「正しい答え」 作:はい
雄英高校。
午後。
一年A組寮。
金木零無は、炊飯器の蓋を開けた。
白い湯気が立ち上る。
炊き上がりは上々だった。
「……よし」
しゃもじで米をほぐし、蓋を閉める。
調理台には鮭のほぐし身、塩昆布、梅干し、海苔が並んでいた。
今日の献立は、おにぎりだ。
もっとも、零無が一人で食べるために用意したわけではない。
数日前、エリと約束した。
今度、一緒に何か料理を作ろうと。
昨日、相澤から連絡があった。
エリがその約束を覚えていて、また寮へ行きたいと言っているらしい。
前回の件で文句を言ったことが効いたのか、今回は訪問時間も送迎担当も事前に伝えられていた。
……最初からそうしてくれればいいものを。
零無は時計を確認する。
予定の時間まで、あと五分。
手を洗い、使う食器を取り出す。
その途中で、ふと考えた。
エリは、自分が内通者だったことを知っているのだろうか。
前回も気にはなっていた。
だが、結局聞かなかった。
知らないのであれば、彼女が会いに来ることも理解出来る。
自分が何をしたのか知らなければ、以前と同じように接することも出来るだろう。
しかし、相澤が何も説明していないとも考えにくかった。
「……」
零無はラップの箱を手に取った。
知っていたとしたら。
何故、また会いに来るのだろう。
そう考えたところで、玄関の方から声が聞こえた。
「こんにちは!」
零無は顔を上げる。
「……来たか」
玄関へ向かうと、小さな鞄を抱えたエリが立っていた。
「あっ、金木さん!」
「こんにちは、エリ」
「こんにちは!」
前回と変わらず、嬉しそうな顔だった。
隣に立つ教師から送迎についての説明を受け、帰りの時間を確認する。
エリはその間、そわそわとキッチンの方を見ていた。
零無は教師を見送ってから尋ねた。
「どうした?」
「……あの、いい匂いがします」
「ああ。米を炊いていたからな」
「お米?」
「今日はおにぎりを作ろうと思っているんだが」
「……!」
エリの顔が明るくなった。
「おにぎり!」
「嫌いか?」
「大好きです!」
「なら良かった」
零無は頷いた。
「今日は君にも作ってもらう。手を洗ってこい」
「はい!」
エリは元気よく返事をして、洗面所へ向かった。
零無はその後ろ姿を見送り、キッチンへ戻った。
◇
「……こうですか?」
「もう少し軽く握った方がいいな」
「軽く……」
「そうだ。潰す必要はない」
エリは、ラップの上に乗せたご飯と格闘していた。
最初は零無が手本を見せた。
ご飯を広げる。
真ん中に具を置く。
ラップで包み、形を整える。
やること自体は難しくない。
少なくとも、零無にとっては。
「……あっ」
エリの手元で、ご飯が横へ広がった。
出来上がったのは、三角形というより、少し潰れた丸い塊だった。
エリはそれを見つめる。
「……変な形になっちゃいました」
「そうだな」
零無は頷いた。
エリの肩が少しだけ下がる。
「……ごめんなさい」
「何故謝る?」
「上手に出来なかったので……」
「僕に謝る理由にはならないだろう」
零無は彼女の手元を見る。
「食べられないわけじゃない。味も変わらないしな」
「……でも、三角じゃないです」
「三角にしたかったのか?」
「はい」
「なら、次はそうなるように握ればいい」
エリは少し考えた。
「……もう一回やってもいいですか?」
「当然だろう」
零無は新しいラップを渡した。
「ただし、今のも捨てるなよ」
「……?」
「僕が食べる」
エリが目を丸くした。
「……いいんですか?」
「何が?」
「変な形なのに……」
「だから何だ?」
零無は首を傾げた。
「食べられるんだから、問題ないだろう」
エリは、しばらく自分のおにぎりを見つめていた。
それから、少しだけ笑った。
「……はい!」
二つ目は、随分と慎重だった。
ご飯を広げ、具を乗せる。
ラップで包み、少しずつ角を作っていく。
零無は隣で見ていたが、手を出さなかった。
「……ここを、こうして」
「力を入れすぎるなよ」
「はい」
「……そうだ」
やがて、エリが顔を上げた。
「……できました!」
手の中には、少し角の丸い三角形があった。
零無は一度それを見て、頷く。
「ああ。上手くなったな」
「……!」
エリが顔を輝かせた。
「ありがとうございます!」
「僕は見ていただけだろう」
「でも、教えてくれました」
「……そうか」
エリは嬉しそうに、二つのおにぎりを並べた。
一つ目は潰れている。
二つ目は三角形になっていた。
随分と形が違う。
けれど、彼女はどちらも大切そうに眺めていた。
零無は、その様子を見ていた。
そして、不意に昔のことを思い出した。
◇
まだ、幼かった頃。
小さな台所。
踏み台に乗った零無は、目の前のご飯を見つめていた。
「……難しい」
「そう?」
隣から声がした。
母だった。
正確には、育ての母。
零無にとって、母親と呼べる人だった。
「だって、三角にならない」
「最初から上手には出来ないわよ」
「お母さんは出来るのに」
「私は何回も作ってるからね」
母はそう言って笑った。
あの日は、珍しく体調が良かった。
朝から起きていて、昼食も一緒に食べた。
それから、零無がおにぎりを作ってみたいと言うと、台所に立ってくれた。
母の手が、ご飯を包む。
慣れた動きで形を整えると、綺麗な三角形が出来上がった。
「はい。こんな感じ」
零無はそれを見た。
それから、自分の手元へ視線を落とす。
形が悪い。
随分と違う。
「……もう一回」
「いいよ」
母は新しいご飯を用意した。
零無は慎重に手を動かす。
最初より少し上手く出来た。
だが、やはり三角形にはならない。
「……」
「どうしたの?」
「上手く出来ない」
「うん」
「……ごめんなさい」
母は少し驚いたように零無を見た。
「何で謝るの?」
「ご飯、無駄にしたから」
「無駄になってないでしょ」
母はそう言うと、零無のおにぎりを一つ手に取った。
「食べられるもの」
「……形、変だよ」
「そうね」
母は笑った。
「でも、美味しそう」
そして、そのまま一口食べた。
「……うん。美味しい」
零無は目を丸くした。
「……本当?」
「本当」
「……」
「ほら、食べてみて」
差し出されたおにぎり。
零無も一口食べた。
普通のご飯だった。
少し塩が多い。
具も偏っている。
けれど、母が美味しいと言ったので、もう一口食べた。
「……どう?」
母が尋ねた。
「……美味しい」
「でしょ?」
母は嬉しそうに笑った。
それから、零無の頭に手を置いた。
「上手く作るのも大事だけど、ちゃんと食べるのも大事だからね」
「……うん」
「次は、もっと上手に作れるよ」
「……また教えてくれる?」
「もちろん」
母はそう答えた。
零無は嬉しくなって、もう一つ作り始めた。
あの日、二人で幾つ作ったのかは覚えていない。
ただ、母が隣にいてくれたことが嬉しくて。
少しでも上手に出来ると、すぐに見せた。
母はその度に手を止め、零無の作ったものを見てくれた。
料理の手順も、塩の量も。
今なら、もっと上手に教えられる。
けれど。
あの時の零無が欲しかったのは、きっと料理の技術だけではなかった。
◇
「……金木さん?」
エリの声で、零無は顔を上げた。
「……ああ。何だ?」
「どうかしましたか?」
「いや。昔を思い出していた」
「昔?」
「ああ」
零無は彼女が作ったおにぎりを見る。
「僕も、最初は上手く作れなかったんだ」
「……金木さんも?」
「ああ。君の一つ目より酷かったかもしれない」
「……えっ」
エリが驚いたように目を丸くした。
零無は僅かに口元を緩めた。
「今は、もう少しまともに作れるが」
「……誰かに教えてもらったんですか?」
「ああ。母さんにな」
「お母さん?」
「小さい頃に、色々教えてもらったんだ」
エリは少し嬉しそうに笑った。
「……優しいお母さんですね」
零無は手元のご飯を見た。
小さな踏み台。
自分が作ったおにぎりを食べて、美味しいと言ってくれた母。
頭に置かれた手の温かさまで、今でも覚えている。
「……ああ」
零無は頷いた。
「大切な人だよ」
エリは、少し考えた。
「……金木さんのお料理が上手なのは、お母さんのおかげなんですね」
「そうだな。最初に教えてくれたのは母さんだから」
「……私も、金木さんみたいに上手になれますか?」
「練習すればな」
「……!」
「そのうち僕より上手くなるかもしれないぞ」
エリが目を丸くした。
「……ほんとですか?」
「ああ。僕が教えるんだからな」
少し得意げに答えると、エリは声を上げて笑った。
零無も、つられるように口元を緩めた。
やがて、母は台所に立つことが難しくなった。
代わりに食事を作るようになったのは、零無だった。
料理だけではない。
洗濯も、掃除も、薬の管理も。
母の体調を見ながら、その日の予定を考える。
気づけば、そんな生活が当たり前になっていた。
出来ることが増えるのは、悪いことではなかった。
少なくとも、幼い零無はそう思っていた。
自分が料理を作れば、母が食べられる。
薬を忘れなければ、体調が悪くなる危険を減らせる。
眠れない夜には、傍にいればいい。
必要なことを一つずつ済ませていけば、明日も同じ生活を続けられる。
それで十分だと思っていた。
けれど、今になって振り返ると。
母と一緒におにぎりを作ったあの日は、少し違う。
何かをしなければならなかったわけではない。
料理を覚えないと困るからでもなかった。
ただ、自分が作ってみたかった。
母と一緒に台所に立ちたかった。
それだけだった。
「……金木さん」
「何だ?」
「ここ、どうしたらいいですか?」
エリが崩れかけた角を指差した。
零無は彼女の手元を覗き込む。
「ああ。少し持ち上げてみろ」
「こうですか?」
「そうだ。そのまま反対側も」
「……できました!」
「ああ。上出来だ」
エリは、また嬉しそうに笑った。
母が教えてくれたことを、今度は自分が教えている。
それも、かつての自分とよく似た、小さな子供に。
零無はしばらく、エリの作ったおにぎりを眺めていた。
そして、次の具材を彼女の前へ置いた。
◇
二人で作ったおにぎりを皿に並べ、少し遅めの昼食を取ることにした。
エリは、自分で握ったものを一つ選び、大切そうに両手で持った。
「……いただきます」
「ああ。いただきます」
一口食べる。
エリの顔が明るくなった。
「……おいしいです!」
「そうか。良かったな」
「はい!」
エリは嬉しそうに頷いた。
零無もおにぎりを手に取る。
具材の置き方が少し偏っていたが、味は悪くなかった。
エリは時々、零無の皿を見ていた。
彼が食べ終える度に、そちらへ視線を向ける。
「……どうした?」
「……あの」
「何だ?」
「金木さん、もう二つも食べてます」
「ああ」
「……いっぱい食べるんですね」
「そうだな。普通の人よりは食べると思う」
エリは、自分のおにぎりを見た。
それから、零無の皿に残っているものを見る。
「……私のも、食べられますか?」
「君が食べきれないなら、貰うが」
「いえ!」
エリは慌てて首を振った。
「私も食べられます!」
「なら、自分の分を食べろ」
「はい!」
零無は小さく笑った。
しばらくは、食事の音だけが続いた。
窓から入る陽射しは暖かく、エリは時々麦茶を飲みながら、ゆっくりとおにぎりを食べている。
その様子を眺めているうちに、零無は朝から気になっていたことを思い出した。
「……エリ」
「はい?」
「一つ、聞いてもいいか?」
エリはおにぎりを皿に戻した。
「はい」
零無は少し考えてから口を開いた。
「君は、僕が以前何をしたのか知っているか?」
エリの表情が変わった。
少しして、小さく頷く。
「……はい」
「相澤先生から聞いたのか?」
「はい」
「いつ?」
「前に、ここへ来る前です」
零無の目が僅かに動いた。
「……勉強を教えた時の?」
「はい」
エリは頷いた。
「金木さんが、学校のことを悪い人に教えていたって……」
「ああ」
「それで、みんなが危ない目にあったって」
「そうだ」
零無は頷いた。
やはり、相澤は最初から説明していたらしい。
どういう言葉で伝えたのかまでは分からない。
だが、エリにも理解出来るように話したのだろう。
「……怖くなかったのか?」
エリは少し考えた。
「……怖かったです」
「そうか」
「はい」
「なら、何故会いに来た?」
エリは、すぐには答えなかった。
しばらく考えてから、小さく口を開く。
「……お勉強を、教えてほしかったので」
「僕じゃなくても、教えられる人はいただろう?」
「はい」
エリは素直に頷いた。
「でも、金木さんがよかったんです」
「……何故?」
「……えっと」
エリは少し困ったように首を傾げた。
「金木さんと、お話したかったからです」
零無は黙った。
エリは、相手の表情を窺うように顔を上げた。
「……あの」
「何だ?」
「私、金木さんとお話するの、好きなんです」
「……」
「お話を聞いてくれますし、分からないことも教えてくれます」
「それなら、相澤先生だってしてくれるだろう」
「はい!」
エリは頷いた。
「相澤先生も、緑谷さんも、ミリオさんも、優しいです」
「そうだな」
「でも、金木さんともお話したかったんです」
何でもないことのように、そう言った。
零無は少しだけ眉を寄せた。
彼女が嘘をついているとは思わない。
むしろ、言葉に迷いがないことの方が不思議だった。
相澤から事情を聞いた時、怖かったと言った。
自分がしたことを、良くないことだとも理解している。
それでも、会いたいと思った。
その理由を、零無はまだ上手く理解出来なかった。
「……エリ」
「はい」
「僕がしたことは、悪いことだ」
「……はい」
「そのせいで怪我をした人もいる。君が怖いと思ったのも、当然だよ」
エリは小さく頷いた。
零無は彼女を見た。
幼い子供に、自分が犯した罪を理解させたいわけではない。
許してほしいわけでもなかった。
ただ、知らずに会いに来ていたのであれば、話しておく必要があると思っていた。
しかし、エリは既に知っていた。
そうであれば。
今更、自分が何を言う必要があるのだろう。
「……あの」
エリが口を開いた。
「何だ?」
「金木さんは……私に、来てほしくなかったですか?」
零無は顔を上げた。
「……何故そう思う?」
「だって……」
エリは自分のおにぎりを見た。
「さっきから、怖くなかったかって聞くので……」
少しだけ肩を落とす。
「私、迷惑でしたか?」
「違う」
零無は即答した。
エリが顔を上げる。
「そういう意味じゃない」
「……そうなんですか?」
「ああ」
零無は頷いた。
「君が来てくれたのは、嬉しかったよ」
エリの目が大きくなった。
「……本当ですか?」
「本当だ」
零無は、少しだけ口元を緩めた。
「前に勉強を教えてほしいと言ってくれた時も、今日も。楽しかった」
エリは、しばらく彼を見つめていた。
それから、嬉しそうに笑った。
「……私もです!」
「そうか」
「はい!」
エリは元気よく頷いた。
そして、何かを考えるように、自分の手元へ視線を落とした。
「……金木さん」
「何だ?」
「私、金木さんが悪いことをしたのは、嫌です」
「ああ」
「みんなが怖い思いをしたのも、嫌です」
「そうだな」
「でも……」
エリは少しだけ迷った。
そして、顔を上げる。
「今日、一緒におにぎりを作ったのは、楽しかったです」
零無は黙って聞いていた。
「前にお勉強を教えてもらったのも、楽しかったです」
「……ああ」
「……それじゃ、だめですか?」
零無の手が止まった。
エリは、真面目な顔でこちらを見ていた。
「……何が?」
「金木さんが悪いことをしたって思うのも、一緒にいて楽しいって思うのも……」
エリは少し考えた。
「どっちも、本当なんです」
零無は、彼女を見た。
「……そうか」
「はい」
エリは頷いた。
「だから、両方じゃだめなのかなって……」
その言葉に。
不意に、母の顔が浮かんだ。
嫌いだったこともある。
理不尽な言葉を向けられたこともあった。
自分がどれだけ頑張っても、どうにもならない日もあった。
それでも。
母は、母だった。
愛していなかったわけではない。
愛されていなかったとも、思いたくなかった。
少なくとも。
あの日、一緒に作ったおにぎりが美味しかったことは、今でも覚えている。
母に褒めてもらえて嬉しかったことも。
また一緒に作りたいと思ったことも。
その気持ちは、後から何があったとしても変わらない。
零無は、静かに息を吐いた。
「……いや」
エリが顔を上げる。
「だめじゃない」
「……いいんですか?」
「ああ」
零無は頷いた。
「君がそう思ったなら、どっちも本当だよ」
エリは、ほっとしたように笑った。
「……よかった」
零無は、その顔を見つめていた。
自分がしたことについて、何かが変わったわけではない。
けれど。
彼女が自分と過ごした時間を楽しかったと思ってくれている。
そのことまで、否定する必要はないのだろう。
零無は、エリの前にあるおにぎりを見た。
「……エリ」
「はい?」
「僕も、今日は楽しかった」
少しだけ間を置く。
「君が来てくれて、良かったよ」
エリは嬉しそうに笑った。
「……はい!」
それから、残っていたおにぎりを手に取った。
何事もなかったように、食事を再開する。
零無は、しばらく彼女を見ていた。
先ほどまで、自分が何にこだわっていたのか。
少しだけ分かったような気がした。
誰かに許されなければ、嬉しいと思ってはいけない。
自分がしたことを考えれば、楽しい時間を過ごす資格もない。
そんな風に考えていたのかもしれない。
けれど、エリは自分を許すために来たわけではなかった。
ただ、会いたかった。
だから来た。
零無には、それが少し眩しく感じられた。
◇
「……金木さん」
おにぎりを食べ終えたエリが口を開いた。
「何だ?」
「私、前は……」
そこで言葉を止める。
零無は顔を上げた。
エリは、空になった皿を見つめていた。
「……何かしたいって言うのが、怖かったんです」
零無は黙った。
「私が何かすると、誰かが困っちゃうと思って……」
小さな声だった。
エリは少しだけ俯いた。
「だから、何もしない方がいいのかなって」
零無は、彼女を見た。
治崎廻。
死穢八斎會。
あの事件について、零無も知っている。
どのような扱いを受け、どれほどの時間を奪われたのか。
全てを理解出来るわけではない。
ただ、彼女が自分の希望を口にすることさえ怖がっていた理由は分かる。
母の体調が悪い日。
何かをしたいと思っても、口にすることは少なかった。
出かけたい。
遊びたい。
少し休みたい。
そんなことを考える前に、やるべきことがあった。
必要なことを終わらせなければ、家の中が回らない。
それが当たり前になっていた。
だからこそ。
あの日、母に料理を教えてほしいと言えたことが、嬉しかったのかもしれない。
「……エリ」
「はい」
零無は彼女を見る。
「今は、どうだ?」
エリは少し考えた。
「……今は」
ゆっくりと口を開く。
「お勉強したいって、言えます」
「そうか」
「お歌も、歌いたいって言えます」
「ああ」
「お料理も……」
エリは、少しだけ笑った。
「やってみたいって、言えました」
零無は頷いた。
「そうだな」
「はい」
エリは嬉しそうに笑った。
それから。
「……金木さん」
「何だ?」
「私、今日も来たいって言ったんです」
「ああ。知っている」
「……だから」
エリは少し考えた。
「来られて、嬉しかったです」
零無は頷いた。
「僕もだよ」
エリは、にっこり笑った。
「じゃあ、よかったです」
「……?」
「二人とも、嬉しかったので」
エリはそう言うと、満足そうに笑った。
零無は、すぐには答えられなかった。
本当に、何でもない言葉だった。
自分が嬉しかった。
相手も嬉しかった。
だから、よかった。
ただ、それだけ。
それなのに。
零無は、随分と長い間、そういう風に物事を考えていなかった気がした。
誰かを守るため。
危険を減らすため。
生活を維持するため。
そういう理由は、幾らでも思いつく。
けれど。
ただ自分が嬉しいから。
楽しいから。
また会いたいから。
それだけを理由にして、何かを選んだことが、どれほどあっただろう。
幼い頃。
母に、また料理を教えてほしいと言った。
あの時は、それで十分だった。
他に理由なんて必要なかった。
「……金木さん?」
エリが、少し不安そうに呼んだ。
零無は顔を上げる。
「……ああ。すまない」
「……?」
「少し、考え事をしていた」
エリは首を傾げた。
「……難しいことですか?」
零無は、少し考えた。
「……いや」
小さく笑う。
「難しく考えすぎていただけだ」
エリは不思議そうな顔をした。
けれど、それ以上は聞かなかった。
零無は、彼女の頭にそっと手を置いた。
「……ありがとう、エリ」
エリが目を丸くする。
「……?」
「君が来てくれて、良かった」
その言葉に、エリは嬉しそうに笑った。
「……はい!」
零無は、そっと手を離した。
◇
「……さて」
零無は席を立ち、残ったご飯を確認した。
「まだ少しあるな」
「……あの」
「何だ?」
「もう一つ、作ってもいいですか?」
「構わないが、そんなに食べられるのか?」
「金木さんの分です!」
零無は少しだけ眉を上げた。
「僕の?」
「はい!」
「……それなら、もう少し米が必要になるな」
「……?」
エリは首を傾げた。
零無は炊飯器を見た。
「僕は結構食べるからな」
「あっ」
エリが何かを思い出したように声を上げる。
「前のおうどん!」
「ああ」
「いっぱい食べてました!」
「そうだな」
エリは少し考えた。
それから、ぱっと顔を明るくした。
「じゃあ、いっぱい作ります!」
「……いや、そこまで無理しなくていい」
「大丈夫です!」
随分と張り切っているらしい。
零無は小さく息を吐いた。
「……全く」
そう言いながら、新しいラップを広げてやる。
「具は何にする?」
「鮭がいいです!」
「分かった」
「金木さんは?」
「塩昆布だな」
「……おいしいですか?」
「美味いぞ」
「……じゃあ、私も!」
「鮭はどうするんだ」
「あっ……」
エリが困ったように目を丸くした。
零無は少し考えた。
「両方作ればいいだろう」
「……!」
エリが顔を輝かせる。
「そうですね!」
零無は、彼女の手元に具を並べた。
「今度は三角に出来そうか?」
「はい!」
エリは慎重に、ご飯を包み始めた。
何度か形を整える。
少しだけ角が崩れたが、最初のものよりずっと綺麗だった。
「……できました!」
「ああ。上出来だ」
エリは嬉しそうに笑った。
それから、自分の作ったおにぎりを眺めて、何かを思いついたように顔を上げる。
「……金木さん」
「何だ?」
「これ、相澤先生にもあげていいですか?」
「構わないぞ」
「……!」
「渡すなら、迎えに来た時だな。早めに食べてもらった方がいい」
「はい!」
エリは嬉しそうに頷いた。
「……喜んでくれるかな」
零無は少し考えた。
「ああ。喜ぶと思うぞ」
「……本当ですか?」
「君が作ったんだからな」
エリは、嬉しそうに笑った。
その顔を見て、零無も少しだけ笑った。
◇
夕方。
迎えに来た教師が、寮を訪れた。
エリは鞄を抱え、零無が用意した小さな包みを大切そうに持っていた。
中には、彼女が作ったおにぎりが入っている。
「……金木さん!」
「何だ?」
「今日は、ありがとうございました!」
「ああ」
零無は頷いた。
「上手く出来たじゃないか」
「はい!」
エリは嬉しそうに笑った。
それから、少しだけ恥ずかしそうに口を開く。
「……また、来てもいいですか?」
零無は彼女を見た。
そして。
「ああ。また来ればいい」
エリが顔を上げる。
「……いいんですか?」
「もちろん、相澤先生の許可は必要だが」
「……はい!」
「今度は、何を作りたいか考えておけ」
「分かりました!」
エリは嬉しそうに頷いた。
そして、教師と一緒に玄関へ向かいかける。
その途中で。
「あっ」
足を止めた。
「どうした?」
「……これ」
エリは包みから一つのおにぎりを取り出した。
最初に作った、少し潰れたおにぎりだった。
「……金木さんに」
零無は、それを見る。
「僕に?」
「はい!」
「……いいのか?」
「金木さん、食べるって言ってくれたので」
「……ああ」
確かに、言った。
零無はおにぎりを受け取った。
「ありがとう、エリ」
エリは嬉しそうに笑った。
「はい!」
それから、少しだけ首を傾げる。
「……金木さん」
「何だ?」
「また会えるの、楽しみです」
零無は彼女を見た。
「ああ」
静かに頷いた。
「僕も楽しみにしている」
エリの表情が、ぱっと明るくなった。
「はい!」
彼女は嬉しそうに手を振った。
「またね、です!」
「……ああ。またな」
エリは教師と一緒に、寮を出ていった。
零無は、しばらくその場に立っていた。
手元には、小さなおにぎりが一つ。
綺麗な形ではない。
少し潰れている。
海苔も端の方が浮いていた。
零無は、ゆっくりとラップを開いた。
一口。
食べる。
「……」
少し塩が多い。
具も真ん中からずれている。
随分と不格好だった。
昔、自分が初めて作ったものと、よく似ていた。
『……うん。美味しい』
母の声を思い出す。
あの日。
そう言ってもらえたことが、嬉しかった。
母の笑顔も。
頭を撫でてくれた手も。
今でも、よく覚えている。
零無は、もう一口食べた。
「……美味いな」
小さく呟く。
あの日の母が、自分の作ったおにぎりを食べてくれたように。
今は、自分がエリの作ったおにぎりを食べている。
ただ、それだけのことだった。
けれど。
母から教わったものが、こうして別の誰かへ伝わっている。
もう二度と会えない人との思い出が、今も自分の手の中に残っている。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
零無は、最後の一口を食べた。
「……ごちそうさま」
誰もいない共有スペースで、小さく呟く。
窓の外では、夕陽が校庭を照らしていた。
もう少しすれば、A組の生徒達も戻ってくる。
夕食の準備を始める時間だった。
零無はラップを片付け、手を洗う。
冷蔵庫を開けると、鮭が少し余っていた。
「……そうだな」
次にエリが来たら、鮭を使った別の料理を教えてもいいかもしれない。
何がいいだろう。
焼き鮭。
炊き込みご飯。
それとも、もう少し手の込んだものか。
零無は少し考えてから、冷蔵庫を閉めた。
次に会った時、一緒に決めればいい。
そんなことを考えながら、夕食の準備を始めた。