大海の大嵐   作:近所の戦闘狂

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# 第4話「漂着した奴隷船」

あの船が何かおかしい。

 

前話の最後で俺はそう言った。言ったんだが、具体的に何がおかしいのかを説明するには、まず状況を整理しなければならない。主に俺の精神衛生のために。

 

ちなみに精神衛生はすでに手遅れ気味である。前世でも残業中に「状況を整理しよう」と言い出した日は、大体帰宅が午前三時になった。縁起でもない。

 

沖合に漂っている政府船。帆が破れ、舵が効かず、船体が右へ傾いている。政府の旗が掲がっているが、風に弄ばれて今にも落ちそうだ。船内からは敵意が感じられない。代わりに、恐怖と疲労と助けを求める気配が、見聞色を通じて俺の首筋をざわつかせている。

 

順を追って説明しよう。俺もまだ完全には理解できてへんけどな。

 

まず、政府船が島へ流れてきた。これ自体は珍しくない。この海域は潮の流れが複雑で、嵐の後などに壊れた船が流れ着くことは何度かあった。問題は、それが政府の船だということだ。

 

政府の船を勝手に救助してええんか。

 

前世の感覚で言えば、警察のパトカーが事故を起こして道端に転がっているのを見つけた一般人くらいの立ち位置だ。助けるべきか。触らんほうがええか。触ったら公務執行妨害になるんか。そもそもこの世界に公務執行妨害という罪があるかどうかも知らん。

 

仮にあったとして、救助したら逮捕される世界は嫌すぎる。海賊より先に法務部が怖い。

 

「ガルド! 見張り全員配置についた! 防波堤の固定はゴルドに任せた!」

 

ダグが港へ駆け下りながら叫んでいる。二十二歳。自警団の中では実質的な現場指揮官だ。俺より四つ年上のくせに、身長は俺より八十センチ以上低い。三百七十センチくらいあるから前世の感覚では十分に大男だが、俺の横に立つと小さく見える。不思議なもんや。

 

なお本人は「俺が右腕や」と公言している。誰の右腕かって? 俺のらしい。初耳や。採用面接もしてへんのに内定を自分で出すな。

 

「ダグ、あの船の様子おかしいんや」

 

「おかしいって?」

 

「お前が昨日から右腕を自称しとる件とは別や」

 

「そこはもう正式決定でええやろ」

 

「議題にすら上がってへんわ」

 

「敵意がない。助けを求めとる気配だけや」

 

「政府船が助けを求める? 海賊に襲われたんか?」

 

「分からん。でも海賊に襲われたなら敵意があるはずやろ。敵意がないんや。船の中にいる連中から」

 

ダグは俺の顔を見て、それから海を見た。

 

「……ミラ!」

 

港の方から、短い髪の女が走ってきた。ミラ・ヴェイン。二十歳。自警団の航海士見習いだ。いや見習いというのは俺の認識で、本人はすでに一人前だと思っている。たぶん合ってる。この人の風を読む目は、俺のアラアラの実より正確だ。

 

悪魔の実を食べていない人間に天候操作の精度で負ける能力者。俺の実、もしかして初期不良ちゃうか。保証書どこや。

 

「ミラ、あの船の進路を確認してくれ。このままだと東の岩礁にぶつかる」

 

ミラは港の端から沖合を睨んだ。風見槍という、槍の先に風向きの旗がついた道具を持っている。名前そのものやんけと思うが、この世界では常識的な命名だ。

 

そのうち「剣で斬る剣」とか出てきそうやな。いや、それはただの剣や。

 

「北西からの風が七ノット。潮は東への流れが強い。このままだと三十分で岩礁に叩きつけられる。船体の傾きが右に十五度くらい。浸水してる可能性がある」

 

「分かった。ガルド、お前が風を調整しろ」

 

俺に来た。

 

来てしまった。部署の誰もやりたがらない案件が、なぜか新人の机に置かれる現象。異世界でも健在らしい。

 

「分かっとる。やる」

 

「ただし適当にやるなよ。風が強すぎたら船が転覆する。弱すぎたら岩礁に流される。帆の残ってる部分にだけ風を当てて、進路を港の方へ曲げるんや」

 

「そんな器用なことできるか俺まだ十六歳から始めて二年しか経ってへんのやぞ」

 

「十八歳やろ。お前が言うな」

 

「年齢やなくて能力の使用歴の話や!」

 

「ややこしい言い方すな!」

 

こいつ、右腕の承認は取れてないくせにツッコミだけは正式採用されとる。

 

ダグが即座に突っ込んできた。

 

「ガロ!」

 

ダグが海へ向かって叫んだ。水面から、巨大な影が浮き上がった。ガロ・マンタ。二十三歳。魚人だ。肌が青く、腕が人間の二倍くらいある。魚人空手の使い手で、海中での活動なら俺たち全員を合わせても敵わない。

 

「ガロ、船底の損傷を確認してくれ。穴が開いてたら塞げる範囲で塞いでくれ。あと船へ縄を取り付けろ。港まで引っ張る」

 

ガロは黙って頷き、海へ潛った。水飛沫すら上げない。魚人ってすごいな。前世のオリンピック水泳選手が亀に見えるレベルだ。

 

いや、亀も泳ぐの速いやつは速いか。比較対象を間違えた。前世のスポーツ界の皆様、すみません。

 

俺は防波堤の先端に立った。海風が顔に当たる。湿っている。潮の匂いが濃い。この海域の気流を読む。北西からの風。東への潮。船は北西から東へ流されている。これを南西へ曲げないかん。つまり、船の帆に南からの風を当てて、進路を港の方へ振る。

 

……理屈は分かる。理屈は。

 

でも、大型船の帆に風を当てるって、どういう力加減なんや。俺の能力はまだ未完成だ。風を出すことはできる。でも大型船を動かすだけの風を、正確に、持続的に、しかも船を転覆させずに出す。

 

無理やないか?

 

俺の能力に「風量・弱・中・強」のつまみを付けてくれ。せめて取扱説明書だけでも。悪魔の実のメーカーに問い合わせたい。メーカー誰やねん。

 

いや、やるしかない。

 

俺は両手を前に出した。掌から風を送る。湿った空気を集めて、圧縮して、方向を決めて、放つ。

 

風が帆に当たった。船がぐらりと揺れた。

 

「強すぎ! 風弱めろ!」

 

ミラが叫んだ。俺の耳はミラの指示がなくても聞こえる程度には成長しているが、正直、指示があったほうが助かる。俺の感覚はまだ曖昧だ。風を弱める。

 

「今度は弱い! 船が戻る! もう少し強く!」

 

強くする。船がまた揺れる。

 

「ちょっと強い! 半分!」

 

半分ってどのくらいやねん。俺の風にメモリついとらんのやけど。

 

「微風」「そよ風」「そこそこ」の三段階しかないんやぞ。しかも全部、俺の気分で変わる。最悪の空調設備や。

 

「ガルド! 帆の左側だけに当てろ! 右側に当てると船が傾く!」

 

左側だけ。風を絞って方向を変える。風は一つの塊じゃなくて、細かい流れの集合体だ。その中の一本だけを残して、他を消す。集中力が要る。額に汗が滲む。

 

「……ええ。それで維持しろ」

 

「了解! あと俺の能力に目盛り付ける方法、後で考えて!」

 

「そんなもんより集中せえ!」

 

はい。技術開発部への要望、却下。

 

ミラの声が少し落ち着いた。

 

俺は風を送り続けた。三分、五分、十分。船がゆっくりと港の方へ向きを変えていく。岩礁を避ける進路に乗った。

 

「ガロが縄を取り付けた! 引っ張るぞ!」

 

ダグの声が聞こえた。ガロが海中から出て、港の団員に合図を送っている。太い縄が船の舳先と港を繋いでいる。団員たちが総出で縄を引く。俺は風を送り続ける。腕が震えてきた。集中力が切れかけている。あと少しだけ。

 

船が港の入り口に入った。風を止めた。

 

「……はあ、はあ……」

 

膝が折れそうになった。疲労が一気に来る。大型船一隻の進路を補助するだけでも、こんなに疲れる。大規模な天候操作なんて、まだまだできん。

 

「ガルド、休むな。船を接岸させる」

 

ダグが容赦ない。

 

右腕を自称する男は、左腕どころか両腕が限界の俺に容赦しない。労働基準監督署はどこや。

 

「ちょっと休ませてくれや……」

 

「右腕として言わせてもらう。今は働け!」

 

「お前を右腕にした覚えはない!」

 

「ほな今ここで任命してくれ!」

 

「人事面談を接岸作業中に始めんな!」

 

「休むのは接岸してからや。お前が休んだら風が止まって船が流れる」

 

もう止まったやろ。いや、接岸するまでまだ風が必要か。そうか。

 

俺は歯を食い縛って、もう一度風を送った。今度は微風。船を港の桟橋へゆっくりと押し付ける程度の風。

 

船が桟橋に当たった。木と木が軋む音がした。縄が張られる。固定された。

 

「接岸完了!」

 

ダグの声が響いた。

 

俺は防波堤に座り込んだ。腕が熱い。全身の水分が汗として出ていった気がする。

 

干物になる。人間の干物。港の魚市場に並べたら、たぶん俺が一番でかい。売るなよ。

 

「ガルド、水」

 

ネネが横に来て、水袋を差し出してくれた。十八歳。俺と同い年。小柄で、いつも注射針と麻酔弾の入った鞄を持っている。この人の手当ては正確だ。

 

ただし「ちょっとチクッとするで」の「ちょっと」は信用していない。前回は俺の悲鳴が島の反対側まで届いた。俺より大人だ。たぶん俺よりどの年齢でも大人だ。

 

「……ありがとう」

 

「飲んだらすぐ来て。船の中に負傷者がいるかもしれん」

 

「分かっとる」

 

水を飲んだ。冷たい。生き返る。

 

命の水や。さっきまで嵐を操っていた男が、水袋一本で感動している。能力者の威厳とは。

 

---

 

船は、静かだった。

 

大きすぎる静けさだった。

 

通常、政府船が港へ接岸すれば、海兵や船員が甲板に出てくるはずだ。降りてくるはずだ。誰かが声をかけてくるはずだ。

 

誰も出てこない。

 

俺はダグ、ネネ、団員二人と一緒に、舷梯を登って甲板へ出た。

 

甲板は、戦場だった。

 

いや、戦場というより戦場の跡地だ。折れた剣が転がっている。切れた縄があちこちに絡まっている。倒れた檻がある。檻の鉄柵が内側から曲げられている。力ずくで開けた跡だ。血痕が点々と続いている。甲板の板に爪痕のようなものが刻まれている。

 

「……何やこれ」

 

「お前の錨よりは片付けにくそうやな」

 

「俺の錨はちゃんと片付けとる!」

 

「昨日、詰所の廊下で三人つまずいたぞ」

 

「……あれは廊下が狭い」

 

違う。錨がデカい。

 

ダグが低く言った。ダグの声が低くなるときは、警戒レベルが最大のときだ。

 

「戦闘の跡や。でも海賊の襲撃とは違う」

 

「どうして」

 

「海賊なら積荷を漁るやろ。でも積荷は手つかずや。酒も食料も武器も、全部ある。戦ったのは積荷のためやない」

 

俺は見聞色を伸ばした。船内の気配を読む。

 

便利な能力や。こういうときだけはな。普段はダグが台所の干し肉をつまみ食いする気配まで拾ってしまう。無駄に高性能な防犯カメラである。

 

船倉に、人がいる。

 

大勢いる。数十人。いや、もっとか。

 

でも気配が弱い。怯えている。飢えている。負傷している。そして、誰も信用していない。見つかることを恐れている。

 

政府船の中に、政府の人間から隠れている者が大勢いる。

 

どういうことや。

 

「ダグ、船倉に人がいる。大勢」

 

「海兵か?」

 

「ちゃう。気配が弱い。怯えとる。民間人……いや、それとも違う。分からん。でも敵意はあるかないかと言われたら、恐怖の方が強い」

 

「政府船に怯えている民間人か。ありえん話やないが……」

 

ダグは顎をしゃくった。

 

「下へ行くぞ。慎重にな。ネネ、後ろについててくれ」

 

「俺が先頭や。右腕として」

 

「右腕は一旦置いとけ。錨も狭い通路で振り回すなよ」

 

「分かっとるわ!」

 

こいつに必要なのは肩書きより収納術や。

 

「分かってる。怪我人がいたらすぐ処置するから、邪魔せんといて」

 

ネネはすでに鞄を開けていた。手際が早い。俺より早い。

 

比較するなと言われそうやけど、俺が鞄を開けると大体中身を全部ぶちまける。手の大きさが悪い。たぶん。

 

俺たちは甲板の端にある階段を降りた。船倉へ続く廊下。暗い。匂いが変わった。潮の匂いに混じって、汗と血と、排洩物と、何か腐ったような匂い。

 

鼻が曲がりそうになった。いや、実際に顔をしかめた。

 

廊下の壁に、爪痕がある。内側から何かが引っ掻いた跡だ。扉には、内側から板が打ち付けられた跡がある。誰かが、外から入ってくる者を拒絶するために、内側から扉を塞いだ。

 

船倉の扉の前に立った。

 

鉄の扉だ。重い。内側から何かが突っ張っている。

 

俺は見聞色で扉の向こう側を読んだ。人がいる。すぐ後ろに。数人。手に何かを持っている。棒、鎖、木片、食器、奪ったと思われる短剣。

 

武器だ。武器を持って、扉の後ろに立っている。

 

戦士じゃない。追い詰められた人間だ。

 

俺は扉を叩いた。

 

一応、力加減には気をつけた。俺のノックは普通にやると建物の解体工事になる。

 

「おるか。俺はこの島の自警団の者や。助けに来た」

 

沈黙。

 

長い沈黙。

 

扉の向こうで、囁き声が聞こえる。複数の声。相談している。でも言葉が通じない。少なくとも俺が話している言葉とは違う言葉が混じっている。

 

「助けに来たって言うとるんや。開けてくれ」

 

また沈黙。

 

それから、鍵が外れる音がした。突っ張り棒が倒れる音。扉が、少しだけ開いた。

 

隙間から、目が見えた。

 

片目だけ。暗い色の目。充血している。怯えている。でも、睨んでいる。逃げるのではなく、戦う準備をしている目だ。

 

その目の持ち主が、扉の隙間から俺を見た。

 

俺の顔が見えた瞬間、目が大きく見開かれた。

 

無理もない。身長四百五十六センチの男が、暗い廊下に立っているのだから。怪物に見えるだろう。

 

ここで「安心してください、味方です」と言っても、たぶん説得力はない。四メートル半の男が暗闇から現れてそれを言うのは、ホラー映画の冒頭や。

 

「……怖がらせたくない。剣は置いとる。見ての通りや」

 

俺は腰の木剣を、ゆっくりと床に置いた。両手を開いて見せた。

 

扉が、もう少し開いた。

 

二人目が見えた。三人目。全員が何かを握っている。折れた棒。鎖。木片。短剣。

 

そして、扉の奥が見えた。

 

俺は、息が止まった。

 

---

 

船倉の中は、地獄だった。

 

言葉を探した。見つからなかった。前世の三十年間と、今世の十八年間で知っているどんな言葉も、目の前の光景に届かなかった。

 

人が、詰め込まれていた。

 

数十人。いや、六十人以上か。狭い船倉に、人がぎゅうぎゅうに詰められていた。座っている。横になっている。壁にもたれている。動けない者もいる。動かない者もいる。

 

痩せている。骨と皮だけの人がいる。肋骨が見えている。目が窪んでいる。頬が削げている。

 

子供がいた。

 

五、六歳くらいの子供が、大人の背中の陰に隠れていた。腕が細い。足が細い。服がぼろぼろで、肌が見えている。肌に、傷がある。古い傷と新しい傷。

 

首に、金属が嵌まっている人がいた。

 

首輪だ。

 

鉄の首輪。錆びている。擦れて皮膚が赤くなっている。爆発の仕掛けがあるやつかもしれない。原作で見たことがある。天竜人の奴隷につけられる首輪だ。

 

焼き印がある人がいた。腕に、背中に、焼き烙印のように刻まれた印。所有の印だ。

 

魚人がいた。青い肌の男が、壁に寄りかかって座っている。足が怪我をしている。動けない。隣に、人魚の少女がいる。尾が布に巻かれている。乾燥している。魚人や人魚は乾燥に弱い。水がない。

 

長手族の老人がいた。腕が普通の人間より長い。その長い腕に、鎖の跡がついている。

 

全員が、俺を見ていた。

 

恐怖。警戒。疑念。でも、その奥に、微かな望みがあるかもしれない。助けてくれるのか。それとも、連れ戻されるのか。

 

俺は知っていた。

 

原作を通じて、この世界に奴隷制度があることを知っていた。天竜人が人間を買い、売り、所有する制度を知っていた。マリージョアで奴隷が飼われていることを知っていた。フィッシャー・タイガーが天敵竜人の聖地を登り、奴隷を解放することも知っていた。

 

知っていた。

 

知っていたはずだった。

 

でも、知識と現実は違った。

 

漫画のページの向こうにあったものが、目の前で呼吸をしている。匂いがする。声がする。目が俺を見ている。

 

知っていたはずのことが、何一つ知らなかったことに思えた。

 

怒りが来た。

 

腹の底から、熱い塊が上がってきた。胸を焼く。喉を焼く。

 

船内の気圧が下がった。俺の能力が反応している。感情に引っ張られている。

 

外で風が強くなった。扉の隙間から風が吹き込む。雲が集まり始めた。船倉の天井に、暗い影が落ちる。遠くで、雷が鳴った。

 

低い、唸るような雷鳴。

 

船倉の隅で、子供が縮み上がった。

 

雷の音に怯えて、頭を抱えて、体を丸めた。

 

俺は、止まった。

 

俺の怒りが、雷を作った。雷が、守るべき子供を怯えさせた。

 

守りたい相手を、自分の怒りで怯えさせてどうする。

 

俺は、深呼吸をした。長く、ゆっくりと。吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 

風が収まった。雲が薄くなった。雷が消えた。

 

船倉の中が、静かになった。

 

子供が、頭を上げた。俺を見ている。

 

俺は、何も言えなかった。

 

何を言えばいい。「大丈夫だ」? 大丈夫じゃない。「助ける」? 助けると言われて、これまでどれだけ裏切られてきたか。「ここは安全だ」? 安全な場所なんて、この世界にあるのか。

 

言葉が見つからなかった。

 

俺は、ただ立っていた。

 

「ネネ」

 

「ネネ」

 

俺の声は低かった。自分でも驚くほど低かった。

 

「うん」

 

「頼む」

 

それだけだった。ネネは頷いて、鞄を開けた。船倉の中へ入っていく。小柄な体が、人々の間を縫って進む。一人一人の顔を見て、怪我の程度を確認していく。

 

「ダグ、バオに連絡してくれ。飯と水を大量に。それと毛布」

 

「分かった」

 

ダグは走っていった。ダグが走る姿は、いつ見ても速い。

 

俺は、船倉の入り口に立っていた。入っていかなかった。俺の体が大きすぎて、中に入れば人々を圧迫する。俺の存在自体が恐怖の原因になるなら、近づかない方がいい。

 

---

 

バオが来た。

 

二十四歳の料理番が、巨大な鍋を担いで甲板に上がってきた。二メートル近い大男が、二本の包丁と一つの大鍋を持っている姿は、戦場に似ている。

 

敵が来たら斬る。腹が減ったら煮る。装備だけで二つの職種を兼任している。でも中身は粥だ。

 

しかも大量。バオの料理は、味より先に鍋の大きさで人を圧倒してくる。今日はその量が頼もしい。大量の粥と、焼いた魚と、水だ。

 

奴隷たちを船から降ろした。

 

ガロが海中から魚人と人魚の負傷者を運んだ。魚人同士だからか、少し警戒が解けた様子だった。でも完全ではない。

 

ミラが船内の記録を調べていた。航海日誌、積荷目録、電伝虫。黙々と確認している。

 

ネネが負傷者を診ている。手際は正確だ。でも、触れられることを嫌がる人がいた。ネネの手が近づくと、悲鳴を上げる人がいた。ネネは手を止めて、待った。無理に触らなかった。

 

「大丈夫や。痛くせえへん。見るだけや」

 

ネネの声は、いつもより柔らかかった。俺はネネがこんな声を出すのを聞いたことがない。

 

子供たちが、食事に近づかなかった。

 

粥と水が目の前にあるのに、手が伸びない。毒を疑っているのか。それとも、食べることを許されてこなかったのか。

 

一人の子供が、粥の椀を両手で握りしめて、胸に抱いた。隠そうとしている。後で食べるために、取っておくために。

 

俺は、その姿を見て、喉が詰まった。

 

何も言えなかった。

 

粥の入った椀を、床に置いた。子供の前に。そして、少し離れた。

 

「取らへんから、好きなだけ食え」

 

それだけ言った。

 

子供は俺を見た。四百五十六センチの男が、わざわざ離れて座っているのを、不思議そうに見た。

 

俺は目を逸らした。見つめられると、俺の方が泣きそうだった。

 

ワカバが、港に来ていた。

 

いつ来たのか分からない。静かに立って、全体を見守っている。自警団団長として、島を守る者として、ただ見ている。

 

俺はワカバの横に立った。

 

「父ちゃん」

 

「見たか」

 

「見た」

 

「……そうか」

 

ワカバは煙草を取り出した。火をつけた。吸った。吐いた。煙が、夕方の空に消えていった。

 

「あいつらは奴隷や」

 

俺は言った。原作の知識と、目の前の現実が、一つに繋がった。

 

「政府が運んどったんや。奴隷として」

 

ワカバは頷いた。

 

「船の記録を見たら、輸送船や。管理下の奴隷を別の場所へ移送するための船やった。途中で嵐に遭って、拘束の一部が壊れた。奴隷たちが反乱を起こして船の一部を制圧した。でも操船できる者が少なくて、食料も薬も尽きて、流されてきた」

 

「政府の人間は」

 

「戦闘で死んだ者と、海へ逃げた者と、小舟で脱出した者がいる。船内に隠れてる者もいるかもしれん」

 

「隠れてる?」

 

「まだ見つかってへん」

 

---

 

見つかった。

 

船の船長室の天井裏から、一人の男が出てきた。

 

世界政府の監督官だ。名前は聞いたが、忘れた。いや、忘れたというより覚えたくなかった。

 

男は島へ降りると、すぐに自分が世界政府の人間であることを言った。そして、声を荒げた。

 

「この船は世界政府の資産だ! 積荷の保全を怠った場合、お前たちは政府に対する反逆罪に問われる!」

 

積荷。

 

積荷って何や。船の中に積まれていたものは何や。

 

人間や。人間が積荷や。

 

「逃亡奴隷の即時拘束を要求する! 反乱を起こした首謀者は処刑または拘束! 首輪を外した者がいれば、即座に元に戻せ! 追撃艦隊が来るまで、監視を続けろ!」

 

男は、俺たちの顔を一人一人見回した。

 

「お前たちは世界政府加盟国の住民だろう。法律では、政府の命令に従う義務がある。逆らえば、この島全体が罪に問われるぞ」

 

制度を盾にしている。法律を盾にしている。島への報復を盾にしている。

 

「お前たちが島を守りたいなら、従え。奴隷を返せ。さもなくば、軍艦が来る。分かっているのか。軍艦だ」

 

俺は、腹の底が熱くなった。

 

また怒りが来た。気圧が下がる。風が強くなる。

 

「ガルド」

 

ワカバの声がした。

 

短い。でも、それだけで止まった。俺の能力が、暴走する前に止まった。

 

ワカバが、前に出た。

 

監督官の前に立った。四百七センチの体が、夕日の中に立っている。影が長い。

 

ワカバは、怒鳴らなかった。声を荒げなかった。煙草を吸うのと同じ調子で、言った。

 

「ここに荷物はない」

 

監督官が、きょとんとした。

 

「荷物がないだと? 船の中に何十人もいるだろう! あれは政府資産だ!」

 

「おるのは、人間だけや」

 

ワカバの声は、静かだった。

 

「人間が、荷物やない。お前らが何と呼ぼうと、ここにおるのは人間や」

 

監督官の顔が赤くなった。

 

「ふざけるな! これは世界政府の正式な命令だ! 加盟国の住民が政府の命令に背けば、島ごと処分されるぞ!」

 

「処分されるか。ほな、されればええ」

 

ワカバは、煙草を揉み消した。

 

「せやけど、返さん。お前らが連れ帰りたいのは、荷物やない。人間や。わしは、人間を荷物として渡すような島にはせん」

 

監督官は、絶句した。それから、顔を歪めて叫んだ。

 

「狂っている! お前は全員を死なせる気か!」

 

ワカバは答えなかった。代わりに、奴隷たちの方へ向き直った。

 

船倉から出てきた人々が、港に座り込んでいる。粥を食べた者。包帯を巻かれた者。まだ警戒している者。動けない者。

 

ワカバは、その人々を見た。

 

そして、尋ねた。

 

「お前らは、どうしたい」

 

静かな声だった。命令ではない。提案ではない。ただ、問うていた。

 

奴隷たちは、互いの顔を見合わせた。

 

一人の男が口を開いた。声が嗄れている。

 

「……故郷へ帰りたい。南の島に家族がいる。もう十年になる」

 

「帰りたいか」

 

「帰れるかどうか分からん。でも帰りたい」

 

別の女が言った。

 

「故郷は、もうない。天竜人の狩りで焼けた。帰る場所がない」

 

「ないか」

 

「ない。でも……どこかで、生きたい。どこでもええ」

 

魚人の男が言った。

 

「海へ出るのが怖い。もう船には乗りたくない。しばらく、陸にいたい」

 

「いたいか」

 

長手族の老人が言った。

 

「どこへ行けばええか分からん。もう二十年捕らえられていた。外の世界が分からん」

 

「分からんか」

 

一人の子供が、小さな声で言った。

 

「お母さんを探したい」

 

ワカバは、一人一人の言葉を聞いた。

 

否定しなかった。否定も肯定もしなかった。ただ聞いた。

 

そして、言った。

 

「まずは休め。食え。寝ろ。怪我を治せ。それから、それぞれが行き先を選べ。選ぶまで、ここにいてええ。無理にどこへも行かせん」

 

奴隷たちは、黙っていた。

 

長い沈黙のあと、一人大きく息を吐いた。それから、もう一人。そして、もう一人。

 

泣き出した者がいた。声を殺して、肩を震わせて、泣いていた。

 

俺は、ワカバの背中を見ていた。

 

助けるとは、相手の代わりに人生を決めることではない。

 

俺は、この瞬間にそれを知った。

 

俺が勝手に「全員をこの島へ住ませる」と決めるのは、奴隷を別の檻に入れるだけだ。本人が選んだ場所へ行けるようにすること。それが、守るということだ。

 

ワカバは、人々の人生を代わりに決めなかった。ただ、選べるようにした。

 

---

 

夜になった。

 

ミラとイヴォ・クレインが船内の記録を調べ終えた。イヴォは二十五歳の男で、外交や諜報を担当している。仕込み杖とワイヤーを持った、細身の男だ。いつも冷静で、感情を見せない。

 

「ガルド、問題がある」

 

「今度は何や。今日の問題、もう受付終了にしてええか」

 

「終了したら島が終わる」

 

「営業時間外対応か……」

 

ミラが、報告を持ってきた。

 

「何や」

 

「船の電伝虫が、救難信号を送っている。反乱の直前か漂流中に、政府側の人間が送った可能性が高い。それに、小舟で脱出した海兵や役人がいれば、追撃艦隊へ直接連絡しているかもしれん」

 

「つまり」

 

「政府が来る。もうすぐ」

 

「もうすぐって、明日の朝までには寝られる?」

 

「寝られるかどうかは、向こうの艦隊に聞いて」

 

敵艦隊に勤務シフトの相談をする日が来るとは思わんかった。

 

俺は立ち上がった。

 

「どんくらいで来る」

 

「信号の内容から、中規模艦隊だとしたら、丸一日以内」

 

丸一日。

 

「ダグ、緊急会議や」

 

「了解。右腕として招集する!」

 

「右腕の件は保留や!」

 

「保留ってことは審査中やな!」

 

「前向きに解釈すな!」

 

自警団の幹部が、詰所に集まった。

 

ダグ、ミラ、ネネ、バオ、ガロ、イヴォ。六人と俺。

 

なおダグは勝手に俺の右隣の席を確保した。席順で既成事実を作るな。

 

意見は割れた。

 

「奴隷を返せば島は助かるかもしれない」

 

「返しても政府が口封じに来たら終わる」

 

「政府と戦えば島全体が危険になる」

 

「船を修理して奴隷たちだけ逃がす案は」

 

「別の島へ隠す案は」

 

「政府役人を人質にする案は」

 

「それ言うた奴、誰や。目が本気やぞ」

 

「冗談や、冗談」

 

冗談にしては縄を用意するのが早い。

 

「自分たちが時間を稼ぐ案は」

 

俺は、全員の話を聞いた。

 

そして、考えた。

 

俺が一人で船に乗って沖へ出る。政府の艦隊を引きつける。島から遠ざける。俺が標的になれば、島は助かるかもしれない。

 

俺は前世で、自分を使い潰すことが責任感だと思っていた。今世でも同じように、自分が犠牲になれば解決すると考えかけていた。

 

「ガルド」

 

ダグの声がした。

 

「何を考えてる」

 

「……別に」

 

「その『別に』は、前世でも上司に仕事を追加される前兆やったな……」

 

「何の話や?」

 

「こっちの話や」

 

「嘘つけ。お前が黙るときはロクなこと考えてないときや」

 

「俺が一人で出れば」

 

「出るってどこへ」

 

「沖や。政府の艦隊を引きつける」

 

ダグがテーブルを叩いた。

 

「アホか。お前一人で艦隊と戦ってどうする。海に落ちたら終わりやぞ。泳げへんのやろ」

 

「泳げへんでも風でなんとか」

 

「なんとかなるわけあるか。大型船一隻の進路を変えるだけでへとへってた奴が、艦隊を一人で相手にできるか」

 

「……できんかもしれん」

 

「かもしれん、やない。まず会議で相談せえ。お前は副長やろ」

 

「右腕の自称者に説教される日が来るとはな……」

 

「自称ちゃう。内定待ちや」

 

「応募書類から出し直せ」

 

「できんやない。絶対にあかん。副長が一人で突出して死んだら、団員はどうする」

 

副長。俺が副長だから。俺が突出して死んだら、団員を指揮する者がいなくなる。

 

俺は、口を閉じた。

 

ワカバが、詰所の隅から立ち上がった。

 

「返したくない者を、無理に差し出す島にはせん」

 

静かな声だった。

 

「それが、この島の決まりや。今日からやない。最初からや」

 

「でも父ちゃん、島が」

 

「島がどうなるかは、この島に住んでる人間が決める。わしが決めるんやない」

 

ワカバは詰所を出ていった。住民たちのいる広場へ向かっていった。

 

---

 

広場で、ワカバは住民に事情を話した。

 

政府船が来たこと。船の中に奴隷がいたこと。政府が追ってくること。奴隷を返せば島は助かるかもしれないが、返さなければ戦争になるかもしれないこと。

 

住民たちは、怖がった。

 

無理もない。この島は小さい。人口三百人。自警団は数十人。政府の艦隊と戦える兵力ではない。

 

「逃げたい」と言う者もいた。

 

「家族を守りたい」と言う者もいた。

 

「奴隷を返せばええやないか」と言う者もいた。その言葉に、周囲が黙った。

 

でも、結局、誰も奴隷を連れ出しには行かなかった。

 

怖かった。でも、怖いのを怖いまま、差し出さなかった。

 

「お前らは、どうしたい」

 

ワカバは住民にも同じことを聞いた。

 

そして、住民たちは、それぞれの怖さを抱えたまま、言った。

 

「……返さへん」

 

「私も、返さん」

 

「怖いけど、返さん」

 

全員が一致したわけじゃない。迷った者もいた。沈黙した者もいた。泣いた者もいた。

 

でも、差し出す者はいなかった。

 

俺は、それを見ていた。

 

怖いのを怖いまま、選ぶ。それが、強さや。

 

ワカバの教えと、島の連中の選択が、俺の中で一つになった。

 

---

 

翌日の夕暮れ。

 

水平線に、軍艦が見えた。

 

三隻。いや、四隻か。

 

こんなときに数を間違えたくない。前世の棚卸しなら後で修正できたが、今回は軍艦が一隻増える。差異報告書で済むか。済むわけない。暗がりで正確には数えられない。でも、見間違いようのない軍艦のシルエットが、夕闇の中に浮かんでいる。

 

「来た」

 

「来た」

 

「右腕、準備完了や」

 

「まだ認めてへん」

 

「生き残ったら認めてくれ」

 

「その交渉、死亡フラグみたいに言うな!」

 

ダグが低く言った。

 

俺は港の防波堤に立っていた。風が強い。海が荒れている。俺の能力が反応しているのか、それとも自然の風か。分からない。

 

軍艦から、電伝虫が通じてきた。

 

「凪岩島の住民に告げる。世界政府の命令に従い、以下の要求に応じよ。一、政府船の即時返還。二、逃亡奴隷の全員引き渡し。三、反乱首謀者の処刑または拘束。四、政府役人の保護。五、自警団責任者の出頭。以上の要求に応じない場合、武力行使を行う」

 

降伏勧告だ。

 

ワカバが、電伝虫を受け取った。

 

「……」

 

ワカバは、名乗らなかった。

 

ただ、言った。

 

「返さん」

 

電伝虫の向こうで、沈黙があった。

 

そして、艦隊の指揮官が、何かに気づいたようだった。

 

「……その声」

 

電伝虫の向こうで、望遠鏡を構える音がした。

 

「その体格……その剣……いや、まさか」

 

長い沈黙。

 

そして、指揮官の声が、震えた。

 

「……“白羊”のワカバか。あの剣豪が、こんな島におったとはな」

 

白羊。

 

聞いたことはある。父ちゃんの昔の異名だ。

 

ただ、相手の声色からすると、俺が思っていたよりだいぶ有名らしい。

 

「父ちゃん。何や、昔の知り合いか?」

 

「知らん。向こうが勝手に知っとるだけやろ」

 

「それ一番怖いやつやん。俺も最近『島の怪物』とか呼ばれとるし、親子そろって風評被害がひどいな」

 

「お前は実際にでかいやろ」

 

「事実でも傷つくことはあるんやぞ!」

 

ワカバは煙草を揉み消した。

 

「ガルド。話す前にやることがある」

 

軍艦の舷側で、砲門が開いた。

 

黒い穴が、島の方を向いている。

 

俺は剣を握った。まだ木剣だ。でも、この木剣で、ここまで来た。

 

風が変わった。

 

俺の風か。自然の風か。もう、区別がつかない。

 

ワカバが、剣に手をかけた。

 

港に、自警団の連中が集まってきている。ダグが並ぶ。ミラが並ぶ。ネネが並ぶ。バオが包丁を握って並ぶ。ガロが前に出る。

 

後ろには、逃亡奴隷たちがいる。

 

怯えている。でも逃げない。

 

この島で、初めて「守る」という言葉の重さを知った人々が、もう一度守られる側に回るのを待っている。

 

俺は、前に立った。

 

四百五十六センチ。十八歳。自警団副長。

 

木剣を握る手が震えている。いや、震えているのは手じゃない。中身や。

 

軍艦の砲門が、火を吐いた。

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