理解出来るように話したのだろう。

 

「……怖くなかったのか?」

 

エリは少し考えた。

 

「……怖かったです」

 

「そうか」

 

「はい」

 

「なら、何故会いに来た?」

 

エリは、すぐには答えなかった。

 

しばらく考えてから、小さく口を開く。

 

「……お勉強を、教えてほしかったので」

 

「僕じゃなくても、教えられる人はいただろう?」

 

「はい」

 

エリは素直に頷いた。

 

「でも、金木さんがよかったんです」

 

「……何故?」

 

「……えっと」

 

エリは少し困ったように首を傾げた。

 

「金木さんと、お話したかったからです」

 

零無は黙った。

 

エリは、相手の表情を窺うように顔を上げた。

 

「……あの」

 

「何だ?」

 

「私、金木さんとお話するの、好きなんです」

 

「……」

 

「お話を聞いてくれますし、分からないことも教えてくれます」

 

「それなら、相澤先生だってしてくれるだろう」

 

「はい!」

 

エリは頷いた。

 

「相澤先生も、緑谷さんも、ミリオさんも、優しいです」

 

「そうだな」

 

「でも、金木さんともお話したかったんです」

 

何でもないことのように、そう言った。

 

零無は少しだけ眉を寄せた。

 

彼女が嘘をついているとは思わない。

 

むしろ、言葉に迷いがないことの方が不思議だった。

 

相澤から事情を聞いた時、怖かったと言った。

 

自分がしたことを、良くないことだとも理解している。

 

それでも、会いたいと思った。

 

その理由を、零無はまだ上手く理解出来なかった。

 

「……エリ」

 

「はい」

 

「僕がしたことは、悪いことだ」

 

「……はい」

 

「そのせいで怪我をした人もいる。君が怖いと思ったのも、当然だよ」

 

エリは小さく頷いた。

 

零無は彼女を見た。

 

幼い子供に、自分が犯した罪を理解させたいわけではない。

 

許してほしいわけでもなかった。

 

ただ、知らずに会いに来ていたのであれば、話しておく必要があると思っていた。

 

しかし、エリは既に知っていた。

 

そうであれば。

 

今更、自分が何を言う必要があるのだろう。

 

「……あの」

 

エリが口を開いた。

 

「何だ?」

 

「金木さんは……私に、来てほしくなかったですか?」

 

零無は顔を上げた。

 

「……何故そう思う?」

 

「だって……」

 

エリは自分のおにぎりを見た。

 

「さっきから、怖くなかったかって聞くので……」

 

少しだけ肩を落とす。

 

「私、迷惑でしたか?」

 

「違う」

 

零無は即答した。

 

エリが顔を上げる。

 

「そういう意味じゃない」

 

「……そうなんですか?」

 

「ああ」

 

零無は頷いた。

 

「君が来てくれたのは、嬉しかったよ」

 

エリの目が大きくなった。

 

「……本当ですか?」

 

「本当だ」

 

零無は、少しだけ口元を緩めた。

 

「前に勉強を教えてほしいと言ってくれた時も、今日も。楽しかった」

 

エリは、しばらく彼を見つめていた。

 

それから、嬉しそうに笑った。

 

「……私もです!」

 

「そうか」

 

「はい!」

 

エリは元気よく頷いた。

 

そして、何かを考えるように、自分の手元へ視線を落とした。

 

「……金木さん」

 

「何だ?」

 

「私、金木さんが悪いことをしたのは、嫌です」

 

「ああ」

 

「みんなが怖い思いをしたのも、嫌です」

 

「そうだな」

 

「でも……」

 

エリは少しだけ迷った。

 

そして、顔を上げる。

 

「今日、一緒におにぎりを作ったのは、楽しかったです」

 

零無は黙って聞いていた。

 

「前にお勉強を教えてもらったのも、楽しかったです」

 

「……ああ」

 

「……それじゃ、だめですか?」

 

零無の手が止まった。

 

エリは、真面目な顔でこちらを見ていた。

 

「……何が?」

 

「金木さんが悪いことをしたって思うのも、一緒にいて楽しいって思うのも……」

 

エリは少し考えた。

 

「どっちも、本当なんです」

 

零無は、彼女を見た。

 

「……そうか」

 

「はい」

 

エリは頷いた。

 

「だから、両方じゃだめなのかなって……」

 

その言葉に。

 

不意に、母の顔が浮かんだ。

 

嫌いだったこともある。

 

理不尽な言葉を向けられたこともあった。

 

自分がどれだけ頑張っても、どうにもならない日もあった。

 

それでも。

 

母は、母だった。

 

愛していなかったわけではない。

 

愛されていなかったとも、思いたくなかった。

 

少なくとも。

 

あの日、一緒に作ったおにぎりが美味しかったことは、今でも覚えている。

 

母に褒めてもらえて嬉しかったことも。

 

また一緒に作りたいと思ったことも。

 

その気持ちは、後から何があったとしても変わらない。

 

零無は、静かに息を吐いた。

 

「……いや」

 

エリが顔を上げる。

 

「だめじゃない」

 

「……いいんですか?」

 

「ああ」

 

零無は頷いた。

 

「君がそう思ったなら、どっちも本当だよ」

 

エリは、ほっとしたように笑った。

 

「……よかった」

 

零無は、その顔を見つめていた。

 

自分がしたことについて、何かが変わったわけではない。

 

けれど。

 

彼女が自分と過ごした時間を楽しかったと思ってくれている。

 

そのことまで、否定する必要はないのだろう。

 

零無は、エリの前にあるおにぎりを見た。

 

「……エリ」

 

「はい?」

 

「僕も、今日は楽しかった」

 

少しだけ間を置く。

 

「君が来てくれて、良かったよ」

 

エリは嬉しそうに笑った。

 

「……はい!」

 

それから、残っていたおにぎりを手に取った。

 

何事もなかったように、食事を再開する。

 

零無は、しばらく彼女を見ていた。

 

先ほどまで、自分が何にこだわっていたのか。

 

少しだけ分かったような気がした。

 

誰かに許されなければ、嬉しいと思ってはいけない。

 

自分がしたことを考えれば、楽しい時間を過ごす資格もない。

 

そんな風に考えていたのかもしれない。

 

けれど、エリは自分を許すために来たわけではなかった。

 

ただ、会いたかった。

 

だから来た。

 

零無には、それが少し眩しく感じられた。

 

     ◇

 

「……金木さん」

 

おにぎりを食べ終えたエリが口を開いた。

 

「何だ?」

 

「私、前は……」

 

そこで言葉を止める。

 

零無は顔を上げた。

 

エリは、空になった皿を見つめていた。

 

「……何かしたいって言うのが、怖かったんです」

 

零無は黙った。

 

「私が何かすると、誰かが困っちゃうと思って……」

 

小さな声だった。

 

エリは少しだけ俯いた。

 

「だから、何もしない方がいいのかなって」

 

零無は、彼女を見た。

 

治崎廻。

 

死穢八斎會。

 

あの事件について、零無も知っている。

 

どのような扱いを受け、どれほどの時間を奪われたのか。

 

全てを理解出来るわけではない。

 

ただ、彼女が自分の希望を口にすることさえ怖がっていた理由は分かる。

 

母の体調が悪い日。

 

何かをしたいと思っても、口にすることは少なかった。

 

出かけたい。

 

遊びたい。

 

少し休みたい。

 

そんなことを考える前に、やるべきことがあった。

 

必要なことを終わらせなければ、家の中が回らない。

 

それが当たり前になっていた。

 

だからこそ。

 

あの日、母に料理を教えてほしいと言えたことが、嬉しかったのかもしれない。

 

「……エリ」

 

「はい」

 

零無は彼女を見る。

 

「今は、どうだ?」

 

エリは少し考えた。

 

「……今は」

 

ゆっくりと口を開く。

 

「お勉強したいって、言えます」

 

「そうか」

 

「お歌も、歌いたいって言えます」

 

「ああ」

 

「お料理も……」

 

エリは、少しだけ笑った。

 

「やってみたいって、言えました」

 

零無は頷いた。

 

「そうだな」

 

「はい」

 

エリは嬉しそうに笑った。

 

それから。

 

「……金木さん」

 

「何だ?」

 

「私、今日も来たいって言ったんです」

 

「ああ。知っている」

 

「……だから」

 

エリは少し考えた。

 

「来られて、嬉しかったです」

 

零無は頷いた。

 

「僕もだよ」

 

エリは、にっこり笑った。

 

「じゃあ、よかったです」

 

「……?」

 

「二人とも、嬉しかったので」

 

エリはそう言うと、満足そうに笑った。

 

零無は、すぐには答えられなかった。

 

本当に、何でもない言葉だった。

 

自分が嬉しかった。

 

相手も嬉しかった。

 

だから、よかった。

 

ただ、それだけ。

 

それなのに。

 

零無は、随分と長い間、そういう風に物事を考えていなかった気がした。

 

誰かを守るため。

 

危険を減らすため。

 

生活を維持するため。

 

そういう理由は、幾らでも思いつく。

 

けれど。

 

ただ自分が嬉しいから。

 

楽しいから。

 

また会いたいから。

 

それだけを理由にして、何かを選んだことが、どれほどあっただろう。

 

幼い頃。

 

母に、また料理を教えてほしいと言った。

 

あの時は、それで十分だった。

 

他に理由なんて必要なかった。

 

「……金木さん?」

 

エリが、少し不安そうに呼んだ。

 

零無は顔を上げる。

 

「……ああ。すまない」

 

「……?」

 

「少し、考え事をしていた」

 

エリは首を傾げた。

 

「……難しいことですか?」

 

零無は、少し考えた。

 

「……いや」

 

小さく笑う。

 

「難しく考えすぎていただけだ」

 

エリは不思議そうな顔をした。

 

けれど、それ以上は聞かなかった。

 

零無は、彼女の頭にそっと手を置いた。

 

「……ありがとう、エリ」

 

エリが目を丸くする。

 

「……?」

 

「君が来てくれて、良かった」

 

その言葉に、エリは嬉しそうに笑った。

 

「……はい!」

 

零無は、そっと手を離した。

 

     ◇

 

「……さて」

 

零無は席を立ち、残ったご飯を確認した。

 

「まだ少しあるな」

 

「……あの」

 

「何だ?」

 

「もう一つ、作ってもいいですか?」

 

「構わないが、そんなに食べられるのか?」

 

「金木さんの分です!」

 

零無は少しだけ眉を上げた。

 

「僕の?」

 

「はい!」

 

「……それなら、もう少し米が必要になるな」

 

「……?」

 

エリは首を傾げた。

 

零無は炊飯器を見た。

 

「僕は結構食べるからな」

 

「あっ」

 

エリが何かを思い出したように声を上げる。

 

「前のおうどん!」

 

「ああ」

 

「いっぱい食べてました!」

 

「そうだな」

 

エリは少し考えた。

 

それから、ぱっと顔を明るくした。

 

「じゃあ、いっぱい作ります!」

 

「……いや、そこまで無理しなくていい」

 

「大丈夫です!」

 

随分と張り切っているらしい。

 

零無は小さく息を吐いた。

 

「……全く」

 

そう言いながら、新しいラップを広げてやる。

 

「具は何にする?」

 

「鮭がいいです!」

 

「分かった」

 

「金木さんは?」

 

「塩昆布だな」

 

「……おいしいですか?」

 

「美味いぞ」

 

「……じゃあ、私も!」

 

「鮭はどうするんだ」

 

「あっ……」

 

エリが困ったように目を丸くした。

 

零無は少し考えた。

 

「両方作ればいいだろう」

 

「……!」

 

エリが顔を輝かせる。

 

「そうですね!」

 

零無は、彼女の手元に具を並べた。

 

「今度は三角に出来そうか?」

 

「はい!」

 

エリは慎重に、ご飯を包み始めた。

 

何度か形を整える。

 

少しだけ角が崩れたが、最初のものよりずっと綺麗だった。

 

「……できました!」

 

「ああ。上出来だ」

 

エリは嬉しそうに笑った。

 

それから、自分の作ったおにぎりを眺めて、何かを思いついたように顔を上げる。

 

「……金木さん」

 

「何だ?」

 

「これ、相澤先生にもあげていいですか?」

 

「構わないぞ」

 

「……!」

 

「渡すなら、迎えに来た時だな。早めに食べてもらった方がいい」

 

「はい!」

 

エリは嬉しそうに頷いた。

 

「……喜んでくれるかな」

 

零無は少し考えた。

 

「ああ。喜ぶと思うぞ」

 

「……本当ですか?」

 

「君が作ったんだからな」

 

エリは、嬉しそうに笑った。

 

その顔を見て、零無も少しだけ笑った。

 

     ◇

 

夕方。

 

迎えに来た教師が、寮を訪れた。

 

エリは鞄を抱え、零無が用意した小さな包みを大切そうに持っていた。

 

中には、彼女が作ったおにぎりが入っている。

 

「……金木さん!」

 

「何だ?」

 

「今日は、ありがとうございました!」

 

「ああ」

 

零無は頷いた。

 

「上手く出来たじゃないか」

 

「はい!」

 

エリは嬉しそうに笑った。

 

それから、少しだけ恥ずかしそうに口を開く。

 

「……また、来てもいいですか?」

 

零無は彼女を見た。

 

そして。

 

「ああ。また来ればいい」

 

エリが顔を上げる。

 

「……いいんですか?」

 

「もちろん、相澤先生の許可は必要だが」

 

「……はい!」

 

「今度は、何を作りたいか考えておけ」

 

「分かりました!」

 

エリは嬉しそうに頷いた。

 

そして、教師と一緒に玄関へ向かいかける。

 

その途中で。

 

「あっ」

 

足を止めた。

 

「どうした?」

 

「……これ」

 

エリは包みから一つのおにぎりを取り出した。

 

最初に作った、少し潰れたおにぎりだった。

 

「……金木さんに」

 

零無は、それを見る。

 

「僕に?」

 

「はい!」

 

「……いいのか?」

 

「金木さん、食べるって言ってくれたので」

 

「……ああ」

 

確かに、言った。

 

零無はおにぎりを受け取った。

 

「ありがとう、エリ」

 

エリは嬉しそうに笑った。

 

「はい!」

 

それから、少しだけ首を傾げる。

 

「……金木さん」

 

「何だ?」

 

「また会えるの、楽しみです」

 

零無は彼女を見た。

 

「ああ」

 

静かに頷いた。

 

「僕も楽しみにしている」

 

エリの表情が、ぱっと明るくなった。

 

「はい!」

 

彼女は嬉しそうに手を振った。

 

「またね、です!」

 

「……ああ。またな」

 

エリは教師と一緒に、寮を出ていった。

 

零無は、しばらくその場に立っていた。

 

手元には、小さなおにぎりが一つ。

 

綺麗な形ではない。

 

少し潰れている。

 

海苔も端の方が浮いていた。

 

零無は、ゆっくりとラップを開いた。

 

一口。

 

食べる。

 

「……」

 

少し塩が多い。

 

具も真ん中からずれている。

 

随分と不格好だった。

 

昔、自分が初めて作ったものと、よく似ていた。

 

『……うん。美味しい』

 

母の声を思い出す。

 

あの日。

 

そう言ってもらえたことが、嬉しかった。

 

母の笑顔も。

 

頭を撫でてくれた手も。

 

今でも、よく覚えている。

 

零無は、もう一口食べた。

 

「……美味いな」

 

小さく呟く。

 

あの日の母が、自分の作ったおにぎりを食べてくれたように。

 

今は、自分がエリの作ったおにぎりを食べている。

 

ただ、それだけのことだった。

 

けれど。

 

母から教わったものが、こうして別の誰かへ伝わっている。

 

もう二度と会えない人との思い出が、今も自分の手の中に残っている。

 

そのことが、少しだけ嬉しかった。

 

零無は、最後の一口を食べた。

 

「……ごちそうさま」

 

誰もいない共有スペースで、小さく呟く。

 

窓の外では、夕陽が校庭を照らしていた。

 

もう少しすれば、A組の生徒達も戻ってくる。

 

夕食の準備を始める時間だった。

 

零無はラップを片付け、手を洗う。

 

冷蔵庫を開けると、鮭が少し余っていた。

 

「……そうだな」

 

次にエリが来たら、鮭を使った別の料理を教えてもいいかもしれない。

 

何がいいだろう。

 

焼き鮭。

 

炊き込みご飯。

 

それとも、もう少し手の込んだものか。

 

零無は少し考えてから、冷蔵庫を閉めた。

 

次に会った時、一緒に決めればいい。

 

そんなことを考えながら、夕食の準備を始めた。

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