ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained) 作:KSV8
ピエロに逃げられた後、廃遊園地の空が裂けた。
エイドリアン(オジマンディアス)が遺した次元歪曲テクノロジー。その残滓が、この街の澱んだ空気の底で、青い毒のように脈打っている。
だが、そんな異常現象すらどうでもよくなるほどの「異変」が、俺の目の前に舞い降りた。
星条旗の色。胸に刻まれた、血のように赤い「S」の紋章。
全身青タイツ男。メトロポリスの生ける神。
スーパーマン。
奴が空から静かに降り立った瞬間、俺は理解した。
この世界には、本当に「神」がいる。
そして――それが、たまらなく気に入らない。
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激しい雨が、廃遊園地のアスファルトを叩き続けていた。
ジョーカーが逃げ去った後に残った煙幕も、雨に打たれて次第に薄れていく。
その向こう。
雲の切れ間から、一つの人影がゆっくりと降りてきた。
地面に降り立った瞬間、不思議な静けさが周囲を包んだ。
雨音さえ、一瞬だけ遠ざかったように感じられる。
青い瞳に敵意はない。
見下すような光もない。
そこにあったのは、ただ純粋な心配だった。
「……君がやったのか?」
スーパーマンは、泥と雨にまみれたロールシャッハを見つめた。
「この場所から、強いエネルギーの乱れが観測された。バットマンからも、ゴッサムに見慣れない覆面の自警団員が現れたと聞いている。ここで何があったんだ?」
真っ直ぐな声だった。
あまりにも真っ直ぐだった。
ロールシャッハは答えなかった。
ただ、その男を見上げていた。
ここ数日間、ゴッサムの裏側を這い回ってきた。
噂は嫌というほど聞いていた。
弾丸を弾き、人々を救い、空を飛ぶ男。
誰もが彼を信頼している。
誰もが彼を「ヒーロー」と呼んでいる。
だが、噂と実物では違った。
実物のスーパーマンは、想像していたよりも遥かに静かだった。
そして――遥かに優しかった。
そのことが、ロールシャッハには耐え難かった。
こいつだ。
この世界に来てから見たヤツの中で、一番気に入らない。
バットマンよりも。
ジョーカーよりも。
この男が、一番気に入らない。
なぜなら――
こいつは本物だからだ。
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ロールシャッハの脳裏に、遠い記憶が蘇った。
1975年。
ブレア・ロッシュ事件。
暗い小屋。
少女の遺体を喰う犬。
凍りついた時間。
そして――間に合わなかった自分。
あの時、少女はもう死んでいた。
助けを求める声など、どこにもなかった。
ただ、取り返しのつかない現実だけが、そこにあった。
もし、あの夜。
空から、この男が降りてきていたら。
もし、圧倒的な力を持つ誰かが、もっと早くあの場所を見つけていたら。
もし――。
救えたのではないか。
もちろん、そんな「もしも」に意味がないことは分かっている。
死者は戻らない。
過去は変わらない。
それでも、その仮定は頭から離れなかった。
目の前にいる男なら。
この男ほどの力があったなら。
あの夜に間に合っていたなら。
胸の奥に、奇妙な感情が生まれた。
希望。
それは、彼が長い間、とうに捨てたと思っていたものだった。
だが、その希望はすぐに別の感情へと変わった。
切望。
そして――絶望。
なぜなら、この男は今ここにいる。
だが、あの夜にはいなかった。
少女が死んだ後も。
世界が狂った後も。
エイドリアンの計画が実行された後も。
ウォルター・コバックスが死んだ後も。
神は来なかった。
なぜ今なんだ。
ロールシャッハの拳が、ゆっくりと握り締められる。
「……スーパーマン」
「そうだ」
「お前は、なぜ何もしない?」
スーパーマンは眉を寄せた。
「何もしない、というのは?」
「世界を変えない」
ロールシャッハは一歩前へ出た。
「その力があるなら、できるはずだ」
「力があるからといって、世界を支配していい理由にはならない」
「支配?」
ロールシャッハが鼻で笑う。
「違う。掃除だ」
「人間を悪と善に分けて、悪い人間を全部消せと言っているのか?」
「そうだ」
迷いのない返答だった。
「お前ならできる」
スーパーマンはしばらく黙っていた。
「……僕には、そんなことはできない」
「なぜだ」
「人間には、自分で選ぶ権利がある」
「権利」
ロールシャッハは、その言葉を吐き捨てるように繰り返した。
「またそれか」
「君はひどく傷ついている」
スーパーマンの声は穏やかだった。
「怒りで、自分自身を守ろうとしているんだと思う」
その言葉に、ロールシャッハの動きが止まった。
「君が何を経験したのかは分からない」
スーパーマンはゆっくりと右手を差し出した。
「でも、一人で抱える必要はない」
雨が、その手の甲を滑り落ちていく。
「僕に話してくれ」
ロールシャッハは、その手を見つめた。
神の手。
誰かを救うための手。
自分には届かなかった手。
その瞬間、ロールシャッハの胸の奥で何かが切れた。
「……哀れみなど」
拳が震える。
「俺には必要ない」
「哀れんでいるんじゃない」
「同じことだ!」
ロールシャッハは叫んだ。
「お前は空から降りてくる!」
「人間を救う!」
「そして最後には、何もかも分かったような顔をして帰っていく!」
「お前には、地べたの泥が見えていない!」
その叫びは、怒りだけではなかった。
悲鳴だった。
長い間押し殺していた、どうしようもない悲鳴。
スーパーマンの表情が変わる。
「君……」
ロールシャッハは拳を握った。
そして、目の前の「神」に向かって踏み出した。
殴るつもりだった。
勝てるとは思っていない。
傷つけられるとも思っていない。
ただ――
その手を拒絶したかった。
神に救われることを。
神に許されることを。
神に哀れまれることを。
すべて。
「絶対に――」
拳が振り上げられる。
「妥協はしない!」
その瞬間だった。
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ドンッ――!!
空間そのものが震えた。
廃遊園地の地面に亀裂が走る。
周囲の雨粒が、見えない壁に弾かれたように一斉に吹き飛んだ。
スーパーマンが目を見開く。
「これは……?」
ロールシャッハ自身にも何が起きているのか分からなかった。
ただ、身体の奥から何かが流れ込んでくる。
熱。
力。
そして――「音」。
最初に聞こえたのは、すぐ近くの音だった。
雨。
壊れた遊具。
スーパーマンの呼吸。
自分自身の心臓。
次に、その距離が伸びた。
廃遊園地の外。
数ブロック先。
さらに遠く。
ゴッサム中。
「……なんだ、これは」
ロールシャッハが頭を押さえる。
音が増えていく。
車のエンジン。
警報。
誰かの怒鳴り声。
遠くの銃声。
誰かが泣いている。
誰かが助けを求めている。
誰かが誰かを憎んでいる。
誰かが誰かを裏切っている。
ひとつ。
ふたつ。
十。
百。
数え切れない。
視界も変わった。
世界が白黒に染まっていく。
壁が透ける。
建物の内部が見える。
「やめろ……」
ロールシャッハが呻く。
だが、止まらない。
音の距離がさらに広がる。
ゴッサムだけではない。
都市の向こう。
海の向こう。
世界のどこか。
無数の声が、彼の意識へ流れ込んでくる。
善意もある。
祈りもある。
笑い声もある。
だが、それ以上に――
怒り。
嫉妬。
憎悪。
恐怖。
裏切り。
人間の中に存在する、あらゆる醜さ。
それが一斉に押し寄せてきた。
「ぐ……あああああッ!」
ロールシャッハが膝をつく。
スーパーマンが駆け寄る。
「大丈夫か!」
「来るな!」
ロールシャッハは顔を上げた。
その顔は、白黒のマスクに覆われている。
インクの染みだけが、これまでにない速度で蠢いていた。
スーパーマンは理解できないものを見つめていた。
「君の身体に、一体何が……」
ロールシャッハ自身にも分からない。
だが、一つだけ分かった。
この力は、エイドリアンの残したものだ。
そして、目の前の「神」と自分の精神が引き起こした、あり得ない共鳴。
神の力。
あるいは――
神のまがいもの。
ロールシャッハはゆっくりと立ち上がった。
足が地面から浮く。
ほんの数インチ。
それでも、人間にとってはあり得ない現象だった。
「お前が世界を掃除しないというのなら……」
その声には、もはや苦痛しか残っていなかった。
「この俺がやる」
「待て!」
スーパーマンが手を伸ばす。
だが、遅かった。
ロールシャッハの身体が夜空へ跳ね上がる。
音が消える。
雨が消える。
街が遠ざかる。
そして――
彼はゴッサムの空を飛んだ。
その姿を、スーパーマンはただ見上げていた。
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神の力を手に入れた。
そう思った。
これで世界を変えられる。
これで悪を終わらせられる。
これで、もう二度と誰も泣かなくて済む。
……そう思った。
だが、俺はまだ知らなかった。
神の眼で世界を見るということが、何を意味するのかを。
人間の悪意を、一つ残らず知るということが、どれほど恐ろしいことなのかを。
あの瞬間の俺は、まだ知らなかった。
神になることが、救済ではなく――
地獄の入口だったということを。