ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained) 作:KSV8
神の力が、俺の五臓六腑を焼き尽くしている。
あの全身青タイツの差し伸べた手を拒絶した瞬間、俺の精神とエイドリアンの遺した次元歪曲テクノロジーが、最悪の形で共鳴した。
今、俺は光を超えて飛んでいる。
だが、見えているものは地獄だ。
聞こえてくるものも地獄だ。
世界中の「真実」が、容赦なく頭蓋骨の内側へ流れ込んでくる。
ソニックブームが夜空を引き裂いた。
ロールシャッハの肉体は、音速の壁を遥かに超え、夜空を赤い閃光となって駆け抜けていた。
かつて、ただの人間だった頃。
彼が求めていたものは、悪の徹底的な粛清だった。
ならば、この力はまさに神から与えられた答えのように思えた。
数キロ先。
路地裏でナイフを振り上げた強盗の前に、瞬きほどの時間で飛来する。
男が何かを言うより早く、その腕をへし折り圧倒的な力で殺す。
別の場所では、麻薬を密造していた組織を建物ごと一人で制圧する。
逃げようとする人間を追い、武器を奪い、抵抗する者を地面へ叩き伏せる。
かつてなら何時間もかけて追跡し、時には自分の血を流してようやく辿り着いた犯罪現場へ、今のロールシャッハは一瞬で到達できた。
悪を見つける。
悪を裁く。
それだけだ。
だが――。
問題は、悪があまりにも多すぎることだった。
そして、今のロールシャッハには、それが見えてしまっていた。
聞こえてしまっていた。
感じ取れてしまっていた。
超感覚によって拡張された意識へ、世界中の人間の声が洪水のように流れ込んでくる。
「あいつが死ねば、保険金が手に入る」
「誰も見ていない。やってもバレない」
「あの国を潰せば、俺たちの会社は儲かる」
「あいつさえ消えれば、俺が認められる」
殺意。
嫉妬。
強欲。
憎悪。
裏切り。
世界中で、誰かが誰かを傷つけようとしている。
しかも、それは犯罪者だけではなかった。
善人の顔をした人間。
家族を愛している人間。
他人を助けている人間。
その胸の奥にも、誰にも見せない醜い感情がある。
それまでロールシャッハが「悪」と呼んできたものより、遥かに巨大だった。
「……黙れ」
一人の犯罪者を倒す。
次の瞬間、別の場所で犯罪が起きる。
そいつを倒す。
また別の場所で誰かが誰かを憎む。
止まらない。
終わらない。
どれだけ殺しても。
どれだけ潰しても。
どれだけ世界を掃除しても。
次の瞬間には、新しい悪意が生まれている。
「黙れ……!」
両手で頭を抱える。
だが、声は消えない。
何百万。
何千万。
何億という人間の思考が、濁流となって脳へ流れ込んでくる。
「ウアアアアアアアアアッ!!」
ロールシャッハは天空で絶叫した。
その瞬間。
彼の中に、一つの理解が生まれた。
あまりにも冷たく。
あまりにも絶望的な理解だった。
……そういうことか。
なぜ、コウモリは悪党を殺さなかった。
なぜ、スーパーマンは、あれほどの力を持ちながら人間を支配しようとしなかった。
なぜ、マンハッタンは、人間を救うことに興味を失っていった。
奴らは知っていた。
知っていたのだ。
悪を完全に消そうとするなら、その悪を生み出す人間そのものに手をかけなければならない。
犯罪者だけを殺しても意味がない。
次の犯罪者が生まれる。
悪意を持つ人間を殺しても意味がない。
次の人間が、また悪意を抱く。
ならば――
ロールシャッハの思考が止まった。
人間そのものを消すしかない。
風が吹き抜ける。
雲の切れ間から、遠く地上の光が見えた。
……違う。
これは正義ではない。
俺が求めていたものではない。
初めてだった。
自分自身の思想に、疑問を抱いたのは。
ロールシャッハは、かつて自分が何を信じていたのかを思い返した。
悪は悪。
善は善。
世界がどれだけ腐っていても、線を引くことだけはできる。
だから妥協しない。
だから殺す。
だから、自分だけは真実を濁らせない。
だが――。
今の彼には、その「線」の向こう側まで見えてしまっている。
人間は単純ではない。
善人の中にも悪意がある。
悪人にも恐怖がある。
誰もが矛盾を抱えている。
そして、その矛盾そのものが人間なのだ。
「……俺は世界を救えない」
その呟きは、初めて敗北を認めた男の声だった。
その時。
「もうやめるんだ!」
大気を切り裂き、一つの影が飛来した。
スーパーマンだった。
ロールシャッハの正面で急停止した彼は、暴走する男を真っ直ぐに見つめる。
「もう十分だ」
「……来たか」
「その力は、君を壊している」
「違う」
ロールシャッハは拳を握る。
「俺が壊れているんじゃない」
マスクのインクが、激しく蠢いた。
「世界のほうが壊れている」
次の瞬間。
ロールシャッハが拳を突き出した。
拳と拳が衝突する。
衝撃波が雲を吹き飛ばした。
二人の姿が消える。
次の瞬間には数キロ先。
さらに次の瞬間には、雲の上。
ロールシャッハは狂ったように拳を振り続けた。
スーパーマンは、それを受け止める。
避ける。
受け流す。
だが、決して殺そうとはしない。
「なぜだ!」
ロールシャッハが叫ぶ。
「なぜ反撃しない!」
「君を傷つけたくない!」
「それが気に入らないんだ!」
拳がスーパーマンの頬を捉える。
スーパーマンの体が僅かに揺れる。
「俺は悪だぞ!」
「君は苦しんでいる!」
「同じことだ!」
「違う!」
その一言が、ロールシャッハの胸を突いた。
だが、彼は止まらない。
怒り。
絶望。
屈辱。
そして、自分自身でも理解できない感情。
それら入り混じった感情が、スーパーマンへ叩きつけられる。
「この偽善野郎ォォォッ!!」
ロールシャッハの目に、未知の熱が集まった。
次の瞬間。
マスクの内側から真紅の熱線が放たれた。
スーパーマンが咄嗟に腕を上げる。
白と黒のインクが、炎の中で歪む。
焦げた布が裂ける。
そして――。
マスクの一部が、音を立てて崩れ落ちた。
「……っ」
スーパーマンの目に、ロールシャッハの素顔が映った。
そこにあったのは、怪物の顔ではなかった。
疲れ切った、一人の男の顔。
目は充血していた。
頬には汗と涙が混ざっていた。
そして、その瞳には――。
怒りではなく。
底なしの孤独があった。
スーパーマンは息を呑んだ。
目の前にいるのは、世界を破壊しようとしている神ではない。
神の力を持ってしまった、ただの人間(ウォルター・コバックス)だった。
スーパーマンは呼びかける。
「君はまだ戻れる」
「戻る場所なんてない」
「ある」
スーパーマンはゆっくりと近づく。
「君が一人で決める必要はない」
ロールシャッハは首を振った。
地球から、無数の声が聞こえる。
まだ聞こえている。
憎しみ。
恐怖。
欲望。
悲鳴。
だが、その中に――。
誰かを愛する声もあった。
誰かを救おうとする声もあった。
誰かのために泣く声もあった。
ロールシャッハは、それを聞いてしまった。
そして理解する。
人間は悪だけではない。
だが――。
善だけでもない。
だからこそ。
自分には裁けない。
「……俺の居場所は、ここにはない」
ロールシャッハは呟いた。
「君はどこへ行くつもりなんだ?」
「誰もいないところへ」
「まて!」
ロールシャッハはスーパーマンから目を逸らした。
そして――。
真上へ飛んだ。
一瞬で大気圏を突破する。
空気が消える。
音が消える。
そして。
世界中の声が、少しずつ遠ざかっていく。
地球が遠くなる。
青い星。
その光を、ロールシャッハはしばらく見つめていた。
「……真実を濁らせるな」
誰に言ったのか。
自分自身に言ったのか。
もう分からない。
赤い光が消える。
エイドリアンの遺した力が、限界を迎える。
全身を覆っていた異様なエネルギーが、少しずつ霧散していく。
超感覚が消える。
飛ぶ力が消える。
溢れ出る力が消える。
そして――。
ロールシャッハは、再びただの人間になった。
宇宙の暗闇の中。
彼は静かに目を開く。
地球は、まだ遠くにあった。
青く。
美しく。
そして、どうしようもなく醜い。
人間は悪だ。
だが、悪だけではない。
それが一番、気に入らない。
俺は地球を離れた。