ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained) 作:KSV8
ロールシャッハの日記:19XX年、11月2日。
あのコウモリの手を逃れ、ゴッサムの冷たい地下水道を丸2日間這い回った。
ネズミの死骸。排泄物。暗黒の泥水。
ようやく地上へ這い出た。
だが、地下へ逃げ込む前に、一つだけ仕事を済ませていた。
あの誘拐犯だ。
コウモリが現れるまでに、奴からいくつかの情報を引き出した。
ジョーカー。
数日前、アーカムを脱走。
ゴッサム東部の廃工業地帯を経由して、街の外れへ移動。
目撃証言は三つ。
「夜中に、笑い声が聞こえた」
「廃遊園地の近くで、紫色の車を見た」
「ジョーカーの手下らしき連中が、使われていない遊具の周辺を出入りしていた」
どれも単独なら証拠にはならない。
だが、三つ重なれば話は変わる。
地下水道に逃げ込んだ後も、頭の中で地図を組み直した。
ゴッサム東部。廃工業地帯。使われていない遊園地。
点が線になった。
ジョーカーの隠れ家。
奴はそこにいる。
今夜、雨の降る中、俺はそこへ向かう。
コウモリが殺さずに放置したツケを、俺が代わりに払う。
悪はリサイクル不可能なゴミ。見つけ次第、その場で処分しなければならない。
廃工業地帯を抜ける。
雨に濡れた鉄骨。
閉鎖された倉庫。
錆びた看板。
ロールシャッハは、手帳に書き込んだ簡単な地図と周囲の景色を何度も照合していた。
やがて、霧の向こうに巨大な観覧車の残骸が浮かび上がった。
回っていない。
電気もついていない。
ただ、錆びた骨組みだけが夜空に突き刺さっている。
その足元に、朽ち果てた看板があった。
「GOTHAM WONDERLAND」
文字の半分は剥がれ落ちている。
ロールシャッハは立ち止まった。
間違いない。
遠くから、かすかな笑い声が聞こえた。
「……見つけた」
彼はトレンチコートの襟を立て、廃遊園地の暗闇へと歩き出した。
激しい雨が、壊れたコーヒーカップのアトラクションの屋根を叩いている。
緑の髪を派手に揺らしながら、紫のスーツを着た男が、転がる死体を見下ろしてケラケラと甲高い笑い声を上げていた。
その手には、まだ犠牲者の血が滴る大きな剃刀が握られている。
「お前がジョーカーか」
ロールシャッハの低く濁った声が、夜の静寂を切り裂いた。
「……笑うな。反吐が出る」
ジョーカーはゆっくりと振り返った。
普段のジョーカーであれば、現れたのがバットマンでなければ、ひどく退屈そうな顔をして、懐の銃の引き金を引いて終わりにしていたはずだ。
だが、その白塗りの顔に浮かんだ真っ赤な笑みが、一瞬だけ奇妙な形に歪む。
「……おやぁ?」
そして次の瞬間。
「ハハッ! こいつは驚いた!」
ジョーカーは楽しそうに両手を広げた。
「随分とセンスがクラシックで、小汚い坊やだねぇ! バッツの新しいお友達かい?」
すり足で近づいてくる。
「いや、違うな……」
ジョーカーの細い目が、ロールシャッハのマスクを覗き込む。
「お前、『匂い』が全然違う」
ロールシャッハは黙っている。
「バッツはね、自分の中にある『正気』っていうカビ臭~い宝物を、必死に守ってる。傷つけないように、壊さないように、優しくね」
ジョーカーは鼻先が触れ合いそうな距離まで近づいた。
その不気味なマスクの奥にある瞳を覗き込もうとする。
ジョーカーの心臓が上質な「狂気」との遭遇に歓喜でバクバクと跳ね上がる。
ジョーカーの異常な嗅覚は正確に察知していた。
目の前の男の精神は、すでに自分たちと同じ「一線を完全に越えた側」にあるのだと。
「でも、お前は違う」
白塗りの顔が歪む。
「お前、すでに中身が空っぽじゃないか! 自分の『正気』なんてとっくの昔に投げ捨てて、空っぽの殻の中に、ドス黒い狂気だけ! 最高だ! どうだい、この世界がいかに救いようのないくだらないドブ川かってことを、俺と一緒に笑おうじゃないか!」
ロールシャッハの拳が、コートのポケットの中でゆっくり握り締められた。
マスクのインク染みが、不規則に形を変えていく。
この男の言葉を聞いていると別の男を思い出す。
エドワード・ブレイク。
コメディアン。
奴もまた、世界の醜さを笑っていた。
「全部ただのイカれたジョークなんだよ、コバックス」
あの言葉が今でも耳に残っている。
世界を笑う。
人間を笑う。
正義も悪も、全部まとめてくだらない冗談にする。
だが、ブレイクが何を考えていたのか、俺には分からない。
奴の最後を見たわけでもない。
ただ、俺が知っているのは、あの男が世界の醜さを笑い飛ばそうとしていたことだけだ。
世界を笑えば、自分も笑っていられる。
そうでもしなければ、あの世界では正気を保てなかったのかもしれない。
だが、目の前の男は違う。
こいつは世界の不条理を笑っているんじゃない。
悪意そのものを楽しんでいる。
他人の苦痛を、冗談として消費している。
ブレイクと同じ場所に立ちながら、こいつはさらに一歩先へ進んでいる。
笑うためではない。
壊すために笑っている。
救いようのない、真の怪物。
「……コメディアンは世界を笑った」
ロールシャッハが呟く。
「だが、お前は違う」
ジョーカーが首を傾げる。
「んん~?」
「お前は、世界が壊れることを笑っている」
ロールシャッハのマスクのインクが、ゆっくりと中央へ集まる。
「……ただの壊れたゴミだ」
「ハハッ!」
ジョーカーが大きく笑った。
「ゴミだって!? 笑わせるなよ、お前だって――」
その瞬間。
ジョーカーが、近くの椅子に拘束されていた次の犠牲者の女性へ剃刀を向けた。
ロールシャッハの姿が消える。
次の瞬間には、ジョーカーとの距離を一気に詰めていた。
彼は対話を拒絶した。
バットマンのように言葉で諭すことも、法律や警察に委ねることも、最初から頭にない。
ロールシャッハは油の入ったボトルを掴み、ジョーカーの視界を奪うようにぶちまけた。
「おっと!?」
一瞬の隙。
強烈な前蹴り。
ジョーカーの体勢が崩れる。
さらに追撃の拳。
ジョーカーは地面を転がりながらも、狂ったように笑い続けている。
ロールシャッハは止まらない。懐のライターへ指をかける。
だが、ジョーカーもただの狂人ではなかった。
幾度となくバットマンを相手に死線を潜り抜けてきた男だ。
「ハハハッ! 火遊びは危ないぜ、お坊ちゃん!」
ジョーカーが隠し持っていた遠隔装置のスイッチを瞬時に作動させる。
廃遊園地の地面に仕掛けられていた、ジョーカーガス混じりの高圧ボンベが爆発。
白い煙と爆風が一気に噴き出した。
視界と呼吸が奪われる。
ロールシャッハが白煙の中で拳を振るう。
手応え。
だが――掴んだのはジョーカーの肉体ではなかった。
そこに残されていたのは、煙の中でけたたましい録音の笑い声を流し続ける、ピエロの不気味な玩具。
「チッ……」
ロールシャッハが激しく咳き込みながら、煙の向こうを睨む。
スピーカーから、本物のジョーカーの歪んだ高笑いだけが遠く響く。
「ハハハハハハ……!」
ロールシャッハは屈辱に拳を握り締めた。
悪党を見つければ、その場で完全に処分する。
それが今までのやり方であり、絶対のルールだった。
だがアッサリと逃げられた。
ヤツは明確な殺意を向ければ向けるほど喜び、こちらの攻撃すらエンターテインメントとして消費していた。
自分の正義、生身の腕力だけでは届かなかった悪意の深淵。
その屈辱の事実が、ロールシャッハの胸を焼いた。
「……この街の狂気は、深すぎる」
その時だった。
ロールシャッハのトレンチコートのポケットから、青白い光が漏れ出した。
廃遊園地の地面。
錆びついた遊具。
そのすべてを、見たこともないまばゆい光が照らし始める。
空間そのものが、ミシミシと音を立てて歪む。
これは……?
顔のインクの染みが、初めて怯えるように激しく揺れた。
エイドリアン。
奴が残した、あの遺物か。
次元歪曲テクノロジーの残滓。
ロールシャッハの限界を超えた行き場のない「怒り」と「屈辱」に呼応するように、物質の結合を解くエネルギーが異常な共鳴を始めていた。
青い閃光が、彼の全身を完全に包み込む。
そして――
ロールシャッハは、さらなる絶望のステージへと引きずり込まれていった。