世の中には、物事の終わり際に余計な仕事を増やしてくる奴がおる。
例えば、ようやく船の掃除が終わったところで「ついでに船底も磨いといて」と言い出すゴルド。晩飯を食い終わった瞬間、「食料庫の棚卸しを手伝え」と言い出すバオ。そして、こっちが五百人の傭兵をぶっ飛ばして、ようやく一息ついたところへ、新しい仕事を持ってくるダグ。
「ガルド! 港へ戻ってこい! 敵の艦隊が接近しとる!」
「艦隊!? またかいな!!」
黒檻島の正面広場。俺は荒凪を肩に担いだまま、電伝虫を見下ろした。
ついさっき、この島の奴隷商人が集めてきた傭兵と砲兵、約五百人をまとめて制圧したところや。さすがに全員の顔まで覚えとらんけど、もう立ち上がってくる奴はおらへん。
競売場は半壊。奴隷収容施設は開放。港の警備も、ミラたちが押さえてくれとる。
今日の仕事、完璧に終わったと思うやん?
ところが、奴隷商人の皆さんは、どうやら残業がお好きらしい。
「今度は何隻や?」
「まだ全部は見えてへん! キットが確認中や!」
「ほな、俺が先に見てこよか?」
「お前は港まで戻ってこい! 勝手に敵を刺激すんな!」
ほんま、信用ないなぁ。
俺、さっきはちゃんと住民を巻き込まんように戦ったやろ。暴風で敵を北側の荒れ地へ追い込んで、住宅地も避難経路も守ったんやで?
これでも、かなり成長しとると思うねんけど。
「とりあえず、港で合流やな!」
「おう。九蛇の連中も集まっとる!」
おっ。女帝様もおるんか。さっき別れたばっかりやのに、また会えるとはな。今日はなかなか縁があるやん。
俺は荒凪を背中へ戻し、身体を雷に変えた。
バチィッ!!
次の瞬間、港の上空へ移動する。眼下には、白羊号と九蛇海賊団の船。それから、ダグが手配してくれた避難用の商船が二隻、桟橋に停泊しとった。
その周囲では、トーマとトーラが荷物を運び、ネネが負傷者を確認し、バオが食料と水を配っとる。
順調そうやん。
ところが、俺が白羊号の甲板へ降り立った瞬間、ミラがものすごい形相で振り返った。
「ガルドォォォ!!」
「何や!? 俺、まだ何もしてへんで!?」
「着地する前に声かけろ! あんたがいきなり雷になって現れたら、避難してきた人らが驚くやろ!!」
あっ。
俺が後ろを振り返ると、荷物を運んどった男が腰を抜かしとった。
「す、すんません!!」
あかん。帰ってきただけで怒られてもうた。
俺、ほんまに団長なんやろか。
―――
「見えたで! 敵艦隊、南東から接近中!!」
マストの上から、キットの声が響いた。
俺が海へ目を向けると、水平線の向こうに無数の帆が見えた。
白い帆。赤い帆。黒い帆。商船に見えるものもあるけど、その船腹には大砲の砲門がずらりと並んどる。なかには船体の側面を鉄板で覆った大型艦までおった。
「大型艦二十八隻! 小型船十四隻! 合計四十二隻や!!」
「四十二!?」
何や、めっちゃ多いやん!
島で五百人も集めてきたと思ったら、今度は四十二隻の艦隊かいな。黒檻島の奴隷商人、どんだけ金持っとんねん。
その金があるんやったら、もっとまともな商売したらええのに。
「ガルド。敵はお前を倒しに来たわけちゃうで」
ダグが、海図を広げながら言った。
「狙いは、助けた奴隷たちや。海の上で逃げ道を塞いで、もう一回捕まえるつもりやろな」
「……ほんま、懲りひん連中やな」
俺は目を細めた。
白羊号の隣では、避難用商船への乗り込みが続いとる。怪我人もおるし、まだまともに歩けへん奴もおる。助けたからって、すぐに海へ出られるわけちゃうねん。
敵は、それを分かっとって今来たんやろな。
「ほな、あの四十二隻、俺が全部止めてくるわ」
「待て待て待て!」
「何や!?」
「今、お前が暴れたら、避難船まで嵐に巻き込まれるやろ!」
俺は、港に並んどる船を見た。
確かに。
この距離で竜巻なんか起こしたら、敵より先にうちの船がひっくり返ってまうかもしれへん。
先日の奴隷輸送船の件もある。あのときは、護衛船を止めようとして輸送船まで転覆しかけたんやった。
同じ失敗はせえへんで。
「分かった。ほな、どうするん?」
「俺らが避難船を安全な海域まで逃がす。その間、お前は待機や」
「また待機かいな!!」
何やねん。
最近、俺の役職が団長から待機担当に変わっとる気がするんやけど。
「最後に思いっきり暴れさせたるから、今は我慢せえ!」
「……ほんまやな?」
「ほんまや!」
おっ。
その言葉、聞いたで。
俺は満足して、甲板に置いてあった大きな樽へ腰を下ろした。
バキッ!!
……あっ。
「ガルドォォォ!! それ水樽や!!」
バオの怒号が港に響いた。
俺は、尻の下から流れ出る水を見下ろした。
「……。」
椅子やと思ったんやぁぁぁあああああ!!
何でやねん!! こんなところに置いてあったら座るやろ!! いや、普通は座らへんか!! でも、四メートル半の人間が座れる高さの樽って、めっちゃ魅力的やねん!!
結局、出航前に俺は追加の水汲みを命じられた。
この後艦隊四十二隻を相手にする男の仕事が、水汲み。
世の中、ほんまに理不尽や。
―――
補給が終わるころには、敵艦隊の全容がはっきり見えてきた。
四十二隻。
さすがに壮観やな。
海の上に、ずらりと船が並んどる。先頭には小型の快速船。その後方に大型の武装船。さらに中央には、ほかの船より一回り大きな旗艦が鎮座しとった。
旗艦のマストには、黒い檻を描いた旗が掲げられとる。
何や、あの旗。めっちゃ趣味悪いやん。
「ボンゴ! あの旗、何か知っとるか?」
「黒檻島の奴隷商人組合の旗や! あの旗艦が、今回の艦隊を指揮しとるはずやで!」
「ほう。ほな、あれ潰したら終わりやな!」
「いきなり潰すなよ!」
横からダグに突っ込まれた。
何やねん。
まだ剣も抜いてへんやろ。
ダグは海図の上に木片を並べると、ミラとグロリオーサを呼び寄せた。
「まず、避難船を南西へ逃がす」
「南西?」
ミラが海図を覗き込んだ。
「そっちは、夕方から潮が速うなる海域やで」
「せや。だから、敵の大型艦は追いにくい。俺らは潮を利用して、一気に距離を稼ぐ」
「なるほどな」
俺は、二人の横から海図を覗いた。
……うん。
何となく分かった。
たぶん。
「その間、白羊号は避難船の左側。九蛇の船は右側についてもらう。小型船が接近してきたら、左右へ引き離してくれ」
ダグが、グロリオーサへ視線を向けた。
「女帝さん。九蛇の弓兵なら、あの距離から敵船の帆や舵を狙えるやろ?」
「無論じゃ。妾の戦士たちを見くびるでない」
「頼もしいわ。ほな、右側は任せたで」
おお。めっちゃ話が早いやん。
昨日、俺らが初めて会うたときなんか、いきなり剣を向けられたのにな。
何やったんや、あの第一印象。
「ガロは海中から敵の小型船を妨害。トーマとトーラは避難船へ移って、敵が接舷してきた場合に備えろ。キットは敵の動きを監視。ボンゴは旗艦からの信号を読み取ってくれ」
「了解!」
「任せとけ!」
ダグが次々に指示を出す。
その横で、グロリオーサは何やら感心した顔をしとった。
「……相変わらず、見事な指揮じゃな」
「せやろ! うちのダグ、めっちゃ優秀やで!」
俺が胸を張ると、ダグが呆れた顔で振り返った。
「お前が自慢することか!?」
「俺の副団長やからな!」
何や。間違ったこと言うとらんやろ。
グロリオーサが小さく笑った。
「お主は、本当に仲間を信頼しておるのじゃな」
「当たり前や。俺一人で四十二隻倒せても、避難船四隻を同時に守るんは難しいからな」
俺がそう答えると、なぜかグロリオーサは俺をじっと見つめた。
何や? 顔に何かついとる?
「……そうか。ならば、妾も期待に応えよう」
彼女は、堂々とした足取りで九蛇の船へ戻っていった。
……おお。
格好ええな、女帝様。
俺も、ああいう威厳が欲しいわ。
「ガルド。お前も配置につけ」
「おう! 俺はどこや!?」
「とりあえず船首で待機」
「結局待機かいな!!」
女帝様みたいな威厳への道のりは、まだまだ遠そうやな。
―――
敵艦隊が動き始めたんは、白羊号が黒檻島の港を離れて、しばらく経ったころやった。
敵の小型船十四隻が、左右へ大きく広がる。その後ろでは大型艦が横一列に並び、中央の旗艦から次々に信号旗が上がっとった。
なるほど。
包囲する気やな。
俺らが進む先へ小型船を回り込ませて、動きを止める。そのあと、大型艦で周囲を塞いで、避難船を捕まえるつもりやろ。
……まあ、普通なら有効な作戦なんやろな。
相手が、うちの副団長でなければ。
「キット! 右翼の小型船は何隻や!?」
「六隻! 左翼は八隻や!」
「よし! 九蛇の船に右翼を任せる。左翼はガロが妨害や!」
「了解!」
ダグの指示と同時に、九蛇の船が大きく右へ舵を切った。甲板には、ずらりと並んだ九蛇の戦士たち。
めっちゃ格好ええ。
「全員、弓を構えよ!」
グロリオーサの声が響いた。
次の瞬間、何十本もの矢が一斉に放たれた。
ただの矢ではない、全員が武装色の覇気をまとわせとる。
ドゴォォォン!!
敵の先頭を走っとった快速船のマストが、根元からへし折れた。
さらに、その後方の船も、帆を支える横木を撃ち抜かれて速度を落とし始める。
おおおお!!
すげえ!!
「ダグ! 見たか!? あれ!!」
「見とるわ! お前も自分の仕事に集中せえ!」
「俺の仕事、待機やんけ!!」
何やねん。
俺、ちゃんと待機しとるやろ。
しかも、今の攻撃はほんまにすごかったで。あの距離から、敵船のマストだけ正確に撃ち抜くとか、普通に考えておかしいやろ。
……いや。
俺が言うても説得力ないか。
右側の敵船が動きを止め始めたころ、今度は左側の海面が大きく盛り上がった。
ガロや。あいつ、海中から敵の舵を破壊しとるらしい。
「うわあああ!! 舵が利かねえ!!」
「進路を変えろ! 味方とぶつかるぞ!!」
「何だ!? 海の中に何かいる!!」
敵の小型船が、次々に制御を失っていく。
気持ちよさそうやな。
俺もちょっと混ぜてもらいたいわ。
「ガロ! 俺もそっち行こか!?」
「お前は待機しとけェェェ!!」
海中からまで怒られた。
何や俺、今日だけで何回待機って言われとんねん。
―――
敵の小型船が次々に足止めされると、今度は大型艦が前へ出てきた。
中央の旗艦を中心に、左右から大型艦が迫ってくる。
さすがに、こっちは迫力が違うな。
一隻一隻が、白羊号よりもでかい船ばっかりや。
しかも、船腹には大量の大砲。
おいおい。
砲門の数だけで、うちの船何隻分やねん。
「ダグ! 敵の大型艦が来るで!」
「分かっとる! ミラ、南西の海流まであとどれくらいや!?」
「あと少し! もうすぐ流れに乗れるで!」
「よし。避難船は全速力! 九蛇の船も合流してくれ!」
俺は、ダグの指示を聞きながら、敵の艦隊を眺めとった。
大型艦が前へ出てきたせいで、後ろの小型船が進路を塞がれとる。しかも、さっき九蛇の弓兵に帆を撃ち抜かれた船まで混ざっとるから、全体の動きがバラバラや。
ああ。
なるほどな。
敵は俺らを包囲しようとして、自分たちで逃げ道を狭くしとるんか。
ダグは、最初からそれを狙っとったんやな。
「ガルド。そろそろ準備しとけ」
「おっ! ようやくか!?」
「まだや! 全船が海流に入るまで待て!」
何やねん。
希望を持たせてから落とすの、やめてくれへん?
俺は荒凪を肩に担ぎ、白羊号の船首へ移動した。その間にも、敵の旗艦からは信号旗が上がり続けとる。
ふむ。
どうやら、俺らが逃げると判断したらしいな。
まあ、正解や。
避難船は、ちゃんと逃がさなあかんからな。
ただし。
俺まで逃げると思うとったら、大間違いやで。
―――
「避難船、全隻、南西の海流へ入ったで!」
ミラの声が響いた。
続けて、グロリオーサからも報告が入る。
「九蛇の船も合流した。負傷者の移送も完了しておる!」
「よし! 全船、そのまま南西へ進め! 白羊号だけ速度を落とす!」
ダグが、海図の上の駒を動かした。
俺は、敵の艦隊を振り返った。
大型艦の一部は、まだ避難船を追おうとしとる。せやけど、旗艦から出た指示に従って方向を変え始めたせいで、まともに追撃できてへん。
しかも、九蛇の船が最後の小型船を足止めしてくれたおかげで、避難船の後方には十分な距離ができとった。
完璧やん。
「ダグ! もうええか!?」
「待て! あと少しや!」
「あと少しって、何秒!?」
「うるさいわ! 今、最後の船が退避しとるんや!」
あかん、早く暴れたい。
めっちゃ暴れたい。
あんなに敵船が並んどるんやで? しかも、全部奴隷商人の船や。遠慮なくぶっ壊してええんやで?
こんなん、俺にとっては宝の山みたいなもんやん。
……いや。
ゼンが聞いたら、絶対「宝の山なら沈めずに拿捕しろ」とか言い出すやろな。
ほんま、うちの会計担当は夢がない。
そのとき、ダグが電伝虫を握り直した。
「ガルド!」
来た。
俺は、思わず背筋を伸ばした。
「何や!?」
「全船退避完了! もう遠慮せんでええぞ!」
よっしゃあああああ!!
待ってました!!
俺は荒凪を肩から下ろし、ゆっくりと抜き放った。
「おう。ほな、ちょっと天気悪うなるで」
刃を掲げた瞬間、周囲の風向きが変わった。
―――
最初は、ほんの小さな風やった。
白羊号の帆を撫でるように吹いとった風が、ゆっくりと海面へ降りていく。次第に波が高くなり、遠くの敵艦隊の上空へ、黒い雲が集まり始めた。
俺は荒凪を構え、空を見上げた。
おお。
ええ天気やな。
残念ながら、本日の天気予報は、ここから大外れになる予定やけど。
「アラアラの実――!」
俺が荒凪を掲げた瞬間、黒い雷雲が一気に広がった。
太陽の光が遮られ、海が暗く染まる。巨大な雲の塊が、敵艦隊の頭上を覆い尽くした。
ゴロゴロゴロゴロ……。
雷鳴が、海一面に響き渡った。
おお。
なかなかええ感じやん。
「お、おい! 空を見ろ!!」
「何だ、この雲は!?」
「さっきまで晴れてたじゃねえか!!」
敵の船から、悲鳴が上がり始めた。
せやで。
嵐が来るんや。
しかも、普通の嵐ちゃうで。
俺が起こす嵐や。
「ダグ! まず後列からいくで!」
「おう! 九蛇の船はまだ少し近いから、南側には風を流すなよ!」
「了解!」
俺は荒凪を横薙ぎに振るった。
ゴオオオオオオオオ!!
凄まじい暴風が、敵艦隊の後列へ襲いかかった。
巨大な帆が一斉に引き裂かれ、マストが根元から軋み始める。何隻もの船が、横から殴りつけられたように大きく傾いた。
「帆が破れたァァァ!!」
「マストを押さえろ!!」
「舵が利かねえ!!」
めっちゃ慌てとるやん。
せやけど、まだ始まったばっかりやで。
「ほな、次は雷やな!」
俺は荒凪を空へ掲げた。
黒い雷雲の中で、無数の光が走り始める。
バチバチバチィィッ!!
「落雷!!」
ドッゴオオオオオン!!
雷光が、敵の大型艦へ降り注いだ。
まずは前部マスト。続いて砲甲板。さらに、船尾の操舵室。
狙った場所へ、次々に雷が落ちる。砲身が爆ぜ、舵が砕け、巨大な船が次々に動きを止めていった。
いやあ。
海戦って、ほんまにええな。
俺の能力、こういうときは無茶苦茶便利や。
敵船に捕まっとる奴隷がおらんかは、キットとガロからの報告に加えて、見聞色でも確認しとる。こっちへ向かってくるのは、ほとんどが武装した奴隷商人と傭兵の船ばっかりや。
ほな、遠慮はいらんな。
「ガルド! 敵の左翼、崩れ始めたで!」
「おう!」
ダグの報告が電伝虫から響いた。
俺は荒凪を振り下ろし、敵の大型艦二隻の間へ、巨大な風の壁を作った。
ゴオオオオッ!!
二隻の船が、互いに反対方向へ押し流される。
その隙間を縫うように、雷光を走らせた。
バチィィィッ!!
次の瞬間、二隻のマストが同時に爆ぜる。
「うわあああ!!」
「何なんだ、あいつはァァァ!!」
「ば、化け物ォォォ!!」
……。
聞こえとるぞぉぉぉおおおおおおおおお!!
何でやねん!! 人がせっかく格好よく戦っとるのに、もうちょい気の利いた呼び方ないんか!? 『嵐の剣豪』とか『大海の支配者』とか、いろいろあるやろ!!
……いや、待て。
大海の支配者。
ちょっと格好ええな。
「ガルド! 敵の旗艦が動いたで!」
「おっ!」
ダグの声で、俺は視線を戻した。
敵の旗艦は、残っとる大型艦を中央へ集め始めとった。
なるほど。
やっと指揮官らしいことし始めたな。
まあ、今さら遅いけど。
―――
九蛇海賊団の船首で、グロリオーサは、目の前の光景から視線を離せずにいた。
彼女はこれまで、数え切れないほどの強敵と戦ってきた。
海軍の将校。名の知れた海賊。巨大な海王類。いずれも、九蛇の戦士として、女帝として、己の剣と覇気で打ち倒してきた相手だ。
だが、今、海の向こうで起こっている戦いは、そのどれとも違っていた。
「……何じゃ、これは」
空一面を覆う巨大な雷雲。
敵艦隊だけを襲う暴風。
船のマストを正確に撃ち抜く落雷。
四十二隻もの大艦隊が、たった一人の男によって、次々に戦闘不能へ追い込まれていく。
しかも、彼女たちが乗る九蛇の船には、危険な風がほとんど届いていない。避難船へ向かう波も、途中で不自然なほど穏やかになっている。
あの男は、味方を守りながら戦っているのだ。
グロリオーサは、自分の胸元に手を当てた。
心臓が、激しく鼓動していた。
昨日、彼と剣を交えたときのことを思い出す。
自分は全力を出した。
剣術も、体術も、覇気も。
それでも、最後には雷となって背後へ回り込まれ、首筋に大太刀の峰を突きつけられた。
あのとき、確かに敗北を認めた。
自分より強い男がいることを、初めて明確に意識した。
しかし。
今、目の前で起こっている光景は、その認識すら覆していた。
昨日の戦いで、自分が見ていたのは、あの男の実力のほんの一部にすぎなかったのだ。
「あの男……妾との戦いでは、まだ力を隠しておったのか」
思わず、声が漏れた。
グロリオーサは、白羊号の船首へ視線を向けた。
そこには、巨大な大太刀を片手で操る男が立っている。
四メートル五十六センチの巨体。
肩に担いだ大太刀。そして、海そのものを支配しているかのような、圧倒的な力。
彼女は、今まで自分より強い男を知らなかったわけではない。だが、これほどまでに明確な実力差を、これほどまでに鮮烈な形で見せつけられたことはなかった。
しかも、あの男は、ただ敵を破壊するだけではない。
仲間の指示を信頼し、避難船を守り、敵を必要な場所へ誘導しながら、嵐を操っている。
自分なら、あの状況でどう戦うだろう。
おそらく、敵の旗艦へ突撃し、指揮官を討ち取ることを優先する。九蛇の戦士たちを率いれば、四十二隻を相手にしても、決して退くつもりはない。
だが、あの男は違う。
自分一人で、敵艦隊の動きを封じている。しかも、仲間たちが安全な場所へ逃げる時間まで稼いでいる。
彼女は、無意識のうちに唇を噛んだ。
悔しい。
自分も強いはずなのに。
あの男の隣に立って戦いたいと思うのに。
今の戦場では、彼の力があまりにも大きすぎる。
だが、その悔しさと同じくらい、いや、それ以上に。
胸が、高鳴っていた。
もっと見たい。
あの男が、どこまで強いのか。
どれほどの力を隠しているのか。
そして、あの男が振り返ったとき、自分にどんな顔を見せるのか。
そこまで考えて、グロリオーサは自分の思考に気づいた。
「……っ!?」
頬が、急に熱くなった。
何を考えておる、妾は。
今は戦いの最中じゃぞ。
女帝が、敵艦隊を前にして男の顔を思い浮かべてどうする!
彼女は、慌てて首を振った。
「グロリオーサ様! 敵の快速船が、こちらへ接近しております!」
部下の声に、彼女は即座に剣を抜いた。
「全員、弓を構えよ! 妾の合図で一斉に放て!」
九蛇の戦士たちが、甲板へ並んだ。
彼女自身も長弓を引き絞り、矢じりに武装色の覇気を流し込む。
「放て!!」
何十本もの矢が、一斉に飛んでいった。
ドゴォォン!!
敵の快速船のマストが、次々に砕け散る。
九蛇の戦士たちから、歓声が上がった。
当然じゃ。
妾とて、ただ見ているだけの女ではない。
そう自分に言い聞かせ、彼女は再び弓を構えた。
しかし。
その視線は、どうしても白羊号の船首へ戻ってしまうのだった。
―――
一方、そのころの俺。
「ダグ! めっちゃ楽しい!!」
「遊びちゃうわァァァ!!」
怒られとった。何でやねん。
敵の艦隊は、もう半分以上動けへんようになっとる。マストは折れ、舵は砕け、大砲も使い物にならへん。
しかも、ダグが事前に敵の陣形を崩してくれたおかげで、今の俺は敵船だけを狙えばええ。
これほど戦いやすい状況、なかなかないで。
「ガルド! 敵の旗艦が、残った船を集めとる!」
「おっ。ほんまや!」
俺は水平線の向こうを見た。
そこには、まだ無傷に近い巨大な旗艦が一隻。周囲には、十隻ほどの大型艦が集まっとる。
おお。
残存戦力を集結させるんか。
ええ判断やな。
普通の相手なら。
「ダグ。あれ、まとめて潰してええ?」
「待て。今、敵の旗艦が避難船の進路から外れたところや。北側へもう少し誘導してからや」
「了解!」
俺は、荒凪を肩に担ぎ直した。
黒い雷雲は、さらに厚くなっている。
敵の船からは、慌ただしく信号旗が上がり続けとった。
何やら、俺を包囲しようとしとるみたいやな。
頑張るやん。
せやけど、残念ながら、俺は船に乗って戦わなあかんわけちゃうねん。
「ほな、ちょっと行ってくるで!」
俺は、雷になった。
バチィィィッ!!
次の瞬間、敵の旗艦の上空へ移動した。
「なっ!?」
「何だ、あの光は!?」
「上だ! 上を見ろォォォ!!」
敵の船から、悲鳴が上がる。
俺は空中で荒凪を構えた。
……さて。
最後は、どうしたろか。
雷だけで片づけるんも、ちょっと面白くないな。風だけやったら、さっきから散々使っとるし。
せっかく、こんだけ大きな雷雲を作ったんや。
ほな。
あれ、やってみよか。
「ダグ! ちょっと、でかいの起こすで!」
「おう! ただし、北側やぞ! 九蛇の船がまだ南側におるからな!」
「分かっとる!」
俺は荒凪を大きく振り上げた。
その瞬間、海面の風が、一気に渦を巻き始めた。
ゴオオオオオオオオ!!
黒い雷雲から、巨大な雲の柱が伸びてくる。
海面からは、白い水しぶきが巻き上がった。
そして。
空と海が、一本の巨大な渦でつながった。
「何だ、あれは……」
敵の旗艦から、誰かの声が聞こえた。
おお。
ええ反応やな。
もっと驚いてええで。
「荒天――!」
俺は荒凪を振り下ろした。
「大竜巻!!」
ドッゴオオオオオオオオオオン!!
巨大な竜巻が、敵の旗艦を真正面から呑み込んだ。
マストが折れ、帆がちぎれ、甲板に固定されとった大砲が次々に吹き飛んでいく。
さらに、竜巻の外側を回る暴風が、周囲の大型艦へ襲いかかった。
「うわああああ!!」
「旗艦が! 旗艦が消える!!」
「全船、退避しろォォォ!!」
敵艦隊が、完全に混乱し始めた。
そらそうやろな。
旗艦が竜巻に呑み込まれとるんやから。
しかも、ほかの船まで暴風で進路を変えられ、互いにぶつかりそうになっとる。
何や、めっちゃええ感じやん。
俺は荒凪を肩に担いだ。
よし。
これで、最後の仕上げやな。
「ダグ! 敵の旗艦、止めたで!」
「確認した! ほな、残りの船もまとめて制圧や!」
「了解!」
俺は、荒凪を空へ掲げた。
黒い雷雲が、最後の雷を蓄え始める。
バチバチバチィィッ!!
「ほな、これで終わりや!」
荒凪を、一直線に振り下ろした。
次の瞬間。
ドッゴオオオオオオオオオオン!!
雷光が、敵艦隊の中央へ降り注いだ。
轟音。
閃光。
そして、凄まじい衝撃。
敵の大型艦が、次々に動きを止めていく。
終わった。
俺は荒凪を鞘に納めた。
黒い雲が、ゆっくりと晴れ始める。海面には、マストの折れた敵船が、あちこちに漂っとった。
四十二隻。
全部、航行不能。
いやあ。
大成功やん。
「ダグ! 終わったで!」
「分かっとるわ! ほな、さっさと戻ってこい!」
「了解!」
俺は雷になった。
バチィィィッ!!
次の瞬間、白羊号の甲板へ戻った。
いやあ。
今日も、ええ仕事したな。
―――
グロリオーサは、九蛇海賊団の船首に立ったまま、言葉を失っていた。
目の前には、凄まじい光景が広がっている。
四十二隻もの大艦隊。
そのすべてが、一人の男によって戦闘不能へ追い込まれた。
しかも、避難船には一隻の被害も出ていない。
自分たち九蛇の船も、ほとんど損傷していない。
あの男は、単に敵を破壊しただけではない。味方を守りながら、海そのものを支配していたのだ。
「何という男じゃ……」
グロリオーサは、思わず呟いた。
これまで、数え切れないほどの強者と戦ってきた。海軍の将校。名の知れた海賊。巨大な海王類。それらを相手に、自分は一歩も退かずに戦ってきた。
だが、たった一人で、艦隊を壊滅させる男。
そんな存在は、初めて見た。
しかも、昨日、自分が剣を交えた男だ。
あのとき、自分は確かに全力を出した。それでも勝てなかった。しかし、今の戦いを見れば分かる。
あの男は、昨日の戦いでは、まだ本当の実力を見せていなかったのだ。
「あの男……妾との戦いでは、まだ力を隠しておったのか」
グロリオーサは、白羊号を見つめた。
その船首には、先ほどまで海を支配していた男が立っている。
巨大な大太刀を肩に担ぎ、仲間たちへ向かって笑っている。
その姿を見た瞬間、胸が強く締めつけられた。
心臓が、激しく鼓動する。
顔が、熱くなる。
今まで経験したことのない感覚だった。
戦いの興奮ではない。
勝利の喜びでもない。
あの男を見ているだけで、胸が高鳴る。
声を聞きたい。もっと近くで、あの笑顔を見たい。もう一度、あの男と剣を交えたい。
いや。
それだけではない。
あの男の隣に立ちたい。
自分と同じ戦場で、同じ敵と戦いたい。
そして、いつか。
あの男に、自分のすべてを認めさせたい。
「……っ!?」
そこまで考えて、グロリオーサは自分の胸元を押さえた。
何を考えておる、妾は。
妾は、九蛇の女帝じゃぞ。
自分より強い男に心を奪われるなど、そんなことが……。
だが、否定しようとするほど、心臓は激しく鼓動した。
グロリオーサは、ゆっくりと白羊号へ視線を戻した。
そこには、雷光とともに帰還したばかりのガルドが立っていた。
四メートル五十六センチの巨体。
巨大な大太刀。
そして、先ほどまで海そのものを支配していた、圧倒的な力。
彼女は、その姿を見つめながら、ついに認めざるを得なかった。
妾は。
あの男に、惚れてしまったのじゃ。
そう自覚した瞬間、顔が一気に熱くなった。
九蛇の女帝としての誇りも、これまで積み重ねてきた戦歴も、今だけはどうでもよかった。
ただ、あの男が眩しかった。
強くて。
自由で。
仲間を信頼し。
自分より弱い人間を守るために、その圧倒的な力を振るう。
そんな男が、この世にいたのだ。
「……ガルド」
グロリオーサは、思わずその名を呟いた。
名前を口にしただけで、胸が高鳴る。
自分でも、信じられなかった。
だが、それ以上に。
もう、自分の感情を抑えられる気がしなかった。
―――
さて。
そのころの俺。
「ガルドォォォ!!」
帰還早々、ダグに怒鳴られとった。
何でやねん。俺、さっき四十二隻の大艦隊を一人で壊滅させてきたんやぞ!?
もうちょい、こう、英雄扱いしてくれてもええんちゃう!?
「何やねん! ちゃんと全部倒したやろ!」
「お前! もうちょい右で竜巻起こせ言うたやろ!」
「しゃあないやろ! あんなデカい竜巻、微調整でけへんわ!」
「微調整でけへんのやったら、最初からあんなデカい竜巻起こすなァァァ!!」
そらそうやな!!
いや、待て。
俺、今めっちゃ納得しかけたけど、そもそも敵の艦隊は全部倒したんやで!?
「でも、避難船には当たらんかったやろ!」
「当たらんかったからええって話ちゃう! 九蛇の船、あとちょっとで巻き込まれるところやったんやぞ!」
「……マジで?」
「マジや!」
あっ。
それは、ちょっとまずいな。
俺は九蛇の船へ視線を向けた。
そこには、グロリオーサが立っとった。
おっ。何や。
めっちゃこっち見とるやん。
「おーい! グロリオーサ!」
俺は大きく手を振った。
「さっきの竜巻、大丈夫やったか!?」
グロリオーサが、びくっと肩を揺らした。
何や? また顔赤いで?
「も、問題ない! 妾の船を侮るでない!」
「おお! さすがやな!」
俺が笑うと、グロリオーサは慌てたように顔を背けた。
何やろ。昨日から、ずっとこんな感じやな。
ほんまに、熱でもあるんちゃうか?
「ガルド! 聞いとるんか!」
「聞いとるわ!」
「ほな、次から竜巻はもっと右や!」
「分かった分かった!」
俺はダグの肩を叩いた。
「まあ、今回は大成功やったやろ!」
「……せやな」
ダグが、ようやく笑った。
「避難船は全隻無事。救出した奴らも、全員安全な海域へ出られた。敵の艦隊も、もう追ってこれへん」
「おお!」
俺は、思わず拳を突き上げた。
「よっしゃああああ!!」
甲板に、仲間たちの歓声が響いた。
トーマとトーラが、互いに肩を組んで騒いどる。バオは救出した奴隷たちに飯を配り始めた。ネネは、まだ治療が必要な人間がおらんか確認しとる。
ミラは、ようやく落ち着いた顔で海図を畳んどった。
そして、ゼン。
「ガルド」
「何や?」
「今回、敵の船は全部沈めたんか?」
「いや、動けへんようにしただけやで?」
「……ほう」
ゼンの目が、急に輝いた。
あっ。
嫌な予感がする。
「ということは、船体が残っとる船もあるんやな?」
「まあ、あるで?」
「なら、後で回収できる船材や積荷も……」
「おいおいおい! まだ戦闘終わったばっかりやぞ!?」
ゼンが、ものすごい勢いで帳簿を開いた。
あかん。
こいつ、海戦の直後に商売始める気や。
ほんま、うちの会計担当はたくましいなぁ。
「ガルド! 次から敵の船は、できるだけ沈めずに拿捕してくれ!」
「何でやねん!!」
俺の楽しみが減るやろ!!
しかも、さっきまでダグには竜巻の位置で怒られとったのに、今度はゼンに敵船の破壊具合で怒られとる。
俺、船長やで!?
四十二隻を一人で壊滅させた男やで!?
もうちょい、こう、威厳とかないん!?
ないな。
うちの連中に、そんなもん期待したらあかんわ。
―――
その夜。
白羊号と九蛇の船は、避難船を挟むようにして、穏やかな海域を進んどった。
救出された奴隷たちは、ようやく安心して眠れるようになったらしい。甲板では子供たちが毛布にくるまり、大人たちも、久しぶりに落ち着いた顔を見せとった。
俺は船首に座り、夜の海を眺めていた。
昼間、あれほど荒れ狂っとった海が、今は嘘みたいに静かや。
空には星が出とる。
……いやあ。
ええ夜やな。
「ガルド」
背後から声がした。
振り返ると、グロリオーサが立っとった。
おっ。
女帝様やん。
「何や? まだ起きとったん?」
「……少し、話がしたくてな」
彼女は、俺の隣へ歩いてきた。
俺は少しだけ身体をずらし、座る場所を空けた。
「ほな、座りや」
「……うむ」
グロリオーサは、俺の隣へ腰を下ろした。
しばらく、二人で海を眺める。
……何や。
珍しく静かやな。
いつもやったら、何かにつけて俺に文句言うてくるのに。
「……ガルド」
「何や?」
「……お主は、本当に不思議な男じゃな」
「またそれかいな!」
俺は、思わず笑ってもうた。
「昨日から、ずっと同じこと言うとるで!」
「仕方あるまい。妾の知る男の中に、お主のような者はおらぬのじゃ」
「……そうなん?」
「うむ」
グロリオーサは、ゆっくり頷いた。
「妾は、これまで数え切れぬほどの強者と戦ってきた。海軍とも、海賊とも、巨大な海王類ともな。だが、今日のような光景は、初めて見た」
「……おお」
「たった一人で、あれほどの艦隊を壊滅させる男など……」
彼女は、そこで言葉を切った。
俺は首を傾げた。
「……何や?」
「……いや、何でもない!」
また顔赤いで。ほんまに大丈夫なんか、この人。
「グロリオーサ。やっぱり、ネネに診てもらった方がええんちゃう?」
「やかましい!!」
「心配しとるだけやんけ!!」
何やねん。
女帝様、ほんまに難しい人やな。
でも、まあ。
嫌いではないで。
むしろ、あれだけ強くて、仲間思いで、しかも俺と普通に斬り合える女なんか、そうそうおらんやろ。
「……なあ、グロリオーサ」
「何じゃ?」
「また、今度一緒に戦おうや」
俺がそう言うと、彼女は目を丸くした。
「……何?」
「今日みたいなんも楽しかったけど、昨日みたいに直接斬り合うんもええしな。お前、めっちゃ強いし!」
グロリオーサは、しばらく俺を見つめとった。
そして。
「……うむ」
小さく頷いた。
「妾も、そう願っておる」
めっちゃ素直やん。
俺は嬉しくなって、ニッコリ笑った。
「ほな、約束やで!」
その瞬間、グロリオーサが、なぜか顔を真っ赤にして俯いた。
……何や。
ほんまに、よう分からん。
俺は空を見上げた。
満天の星。
穏やかな海。
そして、隣には、昨日出会ったばかりの九蛇の女帝様。
いやあ。
何やろな。
世界って、ほんまに広いわ。
……。
ちなみに。
このときの俺は、まだ気づいてへんかった。
グロリオーサが、俺の隣で必死に胸の高鳴りを抑えようとしとったことも。
自分より強い男に、心の底から惚れてしまったことも。
そして。
その恋が、これから俺の日常を、とんでもない方向へひっくり返すことになるなんて。
……。
知るかァァァァ!!
俺、まだ十八歳やぞ!!
しかも、船出してからまだ数日やぞ!?
恋愛より先に、船の修理代と食費の心配せなあかんねん!!
まあ。
そんなことは、まだ誰にも言わへんけどな。