# 第1話「転生したら、海賊王がいなかった」
死んだはずの俺が、まず最初に思ったことは。
「寒い」だった。
いや、正確に言えば死んだという自覚すら曖昧で、気がついたら暗くて狭い場所にいて、全身が押し潰されるような圧迫感に包まれていた。
前世の記憶が戻ったのは、それからしばらく経ってからのことだ。
というか、最初は自分が何者なのかすら分からなかった。言葉も通じない。目もほとんど見えない。ただひたすら、寒さと空腹と眠気だけが交互にやってくる。まるで、意思を持った肉塊にでもなった気分だった。
「あー」
声にならない声が出た。
「うー」
違う、そうじゃない。もっとこう文章というか、言葉というか。
「あぶぅ」
無理だ。舌が言うことを聞かない。口の形が定まらない。
この頃の俺は、まだ「自分が赤ん坊になった」という事実すら理解できていなかった。理解できるだけの情報量が、あまりにも少なかった。
だから、とりあえず泣いた。
理屈じゃない。感情が先に動く。腹が減れば泣く。尻が濡れれば泣く。眠ければ泣く。寒ければ泣く。
この「生理的な欲求に逆らえない」というのは、前世の俺からすれば非常に新鮮な体験だった。大人になると、腹が減っても我慢できる。眠くても起きていられる。辛くても笑顔を作れる。
それが、できない。
泣き止もうと思っても涙は止まらない。寝返りを打とうとしても、首が動かない。自分の指一本思い通りに動かせない。
前世の俺は、働きすぎて死んだ。
最後の記憶は深夜のオフィスで、パソコンの画面に映ったエクセルの数字が滲んで見えたこと。あ、もうダメだと思った瞬間、心臓が締め付けられて視界が真っ白になって、そのまま。
痛いのか苦しいのかすら分からなかった。
気がついたら、赤ん坊だった。
いや、気がついたというか、気がつくまでの過程が長すぎて、正直いつから意識があったのかも定かじゃない。
ただ、ある日突然、視界がはっきりして耳が周囲の音を拾うようになって、そこに「言葉」が存在することを認識した瞬間が来た。
「よしよし、泣かんでええ。ほら乳やぞ」
低い声だった。
目の前に、巨大な手があった。俺の顔よりでかいんちゃうか、と思った。いや実際、俺の顔より大きかった。その手は、俺の体をそっと支えて何かを口元へ運んでくる。
山羊の乳だ。
温かい。臭い。でも、腹が満たされていく。
俺は無我夢中でそれを飲んだ。前世の記憶があるとかないとか関係なく、生存本能というやつが勝手に体を動かす。舌が勝手に動く。喉が勝手に鳴る。飲み終わった後、げっぷが出た。
「おお、よう飲んだなあ」
その声は、笑っていた。
俺はようやく、声の主の顔を見た。
白いものが混じった黒い髭。深い皺。彫りの深い顔。そして、異常にデカい。
いや、俺が赤ん坊だからそう見えるんじゃない。絶対にこの人、二メートルとか超えてる。もしかしたら三メートル近いかもしれない。
前世の記憶が戻ったことを自覚した瞬間、俺は思った。
――何この世界。
まだ、分かっていなかった。
この世界が、あの『ONE PIECE』の世界だということに、気づくのは三歳になってからの話だ。
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それからの日々は、ある意味で平和だった。
俺を拾ってくれた男の名前は、ワカバといった。
「ワカバさん」
と、俺が初めて口にした言葉がそれだった。
そのときワカバは、煙草を吹き出さんばかりに驚いていた。
「お前、もう喋れるのか」
「あー……うん。まあ、なんか、喋れました」
ワカバは俺をまじまじと見て、それから低く笑った。
「賢い子だ」
それだけ言って、俺の頭を撫でた。その手がまたデカい。頭を撫でるというより、頭を包まれる感覚だ。
「ガルド」
「へ?」
「お前の名前や。今日から、ウラガン・ガルドという」
「うらがん、がるど」
「そうや。わしがつけた」
「なんで、その名前?」
「嵐の日に拾ったからな。荒れ狂う空の下で、お前は泣いとった。わしの船が壊れるんちゃうかと思うくらいの嵐やった」
ワカバは煙草をくわえ直して、遠くを見た。
「よう生きとったなあ、お前」
その言葉に、俺は素直に「ありがとう」と言った。
ワカバは少し驚いた顔をして、それからまた笑った。
「ええ子や」
俺の養父は、このとき四十歳を少し過ぎたあたりだったはずだ。
島の自警団長をしていて、気心の知れた仲間たちと一緒に小さな島を守っている。
この島の名前は、後で知った。
「凪岩島」
凪のような海と岩だらけの山がある、のどかな島だ。
人口は、ざっと三百人くらい。農業と漁業で食っていけるだけの土地と海がある。
ワカバの家は、島で一番高い丘の上にあった。自警団の詰所も兼ねていて、自警団の連中が毎日のように酒を飲みに来る。
「お、ガルド、でかくなったな」
「抱っこして」
「お前、三歳のくせに何でそんなに図々しいねん」
「だって、歩くの面倒くさい」
「アホ言え。自分の足で歩け」
「けち」
前世の記憶があると、子供らしく振る舞うのは難しかった。
でも、周りは俺を「賢いけど、たまに変なことを言う子供」として可愛がってくれた。
ワカバは、俺が妙に大人びたことを言っても、あまり気にしない人だった。
「前世の記憶がある」なんて言ったら、さすがに頭を心配されるかもしれないから、黙っていたけれど。
三歳になった頃から、俺の身長はぐんぐん伸び始めた。
島の子供たちと比べても、頭一つ分は大きい。
いや、三歳で百二十五センチは、前世の感覚だと完全に異常だ。
小学校低学年か、それ以上の体つきだ。
ワカバは「わしの子やからな」と言うだけで、特に気にしていなかった。
この世界の人間の体格は前世の常識からすると、かなり振れ幅が大きい。
百九十センチの大人もいれば、四百センチ近い人間もいる。
というか、ワカバがすでに四百七センチある。
俺が赤ん坊の頃、ワカバを「デカい」と思ったのは、単に俺が小さかったからじゃなかった。ワカバは、この世界の基準で見てもかなり大きい人間だった。
俺は、ワカバの血を引いていない。
それは、ワカバ本人が隠さなかった。
「お前は、わしの子や。それで十分やろ」
そう言って、ワカバは俺を育ててくれた。
実の親が誰なのかは、知らない。
知る必要も、ないと思っていた。
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三歳になってしばらくしたある日のことだった。
俺は、ワカバに連れられて島の港へ行った。
「ガルド、船を見せてやる」
「船?」
「わしの古い船や。今は自警団の連中が使っとるがな」
港に着くと、ちょうど一隻の帆船が戻ってきたところだった。
海賊船と呼ぶには地味で商船と呼ぶには頑丈すぎる。マストは二本。船体は黒く、帆は白。船首には羊の頭を模した彫刻がついている。
「おお、頭領! ガルドもおるやないか!」
甲板から、筋骨隆々の男が手を振った。
「ゼンさん!」
「よお、ガルド。でかくなったなあ。三歳でそれか。末恐ろしいわ」
ゼン・レジャーは若い頃からワカバを知る、古い仲間の一人だ。
俺はこの頃、まだ彼らがどんな旅をしてきたのか、深く考えていなかった。
「この船、名前はあるの?」
俺がそう聞くと、ワカバは短く答えた。
「白羊号や」
「はくようごう」
「昔、わしがつけとった異名から取った。お前も、そのうち分かる」
そのときの俺は、「ふうん」としか思わなかった。
白羊号の甲板には、樽やら縄やら木箱やらが積まれていて、生活感がある。
「ガルド、こっち来てみい」
ゼンが手招きするので、俺はよちよちと船に近づいた。
「船の舳先に触ってみ。この船、ええ木でできとるんやぞ」
「へえ」
俺は言われた通り、船首に触れてみた。
木材の感触。潮の匂い。塗料の剥がれた部分から見える、白い木肌。
「この船、ワカバさんが作ったの?」
「ちゃうちゃう。昔、わしらの仲間が作ってくれたんや。今は、別の島に住んどるがな」
「へえ」
「お前、船は好きか?」
「分かんない。でも、かっこいいとは思う」
「そら良かった。海の男の子やからな」
ゼンは笑いながら、俺の頭をわしゃわしゃと撫でた。
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その日、ワカバの家に帰ると俺は居間でごろごろしながら、ワカバが夕飯を作るのを眺めていた。
ワカバは料理ができる。
見た目は武骨なのに、包丁捌きがやたらと繊細だ。
「ガルド、飯や」
「はあい」
食卓には、魚の塩焼き、芋の煮物青菜の和え物、米。
この島の食事は、前世の和食に近い。
醤油も味噌もあって、俺の舌には非常に馴染み深い。
「うまい?」
「うん。ワカバさんの料理、好き」
「そら良かった」
ワカバは、煙草を燻らせながら酒を飲む。
俺はご飯を食べながら、今日見た船のことを思い出していた。
「ねえ、ワカバさん」
「なんや」
「あの船、どこまで行けるの?」
「どこまでもや。海のある限り、な」
「海って、広いの?」
「広い。お前が思っとるより、ずっと広い。この島から一番近い島まででも、船で三日はかかる」
「そんなにかかるの?」
「海はな、繋がっとる。どの島にもどの国にも、どの海にもな。船さえあればどこへでも行ける」
ワカバの声は、どこか遠くを見ているようだった。
「ワカバさんは、色んな所へ行ったことあるの?」
「……まあな。昔の話や」
「どんな所?」
「暑い島やら、寒い島やら、空に浮かぶ島やら海の底にある島やら。世界には、よう分からん場所がようけある」
「へえ」
「お前も、大きゅうなったら行ける。自分の船で、自分の行きたい場所へな」
その言葉が、俺の胸にすとんと落ちた。
自分の船で、自分の行きたい場所へ。
それって、当たり前のようで前世の俺にはできなかったことだ。
――ああ、そうか。
俺は、あの過労死した人生では自分の行きたい場所へ行くことすら、できなかったんだな。
「ガルド、どうした」
「……別に。なんでもない」
「泣いとるぞ」
「泣いてない」
「泣いとる」
ワカバは、ごつごつした指で俺の涙を拭った。
「辛いことがあったなら、言え。お前はもうわしの子や」
「……別に、辛いこととかない。ワカバさんが、優しいから」
「そら良かった」
ワカバは、それ以上何も聞かなかった。
それが、ありがたかった。
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三歳の夏、俺は「世界の正体」に気づいた。
きっかけは、ワカバの家の物置を漁っていたときのことだ。
「何や、これ」
積まれた木箱の奥から、古い紙の束が出てきた。
新聞だ。
何年も前の、黄ばんだ新聞の束。
俺は、文字が読めた。
三歳にしては、かなり早い方だと思う。
でも、前世の記憶がある以上、文字の読み書きはある程度できた。
「……うわ」
俺は、その新聞を広げた瞬間固まった。
一面に、大きな見出し。
【海軍本部、海賊団を撃破】
記事の内容は、こうだった。
「海軍本部は、新世界で暴れる海賊団『バルジ海賊団』を討伐したと発表した。懸賞金一億ベリーの船長は逮捕され、インペルダウンへ収監される見通し――」
海軍。
新世界。
懸賞金。
インペルダウン。
それらの単語が俺の頭の中で、一つの世界観を形成していく。
「……待って」
俺は、慌てて他の新聞も広げた。
【世界政府、新しい海軍大将を任命】
【電伝虫の新種が発見される】
【ジェルマ王国、新兵器を公開】
【天竜人の謎――なぜ彼らは世界の頂点に立つのか】
「……ああああああああああ」
俺は、思わず叫びそうになった。
ここ、『ONE PIECE』の世界や。
前世の俺が、週刊連載を毎週追いかけていた、あの『ONE PIECE』の世界だ。
海軍があって世界政府があって、天竜人がいて悪魔の実があって、覇気があって海賊がいて、海軍がいてインペルダウンがあって、マリージョアがあって。
「何でやねん」
声が震えた。
いや、待て。落ち着け。
俺は、新聞の束を抱えたまま物置の床に座り込んだ。
まず、一つ。
俺が転生したのは、間違いなく『ONE PIECE』の世界だ。
次に、二つ。
この新聞に書かれている内容は、俺が知っている原作のものと微妙に違う。
具体的に言うと、聞いたことのない海賊団の名前が載っている。
『バルジ海賊団』?
知らん。原作に出てきたか?
いや、出てきてない。
懸賞金一億ベリーの海賊団なんて、原作ではモブ扱いでもおかしくないから、覚えてないだけかもしれん。
それとも、これから起きるのか?
「……分からん」
俺は、新聞の日付を確認した。
「海園暦一四二〇年」
……知らん。
原作の年号なんて、正直ちゃんと把握してなかった。
ルフィが海に出たのが海園暦一五二〇年とか、そんな感じだった気がするけど、自信がない。
「約百年前、ってこと?」
それとも、五十年くらい前?
いや、待て。もっと重要なことを確認せな。
俺は、新聞の束を一枚一枚、丁寧に確認した。
「海賊王」という単語を探した。
「ロジャー」という名前を探した。
「ワンピース」という言葉を探した。
――ない。
どの新聞にも、海賊王という言葉が出てこない。
ロジャーという名前も、ワンピースという単語もどこにも載っていない。
「……おかしいやろ」
もしかして、俺が知っている『ONE PIECE』の世界じゃなくて、似てるけど別の世界?
いや、それはない。
海軍、世界政府、天政府天竜人、インペルダウンマリージョア、ジェルマ電伝虫。
全部、原作の世界だ。
つまり、だ。
「俺が転生したのは、ロジャーが海賊王になる前の時代、ってことか?」
いや、それも変だ。
ロジャーが海賊王になったのは、原作開始の二十数年前。
俺が三歳で、原作開始が大体ルフィが十七歳の頃。
もし、今がロジャーが海賊王になる前なら、原作開始まで少なくとも四十年はある。
「……それ、めっちゃ昔やん」
俺は、天井を見上げた。
この世界の時間軸で言うなら、まだ「大海賊時代」が始まってもいない。
いや、そもそも「海賊王」という概念すら存在しないかもしれない。
「ロジャーが、まだ海賊王になってないんじゃなくて、海賊王という言葉自体がない……?」
そう考えると時代的には、かなり遡っていることになる。
「っていうか、俺、この時代に生まれて何すればええの……?」
前世の記憶が役に立つのは、まだまだ先の話だ。
いや、待て。
もしかしたら、役に立たないかもしれない。
俺の前世の知識は、所詮は漫画とアニメで得たものだ。
細かい年表や海園暦の正確な年数なんて、覚えていない。
「うわあ……」
俺は、頭を抱えた。
今の状況を整理しよう。
一、前世で過労死した。
二、気がついたら赤ん坊になっていた。
三、拾ってくれたワカバさんに育てられている。
四、ここは『ONE PIECE』の世界っぽい。
五、ただし、原作より遥か昔。
六、海賊王という言葉も、ロジャーの名前もまだ存在しない。
七、俺、これからどうすればいいの?
「……よし」
俺は、新聞を元の木箱に戻して、物置を出た。
外は晴れていた。
島の空気は澄んでいて、潮の香りが鼻をくすぐる。
「ガルド、何しとったんや」
ワカバが、庭で素振りをしていた。
長い杖のような剣を、ゆっくりと振っている。
「物置で、古い新聞見てた」
「ああ、あれか。昔の新聞や。読めたか?」
「うん、まあ、少しだけ」
「賢いなあ。三歳で新聞が読めるとは」
ワカバは笑って、俺の頭をぽんと叩いた。
「ワカバさん」
「なんや」
「海軍って、強いの?」
ワカバは素振りの手を止めた。
「何で、そんなことを聞く」
「新聞に、海軍が海賊を倒したって書いてあったから」
「そうか」
ワカバは、ゆっくりと剣を下ろした。
「海軍は、強い。強うて大きゅうて、世界の海を管理しとる。海賊を取り締まって、悪を裁く。それが表向きの顔や」
「表向き?」
「裏も、ある。表がすべてやない。それは、この世界のどこでも同じや」
ワカバは、剣を鞘に納めた。
「ガルド、強さとは何やと思う?」
「……え、急に?」
「思ったままでええ」
俺は、少し考えた。
前世の俺は、強くなかった。
仕事を断れず、残業を重ねて倒れた。
強さなんて、考えたこともなかった。
「……自分の行きたい場所へ、行けること?」
俺の言葉に、ワカバは目を細めた。
「面白い答えや」
「違う?」
「違わん。せやけど、わしの答えとは少し違う」
ワカバは、海の向こうを見た。
「強さとは、守りたいものを守れることや。自分だけやない。誰かの帰る場所を、誰かの人生を守れること。それが、強さや」
「守る、強さ……」
「お前は、何を守りたい」
ワカバの声は、真剣だった。
三歳の子供に聞くような質問じゃない。
でも、ワカバは本気だった。
「俺は、ワカバさんに守ってもらってる」
「そうやな」
「だから、いつか、ワカバさんを守れるようになりたい」
ワカバは、少しだけ目を見開いてそれから低く笑った。
「そら、楽しみやな」
そのとき、丘の下から声が聞こえた。
「頭領! 海軍の船が近づいとる!」
自警団の男が、息を切らして駆け上がってくる。
ワカバの顔から、笑みが消えた。
「ガルド、家に入っとけ」
「え、でも」
「入っとけ」
有無を言わせない声だった。
俺は、素直に家の中へ入った。
窓から、ワカバが港へ向かう背中が見えた。
その背中が、やけに大きく見えた。
---
その日、海軍の船は、島には寄港しなかった。
沖合を通過しただけだった。
でも、島の人たちは、海軍の船を見るたびに妙に緊張した顔をする。
「ワカバさん、海軍、嫌いなの?」
夕飯のとき、俺は聞いた。
「好き嫌いで語れるほど、単純な相手やないな」
「どういうこと?」
ワカバは、酒をひと口飲んでから答えた。
「海軍の中にも、島を守ろうとする奴はおる。せやけど、でかい組織には、でかい組織の都合っちゅうもんがある」
「じゃあ、なんでみんな緊張してたん?」
「この島は小さい。知らん船が近づいたら、相手が誰でも用心する。それが、ここを守るわしらの仕事や」
そう言って、ワカバは煙草をふかした。
「ガルド。大事なんは、旗や肩書きやない。目の前の奴が何をしようとしとるか、自分の目で見ることや」
「……難しいな」
「今は分からんでもええ。そのうち分かる」
ワカバは、それ以上何も言わなかった。
俺も、何も聞かなかった。
この人の前では、子供でいられる。
でも、この人が背負っているものは、子供には分からない。
――大人になったら、分かるのかな。
いや、前世で三十年以上も生きて、結局、何も分からずに死んだのが俺だ。
大人になれば分かるなんてものは、ないのかもしれない。
---
三歳の冬。
俺は、ワカバに連れられて、島の外れにある小さな祠へ行った。
「ここは、何?」
「島の墓所や。わしの仲間も、何人か眠っとる」
「ワカバさんの、友達?」
「家族や」
ワカバは、祠の前で手を合わせた。
俺も真似して、手を合わせた。
「ガルド、お前にも、いつか守りたいものができる。そのときは、迷わんでええ。守れるだけの力をつけろ。力は、正義や悪やない。力は使う者の心で決まる」
「ワカバさんは、強いの?」
「昔は、そこそこやった。今もまあ、それなりには」
「俺も、強くなれる?」
「なれる。お前は、わしの子やからな」
ワカバは、俺の頭をぽんと叩いた。
「春になったら、剣を教えたる。それまではよく遊んで、よく寝てよう飯食え」
「はあい」
「返事は一回でええ」
「はあい」
「……わざとやな」
「ばれた?」
ワカバは、笑った。
この人の笑い方を見ると俺も、少しだけ、この世界で生きていける気がした。
---
夜、布団の中で、俺は考えた。
ここが『ONE PIECE』の世界で、俺が原作より遥か昔に転生したのだとしたら。
これから、何が起きるんだろう。
ロックス海賊団が台頭して、ゴッドバレー事件があってロジャーが海賊王になって、大海賊時代が始まる。
その頃、俺は何をしているんだろう。
この島で、ワカバと一緒に、静かに暮らしているんだろうか。
それとも、海に出ているんだろうか。
「……分からん」
でも、一つだけ、分かることがある。
俺は、前世で、自分の人生を選べなかった。
仕事を選ぶことも、休むことも、逃げることもできずに死んだ。
なら、今世くらい、自分の足で立って自分の道を選びたい。
「ワカバさんに、恩返ししたい」
ワカバは、「恩は返すものじゃない」と言うかもしれない。
それでも、俺は、この人に拾ってもらった恩を忘れたくない。
――強くなろう。
この世界で、自分の帰る場所を自分で選べるように。
そのためには、力が要る。
剣を学ぼう。
ワカバの教えを、全部受け止めよう。
そしていつかこの人のように、誰かを守れる人間になろう。
「……ま、まだ三歳やけどな」
俺は、布団の中で、小さく笑った。
やることは、いっぱいある。
でも、焦る必要はない。
この島には、時間が流れている。
ワカバも、自警団の連中も島の暮らしも、全部が俺の帰る場所だ。
「おやすみ、ワカバさん」
隣の部屋から、ワカバの寝息が聞こえる。
俺は、目を閉じた。
明日から、また、一日が始まる。
この世界で、俺の人生が、始まっている。
---
――それから、二年が経った。
俺は五歳になっていた。
身長は、百六十五センチ。
前世の成人男性の平均とほぼ同じ。
いや、五歳でそれって、絶対おかしいやろ。
「ガルド、素振りの時間や」
「へえ」
「返事は一回」
「へえ」
「……今日は百回な」
「昨日は五十回やったのに」
「倍にした。お前、体がでかすぎるから基礎を固めなあかん」
「理不尽や……」
「何か言うたか」
「何も言ってません」
ワカバは、木刀を俺に渡した。
「まずは、構えからや。足を肩幅に開け。膝を曲げろ。背筋を伸ばせ。視線は前。腕の力は抜け」
「こう?」
「だいたい合うとる。百回、振れ」
「はい」
俺は、木刀を振り始めた。
前世の運動不足が祟って、最初は五十回で腕が上がらなくなった。
でも、ワカバは許してくれない。
「止まるな。手のひらの皮が破れても、骨が折れても最後まで振り切れ。できなければ、守れんで終わるだけや」
「……はい」
俺は、歯を食いしばって、木刀を振り続けた。
五歳の夏。
俺の修行が、始まった。
この世界の広さも、この世界の恐ろしさもまだ、何も知らない。
でも、確かなことが一つ。
俺は、この世界で生きていく。
自分の人生を自分の足で、選び取るために。