そこに書かれていたのは、直人自身の行動だった。
やがて、友人の事故、繰り返し見る悪夢、数分後に起こる出来事、そして自分の死を記した原稿が現れ始める。
書かれたことは、本当に起こるのか。
それとも、原稿を読んだことによって現実が変わるのか。
記録することで真実を残そうとした男は、消えていく文字を前に、紙ではない方法で何かを残そうとする。
これは、記録係として働く一人の男が、少しずつ日常から外れていく話です。
最初は、ただの紙です。
机の上に置かれた、何の変哲もない原稿用紙。
そこへ書かれていることも、最初は大したものではありません。
ただ、もし自分の行動が、行動する前から書かれていたら。
もし、捨てたはずの紙が、翌朝また現れたら。
もし、自分の死んだ後のことまで、すでに記録されていたら。
あなたは、その紙を読むでしょうか。
それでは、最初の一枚が置かれていた朝へ、どうぞ。
最初に原稿用紙が届いた朝、片桐直人は、それを自分宛てのものだとは思わなかった。
机の上に置かれていた。
それだけだった。
直人はいつものように、朝の鐘が鳴る少し前に目を覚ました。布団の中でしばらく目を開けず、部屋の外に人の気配があるかを確かめる。
廊下を誰かが歩いている。
足音は一つ。
続いて、戸を開ける音がした。
屋敷の使用人が、朝の支度を始めたのだろう。
直人は布団から出た。
朝の空気は冷えていた。まだ冬ではないが、夜の冷たさが畳に残っている。袖を通した着物の布地が、肌へ触れた。
机へ向かう。
その上に、一枚の原稿用紙が置かれていた。
見覚えのない紙だった。
直人は、足を止めた。
昨夜、机の上は片づけたはずだった。今日使う帳面と筆、それから昨日の仕事で使った記録用紙を一冊。そこに原稿用紙など置いた覚えはない。
原稿用紙は、白かった。
正確には、何も書かれていないわけではない。
中央に、墨で一行だけ書かれている。
『片桐直人は、朝の鐘が鳴る前に目を覚ました。』
直人は、紙を見つめた。
自分の名前が書かれている。
それが、最初に気になった。
次に、書かれている内容が気になった。
朝の鐘が鳴る前に目を覚ました。
それは、今朝の直人の行動そのものだった。
しかし、それだけなら、誰かの悪戯でも説明できる。
直人の生活を知る人間なら、朝の鐘より早く起きることも、記録係として毎朝机へ向かうことも知っている。
自分をからかうため、誰かが前夜に置いたのかもしれない。
直人は、紙を裏返した。
裏には何もない。
紙の端も確認する。
差出人の名も、書いた人物の印もなかった。
筆跡は、直人のものではない。
だが、誰のものかも分からなかった。
直人は、原稿用紙を持ち上げた。
紙は普通だった。
特別な匂いもしない。
触れた感触も、他の原稿用紙と変わらない。
しばらく見ていたが、直人はそれを机の隅へ置いた。
朝から誰かの悪戯に付き合うつもりはなかった。
今日は、人里の記録庫へ行き、前日に届いた土地関係の書類を整理する予定だった。午後には、道の補修に関する古い記録を照合しなければならない。
直人にとって、朝の時間は貴重だった。
筆を取り、今日の予定を書き出す。
書類をまとめる。
原稿用紙のことは、意識しないようにした。
しかし、何度か視線がそちらへ向いた。
そのたびに、紙面の一行が目に入る。
片桐直人は、朝の鐘が鳴る前に目を覚ました。
文章としては、何の変哲もない。
誰かの行動を記録しただけ。
それでも、自分が今まさに行ったことを、知らない誰かが先に書いていたという事実だけが、薄い違和感として残った。
朝の鐘が鳴った。
直人は、紙を二つ折りにした。
そのまま、机の引き出しへ入れる。
捨てるほどではない。
しかし、机の上へ置いておくのも落ち着かない。
それだけの判断だった。
直人は家を出た。
人里の朝は、いつも通りだった。
店を開ける者。
水を汲む者。
荷車へ荷物を積む者。
寺子屋へ向かう子どもたち。
それぞれが、自分の一日を始めている。
直人は、人々の顔を見ながら歩いた。
記録係として働くようになってから、人の様子を見ることが多くなった。
困っている者は、最初から困っている顔をしているわけではない。
誰かに言われる前に、何かを隠すような仕草をする。
怒っている者は、声を荒げるとは限らない。
むしろ、普段より静かになり、返事が短くなる。
直人は、そうした変化を記録する仕事ではなかった。
それでも、日々人と接していると、自然に目へ入る。
人里の外れにある記録所へ着く。
建物は古く、入口の柱には何度も塗り直した跡があった。
戸を開けると、先に来ていた者が二人いた。
「おはよう、直人」
声をかけたのは、同僚の真鍋清之だった。
三十代半ばで、いつも直人より先に来ている。記録所で働く前は、商家で帳簿をつけていたらしい。
「おはようございます」
「今日は早いな」
「いつもと同じですよ」
「そうか? 鐘が鳴る前に来るのは珍しいだろう」
「鐘の前には起きていましたけれど」
直人は、そう答えてから、朝の原稿用紙を思い出した。
片桐直人は、朝の鐘が鳴る前に目を覚ました。
清之は、直人の表情を見た。
「どうした?」
「いえ」
直人は首を振った。
「何でもありません」
机へ向かい、帳面を取り出す。
記録所の中は、紙の匂いが強かった。
壁際の棚には、土地の境界や家屋の登録、道の修繕記録などが収められている。どれも人里で暮らす者にとっては重要な記録だが、直人以外の者が興味を持つことは少ない。
記録は、起きたことを残す。
誰が、いつ、どこで、何をしたのか。
それが後から分かるように、余計な感情を入れず書く。
直人は、その仕事が嫌いではなかった。
目立つ仕事ではない。
誰かに感謝されることも少ない。
だが、記録がなければ、過去の出来事は人の記憶だけに頼ることになる。記憶は曖昧で、都合よく変わる。
だから、紙へ残す。
紙に残っている限り、少なくとも「そう書かれていた」という事実は保たれる。
直人は、その考えを疑ったことがなかった。
午前中、直人は土地の境界に関する書類を整理した。
日付を確認する。
作成者の名を確認する。
同じ土地について、別の日に作られた書類と照合する。
古い書類は紙が傷んでおり、端が折れているものもあった。直人は、破れないよう注意しながら一枚ずつ扱った。
「また同じ名前だな」
清之が隣の机から言った。
「何がですか?」
「この土地の持ち主だよ。五年前の記録と今の記録で、名前が同じだ」
「同じ家の土地なら、珍しくないでしょう」
「いや、子どもへ譲ったと聞いたんだがな」
清之は、別の紙を持ち上げた。
「記録では、ずっと同じ人間になっている」
「口頭で聞いた話と、記録が違うなら、確認が必要ですね」
「そういうところが堅いんだよ」
「記録係ですから」
直人は、書類を受け取った。
人の話と記録が食い違うことは、珍しくない。
だからこそ、どちらか一方をすぐに信じてはいけない。
昼になると、記録所の外から人の声が聞こえてきた。
清之が筆を置く。
「飯にするか」
「そうですね」
二人は、記録所の裏手にある簡素な休憩所へ向かった。
そこで弁当を広げる。
清之は、朝からの仕事について愚痴をこぼした。直人は相槌を打ちながら、味噌汁を飲んだ。
「そういえば、昨日の夜は眠れたか?」
清之が尋ねた。
「眠れましたよ」
「俺は、隣の家の犬がうるさくてな」
「犬を飼っていましたか?」
「昨日からだ」
「それは、うるさいでしょうね」
清之が笑う。
何でもない会話だった。
直人も笑った。
朝の原稿用紙のことを話そうとは思わなかった。
話したところで、悪戯か、置き場所を勘違いしただけだと言われるだろう。
その程度のことだった。
しかし、その夜。
直人は夢を見た。
真夜中に、目を覚ます。
外はいつも通り真っ暗だった。
障子の向こうに月明かりはない。
雲が出ているのか、月が沈んでいるのか、それともまだ夜が深いのか分からない。
直人は、布団の中で目を開けた。
なぜ目を覚ましたのかは分からない。
喉が渇いたわけでもない。
尿意があったわけでもない。
何か物音がしたわけでもない。
ただ、突然目が覚めた。
部屋は暗い。
目が慣れるまで、天井も壁も見えなかった。
直人は、しばらく動かなかった。
その時、外から足音が聞こえた。
ぺた、ぺた。
地面を踏む音。
一定ではない。
右足を引きずったような音の後に、次の足音が遅れて聞こえる。
ふらついている。
酔っ払っているのだろうか。
それとも、身体のどこかを痛めているのか。
足音は、家へ近づいてくる。
直人は、布団の中で息を潜めた。
外を通るだけなら、別に珍しいことではない。
夜中に帰ってくる者もいる。
酒に酔い、家を間違える者もいる。
だが、その足音には、普通の人間が歩く音とは違うものがあった。
重い。
地面を踏むたび、土の下まで響く。
それなのに、歩みは弱々しい。
ぺた、ずる、ぺた、ずる。
家の前で、足音が止まった。
直人は、目を開けたまま固まった。
障子の向こうは暗い。
何も見えない。
しかし、外に何かが立っている。
その気配だけが分かった。
低い声が聞こえた。
人の声のようだった。
だが、言葉として聞き取れない。
呻き声にも聞こえる。
酔っ払いが、何かを呟いているようでもある。
苦しんでいる者が、喉の奥から声を漏らしているようでもある。
声は低く、濁っていた。
直人は、布団の端を握りしめた。
外へ出てはいけない。
見てはいけない。
そう思う。
しかし、何かが戸の向こうにいる。
それが何なのか知りたいという気持ちが、恐怖の奥から湧いてくる。
直人は、ゆっくり身体を起こした。
足音が、再び動き出す。
家の前を通り過ぎる。
直人は、障子へ近づいた。
指先を伸ばす。
障子を開けようとした。
その瞬間、紙越しに影が見えた。
大きい。
人の影に似ている。
しかし、人間のものではない。
背が高すぎる。
手足も長すぎる。
障子の向こうを通っているだけなのに、直人は顔を見るために見上げなければならないと思った。
影の頭が、屋根より高い。
その腕が、地面へ届きそうなほど伸びている。
直人は、声を出せなかった。
妖怪。
そう思った。
人里の外には、妖怪がいる。
夜道を歩く者が、普通の人間とは限らないことも知っている。
だが、それは妖怪よりも恐ろしい何かだった。
妖怪なら、まだ形を想像できる。
名前を知ることもできる。
話が通じる可能性もある。
しかし、あの影には、そうしたものがなかった。
ただ大きく、ただ歪んでいる。
存在しているのに、何なのかを決められない。
影は、家の前を通り過ぎていく。
低い声が遠ざかる。
ぺた、ずる、ぺた、ずる。
やがて足音が聞こえなくなった。
直人は、障子へ手を伸ばした。
指が触れる。
障子紙は冷たかった。
開ければ、何かが見える。
見てしまえば、何かを知ってしまう。
直人は、障子を開けた。
外は暗闇だった。
道の上には、何もいない。
月明かりもない。
人の姿もない。
ただ、家の前の土に、いくつかの跡が残っている。
大きすぎる足跡。
人間のものとは思えない。
直人は、足跡へ近づこうとした。
その時、背後から声がした。
低く、濁った声。
直人は振り返った。
部屋の中に、あの影が立っていた。
見上げても、顔が見えない。
手足が長い。
身体が大きい。
影の奥に、何かがいる。
直人は叫んだ。
叫んだはずだった。
だが、声は出なかった。
影が腕を伸ばす。
長い指が、直人の肩へ触れる。
冷たい。
その瞬間、直人は目を覚ました。
布団の中だった。
外は暗い。
心臓が、胸の内側で激しく鳴っている。
直人は、すぐには動けなかった。
夢だと理解するまでに、しばらくかかった。
額に汗が浮かんでいる。
喉が渇いていた。
直人は起き上がり、部屋を見渡した。
影はいない。
障子は閉じている。
部屋の中に、何かが立っている気配もない。
夢だった。
そう判断しようとした。
しかし、耳の奥には、まだ足音が残っている。
直人は、水を飲んだが手が震えていた。
夢を見ただけで、こんなに動揺するのはおかしい。
そう思う。
たかが夢だ。
現実には何も起きていない。
直人は、何度も自分へ言い聞かせた。
朝になれば忘れる。
夢は、目を覚ませば薄れていくものだ。
しかし、朝になっても忘れられなかった。
夢の内容が、妙にはっきり残っている。
足音。
濁った声。
巨大な影。
見上げなければ顔が見えないほどの背丈。
直人は、朝食の席で箸を持ったまま、何度も手を止めた。
「眠れなかったのかい?」
母親が尋ねた。
「少し夢を見ただけです」
「怖い夢?」
「……変な夢でした」
母親は、心配そうに直人を見た。
「仕事が忙しいからではないかい。少し休んだ方がいいよ」
「そうかもしれません」
直人は頷いた。
夢の話を詳しくはしなかった。
話せば、現実のものになりそうだった。
記録所へ行く途中、直人は自分の家の前を見た。
土の道には、何も残っていない。
当然だった。
夢の中の足跡が現実に残っているはずがない。
それでも直人は、家の前へ視線を落とした。
何もないことを確認してから、記録所へ向かった。
その日の仕事は、石碑の設置に関する記録をまとめることだった。
直人は、まだ設置場所も決まっていない計画書を開いた。
人里の外れに置く石碑。
道の整備を記念するもの。
設置時期は、晩秋の予定。
石碑へ刻む文言は未定。
直人は、文言未定の欄へ目を止めた。
紙面の空白が、昨夜の夢と重なった。
何も書かれていない。
しかし、何もないわけではない。
まだ書かれていないだけ。
直人は、筆を持ち直した。
昼を過ぎた頃、友人の佐野が記録所へ駆け込んできた。
「直人、大変だ」
「どうしたんですか」
「清吉が事故に遭った」
清吉は、直人の古い友人だった。
直人は立ち上がった。
「どこで?」
「橋の近くだ。荷車が倒れて、その下敷きになりかけた」
「怪我は?」
「腕を打ったらしい。命に別状はない」
直人は、胸を撫で下ろした。
「よかった」
そう言いながら、昨夜の夢が浮かんだ。
足音。
影。
誰かに触れた冷たい指。
夢と事故は関係ない。
そう思う。
思おうとした。
だが、清吉が事故に遭う場面が、夢の中で見た何かと繋がっているように感じられた。
直人は、佐野へ尋ねた。
「事故の前に、何か変わったことはなかった?」
「変わったこと?」
「妙な人影とか、足音とか」
佐野は、直人の顔を見た。
「何を言っているんだ?」
「いや……」
「清吉は荷車の車輪へ石が挟まったと言っていた。それだけだ」
直人は、口を閉じた。
仕事へ戻り、筆を動かす。
しかし、文字がうまく書けない。
清吉は無事だった。
夢の中で見た影と、事故の間には何の関係もない。
それでも、直人の中には小さな違和感が残った。
その夜から、同じ夢を何度も見るようになった。
真夜中に目を覚ます。
外は暗い。
足音が聞こえる。
濁った声がする。
巨大な影が、家の前を通る。
夢を見るたび、影は少しずつ家へ近づいていた。
一度目は家の前を通り過ぎただけだった。
二度目は、家の前で立ち止まった。
三度目は、障子越しに影が見えた。
四度目は、部屋の中に立っていた。
夢の内容は同じなのに、少しずつ違っている。
影が近づいている。
それだけが、はっきり分かった。
直人は、夢を見ることを恐れるようになった。
眠らなければ夢を見ない。
そう考え、夜になると灯りを消さず、机へ向かった。
帳面を開く。
記録を書く。
紙へ文字を並べている間は、余計なことを考えずに済む。
しかし、眠気はどうしても訪れる。
少しだけ横になる。
気づけば、夜が明けている。
夢を見たかどうかも分からない。
けれど、枕元にはいつも紙の切れ端があった。
何も書かれていない。
白紙だった。
直人は、それを気味悪く思いながらも、捨てた。
ある朝、最初の原稿用紙が置かれていた机の引き出しを開けた。
中には何もない。
原稿用紙もない。
直人は、少し安心した。
しかし、机の奥に、紙の切れ端が挟まっているのを見つけた。
取り出す。
そこには、一文だけが書かれていた。
『片桐直人は、まだ夢の意味を知らない。』
直人の手から、紙が落ちた。
しばらく拾えなかった。
誰かの悪戯だ。
そう考えようとした。
だが、夢の内容を誰かへ話したことはない。
友人にも、家族にも話していない。
それなのに、紙には「夢」と書かれている。
直人は、紙を拾った。
破ろうとした。
しかし、指が動かなかった。
紙面の一文を、何度も読む。
片桐直人は、まだ夢の意味を知らない。
まだ。
その言葉が、妙に引っかかった。
まるで、いつか意味を知ることが決まっているようだった。
直人は、紙を丸めた。
強く握り潰す。
紙は簡単に形を変えた。
それを屑籠へ捨てる。
直人は、しばらく屑籠を見ていた。
その後、何事もなかったように仕事へ向かった。
しかし、その日の夕方。
記録所の机の上に、また一枚の原稿用紙が置かれていた。
直人は、見つけた瞬間に手を止めた。
同僚の清之は、少し離れた机で書類を整理している。
他の職員もいる。
誰かが置いたなら、見られているはずだった。
直人は、紙へ近づいた。
書かれている。
『片桐直人は、仕事の手を止めた。
同僚へ尋ねることを考えた。
しかし、誰もこの紙を知らない。』
直人は、顔を上げた。
「清之さん」
「何だ?」
「この紙、知っていますか?」
直人は原稿用紙を持ち上げた。
清之は、紙を見た。
「何だ、それ?」
「机の上に置かれていました」
「誰かが置いたんじゃないのか?」
「誰が置いたか、見ませんでしたか?」
「見ていない」
清之は、困ったように笑った。
「直人、お前、最近少し疲れているんじゃないか?」
「疲れてなんか……」
「仕事は真面目だが、眠そうにしている時があるぞ」
直人は、反論しようとした。
しかし、眠れていないのは事実だった。
夢を見る。
夜中に目を覚ます。
朝になっても恐怖が残る。
それでも仕事へ来る。
疲れていると言われれば、否定しきれなかった。
「……そうかもしれません」
直人は、原稿用紙へ目を落とした。
清之は、すでに仕事へ戻っている。
他の職員も、こちらへ関心を向けていない。
誰も、この紙を知らない。
誰も、紙がいつ現れたのか気にしていない。
直人は、原稿用紙を二つ折りにした。
それを、懐へ入れた。
捨てるのは、まだ怖かった。
仕事を終え、家へ帰る。
部屋へ入ると、机の引き出しを開けた。
朝の紙はない。
屑籠の中にも、丸めた紙はない。
直人は、懐から新しい原稿用紙を取り出した。
紙面には、自分の行動が書かれている。
片桐直人は、原稿用紙を二つ折りにした。
直人は、そこまで読んでから、紙を伏せた。
明日には、きっと消えている。
そう思った。
誰かの悪戯なら、飽きる。
幻覚なら、眠ればなくなる。
ストレスなら、仕事が落ち着けば消える。
直人は、そうやって理由を並べた。
理由があれば、恐怖を押し込めることができる。
しかし、理由をいくつ並べても、紙がそこにあることは変わらなかった。
直人は、原稿用紙を机の引き出しへしまった。
鍵をかける。
その夜、夢の中で影は、直人の家の前に立ち止まった。
低い声で、何かを呟いている。
足音は聞こえない。
ただ、影だけがそこにある。
直人は、障子の向こうを見ていた。
影が、ゆっくりとこちらへ顔を向ける。
顔は見えない。
それでも、影が自分を見ていると分かった。
直人は、目を覚ました。
部屋は暗い。
机の引き出しから、紙を擦るような音が聞こえる。
直人は、布団の中で息を止めた。
引き出しの中に、何かがある。
鍵はかかっている。
それでも、中から紙をめくる音が聞こえた。
直人は、布団を出なかった。
聞こえないふりをした。
朝になれば、すべて消えている。
そう考えた。
だが、翌朝。
引き出しを開けると、原稿用紙は一枚増えていた。
そこには、こう書かれていた。
『片桐直人は、まだ自分が見られていることに気づいていない。』
直人は、紙を握り潰した。
それでも、すぐには捨てられなかった。
手の中で、原稿用紙が小さな音を立てている。
紙を握る指に力を込める。
白い紙は簡単に形を変えた。
しかし、潰れた紙の中に書かれた文字だけは、消えなかった。
『片桐直人は、まだ自分が見られていることに気づいていない。』
直人は、しばらくその一文を見つめた。
やがて、紙を机の端へ置いた。
捨てるべきだと思った。
すぐにでも、火へくべるべきだった。
だが、手が動かなかった。
紙を捨てた後、また現れたらどうする。
燃やした後、灰の中へ文字が残ったら。
そんな考えが、馬鹿馬鹿しい妄想として頭に浮かぶ。
直人は、自分で自分を笑いそうになった。
たかが紙一枚だ。
誰かの悪戯。
疲労による幻覚。
説明なら、いくらでもつく。
それでも、直人は紙を屑籠へ入れられなかった。
結局、その日の朝は、紙を机の引き出しへしまった。
鍵をかける。
鍵をかけたところで、何の意味もないことは分かっていた。
原稿用紙は、机の引き出しへ入る前から、そこにあった。
それでも、扉を閉める動作には、わずかな安心があった。
見えなくしておけば、少しだけ考えずに済む。
直人は、そう自分へ言い聞かせた。
その日の午後、記録所へ人が集まった。
人里の外れに設置する石碑について、話し合うためだった。
石碑を置くこと自体は、すでに決まっている。
道の整備が終わったことを記念し、今後の目印にもなるものを置く。
ただし、どこへ置くのか。
何を刻むのか。
誰が管理するのか。
細かい部分は、まだ決まっていなかった。
直人は、記録係として集まりへ参加した。
机の上には、土地の図面が広げられている。
道の位置。
人里の外れにある林。
近くの小川。
荷車が通れる幅。
人が道を外れた時に迷いやすい場所。
それぞれの情報が、墨で書き込まれていた。
集まったのは、六人だった。
石碑の設置を取りまとめている水科宗兵衛。
道の補修へ関わった葛城志乃。
荷運びを担当する鳴海弥三郎。
石材を扱う白川伊佐次。
土地の管理を見ている榊原清継。
そして、記録係の片桐直人。
「設置する場所は、ここでよいのではないか」
宗兵衛が、図面の一箇所を指で示した。
人里から少し離れた道の脇。
林へ入る手前の、開けた場所だった。
「そこでは、少し奥すぎるのではありませんか?」
志乃が言う。
「目印として置くなら、人里から見える場所の方がよいでしょう」
「しかし、人目につきすぎる場所へ置いては、道の邪魔になる」
弥三郎が腕を組んだ。
「荷車が通るたびに避ける必要が出る。石碑は動かせないからな」
「それなら、道の脇へ寄せればいいでしょう」
「道の脇でも、狭い場所は狭い」
「でしたら、もっと人里の近くへ」
「近すぎれば、今度は記念碑ではなく、ただの飾りになりますよ」
志乃と弥三郎の言葉が重なる。
宗兵衛は、二人の意見を聞きながら、図面へ目を落としていた。
直人は、会話の内容を書き留めた。
誰が何を主張したのか。
どこに問題があるのか。
話し合いの場では、結論よりも、そこへ至るまでの過程を残す必要がある。
「私は、道から少し離れたこの場所がよいと思います」
榊原が口を挟んだ。
彼が指したのは、林の手前にある緩やかな空き地だった。
「人里からも遠すぎない。道からも外れている。何より、周囲に目立つものがありません」
「目印がないから、石碑を置くのでは?」
志乃が尋ねる。
「ええ。だからこそ、そこへ置けば、道を歩く者の目につくでしょう」
榊原は、図面の上を指でなぞった。
「この辺りは似たような景色が続く。木も多い。道を外れた者が戻る時、石碑があれば位置を確認できる」
「近くに家はないのか?」
弥三郎が尋ねる。
「一番近い家でも、少し離れています。騒音や荷車の通行を気にする必要もない」
「それなら、悪くない」
宗兵衛が頷いた。
しかし、志乃はまだ納得していない様子だった。
「人里から見えない場所では、設置したことを忘れられてしまうのではありませんか?」
「道を使う人には見えるでしょう」
「毎日そこを通る人ばかりではないわ」
「記念として残すなら、誰でも見える必要はない」
宗兵衛は、静かに言った。
「その場所に必要なものとして置かれるなら、それで十分です」
直人は、宗兵衛の言葉を書き留めた。
その場所に必要なものとして置かれるなら、それで十分。
どこか引っかかる言い方だった。
記念碑なら、見せることが目的になる。
目立つ場所へ置き、誰もが存在を知れるようにする。
しかし、宗兵衛は、必要な場所に置くと言った。
誰かの目に触れるためではなく、そこにあることそのものへ意味があるような口調だった。
話し合いは、設置場所をめぐって続いた。
道幅を測った記録を確認する。
冬に雪が降った場合、荷車が通れるかを考える。
雨が続いた時に、地面がぬかるまないかを確認する。
石碑を置いた後、周囲の草を刈る必要があるか。
管理する者は誰になるのか。
一つ決まるたび、別の問題が出た。
直人は、何度も筆へ墨をつけた。
紙面には、決定事項と保留事項が増えていく。
話し合いが始まってから、二時間近くが経った頃だった。
宗兵衛が、最後に図面を見渡した。
「では、ここにしましょう」
林の手前。
人里から遠すぎず、道の邪魔にもならない。
目立つものが少なく、道を歩く者にとって目印となる場所。
他の者も、今度は反対しなかった。
「異論はありません」
榊原が言った。
「私もいいわ」
志乃が頷く。
「荷車の通り道さえ確保できるなら、問題ない」
弥三郎も同意した。
「石の大きさは、後で決める」
伊佐次が言った。
直人は、決まった内容を記録した。
設置場所。
設置の目的。
候補となった場所。
最終的に採用された理由。
筆を置きかけた時、直人はふと、別の項目を思い出した。
石碑に、何を刻むのか。
「水科さん」
直人は、宗兵衛へ声をかけた。
「文字の内容についてですが」
「ああ……」
宗兵衛は、少し困ったように笑った。
「実は、まだ決まっていない」
「設置場所と同時に、決めるものだと思っていました」
「私も、そのつもりだったのだがね」
宗兵衛は、図面の端へ目を落とした。
「これという言葉が、まだ見つからないのだ」
「道の整備を記念する文言では?」
「それだけなら、いくつか思いつく」
「でしたら、その中から選べばよいのでは?」
「そう簡単にはいかない」
宗兵衛は、紙の上へ指を置いた。
「石に刻む言葉は、後から変えられない。誰かが読んだ時、どう受け取るかも考えなければならない」
「記念の文句として、分かりやすいものではいけませんか?」
「分かりやすい言葉は、分かりやすいまま残る」
宗兵衛は、独り言のように言った。
「だが、石碑は長く残るものだ。今だけ分かればよい言葉ではなく、後から読んでも意味を持つ言葉でなければならない」
直人は、宗兵衛の横顔を見た。
宗兵衛は、石碑の内容について真剣に悩んでいる。
その悩み方は、記念碑へ刻む文言を決める者のものにしては重すぎた。
「次の集まりまでには、決めておく」
宗兵衛は、そう言った。
「それまでに、いくつか候補を考えておくよ」
「分かりました」
直人は、まだ文字が決まっていないことを記録した。
会合は終わった。
他の者たちが席を立ち、図面を片づけ始める。
直人は、議事録を確認した。
書き漏らしはない。
日付もある。
参加者の名前も書いた。
設置場所も決まった。
文字の内容だけが保留になっている。
直人は、記録を抱えて立ち上がった。
職場へ戻り、保管する必要がある。
外へ出ると、夕方の空気が冷たかった。
人里の屋根の向こうへ、薄い雲が広がっている。
直人は、歩きながら自分の手帳を確認した。
石碑の設置に関する記録。
設置場所に関する決定。
文字の内容は次回までに決定。
そこまで書いたところで、朝の原稿用紙のことを思い出した。
片桐直人は、まだ自分が見られていることに気づいていない。
直人は、足を止めた。
紙は、机の引き出しへ入れたままだ。
家に帰れば、また見ることになる。
見る必要はない。
捨てればいい。
そう思うのに、どこかで確認しなければならないような気がした。
記録所へ戻る。
保管用の棚へ議事録を収める。
日付ごとに分類し、他の記録と並べる。
最後に、記録の一覧へ新しい項目を書き加えた。
これで今日の仕事は終わりだった。
直人が帰ろうとした時、清之が声をかけた。
「直人、この後付き合わないか?」
「どこへですか?」
「酒を飲みに行く」
「今日は、やめておきます」
反射的に断った。
家へ帰れば、原稿がある。
机の引き出しを開ければ、紙がある。
それを考えるだけで、胃の辺りが重くなった。
「そう言うなよ」
清之は、笑いながら直人の肩を叩いた。
「最近ずっと難しい顔をしているぞ。たまには気分転換も必要だ」
「難しい顔をしているつもりはありません」
「つもりの話じゃない。顔に出ている」
「そんなにですか?」
「自分で見えないからな」
清之の後ろから、佐野も顔を出した。
「今日は俺も行くぞ。直人も来いよ」
「佐野まで」
「仕事の話はなしにしよう。石碑の話も、記録の話も、紙の話もなしだ」
佐野が冗談めかして言った。
直人の表情が固まる。
佐野は、その変化に気づかなかった。
「ほら、今もその顔だ」
直人は、二人を見た。
断る理由はいくつもある。
疲れている。
家へ帰りたい。
夢のせいで眠れていない。
原稿のことが気になる。
だが、家へ帰って一人になれば、また紙のことを考える。
酒を飲めば、少しは気が紛れるかもしれない。
酔って眠れば、夢も見ないかもしれない。
「……分かりました」
直人は、ようやく頷いた。
「少しだけなら」
「よし、決まりだ」
清之が嬉しそうに笑った。
向かったのは、記録所から少し離れた場所にある酒処だった。
店の戸を開けると、温かい空気が身体へまとわりついた。
外の冷えた空気とは違い、店内には人の体温と料理の匂いが満ちている。
煮立った鍋から立ち上る湯気。
炭火で焼かれた魚の香ばしい匂い。
醤油と味噌が混じった、濃くて甘い香り。
奥の卓では、誰かが大きな声で笑っている。
店主が三人へ気づき、手を上げた。
「三人かい。奥が空いているよ」
通された席は、壁際の小さな卓だった。
清之が座るなり、酒を注文する。
「まずは冷やした酒を三つ。それから、焼き鳥……ではなく、串焼きと、煮込みを。あと、焼いた川魚も頼む」
「直人は何か食べるか?」
「任せます」
「それが一番困るんだよ」
清之は店主へ向き直った。
「なら、味噌で煮た大根と、揚げた豆腐。それから、塩むすびを三つ」
料理が届くまで、さほど時間はかからなかった。
最初に運ばれてきた酒は、薄い琥珀色をしていた。
器を持ち上げると、酒の匂いが立つ。
鼻へ近づけただけで、米の甘さと、わずかな苦みが感じられた。
直人は、器へ口をつけた。
冷たい酒が舌へ触れる。
最初は、ひやりとした感触だけだった。
その後、舌の奥へ柔らかな甘みが広がる。
甘いのに、重くない。
喉を通る時には、すっきりとした辛みが残り、飲み込んだ後に、米の香りが鼻へ抜けていく。
直人は、思わず一度、器を見た。
「美味しいでしょう」
清之が得意そうに言った。
「ええ」
酒は、普段ほとんど飲まない。
飲んだとしても、祝い事の席で少し口をつける程度だった。
しかし、この酒は、不思議なほど身体へ馴染んだ。
冷たさが喉を落ちていき、胸の内側へ温かさが広がる。
朝から張りつめていたものが、少しだけほどけた。
串焼きが運ばれてくる。
炭火で焼かれた肉から、香ばしい匂いが立っていた。
表面には薄く焼き目がつき、脂が小さく弾けている。
直人は、串から一つ取った。
噛んだ瞬間、表面の香ばしさと、内側の柔らかな肉の味が広がる。
塩は強すぎず、肉の甘みを引き立てている。
噛むたび、炭の香りが残る。
酒を一口飲むと、その脂をきれいに洗い流し、次の一口を欲しくさせた。
「これは、うまいな」
佐野が言った。
「お前は、何でもうまいと言うだろう」
「うまいものを、うまいと言って何が悪い」
清之が笑う。
味噌で煮た大根は、箸を入れただけで崩れた。
表面は濃い色に染まり、湯気とともに甘い味噌の匂いが漂っている。
口へ運ぶと、柔らかい。
噛む必要がないほど煮込まれているのに、大根の水分が残っていた。
味噌の塩気と、出汁の旨味が染み込んでいる。
口の中でほどけた後、かすかな甘さが残る。
直人は、知らず知らずのうちに二口目へ手を伸ばしていた。
揚げた豆腐は、外側が薄く固まり、内側は熱く柔らかい。
出汁へ浸されているため、衣を噛むと汁が溢れた。
熱さに驚きながらも、直人は舌の上で味を確かめた。
大豆の風味。
出汁の深み。
刻んだ葱の青い香り。
どれも派手ではない。
しかし、一つ一つの味が重なり、身体へ静かに染み込んでくる。
焼いた川魚が運ばれる。
皮はぱりりと焼かれ、身は白く、箸で簡単にほぐれた。
塩のかかった皮を先に食べる。
香ばしさの奥から、魚の脂が広がる。
身へ箸を入れると、湯気が立った。
魚の味は淡い。
だからこそ、酒とよく合う。
噛みしめるほど、川魚特有の清らかな香りが出てくる。
直人は、昼間に見た石碑の図面を思い出していた。
林の手前。
道の脇。
目印の少ない場所。
だが、食事を口へ運ぶたび、考えは少しずつ遠のいていく。
紙のことも。
夢のことも。
影のことも。
酒と料理の温かさの中へ、沈んでいくようだった。
「今日は、ずいぶん食べるな」
佐野が言った。
「そうですか?」
「最初は断ろうとしていたのに」
「断るつもりでしたけれど」
「来て正解だっただろう」
清之が、酒を注ぎ足した。
器へ酒が満ちる。
直人は、今度は少し早く飲んだ。
先ほどよりも、酒の甘さが強く感じられた。
身体の中へ入った酒が、手足の先へゆっくり広がっていく。
頬が熱い。
頭の奥が柔らかい。
話し声が、最初よりも少し遠く聞こえる。
「石碑の場所、林の手前に決まったんだろう?」
佐野が尋ねた。
「ええ」
「本当にあんなところへ置くのか。あまり人が通らないだろう」
「道を外れた時の目印になるそうです」
「目印なら、もっと大きなものを置けばいいのに」
「大きすぎると、荷車の邪魔になりますよ」
「そういうところが、直人らしいな」
「何がですか?」
「何でも記録の通りに考える」
直人は、少し笑った。
酔いのせいか、普段なら気にする言葉も気にならなかった。
「記録の通りに考えているのではなく、決まったことを確認しているだけです」
「それを記録の通りに考えるって言うんだよ」
清之が笑う。
三人の声が重なった。
直人も笑った。
自分が笑っていることに、少し驚いた。
ここ数日、まともに笑っていなかった気がする。
酒は、確かに気分転換になった。
仕事のことも。
原稿のことも。
夢のことも。
今だけは、考えずに済んでいる。
料理が追加された。
焼いた茸。
甘辛く煮た根菜。
熱い汁物。
直人は、どれも少しずつ口へ運んだ。
焼いた茸は、噛むと水分が溢れ、土の香りに似た深い味がした。
根菜には醤油の甘辛い味が染み込み、酒を飲むたびに味が濃くなる。
汁物は、出汁の香りが強く、冷えた身体を内側から温めていく。
酒が進む。
食事が進む。
笑い声が大きくなる。
店の中の灯りが、少しずつ滲んで見えた。
直人は、卓へ肘をついた。
酒の器を持ったまま、目を閉じる。
ほんの少しだけ。
眠るつもりはなかった。
ただ、瞼を閉じただけだった。
次に目を開けた時、店内は静かになっていた。
直人は、ゆっくり顔を上げた。
どれほど眠っていたのか分からない。
店の明かりはまだついている。
しかし、周囲の客は少なくなっていた。
目の前では、清之が酒を飲んでいる。
佐野も、器を持っている。
二人とも、まだ飲んでいた。
「……まだ飲んでいるんですか」
直人は、そう言おうとした。
しかし、声が喉で止まった。
何かがおかしい。
目の前にいるのは、清之と佐野だ。
何度も顔を合わせた友人。
仕事を共にしている同僚。
つい先ほどまで、隣で笑っていた二人。
それなのに、直人は突然、別のことを感じた。
友人なのに、友人ではない。
その理由は分からない。
顔も同じ。
服装も同じ。
声も、聞き慣れたものだった。
だが、目の前にいるものは、清之でも佐野でもない。
人の形をしているだけの何か。
直人の背中へ、冷たい汗が流れた。
店の空気が、急に重くなった。
料理の匂いも、酒の香りも、遠ざかっている。
清之が、ゆっくり器を傾けた。
その動作は、普段と変わらない。
しかし、あまりにもゆっくりだった。
佐野は、こちらを見ていない。
直人は、自分の手が震えていることに気づいた。
「清之さん」
呼びかけた。
返事はない。
清之は、器を口へ運んでいる。
「清之さん」
もう一度呼ぶ。
今度は、肩へ手を伸ばした。
名前を呼んで、肩を叩く。
そのつもりだった。
指先が、清之の肩へ触れる。
直人は、次の瞬間を見た。
清之の身体は動かなかった。
肩も、背中も、腕も動かない。
ただ、首だけがゆっくりと回った。
人間の首が曲がる角度ではない。
九十度。
身体を正面へ向けたまま、首だけが横へ倒れ、直人の方を向く。
顔が、こちらを見た。
目が合う。
口元が、わずかに開いている。
直人は、声を出せなかった。
首が、さらにこちらへ傾く。
普通に生活していたら、決して聞くことのない音が聞こえた。
直人は、椅子を倒す勢いで後ろへ下がった。
その瞬間、目が覚めた。
酒処の卓に突っ伏していた。
頬に、冷たい卓の感触がある。
直人は、荒く息を吐いた。
「おいおい、飲み過ぎだぞ、直人」
清之の声がした。
直人は、顔を上げた。
清之が、赤い顔で笑っている。
首は、正常な位置にある。
佐野も、卓へ肘をつきながらこちらを見ていた。
「お前、急に寝るから驚いたぞ」
「……」
直人は、返事ができなかった。
清之は、自分もかなり酔っているらしい。
目が赤い。
酒の器を持つ手も、少しふらついている。
「大丈夫か?」
「……夢を、見ました」
「夢?」
「いえ……」
直人は、周囲を見回した。
店内は変わっていない。
料理の皿。
空になった酒の器。
壁際の灯り。
店主の声。
すべて、現実のものだった。
夢だった。
あれは夢だった。
そう理解する。
しかし、あまりにも生々しかった。
肩へ触れた感触。
首が回る音。
顔がこちらを向いた瞬間の、目の色。
現実と変わらないほど、はっきり覚えている。
直人は、酒を飲んだ。
先ほどまでなら、身体を温めていたはずの酒が、今は冷たく感じられた。
いや、酒の温度は同じだった。
冷えた器も、舌へ触れる味も変わらない。
それでも、酔いだけが一気に消えたように思えた。
直人は、目の前の友人たちを見た。
清之は、まだ笑っている。
佐野は、酒を飲みながら何かを話している。
二人とも、いつも通りだった。
いつも通りのはずだった。
それなのに直人は、ほんの一瞬だけ、清之の首が人間のものではなかったことを思い出していた。
夢の中の感触が、指先に残っている。
直人は、卓の下で手を握った。
酒の味も、料理の旨味も、もう分からなかった。
舌にはまだ、先ほどまでの味が残っている。
酒の甘み。
焼いた魚の香ばしさ。
味噌で煮た大根の柔らかさ。
どれも確かに感じていたはずなのに、今は遠い。
口へ運んでも、何を食べているのか分からない。
直人は、もう一度だけ清之を見た。
清之は、何事もなかったように笑っている。
「直人、どうしたんだ?」
「……いえ」
「さっきから、ぼんやりしているぞ」
「少し眠ったせいでしょう」
「飲み過ぎたんだよ」
清之は、そう言って自分の器を持ち上げた。
しかし、器の中身はほとんど残っていない。
それでも飲もうとしたため、佐野が手を伸ばして止めた。
「もうやめておけよ。お前、さっきから同じところを見ているぞ」
「何を言っている。俺はまだ飲める」
「その台詞を、さっきから三回聞いた」
「三回も言ったか?」
「言った」
清之は、納得していない様子だった。
顔は赤く、目元は緩んでいる。
佐野も、かなり酔っていた。
声が普段より大きい。
話すたびに身体が左右へ揺れ、器を置く時も、卓へぶつけるような音を立てている。
直人は、二人の様子を見ていた。
さっき見たものは、夢だった。
今、目の前にいるのは、清之と佐野だ。
清之の首は、正しい位置にある。
佐野の顔も、いつも通りだ。
分かっている。
分かっているはずなのに、直人の身体はまだ緊張していた。
「そろそろ出るか」
佐野が言った。
「清之を運ばないと、家へ帰れそうにない」
「俺は一人で帰れる」
清之は立ち上がろうとした。
膝へ手をつき、身体を起こす。
しかし、立ち上がった直後に大きくふらついた。
「ほら」
佐野が支える。
「大丈夫だって」
「大丈夫な人間は、卓へ手をつかない」
「卓が動いたんだ」
「店の卓のせいにするな」
清之は、何か言い返そうとした。
だが、言葉の代わりに大きな欠伸が出た。
店主へ会計を払い、三人は店の外へ出た。
夜の空気が、顔へ冷たく触れる。
直人は、冷気に少しだけ頭が冴えるのを感じた。
外の道は暗い。
人里の明かりが途切れる場所では、道の先がよく見えなかった。
清之は、店を出てすぐに直人へ寄りかかった。
「直人、すまんな」
「気にしないでください」
「俺は、まだ一人で歩ける」
「なら、もう少し自分で立ってください」
「立っている」
「私が支えているからです」
「それは、お前が勝手に支えているだけだ」
言葉だけは強い。
しかし、足はほとんど動いていない。
直人は、清之の腕を肩へ回した。
酒の匂いが近い。
清之の身体は重く、歩くたびに体重が直人へかかる。
反対側では、佐野が壁へ手をつきながら歩いていた。
顔は赤い。
目は半分閉じている。
直人は、何度も佐野の方を見た。
佐野は、ふらつきながらも歩いている。
時々、足がもつれる。
そのたびに壁へ手をつき、倒れないようにしていた。
「佐野さん、大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
返事だけは早かった。
しかし、次の一歩で身体が大きく傾く。
直人が清之を支えたまま手を伸ばそうとすると、佐野は自分で壁へ背を預けた。
「ほら、大丈夫だろう」
「今のは、壁が支えたんですよ」
「壁も友人だ」
「酔っ払いは、何でも友人にしますね」
清之が笑った。
その笑い声に、直人は一瞬だけ身体を強張らせた。
夢の中で、首だけをこちらへ向けた清之。
その顔。
目。
口元。
直人は、意識して前を向いた。
考えてはいけない。
夢と現実を混ぜてはいけない。
そう考えながら歩く。
まず、佐野の家へ送った。
家は酒処から近かった。
佐野は、何度も「一人で帰れる」と言い張ったが、門の前で靴を脱ぎかけ、そのまま座り込んだ。
直人は、戸を叩いた。
中から家族が出てくる。
「まあ、またこんなに飲んで」
「すみません。少し飲み過ぎたようで」
「いつものことですから」
家族は慣れた様子で、佐野の腕を取った。
佐野は、戸口で直人を振り返った。
「直人」
「はい」
「また飲みに行こうな」
「ほどほどにしてください」
「分かっている」
佐野は、そう言いながら、家族へ引かれていった。
その背中を見送る。
人間の背中だった。
ふらついている。
酒に酔っている。
それだけの姿だった。
次に、清之の家へ向かった。
清之の体重が、さっきより重く感じられた。
眠っているのか、半分意識がない。
呼びかけても、返事は曖昧だった。
「清之さん、起きていますか?」
「起きている」
「本当に?」
「起きているさ」
「では、自分で歩いてください」
「それは、明日の俺に頼んでくれ」
直人は、ため息をついた。
道の途中で、何度も清之の足が止まった。
そのたびに、直人は彼の身体を支え直す。
清之は、直人へ体重を預けている。
肩越しに、清之の息が聞こえる。
酒の匂い。
寝息。
時々、意味の分からない呟き。
直人は、それを聞きながら、夢の中の低い声を思い出していた。
あの声は、清之のものではない。
分かっている。
夢の中の声は、もっと低く、濁っていた。
人の声に似ていたが、人の声ではなかった。
それでも、耳の奥に残っている。
直人は、清之の家へ着いた。
戸を叩くと、しばらくして奥から返事があった。
家族へ事情を説明する。
清之は、戸口で靴を脱ごうとしたが、片方の足を上げたまま止まってしまった。
「清之さん」
「靴が逃げた」
「逃げていません」
「では、なぜ見つからない」
「足元です」
清之は、自分の足元を見た。
しばらく考えた後、笑い出す。
「本当だ」
家族が困ったように笑った。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえ」
直人は、清之を家族へ預けた。
清之は、眠そうな顔で直人を見る。
「直人」
「はい」
「今日は楽しかったな」
その言葉に、直人は少しだけ黙った。
「……そうですね」
本当に楽しかったのか、もう分からない。
酒の味も、料理の味も、恐怖によって上書きされている。
それでも、清之にとっては楽しかったのだろう。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
清之の家を離れる。
ひとりになった。
人里の夜道は、昼間より広く感じられた。
店の明かりが遠くなると、周囲の暗さが増す。
直人は、歩く速度を上げた。
早く帰りたい。
自室へ入りたい。
戸を閉め、鍵をかけたい。
家へ向かう途中、背後で足音がした。
直人は、反射的に振り返った。
誰もいない。
道の向こうに、暗い家々が並んでいるだけだった。
風が吹き、屋根の端が小さく鳴る。
直人は、息を吐いた。
足音ではない。
何かが落ちただけだ。
そう思う。
それでも、歩みは止めなかった。
家へ着く。
家族へ声をかけることもなく、自室へ入った。
戸を閉める。
背を預ける。
外から何かが追ってきていないことを確認するように、しばらく動かなかった。
部屋の中は、朝と変わらない。
机。
布団。
引き出し。
行灯。
何も変わっていない。
直人は、机へ近づいた。
引き出しの前で立ち止まる。
中に原稿がある。
朝、鍵をかけた。
捨てなかった。
直人は、鍵を取り出した。
手がわずかに震えている。
それは酒のせいか、夢のせいか分からない。
鍵を開ける。
引き出しを引く。
原稿用紙が一枚、入っていた。
朝に見たものと同じ。
潰した紙。
広げれば、文字が読めるかもしれない。
直人は、紙を取り出した。
手の中で、紙の固まりが崩れる。
潰れていた紙を、ゆっくり開く。
文字は、まだ残っている。
『片桐直人は、まだ自分が見られていることに気づいていない。』
直人は、その一文を見た。
次に、紙を裏返した。
裏には、新しい文字が増えていた。
『その夜、彼は自分の部屋へ戻った。』
直人の呼吸が止まる。
紙面の下へ、さらに文字があった。
『彼は、原稿を捨てることができなかった。』
直人は、紙を両手で掴んだ。
破る。
一度。
二度。
紙が裂ける音が、部屋の中へ響いた。
さらに細かく裂く。
文字の部分を狙って破る。
紙片が畳へ落ちていく。
それでも、文字の一部が残る。
片桐直人。
自分の名前。
直人は、紙片を拾い集めた。
破片を合わせようとしたのではない。
文字が残った部分を、見えないようにしたかった。
しかし、どの紙片にも文字がある。
一行が二つに分かれただけ。
文字は消えず、細くなり、断片になり、それでも読める。
直人は、紙片を握り潰した。
そして、屑籠へ投げ込んだ。
屑籠の中で、紙片が重なった。
その隙間から、黒い文字が見える。
直人は目を逸らした。
「……ただの紙だ」
声に出して言った。
「ただの悪戯だ。疲れているだけだ」
何度も繰り返す。
声が震えていた。
直人は、布団へ入った。
酒を飲んだせいか、身体は重い。
頭の奥も鈍く痛み始めている。
眠れば、何も考えずに済む。
直人は、目を閉じた。
その夜、夢を見なかった。
少なくとも、夢の内容は覚えていない。
翌朝、激しい頭痛で目が覚めた。
頭の内側を、硬い棒で何度も叩かれているようだった。
喉が渇いている。
口の中が苦い。
身体を起こすと、胃の奥が重く揺れた。
「……飲み過ぎた」
直人は、額へ手を当てた。
昨夜の酒。
料理。
清之を運んだこと。
佐野を家へ送ったこと。
自室で原稿を破ったこと。
すべて思い出せる。
夢のことも。
あの首が、九十度に曲がったことも。
直人は、目を閉じた。
頭痛のせいだ。
二日酔いのせいで、昨夜の夢が現実のように感じられた。
そうに違いない。
起き上がり、顔を洗う。
水が冷たい。
少しだけ頭が冴えた。
朝食は、ほとんど喉を通らなかった。
味噌汁を飲むと、胃が熱くなる。
それだけで、吐き気が戻ってくる。
直人は、無理に飯を口へ運ばなかった。
仕事を休むことも考えた。
しかし、記録所へ行かなければならない。
今日は、昨日の会合の内容を整理し、保管する予定がある。
記録を残す仕事を、体調が悪いからと放っておくわけにはいかなかった。
直人は、ゆっくり家を出た。
歩くたび、頭の奥が痛む。
人里の朝は、いつも通り始まっている。
店を開ける者。
水を汲む者。
通りを掃く者。
子どもたちの声。
どれも普段と変わらない。
直人だけが、世界から少し遅れているようだった。
人々は、普通に歩いている。
笑っている。
話している。
自分だけが、昨夜の夢を引きずっている。
寺子屋の前を通りかかった。
戸は開いている。
中から子どもたちの声が聞こえていた。
その声に混じって、落ち着いた女性の声がする。
「騒ぐな。順番に話しなさい」
直人は、足を止めかけた。
寺子屋の入口に、ひとりの女性が立っている。
白い髪。
青い服。
頭に特徴的な帽子を載せている。
上白沢慧音だった。
人里で寺子屋を開いている教師。
直人も何度か見かけたことがある。
慧音は、子どもへ何かを言い聞かせていた。
その横顔は真剣で、昨夜の夢とは何の関係もない。
直人は、慧音を見た。
それから、寺子屋の中へ視線を向けた。
子どもたちが机へ座っている。
何でもない、朝の風景。
直人は、何も考えなかった。
慧音へ声をかけることもなく、そのまま通り過ぎた。
頭痛がひどい。
仕事へ遅れる。
今は、それだけが気になっていた。
直人は、記録所へ向かって歩いた。
背後で、寺子屋の戸が閉まる音がした。
その音に振り返ることはなかった。
振り返れば、慧音がこちらを見ている気がした。
理由はない。
寺子屋の戸が閉じただけだ。
慧音が直人を気にする理由もない。
それでも直人は、足を止めずに歩いた。
頭痛は、少しも引いていなかった。
こめかみの奥が脈打つたび、視界がわずかに揺れる。胃の中には昨夜の酒がまだ残っているようで、身体を動かすたびに吐き気が込み上げた。
記録所へ着いた時には、普段よりも息が上がっていた。
「おはよう」
清之が声をかけた。
直人は、少し間を置いてから返事をした。
「おはようございます」
「ひどい顔だな」
「二日酔いです」
「昨日あれだけ飲めば、そうなる」
清之は笑った。
首は、正しい位置にある。
当然のことなのに、直人はそれを確認してしまった。
肩も動いている。
顔も、いつも通りだ。
直人は、自分の机へ向かった。
机の上には、昨日まとめた議事録が置かれている。
石碑の設置場所。
道の整備を記念すること。
目印の少ない場所へ置くこと。
文字の内容は次回までに決めること。
直人は、記録を保管用の帳面へ書き写し始めた。
筆を持つ手が重い。
頭が痛い。
文字が何度も滲んで見える。
集中しようとすると、昨夜の夢が浮かんだ。
清之の首が、身体を残したまま九十度に曲がった。
顔がこちらを向いた。
骨が折れる音がした。
直人は、筆を止めた。
紙の上に、墨が一滴落ちる。
「直人?」
清之の声が聞こえた。
「何でもありません」
直人は、墨を拭った。
仕事へ戻る。
しかし、頭の中は記録へ向かなかった。
自分が見たものは何だったのか。
あれは、本当にただの夢だったのか。
酒を飲み過ぎたせいで見た幻覚。
仕事の疲れと、眠れない日が続いたことによる精神的な異常。
原稿用紙のことを気にしすぎて、夢と現実の区別がつかなくなった。
そう考えれば、説明はできる。
直人は、何度もその考えへ戻ろうとした。
説明できるなら、恐れる必要はない。
原因が分かるなら、対処できる。
眠ればいい。
酒を控えればいい。
仕事を休めばいい。
誰かに相談して、心を落ち着ければいい。
しかし、別の疑問が消えなかった。
そもそも、自分だけに起きていることなのか。
原稿用紙を見ているのは、自分だけだ。
夢を見ているのも、自分だけ。
清之も、佐野も、誰も原稿を知らない。
自分だけが見て、自分だけが恐れて、自分だけが意味を与えている。
ならば、やはり自分の精神がおかしくなっているのではないか。
直人は、そう考えた。
そう考えるしかなかった。
その日の仕事は、普段の半分ほどしか進まなかった。
同じ頁を何度も読み返す。
日付を一度書き間違える。
記録の順番を取り違え、清之に指摘される。
「今日は、本当にどうしたんだ?」
「寝不足です」
「二日酔いだけじゃないだろう」
「少し夢見が悪かっただけです」
「どんな夢だ?」
直人は、筆を止めた。
夢の内容を話そうとして、口を閉じる。
話せば、夢が現実へ近づく気がした。
「覚えていません」
嘘だった。
覚えている。
はっきりと覚えている。
「それなら、今日は早く帰れ」
清之は、心配そうに言った。
「記録は残っている。無理に続けても間違えるだけだ」
「はい」
直人は、返事をした。
だが、早く帰ることにも不安があった。
家へ帰れば、部屋がある。
机がある。
引き出しがある。
原稿用紙がある。
直人は、できるだけ帰りを遅くした。
仕事を終えた後も、棚の整理をする。
必要のない書類を並べ直す。
帳簿の背表紙を確認する。
清之が帰った後も、記録所に残った。
外が暗くなってから、ようやく家へ向かう。
それでも、原稿は待っていた。
その夜、机の引き出しを開けると、紙が一枚増えていた。
直人は、すぐに手を伸ばさなかった。
引き出しの中へ、紙が三枚ある。
昨日までは一枚だった。
昨日、破ったはずの紙もない。
燃やしてはいない。
屑籠へ捨てた。
しかし、そこに残っていた紙片も消えている。
直人は、原稿用紙を一枚取り出した。
『片桐直人は、紙を見つめた。』
短い一文だった。
その下には、何も書かれていない。
直人は、紙を二つに折った。
それから、さらに折る。
紙を開けなくても、文字は見えている。
直人は、紙を破った。
一度。
二度。
四つに裂く。
裂いた紙片を火鉢へ入れた。
火をつける。
紙はすぐに燃えた。
炎が白い紙を黒く縮めていく。
墨の文字が歪む。
燃える。
消える。
直人は、息を吐いた。
紙が灰になるのを確認してから、火鉢の蓋を閉じた。
これでいい。
紙が消えた。
文字も消えた。
ならば、何も残っていない。
しかし、翌朝にはまた一枚、机の上に原稿用紙が置かれていた。
直人は、それを見た。
書かれていたのは、前日の出来事だった。
『片桐直人は、原稿用紙を火へくべた。』
直人は、紙を裏返した。
裏には、続きがあった。
『それでも、火は彼の記録を焼くことができなかった。』
直人は、紙を丸めた。
今度は火へ入れなかった。
屑籠へ投げる。
翌日には、屑籠の中から同じ紙が出てくる。
紙は丸まっていない。
折り目もない。
最初から机の上に置かれていたように、真っ直ぐな状態だった。
直人は、紙を掴んだ。
破る。
捨てる。
火へ入れる。
水へ浸す。
土へ埋める。
何をしても、次の日には別の原稿が現れた。
書かれている内容は、少しずつ変わっていく。
『片桐直人は、原稿を破った。』
『片桐直人は、原稿を捨てた。』
『片桐直人は、原稿を燃やした。』
『片桐直人は、原稿を燃やすことに疲れた。』
直人は、四枚目の紙を前に、手を止めた。
もう、驚きは薄れていた。
恐怖がなくなったわけではない。
恐怖が、日常の一部へ変わっていた。
朝起きる。
原稿がある。
読む。
捨てる。
仕事へ行く。
帰る。
また原稿がある。
その繰り返しだった。
夢も見る。
真夜中に目を覚ます。
外を通る足音。
濁った声。
家の前を通り過ぎる巨大な影。
夢の中の影は、少しずつ変化していた。
以前は家の前を通り過ぎるだけだった。
その後、障子の向こうへ立ち止まるようになった。
さらに日が経つと、部屋の中へ入ってくる。
直人の布団の脇に立ち、見下ろしている。
顔は、いつも見えない。
見上げなければ届かない高さにある。
それでも、直人はその何かが自分を見ていると分かる。
手足の長い影が、わずかに揺れる。
低い声が、喉の奥から漏れる。
直人は、眠りの中で何度も目を閉じた。
目を閉じても、影は消えない。
夢の中で、さらに夢を見る。
目を覚ましたと思えば、まだ夢の中。
そのことに気づいても、身体は動かない。
影の長い指が、直人の胸へ伸びてくる。
触れる直前に、直人は目を覚ます。
汗で着物が肌へ張りついている。
外は暗い。
夢だった。
直人は、そう思う。
所詮、ただの夢だ。
そう思うことでしか、対処できなかった。
夢は現実ではない。
原稿は悪戯かもしれない。
事故は偶然。
自分が見たものは、疲労と酒が生み出した幻覚。
そうやって一つずつ、恐怖へ蓋をする。
蓋は薄かった。
少し触れれば、すぐに開く。
それでも、蓋をしないよりはよかった。
数週間が過ぎた。
直人は、原稿が現れる生活へ慣れ始めていた。
慣れたというより、慣れたふりをしていた。
原稿を見ても、すぐには手を伸ばさない。
深く考えない。
文字を読んでも、意味を探さない。
破って捨てる。
燃やす。
できるだけ、何も感じないようにする。
夢を見ても、ただの夢だと考える。
現実に起きたことと、紙に書かれたことを分ける。
そうしなければ、仕事も生活も続けられなかった。
その朝も、直人は疲れたまま目を覚ました。
身体が重い。
眠ったはずなのに、眠気が残っている。
頭の奥がぼんやりしている。
いつものことだった。
目を開ける。
天井が見える。
直人は、しばらくぼんやり天井を見つめていた。
何かがおかしい。
普段なら、天井の木目が見える。
染みの形も分かる。
しかし、今日は視界の中に白いものが多すぎた。
直人は、ゆっくり身体を起こした。
壁に、紙が貼り付けられている。
一枚ではない。
何枚も。
隙間なく。
部屋の壁一面に、原稿用紙が貼られていた。
柱にも。
襖にも。
天井にも。
床にも。
布団の周りにも。
机の上にも。
引き出しの表面にも。
部屋中が、白い紙で覆われている。
直人は、息を吸った。
声が出ない。
眠気は、一瞬で消えていた。
身体の内側が冷たくなる。
紙は、糊で貼られているように見えた。
しかし、糊を使った覚えはない。
誰かが部屋へ入った形跡もない。
戸は閉まっている。
鍵もかかっている。
窓も閉じている。
それなのに、部屋中へ紙が貼られていた。
直人は、手を伸ばした。
壁の一枚を剥がす。
紙は、抵抗なく剥がれた。
その下の壁には、何もない。
直人は、紙面へ目を落とした。
そこに書かれている文字を見て、呼吸が止まった。
文章が、自分のことを細かく記していた。
生まれた日。
幼い頃に住んでいた家。
初めて寺子屋へ行った日。
父親に叱られた理由。
初めて友人ができた日。
記録係として働き始めた日。
清之と出会った日。
佐野と酒を飲んだ日。
直人自身が、忘れていたと思っていた出来事まで書かれている。
文章は、小説のようだった。
しかし、書かれている内容は、直人の人生そのものだった。
直人は、次の紙を剥がした。
そこには、別の日の出来事が書かれている。
さらに一枚。
さらに一枚。
すべてが、直人の人生だった。
文章は、直人の知らない視点から、直人を描いている。
直人が見ていなかった場面。
直人が聞いていなかった会話。
直人が眠っていた間に、誰かが見ていた出来事。
それらまで、細かく書かれている。
直人は、壁から紙を剥がし続けた。
剥がさなければならない。
読んではいけない。
そう思うのに、目が文字を追ってしまう。
紙の一枚に、幼い頃の記憶が書かれていた。
さらに一枚には、記録係になった日のこと。
その次には、昨日の朝、寺子屋の前を通ったこと。
直人が慧音を見たこと。
しかし、慧音へ何も考えず、そのまま通り過ぎたこと。
細部まで書かれている。
直人は、紙を剥がす手を止めた。
原稿は、自分の記憶を写しているだけではない。
自分が意識していなかったことまで知っている。
誰かが、ずっと自分を見ていた。
その感覚が、現実のものとして迫ってきた。
直人は、壁からさらに一枚を剥がした。
その紙は、他のものより少し厚かった。
紙面には、長い文章が書かれている。
直人の人生の続き。
今日の出来事。
明日の出来事。
その先にある出来事。
直人は、読み進めた。
手が震えた。
文章は、直人がどう死ぬのかを書いていた。
死ぬ場所。
死ぬ時刻。
その直前に考えること。
身体へ起こること。
助けを求めようとすること。
声が出ないこと。
最後に見るもの。
そのすべてが、細かく書かれている。
直人は、紙を落とした。
床へ落ちた紙の上に、さらに別の紙が重なる。
その紙には、葬儀の様子が書かれていた。
誰が参列するのか。
誰が泣くのか。
誰が、直人のことをどのように語るのか。
棺へ入れられた直人の身体。
焼かれる直人。
残された家族。
記録所の机。
片付けられる私物。
そして、誰も直人の死に疑問を持たないこと。
最後の行には、短くこう書かれていた。
『片桐直人の葬儀は、滞りなく終わった。』
直人は、立ったまま動けなかった。
部屋中を埋め尽くす原稿用紙。
自分の人生。
自分の死。
自分が死んだ後の葬儀。
そこまでが、すでに書かれている。
直人の手から、剥がした紙が落ちた。
紙が床へ触れる。
乾いた音がした。
その音だけが、異様に大きく部屋へ響いた。
直人は、しばらく動けなかった。
足元には、剥がした原稿が散らばっている。
部屋中にまだ大量の紙が残っていた。
白い紙が、部屋を埋めている。
直人の過去を知っている紙。
直人の死を知っている紙。
直人が死んだ後のことまで、すでに書いている紙。
直人は、息を吸った。
空気が肺へ入らない。
喉が狭くなっている。
胸が押しつぶされている。
心臓が、胸の内側で激しく跳ねていた。
「違う」
ようやく、声が出た。
「違う。こんなものは……」
何が違うのか、自分でも分からない。
内容が間違っている。
これは誰かの悪戯だ。
紙が偽物だ。
自分の人生など、こんな一枚の紙に書けるはずがない。
葬儀など、まだ起きていない。
自分は生きている。
ここにいる。
立っている。
呼吸をしている。
心臓が動いている。
なのに、紙には自分の死が書かれている。
直人は、壁へ貼られた原稿へ手を伸ばした。
剥がす。
紙が破れる。
構わない。
もう、丁寧に扱う余裕はなかった。
次の一枚へ手をかける。
剥がす。
その下の紙を剥がす。
さらに隣の紙を掴む。
直人は、がむしゃらに原稿を取り外していった。
爪が紙の端へ引っかかる。
指先が痛む。
紙で皮膚が切れる。
血が出ても、止まらなかった。
壁から剥がす。
柱から剥がす。
襖から剥がす。
天井へ手を伸ばす。
背伸びをして、指先で紙の端を探る。
紙が落ちてくる。
顔へ当たる。
肩へ落ちる。
足元へ積もる。
直人は、それを踏みつけながら、次の紙を剥がした。
どの紙にも文字がある。
自分の名前。
自分の過去。
自分の死。
視界に入るたび、頭の中へ文章が流れ込んでくる。
直人は、文字を見ないようにした。
しかし、見ないことができない。
紙を剥がすためには、紙面へ目を向けなければならない。
読まないようにしても、意味が入ってくる。
生まれた場所。
父親の声。
幼い頃に転んだ傷。
初めて記録所へ行った日。
友人と酒を飲んだ夜。
そして、まだ起きていない死。
直人は、叫んだ。
自分でも何を叫んだのか分からない。
言葉になっていなかった。
喉から、ただ音が出た。
それでも手は止まらなかった。
紙を剥がす。
破る。
丸める。
床へ投げる。
貼られた紙を、すべて取り除かなければならない。
この部屋から出さなければならない。
見えなくしなければならない。
そう思った。
しかし、紙は多すぎた。
剥がしても、次の紙が現れる。
壁の一角を剥がし終えたと思えば、その下から別の原稿が出てくる。
紙と紙の間に、さらに紙が重なっている。
どれだけ剥がしても、終わりが見えない。
直人は、壁へ手をついた。
息が苦しい。
身体が震えている。
頭の中が白い。
「捨てなければ」
直人は呟いた。
「全部、捨てなければ」
床に散らばった原稿を拾う。
一枚。
二枚。
三枚。
両腕で抱える。
紙の束が、腕の中で崩れる。
直人は、何度も拾い直した。
そして、部屋の外へ運ぼうとした。
しかし、戸の前で足が止まった。
これを捨てたところで、何になる。
原稿を屑籠へ入れても。
燃やしても。
破っても。
水へ沈めても。
翌日には、また現れる。
壁一面に貼られていた。
今までの紙とは、数が違う。
これだけの量を捨てれば、なくなると思う方が間違っている。
捨てた後に、また貼られる。
今度は、部屋だけではない。
家中に。
記録所に。
人里中に。
そう考えた瞬間、直人の腕から力が抜けた。
抱えていた紙が、床へ崩れ落ちる。
ばらばらになった原稿が、畳の上へ広がった。
直人は、その場へ座り込んだ。
手を膝へ置く。
肩で息をする。
目の前には、原稿がある。
紙は動かない。
誰もいない。
何も起きていない。
それなのに、部屋中が自分を見ているようだった。
原稿の文字が、直人を見ている。
紙そのものが、直人の行動を待っている。
剥がすのか。
読むのか。
捨てるのか。
逃げるのか。
どの行動も、すでに書かれているのかもしれない。
直人は、両手で顔を覆った。
指先が震えている。
恐怖を感じている。
しかし、恐怖だけではなかった。
困惑。
怒り。
恥ずかしさ。
助けを求めたい気持ち。
誰にも見られたくない気持ち。
自分だけが知っていると思っていた人生を、勝手に覗き込まれたような嫌悪。
それらが一つになり、どこへ向ければいいのか分からない。
直人は、何度も深呼吸をした。
吸う。
吐く。
しかし、呼吸は整わなかった。
自分が壊れているのかもしれない。
そう思う。
夢を何度も見る。
原稿が現れる。
書かれたことが現実になる。
自分の人生が、部屋中へ貼りつけられている。
これはもう、疲れや酒のせいでは説明できない。
少なくとも、直人はそう思った。
これは幻覚ではない。
夢でもない。
完全な怪異。
人の理解できる範囲を外れた、異変。
その言葉が、頭の中へ浮かんだ。
異変。
幻想郷では、普通ではない出来事をそう呼ぶ。
人里の者が自分で解決できない時、博麗の巫女へ相談することもある。
直人の脳裏へ、博麗の巫女の姿が浮かんだ。
博麗霊夢。
異変が起きれば、原因を探し、解決へ向かう巫女。
直人も、名前だけは知っている。
相談するべきではないか。
このことを伝えるべきではないか。
霊夢なら、原稿の怪異をどうにかできるかもしれない。
そう考えた。
しかし、次の瞬間には、首を横へ振った。
何をどう説明する。
原稿が現れる。
自分の未来が書かれている。
夢の中で、巨大な影が家の前を通る。
友人の首が、九十度に曲がった。
そんな話をして、信じてもらえるのか。
証拠はある。
部屋中に紙が貼られている。
だが、紙が証拠になるのか。
書かれている内容が自分の人生だと、どう証明する。
紙は捨てられる。
燃やせる。
剥がせる。
霊夢の前で、何も起きなければ。
原稿が現れなければ。
ただの妄想を抱えた人間として見られるだけだ。
あるいは、原稿を見せた瞬間に、すべて消えるかもしれない。
そうなれば、自分だけが嘘をついているようになる。
直人は、紙の束を見た。
助けを求めたい。
だが、相談するべきかも分からない。
説明できない。
証拠もない。
自分が本当に異変へ巻き込まれているのか、それとも自分の頭がおかしくなっただけなのかさえ、判別できない。
直人は、膝へ手を置いた。
頭の中で考えが巡る。
考えるほど、分からなくなる。
分からなくなるほど、怖くなる。
怖くなるほど、また紙を見てしまう。
紙を見ると、自分の死が書かれている。
その死を見て、さらに混乱する。
直人は、目を閉じた。
そして、ゆっくり開いた。
今、必要なのは、結論ではない。
証拠だった。
自分に何が起きているのかを、後から見ても分かる形で残す。
自分の記憶だけに頼らない。
日付を書く。
時間を書く。
何が起きたかを書く。
原稿がいつ現れたのか。
どこに置かれていたのか。
何が書かれていたのか。
破ったのか。
燃やしたのか。
その後、何が起きたのか。
直人は、立ち上がった。
足がふらついた。
壁へ手をつき、身体を支える。
机へ向かう。
手帳を取り出す。
記録係として使っている、厚い手帳だった。
日々の仕事の予定。
聞き取りの内容。
確認すべきこと。
簡単な覚え書き。
そこへ、直人は新しい頁を開いた。
筆を持つ。
指先が震える。
墨をつける。
紙の上へ、最初の文字を書く。
『片桐直人に起きた異常について。』
書いた文字を見て、直人は一瞬だけ手を止めた。
自分の名前を書くことに、抵抗があった。
原稿は、いつも自分の名前から始まる。
同じ形で書けば、何かが起きるような気がした。
しかし、直人は筆を止めなかった。
記録しなければならない。
何が起きているのかを確かめるために。
自分が幻覚を見ているだけなのか、それとも本当に異変が起きているのかを判別するために。
直人は、起きたことを一つずつ書き始めた。
最初に原稿用紙を見つけた朝。
そこに書かれていた一文。
夢に現れた巨大な影。
友人の事故。
原稿が未来の出来事を書いていたこと。
清之の首が曲がった夢。
何度も現れた原稿。
燃やしても、捨てても、また現れた紙。
部屋中へ貼られた原稿。
自分の人生と、死と、葬儀。
直人は、できる限り事実だけを書いた。
感情は後回しにする。
怖かった。
苦しかった。
気味が悪かった。
それらも書いた。
だが、それ以上に、時間と場所を正確に書く。
書き終えた時、手帳の頁はほとんど埋まっていた。
直人は、最後の行へ筆を置いた。
『現時点で、原因は不明。
幻覚ではなく、異変である可能性が高い。
今後、原稿が現れた場合は、その内容と出現場所を記録する。』
筆を置く。
墨が乾くまで、直人は頁から目を離さなかった。
自分で書いた文章。
自分が経験した出来事。
今のところ、これは誰にも消されていない。
直人は、手帳を閉じた。
記録した。
記録したことで、ほんの少しだけ呼吸が楽になった。
恐怖が消えたわけではない。
原稿の量も変わらない。
自分の死が書かれている事実も、消えない。
それでも、混乱の中に一本の細い線が引かれたようだった。
何が起きているのか分からないなら、分からないという事実から残す。
それが、記録係として直人にできる唯一のことだった。
やがて、朝の鐘が鳴る時間が近づいた。
普段なら、直人は身支度を整え、記録所へ向かう。
今日も、そうしなければならない。
そう考えたところで、直人は部屋を見渡した。
床へ散らばった原稿。
壁や天井に残る紙。
自分の人生が書かれた文章。
これを残したまま、仕事へ行くことはできない。
直人は、しばらく迷った。
今日一日、休むべきか。
仕事へ行っている間に、家の者がこの部屋を見たらどうする。
原稿を見つけられたら。
読まれたら。
何かが起きたら。
あるいは、直人がいない間に、さらに紙が増えたら。
考えれば考えるほど、外へ出られなくなった。
直人は、深く息を吐いた。
今日は、休もう。
記録所へ行くより先に、部屋を片づけなければならない。
原稿の内容を整理しなければならない。
何が書かれていたのか。
どの紙が自分の過去で、どの紙が未来なのか。
どこまでが同じ内容で、どこからが違っているのか。
直人は、手帳を懐へ入れた。
それから、床へ散らばった原稿を一枚ずつ拾い始めた。
捨てるためではない。
燃やすためでもない。
まず、何が書かれていたのかを確認するために。
直人は、今日初めて、自分から原稿へ向き合うことにした。
最初の一枚を拾い上げる。
紙は、壁から剥がした時のまま、少しだけ歪んでいた。端には糊の跡が残っている。文字は黒く、乱れもなく並んでいた。
直人は、机の前へ座った。
原稿を読むためではない。
そう思っていた。
何が起きているのかを確かめるため。
どこまでが自分の過去で、どこからがまだ起きていない未来なのかを整理するため。
記録係として、必要な作業をするだけだ。
そう自分へ言い聞かせた。
最初の一枚には、直人が生まれた日のことが書かれていた。
母親がどのような顔で直人を抱き上げたのか。
父親が、初めて直人を見た時に何と言ったのか。
家の中にいた親族の人数。
その日の天気。
誰が泣き、誰が笑ったのか。
直人自身は、生まれた日のことを覚えていない。
当然だった。
それでも、文章には細部まで書かれている。
誰かが見ていたのだ。
直人が知らない、直人の始まりを。
次の原稿には、幼い頃の記憶があった。
初めて立ち上がった日。
転んで膝を擦りむいた日。
母親の手を離して、道の端まで走った日。
父親の机から筆を持ち出し、床へ墨をこぼした日。
直人が覚えていることもあった。
覚えていないこともあった。
しかし、どの文章も、直人の人生を正確に描いている。
書き手は、直人の記憶を読んでいるのではない。
直人の人生そのものを、どこかから見下ろしている。
そんな感覚があった。
直人は、紙をめくった。
寺子屋へ通い始めた頃の話。
初めて友人ができた日の話。
その友人と喧嘩をした日の話。
仲直りした日の話。
記録係として働き始めた日の話。
文章は、どれも小説のようだった。
客観的な描写と、直人の内面が混ざっている。
直人自身が忘れていた考えまで書かれている。
母親に叱られた時、本当は何を思っていたのか。
友人へ謝った時、心の奥で何を恐れていたのか。
仕事で間違いをした時、誰にも見られていない場所で何を考えたのか。
直人が自分でも認めたくなかった感情が、文字として残っていた。
紙を持つ手が震える。
読んではいけない。
そう思った。
しかし、読むのをやめられなかった。
怖いからこそ、確認しなければならない。
確認しなければ、何が書かれているのか分からない。
分からなければ、何を恐れているのかも分からない。
直人は、原稿を一枚ずつ確認していった。
時間の感覚が薄れていく。
朝の鐘が鳴った。
昼の鐘が鳴った。
窓から差し込む光が、畳の上を移動していく。
直人は、その変化に気づかなかった。
紙を拾う。
流し読む。
過去と現在を分ける。
手帳へ簡単に印をつける。
それを繰り返した。
三時間半ほど経った頃、直人はようやく顔を上げた。
目が痛い。
肩が凝っている。
指先は、紙を触り続けたせいで乾いていた。
机の上には、原稿の束ができている。
過去の記録。
現在の記録。
そして、まだ起きていない未来の記録。
未来について書かれたものは、数十枚あった。
直人は、それらを別にまとめていた。
紙面に書かれている内容は、まだ起きていない。
しかし、これまでの原稿は、直人の行動を正確に書いていた。
ならば、未来の文章も、ただの想像とは思えなかった。
直人は、未来の束から一枚を取った。
そこには、夢に出てきた怪物のことが書かれていた。
『片桐直人は、夢の中で見たものを、現実で見ることになる。
その時、彼は初めて、その顔を知る。』
直人は、文字を何度も読み返した。
顔。
夢の中では、怪物の顔が見えなかった。
背が高すぎた。
見上げなければならなかった。
影の中に何かがあることは分かっても、顔だけは見えない。
それが、現実で見える。
直人は、紙を持つ指へ力を込めた。
夢の中の存在が、現実へ来る。
そう書かれている。
夢ではなく、現実で見ることになる。
しかも、その時に顔を知る。
直人は、原稿を机へ置いた。
呼吸が浅くなる。
今すぐ部屋の外へ逃げたい。
人のいる場所へ行きたい。
そう思った。
しかし、身体は動かなかった。
もう一枚、未来の原稿を取る。
そこには、別の内容が書かれていた。
『片桐直人は、原稿を抱えたまま道へ倒れた。
その前に、上白沢慧音が立っていた。
慧音は、彼へ問いかける。
「大丈夫か?」』
直人の手が止まった。
上白沢慧音。
寺子屋で見かけた女性。
人里で教師をしている人物。
直人も名前は知っている。
しかし、まともに話したことはない。
その慧音が、道へ倒れた自分へ話しかける。
原稿を持ったまま。
何かを見つけた直後に。
直人は、昨日の朝を思い出した。
寺子屋の前を通った。
慧音を見た。
何も考えず、そのまま通り過ぎた。
あの時、慧音へ声をかけていたら。
何かを相談していたら。
未来は変わったのだろうか。
それとも、原稿に書かれている通り、いずれ道へ倒れ、慧音と出会うのだろうか。
直人は、紙を裏返した。
続きはなかった。
文章は、そこで途切れている。
直人は、残りの原稿を確認した。
未来の紙は、すべてが死を直接書いているわけではない。
だが、どの文章にも、不吉な気配がある。
知らない場所。
見たことのない人影。
誰かの声。
夜の道。
石碑。
そして、自分の名前。
直人は、原稿を種類ごとに分けた。
過去。
現在。
未来。
怪物に関するもの。
慧音に関するもの。
死に関するもの。
分類している間だけは、頭を動かすことができた。
何が起きているのかを考えるのではなく、紙へ書かれた内容を整理する。
それは、記録係としての習慣だった。
しかし、束が整っていくほど、問題ははっきりしていった。
原稿は、直人の過去を知っている。
直人の現在を見ている。
直人の未来を、すでに書いている。
その全てを、同じ書き手が行っている。
直人は、原稿の束をまとめた。
捨てたい。
燃やしたい。
見えない場所へ隠したい。
しかし、捨てても意味がない。
また現れる。
燃やしても、灰になった後に新しい紙が出てくる。
手元からなくしても、異変そのものが消えるわけではない。
直人は、部屋を見回した。
壁に残っていた原稿は、すべて剥がしてある。
床にも、紙はほとんど残っていない。
しかし、紙を取り除いたことで、部屋が元へ戻ったようには感じられなかった。
白い紙がなくなっただけで、そこに書かれていた内容は消えていない。
直人の頭の中へ残っている。
夢の怪物。
現実で見る顔。
道へ倒れる自分。
慧音の問い。
未来の死。
直人は、原稿を一つにまとめた。
押入れを開ける。
奥へ手を伸ばし、古い布団の下に空間を作る。
そこへ原稿の束を入れた。
紙を隠す。
見えなくする。
誰にも見つからないようにする。
それでも、原稿の存在を消したことにはならない。
押入れの戸を閉めた。
直人は、しばらくその前に立っていた。
部屋の中には、もう原稿はない。
全て取り終えた。
それなのに、不安は消えなかった。
むしろ、見えなくなったことで不安が増している。
押入れの中にある。
見えなくても、そこにある。
何が書かれているのか、全部を覚えているわけではない。
流し読みした紙の中には、意味を理解できなかった文章もあった。
後で読み返さなければならない。
しかし、読み返したくない。
原稿を見なければ、未来を知らずに済む。
知らなければ、恐怖を感じずに済む。
だが、知らないことが安全とは限らない。
直人は、戸口へ目を向けた。
母親の声が聞こえた。
「直人? 起きているのかい?」
直人は、反射的に押入れを見た。
戸は閉まっている。
原稿は見えない。
「起きています」
返事をする。
「今日は仕事へ行かないのかい?」
母親の声が近づいてきた。
直人は、部屋の中を見渡した。
壁に残った紙の跡。
床へ散った紙屑。
机の上の手帳。
片付いているとは言えない。
母親に見られたくなかった。
余計な心配をかけたくない。
年老いた母親へ、こんな話をすることはできない。
「今日は、休みます」
「具合が悪いのかい?」
「少し、頭痛が残っていて」
直人は、すぐに理由を作った。
「昨日、飲み過ぎたのでしょう」
「そうです」
「無理をすることはないよ。仕事先へは、私から伝えておこうか」
「いえ、自分で伝えます」
「そうかい」
母親は、戸の外で少し黙った。
「何か食べるかい?」
「今は大丈夫です」
「そう」
母親の声には、心配が混じっていた。
直人は、申し訳なく思った。
嘘をついている。
頭痛はある。
二日酔いも残っている。
だから完全な嘘ではない。
しかし、本当の理由は別にある。
部屋中へ原稿が貼られていた。
自分の死が書かれていた。
夢の怪物が現実に現れると書かれている。
そんなことは言えない。
「ゆっくり休みなさい」
母親は、それだけ言った。
「はい」
足音が遠ざかっていく。
直人は、母親が部屋から離れたことを確認してから、ようやく息を吐いた。
押入れの中には、原稿がある。
母親へ見られなくてよかった。
もし見られていたら。
何を書かれているのか尋ねられたら。
直人は、説明できなかった。
直人は、机へ戻った。
手帳を開く。
先ほど書いた記録の下へ、さらに文章を書き加える。
『原稿は、私の過去を細部まで記している。
現在の行動も記録している。
未発生の出来事も、複数枚にわたって記されている。
夢に現れる怪物は、現実で姿を見せる可能性がある。
その時、私は怪物の顔を見ることになる。
上白沢慧音と、今後何らかの形で接触する可能性がある。
原稿を書いた者の目的は不明。』
直人は、筆を止めた。
目的。
なぜ、これを書いているのか。
なぜ、自分の人生を記録しているのか。
なぜ、死んだ後の葬儀まで書くのか。
脅しているのか。
予告しているのか。
ただ記録しているだけなのか。
直人の行動を誘導したいのか。
原稿がなければ起きなかった出来事を、原稿によって起こそうとしているのか。
考えれば考えるほど、分からなくなる。
手帳へ書き加える。
『夢に出てくる怪物は実在するのか。
原稿を書いている者の目的は何か。
誰なら、これほどのことができるのか。
原稿はどこから現れるのか。
記された未来は、必ず起こるのか。
それとも、読むことで起こるのか。
これが異変であるなら、証拠をどのように確保すべきか。』
直人は、筆を置いた。
誰なら、これほどのことができるのか。
幻想郷には、直人の知らない存在が多い。
妖怪。
魔法使い。
吸血鬼。
山に住む神々。
人の心や記憶へ干渉できる者。
直人が知っている名前は限られている。
紅魔館のレミリア・スカーレット。
八雲紫の式神である八雲藍。
人里の寺子屋で教える上白沢慧音。
竹林に住む藤原妹紅。
永遠亭の八意永琳と鈴仙・優曇華院・イナバ。
山の上に来た東風谷早苗。
そして、彼女が仕える山の神々。
その程度しか、直人には思い浮かばなかった。
博麗の巫女や霧雨魔理沙の名前も知っている。
しかし、彼女たちは異変を解決する側の人物として知られているだけで、原稿のようなことができるのかは分からない。
阿求や小鈴についても、直人は詳しく知らない。
阿求が幻想郷の記録をまとめていること。
鈴奈庵に本が多く、人里の中で変わった本を扱っていること。
その程度の知識しかない。
誰かが、自分の人生を原稿へ書いている。
その誰かを考えるために、直人は知っている名前を並べていった。
レミリアなら、未来を知る力があるのかもしれない。
藍なら、式神を使って自分を監視できるのかもしれない。
慧音なら、歴史や記憶を操作できると聞いたことがある。
妹紅なら、不死に近い存在として、普通ではない現象を知っているかもしれない。
永琳なら、薬や知識によって、夢や幻覚を見せることができるかもしれない。
鈴仙なら、月の狂気を使って、見えるものを変えられるかもしれない。
早苗や山の神々なら、奇跡や神の力で未来を示すことができるのかもしれない。
どれも、直人の知識だけで考えた想像だった。
誰が本当にできるのかは分からない。
分からないからこそ、名前だけが並んでいく。
直人は、手帳の頁を見下ろした。
書けば、整理できると思った。
しかし、書き進めるほど、疑う相手が増えていった。
自分の身近な人間。
知らない妖怪。
人里の外にいる者。
自分が一度も会ったことのない者。
原稿を書くことができそうな者を考えているはずなのに、いつの間にか、周囲のすべてを疑っていた。
母親も。
清之も。
佐野も。
昨日見かけた慧音も。
記録所の同僚も。
誰かが原稿を置いているのではないか。
誰かが自分を見ているのではないか。
誰かが、自分の人生を知っているのではないか。
直人は、筆を握る手へさらに力を込めた。
手帳へ書き続ける。
考えを止められなかった。
原稿を書いた者の目的。
夢の怪物の正体。
慧音との接触。
異変の証拠。
未来の文章。
死の記録。
問いを書けば書くほど、新しい問いが生まれる。
答えは、一つも増えない。
直人は、それに気づかなかった。
記録しているつもりで、自分を追い込んでいることに。
紙へ書けば、恐怖を外へ出せると思っていた。
しかし、紙へ書いた恐怖は、形を持った。
文字になった。
目で見えるものになった。
直人は、手帳の頁へ顔を近づけた。
最後に書いた一行が、妙に濃く見える。
『証拠をどのように確保すべきか。』
その下へ、直人は新しい問いを書きかけた。
しかし、筆先が止まった。
何を書くつもりだったのか、分からなくなった。
直人は、しばらく手帳を見つめていた。
その間も、押入れの奥には原稿の束がある。
誰にも見えない場所で、紙は静かに重なっていた。
それから、数週間が過ぎた。
部屋中を埋め尽くした原稿が、再び現れることはなかった。
壁にも。
天井にも。
床にも。
あの日のように、隙間なく貼りつくことはない。
直人は、朝起きるたびに最初に部屋を見渡した。
しかし何もない。
白い原稿用紙が、部屋を埋めていることはない。
それを確認してから、ようやく布団を出る。
以前は、目を覚ませばそのまま一日が始まっていた。
今は違う。
まず、紙がないことを確認する。
次に、押入れの戸を見る。
原稿の束が、奥にある。
扉は閉じている。
それでも、そこにあることは分かる。
直人は、毎朝のように押入れへ近づいた。
戸へ手をかける。
開けようとする。
しかし、開けない。
中を確認すれば、不安が増す。
確認しなければ、何かが変わっていても気づけない。
その間で迷い、結局、手を離す。
数日に一度の間隔で、原稿は現れた。
机の上。
帳面の間。
布団の下。
時には、仕事へ持っていった手帳の頁の間に挟まっていることもあった。
最初の頃のように、直人の行動を細かく記しているものもある。
『片桐直人は、朝食を残した。』
『片桐直人は、記録所で三度同じ頁を読み返した。』
『片桐直人は、帰宅してから押入れを開けなかった。』
直人は、見つけた原稿を手帳へ記録した。
出現した日付。
時間。
場所。
書かれていた内容。
その後、紙を捨てた。
燃やした。
破った。
水へ沈めた。
しかし、すべてを捨てたわけではない。
自分にとって重要だと思ったものは、別にまとめた。
未来について書かれたもの。
怪物について書かれたもの。
慧音の名前が出てきたもの。
直人自身の死に触れているもの。
それらは、押入れの奥の束へ加えた。
紙の枚数は、少しずつ増えている。
直人は、その数を記録していた。
押入れの中にある原稿、四十七枚。
新たに追加した原稿、三枚。
破棄した原稿、十九枚。
燃やした原稿、八枚。
水へ沈めた原稿、二枚。
記録を残している限り、自分は原稿に負けていない。
直人は、そう考えていた。
しかし、原稿が現れなくなったことで、別のものが現れるようになった。
最初は、ほんの一瞬だった。
人里の通りを歩いている時、道の端に何かが立っていた。
直人が目を向ける。
そこには誰もいない。
見間違いだった。
店の看板の影。
積まれた薪。
風で揺れた布。
それらが、人の形に見えただけ。
直人は、そう判断した。
仕事中、背後に気配を感じることもあった。
誰かが見ている。
振り返る。
同僚がいる。
誰もこちらを見ていない。
記録所の窓へ、黒い影が通った気がする。
外を見ても、誰も歩いていない。
机の下に、長い手が見えた気がする。
覗き込めば、何もない。
どれも、一瞬だった。
ほんの一瞬、何かがいたように感じる。
目を向けた時には、もう消えている。
直人は、見間違いだと考えた。
疲れている。
眠れていない。
仕事へ集中しすぎている。
それだけだ。
そう考えれば、まだ耐えられた。
しかし、ある日。
直人は、清之と話をしていた。
記録所の机を挟み、昨日届いた書類の内容を確認している。
「この日付は、前の記録と違わないか?」
清之が尋ねた。
直人は、帳面へ目を落とした。
「確認します」
その声を聞きながら、直人は顔を上げた。
清之の姿が、変わっていた。
首が裂けている。
喉から胸にかけて、何か鋭いものが通ったように開いている。
顔の半分が潰れている。
片目が、あり得ない方向へ向いている。
口から黒い血が流れ、衣服へ染みている。
清之は、何事もなかったように立っている。
だが、身体だけが生きているように見えた。
直人は、息を止めた。
「……直人?」
清之が首を傾げる。
その動きで、裂けた首から血が溢れたように見えた。
直人は、椅子を引いた。
脚が床へぶつかる。
「どうした?」
「いえ……」
直人は、目を逸らした。
もう一度見た時、清之は普通の姿へ戻っていた。
顔色が少し悪いだけ。
首も、胸元も、何も傷ついていない。
「本当にどうしたんだ?」
「少し、気分が悪くなっただけです」
「顔が真っ青だぞ」
清之が心配そうに言う。
直人は、返事をしなかった。
普通に話している相手が、惨たらしく殺された死体へ見えた。
それは、夢ではない。
目を開けている時に見た。
数秒だけ。
いや、ほんの一瞬だったかもしれない。
しかし、直人の目には、確かに見えた。
帰宅後、直人は鏡の前へ立った。
自分の顔を確認したかった。
最近、周囲の者から顔色が悪いと言われる。
痩せた。
目の下に隈がある。
食事をしているのか。
きちんと眠っているのか。
何度も尋ねられる。
直人自身は、何も変わっていないと思っていた。
原稿のことを考える時間が増えた。
眠れない日が続いている。
食事を残すこともある。
しかし、それ以外は以前と同じだ。
仕事へ行く。
記録を取る。
家へ帰る。
原稿を確認する。
それだけだった。
鏡へ顔を映す。
自分の顔が見える。
頬が少しこけている。
目の下が暗い。
髪が乱れている。
それでも、直人だった。
直人は、鏡へ近づいた。
その瞬間、鏡の中の自分が笑った。
口の端が、不自然に上がっている。
目は笑っていない。
顔の筋肉だけが、無理やり笑顔を作っていた。
直人は、後ずさった。
鏡の中の自分は、動かない。
口元だけが笑っている。
直人は、目を閉じた。
ゆっくり開く。
鏡には、青ざめた自分が映っていた。
笑っていない。
直人は、鏡へ手を伸ばさなかった。
その日から、鏡を見ることを避けるようになった。
水面も見ない。
磨かれた金属も見ない。
自分の姿が映るものへ、できるだけ近づかない。
周囲の人々は、直人の変化に気づいていた。
「少し痩せたんじゃないか?」
清之が言った。
「そうですか?」
「顔が細くなった」
「食事はしていますよ」
「でも、前より食べなくなっただろう」
「そんなことは……」
直人は、言いかけて口を閉じた。
昼食の弁当を、半分ほど残している。
朝食も、味が分からないことが増えた。
夜は、眠りへ入るまで時間がかかる。
眠ったとしても、夢の中で何かを見る。
だから、身体が痩せていくのは当然だった。
しかし、直人には自分が変わっている実感がなかった。
鏡を避けているせいで、自分の顔を見ていない。
服の緩みも、気にしていなかった。
自分の身体は、昨日と同じ。
今日も同じ。
明日も同じ。
そう思っていた。
ある日、ついに母親が永遠亭へ相談した。
直人は、最初は嫌がった。
「大丈夫です」
「大丈夫な人は、そんな顔をしていないよ」
「少し疲れているだけです」
「その少しが、ずいぶん長いじゃないか」
母親の声には、心配が滲んでいた。
直人は、反論できなかった。
永遠亭から、薬を受け取ることになった。
眠りを助けるもの。
気持ちを落ち着けるもの。
食事を取れるようにするもの。
薬を渡してくれた人物は、鈴仙だった。
赤い瞳で直人を見ながら、用法を説明した。
「一度に飲む量を間違えないでください」
「分かっています」
「眠れないからといって、勝手に増やしてはいけません」
「そんなことはしません」
「食事を抜いた状態で飲むと、気分が悪くなることがあります」
「はい」
鈴仙は、直人の顔を見た。
「あなた、ちゃんと眠れていますか?」
「眠っています」
「夢は?」
直人の指が止まった。
「……見ます」
「悪夢ですか?」
「覚えていないこともあります」
鈴仙は、しばらく直人を見ていた。
「無理に話したくないなら、話さなくてもいいです」
その言い方が、直人にはかえって苦しかった。
話したい。
誰かに聞いてほしい。
しかし、話せば信じてもらえない。
あるいは、信じられたとしても、どう対処すればいいのか分からない。
「薬を飲めば、少しは落ち着くでしょう」
鈴仙は、そう言った。
直人は薬を受け取った。
それから、薬を飲みながら生活するようになった。
朝に一錠。
夜に一錠。
眠れない時は、指示された薬を飲む。
薬を飲むと、頭の中の騒がしさが少し遠のいた。
原稿のことを考える時間が減る。
夢を見ても、目を覚ました後に内容を思い出しにくくなる。
それは、直人にとって救いだった。
しかし、薬が効いている間だけ、自分の感覚が鈍くなるようにも思えた。
何か大切なことを忘れている。
何かを見落としている。
そう感じることがある。
それでも、薬を手放せなかった。
薬がなければ、夜が怖い。
眠ることが怖い。
目を閉じれば、影が現れる。
目を開けても、死体が見える。
鏡の中の自分が笑う。
だから、薬を飲んだ。
日々は、さらに過ぎていった。
原稿は数日に一度、現れた。
直人は、内容を手帳へ書き写してから捨てた。
重要だと思うものは保管した。
夢は、時々見た。
夢を見ても、ただの夢だと思うようにした。
そうしなければ、生活できない。
そうしなければ、仕事へ行けない。
そうしなければ、自分が自分でなくなる。
ある日の夜。
直人は、押入れの奥から手帳を取り出した。
原稿の束ではない。
自分が異変について記録している手帳。
最初に書き始めた時から、ずっと使っているものだった。
直人は、机へ座り、頁を開いた。
最初の記録を読み返す。
『片桐直人に起きた異常について』
文字は、以前より読みにくくなっていた。
墨が滲んでいる。
紙が湿気を吸ったように、文字の輪郭がぼやけている。
直人は、眉を寄せた。
手帳を濡らした覚えはない。
水をこぼしたこともない。
薬を飲む手が震え、何かをこぼしたのかもしれない。
あるいは、古い紙だから墨がにじんだだけ。
そう考えた。
しかし、次の頁も同じだった。
さらに次の頁も。
文字が、水に濡れたように崩れている。
直人は、指で触れた。
紙は乾いている。
湿っていない。
それなのに、墨だけがにじんでいた。
最初の記録。
原稿用紙が現れたこと。
夢の中の影。
友人の事故。
未来の原稿。
部屋中へ貼られた紙。
どれも、文章の一部が読みにくくなっている。
直人は、頁をめくった。
その瞬間だった。
瞬きをした。
再び目を開ける。
さっきまであった一つの文字が、消えていた。
直人は、手帳へ顔を近づけた。
文章の途中に、空白がある。
前後の文字は残っている。
しかし、一文字だけが抜け落ちていた。
消えた場所には、墨の跡もない。
紙の傷もない。
最初から、そこへ何も書かれていなかったようだった。
直人は、呼吸を止めた。
手帳を傾ける。
光の角度を変える。
指先で紙を撫でる。
文字は戻らない。
直人は、次の頁をめくった。
そこにも空白があった。
さらにめくる。
別の場所が消えている。
頁を進めるほど、空白が増えていく。
文の途中だけが抜けている。
主語が消えている。
日付が消えている。
出来事の一部が消えている。
直人は、頁をめくる手を止められなかった。
消えていく。
記録したはずの文字が、少しずつ欠けている。
原稿だけではない。
自分が書いた記録も、残らない。
直人は、机の上へ手帳を置いた。
手が震えている。
今まで、自分が記録すれば残ると思っていた。
原稿を捨てても、手帳へ残しておけばよい。
自分の記憶が曖昧になっても、記録があれば確認できる。
そう思っていた。
だが、記録すること自体が、意味を失い始めている。
文字が消える。
記録が欠ける。
書いたという事実さえ、残らない。
直人は、手帳を見下ろした。
自分が異変を記録するために書いた文字。
その文字が、虫に食われたように欠けている。
しかし、紙に虫がいるわけではない。
誰かが削ったわけでもない。
ただ、そこだけが存在しなくなっていた。
直人は、初めて理解した。
原稿を捨てても意味がない。
逃げても意味がない。
記録して残そうとしても、それすら許されない。
自分が見たものも。
自分が考えたことも。
自分が恐れたことも。
すべて、最初からなかったことにされる。
直人は、手帳を閉じた。
閉じた表紙の内側で、残った文字が静かに滲んでいた。
直人は、手帳を机へ置いた。
両手で頭を抱える。
指の間から、乱れた髪がこぼれた。
「どうすればいい……」
声に出しても、返事はない。
部屋には、直人しかいない。
押入れの奥に原稿がある。
机の上には、文字の消えかけた手帳がある。
壁や床から剥がした紙は、すでに片づけた。
しかし、紙を片づけただけで、異変が消えたわけではない。
夢は続いている。
幻覚も見える。
原稿は現れる。
記録は消える。
どこへ逃げても、何かが追いついてくる。
直人は、机へ突っ伏しそうになった。
その時、ふと、手帳の頁へ目が向いた。
消えた文字。
欠けた文章。
残された空白。
直人は、ゆっくり顔を上げた。
文字は、偶然消えたのではない。
誰かが、不都合な部分を消したのではないか。
もし、原稿を書いている者がいるなら。
もし、何らかの意思が働いているなら。
すべてを消すのではなく、都合の悪い部分だけを消している可能性がある。
原稿には、直人の人生が書かれていた。
未来も書かれていた。
しかし、手帳に残した記録からは、一部だけが消えた。
なぜ、その部分なのか。
何が不都合だったのか。
誰にとって不都合だったのか。
直人は、消えた文字の前後を見た。
文章は途切れている。
主語が消えている。
原因が消えている。
出来事の一部だけが抜けている。
そこには、何かがあった。
何かが書かれていた。
そして、それを残しておけない理由があった。
「消されるなら……」
直人は、乾いた唇を舐めた。
「消されたものを探せばいい」
その考えは、恐怖の中で初めて生まれた、一本の細い道だった。
消された部分を復元する。
消えた文字の前後を照合する。
別の紙へ同じ内容を書く。
紙以外のものへ残す。
木へ刻む。
石へ刻む。
布へ縫い込む。
記号へ変える。
誰かへ話して覚えてもらう。
方法が一つしかないなら、塞がれる。
だが、複数の方法を使えば、どこかに残るかもしれない。
直人は、手帳へ書き加えた。
『消えた文章には、消される理由がある可能性。
消えた部分の前後を比較すること。
同じ内容を複数の媒体へ残すこと。
紙以外の記録方法を考えること。』
書いている間だけは、少し落ち着いた。
自分はまだ、考えることができる。
恐怖に呑まれているだけではない。
調べられる。
試せる。
記録係として、自分にできることがある。
そう思いたかった。
しかし、その後も幻覚は少しずつ酷くなっていった。
最初は一瞬だった。
通りの端に立つ影。
窓の外を横切る長い腕。
机の下へ伸びる、細い指。
次第に、それらは長く見えるようになった。
目を逸らしても消えない。
瞬きをしても残る。
相手と話している最中、その顔が崩れて見えることもあった。
清之の顔が、皮膚を剥がされた死体に見える。
母親の手が、黒く焼けた枝のように見える。
人里を歩く人々の口元が、全員、同じ形に吊り上がって見える。
それは一瞬で戻る。
直人が目を閉じる。
あるいは、視線を逸らす。
次に見た時には、いつもの人間へ戻っている。
だからこそ、誰にも説明できなかった。
「今、何か見えたのかい?」
母親に尋ねられても、
「いえ、何も」
と答えるしかない。
薬を飲んでいる間は、少しだけ楽だった。
視界の端に何かが現れても、見ないで済むことがある。
頭の中へ入り込んでくる不安も、少し遠ざかる。
しかし、薬が切れると、また戻ってくる。
夢。
原稿。
幻覚。
手帳の空白。
直人は、心の底から疲れていた。
ある日、博麗神社へ足を運んだ。
異変を解決する巫女へ相談するつもりだったわけではない。
ただ、何かを持って帰りたかった。
神社の授与所で、厄払いの札を買う。
札を受け取る時、直人は巫女へ何も話さなかった。
原稿のことも。
夢のことも。
怪物のことも。
ただ、札を一枚だけ求めた。
その後、守矢神社の札も手に入れた。
山の神々の名が記された札。
それを部屋の壁へ貼った。
効果があるとは思っていない。
札を貼ったからといって、原稿が消えるわけではない。
夢の怪物が現れなくなる保証もない。
それでも、札があることで、ほんの少しだけ安心できた。
少なくとも、何もせずに怯えているわけではない。
そう思えた。
ある日の夕方。
直人は家へ帰り、母親と食事を取った。
温かい汁物を口へ運ぶ。
味は薄く感じた。
魚を食べても、香りが遠い。
母親は何も言わなかった。
心配しているのだろう。
しかし、直人へ無理に話しかけることはしなかった。
食事を終え、自室へ戻る。
直人は、仕事の最後の確認をしていた。
その日の記録を整理する。
帳面の日付を確認する。
書き漏らしがないかを見る。
手帳の文字は、相変わらず一部が滲んでいる。
直人は、消えた部分を復元できないか考えていた。
その時だった。
扉が、強く叩かれた。
ドンッ、と大きな音がする。
直人の身体が跳ねた。
筆が手から落ちる。
「直人!」
扉の向こうから、母親の慌てた声が聞こえた。
「開けておくれ!」
直人は、椅子から立ち上がった。
母親が何かに怯えている。
そう思った。
「母さん?」
「開けて!」
再び扉が叩かれる。
ドンッ。
今度は一度だけではない。
何度も。
拳で叩く音。
直人は、扉へ近づいた。
しかし、途中で足が止まった。
何かがおかしい。
扉には、鍵がかかっていない。
直人は、さっき帰宅した時、鍵を閉めなかった。
母親もそれを知っているはずだ。
同じ家の中にいる。
しかも、扉は内側から押せば開く。
なのに、なぜ外から「開けて」と言うのか。
直人は、扉の前で立ち止まった。
「母さん」
「早く開けておくれ!」
声は、確かに母親のものだった。
慌てている。
息が乱れている。
今にも泣き出しそうな声。
「どうしたの?」
「説明している暇はないよ! 早く!」
直人の手が、扉の取っ手へ伸びかけた。
しかし、触れる直前に止まる。
「どうして開けてほしいの?」
扉の向こうが、少し静かになった。
「何を言っているんだい?」
母親の声が返ってくる。
「鍵はかかっていないでしょう」
直人は、扉を見つめた。
「押せば開くはずです」
すぐには返事がなかった。
直人は、息を殺した。
扉の向こうにいるものが、何を考えているのか分からない。
やがて、母親の声が返ってきた。
「……そうだったかね」
自然な答えだった。
母親らしい。
「驚いて、忘れてしまったんだよ。外から開けようとしても開かなかったから、鍵がかかっていると思ったのさ」
もっともらしい。
説明としては成立している。
直人は、少しだけ安心しかけた。
自分が疑いすぎているだけかもしれない。
疲れている。
薬のせいで、何もかもを疑っている。
母親が扉の前で慌てている。
それだけだ。
「母さん」
直人は、扉へ手を置いた。
「鍵は、かかっていません」
その言葉を口にした瞬間。
扉の向こうの声が、ぴたりと止まった。
物音も消えた。
呼吸の音すら聞こえない。
直人は、取っ手へ触れたまま動けなかった。
静かすぎる。
外に人がいるなら、何か音がするはずだった。
足を動かす音。
服が擦れる音。
呼吸。
しかし、何もない。
直人は、ゆっくり手を離した。
その直後だった。
扉が、激しく叩かれた。
先ほどよりも強い。
拳で叩くというより、爪で引っ掻いているような音だった。
ガリッ。
ガリガリッ。
木を削る音。
扉を破ろうとしている。
「開けろ」
母親の声がした。
先ほどまでの慌てた声ではない。
低い。
平坦。
「開けろ」
直人の背中へ冷たいものが走った。
母親は、そんな声を出さない。
声の高さも違う。
声の奥に、何か別のものが混じっている。
「開けろ」
扉が叩かれる。
引っ掻かれる。
木が軋む。
「開けろ」
同じ言葉が、何度も繰り返される。
直人は、後ずさった。
足が動かない。
膝から力が抜ける。
その場へ腰を落とした。
扉の前へ座り込む。
背中が壁へ当たった。
両手で口を覆う。
声を出してはいけない。
返事をしてはいけない。
存在を知らせてはいけない。
そう思った。
しかし、扉の向こうにいるものは、すでに直人の存在を知っている。
直人がここにいること。
息をしていること。
怯えていること。
全て知っているようだった。
「開けろ」
音が大きくなる。
扉が揺れる。
木の隙間から、細かな埃が落ちてくる。
直人は、札へ目を向けた。
博麗神社の札。
守矢神社の札。
どちらも壁へ貼られている。
風はない。
それなのに、札の端が小さく揺れていた。
直人は、手を伸ばした。
札へ触れる。
紙は冷たい。
何の力も感じない。
ただの紙に見える。
それでも、直人は札へ指を押し当てた。
扉が叩かれ続けている。
ガリガリッ。
ドンッ。
ガリッ。
開けろ。
開けろ。
開けろ。
直人は、目を閉じた。
数分が経った。
扉を叩く音は、止まらない。
声も、途切れない。
直人は、膝を抱えた。
身体を小さくする。
扉から離れたい。
しかし、部屋の奥へ逃げることもできない。
扉から目を離せなかった。
やがて、音が止まった。
突然だった。
声も。
叩く音も。
引っ掻く音も。
すべて消えた。
直人は、息を止めた。
静かになっただけだ。
いなくなったとは限らない。
扉の向こうに、まだいるかもしれない。
直人は、動かなかった。
時間だけが過ぎる。
外から、何も聞こえない。
家の中の音もない。
母親の気配もない。
遠くで、風が鳴っている。
直人は、ゆっくり目を開けた。
扉は、閉まっている。
鍵はかかっていない。
その取っ手が、わずかに動いた。
直人の喉から、小さな音が漏れる。
扉が、ゆっくり開いた。
誰も触れていない。
蝶番が軋む。
隙間ができる。
数センチ。
十センチ。
扉は、半開きになった。
廊下は暗い。
灯りがない。
直人は、見てはいけないと思った。
目を逸らすべきだった。
しかし、半開きの隙間から、外が見える。
見えてしまった。
最初に見えたのは、足だった。
細い。
異常なほど細い。
人間の足の形をしているのに、肉がない。
黒く焦げた木の枝。
不自然に伸ばされた針金。
それほど細く、乾いていた。
膝の位置が、直人の知っている人間とは違う。
関節が一つ多いようにも見える。
あるいは、関節そのものがない。
細長い脚が、折れ曲がっている。
蜘蛛や、カマキリの脚を思わせる形で、そこに立っていた。
胸と腹も異様だった。
極限まで飢えた身体のように、細く痩せている。
皮膚の下から、肋骨が浮き出ている。
一本一本が、黒い線のように見えた。
胴体は細い。
細すぎる。
人間の身体が、生命を維持するために必要なものを、全て失ったようだった。
その細い胴体に対して、手足だけが異常に長い。
腕は、膝を越えて垂れている。
指は、一本一本が細く長い。
指先は床へ届きそうだった。
関節の数が、人間より多く見える。
指が途中で折れ、また別の方向へ曲がっている。
それなのに、力なく垂れているのではない。
意思を持って、ゆっくりと揺れている。
直人は、息をすることを忘れていた。
その怪物は、部屋の中へ入ろうとしているわけではなかった。
ただ、廊下に立っている。
天井が低い。
人間なら、普通に立てる高さ。
しかし、怪物は立てなかった。
首を直角に折り曲げている。
頭部を、横へ倒している。
あるいは、ひどく猫背になっている。
背丈は、二メートル半を越えているように見えた。
それ以上。
三メートルを超えているかもしれない。
廊下の天井へ届きそうな身体を、無理に折り畳んでいる。
関節の多い手足が、身体へ沿うように折れ曲がっている。
その姿は、人が立っているというより、巨大な虫が人間の形を真似ているようだった。
直人は、ゆっくり視線を上げた。
見てはいけない。
それでも、上げてしまった。
首を直角に折り曲げた怪物の頭部が、そこにあった。
頭は、異常なほど大きい。
人間の頭ではない。
大きな西瓜ほどもある。
細い胴体の上へ、無理やり載せられたような頭部。
髪の毛はない。
耳もない。
鼻の膨らみもない。
人間の顔を構成している部品が、削ぎ落とされている。
頭全体の皮膚が、焼けただれていた。
大火傷を負ったように、皮が剥がれている。
顔面は、赤い肉がむき出しになっている。
生身の肉。
爛れた肉。
そこへ、常に不快な光沢を放つ脂が浮いている。
どす黒い液体が、額のあたりからゆっくり流れ落ちる。
頬の形はない。
皮膚と肉の境目もない。
ただ、赤く崩れたものが顔の形を保っている。
その中に、口があった。
口だけは、異様にはっきりしている。
爛れた肉が左右へ裂けている。
そこから、白い歯が並んでいた。
人間の歯ではない。
細く、鋭い。
獣の牙よりも長く、揃いすぎている。
それらが、狂気と悪意に満ちた笑顔を作っていた。
笑っている。
笑顔の形をしている。
しかし、顎は動かない。
声を出すために開閉することもない。
ただ、最初からその形で固定されている。
笑っているのではない。
笑顔という形を、貼りつけられている。
直人の喉から、息が漏れた。
怪物の目が、こちらを向いている。
瞼がない。
閉じるための皮膚が存在しない。
大きく見開かれた眼球が、赤く爛れた顔面の中へ露出している。
白目の割合が異常に多い。
その中心にある黒目は、小さく濁っていた。
生きた目に見えない。
しかし、確実に直人を見ている。
瞬きをしない。
目を逸らさない。
直人の顔ではなく、直人の奥を見ている。
身体の中。
記憶の中。
恐怖の中。
直人が隠しているものを、全て見通そうとしている。
怪物は、動かなかった。
声も出さない。
口元は固定された笑顔のまま。
それなのに、直人には分かった。
怪物は、直人を見つけている。
ずっと探していたのではない。
最初から、ここにいると知っていた。
目が合った。
直人は、身体を動かせなかった。
逃げなければならない。
扉を閉めなければならない。
札を掴まなければならない。
叫ばなければならない。
どれもできない。
手足が冷たい。
背中が床へ貼りついている。
怪物の細長い腕が、ゆっくりと動いた。
音はしなかった。
関節がいくつあるのか分からない腕が、蜘蛛の脚のように折れ曲がる。
指先が、扉の隙間へ近づく。
直人は、ようやく理解した。
夢の中で見ていたものが、ここにいる。
夢の中で見えなかった顔を、今、見ている。
怪物は、口を動かさない。
それでも、直人の頭の中へ声が響いた。
「開けろ」
直人は、声にならない叫びを上げた。
喉が震えた。
肺が空気を吐き出した。
しかし、音にはならなかった。
怪物の指が、扉の隙間へ近づいている。
赤く爛れた顔。
固定された笑顔。
瞬きをしない目。
直人は、残っていた力をすべてかき集めた。
扉へ飛びつく。
怪物の指先が、隙間へ触れる直前だった。
直人は扉を掴み、乱暴に引いた。
木が大きく軋む。
扉の向こうにいた長い腕が、隙間から引き抜かれた。
直人は、力任せに扉を閉めた。
戸板が枠へ叩きつけられる。
その衝撃で、壁に貼っていた札が一枚、床へ落ちた。
直人は構わなかった。
扉へ背を押しつける。
両手で取っ手を握る。
「開けない……!」
ようやく声が出た。
掠れていた。
「絶対に開けない!何があっても、開けるものか!」
扉の向こうから、返事はなかった。
叩く音もない。
引っ掻く音もない。
ただ、扉一枚を隔てた先に、あの怪物がいる。
直人は、呼吸を殺した。
耳を澄ます。
何かが立っている気配はある。
床を踏む音はしない。
関節の音もしない。
あれは、音を立てずに動く。
夢の中でも、そうだった。
直人は、取っ手を握り続けた。
指が痛い。
手のひらへ金具が食い込んでいる。
それでも、離せなかった。
「直人?」
扉の向こうから声がした。
直人の身体が跳ねた。
母親の声。
しかし、すぐには信じられなかった。
「直人、どうしたんだい?」
声は、いつもの母親と同じだった。
少し高く、心配そうで、年齢のためにわずかな震えがある。
だが、さっきも母親の声をした。
もっともらしい理由を言い、直人を扉へ近づけた。
その声が、本物だとどうして分かる。
直人は、扉へ背を押しつけたまま黙っていた。
「返事をおくれ。何かあったのかい?」
母親が、扉を軽く叩いた。
コン、コン。
先ほどの音とは違う。
拳で叩いていない。
指の関節で、控えめに叩いている。
「直人?」
その呼び方も、いつものものだった。
怪物は、直人を呼び捨てにはしない。
いや、怪物には母親の記憶などない。
そう考えようとした。
しかし、何が本物で、何が偽物なのか分からない。
「母さん……?」
直人は、扉へ向かって尋ねた。
「そうだよ。どうしたんだい?」
「今、どこにいるの?」
「お前の部屋の前にいるよ」
「何をしているの?」
「何をって……部屋の中で大きな音がしたから、様子を見に来たんだよ」
返事は自然だった。
声の間。
息を継ぐ場所。
言葉の選び方。
どれも母親らしい。
直人は、扉へ耳を当てた。
向こうから、母親の呼吸が聞こえる。
浅い。
少し急いでいる。
「怪物は……」
口に出しかけて、直人は言葉を止めた。
怪物がまだ扉の向こうにいるなら、母親は危険だ。
しかし、母親の声が偽物なら、余計なことを言ってはいけない。
「どうしたんだい?」
「……何でもない」
「何でもない声じゃないよ」
母親は、心配そうに言った。
「開けておくれ。顔を見せておくれよ」
直人は、取っ手を見た。
開けるべきか。
開けてはいけない。
さっき、原稿に書かれていた。
怪物が現実へ現れる。
その顔を知る。
慧音に会う。
全てが、書かれた通りになっている。
ならば、ここで扉を開ければ、また原稿通りに何かが起こるかもしれない。
「直人」
母親の声が、また聞こえた。
「お前、泣いているのかい?」
直人は、目を見開いた。
自分が泣いていることに気づいていなかった。
目から涙が流れている。
頬を伝い、顎から落ちた。
母親は、いつもそうだった。
直人が何も言わなくても、泣いている時は分かる。
「母さん」
「何だい?」
「本当に、母さん?」
「何を言っているんだい」
母親の声に、困惑が混じった。
「当たり前じゃないか」
その返事を聞いた瞬間、直人はようやく信じた。
声の揺れ。
言葉の癖。
返事の遅れ。
母親しか使わない言い方。
怪物が真似していた声とは違う。
先ほどの声は、母親の声の形をしていただけだった。
今、扉の向こうにいるのは、本当の母親だ。
直人は、取っ手を回した。
扉を少しだけ開ける。
「危ないよ」
母親が言った。
「何があったんだい?」
廊下に、母親が立っていた。
肩へ羽織をかけている。
片手には、小さな行灯を持っていた。
顔には、本物の心配が浮かんでいる。
直人は、母親の姿を見て、ようやく力が抜けた。
扉へ手をついたまま、座り込む。
「まあ、直人」
母親が駆け寄った。
「どうしたんだい?」
「……消えた」
「何が?」
「怪物が」
母親は、眉を寄せた。
「怪物?」
直人は、すぐに我に返った。
こんなことを話しても、母親を怯えさせるだけだ。
「いえ……」
直人は、乱れた呼吸を整えようとした。
「扉の外で、何か物音がした気がして。誰かが入ってきたのかと思ったんです」
「それで、あんなに扉を叩いたのかい?」
「驚いてしまって」
母親は、直人の顔を見た。
「本当に大丈夫かい?」
「大丈夫です。ただ、少し疲れていただけで」
「疲れているのは、前からでしょう」
母親は、床へ落ちた札を拾った。
「これも落ちているよ」
博麗神社の札だった。
もう一枚、守矢神社の札も床へ落ちている。
直人は、それを見て息を止めた。
札が黒くなっていた。
紙の白さが失われている。
墨で汚れたような黒ではない。
紙そのものが、内側から焦げたように変色している。
文字も読めない。
神社の名も、印も、黒い染みの中へ沈んでいる。
直人は、札を拾い上げた。
指先へ、ざらついた感触が伝わる。
紙は乾いている。
しかし、触れた場所から粉のようなものが落ちた。
厄を払うために貼った札。
それが、役目を終えたように黒くなっている。
あるいは、何かに食われたように。
直人は、札を見つめた。
効果がなくなった。
そう思った。
そう思うしかなかった。
「新しいものを買えばいいさ」
母親が言った。
「こんな紙一枚、古くなれば黒くもなる」
「……そうですね」
直人は、札を握った。
母親を安心させるように笑おうとした。
しかし、頬が引きつっただけだった。
その日の夕方。
直人は、自室にいた。
眠れなかった。
昼間も、ほとんど横になっていない。
目を閉じれば、怪物の顔が浮かぶ。
固定された笑顔。
白く鋭い歯。
瞬きをしない目。
夢では見えなかった顔を、現実で見た。
原稿に書かれていた通りに。
直人は、何度も手帳を開いた。
そこに書かれた文字の一部は、すでに消えている。
それでも、残った文章を追う。
怪物が現実で姿を見せる。
顔を知る。
慧音と出会う。
その次に何が書かれていたのか。
直人は、押入れの奥から原稿を取り出した。
重要な未来の記録。
そこには、まだ読めていない紙もある。
直人は、原稿を手に持った。
博麗神社へ行こう。
霊夢へ相談する。
これ以上、一人で抱えてはいけない。
誰かに話を聞いてもらわなければ、本当に狂ってしまう。
そう思った。
直人は、家を出た。
夕暮れの人里を歩く。
足取りは重い。
原稿の束を、胸へ抱えている。
これを持って行けば、証拠になるかもしれない。
紙に書かれた内容。
自分の過去。
未来。
怪物。
自分の死。
霊夢なら、これを見て何か分かるかもしれない。
博麗神社へ向かう道を歩き始めた。
しかし、しばらく進んだところで、直人は足を止めた。
もし、神社へ着いた時に原稿が消えたら。
何も書かれていない紙になったら。
夢の話をしても、信じてもらえなかったら。
怪物を見たと言えば、疲れていると思われる。
原稿の内容を見せても、誰かの悪戯だと思われる。
死ぬ未来を見せても、まだ起きていないなら証拠にならない。
説明できない。
原稿を持っているだけでは、異変だと証明できない。
直人は、立ち尽くした。
どこへ行けばいいのか分からない。
何を話せばいいのか分からない。
誰へ助けを求めればいいのかも分からない。
その時、直人は自分の足元へ目を落とした。
夕暮れの光が、道へ長く伸びている。
家々の影。
木の影。
直人の足元にも、当然、影があるはずだった。
しかし、なかった。
直人は、息を呑んだ。
周囲の物には影がある。
道の端の石にも。
通り過ぎる人にも。
荷車にも。
直人の足元だけが、明るい。
身体はそこに立っている。
服もある。
足もある。
なのに、影だけがない。
直人は、足を動かした。
影は動かない。
もう一歩下がる。
影は現れない。
直人は、視線を何度も変えた。
光の向きが悪いのかもしれない。
自分の身体が、影を落とさない場所に立っているのかもしれない。
しかし、周囲のものには影がある。
直人だけに、影がない。
「……嘘だ」
声が漏れた。
原稿の一文が、頭の中へ浮かぶ。
まだ起きていない未来。
夢の怪物。
そして、今。
影がない。
直人は、後ずさった。
足がもつれる。
抱えていた原稿が腕から滑り落ちる。
紙の束が道へ散らばった。
直人は、拾おうとした。
しかし、膝から力が抜けた。
その場へ尻餅をつく。
道行く人々が、何人か振り返った。
直人は、散らばった紙を見た。
紙面の文字が、夕暮れの光の中で黒く浮かんでいる。
その時、背後から声がした。
「大丈夫か?」
直人は、振り返った。
上白沢慧音が立っていた。
寺子屋で見た時と同じ姿。
しかし、原稿に書かれていた。
直人が道へ倒れ、慧音が話しかけてくる。
その通りになった。
衝撃が、遅れて押し寄せた。
頭の中が真っ白になる。
自分の行動が、原稿の文章へ合わせられている。
紙が未来を当てたのではない。
未来の方が、紙へ近づいている。
直人は、慧音を見上げた。
声を出そうとした。
しかし、喉が震えるだけだった。
慧音が、少し身を屈める。
「聞こえているか?」
直人は、原稿を見た。
慧音を見た。
もう一度、原稿を見る。
原稿通りになった。
ならば、慧音へ話を聞いてもらうべきだ。
原稿のことを。
怪物のことを。
消える文字のことを。
影のない自分のことを。
直人は、かすれた声を出した。
「……話を、聞いてください」
慧音の表情が変わった。
困惑と警戒が混じる。
「落ち着いて話せる場所へ行こう」
慧音は、散らばった原稿へ目を向けた。
直人は、急いで紙を拾い集めた。
慧音は手を貸そうとしたが、直人は一瞬、腕を引いた。
触れられるのが怖かった。
しかし、慧音はそれ以上近づかなかった。
「寺子屋なら、今は誰もいない」
慧音が言った。
「そこで話を聞こう」
直人は、黙って頷いた。
二人は、寺子屋へ向かった。
直人は歩きながら、何度も足元を見た。
影はない。
夕暮れが深くなっている。
周囲の影が長く伸びていく中で、直人の足元だけが空白だった。
寺子屋へ着くと、慧音は戸を開けた。
中は静かだった。
昼間、子どもたちがいた場所。
今は机と椅子が並んでいるだけ。
慧音は、直人へ座るよう促した。
「まず、名前を聞いてもいいか?」
「片桐直人です」
「私は上白沢慧音だ。知っていると思うが」
「はい」
「何があった?」
直人は、原稿の束を机へ置いた。
手帳も取り出す。
それから、最初に原稿用紙が現れた時のことを話した。
書かれていた一文。
消える紙。
夢の中の足音と怪物。
友人の事故。
未来の事故。
原稿が部屋中へ貼りついていたこと。
自分の人生と死が書かれていたこと。
原稿を破り、燃やし、捨てたこと。
手帳へ記録したこと。
文字が消えていったこと。
幻覚を見るようになったこと。
永遠亭から薬を受け取ったこと。
札が黒くなったこと。
扉の向こうに現れた怪物。
現実で、その顔を見たこと。
そして、自分の影が消えたこと。
慧音は、途中で何度も質問を挟んだ。
「原稿は、いつから現れた?」
「最初は、数日に一度です。今は……」
直人は、押入れの奥へ置いた原稿の枚数を思い出した。
「数十枚あります」
「それを、誰かへ見せたことは?」
「ありません。今日、初めてあなたへ」
「文字は、消えた?」
「はい。私が手帳へ書いた記録も、一部が」
直人は、手帳を慧音へ渡した。
慧音は頁を開いた。
滲んだ文字。
途中で抜け落ちた部分。
意味の通らなくなった文章。
慧音の目が、頁の上を動く。
彼女の表情は、真剣だった。
しかし、信じ切ってはいない。
直人自身にも、そのことが分かった。
あまりにも現実離れしている。
神の悪戯とでも言われた方が、まだ理解しやすい。
慧音は、手帳を閉じた。
「……話は分かった」
「信じてもらえますか?」
慧音は、すぐには答えなかった。
「信じる、という言い方は難しい」
直人の胸が、重く沈んだ。
「私には、すべてが現実に起きたと断言する材料がない」
「ですが、これが証拠です」
直人は原稿の束を指した。
「私の人生が、細かく書かれています。まだ起きていないことまで」
「それが、誰かの悪戯ではないと?」
「数ヶ月も続いています。捨てても、燃やしても、また現れる」
「それは確かに普通ではない」
慧音は、原稿へ目を落とした。
「だが、普通でないことと、あなたの話がそのまま真実であることは、同じではない」
直人は、言葉を失った。
慧音の声に、疑いがあった。
直人を責めているわけではない。
しかし、信じているわけでもない。
まるで、全てが神の悪戯のように聞こえている。
直人は、机の下で手を握った。
自分は、助けを求めてここへ来た。
ようやく話を聞いてくれる相手を見つけたと思った。
それなのに、慧音の目には、まだ疑念が残っている。
その視線が、直人の不安をさらに深くした。
「……なら、どうすればいいんですか」
直人は尋ねた。
「これが幻覚でないと、どう証明すればいいんですか」
慧音は、答えなかった。
机の上には、直人の手帳と原稿が並んでいる。
消えた文字。
未来の文章。
名前のない死。
それらを前にしても、慧音はまだ、完全には信じ切れずにいた。
信じていないわけではない。
少なくとも、直人が何らかの異常に巻き込まれていることは理解している。
目の前にある手帳には、文字の欠落がある。
紙を濡らした形跡はない。
墨を拭った跡もない。
それなのに、文章の一部だけが存在しなくなっている。
直人が持ってきた原稿には、彼自身の名前が何度も書かれている。
過去の出来事。
これから起こるとされる出来事。
まだ確認できない未来。
それらを、慧音が事実として受け入れることはできなかった。
「この原稿は、いつから?」
慧音は、束の一番上にある紙へ目を落とした。
「最初の一枚が現れたのは、数か月前です」
直人は答えた。
「最初は一枚だけでした。朝、机の上に置かれていて……」
「誰かが置いたところを見たことは?」
「ありません」
「原稿が現れる時、何か音や気配は?」
「時々、紙が擦れる音がします。けれど、見た時にはもう置かれている」
「書いた者の心当たりは?」
「ありません」
慧音は、質問を重ねていった。
紙の出現場所。
文字の変化。
消えた部分。
夢の内容。
直人が見た怪物。
直人は、答えられる限り答えた。
自分でも分からないことは、分からないと答えた。
覚えていないことを、無理に埋めようとはしなかった。
その態度は、記録係として身についたものだった。
だが、話せば話すほど、説明が現実離れしていく。
原稿が現れる。
未来が書かれる。
書いた記録が消える。
怪物が見える。
影がなくなる。
自分が死ぬ文章がある。
口に出してみると、どれも自分の体験とは思えなかった。
慧音も、同じように感じているはずだった。
「あなたは、原稿が現実を予告していると思っているのか?」
慧音が尋ねた。
「予告ではありません」
直人は、すぐに答えた。
「書かれた通りに、現実が近づいているように感じます」
「近づいている?」
「はい」
直人は、机の上の原稿を見た。
「原稿が現実を見ているのか、現実が原稿へ合わせられているのかは分かりません。でも、書かれたことが起きる時、偶然とは思えない形になります」
「友人の事故も?」
「……はい」
「あなたが見た怪物も?」
「夢の中のものが、現実に現れました」
「その怪物は、他の人間にも見えたのか?」
「分かりません。私以外は、誰も気づいていません」
「ならば、幻覚である可能性は残る」
直人の胸が痛んだ。
慧音の言い方は冷静だった。
直人を疑っているというより、可能性を並べているだけ。
それでも、今の直人には、その冷静さが拒絶のように感じられた。
「あなたも、私がおかしくなったと思いますか?」
「そうは言っていない」
「けれど、そう考えている」
「可能性として考えている」
「私の言っていることが、妄想かもしれないと?」
「可能性を捨てることはできない」
直人は、唇を噛んだ。
分かっていた。
誰が聞いても、そう考える。
自分だって、他人から同じ話をされたら、すぐには信じない。
だからこそ、苦しかった。
自分が嘘をついているわけではない。
それなのに、証拠が消える。
記録が欠ける。
説明するほど、自分の方が現実から外れていく。
「では、どうすればいいんですか」
直人は尋ねた。
「これが幻覚でないと、どう証明すればいいんですか」
慧音は、手帳を閉じた。
「証明する必要があるのか?」
「あります」
直人は、顔を上げた。
「証明できなければ、誰も信じません。信じてもらえなければ、私一人の問題になる。私が死ぬと書かれているのに、それをただの妄想だと思われたら……」
声が震えた。
「私は、どうすればいいんですか」
慧音は、少し黙った。
「まず、今日ここへ来たこと自体は間違っていない」
「本当に?」
「少なくとも、一人で抱えているよりはいい」
その言葉だけで、直人の胸に張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
信じてもらえなくても、話を聞いてもらえる。
それだけで、ここへ来た意味はあった。
「しかし、原稿の内容をそのまま事実として扱うことも危険だ」
慧音は続けた。
「あなたは、原稿に書かれたことを避けようとしている。それが原因で、別の行動を取ることになる」
「避けなければ、死ぬかもしれません」
「避ければ、起きるかもしれない」
直人は、黙った。
慧音は、原稿の一枚を手に取った。
紙面には、直人が道へ倒れ、慧音が声をかける場面が書かれている。
すでに起きた出来事だった。
直人は、その頁を見た。
慧音は、文章を読み終えると、紙を裏返した。
「この原稿は、いつ書かれた?」
「分かりません。現れた時には、すでに」
「あなたが道へ倒れる前に?」
「はい」
「そして、書かれていた通りになった」
「はい」
慧音は、紙の端を見た。
「あなたは、この原稿を見た後、道へ向かったのか?」
「博麗神社へ相談しようとしていました」
「原稿を持って?」
「はい」
「では、原稿に書かれていた未来へ近づく行動を、あなた自身が選んだとも言える」
直人は、息を止めた。
原稿を持って歩いた。
影がないことに気づいた。
倒れた。
慧音と会った。
すべて、原稿に書かれていた。
自分が原稿を読んだから、その通りに行動したのか。
原稿がなくても、同じ行動を取ったのか。
直人には分からなかった。
「原稿がなければ、私は道へ出なかったかもしれません」
「そうだな」
「でも、原稿がなければ、私は影がないことにも気づかなかった」
「それも事実だ」
「なら、原稿が私を動かしたのか、それとも私が原稿を読んで動いたのか……」
直人は、頭を抱えた。
考えれば考えるほど、始まりが分からなくなる。
紙が先か。
行動が先か。
予告が先か。
出来事が先か。
慧音は、しばらく直人を見ていた。
「この異変について、あなたが知っていることは少ない」
「はい」
「私も同じだ」
直人は顔を上げた。
「慧音さんも?」
「私が知っているのは、記録や記憶に不自然な欠落があることだけだ」
慧音は、手帳へ目を向けた。
「あなたの話が正しいなら、これは単なる記録の改変ではない。しかし、原稿が何なのか、誰が書いているのかまでは分からない」
「歴史を隠す力があると聞いています」
直人は慎重に言った。
「慧音さんなら、文字を消したり、記録を隠したりできるのではありませんか?」
慧音の表情が、わずかに硬くなった。
「誰から聞いた?」
「人里で知られている話です」
「私は、何でも好きに消せるわけではない」
「では、手帳の文字を消していない?」
「私が来る前から消えていた」
「原稿も?」
「それも私ではない」
直人は、慧音の顔を見た。
嘘をついているようには見えない。
しかし、怪物と同じように、人間の顔も信じられなくなっていた。
目の動き。
口元。
声の調子。
どれも、真似できるものに思える。
「……分かりません」
直人は言った。
「何が本当なのか、もう分からないんです」
慧音は、何も言わなかった。
寺子屋の外では、風が吹いている。
戸の隙間から入り込んだ冷気が、紙の端をわずかに揺らした。
直人は、反射的に原稿へ手を伸ばした。
紙を押さえる。
その手の下で、紙面の文字が揺れたように見えた。
直人は、手を離した。
文字は動いていない。
見間違いだった。
そう考えた。
しかし、見間違いだと決めることも、もう怖かった。
「今日は、ここに泊まっていくか?」
慧音が言った。
「外は暗い。今の状態で一人で帰るのは危険だ」
「……いいんですか?」
「構わない。寺子屋なら、人の気配もある」
直人は、しばらく迷った。
慧音を信用していいのか分からない。
しかし、家へ帰れば、母親がいる。
部屋がある。
押入れの中に原稿がある。
そして、あの怪物が再び現れるかもしれない。
「お願いします」
直人は、ようやく頷いた。
慧音は、机の上の原稿をまとめた。
直人は、その動きを見ていた。
慧音が原稿を持つ。
指が紙へ触れる。
原稿の文字が消えるのではないかと思った。
しかし、何も起きない。
慧音は、紙の束を直人へ返した。
「これは、あなたが持っていろ」
「読まないんですか?」
「読む必要はある。だが、今日はもう十分だ」
直人は、原稿を受け取った。
慧音の手が、自分の手へ触れた。
温かい。
生きた人間の温度だった。
直人は、わずかに安心した。
だが、その安心も長くは続かなかった。
寺子屋の壁に貼られた札が、風もないのに揺れた。
紙の端が、ひらひらと動く。
直人は、札へ目を向けた。
白い紙。
黒い文字。
普通の札に見える。
しかし、その影がなかった。
直人は、目を逸らした。
慧音は気づいていない。
あるいは、気づいていて見ないふりをしている。
直人には判断できなかった。
慧音が灯りをつける。
寺子屋の中が明るくなる。
直人は、原稿を抱えたまま、机の前へ座っていた。
手帳は、慧音の前にある。
原稿は、直人の膝の上にある。
その二つの記録が、明るい灯りの下で静かに並んでいた。
それから、直人は二週間近く、慧音のところへ通った。
二日に一度。
多い時には、二日続けて寺子屋へ行った。
毎回、原稿を何枚か持っていく。
手帳も持っていく。
前回から新しく現れた紙。
消えた文字。
見た夢。
記録した出来事。
直人は、できる限り順序を守って話した。
いつ、どこで、何が起きたのか、何を見たのか、何を見なかったのか。
記録係として身につけた話し方だった。
慧音は、直人の話を遮らずに聞いた。
分からないことは、分からないと言った。
原稿の内容をすぐには信じなかった。
だが、直人を追い返すこともしなかった。
「それは、原稿に書かれていたのか?」
「はい」
「実際に起きたのか?」
「まだです」
「では、確認はできない」
「そうです」
「あなた自身が見たのか?」
「はい」
「他の人間も見たのか?」
「いいえ」
同じやり取りが、何度も繰り返された。
直人が未来の原稿を持っていけば、慧音はそれを読む。
そして、紙を閉じる。
「これだけでは、未来が決まっているとは言えない」
慧音は、そう言った。
「あなたが読んだから、そうなる可能性もある」
「原稿が書かれたから起きる可能性は?」
「それも否定できない」
「結局、どちらなんですか?」
「まだ、どちらとも言えない」
直人にとって、その答えは不満だった。
しかし、以前のように腹を立てることはなかった。
慧音が完全には信じていないことは分かっている。
それでも、話を聞いてくれる。
紙を見てくれる。
消えた手帳の頁を確認してくれる。
少なくとも、直人が一人で抱えているわけではない。
それだけで、幾分かは楽だった。
寺子屋へ行けば、子どもたちの声がある。
机が並び、黒板があり、教科書がある。
当たり前のものが、当たり前の場所にある。
人間が暮らす場所だと分かる。
直人は、慧音の前へ座ると、まず周囲を見回した。
怪物がいないことを確認してから、ようやく話を始める。
ある時、直人は夢の中で見た怪物の絵を描いた。
自分が見た姿を、できるだけ正確に紙へ残す。
描いているだけで、手が震えた。
慧音は、その絵を見た。
「この怪物に、名前はあるのか?」
「知りません」
「どこかで見たことは?」
「ありません」
「似た妖怪の記録も?」
「私は知りません」
「目撃したのは、あなた一人か」
「今のところは」
慧音は、絵をしばらく見ていた。
直人は、その顔を観察した。
驚いているのか。
何かを知っているのか。
恐れているのか。
慧音は表情を変えなかった。
「分からない」
やがて、そう言った。
「私の知識にもない姿だ」
直人は、その言葉を信じようとした。
しかし、信じきれなかった。
慧音は人里の歴史を知っている。
妖怪のことも、昔からの出来事も知っている。
そんな慧音が、何も知らないと言う。
怪物が本当に未知の存在なのか。
それとも、慧音が隠しているだけなのか。
直人には分からなかった。
そして、怪物はついに、常に見えるようになった。
最初は、視界の端にだけ現れた。
人里の通りを歩いている時、遠くの建物の陰に立っている。
直人が目を向けると、そこにはいない。
しかし、視線を戻すと、別の場所に立っている。
林の入口、家の屋根、道の向こう、店の隙間、人混みの後ろ。
いつも、直人の視界へ入る位置にいる。
距離は遠い。
近づいてこない。
手を伸ばしても届かない。
声をかけても、返事はしない。
ただ、見ている。
怪物の目は、決して瞬きをしない。
白目の多い眼球が、濁った黒目を直人へ向けている。
顔の皮膚は爛れ、肉がむき出しになっている。
固定された笑顔が、遠くからでも分かる。
直人は、怪物が何かを言っているように感じた。
声は聞こえない。
口も動かない。
それでも、意味だけが伝わってくる。
「ずっと見ている」
直人が道を歩けば、怪物も視界のどこかへ現れる。
直人が記録所へ行けば、窓の外に立っている。
直人が食事を取れば、店の向こうの屋根にいる。
直人が寺子屋へ向かえば、遠くの木の影にいる。
昼も夜も関係ない。
陽が高い時も。
夕暮れも。
月のない夜も。
怪物は、直人の視界に現れた。
明るい場所では、赤く爛れた顔がはっきり見える。
暗い場所では、白い歯と濁った目だけが浮かぶ。
直人が目を閉じても、しばらく消えないことがあった。
瞼の裏へ、怪物の顔が残る。
目を開ければ、遠くに立っている。
直人は、歩くたびに周囲を確認した。
怪物がいる。
人々は気づかない。
直人が怪物を見て立ち止まっても、他の者は何も反応しない。
ある日、直人は道の端で足を止めた。
怪物は、遠くの屋根の上にいた。
大きすぎる身体を、屋根の上へ無理に折り畳んでいる。
首を直角に曲げ、手足を蜘蛛のように縮めている。
直人は、通り過ぎる人へ尋ねた。
「あそこに、何か見えませんか?」
道を歩いていた女性が、怪訝そうに振り返る。
「どこですか?」
「あの屋根の上です」
女性は目を細めた。
「何もないですよ」
「いるでしょう」
直人の声が強くなる。
女性は、直人を心配そうに見た。
「具合が悪いのでは?」
直人は、黙った。
屋根の上へ視線を戻す。
怪物は、まだいる。
固定された笑顔。
見開かれた目。
直人を見ている。
直人は、その場から逃げた。
寺子屋へ着いた時、息が上がっていた。
慧音は、入口に立っていた。
「どうした?」
直人は、すぐには答えられなかった。
「外に……」
直人は、振り返った。
怪物は、道の先にいた。
寺子屋からは遠い。
しかし、確かに見える。
「また、あれが?」
慧音が尋ねた。
直人は、慧音を見た。
また。
慧音は、「また」と言った。
直人がこれまで何度も怪物を見ていることを知っているからだ。
しかし、その言葉が妙に引っかかった。
慧音は、直人が怪物を見ていることを信じているのか。
それとも、直人がそう言っていることを知っているだけなのか。
「見えていますか?」
直人は尋ねた。
「何が?」
「あれです」
直人は、道の先を指した。
怪物は、寺子屋の外にある木の陰へ立っている。
慧音は、そちらを見た。
しばらく目を細める。
「何も見えない」
直人の胸が冷えた。
やはり、誰にも見えない。
慧音にも見えない。
それとも、見えているのに嘘をついている。
直人は、慧音の横顔を見た。
「本当に?」
「本当にだ」
慧音の声には、苛立ちが混じっていた。
「私が見えないものを、見えると言うことはできない」
直人は、目を逸らした。
怪物の方を見る。
まだいる。
白い目が、直人を見ている。
慧音のところへ通うほど、直人の中に疑いが増えていった。
慧音は、手帳を借りることがあった。
「この頁を、もう一度確認してもいいか?」
「はい」
慧音は、手帳を受け取る。
文字の欠落が、いつ、どのように起きたのかを調べるためだった。
慧音が手帳を返す。
直人は、まず礼を言った。
その後、手帳を開く。
数個の文字が消えていた。
さっきまで残っていた文字が、一つ。
二つ。
あるいは、文章の途中の数文字。
新しく欠けている。
直人は、慧音を見た。
「これ、返してもらった時には、こうなっていましたか?」
慧音は、手帳を見た。
「私は触れていない」
「ですが、文字が消えています」
「私が消したと言いたいのか?」
「そうは言っていません」
「顔に書いてある」
慧音の声が低くなった。
直人は、すぐに謝った。
「すみません」
しかし、疑いは消えなかった。
手帳を見ている間に、慧音が文字を消したのかもしれない。
慧音が触れたから、原稿異変が反応したのかもしれない。
あるいは、慧音が何かを知っていて、意図的に隠しているのかもしれない。
直人の手帳は、慧音へ渡すたびに何かが変わった。
偶然かもしれない。
原稿異変が、慧音へ見られたことに反応しているだけかもしれない。
しかし、直人には判断できなかった。
ある時、直人は慧音が原稿を一枚だけ別に置いているのを見た。
「それは?」
「何でもない」
「私の原稿でしょう」
「調べる必要があると思っただけだ」
「見せてください」
「今は見せられない」
慧音は、紙を裏返した。
直人は、その動作を見ていた。
隠した。
そう思った。
何かを読み、何かを知った。
そして、自分へ見せないようにしている。
「どうしてですか?」
「まだ、確かなことが分からないからだ」
「私には関係ないことですか?」
「そうは言っていない」
「でも、私の原稿でしょう」
直人の声が大きくなった。
「私の人生が書かれている。私が死ぬことまで書かれている。それを、私へ見せない理由があるんですか?」
慧音は、しばらく黙った。
「あなたが読むことで、悪い方向へ進む可能性がある」
「もう十分、悪い方向へ進んでいます」
直人は、自分の声が震えていることに気づいた。
「怪物が見える。原稿は増える。手帳の文字は消える。私は、自分の影すらなくなった。これ以上、何を恐れろというんですか?」
「恐れろとは言っていない」
「なら、隠さないでください」
慧音は、紙を机へ置いた。
「私も、分からない」
その言葉が、直人には嘘のように聞こえた。
慧音は人里の歴史を知っている。
妖怪のことも知っている。
記録を隠す力もある。
それなのに、何も分からないと言う。
直人は、怪物を見た。
寺子屋の外、遠くの道の先に立っている。
怪物は、こちらを見ていた。
慧音は、怪物に気づいていない。
あるいは、気づいているのに、何も言わない。
直人の中で、疑いがゆっくり育っていく。
慧音を信用してはいけない。
手帳を渡してはいけない。
原稿を見せてはいけない。
怪物のことを話してはいけない。
そんな考えが、いつの間にか直人の中へ入り込んでいた。
それでも、慧音のところへ通った。
他に行く場所がなかった。
誰にも相談できない。
博麗神社へ行っても、説明できない。
永遠亭へ行っても、薬を渡されるだけかもしれない。
守矢神社へ行く理由もない。
自分の話を、誰が信じるのか分からない。
だから、直人は慧音のところへ行った。
信用できない相手へ、信用できないまま助けを求めた。
それは、直人自身にも理解できない矛盾だった。
ある日、慧音が直人へ尋ねた。
「今日は、顔色が悪い」
「いつもです」
「怪物を見たのか?」
「……はい」
「どこに?」
「今もいます」
慧音は、直人の視線を追った。
「どこだ?」
直人は、道の先を指した。
怪物は、木々の向こうに立っている。
身体を折り畳み、首を傾け、こちらを見ている。
直人には、怪物が笑っているように見えた。
「そこに何がある?」
慧音が尋ねた。
「怪物です」
「私には見えない」
「見えないふりをしているだけでは?」
その言葉が口から出た瞬間、直人は後悔した。
慧音の顔が険しくなる。
「私を疑っているのか」
「疑わない理由がありますか?」
「ある」
「何ですか?」
「私は、あなたが苦しんでいるからここへ通わせている」
「それが、原稿のためではないと?」
慧音は、黙った。
直人は、その沈黙を答えとして受け取った。
慧音は何かを知っている。
知っているが、教えない。
手帳を調べ、原稿を預かり、文字を消している。
もしかすると、怪物も慧音が呼んだのかもしれない。
あるいは、慧音が直人を観察するために作ったものなのかもしれない。
根拠はない。
何もない。
それでも、疑いは一度生まれると、簡単には消えなかった。
直人は、寺子屋の外へ目を向けた。
怪物は、そこにいる。
いつも遠くにいる。
襲ってこない。
近づいてこない。
ただ、視界へ入り続ける。
直人は、怪物の声を聞いた気がした。
「見ている」
それは怪物の声ではなかった。
直人自身の頭の中で響く声だった。
それでも、直人にはもう、その違いが分からなかった。
直人は、慧音の前で手帳を閉じた。
「もう、ここへ来ない方がいいかもしれません」
「なぜ?」
「あなたを信用できないからです」
慧音は、すぐには返事をしなかった。
直人自身も、口に出してから、その言葉の重さに気づいた。
慧音は、完全には信じてくれない。
手帳を借りれば、文字が消えて戻ってくる。
原稿を見せれば、隠そうとする。
怪物のことを話しても、見えないと言う。
それでも、何度も話を聞いてくれた。
直人が一人でいることを避けるため、寺子屋へ来ることを許してくれた。
直人を追い返さなかった。
それは分かっている。
分かっているのに、疑いは消えなかった。
「私が、あなたへ何かしたと思っているのか?」
「分かりません」
「分からないから疑うのか」
「分からないから、疑うしかないんです」
慧音の表情が硬くなる。
「それは、疑っているのと同じだ」
「そうですね」
直人は、目を逸らした。
慧音の背後に、怪物が立っているように見えた。
首を直角に折り、固定された笑顔を浮かべている。
直人は瞬きをした。
そこには、誰もいない。
慧音だけが立っている。
「今日は帰ります」
直人は、手帳と原稿を抱えた。
「待て」
慧音が呼び止めた。
「外は暗くなる。送っていく」
「結構です」
「直人」
「一人で帰れます」
直人は、寺子屋を出た。
背後から、慧音の声が聞こえた。
何を言っていたのかは、聞き取れなかった。
直人は振り返らなかった。
人里の通りを歩く。
怪物は、少し離れた家の屋根にいた。
直人を見下ろしている。
口は動かない。
しかし、笑っているように見える。
直人は、目を逸らした。
自分の前へ視線を戻す。
歩く。
足元を見る。
影はない。
いつから、影がなくなったのか分からない。
最初からなかったのか。
怪物を見た時からか。
原稿へ死を書かれた時からか。
それすら、もう記録できない。
直人は、道の端で立ち止まった。
石碑のことを思い出す。
まだ設置場所が決まっただけで、文字は刻まれていない。
宗兵衛は、次の集まりまでに文言を決めると言っていた。
直人は、あの石碑へ何かを残すべきだと思った。
紙に書いたものは消される。
手帳へ記録しても消える。
原稿が現れ、文字が書かれ、そして消える。
しかし、石なら残るかもしれない。
石は紙ではない。
文字を消されたとしても、削った跡が残る。
削った跡さえ消えても、誰かが見れば、何かがあったと気づく。
直人は、遠回りな言葉を考えた。
原稿異変と書いてはいけない。
怪物と書いてはいけない。
書いた瞬間に、その言葉が消されるかもしれない。
異変の仕組みを直接書けば、読まれる前に消える。
ならば、意味を隠す。
読んだ者がすぐには理解できなくても、後から思い出せる言葉。
誰かが意味を考え、別の記録へ残してくれるような言葉。
直人は、夕暮れの道端で、何度も言葉を組み立てた。
見えないもの。
先に存在するもの。
後から見えるもの。
すでに在るもの。
直人は、石碑へ刻む言葉を決めた。
『見えぬものほど、先に在り
在るものほど、後に見ゆ』
意味をすぐに悟られる必要はない。
むしろ、分からない方がいい。
誰かが読み、考える。
その人が別の誰かへ伝える。
たとえ文字そのものが消されても、言葉を見た人間の中へ残る。
直人は、そう信じた。
いや、信じるしかなかった。
その夜。
直人は、仕事から戻った後も、手帳へ何度も文言を書いた。
しかし、数行書くと、文字が消える。
紙へ書き直す。
また消える。
墨の跡だけが残る。
文の途中だけが欠ける。
直人は、筆を置いた。
紙では駄目だ。
紙へ書き続けること自体が、原稿異変へ見つかる行為なのかもしれない。
それでも、石碑へ刻むためには、文言を決めなければならない。
直人は、頭の中で二行を繰り返した。
見えぬものほど、先に在り。
在るものほど、後に見ゆ。
翌日、直人は宗兵衛へ提案した。
「文言が決まりました」
宗兵衛は、石材に関する資料を見ていた。
「本当に?」
「はい」
「どんな言葉だい?」
直人は、すぐには答えなかった。
口に出した言葉まで消えるのではないか。
そう思った。
しかし、ここで黙れば、石碑は空白のまま置かれる。
「見えぬものほど、先に在り」
直人は、ゆっくり言った。
「在るものほど、後に見ゆ」
宗兵衛は、黙り込んだ。
すぐには意味を尋ねなかった。
ただ、その二行を頭の中で繰り返しているようだった。
「……不思議な言葉だ」
「分かりにくいでしょうか」
「分かりにくいから、よいのかもしれない」
宗兵衛は、石碑の設置場所へ目を向けた。
「今すぐ意味が分からなくても、後から読む者が考えられる」
「ええ」
「誰の言葉だい?」
直人は、答えに詰まった。
自分の言葉なのか。
原稿に導かれた言葉なのか。
夢の中で聞いた言葉なのか。
分からない。
「思いついた言葉です」
直人は、それだけ答えた。
宗兵衛は、しばらく直人を見ていた。
やがて、ゆっくり頷いた。
「では、次の集まりで提案しよう」
文言は採用された。
石碑へ刻む文字として。
直人は、手帳へ書き留めようとした。
しかし、筆を持った瞬間、手が止まった。
このことも、消されるかもしれない。
直人は、記録を紙へ残す代わりに、石碑の近くへ小さな石を置いた。
そこへ、二本の線を刻んだ。
一行目と二行目を示す印。
誰かが見れば、意味のない傷に見える。
だが、直人には文言を思い出すための印だった。
紙以外へ残す、石へ残す、木へ残す、布へ残す、誰かの記憶へ残す。
直人は、そうした方法を考え始めた。
そして、石粉へ目を向けた。
石を削る時に落ちる粉。
文字が刻まれる前の石の欠片。
それなら、文字そのものではない。
文字を作った材料だ。
文字が消えても、粉は残るかもしれない。
直人は、工房へ向かった。
石材を扱う白川伊佐次へ、石粉を分けてもらえないか頼む。
「石粉など、何に使う?」
伊佐次が尋ねた。
「記録に使います」
「石粉で?」
「文字を作るためではありません」
直人は、布袋を取り出した。
「文字があったことを残すためです」
伊佐次は、怪訝そうに直人を見た。
「変なことを考えるな」
「そうかもしれません」
直人は、笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「ですが、必要なんです」
伊佐次は、しばらく黙っていた。
やがて、工房の隅に溜まった石粉を集めた。
白い粉。
灰色の粉。
わずかに赤みを帯びた粉。
削った石の種類によって、色が違う。
直人は、それらを分けて布袋へ入れた。
袋の口を固く縛る。
「そんなものを集めて、何になる?」
伊佐次が尋ねた。
「分かりません」
直人は正直に答えた。
「でも、紙へ残らないなら、別のものへ残すしかない」
工房を出た後、直人は石粉の袋を抱えて歩いた。
道の脇にしゃがみ、石粉を少しだけ地面へ撒く。
線を作る。
文字の一部を作る。
風が吹けば、すぐに崩れる。
足で踏めば消える。
雨が降れば流れる。
それでも、紙よりはよかった。
誰かが見れば、そこへ何かが描かれていたと気づく。
完全に消えなければ、痕跡が残る。
直人は、そう考えた。
その日から、直人は石粉を分けて保存した。
布袋へ入れる。
小さな箱へ移す。
人目につかない場所へ隠す。
それぞれに、異なる印をつける。
紙へ書かない。
紙へ書けば、消える。
石粉を使って、床へ記号を描く。
木の裏側へ粉を擦り込む。
石碑の周囲へ、一定の間隔で撒く。
誰かが見れば、ただの石粉にしか見えない。
だが、直人には意味がある。
文字が消されても。
記録が消されても。
誰かがそれを見れば、そこに何かがあったと気づく。
直人は、そう信じた。
その夜、また夢を見た。
雨が、ぽつぽつと降り始めていた。
直人は、道の真ん中に立っていた。
足元には、石粉で描いた二行の文字がある。
見えぬものほど、先に在り。
在るものほど、後に見ゆ。
雨が石粉を濡らしていく。
白い粉が、灰色の泥へ変わる。
文字の形が崩れる。
直人は、慌てて手で覆おうとした。
しかし、雨は止まない。
ぽつ。
ぽつ。
ぽつ。
落ちてくる雨粒は、黒かった。
水ではない。
墨でもない。
黒く、粘ついた液体が、空から降っている。
直人の手の甲へ落ちた。
冷たい。
その液体が、皮膚へ染み込む。
直人は、空を見上げた。
空は、赤黒かった。
夕焼けでも、夜でもない。
肉を水で薄めたような色。
その赤黒い空へ、大量の目が浮かんでいた。
雲の代わりに。
星の代わりに。
大小さまざまな目が、空を埋め尽くしている。
白目が多い目。
濁った目。
瞳孔のない目。
直人を見ている目。
直人を見ていない目。
しかし、どの目も、同じ方向へ向いているように見えた。
直人のいる場所。
直人の足元。
崩れていく石粉の文字。
周囲には、人の形をしたものが立っていた。
人間に似ている。
しかし、人間ではない。
最初の異形は、丸い顔をしていた。
顔というより、肉の塊だった。
皮膚の境目がなく、赤黒い肉が丸く膨らんでいる。
その肉塊から、蝶の翅のように指が伸びていた。
顔の周囲から。
頬から。
額から。
無数の指が、薄い膜を広げるように生えている。
指は、動いている。
ゆっくりと開き、閉じる。
蝶が翅を動かすように。
別の異形には、下半身がなかった。
腰から下が、まるごと失われている。
胴体だけが、地面から少し浮いていた。
その身体の内部へ、大量の虫が入り込んでいる。
黒い虫。
白い虫。
赤い虫。
小さなものから、指ほどの大きさのものまで。
虫たちは、異形の目や口から出入りしている。
穴を巣として使っている。
出てくる。
顔を這う。
また、口へ入る。
異形は動かない。
苦しんでいる様子もない。
ただ、虫に使われるための器になっていた。
さらに別の異形がいた。
首がない。
肩の上に、頭が存在しない。
その代わりに、首の断面から無数の筆が突き出している。
筆の柄。
筆先。
折れた筆。
濡れた筆。
紙も突き刺さっている。
原稿用紙。
古い帳面。
黒く汚れた紙。
紙の束。
身体の内側から生えたように、無数の紙が異形へ刺さっていた。
紙は風もないのに揺れている。
そこへ書かれた文字が、雨に濡れて流れていく。
文字が消える。
消えた場所へ、新しい文字が浮かぶ。
直人は、足元の石粉へ目を戻した。
文字は、もう読めなくなっている。
雨が、さらに黒く降ってくる。
周囲の異形たちは、直人を見ていた。
顔の形がないものも。
目がないものも。
首のないものも。
全てが直人を認識している。
その奥で、あの怪物が笑っていた。
赤く爛れた顔。
白く鋭い歯。
濁った黒目。
固定された笑顔。
今度は、声が聞こえた。
笑い声。
人間のものではない。
喉を使っているようで、喉から出ていない。
低い音と高い音が重なり、遠くで響いているのに、直人の耳元で聞こえる。
怪物は、直人を見ながら笑っている。
直人の足元の文字が崩れることを。
紙が濡れて消えることを。
記録が失われることを。
すべて知っているように。
直人は、空を見上げた。
そこで、巨大な鳥を見た。
最初は、鳥だと認識できなかった。
空の赤黒さへ、さらに巨大な黒いものが重なっている。
それがゆっくり動いた。
翼だった。
両翼を広げた幅は、四キロメートルにも及んでいるように見えた。
その全体を、直人の視界に収めることができない。
翼の端が、空の向こうへ消えている。
巨大な鳥が、空を覆っていた。
羽毛の代わりに、無数の人間の目と手が生えている。
目が、翼の表面へびっしりと並んでいる。
手が、羽毛のように重なっている。
指が風を受けて揺れる。
手のひらが開き、閉じる。
目が瞬きもせず、地上を見下ろしている。
鳥が翼を動かすたび、その一部が落ちてきた。
人間の手。
目玉。
黒い肉片。
そして、羽根。
羽根も生えている。
しかし、地面へ落ちてくる羽根は、直人の想像する鳥のものとは違った。
一本が十五センチほどもある。
色が判別できない。
黒にも見える。
赤にも見える。
灰色にも、濡れた道の色にも見える。
直人の目が、色を意味として理解することを拒んでいた。
羽根が地面へ落ちる。
音はしない。
ただ、落ちた場所の周囲だけ、景色の輪郭が歪んだ。
鳥の鳴き声が、空から聞こえた。
この世のものではない声。
音の高さが一つではない。
何千もの喉が同時に裂けたような音。
人間の悲鳴にも。
獣の叫びにも。
風の唸りにも聞こえる。
その声を聞いた瞬間、直人は自分の身体の中まで鳴っているように感じた。
巨大な鳥が、ゆっくりと首を動かした。
首の先に何があるのか、見えない。
翼だけで空を覆っている。
その鳥が、直人へ向かって降りてくる。
怪物が笑っている。
異形たちが立っている。
黒い雨が降っている。
目が空を埋めている。
直人は、これが真実の世界なのだと思った。
自分が今まで見ていた人里は、偽物だった。
人間が歩き、店が並び、子どもが笑う世界こそが、見せられていた幻だった。
本当の世界は、こうなのだ。
原稿が書いている世界。
夢に現れる世界。
目に見えないものが先にあり、見えるものは後から形を得る世界。
直人は、濡れた石粉へ手を伸ばした。
文字を守らなければならない。
誰かへ伝えなければならない。
これが真実だと。
しかし、指先が石粉へ触れる前に、視界が崩れた。
赤黒い空が消える。
無数の目が消える。
異形が消える。
怪物の笑い声が遠ざかる。
巨大な鳥の鳴き声が、細くなっていく。
直人は、目を開けた。
人里の道に立っていた。
雨は降っていない。
空は、いつもの色だった。
道には、人が歩いている。
店の明かりが灯っている。
誰も、何も気にしていない。
直人は、自分の手を見た。
黒い雨の跡はない。
石粉もない。
手帳を握っている。
原稿を持っている。
自分の部屋から出て、ここまで歩いてきた記憶が曖昧だった。
直人は、膝へ手をついた。
吐き気がする。
胸が痛い。
幻覚だった。
悪夢だった。
しかし、どちらなのか分からない。
あれが現実でないと、誰が証明できるのか。
直人は、震える手で手帳を開いた。
書かなければ。
今見たものを。
赤黒い空。
大量の目。
異形。
怪物。
巨大な鳥。
この世のものではない鳴き声。
直人は、筆を取り出した。
手帳の頁へ目を落とす。
その瞬間、文字が消えていった。
最初に、原稿に関する文字が消えた。
次に、夢について書いた部分が消えた。
怪物という言葉が消える。
影という言葉が消える。
手帳へ記録したはずの、これまでの出来事が、最初からなかったかのように白く抜け落ちていく。
直人は、頁をめくった。
どの頁も同じだった。
原稿。
夢。
怪物。
異変。
自分の死。
それらに関する文字だけが、虫食いのように消えている。
直人は、筆を持ったまま固まった。
書けない。
今、見たものさえ記録できない。
記録しようとした瞬間に、消される。
これまでの記録も残っていない。
手帳が、ただの古い帳面へ戻っていく。
直人は、ページをめくり続けた。
指が震えている。
息が荒くなる。
文字がない。
書いたはずの文字がない。
自分が何を見たのか。
何を恐れていたのか。
何を調べていたのか。
それさえ、紙には残らない。
直人は、手帳を閉じた。
手帳を胸へ押しつける。
記録することさえできない。
そう理解した。
紙へ書いてはいけない。
紙へ残してはいけない。
原稿だけではない。
自分の記録も、消される。
ならば、別の方法を使うしかない。
直人は、顔を上げた。
夕暮れの人里の向こうに、石碑を設置する場所がある。
まだ、文字は刻まれていない。
そこへ残す。
紙ではない方法で。
消されても、誰かが気づける形で。
直人は、手帳を懐へしまった。
原稿を抱える。
足元に影はない。
遠くでは、怪物がこちらを見ている。
直人は、それを見ないふりをした。
そして、石粉を手に入れるため、工房へ向かって歩き始めた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
さて、ここまで読んだ皆さんは、片桐直人が何を見ていたのか、もう答えを出せたでしょうか。
原稿は未来を予告していたのでしょうか。
それとも、原稿を読んだことで未来が決まったのでしょうか。
あるいは、直人が見ていたものは、本当に現実だったのでしょうか。
私は、どれが正しいのかをここで説明するつもりはありません。
何しろ、記録というものは、残した人間の都合で形を変えますから。
それに、もしこの物語の中に、まだ記録されていないものがあるとしたら。
それを見つけるのは、読者の皆さんかもしれません。
……もちろん、何も見つからなければ、それに越したことはありませんが。
それでは、次にこの物語を思い出した時も、最後まで同じ内容のまま残っていることを願っています。