ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained)   作:KSV8

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3:神の不在

ピエロに逃げられた後、廃遊園地の空が裂けた。

エイドリアン(オジマンディアス)が遺した次元歪曲テクノロジー。その残滓が、この街の澱んだ空気の底で、青い毒のように脈打っている。

だが、そんな異常現象すらどうでもよくなるほどの「異変」が、俺の目の前に舞い降りた。

 

星条旗の色。胸に刻まれた、血のように赤い「S」の紋章。

全身青タイツ男。メトロポリスの生ける神。

 

スーパーマン。

 

奴が空から静かに降り立った瞬間、俺は理解した。

この世界には、本当に「神」がいる。

そして――それが、たまらなく気に入らない。

 

---

 

激しい雨が、廃遊園地のアスファルトを叩き続けていた。

ジョーカーが逃げ去った後に残った煙幕も、雨に打たれて次第に薄れていく。

 

その向こう。

雲の切れ間から、一つの人影がゆっくりと降りてきた。

地面に降り立った瞬間、不思議な静けさが周囲を包んだ。

雨音さえ、一瞬だけ遠ざかったように感じられる。

青い瞳に敵意はない。

見下すような光もない。

そこにあったのは、ただ純粋な心配だった。

 

「……君がやったのか?」

 

スーパーマンは、泥と雨にまみれたロールシャッハを見つめた。

 

「この場所から、強いエネルギーの乱れが観測された。バットマンからも、ゴッサムに見慣れない覆面の自警団員が現れたと聞いている。ここで何があったんだ?」

 

真っ直ぐな声だった。

あまりにも真っ直ぐだった。

ロールシャッハは答えなかった。

 

ただ、その男を見上げていた。

 

ここ数日間、ゴッサムの裏側を這い回ってきた。

噂は嫌というほど聞いていた。

弾丸を弾き、人々を救い、空を飛ぶ男。

誰もが彼を信頼している。

誰もが彼を「ヒーロー」と呼んでいる。

 

だが、噂と実物では違った。

 

実物のスーパーマンは、想像していたよりも遥かに静かだった。

 

そして――遥かに優しかった。

 

そのことが、ロールシャッハには耐え難かった。

 

こいつだ。

 

この世界に来てから見たヤツの中で、一番気に入らない。

 

バットマンよりも。

ジョーカーよりも。

この男が、一番気に入らない。

 

なぜなら――

 

 

こいつは本物だからだ。

 

---

 

ロールシャッハの脳裏に、遠い記憶が蘇った。

 

1975年。

ブレア・ロッシュ事件。

暗い小屋。

少女の遺体を喰う犬。

凍りついた時間。

 

そして――間に合わなかった自分。

 

 

あの時、少女はもう死んでいた。

助けを求める声など、どこにもなかった。

ただ、取り返しのつかない現実だけが、そこにあった。

もし、あの夜。

空から、この男が降りてきていたら。

もし、圧倒的な力を持つ誰かが、もっと早くあの場所を見つけていたら。

もし――。

 

 

救えたのではないか。

 

もちろん、そんな「もしも」に意味がないことは分かっている。

死者は戻らない。

過去は変わらない。

それでも、その仮定は頭から離れなかった。

目の前にいる男なら。

この男ほどの力があったなら。

あの夜に間に合っていたなら。

胸の奥に、奇妙な感情が生まれた。

 

 

希望。

 

それは、彼が長い間、とうに捨てたと思っていたものだった。

だが、その希望はすぐに別の感情へと変わった。

切望。

そして――絶望。

 

なぜなら、この男は今ここにいる。

だが、あの夜にはいなかった。

少女が死んだ後も。

世界が狂った後も。

エイドリアンの計画が実行された後も。

ウォルター・コバックスが死んだ後も。

 

神は来なかった。

 

なぜ今なんだ。

 

ロールシャッハの拳が、ゆっくりと握り締められる。

「……スーパーマン」

「そうだ」

「お前は、なぜ何もしない?」

スーパーマンは眉を寄せた。

「何もしない、というのは?」

「世界を変えない」

 

ロールシャッハは一歩前へ出た。

「その力があるなら、できるはずだ」

「力があるからといって、世界を支配していい理由にはならない」

「支配?」

ロールシャッハが鼻で笑う。

「違う。掃除だ」

「人間を悪と善に分けて、悪い人間を全部消せと言っているのか?」

「そうだ」

迷いのない返答だった。

「お前ならできる」

スーパーマンはしばらく黙っていた。

「……僕には、そんなことはできない」

「なぜだ」

「人間には、自分で選ぶ権利がある」

「権利」

ロールシャッハは、その言葉を吐き捨てるように繰り返した。

「またそれか」

「君はひどく傷ついている」

スーパーマンの声は穏やかだった。

「怒りで、自分自身を守ろうとしているんだと思う」

その言葉に、ロールシャッハの動きが止まった。

「君が何を経験したのかは分からない」

スーパーマンはゆっくりと右手を差し出した。

「でも、一人で抱える必要はない」

雨が、その手の甲を滑り落ちていく。

「僕に話してくれ」

 

ロールシャッハは、その手を見つめた。

 

神の手。

誰かを救うための手。

自分には届かなかった手。

その瞬間、ロールシャッハの胸の奥で何かが切れた。

「……哀れみなど」

拳が震える。

「俺には必要ない」

「哀れんでいるんじゃない」

「同じことだ!」

 

ロールシャッハは叫んだ。

「お前は空から降りてくる!」

「人間を救う!」

「そして最後には、何もかも分かったような顔をして帰っていく!」

「お前には、地べたの泥が見えていない!」

その叫びは、怒りだけではなかった。

 

悲鳴だった。

長い間押し殺していた、どうしようもない悲鳴。

 

スーパーマンの表情が変わる。

「君……」

ロールシャッハは拳を握った。

そして、目の前の「神」に向かって踏み出した。

 

殴るつもりだった。

勝てるとは思っていない。

傷つけられるとも思っていない。

 

ただ――

 

その手を拒絶したかった。

神に救われることを。

神に許されることを。

神に哀れまれることを。

 

すべて。

 

 

「絶対に――」

拳が振り上げられる。

「妥協はしない!」

 

その瞬間だった。

 

---

 

ドンッ――!!

 

空間そのものが震えた。

廃遊園地の地面に亀裂が走る。

周囲の雨粒が、見えない壁に弾かれたように一斉に吹き飛んだ。

 

スーパーマンが目を見開く。

「これは……?」

 

ロールシャッハ自身にも何が起きているのか分からなかった。

ただ、身体の奥から何かが流れ込んでくる。

 

熱。

 

力。

 

そして――「音」。

 

 

最初に聞こえたのは、すぐ近くの音だった。

雨。

壊れた遊具。

スーパーマンの呼吸。

自分自身の心臓。

 

 

次に、その距離が伸びた。

廃遊園地の外。

数ブロック先。

さらに遠く。

ゴッサム中。

 

 

「……なんだ、これは」

ロールシャッハが頭を押さえる。

音が増えていく。

車のエンジン。

警報。

 

 

誰かの怒鳴り声。

遠くの銃声。

誰かが泣いている。

誰かが助けを求めている。

誰かが誰かを憎んでいる。

誰かが誰かを裏切っている。

 

 

ひとつ。

ふたつ。

十。

百。

 

数え切れない。

 

視界も変わった。

世界が白黒に染まっていく。

壁が透ける。

建物の内部が見える。

 

 

「やめろ……」

ロールシャッハが呻く。

 

だが、止まらない。

 

 

音の距離がさらに広がる。

ゴッサムだけではない。

都市の向こう。

海の向こう。

世界のどこか。

無数の声が、彼の意識へ流れ込んでくる。

 

 

善意もある。

祈りもある。

笑い声もある。

 

だが、それ以上に――

 

 

怒り。

嫉妬。

憎悪。

恐怖。

裏切り。

 

人間の中に存在する、あらゆる醜さ。

それが一斉に押し寄せてきた。

 

 

「ぐ……あああああッ!」

 

ロールシャッハが膝をつく。

スーパーマンが駆け寄る。

 

「大丈夫か!」

「来るな!」

 

ロールシャッハは顔を上げた。

その顔は、白黒のマスクに覆われている。

インクの染みだけが、これまでにない速度で蠢いていた。

 

スーパーマンは理解できないものを見つめていた。

「君の身体に、一体何が……」

ロールシャッハ自身にも分からない。

だが、一つだけ分かった。

この力は、エイドリアンの残したものだ。

そして、目の前の「神」と自分の精神が引き起こした、あり得ない共鳴。

 

 

神の力。

 

あるいは――

 

神のまがいもの。

 

 

ロールシャッハはゆっくりと立ち上がった。

足が地面から浮く。

ほんの数インチ。

 

それでも、人間にとってはあり得ない現象だった。

「お前が世界を掃除しないというのなら……」

その声には、もはや苦痛しか残っていなかった。

 

「この俺がやる」

「待て!」

 

スーパーマンが手を伸ばす。

 

だが、遅かった。

ロールシャッハの身体が夜空へ跳ね上がる。

音が消える。

雨が消える。

街が遠ざかる。

 

 

そして――

 

彼はゴッサムの空を飛んだ。

その姿を、スーパーマンはただ見上げていた。

 

---

 

神の力を手に入れた。

そう思った。

これで世界を変えられる。

これで悪を終わらせられる。

これで、もう二度と誰も泣かなくて済む。

 

 

……そう思った。

だが、俺はまだ知らなかった。

神の眼で世界を見るということが、何を意味するのかを。

人間の悪意を、一つ残らず知るということが、どれほど恐ろしいことなのかを。

 

 

あの瞬間の俺は、まだ知らなかった。

神になることが、救済ではなく――

地獄の入口だったということを。

 

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