ウォッチメン:アンチェインド(Watchmen: Unchained) 作:KSV8
ロールシャッハの日記:19XX年、11月5日。
神の力は、まやかしだった。
あの青タイツが見ている世界は、あまりにも高すぎる。
地上の泥も、そこに這いつくばる人間の醜さも、すべてが小さすぎるのだ。
神の力を手に入れた瞬間、世界中の悪意が耳鳴りのように脳へ流れ込んできた。
どれだけ悪を消し去っても、人間の心がある限り、次の瞬間には新たな裏切りと暴力が芽を出す。
妥協なき正義の果てにあるもの。
それは、人類そのものの消滅だった。
危うく、あのマンハッタンと同じ怪物の思考に囚われるところだった。
宇宙の果てで意識を失った俺が、なぜ今、ゴッサムの薄汚い安アパートのベッドの上にいるのか。
理由は分からない。
ただ一つ確かなのは、誰かが俺を拾ったということだ。
余計な真似をしやがって。
だが、超常の力が消え、再び泥の中へ叩き戻された今、
――頭の中は、これ以上ないほど静かだ。
それでいい。
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ゴッサム・シティ。
イーストエンドの端にある、家賃の安い薄暗いアパートの一室。
外では相変わらず激しい雨が降り続いていた。
割れた窓ガラスの隙間から冷たい風が吹き込み、雨粒が床を叩く。
それ以外には、何も聞こえない。
ロールシャッハは軋むベッドの端に腰掛け、トレンチコートの懐から取り出した冷え切った缶詰の豆を、金属製のスプーンですくっていた。
一口。
咀嚼。
また一口。
その音だけが、薄暗い部屋に消えていく。
宇宙のことなど、もう考えない。
神のことも。
世界のことも。
ましてや、人類のことなど。
食べ終えると、空になった缶詰を部屋の隅のゴミ箱へ乱暴に放り投げた。
金属の乾いた音が響く。
ロールシャッハは立ち上がった。
部屋の隅には、埃を被った姿見がある。
その鏡に、自分の姿が映っていた。
汚れた帽子。
泥と雨に汚れたトレンチコート。
そして、顔を覆う白黒の布。
マスクは熱線によって大きく焼け落ちていた。
ぽっかりと空いた穴が無造作にふさがれている。
ゴミ捨て場から拾ってきた黒い布を切り取り、それを穴の周囲へ縫い付けていた。
縫い目は粗い。
形も歪んでいる。
それでも十分だった。
白と黒のインクが蠢く。
ゆっくりと。
呼吸に合わせるように。
いつものように。
ロールシャッハは鏡を見つめた。
一瞬だけ、宇宙で見た青い地球が脳裏をよぎる。
何十億もの人間。
何十億もの悪意。
そして、その中に存在していた、ほんのわずかな善意。
あれほどの力を持っても、世界を変えることはできなかった。
ならば――。
「……くだらん」
それ以上考えることをやめた。
スーパーマンは今頃、どこかで人間を救っているのだろう。
隕石を砕き。
飛行機を助け、
人々の希望として空を飛んでいる。
バットマンは、今夜もゴッサムのどこかで悪党を捕まえている。
殴る。
縛る。
警察に渡す。
そして、また別の夜に同じことを繰り返す。
それでいい。
世界を完全に変えることなど、誰にもできない。
人間がいる限り、悪は生まれる。
それを理解した。
だが――。
だからといって、目の前の悪を見逃す理由にはならない。
ロールシャッハは古びた帽子を深く被り直した。
そして、アパートの扉を開けた。
再び、ゴッサムの夜へ。
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雨の中を歩く。
濡れた路地。
腐った生ゴミ。
割れた街灯。
遠くから聞こえるパトカーのサイレン。
いつものゴッサム。
神の力を失った今、聞こえるのはそれだけだった。
それで十分だった。
路地の角を曲がったところで、女の声が聞こえた。
「やめて……!」
ロールシャッハは足を止めた。
少し先。
レンガ壁に追い詰められた女性。
その前には、ナイフを手にした若い男が立っている。
男は女の財布を奪おうとしていた。
「さっさと出せよ」
ナイフの刃が、雨に濡れて光る。
男の顔には、この街で何度も見てきたものと同じ表情が浮かんでいた。
欲望。
そして、他人を傷つけることへの慣れ。
ロールシャッハは何も言わなかった。
ゆっくりと歩き出す。
男の背後まで近づく。
足音は、雨に消えた。
男がようやく異変に気づいた。
「……誰だ?」
振り返る。
遅い。
ロールシャッハの手が男の手首を掴んだ。
生身の人間の力。
だが、限界まで鍛え上げられた握力。
男の手からナイフを叩き落とす。
腕を締め上げられた男は呻きながら叫ぶ。
「放せ!」
ロールシャッハは答えない。
男の手を掴む。
親指。
人差し指。
中指。
一本ずつ確認するように握る。
男の顔から血の気が引いた。
「お、おい……やめろ」
ロールシャッハは、マスク越しに男を見つめた。
白黒のインクが、ゆっくりと蠢く。
「やめろ?」
低い声だった。
「その女がそれを言ったとき、おまえはやめたか?」
男は答えられない。
「やめろ……!」
ロールシャッハは手を離さない。
そして――。
指を、逆方向へ折り曲げた。
――ボキッ。
硬い骨の音が、雨の路地裏に響いた。
「ぎゃあああああッ!」
男が絶叫する。
泥水の中へ崩れ落ち、折れた指を抱えて転げ回る。
ロールシャッハは、その姿を見下ろした。
女性は腰を抜かしたように壁へ背を預けている。
ロールシャッハは彼女を見る。
女性もまた、震えながらロールシャッハを見つめていた。
何かを言おうとしている。
礼か。
恐怖か。
あるいは、ただ助かったという安堵か。
だが、ロールシャッハは何も言わない。
男の襟を掴み、そのまま引きずっていく。
路地の暗闇へ。
背後から女性の呼ぶ声が聞こえた。
だが、振り返らない。
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世界は救えない。
それは分かった。
人間は善だけではない。
悪だけでもない。
だから、世界そのものを裁くことはできない。
そんな資格もない。
だが――。
目の前で誰かを傷つけようとしている人間を止めることならできる。
神の力など必要ない。
飛べなくてもいい。
世界中の声が聞こえなくてもいい。
この拳があれば十分だ。
ロールシャッハは雨の中を歩き続ける。
神の力を失った。
世界を救うこともできない。
人類を裁くこともできない。
それでも――。
目の前の悪から目を逸らさない。
それだけは変わらない。
指の折れる音が妙に懐かしく感じた。
あの音が、自分がまだ怪物ではなく、地べたを這い回る一人の人間なのだと思い出させてくれた。
神ではない。
救世主でもない。
ただの人間だ。
それでいい。
俺はロールシャッハだ。