ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained)   作:KSV8

2 / 5
2:コメディアン

ロールシャッハの日記:19XX年、11月2日。

あのコウモリの手を逃れ、ゴッサムの冷たい地下水道を丸2日間這い回った。

ネズミの死骸。排泄物。暗黒の泥水。

ようやく地上へ這い出た。

だが、地下へ逃げ込む前に、一つだけ仕事を済ませていた。

あの誘拐犯だ。

コウモリが現れるまでに、奴からいくつかの情報を引き出した。

 

 

 

ジョーカー。

数日前、アーカムを脱走。

ゴッサム東部の廃工業地帯を経由して、街の外れへ移動。

目撃証言は三つ。

「夜中に、笑い声が聞こえた」

「廃遊園地の近くで、紫色の車を見た」

「ジョーカーの手下らしき連中が、使われていない遊具の周辺を出入りしていた」

どれも単独なら証拠にはならない。

だが、三つ重なれば話は変わる。

 

地下水道に逃げ込んだ後も、頭の中で地図を組み直した。

ゴッサム東部。廃工業地帯。使われていない遊園地。

点が線になった。

 

ジョーカーの隠れ家。

奴はそこにいる。

今夜、雨の降る中、俺はそこへ向かう。

コウモリが殺さずに放置したツケを、俺が代わりに払う。

悪はリサイクル不可能なゴミ。見つけ次第、その場で処分しなければならない。

 

廃工業地帯を抜ける。

雨に濡れた鉄骨。

閉鎖された倉庫。

錆びた看板。

ロールシャッハは、手帳に書き込んだ簡単な地図と周囲の景色を何度も照合していた。

やがて、霧の向こうに巨大な観覧車の残骸が浮かび上がった。

回っていない。

電気もついていない。

ただ、錆びた骨組みだけが夜空に突き刺さっている。

その足元に、朽ち果てた看板があった。

「GOTHAM WONDERLAND」

文字の半分は剥がれ落ちている。

ロールシャッハは立ち止まった。

間違いない。

遠くから、かすかな笑い声が聞こえた。

「……見つけた」

彼はトレンチコートの襟を立て、廃遊園地の暗闇へと歩き出した。

 

激しい雨が、壊れたコーヒーカップのアトラクションの屋根を叩いている。

緑の髪を派手に揺らしながら、紫のスーツを着た男が、転がる死体を見下ろしてケラケラと甲高い笑い声を上げていた。

その手には、まだ犠牲者の血が滴る大きな剃刀が握られている。

 

「お前がジョーカーか」

ロールシャッハの低く濁った声が、夜の静寂を切り裂いた。

「……笑うな。反吐が出る」

ジョーカーはゆっくりと振り返った。

 

普段のジョーカーであれば、現れたのがバットマンでなければ、ひどく退屈そうな顔をして、懐の銃の引き金を引いて終わりにしていたはずだ。

だが、その白塗りの顔に浮かんだ真っ赤な笑みが、一瞬だけ奇妙な形に歪む。

 

「……おやぁ?」

そして次の瞬間。

「ハハッ! こいつは驚いた!」

ジョーカーは楽しそうに両手を広げた。

「随分とセンスがクラシックで、小汚い坊やだねぇ! バッツの新しいお友達かい?」

すり足で近づいてくる。

「いや、違うな……」

ジョーカーの細い目が、ロールシャッハのマスクを覗き込む。

「お前、『匂い』が全然違う」

ロールシャッハは黙っている。

 

「バッツはね、自分の中にある『正気』っていうカビ臭~い宝物を、必死に守ってる。傷つけないように、壊さないように、優しくね」

 

ジョーカーは鼻先が触れ合いそうな距離まで近づいた。

その不気味なマスクの奥にある瞳を覗き込もうとする。

 

ジョーカーの心臓が上質な「狂気」との遭遇に歓喜でバクバクと跳ね上がる。

ジョーカーの異常な嗅覚は正確に察知していた。

目の前の男の精神は、すでに自分たちと同じ「一線を完全に越えた側」にあるのだと。

 

「でも、お前は違う」

白塗りの顔が歪む。

「お前、すでに中身が空っぽじゃないか! 自分の『正気』なんてとっくの昔に投げ捨てて、空っぽの殻の中に、ドス黒い狂気だけ! 最高だ! どうだい、この世界がいかに救いようのないくだらないドブ川かってことを、俺と一緒に笑おうじゃないか!」

 

ロールシャッハの拳が、コートのポケットの中でゆっくり握り締められた。

マスクのインク染みが、不規則に形を変えていく。

この男の言葉を聞いていると別の男を思い出す。

エドワード・ブレイク。

コメディアン。

奴もまた、世界の醜さを笑っていた。

「全部ただのイカれたジョークなんだよ、コバックス」

あの言葉が今でも耳に残っている。

世界を笑う。

人間を笑う。

正義も悪も、全部まとめてくだらない冗談にする。

だが、ブレイクが何を考えていたのか、俺には分からない。

奴の最後を見たわけでもない。

ただ、俺が知っているのは、あの男が世界の醜さを笑い飛ばそうとしていたことだけだ。

世界を笑えば、自分も笑っていられる。

そうでもしなければ、あの世界では正気を保てなかったのかもしれない。

だが、目の前の男は違う。

こいつは世界の不条理を笑っているんじゃない。

悪意そのものを楽しんでいる。

他人の苦痛を、冗談として消費している。

ブレイクと同じ場所に立ちながら、こいつはさらに一歩先へ進んでいる。

笑うためではない。

壊すために笑っている。

救いようのない、真の怪物。

「……コメディアンは世界を笑った」

ロールシャッハが呟く。

「だが、お前は違う」

 

ジョーカーが首を傾げる。

「んん~?」

「お前は、世界が壊れることを笑っている」

ロールシャッハのマスクのインクが、ゆっくりと中央へ集まる。

「……ただの壊れたゴミだ」

「ハハッ!」

ジョーカーが大きく笑った。

「ゴミだって!? 笑わせるなよ、お前だって――」

 

その瞬間。

ジョーカーが、近くの椅子に拘束されていた次の犠牲者の女性へ剃刀を向けた。

ロールシャッハの姿が消える。

次の瞬間には、ジョーカーとの距離を一気に詰めていた。

彼は対話を拒絶した。

バットマンのように言葉で諭すことも、法律や警察に委ねることも、最初から頭にない。

ロールシャッハは油の入ったボトルを掴み、ジョーカーの視界を奪うようにぶちまけた。

「おっと!?」

 

一瞬の隙。

強烈な前蹴り。

ジョーカーの体勢が崩れる。

さらに追撃の拳。

ジョーカーは地面を転がりながらも、狂ったように笑い続けている。

ロールシャッハは止まらない。懐のライターへ指をかける。

だが、ジョーカーもただの狂人ではなかった。

幾度となくバットマンを相手に死線を潜り抜けてきた男だ。

 

「ハハハッ! 火遊びは危ないぜ、お坊ちゃん!」

ジョーカーが隠し持っていた遠隔装置のスイッチを瞬時に作動させる。

廃遊園地の地面に仕掛けられていた、ジョーカーガス混じりの高圧ボンベが爆発。

白い煙と爆風が一気に噴き出した。

視界と呼吸が奪われる。

ロールシャッハが白煙の中で拳を振るう。

手応え。

 

だが――掴んだのはジョーカーの肉体ではなかった。

そこに残されていたのは、煙の中でけたたましい録音の笑い声を流し続ける、ピエロの不気味な玩具。

「チッ……」

ロールシャッハが激しく咳き込みながら、煙の向こうを睨む。

スピーカーから、本物のジョーカーの歪んだ高笑いだけが遠く響く。

「ハハハハハハ……!」

ロールシャッハは屈辱に拳を握り締めた。

悪党を見つければ、その場で完全に処分する。

それが今までのやり方であり、絶対のルールだった。

だがアッサリと逃げられた。

 

ヤツは明確な殺意を向ければ向けるほど喜び、こちらの攻撃すらエンターテインメントとして消費していた。

自分の正義、生身の腕力だけでは届かなかった悪意の深淵。

その屈辱の事実が、ロールシャッハの胸を焼いた。

「……この街の狂気は、深すぎる」

 

その時だった。

ロールシャッハのトレンチコートのポケットから、青白い光が漏れ出した。

廃遊園地の地面。

錆びついた遊具。

そのすべてを、見たこともないまばゆい光が照らし始める。

空間そのものが、ミシミシと音を立てて歪む。

これは……?

顔のインクの染みが、初めて怯えるように激しく揺れた。

エイドリアン。

奴が残した、あの遺物か。

次元歪曲テクノロジーの残滓。

ロールシャッハの限界を超えた行き場のない「怒り」と「屈辱」に呼応するように、物質の結合を解くエネルギーが異常な共鳴を始めていた。

青い閃光が、彼の全身を完全に包み込む。

そして――

ロールシャッハは、さらなる絶望のステージへと引きずり込まれていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。