五歳の誕生日から数日後、俺は島の酒場で人生をひっくり返す単語を聞いた。なお人生は一度ひっくり返っている。転生済みなので、これ以上ひっくり返されたら三半規管が死ぬ。
酒場の親父が、航海帰りの漁師に向かって笑っていた。
「沖の商船が悪魔の実を積んどったらしいで」
俺の手から木の匙が落ちた。悪魔の実。今、悪魔の実って言うたか? 食べたらカナヅチになる代わりに、とんでもない能力が手に入る、あの?
「……ワンピースの世界やないか!」
酒場が静まり返った。しまった。五歳児がいきなり作品名を叫んでしまった。転生者あるある、身元バレの第一歩。
「何が一つだ?」
ワカバが首を傾げた。そっちのワンピースやない。いや、一つなぎの大秘宝という意味では合っとるんか。まだ分からんけど。
「何でもない。父ちゃん、悪魔の実ってほんまにあるん?」
「あるぞ。食った奴は海で泳げんようになる」
「能力は?」
「いろいろや」
「説明が雑! 取扱説明書が『いろいろ』の家電なんか買えるか!」
「買わんかったらええ」
正論で殴るな。こっちは世界観が確定した衝撃で脳内の情報処理が追いついてへんねん。
翌日から俺は島中で聞き込みを始めた。目的は一つ。ゴール・D・ロジャーと海賊王の存在確認である。原作開始までの年表を組みたい。せめて現在地くらい教えてくれ。ゲーム開始時にマップ非表示は鬼畜やろ。
「ロジャーって海賊、知っとる?」
「どこの漁師や?」
「海賊王は?」
「王様が海賊するんか? 国政はどうすんねん」
「それは俺も知りたい!」
酒場、港、市場、自警団の詰所。聞ける相手には片っ端から聞いた。誰も知らない。新聞の古紙をひっくり返しても見つからない。情報収集の結果、俺が『王様に異様な興味を示す変な子供』という評判を獲得しただけやった。最悪の成果報告である。
ロジャーがまだ海賊王になっていない時代なのか。それとも、原作とは違う歴史を辿る世界なのか。そもそもロジャーが生まれとるのか。確認できる資料がない以上、決めつけるのは危険だ。
「父ちゃん、世界政府って強いん?」
「強いぞ」
「海軍は?」
「強いな」
「天竜人は?」
ワカバの手が止まった。酒場の親父まで急にグラスを磨き始めた。いや、さっきまで磨いとったグラスやろ、それ。何回磨くねん。
「その名前を外で軽々しく口にするな」
ワカバの声は低かった。冗談を言う余地のない声だった。
俺は前世の知識を頭の中で並べた。天竜人。奴隷。世界政府。海軍大将。バスターコール。知っている単語が、知らない恐怖として急に重くなる。漫画ならページを閉じればええ。でも俺はこの世界で寝て、食って、暮らしている。閉じる本がない。
もし島に理不尽な命令が来たら? ワカバが逆らったら? 俺が助けたいと思った誰かを連れていかれたら? 相手が海軍大将なら、今の俺なんか木剣ごと消し炭や。
必要なのは、マグマや隕石を小石みたいに蹴散らせる強さ。目標設定がいきなり人類の範疇を踏み越えた。五歳児の将来の夢が『隕石処理業者』。職業欄に書いたら先生に呼び出される。
でも怖いから強くなる、だけやない。毎朝飯を作ってくれる父ちゃんも、怪我したら手当てしてくれる島の連中も、酒場でくだらん話をして笑っとる漁師も、俺の家族や。俺は一度、何もかも失ってここに来た。二度目まで黙って奪われてたまるか。
「父ちゃん。俺、強うなるわ」
「知っとる。毎朝言うとる」
「今日は意味が違うんや!」
「ほな、まず皿を洗え」
決意表明の直後に家事を振るな。いや、島を守る男が自分の皿も洗えんかったら格好つかんか。分かった。洗います。
木剣は、重かった。
いや、物理的にも重いんやけど、五歳児に課せられた期待も重い。誕生日プレゼントが筋トレ器具って何やねん。普通そこは玩具やろ。ケーキはどこや。
五歳の誕生日にワカバから渡されたその木剣は、俺の身長百六十五センチの体に合わせて作られたものだ。童心の頃に見た木刀よりずっと長く、ずっと分厚い。しかし材質は堅牢で、素振りをすれば鈍い音が空気を裂く。
最初の一振り。
俺は構えた。足を肩幅に開き、膝を曲げ、背筋を伸ばす。木剣を頭上へ掲げ、振り下ろす。
姿勢が崩れた。
俺の剣士人生、開始三秒で終了のお知らせ。スタッフロール流すな。まだチュートリアルやぞ。
右へ傾く。刀先が定まらない。腰が浮く。足が流れる。
「違う」
ワカバの声は短い。
「腰が浮いとる」
「浮いてない」
「浮いとる。もう一回」
振る。崩れる。
「腕で振るな」
「腕で振ってない」
「振っとる。足から動け」
足から動けと言われても、どう動かしていいか分からない。足は立つためのもので、手は振るためのものだ。それが俺の常識だった。前世の常識だ。剣術なんてやったこともない。体育の剣道で竹刀を握ったのが人生のピークだ。
だがワカバは説明しない。「足から動け」と言うだけ。どう動かすかは自分で考えろということだ。
この人は、引き継ぎ資料ゼロ・マニュアル一切なし・口頭で一言だけ残すタイプの上司だ。前世の会社にもいた。仕事はできる。教えるのは最悪。
「腰を使え」の一言で習得できるなら、世の中の剣術道場は全部「腰を使え」と書いた看板だけ立てて閉店しとるわ。
でも、言われた通りに足から動かしてみると、確かに腰が安定する。腕の力だけで振っていたときより、刀先が速くなる。一振りにかかる負担が減る。
「ほう」
ワカバがまた「ほう」と言った。
「今のは、まあまあや」
まあまあ。この人の最高評価が「まあまあ」であることは、この頃すでに学んでいた。
人事評価シートが存在したら、全項目「まあまあ」で埋まるタイプや。昇給交渉は絶望的である。
「もう百回」
「百回!?」
「さっき言うたやろ。振れと」
言った。確かに言った。俺が言い出したことだ。
前世の残業よりマシだ、と思いながら、俺は木剣を振り続けた。
……いや待て。前世は残業代が出んかった。今世も給料が出ん。労働環境、改善されてへんやないか。
素振りの毎日は、単調だった。
朝起きて走り、水を汲み、飯を食い、素振りをして、昼に少し休んで、また素振りをして、夕方に走り込んで、夜は飯を食って寝る。
ワカバが自警団の仕事でいない日は、一人で素振りをする。百回、二百回、三百回。手の皮が破れても、ワカバは止めない。血が滲んでも、止めるなと言う。ただし、手の皮が剥れかけたら、ネネさんが黙って包帯を巻いてくれた。
「ガルド、無理したらあかんで」
ネネ・クイルは自警団の医療係だ。小柄な女性で、いつも注射針と麻酔弾の入った鞄を持ち歩いている。医療の経験が豊富らしく、この人の手当ては正確で、痛くない。注射だけは痛い。
「ネネさん、手、大丈夫やと思います」
「大丈夫じゃないで。見せてみい」
「いや、本当に」
「見せてみい言うとるやろ」
逆らえない。三歳でも五歳でも、この人には逆らえない。
自警団の戦力序列、たぶんネネさんが頂点や。注射針一本で全員を黙らせられる。
手の皮が剥れていると、ネネは黙って薬を塗って包帯を巻いてくれた。
「明日は軽めにしな。言わんと怒るからな」
「怒るって誰に?」
「ワカバさんに決まっとるやろ」
そういうことだった。ネネが止めるのを聞かないと、ワカバが止める。ワカバが止めるのは、もっと怖い。
五歳の夏、俺はワカバに見聞色の稽古を頼んだ。正確には、目を閉じて父ちゃんがどこにおるか当てる遊びから始まった。遊びという名の修行。子供向けの体験教室みたいに聞こえるが、講師は木の実を容赦なく投げてくる。消費者センターに相談したい。
「目隠ししたぞ。どこや?」
「当ててみい」
「声出したら分かるやろ!」
「ほな黙る」
言い返す前に木の実が額へ飛んできた。痛い。こっちが見えてへんのをええことに!
何日も繰り返すうち、音でも匂いでもない、そこに誰かがいる感覚が分かるようになった。ワカバの気配は大きくて静かだ。怒っとるときは圧が増す。つまり、目を閉じても説教が近づいてくるのが分かる。いらん便利機能やな。
ある日、木の実が飛んでくる直前、父ちゃんがほんの少し楽しそうにしているのを感じた。顔は見えへんのに、笑ったのが分かった。
「父ちゃん、今笑うたやろ」
「笑うてへん」
「嘘つけ! 俺に当てる気満々やったやろ!」
「当たってへん。成長したな」
褒め方に殺意が混じっとる。けれど確かに、そこにいる、と分かった。初めて他人の気配と感情を拾えた日だった。
筋トレはまだ早い。五歳児の関節を壊したら本末転倒だ。ならば素振りの負荷を上げるにはどうするか。俺は裏山でちょうどええ若木を見つけた。根元から引っこ抜いた。木剣より長い。太い。葉っぱ付き。環境保護団体に見られたら怒られそうやけど、今は緊急事態や。
「ガルド! 木刀を使え!」
「木の刀やん?」
「木そのものや!!」
自警団のおっちゃんが頭を抱えた。確かに木刀という日本語の解釈としてはかなり攻めている。でも俺は間違ってへん。素材は木や。
「枝が危ない! 葉っぱが飛ぶ!」
「自然派の剣術や」
「自然に帰れ!」
素振り一回で鳥が三羽飛び立ち、二回で洗濯物が落ち、三回目でワカバが来た。最終兵器の登場が早すぎる。
「ガルド。その木、植え直せ」
「根っこ千切れとるけど」
「ほな新しい木を植えろ」
剣術の稽古が植林活動になった。俺の異世界生活、方向性が定まらん。
五歳の秋。俺は裏山で、食料袋を担いで走る少年を見つけた。九歳くらい。錨を背負い、誰かに追われるように森を抜けていく。市場で食料が盗まれたという話を聞いた直後やった。なるほど、現行犯か。俺の脳内名探偵が早くも事件解決を宣言した。証拠? 今から集める!
「待て、泥棒!」
「はあ!? 誰が泥棒や!」
少年が振り返った瞬間、俺は飛びかかった。木剣は危ないので拳でいった。手加減したつもりだったが、少年は見事に地面を転がった。錨がすごい音を立てて落ちる。あかん。五歳児の初逮捕、いきなり過剰防衛の疑い。
「お前、何すんねん!」
「盗んだ食料を返せ!」
「これ、港の孤児に運んどる飯や!」
「……え?」
「え、やない! 人の話聞け!」
袋の中には固いパンと干し魚。そこへ腹を空かせた子供たちが駆け寄ってきた。少年の顔を見て『ダグ兄ちゃん』と呼んでいる。俺の名探偵、開始三十秒で誤認逮捕。探偵事務所は即日廃業である。
俺は頭を下げた。地面につきそうな勢いで下げた。
「すまん! 完全に勘違いや!」
「勘違いで人を殴るな!」
「ごもっともです!」
少年の名はダグ・ハーケン。九歳。孤児たちへ食料を運んでいたが、悪徳商人が寄付用の食料を横流ししているせいで、十分な量を確保できていなかったらしい。ならば謝罪は言葉だけで終わらせられん。俺が取り返す。もちろん殴る前に話を聞く。今日学んだ。授業料が高かったのはダグの頬やけど。
商人の倉庫へ行くと、寄付品の印がついた袋が山積みだった。言い訳を始めた商人を前に、俺はワカバと自警団のおっちゃんを呼んだ。五歳児が勝手に暴れたら二件目の誤認逮捕になりかねん。今度は正規の手続きである。
「これは何や?」
「し、仕入れた品でして」
「寄付の印がついとるけど」
「たまたまでして」
「全部に?」
「……大量にたまたまでして」
言い訳の在庫だけ豊富やな。結局、商人は自警団に絞られ、食料は孤児たちへ戻った。
帰り道、ダグが俺の肩を叩いた。いや、叩こうとして届かんかった。俺も大きいが、こいつの錨も大きい。二人並ぶと武器庫の展示品みたいや。
「ガルド。お前、むちゃくちゃやけど筋は通す奴やな」
「最初にお前を殴った時点で筋が折れとるけどな」
「ほな俺がお前の右腕になってやる!」
「待て。何の採用面接や?」
「決まりや!」
「決まってへん! 俺、まだ五歳やぞ!」
こうしてダグは、俺の右腕を自称し始めた。なお俺の承認印は一度も押されていない。そもそも俺に役職がない。部下より先に右腕が生えてくる組織、経営としてどうなんや。
ダグは俺より四歳年上で、最初は先輩風を吹かせてきた。
「ガルド、剣はこう振るもんやない。もっと腰を入れて」
「お前剣使ったことあるんか?」
「ない。でも見たことある」
「ほな俺も海賊王の絵を見たら海賊王になれるんか」
「なれるんちゃうか?」
「話にならん!」
「見ただけで教えるな」
「口出しするな。年上やぞ」
「年上でも素振り一回もしたことない奴に教えられたくない」
口論になり、最後は二人で無茶な模擬戦を始めた。ダグは錨を振り回し、俺は木剣で受ける。錨と木剣がぶつかって火花が出た。いや、出てない。木と鉄がぶつかって木屑が飛んだ。
「危ない! 止せ!」
ワカバの声が飛んできた。
二人とも止まった。ワカバの顔は、俺がこれまで見た中で一番怖かった。
「お前ら、道具の重さを分かっとるか。人に当たったらどうなるか分かっとるか」
ダグと俺は、揃って縮み上がった。
「……さーせん」
「……さーせん」
「二時間、走れ」
はい、閉廷。弁護人不在、即日判決、執行猶予なし。ワカバ裁判所の仕事は早い。
二時間走った。ダグも俺も。九歳のダグが五歳の俺に付き合わされて、二人で海岸を走った。
「お前のせいで足が痛い」
「お前が錨振り回したからやろ」
「お前が木剣で受けるからや」
「受けるのは剣士の reflex や」
「reflex って何や」
「反射。反射や」
「難しい言葉使うな。五歳やろ」
「五歳でも分かる」
走り終わった後、二人で砂浜に座り込んで、空を見上げた。
「ガルド」
「何や」
「また模擬戦せえへん?」
「ええよ。でも今度はワカバさんにお願いしてからにしよう」
「……お前、意外と慎重やな」
「死にとうないだけや」
「ほな次は木剣二本でやろうや」
「話聞いとったか?」
これが、俺とダグの始まりだった。
中身は大人の三歳児と、錨を振り回す九歳の少年。この組み合わせが、後に海を荒らすことになるとは、このときは誰も知らない。俺も知らん。知りたくもなかった。
さて、ここで俺の身長について、非常に遺憾なお知らせがある。
伸びた。
ものすごく伸びた。
身長の話やで。銀行口座の残高やない。そっちは俺の食費のせいで順調に縮んどる。
五歳で百六十五センチだった俺は、八歳で二百三十センチになった。
三年で六十五センチ。年間平均二十二センチ。成長期という言葉で片づけてええ範囲を超えとる。前世の日本人の成長曲線とは全く違う。というか、この世界の人間の成長曲線も、俺のは外れ値すぎる。
「父ちゃん、俺、本当に人間なん?」
「人間や」
「巨人族ちゃうんか?」
「巨人族はもっとデカい。お前は人間や」
「でもこのペースやと、十年後には五メートル超えてるやないか」
「ならん。だいたい十八くらいで止まる」
「なんで分かるんや」
「感覚や」
「感覚で片づけんなや」
医学的根拠ゼロ。父親の勘だけで将来の身長が決まる世界。健康診断の先生が聞いたら卒倒する。
八歳の春、去年作った服が着られなくなった。袖が手首に届かない。裾がくるぶしに届かない。着るたびに継ぎ足しをしているので、服というより布のパッチワークみたいになっている。
「父ちゃん、新しい服作らなあかん」
「またか」
「またって。三ヶ月前にも作ったやろ」
「三ヶ月で着られんくなるのは、お前の成長が早すぎるだけや」
「俺のせいか」
服を作るのは、島の年寄りの婆さんだ。八十歳くらいの小柄な老婆が、俺の巨大な服をミシンで縫っている姿は、シュールだった。前世の感覚だと、お婆ちゃんがテントを作っているように見える。
「ガルド、また大きゅうなったなあ。次はどんくらいで作ればええの?」
「えっと、あと半年で……あと十センチくらい伸びると思います」
「十センチ!? 半年で?」
「すみません」
靴も毎年作り直しである。この島に靴屋はない。革を削って作る手作りの靴だ。俺の足のサイズはもう大人の二倍くらいある。
「ガルド、お前の靴、船の底みたいやな」
ダグが笑った。十四歳のダグは百九十センチくらいだが、俺は二百三十センチある。完全に追い越した。
「うるさい。お前は錨を持ってるくせに身長止まっとるやないか」
「止まっとらん! まだ伸びとる!」
「月に一ミリくらいな」
「計るな!」
こいつ、俺の右腕になるとか言い出す前に、まず身長の話題に耐える精神力を鍛えた方がええ。
十歳で二百九十センチ。島の大人の平均が百八十から二百センチくらいだから、俺は完全に突出している。
村の大人たちは、最初は驚いていた。でも途中から驚かなくなった。
「ああ、ガルドか。またデカくなったな」
「デカくなったじゃなくて、毎日この身長で生活してるんです」
「よう育っとるなあ」
「育ちすぎやろ」
ワカバは、毎年木剣を作り直してくれた。俺の身長に合わせて、長さを、重さを、調整していく。木剣を作るワカバの手は丁寧だ。剣術の教え方は不親切なくせに、道具を作る手は精巧だ。
「今年のは、ちょっと重くした」
「重い」
「慣れろ」
「慣れる前に腕が落ちる」
「落ちたらまた作り直す」
「作り直すのは木剣か、俺の腕か」
「両方や」
怖い。腕って作り直せるんやったっけ。この島、医療技術だけ未来に行っとる?
十二歳で三百五十センチ。家の扉に頭をぶつけるようになった。
「いたっ」
「気をつけろ」
「気をつけろって、この扉低すぎやろ」
「お前が高すぎるんや」
「俺のせいか」
家の改修が必要になった。天井を高くし、扉を大きくし、寝台を延長した。村の大工が三日がかりでやった。俺の寝台は、もはや小船の甲板みたいな大きさだ。
「ガルド、お前の寝台、船に転用できそうやな」
「ダグ、そういうこと言うな」
食費も問題だった。俺一人で大人三人分くらい食う。バオさんが「ガルドの飯代だけで食料庫の三割使っとる」と嘆いていた。
「すみません」
「謝らんでええ。育ち盛りや」
「育ち盛りって十二歳やぞ」
「お前の場合、育ち盛りが長いんや。諦めろ」
諦めるしかなかった。
その代わり、俺の力は役に立った。巨大な魚を運ぶのも、倒木を動かすのも、倉庫の修繕も、俺の体格があれば一人でできる。村人総出の仕事が、俺一人で半分になる。
「ガルド、倉庫の屋根の修理頼む」
「はいよ」
「お前が脚立代わりやな」
「脚立立扱いしないでください」
子供たちからは遊具のように登られる。
「ガルド兄ちゃん、肩に乗せて!」
「乗るな。怪我するぞ」
「えー」
「えー、じゃない」
前世の俺からすれば、十二歳で三百五十センチの人間は異常だ。でもこの島では、もう誰も驚かない。ただの「ガルド」だ。大きくて、剣を振って、よく食う、ワカバの息子だ。
俺は人間である。たぶん。今のところは。
少なくとも島の戸籍上は人間のはずや。戸籍があればの話やけど。
見聞色は、気づかないうちに育っていた。
五歳の頃から「勘がいい」と言われていた。背後から飛んでくる木の実を、振り返る前に避ける。ダグが森で隠れている場所が、目を閉じていても分かる。ワカバが声をかける前に、振り向く。
「ガルド、お前、背中に目でもあるんか」
「ない。たぶん」
「たぶんって何や」
「いや、なんとなく分かるだけや」
「なんとなくで俺の隠れ場所分かるなら、それもうなんとなくちゃうやろ」
ダグの言う通りだ。なんとなくじゃない。何かが見えている。あるいは、感じている。
八歳の夏、俺は自警団の大人を相手にした模擬戦でとうとう無敗になった。なお『八歳児に負けた』という精神的被害の補償は受け付けていない。相手が構えた瞬間、動きの先が枝分かれして頭に浮かぶ。静止して集中している間なら、遠い分岐は最大三分ほど先までぼんやり見える。ただし実戦で動けば途端に短くなる。三分先の未来を見ておいて、目の前の石に躓くこともある。未来視、足元の保証対象外。
「父ちゃん、三分先が見えた!」
「ほな三分後の晩飯は?」
「魚!」
「今日は肉や」
未来が変わったのか、俺が腹を空かせとるだけなのか。能力の検証には厳密な実験が必要らしい。
俺は意気揚々とワカバへ挑んだ。見える未来は全部敗北。右から行っても倒れる。左から行っても倒れる。逃げても転がる。謝っても転がる。選択肢に勝利が実装されてへん。ゲームバランスを疑う。
「なんで全部負けるんや!」
「お前が来てから、どうするか決めとるからや」
「後出しジャンケンの化け物やないか!」
「相手が迷うたら、未来も変わる。見えたもんに頼り切るな」
なるほど。ワカバは行動を直前まで決めない。こっちが未来を見た瞬間、その未来の前提をひっくり返す。未来視対策として完璧や。父ちゃん、息子のチート能力にパッチ当てるのやめてもろてええか。
八歳の頃には、森の動物の位置が何となく分かるようになった。鳥がどの枝にいるか、兎がどの藪に潛んでいるか。見えない。音もしない。でもいる。そこにいる。
十歳の頃には、相手が攻撃を始める直前に、動き出しを予測できるようになった。ダグと模擬戦をしているとき、ダグの錨が動く前に、俺の体が反応する。
「お前、俺の攻撃読んどるやろ」
「読んでない。体が勝手に動く」
「それを読んどるって言うんや」
「ほな次はお前が攻撃する前に『今から右から行きます』って申告してくれ」
「それはもう模擬戦ちゃうやろ!」
十二歳になる頃には、実戦の最中にもごく短い未来を断片的に拾えるようになった。
最初は一瞬だった。ダグが石に躓く直前に、ダグが転ぶ姿が頭に浮かんだ。半秒後、ダグは実際に転んだ。
「おい、大丈夫か」
「うわ、なんで分かったんや」
「分かったというか、見えたというか」
「見えた?」
「……いや、なんでもない」
未来が見える。一秒か二秒ほど先の光景。強い危険が迫ったときだけ見える。意識して使おうとすると失敗する。見えた内容は断片的で、断片的すぎて何が起きるのか完全には理解できない。
そして、使うと頭が痛くなる。
未来を先取りした代償が頭痛。便利機能に見えて、実質サブスクの解約忘れみたいな能力や。
八歳で見た静止状態の分岐とは違う、戦闘中の未来視の芽だと、俺は推測した。原作知識があるから、「見聞色の極致で未来が見える」という設定は覚えている。ただし、極致には程遠い。一、二秒先の断片が見えるだけだ。しかもコントロールできない。頭痛がする。使った後に疲労で倒れそうになる。
原作のルフィは、未来視を「戦いの中で勝手に身につけた」みたいな感じだった気がする。俺は、戦いの中で身につく前に、日常で勝手に芽が出ている。修行の成果か、それとも生まれつきか。分からない。
ワカバは、俺の変化に気づいていた。たぶん。でも何も言わなかった。
ただ、訓練の内容が少しだけ変わった。「目を閉じて素振れ」と言い出したのだ。
「目を閉じて振ったら危ないやろ」
「見えんでも振れるようにせえ」
「見えんでも振れるって、それは」
「お前はもう、見えんでも分かっとるやろ」
……そうだった。確かに、目を閉じてもワカバの位置は分かる。ダグの位置も分かる。風の方向も、鳥の位置も。
俺は目を閉じて、木剣を振った。
見えないはずの世界が、何となく分かる。気配の地図が、頭の中に広がる。
「ほう」
ワカバが、また「ほう」と言った。
十二歳を過ぎた頃、俺はワカバに言った。
「自警団に入れて」
このときの俺は、剣を振れるようになったら即戦闘員になれると思っとった。就職活動を甘く見ていた頃の俺に似とる。
ワカバは、煙草をふかしながら、俺を見た。
「何歳や」
「十二や。身長三百五十センチある。大人より大きい」
「身体が大きいことと、人の命を預かれることは別や」
「じゃあ何をすればええんや」
「まずは、見張りや」
入団した俺を待っていたのは、後に荒天十二旗と呼ばれることになる悪ガキどもだった。ダグは自称右腕のくせに誰より偉そうで、ミラは風を読みながら俺の予定を勝手に決め、ネネは注射針一本で全員を整列させる。バオは料理係で俺の食費を見るたび青ざめ、ゴルドは船をいじり、キットは見張り台から余計な噂まで拾う。トーマとトーラの双子は斧を持つと見分けがつかず、ゼンは帳簿を抱えて胃を痛め、ボンゴは電伝虫をいじって怒られ、イヴォは妙に口が達者で、魚人のガロは俺らが海へ落ちるたび回収してくれる。最後の一人はもちろん俺。数え方が合っとるか? ダグが右腕を一人分として二重計上しようとするせいで毎回揉める。
「俺は右腕やから幹部枠やろ」
「自称や。申請書から出直せ」
「申請書どこや!」
「まだ組織すらできてへんわ!」
十二人が揃うと会議は五分で脱線する。ワカバは一度だけ全員を眺め、『島の未来が騒がしいな』と言った。遠回しな苦情やろ、それ。
見張り。荷運び。避難誘導の訓練。火災用の水の準備。船の固定。食料の保管。夜間の海の監視。危険を知らせる鐘の鳴らし方。連絡の経路。怪我人の運び方。
「……これ、全部やるんか」
「自警団は戦うだけの組織やない。守るための準備を、平時に全部やっとくんや」
前世の俺は、この言葉の重さを知っていた。準備がある組織は強い。手順がある現場は助かる。俺は会社員として、それを身をもって知っている。マニュアルがない現場がどれほど危険かも。
ただ、十二歳の俺にできることは限られていた。見張りに立つ。鐘を鳴らす。避難路に立って村人を誘導する。荷物を運ぶ。これらを、毎日繰り返す。
派手な戦闘はない。地味だ。めちゃくちゃ地味だ。
島を守るヒーローを目指して入団したら、初日の業務が備蓄倉庫の棚卸しやった。前世の俺、転生してまで在庫管理しとる。前世の会社の部署異動で、営業から総務に回されたときの感覚に近い。華やかな仕事じゃない。でも、必要な仕事だ。