「正しい答え」 作:はい
零無が拘束されてから、二日が経った。
緑谷の負傷は、幸い深刻なものではなかった。腹部にはまだ鈍い痛みが残っているものの、骨や内臓に大きな損傷はなく、歩行や会話にも支障はない。ただし、医師からはまだ無茶をするなと念を押されている。
零無があの一撃でどこまで力を抑えていたのかは、まだ分からない。ただ、本気で緑谷を殺すつもりなら、あの程度の負傷では済まなかった。それだけは、誰も否定出来なかった。
その二日間、零無は警察と教師による聴取を受けていた。
AFOとの接触、敵側へ流した情報、USJや林間合宿、その他の情報漏洩について。聞かれたことには答えたが、答えないことも多かった。
特に、何故AFOへ従ったのかという質問に対しては、何度聞かれても同じような答えしか返さなかった。
そして今日、ようやくA組との面会が許可された。
◇
部屋には、A組の生徒達が集まっていた。
緑谷、爆豪、麗日、飯田、轟、八百万、切島、蛙吹、障子、常闇、耳郎、上鳴、芦戸、瀬呂、尾白、砂藤、口田、青山、峰田、そして葉隠透。
零無を除く、二十人全員だった。
部屋の中央には椅子が一つ置かれており、そこに零無が座っていた。両手には拘束具が取り付けられ、個性の使用を警戒した措置も取られている。壁際には塚内と数名の警察官が待機し、少し離れた場所には根津がいた。そして、壁に設置されたモニターには、病院から参加している相澤の姿が映っている。
誰も油断してはいなかった。
零無は緑谷を一撃で戦闘不能にした。それも、それまで雄英では見せていなかった力を使って。そんな人間をクラスメイトだけで囲ませるほど、今の雄英は甘くない。
それでも、教師も警察も今は口を挟まなかった。これは、A組自身が零無へ聞きたいことだったからだ。
当の零無は、ただ椅子に座っていた。逃げるための方法や拘束を外せる可能性、この人数を相手に出来るかどうかなどを考えている様子はない。そもそも、捕まった時から一度も抵抗していなかった。
そのことが、かえって全員を苛立たせていた。
誰もが零無を見ている。怒っている者、困惑している者、まだ信じられない者。何かの間違いであってほしいと思っている者もいれば、理由を聞きたい者、嘘をついていると疑っている者もいた。
零無はその視線を全て受けていた。いつもと変わらない顔で。
最初に口を開いたのは、緑谷だった。
「金木君」
「ああ」
「どうして……僕たちを裏切ったのか、聞かせてほしい」
零無は少しだけ首を傾けた。
「それは、ある程度分かっているんじゃないか?」
緑谷が眉を寄せる。
「……どういう意味?」
「僕が以前から、今の個性社会に良い感情を持っていなかったことくらい、君も知っていただろう」
「知ってた」
緑谷は即座に答えた。
「何度か話したこともある。でも、それとAFOに情報を流すことは別だ」
「そうだな」
あまりにも簡単に認めた。
「別の話だ」
「だったら――」
「ただ、無関係でもない」
緑谷が止まる。
「僕がこの社会を信用していなかったこと。今の形のままでは、救われない人間がいると思っていたこと。一度壊れなければ、根本的には変わらないのではないかと考えていたこと」
零無は静かに言葉を続けた。
「その上で、僕はAFOへ情報を渡した」
それ以上は言わなかった。
「……それだけ?」
緑谷が聞いた。零無は彼を見る。
「何が?」
「本当に、それだけなの?」
「質問の意味が分からない」
「他に理由は――」
「ない」
即答だった。
部屋の隅で、透の指先が僅かに動いた。
緑谷はなおも零無を見つめる。
「金木君」
「何?」
「僕は、君が全部話してるようには思えない」
「それは君の感想だろう」
「……!」
「僕がしたことは変わらない。情報を渡した。君達を危険に晒した。それで十分じゃないか?」
零無の声は冷静だった。
「十分じゃないよ!」
緑谷の声が大きくなる。
「理由を聞いてるんだ!」
「だから答えている」
「僕にはそう聞こえない!」
「なら、君が納得出来る答えを、僕に言わせたいだけじゃないか?」
零無は目を逸らさなかった。緑谷が言葉を詰まらせる。
「僕が本当は嫌だった。仕方がなかった。何か特別な事情があった。そう言えば、君は納得する?」
「そういうことじゃ――」
「なら必要ないだろう」
零無は緑谷の言葉を切った。
「僕がしたことは、僕がしたことだ」
僅かに拘束具が鳴った。
◇
「だったら!」
飯田が声を上げた。
「君は我々と共に学び、共に訓練し、共に戦ってきたではないか!」
「そうだな」
「社会に問題があるというのなら、我々と共に正していく道もあった筈だ!」
零無は飯田を見る。
「飯田」
「何だ!」
「それは、いつまでに出来る?」
飯田が止まった。
「……何?」
「君達と一緒に社会を正すとして、いつまでに出来るのか、と聞いている」
「それは……」
飯田は一瞬、答えに詰まる。
「一朝一夕にはいかない。だからこそ、我々がこれから――」
「十年?」
「……」
「二十年?」
「金木君」
「五十年?」
零無は続ける。
「制度を変える。教育を変える。価値観を変える。差別を減らす。福祉を整える。個性によって、生き方そのものに困難を抱える人間を支える。全部、時間が掛かる」
「だからこそ!」
「その間に死ぬ人間は?」
飯田の言葉が止まった。
零無の目が僅かに鋭くなる。
「自分の個性を気味悪がられて、家族にすら触れてもらえない子供は?」
誰も答えない。
「生まれつき、社会生活そのものと相性の悪い個性を持った人間は? 危険だという理由だけで、何をする前から将来を決められる人間は?」
「……」
「働けない。馴染めない。助けを求める方法すら分からない。自分がおかしいのだと思わされて、誰にも言えない」
零無は飯田を見た。
「その人達にも、あと二十年待ってくれ、と言うのか?」
「そんなことは言わない!」
「なら、どうする?」
「今いる者から、一人ずつ――」
「誰が?」
「我々がだ!」
「どうやって見つける?」
「……!」
「助けを求めてこない人間は? 自分が助けを求めていいことすら知らない人間は?」
飯田は答えようとしたが、言葉が続かなかった。
「僕が聞いているのは理念じゃない」
零無の声が低くなる。
「今、既に救われていない人間をどうするのか、という話だ」
◇
「そんな言い方!」
芦戸が声を上げた。
「飯田を責めたって仕方ないじゃん!」
「責めてはいない」
「責めてるみたいに聞こえる!」
「なら、僕の言葉が鋭過ぎるんだろう」
「じゃあ、もうちょっと――」
「だが、問いを柔らかくしたところで、問題が軽くなるわけではない」
零無が遮ると、芦戸は黙った。
「改善途中だから仕方ない。制度が追いついていない。前例がない。専門家が足りない。予算がない。理解が広がるまで時間が掛かる」
零無はそれらを淡々と並べる。
「全部、現実的な事情だ。僕も理解している」
「だったら……」
「理解していることと、納得していることは別だ」
零無は芦戸を見る。彼女の表情が歪んだ。
「その『仕方ない』の下で、人生を壊された人間にとって、事情は何の慰めにもならない」
一拍置き、続ける。
「社会は、助けられなかった人間を毎回、不幸な例外として処理する。事件になれば報道する。ヴィランになれば逮捕する。死ねば同情する」
その声に、本当に僅かな怒気が混ざった。
「でも、その前に誰が見つけた?」
部屋が静まり返る。
「誰が、事件になる前の人間を、責任を持って救った?」
◇
爆豪が鼻を鳴らした。
「相変わらず御託ばっか並べやがって」
「そうか?」
「社会が気に食わねぇ。変わるまで待てねぇ。だから敵に情報流した」
爆豪が零無を睨む。
「結局、てめぇが言ってんのはそれだろうが」
零無は少し考えた。
「ああ。大雑把に言えば、そうなる」
爆豪の眉が動く。
「……チッ」
「何?」
「気に食わねぇんだよ」
「何が?」
「その顔だ!」
爆豪の声が響き、塚内の横にいた警察官が僅かに身構える。しかし、相澤も根津も止めようとはしなかった。
「全部分かってますみてぇなツラで! てめぇ一人で勝手に答え出して! 勝手に裏切って!」
「それは議論と関係がある?」
「てめぇの!」
爆豪の額に青筋が浮かぶ。
「そういうとこが気に食わねぇっつってんだよ!」
「なら仕方ない」
「クソが!」
切島が慌てて爆豪の肩を掴む。
「爆豪、落ち着け!」
「離せクソ髪!」
「今殴ったら話聞けねぇだろ!」
「殴った後でも聞ける!」
「駄目だって!」
零無は二人を見ていた。
「元気そうで何よりだ」
「誰のせいだと思ってんだテメェ!」
◇
「……アンタさ」
耳郎だった。声は小さかったが、それまでとは違う種類の苛立ちが滲んでいた。
零無が耳郎を見る。
「何?」
「そうやって、全部理屈で返すの?」
「質問の内容による」
「今も?」
「ああ」
「……そっか」
短い沈黙が落ちる。それでも耳郎は視線を逸らさなかった。
「じゃあ聞くけど」
「うん」
「文化祭の時も?」
部屋の空気が僅かに変わった。
零無は答える。
「何が?」
「零無、あの時……色々手伝ったじゃん」
「そうだな」
「頼んでもないのに」
「ああ」
「面倒くさそうにしながら、最後までやった」
「そうだったな」
「……楽しくなかった?」
零無は一瞬だけ考える。
「楽しかったよ」
耳郎の言葉が止まった。
「……じゃあ」
少し間が空く。
「じゃあ、何で」
零無は待つ。
「……何で、それとこれを同時に出来るわけ?」
「同時に?」
「私達と一緒に笑って、普通に学校通って、文化祭やって、助けたり、助けられたりして……その裏で、敵に情報流してたんでしょ?」
耳郎の声が僅かに強くなる。
「そうだ」
「……っ」
あまりに簡単に認めるものだから、耳郎は言葉を詰まらせた。
「そうだ、じゃないでしょ……」
「事実だからな」
「だからって!」
耳郎が声を荒らげた。
「もうちょっと何かあるでしょ! 悪かったとか! 騙してたとか! 私達のことどう思ってたとか!」
「悪かったと思っている」
「……」
「騙していたのも事実だ」
「じゃあ私達は?」
耳郎が聞いた。
「何だったの?」
短い問いだった。
零無は即答しなかった。数秒の沈黙を挟み、ようやく口を開く。
「友人だと思っている」
耳郎の目が見開かれる。
「……は?」
「今も」
「……何それ」
「質問に答えた」
「最悪」
耳郎は吐き捨てた。
「友達裏切っといて、まだ友達だと思ってるとか」
「矛盾している?」
「してるよ!」
「僕はそうは思わない」
「あんたが思わなくても、こっちはするんだよ!」
声が響く。零無は耳郎を見た。
「……そうか」
「そうか、じゃない」
「では何と言えばいい?」
耳郎は口を開いたものの、すぐには言葉が出なかった。
「……知らない」
やがて、それだけを口にした。
「自分で考えれば」
「分かった」
「……ほんっと」
耳郎はそこで黙った。
◇
八百万が静かに口を開いた。
「あなたは、先程からご自身の考えを随分厳しく我々へ問いかけています」
「ああ」
「ですが」
八百万の目が鋭くなる。
「ご自身の思想が正しいと確信しているようには見えません」
零無は八百万を見る。
「当然だろう」
「……当然?」
「僕一人で考えたものだ。完全な筈がない」
何人かが顔を上げた。
「でしたら、ご自身も間違っている可能性を――」
「考えているよ。だから君達の話を聞いている」
即答だった。
「でしたら――」
「ただし、僕が間違っている可能性があることと、君達の反論が正しいことは別だ」
零無は続ける。
「僕の論に穴があるなら突けばいい。君達の反論に穴があるなら、僕が突く。最後まで残ったものを考えればいい」
八百万は零無を見つめた。
「議論で、勝ちたいのですか?」
「まさか」
零無は僅かに眉を寄せる。
「そんなものに何の意味がある?」
「……」
「君達が僕より正しい答えを持っているなら、その方がいいに決まっている」
静かな声だった。
◇
「だったら!」
緑谷が反応した。
「金木君――」
「ただし、今のところ、僕はそう思っていない」
零無が遮ると、緑谷の言葉が止まった。
「むしろ以前より、僕の考えは正しかったのではないかと思っている」
部屋が静かになる。
轟が口を開いた。
「……今の社会を見てか」
「ああ」
「AFOに壊された社会を見て、自分が正しかったと思ったのか?」
「違う」
零無は首を振る。
「壊れた後を見てだ」
麗日の顔が変わった。
零無は彼女を見る。
「麗日」
「……何?」
「君が雄英の屋上から話した時のことを覚えている」
「……」
「立派だったと思う」
麗日が眉を寄せる。
「……何なん、それ」
「疲れ切った緑谷を拒絶する人達に、君は、彼も一人の人間なんだと訴えた」
「……」
「ヒーローだけが一方的に人を支えるのではない。市民も、ヒーローを支える側にならなければならない。少なくとも、僕にはそう聞こえた」
「だったら」
麗日が一歩前へ出た。
「あの時、みんな最後には聞いてくれた」
「ああ」
「変われたんだよ」
「そうだな」
「だったら――」
「だから困っているんだ」
麗日が止まる。
「……は?」
「君の言葉が、届いてしまった」
そこに皮肉はなかった。むしろ、そのこと自体を喜んでいるようにさえ聞こえた。
「本来なら、僕にとっても喜ばしいことだった筈だ」
麗日の眉が強く寄る。
「だったら何なん!?」
少しずつ声が大きくなる。
「何がそんなに気に入らんの!?」
「君の言葉が届くまでに、何が必要だった?」
零無の目が鋭くなる。
麗日が止まった。
「ヒーロー社会が崩壊した。大量のヴィランが街へ放たれた。ヒーローが次々に辞めた。市民が武装した。社会そのものを信用しなくなった」
零無は一つずつ数え上げる。
「平和の象徴も、ヒーローへの幻想も、安全な日常も失った」
そして、麗日をまっすぐに見た。
「そこまで壊れて、ようやく君の言葉を本気で聞いた」
麗日の拳が握られた。
「……それを、僕に、壊れなくても人は変われる証拠だと言うのか?」
「違う!」
麗日の声が響いた。今までより、ずっと強い声だった。
「そんな言い方、違う!」
「何が?」
「あの人らは! 壊れたからデク君を受け入れたんやない!」
一歩前へ出る。
「では?」
「怖かったんや!」
麗日の声が震える。
「家族がおって! 守りたい人がおって! やっと安全な場所に来れたと思ったのに! AFOに狙われとるデク君が帰ってきた!」
「そうだな」
「怖くて当たり前やろ!」
「ああ」
「それでも!」
麗日は胸元を押さえた。
「あの人らは聞いてくれた! デク君がずっと一人で戦っとったことも! ボロボロになっとったことも! ヒーローだって人間なんだってことも!」
零無は黙って聞いている。
「それを……!」
麗日の目に涙が滲む。
「それを、社会が壊れたからやって一言で片付けんといて!」
「片付けてはいない」
「片付けてる!」
即座に返された言葉に、零無が僅かに目を細めた。
「金木君は、結果だけ見てる!」
麗日は止まらない。
「あの日、あそこにおった人、一人一人が何考えて! どんな顔して! 最後に何を選んだか見てへん!」
「見ていたよ」
「だったら!」
「だからこそ言っている」
零無の声も少しだけ強くなる。
「何故、あそこまで追い詰められる必要があった?」
「……!」
「何故、緑谷が一人で街を彷徨い、立っているのも難しくなるまで戦ってからなんだ?」
麗日が息を呑む。
「何故、社会が崩壊してから、ヒーローも人間だと気付く?」
「……」
零無の拘束された指が、僅かに握られる。
「変われたなら」
低い声だった。
「もっと早く変われ」
部屋が静まり返る。
「誰かが死ぬ前に。誰かがヴィランになる前に。誰かが家族を殺す前に。誰かが、自分を嫌いになる前に」
そして。
「どうして、壊れてからなんだ」
◇
麗日は何も言わなかった。涙を流しながら、それでも零無から目を逸らさない。
「……それでも」
「何?」
「それでも私は」
声を震わせながら言った。
「あの日、みんなが変わってくれたことを、間違いやなんて絶対思わん」
「ああ」
「金木君に何言われても思わん!」
「僕も思っていない」
即答だった。
麗日が止まる。
「素晴らしいことだったと思う」
「……じゃあ」
「だからこそ厄介なんだ」
零無は麗日を見る。
「君が正しかったことと、僕が間違っていたことが、両立してくれない」
「……」
「僕は、君に間違っていてほしかったわけじゃない」
零無は静かに続けた。
「僕が、間違っていてほしかった」
麗日の表情が変わった。
◇
八百万が再び口を開いた。
「ですが」
零無が彼女を見る。
「それは、結果から逆算した論理ではありませんか?」
「というと?」
「社会が崩壊した。その後に変化が起きた」
八百万は、言葉を選びながら続ける。
「ですが、その二つが続けて起きたからといって、社会の崩壊が、その変化に必要不可欠だった証明にはなりません」
零無は数秒考えた。
「ああ」
八百万の目が鋭くなる。
「良い指摘だ」
「でしたら――」
「なら、崩壊せずに、同程度の変化が起こり得たと考える根拠を挙げてくれ」
零無はすぐに続けた。
八百万が止まる。
「……」
「可能性だけなら、僕も否定していない。人間が平穏なまま、自発的に変われる可能性がゼロだとは言っていない」
「でしたら!」
「問題は、その可能性に、今生きている人間の命を賭けていいのかということだ」
零無の声が低くなる。
八百万の唇が僅かに結ばれる。
「社会はいつか良くなる。人々は少しずつ変わっている。制度も改善している」
零無の表情が、ほんの少し歪んだ。
「だから、待とう」
「……」
「僕は、その言葉が嫌いだ」
八百万は黙っている。
「待てる人間が、待てない人間に言うからだ」
静かな声だった。
◇
「いつまで?」
それは、誰に向けた問いでもなかった。
「僕の母は、待てなかった」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
透が僅かに顔を上げる。緑谷も飯田も耳郎も、誰一人として言葉を挟まなかった。
「僕を産んだ母は、死んだ」
零無の声は平坦だった。
「生まれ持った個性が、彼女の身体を、人生を、日常を、ずっと苦しめた」
誰も動かない。
「生まれた時から、自分の身体すら思うようにならない人だった」
零無は前を向いたまま続ける。
「社会は彼女を悪人にはしなかった。全員が彼女を迫害したわけでもない。医者もいただろう。制度もあった。助けようとした人間もいた」
そして、僅かに間を置いた。
「それでも、救えなかった」
緑谷が息を呑む。
「僕を育てた母も、まともな形では、誰にも救われなかった」
透が僅かに拳を握った。しかし、零無が彼女を見ることはなかった。
「そして、父はヴィランとして死んだ」
飯田が目を伏せた。
誰かが小さく息を吐く音だけが聞こえる。
「彼ら全員を、社会の被害者だったと言うつもりはない。父が犯した罪は父のものだ。母達がした選択まで全部社会のせいにすれば、それは嘘になる」
零無は顔を上げた。
「だが、個人に責任があることと、社会に責任がないことは、同じではない」
◇
障子が静かに口を開いた。
「……分かる部分はある」
皆が障子を見る。
「異形というだけで、最初から怖がられることはある」
低い声だった。
「何もしていなくても、見た目だけで距離を取られる。人として扱われないこともある」
「ああ」
零無は頷いた。
「僕が言いたいのは、まさにそういうことだ」
「露骨な差別は悪いと言えるようになった。だが、嫌悪を持つ自由、怖がる自由、距離を取る自由。一つ一つは、誰にでもある感情だ」
零無は障子を見る。
「だが、それが何百人分も積み重なれば、一人の人間を社会の外へ押し出せる」
障子は黙っている。
「しかも、誰も、自分を悪人だとは思わない」
零無は目を伏せた。
「そこが、一番厄介なんだ」
◇
砂藤が低い声で言った。
「でも、普通の人だって、毎日自分のことで精一杯だろ」
「ああ」
「全員が困ってる人に気付けるわけじゃない」
「その通りだ」
「だったら」
砂藤は零無を見る。
「それを全部、社会が悪いって言うのも違うんじゃないか?」
「だから、人間の善意に期待するなと言っている」
零無は答える。
砂藤が眉を寄せる。
「僕は、人間の善意は尊いと思っている。だからこそ、それを前提に社会を設計してはいけない」
部屋が静かになる。
「誰かが気付いてくれる筈。誰かが手を差し伸べてくれる筈。良い家族なら支えてくれる筈。良い教師なら異変に気付く筈。良い隣人なら声を掛ける筈」
そして、零無は続けた。
「そんな偶然の優しさに、人間の人生を委ねるな」
◇
「……でも」
口田が小さく言った。
全員の視線が彼へ向く。
「優しい人がいるから、助かる人も……いる」
零無は口田を見た。
「ああ」
その時だけ、ほんの少し声が柔らかくなった。
「いる。僕も、それは知っている」
一瞬だけ、何かを思い出すように目を伏せる。
「だから、優しさを否定しているんじゃない」
零無は顔を上げた。
「優しい人が偶然そこにいなければ終わる仕組みにするな」
口田はゆっくりと頷いた。
◇
「……じゃあさ」
峰田だった。いつになく真面目な声だった。
「お前、社会が悪いっていうけど、社会って結局、俺らみたいな奴の集まりだろ?」
部屋の空気が少し変わる。
「その……」
峰田は頭を掻いた。
「何かすげぇこと言おうとしてるわけじゃねぇぞ」
「分かっている」
「だったら途中で口挟むな!」
「悪かった」
「だから! 社会が変わんねぇのが悪いなら、俺ら一人一人も変わってねぇってことじゃん」
「そうだな」
「だったら……」
峰田は少し考えながら言葉を続けた。
「壊したところで、同じ奴らがまた同じもん作るんじゃねぇの?」
部屋が静かになった。
上鳴が峰田を見る。
「お前……」
「何だよ!」
「いや、普通に良いこと言ったから」
「うるせぇ!」
「いや」
零無が言う。
「かなり重要な指摘だ」
峰田が止まった。
「……マジ?」
「ああ。社会だけを壊せば、人間まで別の生き物になるわけじゃない。僕も、そこは問題だと思っている」
「じゃあ」
峰田の眉が寄る。
「やっぱ壊す意味なくね?」
「そうかもしれない」
峰田が目を丸くした。
「……え?」
「僕は最初から、僕の考えが絶対に正しいとは言っていない」
「いや!」
峰田が声を上げる。
「お前さっきからめちゃくちゃ自信満々じゃん!」
「自信がないから曖昧に話す方が、不誠実だろう」
「めんどくせぇ!」
「それは同意する」
◇
青山が静かに口を開いた。
「……人は、いつでも、一番正しい選択が出来るわけじゃないと思う」
零無が青山を見る。
青山は少し言葉を探した。
「怖かったり、何かを失いたくなかったり。そんな時に、後から見れば、間違いだったことを選ぶこともある」
一拍置く。
「だから、君にも、何か――」
「ない」
零無が遮った。
青山が止まる。
「少なくとも、それで僕のしたことを軽くする必要はない」
「……」
「僕がした。誰かのせいにするつもりはない」
青山はそれ以上何も言わなかった。
透も、まだ口を開かなかった。
◇
緑谷が零無を見つめる。
「もし」
「何?」
「君のお母さん達が、もう少し違う場所に生まれていたら」
零無は黙って聞いていた。
「お父さんも、もっと早く誰かに止めてもらえていたら」
緑谷はゆっくりと続ける。
「結果が違ったと思う?」
零無はすぐには答えなかった。
「分からない」
一拍置く。
「でも、違った可能性はある。その可能性を、社会はもっと真面目に扱うべきだったと思う」
零無の目が冷たくなる。
「人間がヴィランになってから、何故こうなったのかと分析する」
その表情には、はっきりと嫌悪が浮かんでいた。
「遅いんだよ」
誰も言葉を挟めなかった。
「人を殺してから、家庭環境に問題があった。学校で孤立していた。個性への偏見があった。支援に繋がっていなかった。もっともらしく並べる」
零無の声が低くなる。
「全部、事件になった後だ」
一拍。
「死んだ後だ」
◇
「だからって!」
切島が声を上げた。
「今生きてる奴を犠牲にしていいことには、なんねぇだろ!」
「ならない」
「だったら!」
「だから、僕が正義だという話をしているんじゃない」
零無の声にも、僅かな苛立ちが滲んだ。
切島が止まる。
「僕が人を傷付けた。悪い。君達を裏切った。悪い。僕の行動によって誰かが死んだなら、その責任も僕にある」
零無は淡々と事実を並べた。自分のしたことから目を背けようとはしない。
「そこを正当化する気はない」
そして、続けた。
「だからといって、元の社会が正しかったことにはならない」
切島が歯を食いしばる。
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ!」
零無は切島を見る。
「それを考えるのが、君達じゃないのか?」
「……!」
「ヒーローになるんだろう?」
挑発ではなかった。零無は本気でそう思っていた。
「僕は君達に期待している」
零無は生徒達へ視線を巡らせる。
「だから、この程度で難しいと言ってほしくない。僕の言葉が気に入らないなら、反論すればいい。僕の結論がおかしいなら、もっと良い結論を出してくれ。僕が見落としているものがあるなら、教えてくれ」
そして、零無の目が鋭くなった。
「ただし、僕達が仲間だったから。僕が可哀想だから。僕の母親が死んだから。父親がヴィランだったから」
そこで言葉を止める。
AFOに何をされたか。それだけは決して口にしない。
「そんな理由で、僕の言葉を受け入れるな」
静寂が落ちる。
「僕の過去は、僕の論の証明にはならない」
◇
「……それ」
上鳴が苦い顔で言った。
「友達に言う台詞かよ」
「友達だから言っている」
「……え?」
「君達なら考えられると思っている」
零無は淡々と続ける。
「出来ないと思っている相手に、こんな話はしない。適当に慰める。適当に同意する。そして何も期待しない」
上鳴は何も言えなくなった。
耳郎が小さく吐き捨てる。
「……そういうの、ホントずるい」
零無が見る。
「何が?」
「友達だって言葉だけ、都合よく残すとこ」
「都合がいい?」
「だってそうじゃん」
耳郎の声は低かった。
「こっちには、怒れ、考えろ、反論しろって言うくせに……」
少しだけ声が詰まる。
「零無は、自分がどう思われてもいいみたいな顔してる」
零無は少し黙った。
「僕がどう思われるかと、議論の内容は――」
「そういうとこ!」
耳郎が遮った。
「今その話してない!」
零無が止まる。
「……そうか」
「だから、それやめてって」
「何を?」
「すぐ話を整理して」
耳郎は零無を見る。
「自分だけ外に出るの」
零無は答えなかった。
◇
その間、透は何度も口を開きかけていた。
零無を見ては目を逸らし、また見つめる。その度に何かを言おうとして、結局は口を閉じてしまう。
この二日間、ずっと考え続けていたのだろう。
そして、ようやく口を開いた。
「じゃあ」
零無の視線が動く。
「私が言っても?」
「何を?」
「社会は変えられるって」
「構わないよ」
「私達が変える」
「うん」
「今度は、壊れる前に」
零無は透を見る。
「どうやって?」
透が言葉に詰まった。
零無は助け舟を出さなかった。
「……みんなで」
「誰と?」
「ヒーローも、市民も、みんな」
「参加しない人間は?」
「……」
「変化を嫌う人間は?」
「……」
「今の社会で利益を得ているから、変えたくない人間は?」
透の手が握られる。
「自分の家族を守るだけで精一杯の人間は? 他人のために、時間も金も使いたくない人間は? 自分とは違う個性を、生理的に怖いと思う人間は?」
「金木君!」
麗日が声を上げた。
「透ちゃんに、そこまで言わんでもええやろ!」
零無は麗日を見る。
「透だから聞いている」
「何で!」
「僕は彼女を馬鹿だと思っていない」
透が顔を上げる。
「彼女が僕に変えると言うなら、僕は、その言葉を真面目に扱う」
零無は透を見た。
「透」
「……何?」
「君は優しい」
透が息を呑む。
「だが、世界が君と同じくらい優しいことを前提にするな」
「……分かってるよ」
「本当に?」
「分かってる!」
透の声が大きくなった。
「零無みたいな人がいることも分かってる!」
「僕みたいな?」
「諦める理由ばっかり見つける人!」
部屋が静かになる。
「人は変わらないとか! 壊れなきゃ変われないとか!」
透は止まらない。
「そんなの、零無がもう期待したくないだけじゃん!」
「違う」
即答だった。
「僕は期待しているよ」
「嘘!」
「嘘じゃない」
「じゃあ何でこんなことしたの!」
零無は黙った。ほんの一瞬の沈黙を挟み、それでも答える。
「人間が変われないとは思っていない」
答えたのは、それだけだった。
「人間は変われる」
「だったら!」
「だが」
零無は続ける。
「痛い目を見るまで、自分が得をしている仕組みを手放さない人間は多い」
「……」
「追い詰められるまで、他人の痛みを、自分の問題として扱わない人間も多い」
麗日の表情が強張る。
「そして残念なことに、この数ヶ月の社会が、それをかなりの精度で証明した」
零無は全員を見た。
◇
「だから」
零無は僅かに表情を歪めた。
「僕は本当なら、君達に、僕が間違っていたと証明してほしかった」
緑谷が顔を上げる。
「金木君……」
「だが、実際に起きたのは逆だった」
零無は続ける。
「社会は壊れた。人々は、それまでの常識を疑った。麗日の言葉を聞いた。ヒーローも、一人の人間だと認めた。そして、少しだけ変わった」
一拍置く。
「僕が望んでいた変化が、僕が必要なのではないかと思っていた崩壊の後に起きた」
目を伏せる。
「皮肉なものだな」
「違う」
緑谷だった。零無が顔を上げる。
「何が?」
「それでも、君のやり方は間違ってる」
「理由は?」
「救うために、誰かを切り捨ててるからだ」
「ああ」
「今まで救われなかった人を助けるために、今いる人を犠牲にしたら」
緑谷は零無を見る。
「同じだよ」
零無は何も言わなかった。
「社会が誰かを見捨てたことを怒ってる君が、今度は、別の誰かを見捨てることになる」
「それは以前にも考えた」
「その上で?」
「ああ」
「それでもやったの?」
「そうだ」
緑谷の顔が歪む。
「……なんで」
「全員を救える選択肢が本当にあるなら、僕だって、そちらを選ぶ」
「だったら!」
「無いと思ったからだ」
「あるよ!」
「どこに?」
緑谷が止まる。
「これから探す」
零無はその言葉を黙って待った。
緑谷は続ける。
「今は、まだ答えなんてない。でも、それでも探す」
零無が問う。
「見つからなくても?」
「探す」
「その間に誰かが死んでも?」
緑谷の顔が歪む。
「それでも次は助ける!」
「次も間に合わなかったら?」
「その次を助ける!」
声が部屋へ響いた。
「何度失敗しても!」
緑谷は一歩前へ出る。
「そこで、もう無理だから壊そう、にはしない!」
零無は黙っている。
「君が諦めたものを」
緑谷は真正面から彼を見た。
「僕は諦めない」
◇
爆豪が鼻を鳴らした。
「やっとマシなこと言いやがったな」
「かっちゃん!?」
「けど、まだ甘ぇ」
爆豪は零無を見る。
「てめぇもだ」
「僕も?」
「壊さなきゃ変わらねぇ?」
爆豪が嗤う。
「んなもん、壊れてからしか変えられなかった奴らの結果論だろうが」
零無の目が僅かに鋭くなる。
「続けて」
「次は、壊れる前に変える」
「どうやって?」
「知らねぇ」
「……」
「だから、これからやるんだろ」
爆豪は吐き捨てる。
零無が口を開く。
「その間に――」
「死ぬ奴は、とか言うんじゃねぇぞ」
先に潰された。
「死なせねぇためにやるんだよ」
「全員を?」
「そうだ」
「不可能だ」
「だから何だ」
即答だった。
今度は零無が止まった。
「出来ねぇことまで、出来るつもりで動く」
爆豪は零無を睨む。
「随分と非合理的だな」
「ヒーローだからな」
零無は何も返さなかった。
敗北したわけではない。納得したわけでもない。ただ、その答えを本気で検討していた。
「……そういうものか」
「てめぇも雄英にいたんだから知ってんだろうが」
「知識としては」
「クソが」
爆豪は舌打ちした。
「頭良いくせに、一番大事なとこ馬鹿なんだよ」
「それは反論として扱えばいい?」
「好きにしろ!」
◇
誰も笑わなかった。
ただ、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。
その中で、透だけはまだ零無を見ていた。
「零無」
「うん」
「一個だけ答えて」
「内容による」
「私のためだった?」
部屋が静まり返った。
緑谷が透を見る。麗日も耳郎も、他の生徒達も、やがてその視線を零無へ向けた。
零無は透を見る。
「何が?」
「裏切ったこと」
「違う」
一瞬だった。
透の指が震える。
「……本当に?」
「ああ」
「私、関係ない?」
「ない」
「……」
「僕は、自分で決めた」
それだけだった。
透は零無を見つめたまま、再び口を開く。
「でも」
「何?」
「途中から、何かあったでしょ」
「ない」
「嘘」
「嘘じゃない」
「じゃあ」
透の声が震える。
「何であんなに、私にヒーローやめてほしそうだったの?」
零無は黙った。
「何で、危ないことする度に怒ったの?」
「友人が危険な職業を選べば、心配くらいする」
「それだけ?」
「ああ」
「……嘘」
「透」
「嘘だよ!」
声が響いた。
「ずっと一緒にいたんだよ!?」
零無は黙っている。
「中学からずっと!」
「……」
「零無が何考えてるか、全部分かるなんて言わない!」
透は泣いていた。
「そんなの無理だし! 分かんないことばっかりだった!」
「でも!」
一歩、前へ出る。
「今、嘘ついてることくらい分かるよ!」
零無は透を見る。
「そうか」
「そうかじゃない!」
「では、どう答えればいい?」
「本当のこと言ってよ!」
「言っている」
「言ってない!」
零無は何も返さなかった。
透は拳を握る。
「……私のせい?」
「違う」
「私が何かした?」
「していない」
「私がいたから?」
「違う」
「じゃあ何で!」
「僕が決めたからだ」
声は変わらなかった。
「僕が選んだ。誰に何を言われたわけでもない。誰かを守るためでもない。仕方がなかったわけでもない」
零無は一つずつ、自分自身へ罪を集めていく。
「僕がそうしたかったから、そうした」
透の顔が歪んだ。
「……最低」
「ああ」
「嫌い」
「それでいい」
「よくない!」
透が叫んだ。
「それも、勝手に決めないでよ!」
零無が止まる。
「社会のことも! 自分が何したかも! これからどうするかも! 全部一人で決めて!」
声が震える。
「でも……!」
透は泣きながら叫んだ。
「私が誰を好きで! 誰を嫌いになるかまで!」
一拍。
「零無が決めないで!」
零無の言葉が止まった。
「私の気持ちまで、勝手に整理しないでよ!」
「……」
「私が、零無をどう思うかは」
透は泣いたまま、真正面から言った。
「私が決める!」
長い沈黙が落ちた。
零無は透を見つめていた。
いつもなら、彼女の言葉を分解して前提を探し、矛盾を見つけて返していただろう。そうすることに、何の迷いもなかった筈だ。
だが、今は出来なかった。
「……それは」
零無は僅かに息を吐いた。
「君の言う通りだな」
透が顔を上げる。
「そこについては、僕に口を出す権利はない」
それだけだった。
謝らない。救いを求めない。そして、真実も話さない。
「でも」
透は泣いたまま言った。
「私、信じないから」
「何を?」
「今言ったこと」
「……」
「全部。零無が自分で決めたなんて、信じない」
零無は何も答えなかった。
否定すればいい。いつものように、論理的に。それだけで済む筈だった。
だが、何も言わなかった。
◇
「……金木」
瀬呂だった。
「何?」
「一個だけ、俺も言っていい?」
「ああ」
「お前さ」
瀬呂は少し顔を歪めた。
「社会が救えなかった奴のこと、ずっと数えてんじゃん」
「そうだな」
「なのに、自分だけ、数えてなくね?」
静寂が落ちる。
零無の眉が僅かに動いた。
「……どういう意味?」
「そのまんま」
瀬呂は答える。
「世界が良くなるなら、自分はどうなってもいい、みたいな顔してんじゃん」
耳郎が小さく言った。
「……それ」
全員が彼女を見る。
「私も思った」
上鳴も頷く。
「俺も」
八百万が続けた。
「あなたは、責任を取るという言葉で、ご自身だけを、処分可能な存在として扱っていませんか?」
零無は黙る。
峰田が眉を寄せた。
「いや、それ普通にズルくね?」
零無が見る。
「何が?」
「散々、人を見捨てんなって社会に怒ってんのに」
峰田は真面目だった。
「自分は見捨てていいんかよ」
「……」
「お前も、社会にいる人間の一人だろ」
零無は今度、すぐには答えなかった。
「自分で裏切ったから?」
瀬呂が聞く。
「だから、自分はもう、救われる側じゃないって?」
「そうは言っていない」
「でも」
耳郎だった。
「そうしてるじゃん」
「……」
「さっきからずっと、自分が悪い、自分が選んだ、自分が責任取る。そればっかり」
耳郎は零無を見る。
「事実だ」
「だから!」
再び声が強くなる。
「それで全部終わらせようとすんなって言ってんの!」
零無が黙る。
「文化祭の時はさ」
耳郎は一瞬、言葉を止めた。
「……困ってたら、普通に手伝ったじゃん」
「……」
「私が何も言えなくても、困ってることまでは分かったって、言ったじゃん」
零無の目が僅かに動いた。
「なのに」
耳郎は唇を噛む。
「自分のことだけ、誰にも分からせる気ないんだ」
返事はなかった。
「それ」
小さく呟く。
「ズルいよ」
◇
爆豪が鼻を鳴らした。
「図星じゃねぇか」
零無は少しだけ目を伏せる。
「……完全には、否定出来ない」
「ほら」
透の小さな声が聞こえた。
「やっぱり」
零無は透を見る。しかし、何も返さなかった。
◇
緑谷がゆっくり口を開いた。
「金木君」
「何?」
「次は、壊れる前に変えるよ」
零無は緑谷を見る。
「そうか」
「うん」
緑谷は続ける。
「君が、救えなかったって思ってる人達も、これから、同じように救われないかもしれない人も、最初から諦めない」
「出来ると思う?」
「思う」
「根拠は?」
「今はまだない」
「それでは、僕は納得出来ない」
「分かってる」
緑谷は一歩前へ出た。
「だから」
零無を真っ直ぐに見つめる。
「証明する」
零無は緑谷を見た。
長く、静かに。
「……全員を?」
「全員だ」
「それは不可能だと、僕は思っている」
「僕は思わない」
「失敗する」
「するかもしれない」
「救えない人間も出る」
緑谷の顔が僅かに歪む。それでも、視線は逸らさなかった。
「その人を、最初から仕方なかったことにはしない」
零無が止まった。
緑谷は続ける。
「間に合わなかったら悔やむ。何で間に合わなかったのか考える。次は間に合わせる」
「それでも、また失敗したら?」
「また考える」
「何度でも?」
「何度でも」
「非効率だな」
「うん」
「合理的でもない」
「うん」
「それで社会を変えられる保証もない」
「ない」
緑谷は全部認めた。
そして、零無を見た。
「でも、君みたいに、最初から誰かを諦めるよりいい」
零無は黙る。
「君自身も含めて」
その一言で、部屋が静かになった。
零無の目が僅かに動く。
緑谷は続けた。
「君もだよ」
「……僕?」
「うん」
「何故?」
本気で分からないような問いだった。
緑谷の表情が歪む。
「何でって……」
「僕は君達を裏切った」
「知ってる」
「敵へ情報を流した」
「知ってる」
「僕の行動で、危険に晒された人間もいる」
「分かってる」
「なら」
「それでもだよ」
緑谷は遮った。
「それを無かったことにはしない。許すとも、今は言えない」
一拍置く。
「でも」
緑谷は零無を見る。
「だからって、君を最初から、救われない側に置いたりしない」
「……」
「だって」
少しだけ声を落とす。
「それをやったら、君がずっと怒ってた社会と、同じになる」
零無は何も言わなかった。
誰も急かさない。静まり返った部屋に、拘束具の鳴る音が僅かに響いた。
やがて、零無は小さく息を吐いた。
「……なるほど」
それだけだった。
緑谷は続ける。
「次は、壊れる前に変える」
「そうか」
「絶対に証明する」
零無は緑谷を見る。
その目に挑発も嘲笑もない。
「なら、やってみればいい」
静かな声だった。
「うん」
「期待しているよ」
その言葉だけは、この部屋の誰よりも重かった。
◇
零無は退かなかった。
母達が救われなかったことも、父が犯した罪も忘れない。事件になるまで誰にも見つけてもらえなかった人間達のことも、忘れるつもりはなかった。
今の社会に怒っている。
救えなかった人間を、仕方のない犠牲として切り捨てることに怒っている。平穏な場所にいる人間が、今まさに救われずにいる人間へ、少しずつ良くなると言えてしまうことにも。
そして何より、変われた筈なのに、壊れるまで変わらなかったことに怒っていた。
その怒りは嘘ではない。
だから、使った。
本当のことを、本当の理由を隠すために。
ただ理由を話さないだけでは、彼らは追及を止めない。だから、代わりの理由が必要だった。嘘ではないものを使い、嘘をつく必要があった。
零無は本当にこの社会へ怒っている。一度壊れなければ変われないのではないかと、本気で考えたこともある。そして実際に、雄英の情報をAFOへ渡した。
その三つを、一つの線で結んだ。
まるで、最初からそれが自分がAFOへ従った理由だったかのように。
そこに別の何かがあったとは、一言も言わなかった。
透の名前を理由の中へ入れない。誰にも入れさせない。AFOが何をしたのかも、決して語らない。
事情を知られれば、自分の罪が薄まる。少なくとも、彼らはそう考えるかもしれない。
それを零無は許さなかった。
だから、全てを自分へ向けた。
自分が選んだ。自分が情報を渡した。自分が裏切った。自分が悪い。
それだけでいい。その筈だった。
だが、この部屋へ入る前より、答えにくくなった問いがある。
社会が救えなかった人間を、仕方のない犠牲として切り捨てることを許せないのなら。
何故、自分だけは最初から、救われる人間の数に入れていないのか。
――君自身も含めて。
緑谷の言葉が残っている。
耳郎の言った、自分のことだけは誰にも分からせる気がないという指摘も。
透が涙ながらに訴えた、自分の気持ちは自分で決めるという言葉も。
そして、八百万から向けられた、自分だけを処分可能な存在として扱っていないかという問いも。
どれも、すぐには否定出来なかった。
それが零無には、何より厄介だった。