「正しい答え」 作:はい
扉が開いた。
零無は顔を上げる。
そして、ほんの僅かに目を見開いた。
「……先生」
松葉杖をつきながら、ミッドナイトが入ってくる。
まだ完全には回復していない。身体には包帯が残り、歩く速度も以前とは比べものにならないほど遅い。片脚を庇うたび、松葉杖の先が床を小さく叩く。
それでも、表情だけは昔と変わらなかった。
「久しぶりね、零無」
「病室で会ったでしょう」
「そういうところ」
「何がです?」
「可愛くないところ」
零無は少し黙った。
「今更でしょう」
「ええ」
ミッドナイトは向かいの椅子へゆっくり腰を下ろし、松葉杖を壁へ立てかける。
「昔から可愛くなかったもの」
「……」
「でも」
彼女は零無を見る。
「もう先生って呼んでくれないかと思った」
零無の眉が僅かに動く。
「何故です?」
「何故って……今の状況で?」
「僕が何をしたかによって、先生が僕の教師だったという事実が遡及的に消滅するわけではないでしょう」
「ほんっと可愛くない」
「二回目です」
「何回でも言うわ」
零無は小さく息を吐いた。
「それで」
「何?」
「相澤先生に言われて来たんですか?」
「違うわ」
「では?」
「私が来たかったから」
零無の視線が、彼女の松葉杖へ落ちる。
「身体は大丈夫なんですか」
ミッドナイトが止まった。
「……何です?」
「あなた」
少し笑う。
「第一声はそれじゃなかったわね」
「ええ」
「でも気になってた?」
「当然でしょう」
「どうして?」
「どうして、とは?」
「私が怪我しているから?」
「それ以外に何があります?」
「恩人だから?」
零無の目が僅かに変わった。
「……随分と直接的ですね」
「あなた相手に遠回しに話しても、全部理屈にされちゃうもの」
「直接話しても同じですよ」
「でしょうね」
ミッドナイトは脚の位置を直す。
その瞬間だけ、表情が僅かに歪んだ。
零無の視線がすぐにそこへ落ちる。
「まだ痛むんですね」
「ええ」
「無理をして来る必要はなかったでしょう」
「あなたがそれ言う?」
「僕と先生は別です」
「出た」
「何がです?」
「昔からそれよ」
零無の眉が僅かに動いた。
「昔?」
ミッドナイトは少しだけ目を細める。
「覚えてる?」
声音が変わった。
「初めて会った日のこと」
沈黙。
「……概ね」
「嘘」
「何故そう思うんです?」
「あなた、覚えてる時ほど曖昧な言い方するもの」
零無は答えない。
ミッドナイトは、それを肯定と受け取った。
◇
「あの日、最初は本当にちょっとした違和感だった」
「……」
「妙に静かな家だった。それだけなら珍しくもない。でも、生活の痕跡はちゃんとあったのよ」
彼女は一つずつ思い出すように話す。
「洗濯物は干されていた。食器も洗ってあった。冷蔵庫には最低限の食べ物が入っていた。日用品も切らしていなかった。ゴミも溜まっていなかった」
零無は黙って聞いている。
「綺麗だったわ」
「……」
「綺麗すぎたのよ」
零無の指が僅かに動く。
「子供がいる家なのに、散らかった玩具もない。適当に脱ぎ捨てた服もない。食べかけのお菓子もない」
「僕は元々、そういうものを散らかす方では――」
「そういう話じゃない」
ミッドナイトは遮った。
「生活が整っていたんじゃない。維持されていたの」
「……」
「誰か一人が止めたら、全部崩れるから」
零無は何も言わない。
「あの家には大人がいた。でも、大人が子供の面倒を見ている家じゃなかった」
ミッドナイトは真っ直ぐ彼を見る。
「子供が、大人と自分の生活を維持している家だった」
零無が口を開く。
「それは――」
「出来てた?」
先に言われる。
零無が止まった。
「言おうとしたでしょ」
「……」
「家事は出来ていた。食事も用意出来た。学校にも行っていた。お母さんの薬も管理していた。だから生活に問題はなかった」
「違う?」
数秒。
「概ね、その通りです」
「昔のあなたも同じこと言ったわ」
ミッドナイトは小さく笑う。
けれど、その目は笑っていなかった。
◇
「お母さんは?」
『体調を崩しています』
「病院は?」
『必要ありません』
「薬は?」
『飲んでいます。昨日も確認しました』
「ご飯は?」
『僕が用意しています』
「あなたは?」
『僕は大丈夫です』
「困っていることは?」
『特には』
零無の目が僅かに伏せられる。
「……よく覚えていますね」
「忘れると思う?」
「仕事柄、似たような家庭を見ることもあったでしょう」
「だからって全部同じにはならないわよ」
ミッドナイトは続ける。
「あなたのお母さんは、かなり不安定だった」
零無の視線が止まる。
「……ええ」
「日によって全然違った」
「そうですね」
「あなたにしがみついて離れない日もあった。あなたを自分から遠ざけようとする日もあった」
「……」
「あなたを愛しているって泣く日もあれば、あなたを見て取り乱す日もあった」
零無の表情は動かない。
ミッドナイトだけが、あの日見た部屋を思い出していた。
壁際に倒れた椅子。
床に散った薬の包装。
途中まで水の入ったコップ。
そして、何度も洗ったのだろう、赤く荒れた子供の手。
「あなたは、お母さんの機嫌が悪い時には近付かないようにしてた」
「経験則です」
「薬を飲んだ後は様子を見る」
「必要でしたから」
「眠れない夜は一緒に起きていた」
「一人にしておく方が危険なことがあったので」
「学校へ行く前に食事を置いて、帰宅したら残っているか確認する」
「ええ」
「自分が食べたかは?」
零無は少し間を置いた。
「必要量は摂取していました」
ミッドナイトが目を細める。
「その答えよ」
「何がです?」
「お腹が空いたとか、美味しかったとかじゃない」
一拍。
「必要量」
「事実でしょう」
「そうね」
彼女は否定しない。
◇
「お母さんのこと、嫌いだった?」
その問いには。
零無もすぐには答えなかった。
「……単純な質問ではありませんね」
「じゃあ、単純じゃなく答えて」
長い沈黙。
「嫌いな時はありました」
「うん」
「理不尽でしたから」
「うん」
「僕に向けられる言葉にも、行動にも、正当な理由がないことは多かった」
ミッドナイトは黙って聞く。
「ですが」
零無は少しだけ視線を落とす。
「嫌いだったからといって、愛していなかったことにはならないでしょう」
「ならないわ」
「母も僕を愛していたと思います」
「そうね」
「それが健全だったかどうかは別として」
「ええ」
「僕を傷つけることもあった。僕を必要とすることもあった。僕を拒絶することもあった。それでも」
零無は一度言葉を選んだ。
「僕の母でした」
ミッドナイトの目が僅かに柔らかくなる。
「そうね」
「だから」
零無は淡々と続ける。
「僕が面倒を見ることに、当時は特に疑問はありませんでした」
「そこなのよ」
「何がです?」
「子供が親を愛することはおかしくない」
「ええ」
「具合の悪い親を心配するのもおかしくない」
「そうでしょうね」
「でもね」
ミッドナイトの声が少し低くなる。
「子供が一人で、親の生死まで管理するのはおかしいのよ」
零無は黙る。
「薬を飲んだか」
「呼吸しているか」
「今日は暴れないか」
「火を使わせても大丈夫か」
「一人にして学校へ行っていいか」
「帰った時に生きているか」
「それを毎日、子供が考えるのは普通じゃない」
零無は僅かに眉を寄せた。
「しかし、誰かがする必要はありました」
「そう」
「当時、他にいなかった」
「ええ」
「なら僕がするのが合理的でしょう」
「合理的だったわ」
ミッドナイトは静かに答える。
「でも、正しかったわけじゃない」
零無が顔を上げる。
「違いが分かる?」
「言わんとしていることは」
「本当に?」
「……」
ミッドナイトはそれ以上追わなかった。
◇
「あの日、あなたの家に入った時」
彼女はゆっくり息を吐く。
「お母さんは、もう亡くなっていた」
空気が変わった。
零無の指が僅かに動き、拘束具が小さく鳴った。
「……ええ」
朝から。
母の様子はおかしかった。
それ自体は珍しくなかった。
前夜はほとんど眠らず、何度も部屋を歩き回り、朝方になってようやく静かになった。
零無は学校へ行く前に様子を確認した。
呼吸はあった。
薬も置いた。
水も置いた。
カーテンを少し閉めた。
昼の分の食事を用意して。
『行ってきます』
返事はなかった。
それも珍しくはなかった。
帰宅した時。
家は朝より静かだった。
靴を脱いで。
鞄を置いて。
台所を見る。
昼食には手が付けられていなかった。
まず。
薬を確認した。
減っていない。
次に。
寝室へ向かった。
呼び掛けた。
返事はなかった。
それでも。
その時点ではまだ。
零無は走らなかった。
何度もあったからだ。
返事をしない日も。
寝たまま起きてこない日も。
零無は母の傍へ行き。
肩に触れた。
冷たかった。
そこで初めて。
朝とは違うことが分かった。
◇
「あなた」
ミッドナイトは静かに言う。
「最初に何をしたか覚えてる?」
「……」
「救急に連絡した」
「当然でしょう」
「その次」
零無は答えない。
「脈を確認した」
「……ええ」
「呼吸を確認した」
「ええ」
「蘇生もした」
零無の視線が下がる。
「必要な処置です」
「何分?」
「覚えていません」
「嘘ね」
「……」
「あなた、手が痛くなるまで続けてた」
零無の指が僅かに握られる。
「救急の人に止められるまで」
「……」
「もう戻らないって言われても」
「……」
「一回だけ」
ミッドナイトは言葉を止めた。
「あなた、もう一度確認したの」
零無が顔を上げる。
「何を?」
「本当に、もう何もしなくていいのかって」
沈黙。
「覚えてない?」
長い間。
零無は答えなかった。
やがて。
「……覚えています」
それは。
今夜初めて。
彼がはっきり認めた記憶だった。
「救命処置を続ける意味がないなら、別のことをする必要があると思いました」
「そう」
「死亡後の手続きが必要でしょう」
「そうね」
「学校への連絡も」
「うん」
「家の契約や、金銭管理も」
ミッドナイトの表情が僅かに歪む。
「あなた、あの時まだ子供だったのよ」
「年齢によって必要な処理が消えるわけではありません」
「そこよ」
ミッドナイトは小さく首を振った。
「私があなたを保護すると言った時、何て言ったか覚えてる?」
「さあ」
「『僕のことは大丈夫です。必要な手続きだけ教えてください』」
沈黙。
「……」
「母親が死んだばかりの子供が言う台詞じゃない」
「当時の僕には必要な情報だったのでしょう」
「そうね」
否定しない。
「あなたには必要だった」
零無が顔を上げる。
「悲しむより先に、次に何をすれば生活が続くのかを考えた」
「……」
「誰に連絡するか。学校をどうするか。家はどうなるか。お金はどこにあるか。お母さんの遺品をどうするか」
ミッドナイトは一つずつ並べる。
「誰が悪いか」
「何が起きたか」
「自分に何が出来たか」
「もっと早く気付けなかったか」
「もっと早く病院へ連れていけなかったか」
零無の表情が、ほんの僅かに硬くなる。
「これから何をすればいいか」
「そうやって全部、順番に並べた」
「それの何が問題なんです?」
ミッドナイトは少し黙った。
「その質問を」
彼女は静かに言う。
「あなた、今でもするのね」
「答えてください」
「いいわ」
真っ直ぐ零無を見る。
「自分が辛いってことだけ、項目に入ってない」
零無が黙る。
「お母さんが大変だった」
「家事をしなきゃいけなかった」
「母親を一人に出来なかった」
「生活を続けなきゃいけなかった」
「自分がもっと早く誰かに助けを求めれば良かった」
「全部考えた」
「でも」
一拍。
「自分が辛かった、は?」
「それを考えて何になります?」
即答だった。
ミッドナイトは目を細める。
「ほら」
「何です?」
「変わってない」
「……」
「あの時から」
ミッドナイトは続ける。
「自分が我慢出来ることを、問題に数えない」
零無は少し眉を寄せた。
「耐えられるのであれば、優先順位が下がるのは当然でしょう」
「誰の?」
「僕のです」
「だからよ」
「……?」
「他人が辛いなら問題」
「自分が辛いなら、耐えられるから問題じゃない」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「僕は自分だけを特別扱いしているつもりはありません」
「逆」
ミッドナイトは即答する。
「自分だけを人間扱いしてないの」
零無の目が止まった。
「……随分な言い方ですね」
「気に入らない?」
「正確ではないと思います」
「なら反論してみて」
「僕は自分の利益も考慮します」
「例えば?」
「生存が必要なら生存する」
「必要なら?」
「ええ」
「生きたいから、じゃなくて?」
零無が黙る。
「ほら」
「……言葉遊びでしょう」
「あなたが一番得意なやつね」
「それは否定しません」
◇
ミッドナイトは小さく息を吐いた。
「それで」
零無を見る。
「透ちゃん」
空気が変わった。
「……彼女が何か?」
「人質にされてたんですって?」
「そうですね」
「AFOに」
「ええ」
「どうして言わなかったの?」
「既に何度も説明しました」
「私にはしてない」
「同じ説明になりますよ」
「聞かせて」
零無は少し考える。
「彼女に危害を加えられる可能性があった。情報を共有すれば、それがAFO側に察知される危険がある。僕一人が要求を受け入れることで、その危険を抑えられると判断した」
「それで?」
「以上です」
「嘘」
零無の目が細くなる。
「何がです?」
「それだけじゃない」
「何故そう思うんです?」
「あなたを知ってるから」
「それは根拠として――」
「じゃあ聞き方を変える」
ミッドナイトが遮った。
「透ちゃんじゃなかったら?」
零無が止まる。
「……条件によります」
「クラスメイトの誰か」
「救出方法を検討します」
「自分が人質なら?」
「無視します」
即答。
ミッドナイトの表情から笑みが消える。
「……」
「合理的でしょう」
「そうね」
「なら――」
「私なら?」
零無が止まった。
「……」
「私が人質だったら?」
数秒。
「同様の判断をした可能性はあります」
「透ちゃんと同じ?」
「条件次第です」
「逃げない」
「逃げてはいません」
「じゃあ答えて」
長い沈黙。
「……かなり優先順位は高かったでしょう」
「そう」
「先生には恩がありますから」
ミッドナイトの目が僅かに細くなる。
「それ」
「何です?」
「私を助けた時も言ったわね」
零無は黙る。
◇
あの戦い。
森。
倒れたミッドナイト。
敵に囲まれた彼女の前へ、零無が現れた。
『何で来たの』
血を流しながらミッドナイトは聞いた。
零無は周囲を確認しながら答えた。
『借りがありますので』
あの時と。
同じ言葉。
◇
「先生?」
「私」
ミッドナイトは静かに言った。
「あなたに貸した覚えないんだけど」
「僕が借りたと認識しているなら成立するでしょう」
「しない」
「何故?」
「子供を助けたのよ」
「それがヒーローの仕事だったとしても――」
「そうよ」
「なら」
「だから返さなくていいの」
零無の眉が僅かに寄る。
「理解出来ません」
「でしょうね」
「僕は先生に救われた」
「ええ」
「それによって僕の人生は継続した。その後、先生が生命の危機にあった。僕には救助する能力があった。なら助けるのは当然でしょう」
「恩がなくても?」
「……」
「他のヒーローだったら、同じ危険を冒した?」
「状況によります」
「私だから行ったんでしょう」
沈黙。
「ええ」
「なら恩返し?」
「そうです」
「違うわ」
ミッドナイトの声が強くなる。
「何が違うんです?」
「命で返すような恩を、私はあなたに売った覚えがない」
零無が黙る。
「先生」
「何?」
「僕は死んでいません」
「結果論ね」
「生存可能性は計算していました」
「高かった?」
零無は答えない。
「ほら」
「結果として助かりました」
「あなたがね」
ミッドナイトは自分の身体を見る。
「私も」
「なら問題は――」
「ある」
「何故?」
「あなた」
彼女の声が低くなる。
「私が死ぬのと、自分が死ぬのを天秤に載せたでしょう」
「緊急時なら当然です」
「それで私を残した」
「……」
「昔と同じ」
「違います」
零無の返答が少し速くなる。
「何が?」
「あの時とは状況が――」
「状況の話じゃない」
ミッドナイトが遮る。
「あなたが、自分の方なら失っても構わないって結論を出すのが早過ぎるって話」
「僕は既に、その点について何度も――」
「言われた?」
零無が黙る。
「透ちゃんにも?」
「……ええ」
「消太にも?」
「ええ」
「じゃあ私で三回目ね」
「人数は主張の正しさと関係ありません」
「そういう返しすると思った」
「なら聞かないでください」
◇
ミッドナイトは少しだけ笑った。
だが。
すぐに表情を戻す。
「私はね」
静かに言う。
「あの森であなたを見た時、嬉しくなかった」
零無の表情が変わる。
「……何故?」
「怖かった」
「先生が?」
「ええ」
「僕が助けに来たことが?」
「そう」
「理解出来ません」
「あなたが死ぬと思ったから」
「……」
「私を助けるために、昔、私が助けた子供が、今度は私の目の前で死ぬかもしれないと思った」
零無は黙る。
「そんなの」
ミッドナイトの声が僅かに震えた。
「救った意味がないじゃない」
「それは違う」
すぐに返ってきた。
「違わない」
「先生が僕を救ったから、その後の人生が存在した。その時間まで否定される理由は――」
「そうじゃない!」
初めて。
ミッドナイトが声を荒らげた。
零無が止まる。
「私は」
彼女は一度呼吸を整える。
「あなたに何年生きたら返済完了なんて条件を付けて助けたんじゃない」
「……」
「十年生きたから、もう死んでも収支はプラス?」
「そんな話ではないでしょう」
「あなたの話は、そう聞こえるのよ」
「違います」
「じゃあ何」
零無は口を開く。
止まる。
「……」
「言って」
長い沈黙の末。
「僕は」
零無は少し考えた。
「先生を死なせたくなかった」
静かになった。
ミッドナイトは彼を見る。
零無も目を逸らさない。
「それだけ?」
「……少なくとも、主要な理由でしょう」
「またそうやって」
「何です?」
「感情が出た途端に言い換える」
「正確にしただけです」
「可愛くない」
「三回目ですよ」
「まだ数えてたの?」
ほんの僅かにミッドナイトが笑う。
零無の肩からも、僅かに力が抜けた。
◇
だが。
零無はすぐに尋ねた。
「先生」
「何?」
「僕を救ったことを後悔していますか?」
ミッドナイトの表情が変わる。
「何で?」
「僕は結果としてAFOに情報を流した。多くの人間を危険に晒した。先生自身も、その戦いで死にかけた」
一拍。
「僕をあの日保護しなければ――」
「馬鹿」
零無が止まる。
「……」
「今」
ミッドナイトは睨んでいた。
「本気で怒ったわ」
「事実関係を――」
「黙りなさい」
珍しく。
零無が本当に黙った。
「あなたを助けたことと、あなたが後にしたことを、勝手に一本の線で繋げないで」
「ですが――」
「私があの日あなたを見捨てていたら、あなたは裏切らなかった?」
「それは検証不能です」
「でしょうね」
「なら、私があなたを助けたことが間違いだったかも検証不能」
「……」
「それに」
ミッドナイトは続ける。
「もし全部知っていても」
一拍。
「あの日に戻ったら?」
零無は彼女を見る。
「私は同じことするわ」
「……」
「家に入る」
「あなたを見つける」
「保護する」
「何度でも」
零無の声が少しだけ小さくなる。
「何故?」
「子供だったから」
「それだけですか?」
「それだけで十分よ」
「……」
「子供が一人、誰にも助けを求めず、自分で全部何とかしようとしてた」
ミッドナイトは笑わない。
「助ける理由として、それ以上必要?」
零無は答えない。
長い沈黙。
◇
やがて。
「それは」
零無が言った。
「先生個人の善意でしょう」
ミッドナイトの目が細くなる。
社会の話へ戻った。
「僕が救われたことは事実です。先生が優れたヒーローだったことも否定しません」
「ですが」
零無の目が鋭くなる。
「僕が先生に発見されたという偶然を、社会が正常に機能していた証拠には出来ない」
「……」
「先生があの日、別の場所にいたら?」
「別の事件を担当していたら?」
「僕の家を通らなかったら?」
「僕の説明をそのまま信じていたら?」
「……」
「僕は救われなかったかもしれない」
ミッドナイトは黙って聞く。
「僕は運が良かった」
「それを、救済制度と呼ぶのは無理があるでしょう」
「ええ」
即答だった。
零無が止まる。
「……認めるんですか」
「認めるわよ」
「なら」
「救われなかった子供もいる」
「いるでしょうね」
「これからも?」
「いる」
「なら――」
「だから探すの」
零無が黙る。
「全員を?」
「無理かもしれない」
「それでは――」
「それでも探す」
「非合理的ですよ」
「知ってる」
「先生一人の善意に依存する社会なんて――」
「駄目でしょうね」
また止められる。
零無の眉が寄った。
「……今日は随分と話しにくいですね」
「あなたが言いそうなこと、大体分かるもの」
「それは困ります」
「長い付き合いだから」
ミッドナイトは続ける。
「だから制度も変える。見つけられる仕組みを増やす。助けを求められない子を見つける人を増やす」
「それでも零れる人はいる」
「ええ」
「その人達には?」
「ごめんなさいって言うしかないこともある」
零無の目が鋭くなる。
「それで済むと?」
「済まない」
「なら――」
「済まないから、次を救うの」
「……」
「あなたの母親達を救えなかったことは」
ミッドナイトは静かに言う。
「これから別の誰かを救っても帳消しにはならない」
零無の表情が硬くなる。
「……」
「あなたの言う通りよ。死んだ人は戻らない。これから社会を良くしますって言っても、その人達には遅い」
「……」
「だから忘れない」
「それだけですか?」
「それだけしか出来ないこともある」
「僕には」
零無の声が僅かに低くなる。
「それでは足りない」
「知ってる」
「……」
「あなたには足りないでしょうね」
否定しない。
「だって」
ミッドナイトは彼を見る。
「あなたのお母さん達だもの」
零無が黙る。
「他人にとって統計でも、あなたにとっては一人一人でしょう」
「……ええ」
「だったら譲れなくて当然」
「……」
「でもね」
ミッドナイトは続ける。
「その人達を忘れないことと、次の誰かを犠牲にすることは同じじゃない」
「僕は犠牲そのものを目的には――」
「知ってる」
「……」
「あなたがそんな人間じゃないことくらい、知ってるわ」
零無の目が僅かに動く。
「だから余計に腹が立つの」
「何故?」
「次の誰かに、自分だけは平気で入れられるから」
また。
そこへ戻ってくる。
◇
零無は小さく息を吐いた。
「先生」
「何?」
「その話は相澤先生にもされました」
「消太も?」
「ええ」
「何て?」
「勝手に自分の人生を刑罰に追加するな、と」
ミッドナイトが少し笑う。
「消太らしい」
「生きて払え、とも」
「いいこと言うじゃない」
「随分と非合理的ですが」
ミッドナイトは呆れた顔をする。
「透ちゃんにも、クラスの子達にも、消太にも言われたんでしょう?」
「ええ」
「それで今度は私」
「人数は真偽と関係ありません」
「可愛くない」
「四回目です」
「五回目も言えるわよ」
零無は僅かに口元を緩めた。
そして。
「先生」
「何?」
「僕は」
少し間を置く。
「先生に救われたことを、後悔していません」
ミッドナイトは黙った。
ほんの僅かに目を見開いて。
それから。
柔らかくなる。
「……そう」
「ええ」
「それは良かった」
「ですが」
「まだあるの?」
「あります」
「でしょうね」
零無は彼女を見る。
「先生に救われたからといって、僕の社会に対する考えを変えるつもりはありません」
「いいわよ」
「……」
今度は零無が止まった。
「いいんですか?」
「何で私が決めるの?」
「……」
「あなたが何を考えるかは、あなたの自由」
「私はあなたの考えを全部肯定しない」
「あなたも私の考えを全部肯定しない」
ミッドナイトは肩を竦める。
「それでいいでしょう」
「僕は実際に裏切りました」
「だから責任は取りなさい」
「……」
「考えることと、実際に何をするかは別よ」
零無の目が僅かに細くなる。
「相澤先生と同じことを言いますね」
「嫌?」
「いいえ」
「ならいいじゃない」
◇
ミッドナイトは松葉杖を取る。
立ち上がろうとした瞬間。
零無が反射的に身体を動かした。
拘束具が鳴る。
ミッドナイトが見る。
「……何です?」
「今、手伝おうとした?」
「転倒されると困るので」
「どうして?」
「怪我人でしょう」
「恩人だから?」
零無が露骨に嫌そうな顔をした。
ミッドナイトが笑う。
「冗談よ」
「趣味が悪いですね」
「知ってるでしょ?」
ゆっくり立ち上がる。
そして扉へ向かう。
「零無」
「はい」
「最後に一つ」
「何でしょう」
ミッドナイトは振り返った。
「私を助けてくれて、ありがとう」
零無は黙った。
「……」
「言ってなかったでしょう?」
「必要ありません」
「私にはあるの」
零無の目が僅かに動く。
今日。
似たような話をした。
自分には必要がない。
だが。
相手に必要がないとは限らない。
「……そうですか」
「ええ」
ミッドナイトは微笑む。
「だから言わせて」
「……」
「助けてくれて、ありがとう」
長い沈黙。
零無は視線を僅かに下げた。
そして。
「先生」
「何?」
「それなら」
一度。
言葉を選ぶ。
「僕の方も」
ミッドナイトは待つ。
「……あの日」
零無はゆっくり言った。
「僕を見つけてくれて、ありがとうございました」
ミッドナイトの表情が止まる。
零無は続けない。
感謝の理由も。
救われた後の人生も。
何も説明しない。
ただ。
それだけ。
だからこそ。
ミッドナイトはしばらく何も言えなかった。
やがて。
少しだけ目を細める。
「どういたしまして」
◇
扉を開ける。
「それと」
振り返る。
「次に誰かを助ける時は、自分も助ける人数に入れなさい」
零無は少し眉を寄せる。
「……それも今日、何度も言われました」
「なら覚えやすくていいじゃない」
「そういう問題ではありません」
「約束」
「無条件には出来ません」
ミッドナイトが目を細める。
「零無」
「透にも似た約束をしました」
「へえ」
零無は僅かに嫌な予感がしたような顔をする。
「……何です?」
「別に?」
「その顔は何です?」
「後で詳しく聞こうかなって」
「やめてください」
「じゃあ約束」
「取引になっているでしょう」
「早く」
零無は小さく息を吐いた。
「……努力します」
「まだ弱い」
「僕自身を救える可能性も、最初から除外しない」
ミッドナイトが黙る。
零無は続けた。
「これでどうです?」
「随分進歩したわね」
「今日一日で同じ論点を何度も提示されましたから」
「人数は真偽と関係ないんじゃなかった?」
「……」
ミッドナイトが笑う。
零無は少しだけ眉間を押さえたかったが、拘束されているので出来なかった。
「先生」
「何?」
「性格が悪いですね」
「今更でしょう?」
どこかで聞いた言葉だった。
零無は何も返さなかった。
ミッドナイトは満足そうに笑う。
「大人を舐めないことね」
扉が閉まった。
◇
一人になった零無は。
しばらく閉じた扉を見ていた。
彼女に救われた。
それは事実だ。
あの日。
母親の亡骸の傍で。
何をすればいいのかを順番に考えていた自分を。
「この子は大丈夫だ」
と見過ごさなかった人間がいた。
自分が「大丈夫です」と言っても。
信じなかった。
自分が「必要な手続きだけ教えてください」と言っても。
子供一人に任せなかった。
それによって。
自分の人生は続いた。
そして。
金木零無自身は。
そのことを後悔していない。
◇
だからといって。
救われなかった者が消えるわけではない。
ヒーロー社会の欠陥が消えるわけでもない。
実母が戻ってくるわけでもない。
育ての母が戻ってくるわけでもない。
もっと早く。
誰かが見つけていれば。
自分ではなく。
大人が。
制度が。
社会が。
彼女達が生きている間に手を伸ばしていれば。
違った可能性は。
今でもあると思っている。
だからといって。
社会に対する彼の考えが。
それだけで覆るわけではない。
少なくとも。
それほど単純なものではない。
◇
ただ。
今日。
何度も同じ場所へ戻された。
透に。
A組の皆に。
相澤に。
そして。
自分を実際に救ったミッドナイトに。
自分を。
救われる側から勝手に外すなと。
理屈なら。
反論出来る。
状況次第では自分を犠牲にすることが最も合理的な場合もある。
全員を救えるとは限らない。
自分一人を失うことで多数を救えるなら、それを選択肢から除外することこそ非合理的だ。
それは今でも変わらない。
◇
だが。
一つだけ。
以前より扱いにくくなった事実がある。
自分は。
あの日。
救われた。
そして。
救われて良かったと思っている。
もし。
あの日の自分が。
今の自分と同じように。
「僕を助ける必要はありません」
「他を優先してください」
そう言ったとして。
ミッドナイトがそれを受け入れていたら。
今の自分は存在しない。
そして。
その結末を。
今の自分は望んでいない。
「……」
零無は拘束された両手を見る。
それなら。
少なくとも。
自分自身を救済の対象から最初から除外することを。
当然の前提には出来ない。
透に言われた時には。
彼女の感情を無視出来ないという話だった。
相澤に言われた時には。
責任を、自分への刑罰へすり替えるなという話だった。
そして。
ミッドナイトは。
もっと厄介だった。
彼女は理屈ではなく。
既に一度。
それを実行している。
零無自身が「大丈夫だ」と言ったのに。
勝手に。
彼を救済の対象へ入れた。
その結果を。
零無自身が肯定してしまっている。
◇
母を救えなかった。
だから。
次は誰かを救いたい。
社会が誰かを見捨てることが許せない。
それも変わらない。
救われなかった人間がいた以上。
今の社会に怒る理由も消えない。
なら。
その「誰か」の中から。
自分だけを当然のように外す理由は何なのか。
「……」
反論はいくらでも思いつく。
それでも。
今日までなら簡単に処理出来た問いが。
少しだけ。
処理しにくくなった。
「……困ったものだな」
誰も。
彼の思想を取り上げなかった。
誰も。
考えを変えろとは命じなかった。
ただ。
透も。
A組も。
相澤も。
ミッドナイトも。
別々の理由で。
同じ一点だけを認めなかった。
金木零無だけが。
最初から。
救われなくていいという前提。
それだけは。
誰一人。
彼に決めさせてくれなかった。