一日一善。徳を積みながらそれを意識せず、求めない。
無理なことは諦めてもいい、代わりに全力でやる。
全ての人を、平等に扱うこと。
仁と礼を欠かさない。自分の義に反することはしない。
罪を憎んで人を憎まず。他者への悪感情は切り捨てる。
はいこれ、俺の人生の決め事である。
こういう人間になりたいな、って指標でもある。ポリシー、或いはモットー。カッコよく言うなら俺の信念だ。
俺自身の行動指針はこれを元にするようにしているのだが、迷うことはある。後悔することもある。それでも、正しきを突き詰めるべきだとは思っている。クサいかもしれないが、少なくとも、信念だけは格好つけるべきだ。
この死ですらも。
───
─────
──────死ぬほど腹が減った。
死んだんだから腹なんて減るわけねぇだろ、と思うのだが、確かに腹が減って死にそうな辺り、どうやら俺は完全に死に損なったらしい。ヤバいくらい腹がキリキリするし、なんか逆に気持ち悪さすら感じる。メシ食っても喉を通るかどうか分からないくらいの息苦しさもある。
食切れにしてはしんどいものだ。
手なんてほら、こんなに細っこくて黒ずんで体調が悪そう。これじゃ包丁も握れな……
「……ぁ?」
かっすかすの声が漏れた。
なんだこの手は。なんだ今の声は。
俺が俺じゃないんだが。
いつ自分を見失ったんだっけ。自分を見てる余裕なんてのも無かったが、洗面所と風呂場で鏡くらいは見てたはずだぞ。こんな血色悪かったっけ。死ぬのか?いや死ぬんだろうが、こういうの死んだ後になるもんでは……?
いや、ていうか……雨?
雨なんて降ってたっけ。夕方だった気がするんだが、確かに寒いことは寒い。けどこんな風邪っぽい寒さだったっけか。なんだこれは、どうすればいいんだ?
「……っ……っ………」
声が出ない。
俺のものじゃないが、確かに俺が喉から絞り出したそれは、やはり俺自身の声だった。哲学か?
いや、俺じゃない俺とか哲学的ではあるけど。
とにかく、身体を起こして、状況を……
「…っ……ぁ?」
なんだ、ここは。
森?
いや、それよりも……
視界には、確かに映っている。
木々が。
降りしきる雨粒が。
血ではなく、その雨に濡れた地面が。
布きれしか纏っていない黒ずんだ身体が。
倒れている大きな荷車と、そして。
地面に投げ出された、幾人かの血濡れの死体が。
「……っ、……ぁ、あ……ぅ……っ……」
それを認識すると同時に、噎せ返るような血の臭いが鼻腔を貫いてくる。吐きそうになるが、吐くものが胃にない。またえずくことも出来ず、呼吸ばかりを繰り返す。
「っ、は……っ、か、っ、あ………っ……」
なんだこれは。
ここは何処だ。
俺は、どうなった。
頭がおかしくなりそうだ。
とにかく、状況を……整理、しないと。
俺は、確かに、死んだ。
それだけは、間違いない。助かるハズのない死だった。
なら、ここは死後の世界?
地獄に臭いや血はあるのか?こんな荷車があるのか?恐らく違う、別の人間に意識だけが乗り移った、幽霊憑きみたいな状態?……そんなオカルトは信じちゃいないが……
森……少なくとも、日本じゃない。
この服、服?とにかく……植物……そうだ。植物。
詳しくはないが、見たことのない木だ。
「………っ」
俺は、生きてる。
死に損なってしまった。
その事実が、乗し掛かってくる。
いや、いや。
今やるべきは………
呼吸も、少しは楽になった。
この血の臭いも、多少は慣れた。
今、やるべきことは。
そうだ、生きてる人に状況を聞こう。
きっといる。いるはずだ。
立ち上がれ。
立て。
立て!
頑張れ、気張れ、踏ん張れ!
足に、力を、込めろ!
「っ、っ……は、っ……はぁ、はぁ……!」
……立ち上がるだけで、こんなにも辛いものか。
身体にも、傷がない。俺の身体ではないが、今は仕方ない。使わせて貰おう。次は、そうだ、声を出そう。生きてる人がまだ残ってるのなら、返事が、返ってくるはずだ。
「ぁ…か…っは……っ……!」
声をあげろ。
喉が裂けても構わない、生きてる人はどこだ。
吐き出せ、絞り出せ、押し出せ。
「ぁ、え……が……っ……!!
ッ……だ……れ、か……!!」
声は出た。だが…………なんだ、この言葉は……?
日本じゃないのは確かだが、日本語とは別の言語だ。なんで日本語以外の言葉が口から……いや、身体が覚えてるのか。
なら、都合が良い。きっと通じるはずだ。
「だれ、か、い、ない、か……!!」
「こっち……こっちだ……!!」
叫べば、苦しげな低い声が返ってくる。
良かった、誰かいる。今の言葉も日本語ではないが、意味も理解は出来る。足を動かし、ふらつきながら、声の方向へ。きっと荷車の向こう側だ。遠いが、行くしかない。
濡れた地面を裸足で踏み締める。
転がる石ころが足裏に突き刺さる痛みも、耐えるしかない。今は前に進むしかない。
荷車に手をつき、それを引いていた大きな獣を避けて進み、そして。
「……は、はは……おまえ、しゃべ、れた、のか……?」
崖下に座り込んでいたのは、見覚えのある男。
俺の記憶にはない。だが、この身体の持ち主の記憶が、男を覚えている。この男は、そう、そうだ。
思い出してきた。
この男が、母から俺を買ったのだ。
母が、俺をこの男に売ったんだ。
暗い牢。鉄格子。
カビたパンの欠片と、蛆虫。
見知った死体と、それに飛び交う蝿。
記憶が、断片的に戻ってくる。
それが少しずつ、繋がってくる。
この男は、奴隷商だ。
俺は奴隷で、この男の話す言葉から、言語を覚えた。
そうして逃げ出す隙を探っていたんだ。
荷車に乗せられて、多分、どこかに連れて行かれる道中で、そう、荷車が倒れて、身を投げ出されたのだ。恐らく、あの崖の上から落ちたのだろう。
「はは……くそっ、たれ、め。
おれが、奴隷なんぞに……見下ろされるなんてよ……」
青ざめた顔で力なく笑う、小太りの男。
その腹には、太い木枝が突き刺さっていた。
胃か、或いは、肺か。
どちらかを貫いているのだろう、口からは血が溢れたような形跡があり、それが小綺麗な服の首元を。そして、貫かれた場所を、赤い血で染め上げていた。
………助からない。
助けようが、ない。
言葉が、出てこなかった。
俺のものと、俺のものじゃない記憶の感情が、腹と胸の奥でぐずぐずに泥の渦を巻いているようで。
「……なぁ、おまえ。
たすけて……たすけて、くれよ……」
縋りつくように、その腕が伸びてくる。
「……しにたく、ねえ、よ……
こんな……こんなとこで………なんで、おれが……」
腕が、こちらへと伸びてくる。
その手を、取る。
「……!」
男は、それに驚いたように、閉じかけていた目を見開く。
取った手は大きく、けれど雨に濡れて、酷く冷たい。
それがどうにも、もどかしくて。
「大丈夫だ」
そう、声をかける。
いつも不遜で、意地が悪くて、憎たらしい男だった。だが、そんな男の今際の際、そう死にたくないと求める姿を見て、けれど助けてやれない自分に、出来ることがあるのなら。
「次に、起きたときには、あんたの、家だ」
「………………、は、ははは……そう、か」
俺の言葉に男は笑う。
ゆっくりと、くすんだ黄金色の瞳が光を失っていく。
「ベッドで、目覚めて……暖かい、スープを、飲むんだ」
「そうだ……そうだ……な……
ヅル……鳥の、肉の……スー、プ……が……」
男が笑う。
取った手が、ずしりと重くなる。
両の手で、それを支える。
「だから、帰るんだ」
「……あ、ぁ……そ、う──────
男が、目を閉じた。
項垂れて、そして、ゆっくりと身体が横へ倒れていく。
眠るように、男は呼吸を止めていた。
「…………」
死んだ。死んでしまった。
何も聞けずに、恐らく、ただ一人の生き残りが。
くそっ。
俺は、どうすれば良かった。
……いや、記憶は、戻ってきた。
俺は自由だ。とにかく、他の奴隷のみんなのためにも、俺は生き延びなきゃいけない。生き残る理由が出来てしまった。全部、思い出してしまったから。
この身体の、元の持ち主のためにも。
「……そうだ、カネを、持ってるはずだ」
この男は商人だ。
荷車にも、彼のポケットにも幾らか金があるはずだ。それに他にも色々と積んでいたはず。悪いが、拝借していこう。
少しでも金があれば、困ることはないだろう。
「……悪く、思ってくれていいよ」
腰を下ろし、男の死体を漁る。
………出てきたのは、褐色の……銅貨だろうか。
こんな通貨は見たことがない。こっちの記憶にもない辺り、身体の主はこちらの通貨をすら知らないのだろう。
銅貨が詰まった小袋と、護身用だろう大型の短剣。それからその短剣を使って、男の羽織っていたマントを切り取った。血染めのそれを羽織れば、革だろうか、それともこの身体が貧弱だからか、或いは血を吸ってか、酷く重苦しく感じた。
あまり……物は持てそうにない。
この銅貨が幾らかは分からない。二束三文かもしれないし、大金なのかもしれないが……何かしら、持っていきたいが。
「そうだ……荷車があったか」
そこで思い出したのは、あの倒れた荷車だ。
荷車にある程度の食料があるのなら、少しそこで休みたい。雨も凌げるだろう。死体も周りにあるが、マントを切り取る作業が思った以上に大変で、時間もかかった。この貧弱さがどうにも厄介だ。
そうして、振り返って。
「──────」
「え」
そこに、ウサギがいた。
少し離れた場所。
死体と荷車の近くに、場違いな白いウサギがいた。
いや、森にウサギなんて……珍しいわけじゃないが。
それは酷く、場違いに見えて。
ウサギは、その真赤い瞳を真っ直ぐこちらに向けている。
おぞましいほど、静かに、ただ、こちらを見ている。
なんの変哲もない、ウサギだ。
そのハズなのに。
「─────っ」
なんだ、この、恐ろしさは。
心臓、背筋が凍てつくような圧迫感。
怖い。
その強烈なまでの胸騒ぎに、短剣を手に取っていた。
そして、それを見たウサギが動き始める。
ゆっくりと、その前足を下ろして。
瞬間、その姿が掻き消えた。
そして。
「───────ッ!!!」
次の瞬間には、火花が散っていた。
遅れて響き、耳に届くのは─────金属音。
本能的、反射的とも云える反応だった。
咄嗟に
まさにそれは、最善かつ最高の判断で。
飛び込んできたウサギの鋭い牙が、短剣に弾かれていた。
「ッ、ぐ……っ!?」
胴を、かなりの重さが打つ。
蹴られた、と認識できたのは、ウサギが目の前の地面に足をつけた瞬間で。後ろに下がりつつ、改めて、ウサギを視界に納める。ただのウサギではない、なんて今更だ。
ウサギに、あんなにまで太く鋭い牙があるものか。
肉体の記憶を探る。
関連するワードは………魔物。
魔物?
そんな、まさか。
ゲームや神話じゃあるまいし。
いや、いや、いや。
そもそも、この場所は……いや。
今は、こいつを……どうにか、どうにかしなければ。
逃げる?
無理だ、あの速度の相手に背中を向ければ死ぬ。
戦う?
どうやって?
運動なんて出来ないし、この身体では無茶が過ぎる。
どうすれば……いや、考えたところで無駄か。
死ねば、俺はそこまでだったというだけ。
なら、殺すか、殺されるか。
集中しろ。
生きた野生の動物を殺したことはないが、魚なら生きたのを捌いたことはある。動物の血も、包丁の扱いも慣れてる。
問題はない。
息を吐き出す。
「っ、ふ………っ……!」
「────!」
再び、四足をついたウサギが視界から消える。
また首元、ではない。こうも確実に弱点を狙ってくるまでの知恵があるのなら、何度も同じような真似はしないだろう。
なら、横だ。
死角を突いてくる。
ほぼ山勘、そしてウサギのいた位置で舞い上がった泥から、ウサギの移動先を予測する。
──────左。
「────!!!」
「ぐ、っ!!お、ぉあ!!」
牙を受け止め、きれない。
辛うじてそれを逸らすが、頬に灼熱が走る。
視界の隅に血が舞う。
痛みと同時に、後ろに回られてしまったのを認識する。俺の後ろは崖の岩壁だ。振り向くのでは遅すぎる。このウサギが狙ってくるのは首だ、なら反らして回避を────
「っぎ、ぅッ……!!」
回避、しきれない。
激痛と共に、首の側面を抉り抜かれる。
視界のなかで、血と肉の破片が、前方へ弾けた。
……不味い。
「─────」
その弾け飛んだ血と肉の先に降り立ったウサギが、もごもご口を動かしているのが見える。
……喰ってるのか。
「……っ、っ……」
痛い。
痛い、痛い、痛い。
思考が鈍る。
しっかりしろ。
「────」
「っ、はあ、っ、はっ、はっ……」
きゅうきゅう、とウサギが鳴く。
笑っているのだろうか。
舐められたものだ。
思考と視界が熱されていく。
激痛が頭を鈍らせて………焼けつくようだ。
「っ……」
「─────」
どこか逆に、鮮明になってくる。
まだだ。
まだ、終わっていない。
灼熱する。
意識が、燃え上がる。
見えてきた。
正面。
短剣で、飛びかかってきたウサギの牙を弾く。
右。
腕を狙ってきた牙を、身体を逸らして避ける。
左。
背後。
短剣の腹で牙を受け流し、ウサギが眼前へ出てくる。
そこだ。
右手に握り締めた短剣で。
空中で反転し、こちらへ視線を向けたウサギを。
その頭を。
貫く。
「……………っ、は、っ……は……っ……は……」
呼吸を繰り返す。
雨の音、身体を流れる血の音、呼吸と心臓の音が、うるさく聞こえてくる。突き出した右腕と、そこに握られた短剣が、ウサギの眉間を貫いていて。
ウサギは、一度びくりと震えて。
「ぎぃいいいぃいいいいいいぃいいッ!!!!」
「………」
鳴いた。
今まで一度と、貫かれる時さえ声をあげなかったウサギが、凄まじいほどの甲高い悲鳴のような絶叫をあげた。
別段、驚くほどではなかった。
驚く気力も残ってはいなかった。
けれど。
───────何故?
動物が、大きく鳴く。
その意味は─────────
「……マジ、かよ……」
ふと、言葉が漏れた。
森から、その茂みから、荷車の向こう側から。
一匹。二匹。三匹。四匹。
ウサギが、現れる。
「仲間を、呼びやがった、のか……」
最早、恐怖はなかった。
けれど、呆れと、怒りがあった。
理不尽だろうが、こんなのは。
……短剣を振り払う。
死んだウサギの骸が短剣の刀身を滑り、地面に転がった。
「………かかって、こい」
殺し尽くしてやる。
そうして短剣を構えようと、して。
「はい、そこまで」
声が、聞こえた。
女の声だった。
雨音のなかで、だがその声はしんと通って、耳に届く。
そして、視線を向けるよりも先に。
風を切るような音がした。
「は………?」
数えきれないほどいたウサギが、全て。
鮮血の雨を降り上げていた。
そして、その視界の隅に。
笠を被った女が立っていた。
長い黒髪を、黒い着物のような服を靡かせて。
その手に握られた、刀にも似た純白の剣が振り払われた。
「こんにちは。
初めまして……と、言うべきかな?」
深い青─────瑠璃の宝石のような瞳が。
こちらを捉えて、細められた。