ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained) 作:KSV8
ロールシャッハの日記
19XX年、10月1日。
煤煙。犬の糞。腐った臭い。ここはニューヨークではない。
五感がそれを拒絶している。
雪原。マンハッタンの青い閃光。肉体が分子レベルで崩壊したはずだった。
確実な死。それが俺の迎えるべき結末だったはずだ。
だが、気がつけば俺は冷たいコンクリートの地べたに這いつくばっていた。
神の気まぐれ。あるいは時空の歪み。どうでもいい。問題は、ここがニューヨークをさらに肥大化させたような、便所の底だということだ。
10月8日。
一週間、この街のドブを浚った。バーの裏口。麻薬の密売所。情報屋。
少しばかり肉体に「刺激」を与えてやれば、クズどもはすぐに歌い出す。
そして、ひとつ分かった。この街には「コウモリ」がいる。
夜になると現れ、犯罪者を捕らえる。だが、殺さない。警察に引き渡す。
アーカムへ送る。それだけだ。最初は噂だと思っていた。だから観察することにした。
10月11日。
午後11時17分。強盗事件。コウモリが現れた。犯人を数分で制圧。警察へ引き渡す。記録する。殺さない。
10月15日。
午前1時42分。麻薬取引。またコウモリ。犯人を捕らえる。警察へ引き渡す。記録する。また殺さない。
10月19日。
午前3時08分。路地裏で暴行事件。コウモリは被害者を救出。犯人を拘束。警察へ。
翌朝、新聞を確認。同じ男が以前にも別の事件を起こしていたことが判明。
それでも檻に入れるだけ。記録する。
10月23日。
別の犯罪現場。またコウモリ。同じ結末。捕らえる。引き渡す。消える。
そして翌日には、別の場所で新しい犯罪が起きている。この街は何も変わらない。
10月29日。
一か月近く観察した。
結論。やはりコウモリには牙がない。奴は悪を止める。だが、悪そのものを終わらせようとはしない。檻。警察。裁判。そんなものを信じている。甘い。
この街では、悪は形を変えて戻ってくる。一匹を檻に入れれば、別の一匹が路地裏から這い出してくる。だから俺は奴を信用しない。いや。それどころか、気に入らない。
10月31日。
激しい雨。今夜もゴッサムは、腐った街の臭いを雨水で薄めようとしている。
無駄だ。臭いは消えない。
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路地裏を歩いていると、押し殺したような小さな悲鳴が聞こえた。その先に、男がいた。怯える少女の口を塞ぎ、無理やり車へ引きずり込もうとしている。誘拐。この街の日常茶飯事。暗がりから近づいた。男が振り返る。遅い。ナイフをもった腕を掴み膝を正面から蹴り折る。男は叫びながら倒れ、泥水をすすりながら命乞いをはじめる。
「待て! 悪かった! もうしない!頼む、助けてくれ......! 警察でもどこでも行くから......!」
嘘だ。そういう顔をしている。クズどもはいつも同じことを言う。
「名前」
「......え?」
「名前を言え」
「ト、トーマス......」
「住所」
男は震えながら答えた。仕事。仲間。最近の犯行。知っていることをすべて吐かせる。
少しばかり「刺激」を与えれば、人間は驚くほど素直になる。
泣きながら命乞いを続ける男。
ロールシャッハは黙ってその様子を見下ろしていた。
一か月間、何度も見てきた。犯罪者。被害者。警察。そして――コウモリ。
奴なら、この男を捕らえて警察に渡す。そして裁判。檻。数年後。またどこかで同じことが起きる。その繰り返しだ。
「黙れ」
男の声が止まる。
「お前のようなゴミが、何度でも戻ってくることを俺は知っている」
ロールシャッハは顔のインクを不規則に蠢かしつつ、男の指を容赦なく掴み、限界を超えて逆方向へとへし曲げようとした。骨のきしむ音が、雨音に混じって不穏に響く。彼にとって、悪をその場で完全に処分することだけが、歪んだ世界における唯一の不変の真実だった。
そのときだった。
「待て。」頭上から、低い声が響いた。ロールシャッハは顔を上げた。漆黒のケープ。尖った耳。闇そのものが形を成したかのような巨大な影。一か月間、遠くから観察し続けてきた男。
バットマン。
「その男から離れろ」
ロールシャッハはゆっくりと立ち上がった。マスクのインクが、不規則に蠢いている。
「......やはり来たか」
「何?」
「一か月見ていた」
バットマンの視線が鋭くなる。
「犯罪現場に現れる。犯人を捕らえる。警察に渡す」
ロールシャッハは一歩前へ出た。
「そして翌日には、別の場所で新しい犯罪が起きる」
「何も変わっていない」
バットマンは黙っている。
「お前が捕らえた悪党どもを、その手を汚さずに生かし続ける理由がどこにある?」
「一線を越える権利は、誰にもない」バットマンは答える。
「権利?」ロールシャッハが鼻で笑った。
「違う」さらに一歩。
「覚悟がないだけだ」
「お前は、この街の何を知っている?」バットマンが問う。
「十分だ」ロールシャッハは答えた。「一か月あれば十分だ」
バットマンの声が低くなる。「そいつを離せ」
「断る」ロールシャッハのマスクのインクが、中央へゆっくりと集まる。
「お前はいつもそうだ」
「何?」
「悪を捕らえる。檻に入れる。そして自分は正しい顔をして夜の闇へ帰る」
ロールシャッハはバットマンを指差した。
「だが、牙がない」
雨音だけが二人の間に響いていた。
「やはりコウモリには牙がない」
バットマンは一歩前へ出る。「その男を警察に渡せ」
一回り大きいバットマンにロールシャッハは引かない。
「なら、お前が俺を止めろ」
その瞬間、ロールシャッハが地を蹴った。泥水が跳ねる。トレンチコートが翻る。
一か月に及ぶ観察は終わった。
足元の泥水をバットマンの顔面に向けて蹴り上げると同時に、懐から、道すがら拾い上げた錆びた鉄パイプを抜き放つ。
凄まじい金属音が路地裏にこだました。
ロールシャッハが振り下ろした一撃はバットマンの強靭な腕とガントレットによって受け止められていた。
鉄パイプの振動が腕にまで伝わる。
「凶器を捨てろ。これ以上は容赦しない」
ロールシャッハの目的は「このコウモリ男を力で倒すこと」ではなく、
「目の前のウジ虫を確実に処分すること」だ。
そのためなら、どんな泥水をすすり、どんな惨めな立ち回りを演じることも厭わない。
膝を狙い、喉元を突き、目潰しを仕掛ける。人間の急所を的確に突く執拗な猛攻。
しかし、ことごとく見切られ、捌かれていく。カウンターの回し蹴りが、ロールシャッハの脇腹を正確に捉えた。強烈な衝撃が走り、ロールシャッハの体がゴミ箱の山へと激しく吹き飛ぶ。
金属製のゴミ箱が派手な音を立てて潰れ、生ゴミが散乱した。肋骨が悲鳴を上げた。
重い一撃。硬い拳。
エイドリアン(オジマンディアス)のような洗練された速さではない。
だが、このコウモリには、街の重みをすべて背負ったような圧倒的な質量がある。
だからこそ気に入らない。
それだけの覚悟と拳を持ちながら、なぜ悪の息の根を止めない?
この男は何を恐れている?
殺すことか。
違う。
殺さないことを正義だと思い込むこと。
奴に殴られながら確信した。
この男はただの臆病者。
悪を殺して自分の綺麗な手を汚す恐怖から、必死に逃げ回っているだけの哀れな精神病患者。
まだ見ぬこの街の『巨悪』とやらも、こいつが甘やかし、生かし続けているからのさばっているに違いない。
俺は絶対にこの男に屈しない。真実を濁らせるな。
ロールシャッハは、骨がきしむ痛みを感じながら、再び立ち上がる。
トレンチコートは泥と血で汚れ、マスクのインクはさらに激しく蠢いている。
その姿は、痛覚を失ったゾンビのようであったが、彼の脳内は著しく冴えていた。
「お前が俺を止めたいなら、殺すしかないぞ、コウモリ男。俺は絶対に妥協しない!」
その狂気的な執念に、バットマンの双眸が一瞬、微かに困惑に揺れる。
当然、まともな肉弾戦を続けても勝ち目はない。二度、三度と重い拳がロールシャッハの顔面と腹部を捉え、彼の意識が白濁していく。
だが、バットマンが最後の一撃を放とうと深く踏み込んだその瞬間、ロールシャッハはコートのポケットから、先ほど路地裏のジャンクの山から掠め取っていた工業用の高濃度オイルのボトルを抜き取り、バットマンのバイザーに向けて思い切りぶちまけた。
さらに、落ちていた浮浪者の古びたライターを素早く着火し、オイルの霧めがけて投げつける。
雨の路地裏に、猛烈な火柱が上がった。
さすがのバットマンも、至近距離での予期せぬ即席火炎放射には回避を余儀なくされ、大きくバックステップを踏んでケープで炎を遮る。
そのわずか数秒の隙に、ロールシャッハは倒れていた誘拐犯の男の髪を掴み、近くの地下排水溝の重い格子をこじ開けた。「ヒッ、やめ、助け――」「地獄で反省しろ」男の喉元へ、男のナイフを深く突き立て、悲鳴を上げさせる間もなくその命を奪った。
バットマンが炎を振り払ったときには、すでに男は冷たい死体となり、泥水の中に転がっていた。双眸に、冷徹な怒りが宿る。
しかし、ロールシャッハはすでに開いた格子の中へと自ら飛び降り、暗黒の地下水道へと身を投じていた。激しい水の音が響き、彼の気配はゴッサムの地下へと、消えていった。