ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained)   作:KSV8

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4:悪意

神の力が、俺の五臓六腑を焼き尽くしている。

 

あの全身青タイツの差し伸べた手を拒絶した瞬間、俺の精神とエイドリアンの遺した次元歪曲テクノロジーが、最悪の形で共鳴した。

 

今、俺は光を超えて飛んでいる。

だが、見えているものは地獄だ。

聞こえてくるものも地獄だ。

世界中の「真実」が、容赦なく頭蓋骨の内側へ流れ込んでくる。

 

 

ソニックブームが夜空を引き裂いた。

ロールシャッハの肉体は、音速の壁を遥かに超え、夜空を赤い閃光となって駆け抜けていた。

かつて、ただの人間だった頃。

彼が求めていたものは、悪の徹底的な粛清だった。

ならば、この力はまさに神から与えられた答えのように思えた。

 

数キロ先。

 

路地裏でナイフを振り上げた強盗の前に、瞬きほどの時間で飛来する。

男が何かを言うより早く、その腕をへし折り圧倒的な力で殺す。

 

別の場所では、麻薬を密造していた組織を建物ごと一人で制圧する。

 

逃げようとする人間を追い、武器を奪い、抵抗する者を地面へ叩き伏せる。

 

かつてなら何時間もかけて追跡し、時には自分の血を流してようやく辿り着いた犯罪現場へ、今のロールシャッハは一瞬で到達できた。

 

悪を見つける。

 

悪を裁く。

 

それだけだ。

 

だが――。

問題は、悪があまりにも多すぎることだった。

 

そして、今のロールシャッハには、それが見えてしまっていた。

聞こえてしまっていた。

感じ取れてしまっていた。

超感覚によって拡張された意識へ、世界中の人間の声が洪水のように流れ込んでくる。

 

「あいつが死ねば、保険金が手に入る」

 

「誰も見ていない。やってもバレない」

 

「あの国を潰せば、俺たちの会社は儲かる」

 

「あいつさえ消えれば、俺が認められる」

 

殺意。

 

嫉妬。

 

強欲。

 

憎悪。

 

裏切り。

 

世界中で、誰かが誰かを傷つけようとしている。

しかも、それは犯罪者だけではなかった。

善人の顔をした人間。

家族を愛している人間。

他人を助けている人間。

その胸の奥にも、誰にも見せない醜い感情がある。

それまでロールシャッハが「悪」と呼んできたものより、遥かに巨大だった。

 

 

「……黙れ」

一人の犯罪者を倒す。

次の瞬間、別の場所で犯罪が起きる。

そいつを倒す。

また別の場所で誰かが誰かを憎む。

 

止まらない。

 

終わらない。

 

どれだけ殺しても。

 

どれだけ潰しても。

 

どれだけ世界を掃除しても。

 

次の瞬間には、新しい悪意が生まれている。

 

「黙れ……!」

両手で頭を抱える。

 

だが、声は消えない。

 

何百万。

 

何千万。

 

何億という人間の思考が、濁流となって脳へ流れ込んでくる。

 

「ウアアアアアアアアアッ!!」

 

ロールシャッハは天空で絶叫した。

 

 

その瞬間。

彼の中に、一つの理解が生まれた。

 

あまりにも冷たく。

あまりにも絶望的な理解だった。

 

 

……そういうことか。

なぜ、コウモリは悪党を殺さなかった。

なぜ、スーパーマンは、あれほどの力を持ちながら人間を支配しようとしなかった。

なぜ、マンハッタンは、人間を救うことに興味を失っていった。

 

奴らは知っていた。

知っていたのだ。

悪を完全に消そうとするなら、その悪を生み出す人間そのものに手をかけなければならない。

 

犯罪者だけを殺しても意味がない。

次の犯罪者が生まれる。

悪意を持つ人間を殺しても意味がない。

次の人間が、また悪意を抱く。

 

 

 

ならば――

 

ロールシャッハの思考が止まった。

 

人間そのものを消すしかない。

 

風が吹き抜ける。

雲の切れ間から、遠く地上の光が見えた。

 

……違う。

 

これは正義ではない。

俺が求めていたものではない。

 

初めてだった。

自分自身の思想に、疑問を抱いたのは。

ロールシャッハは、かつて自分が何を信じていたのかを思い返した。

 

悪は悪。

 

善は善。

 

世界がどれだけ腐っていても、線を引くことだけはできる。

 

だから妥協しない。

だから殺す。

だから、自分だけは真実を濁らせない。

 

だが――。

 

今の彼には、その「線」の向こう側まで見えてしまっている。

人間は単純ではない。

善人の中にも悪意がある。

悪人にも恐怖がある。

誰もが矛盾を抱えている。

 

 

そして、その矛盾そのものが人間なのだ。

「……俺は世界を救えない」

その呟きは、初めて敗北を認めた男の声だった。

 

 

 

その時。

「もうやめるんだ!」

大気を切り裂き、一つの影が飛来した。

スーパーマンだった。

 

ロールシャッハの正面で急停止した彼は、暴走する男を真っ直ぐに見つめる。

「もう十分だ」

「……来たか」

「その力は、君を壊している」

「違う」

 

 

ロールシャッハは拳を握る。

「俺が壊れているんじゃない」

マスクのインクが、激しく蠢いた。

「世界のほうが壊れている」

 

次の瞬間。

 

ロールシャッハが拳を突き出した。

 

 

拳と拳が衝突する。

衝撃波が雲を吹き飛ばした。

二人の姿が消える。

 

次の瞬間には数キロ先。

さらに次の瞬間には、雲の上。

ロールシャッハは狂ったように拳を振り続けた。

スーパーマンは、それを受け止める。

避ける。

受け流す。

 

 

だが、決して殺そうとはしない。

「なぜだ!」

ロールシャッハが叫ぶ。

「なぜ反撃しない!」

「君を傷つけたくない!」

「それが気に入らないんだ!」

 

拳がスーパーマンの頬を捉える。

スーパーマンの体が僅かに揺れる。

 

 

「俺は悪だぞ!」

「君は苦しんでいる!」

「同じことだ!」

「違う!」

 

その一言が、ロールシャッハの胸を突いた。

だが、彼は止まらない。

 

怒り。

 

絶望。

 

屈辱。

 

 

そして、自分自身でも理解できない感情。

それら入り混じった感情が、スーパーマンへ叩きつけられる。

 

 

「この偽善野郎ォォォッ!!」

 

ロールシャッハの目に、未知の熱が集まった。

 

次の瞬間。

マスクの内側から真紅の熱線が放たれた。

スーパーマンが咄嗟に腕を上げる。

 

白と黒のインクが、炎の中で歪む。

焦げた布が裂ける。

 

 

そして――。

マスクの一部が、音を立てて崩れ落ちた。

 

「……っ」

 

スーパーマンの目に、ロールシャッハの素顔が映った。

 

そこにあったのは、怪物の顔ではなかった。

疲れ切った、一人の男の顔。

目は充血していた。

頬には汗と涙が混ざっていた。

 

 

そして、その瞳には――。

怒りではなく。

底なしの孤独があった。

 

 

スーパーマンは息を呑んだ。

目の前にいるのは、世界を破壊しようとしている神ではない。

神の力を持ってしまった、ただの人間(ウォルター・コバックス)だった。

 

 

スーパーマンは呼びかける。

「君はまだ戻れる」

「戻る場所なんてない」

「ある」

 

スーパーマンはゆっくりと近づく。

 

「君が一人で決める必要はない」

 

ロールシャッハは首を振った。

地球から、無数の声が聞こえる。

 

まだ聞こえている。

 

憎しみ。

 

恐怖。

 

欲望。

 

悲鳴。

 

だが、その中に――。

 

誰かを愛する声もあった。

 

誰かを救おうとする声もあった。

 

誰かのために泣く声もあった。

 

ロールシャッハは、それを聞いてしまった。

 

 

そして理解する。

人間は悪だけではない。

 

だが――。

善だけでもない。

 

 

だからこそ。

自分には裁けない。

 

 

「……俺の居場所は、ここにはない」

ロールシャッハは呟いた。

 

 

「君はどこへ行くつもりなんだ?」

「誰もいないところへ」

「まて!」

 

ロールシャッハはスーパーマンから目を逸らした。

 

そして――。

真上へ飛んだ。

 

 

一瞬で大気圏を突破する。

空気が消える。

音が消える。

 

そして。

 

世界中の声が、少しずつ遠ざかっていく。

地球が遠くなる。

 

青い星。

その光を、ロールシャッハはしばらく見つめていた。

 

 

「……真実を濁らせるな」

誰に言ったのか。

 

自分自身に言ったのか。

 

もう分からない。

赤い光が消える。

 

エイドリアンの遺した力が、限界を迎える。

全身を覆っていた異様なエネルギーが、少しずつ霧散していく。

 

超感覚が消える。

 

飛ぶ力が消える。

 

溢れ出る力が消える。

 

そして――。

 

ロールシャッハは、再びただの人間になった。

 

宇宙の暗闇の中。

彼は静かに目を開く。

 

地球は、まだ遠くにあった。

青く。

美しく。

そして、どうしようもなく醜い。

 

 

 

 

 

人間は悪だ。

だが、悪だけではない。

それが一番、気に入らない。

 

俺は地球を離れた。

 

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