2代目勇者パーティーには勇者が居ない   作:あめざり

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プロローグ的な、番外編的な。
あまり本筋に関わらない上、AIに単発作品書かせるって実験段階の作品な事もあり普通に駄作なんで読まなくてもいい。


第0話 "討伐済み"

 聖剣というのは、思っていたより冷たい。

 

 イゼルヴァは自分の胸を貫いている白銀の刃を見下ろしながら、そんなことを考えていた。

 

 刃は左の鎖骨の下から入り、肩甲骨の間に抜けている。竜鱗に覆われていない人の形をした部分、鱗の継ぎ目を探す必要もないいちばん柔らかい場所を正確に狙われたのだ。

 

 賢い、と思う。この人間たちは、ずっと賢かった。

 

 王都の北、彼女が焼き払った村のさらに北にある黒樫の森の奥まで、彼らは三日三晩イゼルヴァを追い続けた。何度も罠を張られては待ち伏せされ、そのたびに彼女はそれを蹴散らしてきた。竜の爪で盾を裂き、竜の尾で木々を薙ぎ倒し、竜の咆哮で魔導士の障壁を砕いたのである。

 

 それでも彼らは退かなかった。

 

 聖剣を持つ黒髪の青年と、祈りの言葉で傷を塞ぐ白衣の女と、雷を呼ぶ杖を持った小柄な娘、そして大楯を構えて一歩も引かない髭面の大男の四人組だ。

 

 冒険者ギルドの認定はS級、五年前に魔王を討った勇者一行である。

 

 その名をイゼルヴァは彼らが名乗る前から知っていた。焼け落ちた村の生き残りが、勇者様が来てくれる、勇者様がおまえを殺しに来る、と叫んでいたからだ。

 

 来た。

 

 そしていま、勇者の剣が彼女の胸にある。

 

「……終わりだ」

 

 黒髪の青年が荒い息で言う。額から流れている血は、三日前に彼女の爪がかすめた傷がまた開いたものだろう。

 

 イゼルヴァは答えず、代わりに右腕を持ち上げた。

 

 人の女の肩から先が、そこから唐突に竜のものへと変わっている腕だ。肘から先は黒曜石のような鱗に覆われ、四本の指の先端にはそれぞれ鉤爪があって、腕一本で馬の首を落とせる。

 

 その腕を青年の首に向けて振り下ろそうとしたが、動かない。腕には光の鎖が絡みついていた。

 

「させません」

 

 聖女と呼ばれていた白衣の女だった。その祈りが金色の鎖となって、イゼルヴァの右腕と左腕と竜の脚と尾を、地面に縫いとめている。

 

 イゼルヴァは鎖を引きちぎろうとしたが、びくともしない。胸の傷から力が流れ出していき、聖剣の刃が彼女の中の何か——魔物の核のようなもの——を焼いていた。

 

 膝が折れる。竜の脚が人の身体の重さを支えきれなくなって黒土の上に崩れ、イゼルヴァは膝をついた。

 

 生まれて初めて。

 

* * *

 

 混竜。

 

 それが彼女という存在の、種族としての名前だ。

 

 遥か昔、まだ人間が歴史を書き始める前のこの大陸では、知能を持つ魔物たちと古き竜たちという二つの勢力が争っていた。千年続いたと言われるその戦争を、人間の学者は「古龍戦役」と呼んでいる。

 

 竜の鱗は刃を弾き、竜の炎は軍勢を焼く。魔物たちは竜に勝てず、だから竜の力を自分たちのものにしようとして、捕らえた竜の血と魔物の肉を混ぜた。

 

 形にならないもの、生まれてすぐ自壊するもの、狂って味方を食い殺すもの。何千という失敗作が生まれては死んでいった。

 

 そしてごく稀に、成功作が生まれる。人の形を基本とし、戦うための部位だけが竜になった個体であり、知能を持ち命令を理解して竜の力を振るう兵器だ。

 

 混竜の戦乙女。

 

 イゼルヴァはその最後の一体だった。少なくとも彼女はそう思っているし、目覚めてから自分以外の混竜を一度も見たことがない。

 

* * *

 

「殺さないのか」

 

 イゼルヴァは人の言葉で言った。混竜は敵の会話を盗み聞いて命令を先読みするために、敵の言葉を理解するよう作られている。

 

 黒髪の青年——勇者が目を見開いた。

 

「……しゃべれるのか」

 

「おまえたちの言葉くらい」

 

 イゼルヴァは胸の剣を見下ろす。

 

「剣を、ひねればいい。それで終わる。なぜ、そうしない」

 

 勇者は答えず、代わりに後ろから声がした。

 

「殺すなって言われてるんだよ」

 

 雷の杖を持った小柄な魔導士の娘だ。赤い髪を乱暴に束ねていて、頬には煤がついている。

 

「ギルドの依頼書、ちゃんと読んだ? 『混竜の戦乙女 討伐 報酬金貨三千枚。ただし生け捕りの場合、報酬三倍』」

 

 娘は杖の先で、イゼルヴァの竜の腕をつついた。

 

「おまえ、素材としてS級なんだよ。古龍戦役の時代の混竜。鱗も、爪も、血も、骨も、ぜんぶ研究院が欲しがってる。死体より、生きてるほうが、長く取れるからね」

 

「ロゼ」

 

 勇者が低い声で咎める。

 

「事実でしょ、ユウト」

 

 魔導士の娘——ロゼは肩をすくめた。

 

「わたしたち、慈善事業やってるんじゃないの。村が焼かれて、兵士が三十人死んで、王様から直々に依頼が来た。殺しても生け捕りにしても、仕事は仕事。だったら、報酬が高いほうがいいでしょ」

 

 勇者——ユウトは何か言いかけて、やめる。

 

 聖女が祈りの言葉を唱え続けているので、金色の鎖はさらに太く重くなっていき、大楯の男は無言のまま腰から太い鉄の枷を取り出していた。

 

 イゼルヴァは目を閉じた。

 

 素材。

 

 生け捕りのほうが、長く取れる。

 

 その言葉を彼女はよく知っている。遥か昔、彼女を作った魔物たちも、捕らえた竜についてまったく同じことを言っていたからだ。

 

* * *

 

 聖剣がゆっくりと引き抜かれると血が噴き出した。人の赤い血と竜の黒い血が混ざり合って、黒土の上に広がる。

 

 聖女がすぐに傷口へ手をかざし、癒しの光のなかで傷はみるみる塞がっていった。

 

 殺さないために。

 

 長く取れるように。

 

 イゼルヴァは自分の傷が治されていくのをぼんやりと眺めていた。痛みが引いていくのと入れ替わりに、別の何かが胸の奥に溜まっていく。

 

 名前のつけられないもの。

 

 大楯の男が鉄の枷を彼女の竜の腕にはめた。重いそれはただの鉄ではなく、表面には魔力を封じる呪文が細かい文字でびっしりと刻まれている。

 

 両腕、両脚、尾の付け根、そして首。

 

 首の枷がはめられたとき、イゼルヴァは自分の中から竜の力が遠ざかっていくのを感じた。鱗は艶を失い、爪がわずかに縮む。

 

 残されたのは人の部分だけ——二十歳前後の、女の身体だった。

 

 大楯の男は、まるで仕留めた鹿を運ぶように彼女を肩へ担ぎ上げる。

 

 その様子を見ていた勇者ユウトとイゼルヴァの目が合った。青年の目には、後ろめたさか迷いか、あるいは憐れみかが揺れている。

 

 イゼルヴァはその目をまっすぐに見返し、そして言った。

 

「次は、とどめを刺せ」

 

 ユウトの顔が強張る。

 

「おまえが刺さなかったとどめを、いつか、わたしが、おまえに刺す」

 

 森の中に夜が落ちてくるころ、勇者一行は捕らえた魔物を担いで王都への帰路についた。

 

 翌朝、冒険者ギルドの掲示板には新しい張り紙が出されている。

 

  【依頼完了】

  混竜の戦乙女 討伐任務

  達成者:勇者ユウト一行(S級)

  状態:生け捕り

  報酬:金貨九千枚

 

 その張り紙の下には、誰かが赤いインクで一言書き添えていた。

 

  ざまあみろ。

 

* * *

 

  【王立魔物研究院 素材査定書】

  登録番号:S-〇〇一

  個体名:混竜の戦乙女(自称「イゼルヴァ」)

  分類:古龍戦役期 魔物・竜 交配種(推定最終世代)

  状態:生体。封印枷五点装着済み。

  査定:

   竜鱗(黒曜種相当)……一枚あたり金貨十二枚。再生周期、約二十日。

   竜爪……一本あたり金貨八十枚。再生未確認。

   竜血……一瓶あたり金貨四十枚。採取上限、週二瓶。

   骨髄、臓器……生体維持のため採取保留。

  総合評価:特級。長期飼育を推奨する。

 

* * *

 

 檻は研究院の地下三階にあった。天井が高く床の冷たい窓のない石造りの部屋である。その中央に置かれた、太い鉄格子で組まれた一辺が大人の背丈の三倍ほどの箱の中に、イゼルヴァはいた。

 

 枷は外されていない。両腕、両脚、尾の付け根、首の五つの鉄の輪が床と壁に打ち込まれた鎖に繋がれていて、その長さは檻の中央から半歩ぶんしか動けないように調整されていた。

 

 座ることも横になることもできるが、立ち上がって檻の端まで歩くことはできない。

 

 最初の十日間、イゼルヴァはほとんど動かなかった。

 

 食事は日に一度、鉄格子の隙間から差し込まれる。牛か豚か、あるいは何か別のものかもわからない生の肉の塊で、イゼルヴァは最初の三日それに手をつけなかった。

 

 四日目に研究員が三人やってきて、彼女の口をこじ開けて肉を喉に押し込んでいった。

 

 五日目からは自分で食べるようになる。抵抗するより、食べたほうが屈辱は少なかったのだ。

 

 最初の採取は十一日目だった。白衣を着た研究員が五人檻の中に入ってきて、うち四人が鎖を巻き上げてイゼルヴァの竜の右腕を床と平行に固定する。

 

 残る一人が取り出したのは、先端が薄く平たいへらのような細い金属の器具だった。

 

 研究員はへらをイゼルヴァの肘の近くの鱗の下に差し込み、そして捻った。

 

 鱗が剥がれる。

 

 痛みは想像していたよりも鋭く、人間の爪を根元から引き抜くようだった。鱗の下の薄い桃色の皮膚が、空気に触れてひりひりと焼ける。

 

 それでもイゼルヴァは声を上げなかった。

 

 研究員が剥がした鱗を布の上に置くと、黒いそれはランプの光を受けて鈍く光った。

 

「一枚目。状態良好」

 

 研究員の一人が帳面に書きつける。

 

 二枚目、三枚目と続いて、十二枚目で研究員たちは手を止めた。

 

「本日はここまで。再生を確認してから、次回の採取量を決める」

 

 彼らは剥がした十二枚の鱗を、まるで宝石を扱うように丁寧に木箱にしまっていく。

 

 イゼルヴァの右腕には、鱗の抜けた跡が十二か所、桃色の斑点のように残った。

 

 研究員たちが出ていって檻の中がまた静かになると、イゼルヴァは自分の右腕を見下ろした。

 

 一枚あたり金貨十二枚で、合わせて百四十四枚になる。

 

 人間の兵士一人の年俸が金貨二十枚ほどだと、どこかで聞いたことがあった。彼女の腕から剥がされた十二枚の鱗は、兵士七人分の一年の命の値段なのだ。

 

 

 

 研究員の中に一人、他と違う者がいた。

 

 十七か十八の若い女で、茶色の髪を短く切って白衣の袖を肘までまくっている。いつも帳面を抱えていて、採取の記録係をしていた。

 

 ほかの研究員たちは檻の中のイゼルヴァを道具か家畜のように扱い、目を合わせることも話しかけることもなく、必要なことだけを互いに言い交わす。

 

 だがその若い女だけはときどきイゼルヴァの顔を見た。見て、何かを言いかけてはやめるのを、何度も繰り返していたのである。

 

 十五日目の夜、その女が帳面と小さなランプを手に一人で地下三階にやってきた。

 

 檻の前に立ってしばらく黙っている女を、イゼルヴァは床に横たわったまま、目だけを動かして見ていた。

 

「……あの」

 

 女が口を開く。

 

「言葉が、わかると、聞きました」

 

 イゼルヴァは答えなかった。

 

「わたし、ミレーユといいます。研究院の、三等記録官です」

 

 女——ミレーユは帳面を胸に抱きしめる。

 

「あなたに、訊きたいことがあって」

 

「訊いて、どうする」

 

 イゼルヴァが言うと、ミレーユはびくりと肩を震わせた。

 

「わたしの答えを、その帳面に書くのか。鱗一枚、金貨十二枚。混竜の証言、一つにつき金貨何枚だ」

 

「ちがいます」

 

 ミレーユは首を振った。

 

「これは、研究院の帳面じゃありません。わたしの、個人の、帳面です」

 

「同じことだ」

 

「ちがいます」

 

 ミレーユはもう一度、今度は少し強く言う。

 

「わたしは、知りたいんです。あなたが、なぜ、あの村を焼いたのか」

 

 イゼルヴァがゆっくりと身体を起こすと、鎖が床の上でじゃらりと鳴った。

 

「ギルドの報告書に、書いてあるだろう」

 

「書いてあります。『混竜の戦乙女、突如として北方のリンデン村を襲撃。村落を焼き払い、村民四十二名死亡。駆けつけた王国兵三十一名を殺害。動機不明。魔物の本能による無差別殺戮と推定される』」

 

 ミレーユはそれを、暗記しているようにすらすらと言ってのけた。

 

「でも、おかしいんです」

 

「何が」

 

「あなたは、リンデン村を焼いたあと、どこにも行っていません。近くの町も、村も、襲っていない。王都の方角に向かってもいない。ただ、北の森に戻って、勇者様たちが来るまで、ずっとそこにいた」

 

 ミレーユが帳面をめくる。

 

「無差別殺戮なら、もっと殺すはずです。あなたの力なら、一週間で、北方の村を全部焼けた。でも、あなたは、一つしか焼かなかった」

 

 イゼルヴァはしばらく黙り、それから言った。

 

「おまえは、研究院の中で、変わり者と呼ばれているだろう」

 

 ミレーユの顔が赤くなる。

 

「……どうして」

 

「わたしを、見ているからだ。他の者は、見ない」

 

 イゼルヴァは自分の右腕の、鱗の抜けた跡を指でなぞった。

 

「知ったところで、何も変わらない。わたしは、ここで、二十日ごとに鱗を剥がされる。爪を抜かれる。血を抜かれる。それが、わたしのその後だ。勇者に負けた魔物の、その後だ」

 

「それでも」

 

 ミレーユが鉄格子に一歩近づく。

 

「それでも、記録には、残ります」

 

 イゼルヴァは女の顔を見た。まだ何も諦めたことがない、世の中には正しい答えがあってそれを探せば見つかると信じている、若い顔だ。

 

 イゼルヴァにはその顔が少しだけ癪に障ったが、同時にほんの少しだけ懐かしくもあった。遥か昔、彼女を作った魔物たちの中にも一人だけそういう顔をした者がいたからだ。

 

「……帳面を開け」

 

 イゼルヴァの言葉に、ミレーユが目を見開いた。

 

「ただし、一つ、条件がある」

 

「なんでしょう」

 

「わたしは、おまえに同情されるために話すのではない。許されるために話すのでもない。あの村の四十二人と、兵士の三十一人は、わたしが殺した。それは、変わらない」

 

「……はい」

 

「おまえが何を知っても、わたしは、おまえの味方にはならない。おまえも、わたしの味方になるな」

 

 ミレーユは少し迷ってから頷く。

 

「わかりました」

 

 イゼルヴァは目を閉じ、そして語り始めた。

 

 五年前、魔王が死んだ日のことから。

 

* * *

 

 目覚めたとき、そこは液体の中だった。

 

 硝子の筒に満たされた緑色に濁ったぬるい液体の中に、イゼルヴァは膝を抱えて浮かんでいる。

 

 培養槽。その言葉を、彼女は生まれる前から知っていた。

 

 硝子の向こうは暗く、石の壁と崩れた天井の隙間から細い光が差し込んでいて、その光の中を埃が舞っていた。

 

 誰もいない。

 

 イゼルヴァが竜の拳で叩くと、硝子は砕けた。

 

 緑の液体と一緒に冷たい石の床へ投げ出された彼女は、咳き込んで肺の中の液体を吐き出し、初めて空気を吸った。

 

 埃と黴と、何か古いものの匂いがする。

 

 周りを見回すと、同じ硝子の筒が何十本も並んでいた。

 

 そのすべてが割れているか、あるいは中の液体が干上がっているかで、筒の底に沈んでいるのは骨や形の崩れた肉の塊、竜の鱗の破片ばかりだ。

 

 イゼルヴァと同じように作られ、同じように眠らされ、そして目覚めることなく死んだ、同胞たちだった。

 

 イゼルヴァは筒の一本一本を確かめて回った。百二十七本のうち、生きていたのは彼女一人である。

 

* * *

 

「どうして、あなただけが、目覚めたんですか」

 

 ミレーユが帳面から顔を上げて訊いた。

 

「わからない」

 

 イゼルヴァは答える。

 

「たぶん、命令の鎖が切れたからだ」

 

「命令の鎖?」

 

「混竜は、命令がなければ、目覚めないように作られている。命令を出すのは、魔物の将。将に命令を出すのは、魔王。上から下へ、鎖のように繋がっている」

 

「その鎖が、五年前に、切れた」

 

 ミレーユが息を呑む。

 

「魔王が、討たれたから」

 

「そうだ。命令が途絶えると、眠りの術も解ける。本来なら、それは、主が死んだときに、混竜が自由に戦えるようにするための仕掛けだった。主の仇を討つために」

 

 イゼルヴァは薄く笑った。

 

「だが、古龍戦役は、とうに終わっていた。竜も、魔物の将も、みんな死んでいた。わたしが目覚めたとき、仇を討つ相手など、どこにもいなかった」

 

「何百年も眠っていたわたしに、命令を出す者は、誰もいなかった」

 

 研究院の地下で、イゼルヴァはミレーユに五年間の話をした。

 

 培養槽の遺跡を出てから、彼女は北の森を彷徨っていたのだという。

 

 命令も目的もない。戦うために作られた混竜には、戦う相手がいなければ何をすればいいのかわからなかった。

 

 獣を狩って食べ、洞窟で眠り、人間の村の近くを通りかかると遠くから眺めてはまた森の奥に戻る。

 

 人間を襲おうとは思わなかった。

 

 人間は敵ではない。混竜が作られた時代に人間はまだ歴史の舞台にいなかったし、彼女の中に刻まれた命令は「竜を殺せ」だけだった。

 

 そして竜は、もういない。

 

 四年間、イゼルヴァはそうやって生きた。何のためでもなく。

 

「寂しかったですか」

 

 ミレーユが訊くと、イゼルヴァはその質問の意味をしばらく考えた。

 

「わからない。寂しい、という言葉は知っている。だが、それが、あの四年間のことなのかどうか、わからない」

 

「……」

 

「ただ、ときどき、声を聞いた」

 

「声?」

 

「竜の声だ」

 

 

 

 最初に聞いたのは、目覚めて四年と少し経った秋の夜のことだ。洞窟の中で眠っていたイゼルヴァは、胸の奥がひどく痛むのを感じて目を覚ました。

 

 それは痛みではなく、呼び声だった。

 

 混竜の身体の中を流れる竜の血は、遠く離れていても他の竜の声を聞く。

 

 南から聞こえてくる声は弱々しく途切れ途切れで、そしてひどく苦しそうだった。

 

 イゼルヴァは洞窟を出て、声を辿って南へ向かった。三日歩いて森を抜け丘を越え、そして人間の村の近くに出る。

 

 リンデン村。

 

 王都から馬で二日ほど北にある小さな村で、麦畑と羊の放牧地と三十軒ほどの石造りの家があり、その中央に古い教会が建っていた。

 

 声は、その教会の地下から聞こえている。

 

 

 

「竜が、いたんですか」

 

 ミレーユの声が震えていた。

 

「リンデン村に?」

 

「いた」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「若い竜だった。古龍戦役の生き残りではない。戦役が終わったあと、どこかに隠れていた竜の、最後の子どもだろう。まだ、翼も満足に開けない、幼い竜」

 

「それが、教会の地下の、石の部屋に、鎖で繋がれていた」

 

 ミレーユの手が止まる。

 

「……鎖で」

 

「首と、四本の脚と、翼の付け根に、鉄の杭が打ち込まれていた。身動きができないように。そして、腹と、首筋と、翼の膜に、細い管が何本も刺さっていた」

 

 イゼルヴァは自分の腕の、鱗の抜けた跡を見下ろした。

 

「管の先には、瓶があった。竜の血が、そこに、少しずつ、溜まっていた」

 

「竜血薬」

 

 ミレーユが掠れた声で言う。

 

「……王都で、売られてる。万病に効く霊薬だって。貴族しか買えないくらい高いけど、どこで作られてるのかは、誰も知らない。北のどこかの修道院で、古い製法で作られてるって、噂だけ」

 

「製法は、簡単だ」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「竜を捕まえて、繋いで、血を抜く。死なない程度に。長く取れるように」

 

 地下三階の石の部屋が静まり返り、ミレーユは帳面の上でペンを握りしめたまま、動けなくなっていた。

 

---

 

 イゼルヴァは夜のうちに教会の地下へ忍び込んだ。幼い竜は彼女を見て怯え、鎖の中で身をよじってか細く鳴く。

 

 イゼルヴァの中の竜の血が、その声に応えた。

 

 竜の血を持ちながら竜を殺すために、混竜は作られている。

 

 だがその夜、イゼルヴァの中で何かが命令に逆らった。

 

 彼女は幼い竜の鎖に手をかけ、外そうとした。

 

 そのとき、幼い竜が竜の言葉で言った。混竜の耳には、それが聞き取れるのだ。

 

 ——もう、いい。

 

 イゼルヴァは手を止めた。

 

 ——翼の骨が、もう、くっついてしまった。鎖を外しても、飛べない。脚も、腐っている。

 

 ——四年。四年、ここにいた。

 

 幼い竜の目がイゼルヴァを見上げる。

 

 ——おまえは、竜の匂いがする。でも、竜じゃない。

 

 ——竜を殺すものの、匂いがする。

 

「……そうだ」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「わたしは、竜を殺すために作られた」

 

 ——なら、殺して。

 

 幼い竜は首を差し出した。

 

 ——ここで、血を抜かれ続けて、死ぬのは、いやだ。

 

 ——せめて、竜の血を持つものに、殺されたい。

 

「わたしは、竜を殺した」

 

 イゼルヴァはミレーユに言った。

 

「混竜が、生まれて初めて、命令どおりのことをした。竜を殺せ。何百年も前に刻まれた命令を、ようやく果たした」

 

「……」

 

「それから、教会を焼いた」

 

 イゼルヴァの声は平坦だった。

 

「竜の身体を、人間に渡したくなかった。骨も、鱗も、残った血も。人間は、死んだ竜からも、取れるものを取るだろう。だから、焼いた。竜の炎で。骨まで灰になるように」

 

「教会の火が、村に燃え移った」

 

「わたしは、それを、止めなかった」

 

 ミレーユが顔を上げる。

 

「止められなかったんですか。それとも、止めなかったんですか」

 

 イゼルヴァは若い記録官の目を、まっすぐに見た。

 

「止めなかった」

 

 彼女は言った。

 

「あの村の人間は、四年間、竜の血を抜き続けた。全員が知っていたかどうかは、知らない。知らなかった者もいたかもしれない。子どももいた」

 

「それでも、わたしは、止めなかった」

 

「燃えろ、と思った」

 

 ミレーユは何も言わない。

 

「それから、兵士が来た。王都の兵ではない。村を治める領主の私兵だ。三十一人。彼らは、燃える教会を見て、真っ先に地下へ走った。竜を救うためではない。竜血の瓶を、運び出すために」

 

「わたしは、全員を殺した」

 

「一人残らず」

 

 イゼルヴァは目を閉じた。

 

「だから、ギルドの報告書は、半分は正しい。わたしは、村を焼き、四十二人を死なせ、兵士を三十一人殺した。動機不明、と書いてあるが、動機を知ったところで、死んだ者の数は変わらない」

 

「わたしは、魔物だ。人を殺した魔物だ。勇者に討たれて当然の」

 

「それだけのことだ」

 

 ランプの炎が小さく揺れるなか、ミレーユは長い間帳面を見つめていた。やがて彼女は、震える声で言う。

 

「……領主は、誰ですか」

 

「知らない。人間の名前は、覚えていない」

 

「リンデン村の領主は、ハーゲン伯爵です」

 

 ミレーユは言った。

 

「伯爵は、あの事件のあと、王に直訴しました。混竜の戦乙女は、魔王以来の脅威だと。すぐにS級討伐依頼を出すべきだと。ギルドの認定も、伯爵の強い働きかけで、異例の速さで決まった、と聞いています」

 

「……そうか」

 

「そして、この研究院の最大の出資者の一人が、ハーゲン伯爵です」

 

 イゼルヴァが目を開けると、ミレーユが泣きそうな顔で鉄格子の向こうから彼女を見ていた。

 

「あなたの鱗は、伯爵家の商会を通して、売られます」

 

 イゼルヴァはしばらく黙っていたが、それから声を立てて笑った。地下三階の石の壁に、乾いた笑い声が反響する。

 

「そうか」

 

 イゼルヴァは笑いながら言った。

 

「竜の代わりに、わたしが、繋がれたのか」

 

 ミレーユは何も言えずにいる。

 

「よくできた話だ」

 

 やがて、イゼルヴァの笑い声が途切れた。

 

「わたしを作った魔物たちも、きっと、同じことを言うだろう」

 

* * *

 

 討伐から三十日目、王都で「混竜討伐記念祭」が開かれた。

 

 五年前の魔王討伐以来初めてとなる大きな祝祭で、大通りには花が撒かれ、家々の窓からは旗が垂らされ、広場には屋台が並んでいる。吟遊詩人たちはすでに新しい歌を作っていて、それは勇者ユウトが黒き竜の乙女を聖剣で貫く歌だった。

 

 祭りの目玉は凱旋行列だ。先頭を勇者一行が馬で進み、その後ろに王国騎士団が続く。そして行列の最後尾を、六頭の馬に引かれた巨大な檻車が進んでいく。

 

 その檻の中に、イゼルヴァがいた。

 

 

 

 朝、研究院の地下から引き出されたイゼルヴァは、研究員たちに身体を洗われて白い簡素な衣を着せられた。

 

「見栄えがするように」

 

 そう言ったのは研究院の院長で、痩せた白髪の老人だった。

 

「民衆は、恐ろしい魔物を見たがっている。だが、あまりに汚らしいと、勇者様の栄誉に傷がつく。恐ろしく、しかし、美しく。それが、討たれた魔物のあるべき姿だ」

 

 イゼルヴァの竜の腕と脚の鱗は油で磨かれ、鱗を剥がされた跡は黒い顔料を塗って隠された。角のように伸びた頭の突起には金の飾り輪がはめられ、首の枷には青いリボンが結ばれる。

 

 イゼルヴァはされるがままだった。抵抗する理由が、なかったから。

 

 

 

 大通りに出た瞬間、音が彼女を打った。歓声だ。何千、何万という人間の声が、一斉に行列の先頭へ向かって上がっている。

 

「勇者様!」

 

「ユウト様!」

 

「聖女様、こちらを向いて!」

 

 花びらが雨のように降り、子どもたちが父親の肩の上から手を振っていた。

 

 行列が進んで檻車が民衆の前に差しかかると、歓声の質が変わる。どよめき、それから悲鳴、そして怒号。

 

「化け物!」

 

「リンデンの仇!」

 

「殺せ! 殺しちまえ!」

 

 最初に飛んできたのは腐った林檎で、檻の鉄格子に当たって潰れた。次には石が来て、拳ほどの石が鉄格子の隙間から飛び込み、イゼルヴァの肩に当たる。また石が飛び、今度は人の頬に当たって血が滲んだ。

 

 騎士たちは止めなかった。止める素振りを見せただけで、実際には民衆が檻に石を投げるのを黙って見ていたのだ。

 

 イゼルヴァは動かず、目を閉じることもしないで、石を投げる人間たちの顔を一つずつ見ていた。怒っている顔、怯えている顔、楽しんでいる顔、何も考えていない顔。

 

 そしてその中に一つ、違う顔があった。

 

 大通りの端の人垣の後ろに、女が一人立っている。三十代くらいの痩せた女で、粗末な喪服を着ていた。女は石を投げてもいなければ、叫んでもいない。ただ檻の中のイゼルヴァをじっと見ていて、その腕には小さな木彫りの人形を抱いていた。子どもの玩具で、焼け焦げて半分黒くなっている。

 

 イゼルヴァはその人形を見て、それから女の目を見た。女のほうも、イゼルヴァの目を見ていた。

 

 憎しみ、ではない。それよりももっと深いもの、空っぽになった場所に何も入れるものがなくて、ただ虚ろに開いている穴のような目だった。

 

 檻車はゆっくりと女の前を通り過ぎていく。イゼルヴァは振り返らなかったが、その女の目はいつまでも背中に張りついていた。

 

* * *

 

 行列の先頭で、勇者ユウトは民衆に手を振っていた。五年前と同じように。

 

 五年前、魔王を討って王都に戻ったときも、同じ大通りを同じように馬で進んだものだ。花びらが降り、歓声が上がり、子どもたちが手を振る。あのときユウトは、心の底から嬉しかった。

 

 十七歳で見知らぬ世界に召喚され、王に「勇者」と呼ばれ、聖剣を渡されて魔王を倒せと命じられた。何もわからないまま剣を振り、仲間を得て旅をし、戦って、戦って、そして勝ったのだ。人々は自分を讃え、自分は正しいことをしたのだと思った。

 

 いまユウトは同じ大通りを進みながら、背後から聞こえてくる怒号と、石が鉄格子に当たる音を聞いている。

 

「……ユウト」

 

 隣の馬上で、聖女セシリアが小さな声で言った。

 

「顔が、強張っていますよ」

 

「……ああ」

 

「笑ってください。民は、勇者の笑顔を見に来ているのです」

 

 ユウトは口の端を持ち上げたが、自分でもうまく笑えていないのがわかる。

 

 反対側の馬上では、魔導士のロゼが上機嫌で民衆に投げキッスをしていた。

 

「いやー、いい気分! ねえユウト、この祭りのあと、王様から直々に褒賞があるって。領地もらえるかもよ、領地」

 

「ロゼ」

 

「なによ」

 

「後ろ、見たか」

 

 ロゼはちらりと振り返った。檻車には、また石が飛んでいる。

 

「見たけど。それが?」

 

「……いや」

 

 ロゼは肩をすくめた。

 

「ユウト、また考えすぎてる。あいつは、村を焼いて、兵隊を三十人殺した魔物だよ。石くらい当てられて当然じゃん」

 

「わかってる」

 

「わかってないでしょ」

 

 ロゼは手綱を引いて、馬を少しユウトに寄せた。

 

「あのね。わたしたちは、魔物を倒して、依頼を完了して、報酬をもらった。それで終わり。そのあと魔物がどうなるかは、わたしたちの仕事じゃない」

 

「……」

 

「ユウトは、優しすぎるんだよ。前の世界の、なんだっけ、ニホン? そこじゃ、そういうのが普通だったのかもしれないけど」

 

 ユウトは何も言わない。最後尾の大楯の男ガルドは、終始無言だった。

 

 

 

 その夜、ユウトは一人で研究院の地下三階に降りた。

 

 見張りの研究員に勇者の身分証を見せると、研究員はほとんど直立不動になって鍵を開ける。

 

 檻の中で、イゼルヴァは床に座っていた。白い衣は脱がされて元の粗末な囚人服に戻り、頬には石の当たった痕が青黒く残っている。

 

 イゼルヴァはユウトを見上げたが、驚いた様子はなかった。

 

「とどめを刺しに来たのか」

 

「……ちがう」

 

「では、何をしに来た」

 

 ユウトは鉄格子の前に立ったまま、しばらく何も言えずにいた。

 

「……話がしたかった」

 

「話」

 

「おまえが、なぜ、あの村を焼いたのか」

 

 イゼルヴァはユウトの顔をまじまじと見てから、ふっと息を吐いた。

 

「遅い」

 

「……」

 

「剣を向ける前に、訊けばよかった」

 

 ユウトの拳が握りしめられる。

 

「訊こうとした。最初に会ったとき、おまえは、いきなり襲ってきた」

 

「おまえたちは、村を焼いた魔物を殺しに来た。わたしは、それを知っていた。殺しに来る者に、事情を話す魔物がいるか」

 

「……」

 

「わたしは、魔物だ。おまえは、勇者だ。勇者が魔物を殺す。それは、この世界で、いちばん正しい物語の形だ。わたしが事情を話したところで、その形は変わらなかった」

 

 ユウトは鉄格子を握った。

 

「それでも、知りたい」

 

「なぜ」

 

「……わからない。でも、知らないまま、この祭りの主役にはなれない」

 

 イゼルヴァはしばらく黙っていたが、やがて言った。

 

「おまえの良心を慰めるために、わたしが話す理由はない」

 

 ユウトの顔が歪んだ。

 

「おまえが知りたいなら、自分で調べろ。三等記録官のミレーユという娘が、帳面を持っている。あの娘は、自分の目で見て、自分の耳で聞いた。おまえも、そうしろ」

 

「勇者なら」

 

 

 

 その夜ユウトは、研究院の片隅にある狭い記録室で、蝋燭の火の下、ミレーユの帳面を読んだ。

 

 培養槽の遺跡のこと、百二十七本の硝子の筒のこと、四年間の彷徨のこと。そしてリンデン村の教会の地下のこと、鎖で繋がれた幼い竜のこと、竜血薬のこと、ハーゲン伯爵のこと。

 

 最後のページを読み終えたとき、ユウトは長い間動けなかった。記録室の入口には、ミレーユが立っている。

 

「……信じますか」

 

 ミレーユは訊いた。

 

「魔物の言うことを」

 

 ユウトは帳面を閉じた。

 

「……わからない」

 

 正直に、そう言った。

 

「でも、嘘をつく理由が、あいつには、ない」

 

 ミレーユは頷いた。

 

「あの人は、自分が許されたいとは、一言も言いませんでした。四十二人と三十一人は、自分が殺した。それは変わらない、って。それだけ、何度も言いました」

 

 ユウトは目を閉じて、聖剣をあの女の胸に突き立てたときの感触を思い出していた。冷たくて重くて、そして、正しいと思っていたのだ。

 

「勇者様」

 

 ミレーユが言った。

 

「一つだけ、お伝えしておきたいことがあります」

 

「……何だ」

 

「来月、研究院と王宮が、あの人の処遇を正式に決めるそうです」

 

 ミレーユの声が低くなる。

 

「案は、二つ出ています」

 

「一つは、このまま、素材として飼い続ける。鱗が再生しなくなったら、骨と臓器を取って、処分する」

 

「もう一つは」

 

 ミレーユはユウトを見た。

 

「従魔契約です。あの人を、勇者様の従魔にする」

## 第五章 従魔という鎖

 

 従魔契約という言葉を、イゼルヴァは知らなかった。説明してくれたのはミレーユだ。

 

「魔物を、人の支配下に置く術です。冒険者の中には、倒した魔物と契約して、戦いに使う者がいます。狼や、鷲や、小型の竜種なんかを」

 

 ミレーユは帳面に図を描いた。円の中に、複雑な紋様。

 

「隷属紋、と呼ばれる刻印を、魔物の身体に刻みます。紋様は、魔物の魂の核に根を張って、主の命令に逆らえないようにする。逆らおうとすると、紋が焼けるような痛みを与える。それでも逆らい続ければ、核が壊れて、死にます」

 

「……普通、従魔契約は、魔物が弱っているときにしか結べません。力の強い魔物は、紋を弾いてしまうから。でも」

 

 ミレーユはイゼルヴァの首の枷を見た。

 

「その枷で、あなたの力は、ほとんど封じられている。いまなら、紋を刻める」

 

「そして、勇者と契約させる」

 

「はい」

 

 ミレーユは帳面を閉じた。

 

「王宮の考えは、こうです。魔王が死んで五年経っても、東の国境には、まだ魔族の残党がいる。辺境では、魔物の群れが村を襲っている。勇者様が一人で対処するには限界がある。でも、S級の混竜を従魔にすれば、勇者様の戦力は倍以上になる」

 

「それに」

 

 ミレーユは少し声を落とす。

 

「民衆にとっても、わかりやすいんです。魔王以来の脅威とされた魔物が、勇者様に屈服して、勇者様のために戦う。それは、勇者様の栄光を、もっと大きくする」

 

「物語として、よくできている」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「……はい」

 

「ハーゲン伯爵は、どちらを推している」

 

「素材として飼い続けるほうです。伯爵家の商会にとって、あなたの鱗は、竜血薬の代わりになる。竜血薬の出所が失われた今、あなたは、伯爵にとって、代わりの金脈です」

 

「では、従魔契約を推しているのは」

 

 ミレーユは言いよどみ、イゼルヴァは答えを待たなかった。

 

「勇者か」

 

「……はい」

 

 

 

 勇者ユウトが再び地下三階に降りてきたのはその三日後のことで、今度はミレーユも一緒だった。

 

 ユウトは鉄格子の前に立ち、しばらく黙っていた。

 

「……帳面を、読んだ」

 

 イゼルヴァは答えない。

 

「竜のことも。伯爵のことも」

 

「それで」

 

「王に、伯爵のことを話した。竜血薬の件を調べてほしいと」

 

「それで」

 

 ユウトの顔が曇った。

 

「……王は、証拠がないと言った。リンデン村の教会は、焼けてしまった。地下に竜がいたという証拠は、何もない。魔物の証言だけでは、伯爵を罰することはできない、と」

 

「当然だ」

 

「当然じゃない」

 

 ユウトは鉄格子を握りしめた。

 

「おまえは、嘘をついていない。ミレーユも、そう思っている。俺も、そう思う。なのに、誰も」

 

「勇者」

 

 イゼルヴァがユウトの言葉を遮る。

 

「おまえは、何を期待していた」

 

「……」

 

「魔物の言葉を、人間の王が信じると思ったか。竜を殺した魔物の言葉を。村を焼いた魔物の言葉を。貴族を罰するために」

 

「わたしが人間の王でも、信じない」

 

 ユウトは何も言い返せず、しばらく沈黙が続いた。やがてユウトは顔を上げる。

 

「従魔契約の話を、聞いたか」

 

「聞いた」

 

「俺は、それを、王に進言した」

 

「知っている」

 

 ユウトは鉄格子に顔を近づけた。

 

「このままここにいれば、おまえは、鱗を剥がされ続けて、爪を抜かれ続けて、いつか、骨と内臓を取られて、殺される。伯爵の金儲けのために。竜と同じように」

 

「……」

 

「でも、俺の従魔になれば、ここから出られる。俺が、おまえを守れる。伯爵にも、研究院にも、手出しさせない」

 

「おまえは、俺と一緒に旅をする。魔族の残党と戦う。それは、おまえにとっても、悪い話じゃないはずだ。混竜は、戦うために作られたんだろう。命令がなくて、四年間、何をしていいかわからなかったって、帳面に書いてあった」

 

 ユウトの声は真剣だった。

 

「俺が、おまえに、戦う理由をやれる」

 

 イゼルヴァはしばらくユウトの顔を見ていた。真剣で善意に満ちた、自分は正しいことをしようとしていると疑っていない顔。

 

 イゼルヴァはゆっくりと立ち上がった。鎖が床の上で、じゃらりと鳴る。

 

 半歩。それが鎖の許す限界で、イゼルヴァはその限界までユウトに近づいた。鉄格子を挟んで、二人の顔は腕一本分の距離まで近づいている。

 

「勇者」

 

「……なんだ」

 

「わたしは、何のために作られたと思う」

 

「……戦うため」

 

「ちがう」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「従うためだ」

 

 ユウトの目が揺れた。

 

「混竜は、命令に従うために作られた。竜の力を持ちながら、竜のように自由ではなく。魔物の将の命令に従い、魔王の命令に従い、竜を殺せと言われれば竜を殺し、死ねと言われれば死ぬ。そのために、わたしたちは、何百年も、硝子の筒の中で眠らされていた」

 

「百二十七本の筒の中で、目覚めたのは、わたしだけだった。命令の鎖が切れたから、目覚めた」

 

「わたしは、五年前、初めて、誰の命令も聞かなくてよくなった」

 

「四年間、何をしていいかわからなかった。それは、本当だ。だが、それは、わたしが初めて手に入れた、わたしだけのものだった」

 

「そして、わたしは、自分で決めた。竜を殺すと。教会を焼くと。村の火を止めないと。兵士を殺すと」

 

「それは、間違っていたかもしれない。おまえたちの言葉で言えば、悪だったかもしれない」

 

「だが、それは、誰の命令でもなかった」

 

 イゼルヴァはユウトの目を、まっすぐに見た。

 

「おまえは、その鎖を、もう一度、わたしにかけると言う」

 

「ちがう、俺は——」

 

「隷属紋。主の命令に逆らえない。逆らえば、核が焼ける」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「リンデン村の地下で、竜は、首と、脚と、翼に、鉄の杭を打たれていた。おまえが刻もうとしている紋は、あれとどこが違う」

 

「……」

 

「杭が、目に見えないだけだ」

 

 ユウトの顔から血の気が引いていく。

 

「俺は、おまえを、守りたいだけで」

 

「守りたいのは、わたしではない」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「おまえ自身だ」

 

「……」

 

「おまえは、わたしの胸に剣を突き立てた。それが正しいと思っていた。だが、帳面を読んで、わからなくなった。自分が討った魔物が、ただの悪ではなかったかもしれないと知って、落ち着かなくなった」

 

「だから、わたしを救いたい。わたしを救えば、おまえの物語は、また正しい形に戻る。勇者は、悪い魔物を倒した。そして、その魔物にも、慈悲をかけた。なんと立派な勇者だろう」

 

「わたしは、おまえの物語の、飾りではない」

 

 地下三階が静まり返り、ユウトの後ろではミレーユが息を殺していた。

 

 ユウトは鉄格子から手を離して、一歩後ずさる。

 

「……それでも」

 

 ユウトは掠れた声で言った。

 

「それでも、ここで、鱗を剥がされて死ぬよりは」

 

「それを決めるのは、おまえではない」

 

 イゼルヴァは床に座り直した。

 

「わたしは、おまえの従魔にはならない。ここで鱗を剥がされて死ぬほうが、まだいい。少なくとも、ここでは、わたしの心までは、誰のものにもならない」

 

「話は、終わりだ」

 

 

 

 ユウトが去ったあとも、ミレーユはしばらく檻の前に残っていた。

 

「……あの人、本当に、あなたを助けたいんだと思います」

 

「知っている」

 

「悪い人じゃないです」

 

「知っている」

 

 イゼルヴァは目を閉じた。

 

「悪い人間ではないから、始末に負えない」

 

 ミレーユは何も言わなかった。しばらくしてから、若い記録官は小さな声で口を開く。

 

「王宮は、あなたの同意がなくても、契約を結べるそうです。隷属紋は、敗北した魔物の魂に刻むもので、本人の同意は要らないから」

 

「そうだろうな」

 

「契約の儀式は、十日後。王宮の礼拝堂で行われます。勇者様と、聖女様と、研究院の院長と、それから、王族と、主だった貴族が、立ち会います」

 

「ハーゲン伯爵も?」

 

「……はい。研究院の出資者として」

 

 イゼルヴァは目を開けた。

 

「そうか」

 

 それだけ言ったその声の響きに、ミレーユは何か冷たいものを感じて、思わず一歩下がった。

 

「イゼルヴァさん」

 

「何だ」

 

「……何を、考えていますか」

 

 イゼルヴァは若い記録官を見た。

 

「おまえは、わたしの味方になるなと、わたしは言った」

 

「……はい」

 

「だから、答えない」

 

 ミレーユは長い間黙っていたが、やがて帳面を開いて何かを書きつけ、書き終えると最後のページを破り取って小さく折りたたんだ。

 

「これは、研究院の記録ではありません」

 

 ミレーユは言った。

 

「わたしが、個人的に、調べたことです」

 

 ミレーユは折りたたんだ紙を、鉄格子の隙間から床に落とした。イゼルヴァはそれを拾わない。

 

「味方になるな、と言ったはずだ」

 

「味方じゃありません」

 

 ミレーユは言った。

 

「記録官は、記録するだけです。記録したものを、どこに置くかは、記録官が決めます」

 

 ミレーユが踵を返すと、石段を上っていく足音が遠ざかっていった。

 

 イゼルヴァはしばらく床の上の紙を見つめていたが、やがて竜の指でそれを拾い上げた。広げてみると、細かい字でこう書いてある。

 

  隷属紋の刻印は、魔物の魂の核ではなく、まず、その魔物の「最も魔力の濃い部位」に刻まれる。紋はそこから根を伸ばし、七日かけて核に達する。

  混竜の場合、最も魔力の濃い部位は、竜化した四肢のうち、利き腕であると推定される。

  刻印から七日以内に、紋を刻まれた部位を身体から切り離せば、紋は核に達しない。

  ただし、切り離された部位は、再生しない。

 

 イゼルヴァは紙を、竜の炎の残り火で灰にした。枷に封じられていても、紙一枚を燃やすくらいの熱は指先に残っていたのだ。灰が石の床に散る。

 

 イゼルヴァは自分の右腕を見下ろした。黒曜石のような鱗に覆われた、竜の腕。利き腕。

 

 彼女はその腕を、長い間見つめていた。

 

* * *

 

 王宮の礼拝堂は白い石と金の装飾でできていて、高い天井の色硝子の窓から差し込む光が、床に青や赤の模様を落としている。祭壇の上に掲げられているのは、聖環教会の象徴である巨大な銀の輪だ。

 

 その祭壇の前に、イゼルヴァは跪かされていた。五つの枷はまだつけられたままで、枷から伸びる鎖は四人の騎士が一本ずつ握り、首の枷の鎖は大楯のガルドが握っている。

 

 礼拝堂の両側に並ぶ長椅子には王族と貴族たちが座り、絹と宝石で着飾った人々が扇で口元を隠しながら、跪く魔物を眺めていた。

 

 最前列にいたのは、痩せた中年の男だった。

 

 上等な紫の外套に、大粒の紅玉の指輪をはめた指。口髭を整え、穏やかな微笑を浮かべている。

 

 その男の特徴は、以前ミレーユが教えてくれていた。

 

 ハーゲン伯爵。

 

 伯爵はイゼルヴァと目が合うと、にこやかに小さく会釈をした。まるで、市場で品定めを終えた家畜に挨拶するように。

 

 儀式を執り行うのは聖女セシリアで、彼女は祭壇の前に立つと銀の針を手に取った。針の先端には、聖油が塗られている。

 

「勇者ユウト。こちらへ」

 

 進み出た青年の顔は、蒼白だった。跪いたまま見上げるイゼルヴァの目を、ユウトは見ようとしない。

 

「右腕を」

 

 セシリアが言うと騎士たちが鎖を引き、イゼルヴァの竜の右腕が祭壇の前へ水平に引き出された。セシリアはその鱗の上に針を当て、祈りの言葉を唱えながら紋様を刻み始める。

 

 鱗の上を針が走り、焼けるような痛みが腕を駆け上がって、イゼルヴァは歯を食いしばった。

 

 針が走った跡は金色に光っていた。円と線の複雑な紋様が、鱗の表面から鱗の下の肉へ、ゆっくりと沈み込んでいく。

 

 根を張ろうとしているのだ、とイゼルヴァは感じた。

 

 腕の中に何かが入り込んでくる。細い無数の糸のようなものが、肘から二の腕へ、肩へ、そして胸の奥の核に向かって、じりじりと伸びようとしていた。

 

 七日。ミレーユの紙にはそう書いてあった。七日かけて、核に達する。

 

 セシリアが最後の線を刻み終えると、紋が強く光った。

 

「勇者ユウト。この魔物の名を呼び、主として命じなさい」

 

 ユウトはしばらく動かず、礼拝堂の貴族たちがざわめいた。セシリアが低い声で、もう一度言う。

 

「ユウト」

 

 ユウトは目を閉じ、そして開いた。

 

「……イゼルヴァ」

 

 青年の声が礼拝堂に響く。

 

「立て」

 

 右腕の紋が焼けた。

 

 イゼルヴァの身体が勝手に動き、膝が伸びて竜の脚が床を踏みしめ、彼女は立ち上がっていた。自分の意思ではない。

 

 どよめいた礼拝堂に拍手が起こり、ハーゲン伯爵が満足そうに頷いていた。

 

 立ったままイゼルヴァがユウトを見ると、今度はユウトも彼女の目を見ていた。青年の目は、泣き出しそうだ。

 

 イゼルヴァは何も言わず、ただ見ていた。

 

 

 

 契約の日から、イゼルヴァは王宮の敷地の中にある古い石造りの厩舎に移された。かつて王家の軍馬を飼っていた建物で、鉄格子の檻よりは広く、窓もある。

 

 五つの枷のうち、両脚と尾の枷は外された。隷属紋が効いている以上は必要ない、と判断されたらしい。首と両腕の枷は残されたままだ。

 

 ユウトは毎日厩舎を訪れたが、何かを命じることはしなかった。ただ入口に立ってしばらくイゼルヴァを見て、それから何も言わずに帰っていくのだ。

 

 三日目に、ユウトは一言だけ言った。

 

「……すまない」

 

 イゼルヴァは答えなかった。

 

 四日目には、こう言った。

 

「東の国境に、来月、出発する。魔族の残党がいる砦を、攻める」

 

「おまえも、来てもらうことになる」

 

 イゼルヴァは答えない。右腕の紋から伸びる糸は、もう肩まで達していた。

 

 五日目、ユウトは来なかった。代わりに来たのはミレーユだ。

 

「明日の夜、王宮で、晩餐会が開かれます」

 

 ミレーユは早口で言った。

 

「従魔契約の成功を祝う会です。勇者様は、あなたを連れて出席するよう、王に命じられました。貴族たちに、お披露目をするために」

 

「ハーゲン伯爵も、出席します」

 

 それだけ言うと、ミレーユはイゼルヴァの顔を見ずに厩舎を出ていった。

 

 イゼルヴァが窓の外を見ると、夕暮れの空が赤い。右腕の紋から伸びる糸は鎖骨の下を越えて、胸の中へ入り込もうとしていた。

 

 あと、二日。

 

 

 

 晩餐会は王宮の大広間で開かれた。天井からは無数の蝋燭を灯した巨大な燭台が吊るされ、長い食卓には銀の皿と見たこともない料理が並び、楽師たちが弦楽器を奏でている。

 

 イゼルヴァはユウトの背後に立たされていた。首と両腕の枷はそのままで、鎖はガルドが握っている。

 

 貴族たちは入れ替わり立ち替わりユウトのところへ挨拶に来ては、その背後のイゼルヴァを、珍しい獣でも見るように眺めていった。

 

「まあ、本当に角が生えていますのね」

 

「あの爪で、兵士の首を落としたとか」

 

「勇者様に従っているところを見ると、案外、可愛らしいものですな」

 

 イゼルヴァは動かない。ユウトはぎこちなく笑って、挨拶に応えていた。

 

 やがて近づいてきた紫の外套の男は、ハーゲン伯爵だった。

 

「勇者殿。このたびは、おめでとうございます」

 

 伯爵はにこやかに言った。

 

「いや、見事な手腕です。魔王に続き、混竜まで。王国は、勇者殿に、いくら感謝しても足りません」

 

「……ありがとうございます」

 

「ところで」

 

 伯爵は少し声を落とした。

 

「従魔となったあとも、研究院への素材提供は、続けていただけるのでしょうな。鱗の採取は、二十日に一度。爪と血は、月に一度。それが、研究院と王宮の間の、取り決めですから」

 

 ユウトの顔が強張る。

 

「それは——」

 

「ご心配なく。採取は、従魔としての務めに差し支えない範囲で行います。鱗など、いくらでも生えてくるのですから」

 

 伯爵はイゼルヴァのほうを見た。穏やかな微笑。

 

「竜というのは、便利な生き物ですな。取っても、取っても、また生えてくる」

 

 イゼルヴァの右腕の紋が、微かに脈打った。糸の先端が、胸の奥に触れようとしている。核の、すぐ手前まで。

 

「……竜、か」

 

 イゼルヴァが口を開くと、大広間の空気が一瞬、凍りついた。従魔が主の許しなく口をきいたのだ。

 

 ハーゲン伯爵の眉が、わずかに上がる。

 

「ほう。しゃべるのか」

 

「リンデン村の竜も、取っても取っても、生えてきたか」

 

 伯爵の微笑が消えた。ほんの一瞬のことで、それからまた元の微笑に戻る。

 

「何のことかな」

 

「四年間、首と脚と翼に杭を打たれていた竜だ。おまえの私兵は、燃える教会に飛び込んで、竜を救うのではなく、血の瓶を運び出そうとした」

 

 大広間が静まり返り、楽師たちの演奏も止まった。

 

 伯爵はゆっくりとユウトのほうを向いた。

 

「勇者殿。従魔の躾がなっていないようですな。魔物の戯言で、貴族を侮辱させるおつもりか」

 

 ユウトは何も言わない。伯爵の顔に、苛立ちの色が浮かんだ。

 

「勇者殿。命じなさい。黙れ、と」

 

 ユウトがイゼルヴァを見て、イゼルヴァもユウトを見た。青年の唇が震えている。

 

「……イゼルヴァ」

 

 ユウトは言った。

 

「黙——」

 

 その言葉が最後まで発せられる前に、イゼルヴァは左腕を振り上げた。

 

 左腕の枷はまだついていた。だが枷が封じているのは竜の力だけで、竜の爪の鋭さまでは封じていない。

 

 イゼルヴァは自分の左の爪を、自分の右肩に突き立てた。人の肩と竜の腕の、継ぎ目に。

 

 そして、引き裂いた。

 

 大広間に悲鳴が響き渡った。噴き出した人の赤い血と竜の黒い血が混ざり合い、白い大理石の床に広がっていく。

 

 黒曜石の鱗に覆われた竜の右腕が、隷属紋の金色の光を放ちながら床の上に落ちた。紋の光は明滅し、そして消える。

 

 イゼルヴァの胸の奥で、核に触れかけていた糸がぷつりと切れた。同時に右腕の枷が、腕ごと床に転がる。

 

 五つの枷のうち、四つが外れた。残るのは首の枷だけだ。

 

 イゼルヴァは左腕で首の枷を掴んだ。枷の表面に刻まれた封印の文字が焼けるように熱くなったが、構わず握りしめると、竜の爪が鉄に食い込んでいく。

 

 封印の力は、五つの枷が揃っていて初めて完全に働く。四つを失った枷一つでは、混竜の力を抑えきれなかった。

 

 鉄が軋み、砕けた。

 

 大広間の燭台の蝋燭が一斉に揺らめき、イゼルヴァの中に竜の力が戻ってくる。失われた右腕の分だけ欠けてはいたが、それでも十分だった。

 

「ガルド!」

 

 ユウトが叫び、大楯の男が鎖を引こうとしたが、鎖の先にはもう何も繋がっていない。

 

 イゼルヴァはガルドの横をすり抜け、竜の脚で大理石の床を蹴った。一歩で食卓を飛び越え、二歩でハーゲン伯爵の前に立つ。

 

 伯爵は、椅子から立ち上がりかけた姿勢のまま凍りついていた。紫の外套には、イゼルヴァの黒い血が飛び散っている。

 

「ま、待て」

 

 伯爵が言った。

 

「待て。金なら、ある。おまえの望むものを——」

 

 イゼルヴァは、左の爪を振り下ろす。

 

 大広間は混乱の渦に呑まれた。悲鳴を上げて逃げ惑う貴族たちに、ひっくり返る食卓、床に散らばる銀の皿。騎士たちが剣を抜いて駆け込んでくる。

 

「聖なる鎖よ!」

 

 聖女セシリアの祈りが響き、金色の鎖がイゼルヴァに向かって伸びた。イゼルヴァがそれを竜の尾で薙ぎ払うと、鎖は砕けて光の粒になる。

 

「雷よ!」

 

 魔導士ロゼの杖から雷光が走った。横に跳んだイゼルヴァがいた場所の床を、雷光が黒く焦がす。

 

 斬りかかってくる騎士たちの剣を、イゼルヴァは左の爪で弾き、竜の脚で騎士を蹴り飛ばした。一人。二人。三人。騎士たちの鎧が紙のように裂けていく。

 

 混竜は戦うために作られた。命令がなくても、身体がそれを覚えているのだ。

 

 大広間の窓——床から天井まで届く、巨大な色硝子の窓——に向かってイゼルヴァは走ったが、その前に一人の男が立ちはだかった。聖剣を抜いた、勇者ユウトだった。

 

「イゼルヴァ!」

 

 ユウトは叫んだ。

 

「止まれ!」

 

 イゼルヴァは止まらない。ユウトは聖剣を構えたものの、振らなかった。剣先が震えている。

 

 イゼルヴァはユウトの目の前で、一瞬だけ足を止めた。二人の顔が腕一本分の距離まで近づく。檻の鉄格子を挟んだ、あのときと同じ距離。今度は、間に何もなかった。

 

「また、とどめを刺さないのか」

 

 イゼルヴァは言った。

 

 ユウトの顔が歪む。イゼルヴァは左腕で、その胸を突き飛ばした。爪ではなく、掌で。

 

 ユウトの身体が床に転がり、イゼルヴァは色硝子の窓に向かって跳んだ。

 

 硝子が砕け散り、赤と青と金の破片が夜空に舞う。その中を片腕の混竜が、王宮の庭へと落ちていった。

 

* * *

 

 王都の北門を抜けたのは夜半を過ぎてからで、雨が降り始めていた。

 

 イゼルヴァは屋根から屋根へ跳び、城壁の上を駆け、見張りの兵を三人、壁の外へ叩き落とした。北門の上の櫓では鐘が狂ったように鳴らされ、追手の松明が背後の街路に蛇のように連なっている。

 

 城壁を飛び降りると、竜の脚が濡れた土に深くめり込んだ。

 

 右肩の傷からはまだ血が流れていて、人の赤い血と竜の黒い血が、雨に流されて足元に薄く広がっていく。

 

 竜の身体は傷を塞ぐのが速い。だが腕一本を引きちぎった傷は、さすがにすぐには塞がらなかった。

 

 イゼルヴァは北へ走った。麦畑を抜け、放牧地を抜け、雨に顔を叩かれながら丘を越えていくと、夜が白み始めるころ、黒樫の森の縁が見えてくる。

 

 三十日と少し前、勇者一行に追い詰められ、膝をついた森。

 

 その縁で足を止めて振り返ると、丘の上に一騎の影があった。

 

 馬を下りたのは勇者ユウトで、一人だった。

 

 外套は雨に濡れて重く垂れ下がり、黒髪が額に張りついている。腰には聖剣を下げていた。

 

 ユウトは馬の手綱を放し、ゆっくりと丘を下りてくる。イゼルヴァは森の縁に立ったまま、それを待った。

 

 逃げようと思えば逃げられた。森の中なら、馬は追ってこられない。だが、逃げはしなかった。

 

 ユウトが十歩の距離で立ち止まる。

 

「……仲間は」

 

「置いてきた」

 

 ユウトは言った。

 

「セシリアは、怪我人の手当てをしてる。ロゼは、王に報告に行った。ガルドは、俺を止めようとしたけど、振り切った」

 

「一人で来たのか」

 

「一人で来た」

 

 雨の音だけがしばらく、二人の間を満たした。

 

「伯爵を、殺したな」

 

「殺した」

 

「騎士も、四人死んだ。見張りの兵も、二人」

 

「知っている」

 

「……」

 

「後悔しているかと、訊きたいのか」

 

 ユウトは答えない。

 

「していない」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「伯爵を殺したことも。騎士を殺したことも。村を焼いたことも。わたしは、わたしが決めたことを、後悔しない」

 

「それが、正しくなかったとしても」

 

 ユウトは目を伏せた。

 

「……俺は、おまえを、助けたかった」

 

「知っている」

 

「従魔契約が、おまえにとって、ひどいことだったのは、わかった。わかってたのに、進めた。それしか、方法がないと思った」

 

「おまえを、あそこから出すには」

 

 ユウトは顔を上げる。

 

「もう一度、言わせてくれ」

 

 イゼルヴァは黙っていた。

 

「契約は、要らない。紋も、枷も、要らない。俺と一緒に来てくれ。王国からは、俺が守る。ギルドの討伐依頼も、俺が取り下げさせる。勇者の言うことなら、王も、少しは聞く」

 

「東の国境に行こう。魔族の残党と戦う。おまえの力が要る。俺には、おまえが必要だ」

 

「だから——」

 

「勇者」

 

 イゼルヴァはユウトの言葉を遮った。静かな声だった。

 

「おまえは、三度、同じことを言っている」

 

「……」

 

「檻の中で。厩舎で。そして、ここで」

 

「言い方は変わった。鎖が要らなくなった。紋が要らなくなった。だが、中身は同じだ」

 

「おまえと一緒に来い。おまえのために戦え。おまえの物語の中に入れ」

 

 ユウトの顔が歪む。

 

「そういうつもりじゃ——」

 

「そういうつもりでなくても、そういうことだ」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「わたしは、魔物だ。人を殺した。村を焼いた。貴族を殺した。おまえの国の騎士を殺した」

 

「おまえと一緒に行けば、おまえの国の民は、わたしを見て、こう言うだろう。勇者様は、あの恐ろしい魔物さえも、改心させた。勇者様は、なんと慈悲深いのだろう」

 

「そして、リンデン村で子を亡くしたあの女は、それを聞いて、どう思う」

 

 ユウトの肩が震えた。

 

「わたしは、改心などしていない。これからも、しない」

 

「わたしは、あの女に、許されるつもりはない。おまえに、救われるつもりもない」

 

「わたしの罪も、わたしの自由も、わたしのものだ。おまえに、分けてやるつもりはない」

 

 長い沈黙が続き、雨が強くなった

 

 やがてユウトは腰の聖剣に手をかけ、ゆっくりと抜いた。白銀の刃が雨に濡れて、鈍く光る。

 

「……それなら」

 

 ユウトの声は掠れていた。

 

「俺は、勇者として、おまえを討たなきゃならない」

 

「そうだ」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「それが、正しい形だ」

 

「伯爵を殺して、騎士を殺して、逃げた魔物を、見逃すわけにはいかない」

 

「そうだ」

 

「……俺は、おまえを殺したくない」

 

「知っている」

 

 イゼルヴァが左腕を構えると、竜の爪が雨を弾いた。

 

「だが、おまえは、勇者だ。わたしは、魔物だ。おまえが剣を抜いた以上、わたしも、爪を構える」

 

「来い」

 

 ユウトは動かない。剣先が震えていた。

 

 イゼルヴァは一歩踏み込み、竜の脚で泥を蹴って、左の爪をユウトの喉元へ走らせた。

 

 ユウトの身体が反射的に動く。五年間魔王軍と戦い抜いた身体は、考えるより先に剣を動かすのだ。

 

 聖剣が爪を弾き、火花が散った。

 

 イゼルヴァは弾かれた勢いのまま身体を回転させ、竜の尾を振った。跳んで避けたユウトが、着地と同時に聖剣を突き出してくる。

 

 身を捻ったイゼルヴァの脇腹を刃がかすめ、鱗が数枚弾け飛んだ。

 

 雨の中で二人は離れた。息が荒い。イゼルヴァの右肩の傷は、また開いていた。

 

 片腕では勝てない。それは最初からわかっていたことだ。

 

 全盛の力でも、四人がかりの勇者一行に敗れたのだ。片腕を失い傷だらけの今、勇者一人にさえ勝てる見込みは薄い。

 

 だがイゼルヴァは退かず、再び踏み込んだ。今度はユウトも踏み込んできて、爪と剣が交錯する。

 

 イゼルヴァの爪がユウトの左頬を切り裂き、ユウトの剣はイゼルヴァの左の太腿の、鱗の継ぎ目を貫いた。

 

 イゼルヴァは膝をついた。泥の中に、三十日前と同じように。

 

 ユウトは聖剣を構えたまま、イゼルヴァを見下ろしていた。左頬から流れる血が、雨に混じって顎から滴っている。

 

 剣先はイゼルヴァの喉のすぐ前にあった。あと、指一本分。それで終わる。

 

「……とどめを刺せ」

 

 イゼルヴァは言った。

 

 ユウトの剣が震える。

 

「おまえは、三十日前、とどめを刺さなかった。だから、伯爵は死に、騎士は死に、兵は死んだ」

 

「ここで刺さなければ、また、誰かが死ぬかもしれない」

 

「わたしは、そういう魔物だ」

 

 ユウトの目から涙が流れていたが、雨に混じって見分けがつかない。

 

「……なんで」

 

 ユウトは言った。

 

「なんで、そんなこと言うんだ。命乞いでも、すればいいのに」

 

「命乞いをしたら、おまえは、わたしを見逃すだろう」

 

「……」

 

「そして、わたしは、おまえに借りを作る。勇者に命を救われた魔物、という借りを」

 

 イゼルヴァは泥の中からユウトを見上げた。

 

「それは、いやだ」

 

 ユウトが剣を振り上げ、白銀の刃が雨の中で高く掲げられる。イゼルヴァは目を閉じなかった。

 

 刃が振り下ろされた瞬間、イゼルヴァは最後の力で身体を横に投げ出し、刃は彼女がいた場所の泥を深く抉る。

 

 避けた。

 

 避けられた、というべきかもしれない。振り下ろされた剣の速さは、五年間魔王軍と戦い抜いた勇者のものにしては、ほんのわずかに遅かったのだ。

 

 それが迷いなのか、疲れなのか、雨のせいなのか、イゼルヴァにはわからなかった。ユウト自身にも、わからなかっただろう。

 

 イゼルヴァは泥の中を転がり、森の縁の黒樫の根元まで這っていく。剣を泥から引き抜いたユウトが振り返り、二人の目が合った。

 

「……振ったな」

 

 イゼルヴァは言った。

 

「今度は、ちゃんと、殺すつもりで振った」

 

「……」

 

「それでいい」

 

 イゼルヴァは黒樫の幹に左手をついて立ち上がった。太腿の傷からは、血が流れている。

 

「次に会うときも、そうしろ」

 

「次……」

 

「わたしは、おまえの国から、逃げる。ギルドは、また討伐依頼を出す。おまえは、また、わたしを追うことになる」

 

「そのときは、迷うな」

 

 イゼルヴァは森の奥へ、一歩後ずさった。

 

「わたしも、迷わない」

 

「おまえが刺さなかったとどめを、いつか、わたしが、おまえに刺す。その言葉は、取り消さない」

 

 ユウトは何も言えず、雨の中で剣を下げたまま立ち尽くしていた。

 

 イゼルヴァは背を向け、黒樫の森の暗がりの中へ消えていった。片腕を失い、片脚を引きずりながら。

 

 振り返りはしなかった。

 

 

 

 夜が明けるころ、大楯のガルドが馬で丘を越えてくると、森の縁にユウトが一人で座り込んでいた。

 

 聖剣は泥の上に置かれている。左頬に、深い傷が三本。

 

 ガルドは馬を下りてユウトの隣に立ったが、しばらくは何も言わなかった。

 

 やがてガルドは低い声で言った。旅の間じゅうほとんど口をきかなかった男の、珍しい言葉だ。

 

「……逃がしたのか」

 

「逃げられた」

 

 ユウトは言った。

 

「……同じことだ」

 

「ちがう」

 

 ユウトは泥の上の聖剣を見つめた。

 

「俺は、殺すつもりで振った。あいつは、それを避けた。それだけだ」

 

 ガルドはしばらくユウトの横顔を見ていたが、それから泥の上の聖剣を拾い上げ、雨を拭ってユウトに差し出した。

 

「……なら、次は、当てろ」

 

 ユウトは剣を受け取った。

 

 重い。

 

 五年前、初めてこの剣を王から渡されたときよりも、ずっと。

## 終章 討伐済み

 

  【緊急討伐依頼】

  対象:混竜の戦乙女(個体名イゼルヴァ)

  危険度:S級(再認定)

  罪状:ハーゲン伯爵殺害、王宮騎士四名殺害、衛兵二名殺害、従魔契約破棄による逃亡

  特徴:右腕欠損。左腕・両脚・尾は竜化。頭部に角状突起。

  最終目撃地点:王都北方、黒樫の森

  報酬:金貨一万二千枚(生死不問)

  備考:生け捕りの場合の加算なし。発見次第、討伐を優先すること。

 

 

 

 冒険者ギルドの掲示板にその張り紙が出されたのは、晩餐会の三日後だった。

 

 張り紙の前には朝から人だかりができていた。金貨一万二千枚という魔王討伐以来の最高額の懸賞金に、腕に自信のある冒険者たちが目を輝かせて張り紙を見上げている。

 

「片腕なんだろ? 勇者様が一度倒した相手だ。弱ってるに決まってる」

 

「黒樫の森なら、俺の庭みたいなもんだ」

 

「一万二千枚あれば、一生遊んで暮らせるぞ」

 

 十日の間に七つの冒険者の一団が黒樫の森に入り、そのうち四つは何も見つけられずに戻ってきた。二つの一団は森の奥で巨大な爪痕の残る倒木と焼け焦げた岩を見つけて引き返してきている。残る一つの一団は、戻ってこなかった。

 

 二十日後、その一団の装備が森の縁で見つかった。剣と弓と盾とギルドの登録証がきちんと並べて置かれていたのに、持ち主の姿はない。登録証の上には一枚の黒い鱗が乗せられていた。

 

 ギルドは報酬を金貨一万五千枚に引き上げた。

 

 

 

 王立魔物研究院の三等記録官ミレーユは晩餐会の翌月に職を解かれた。

 

 理由は「研究対象との不適切な接触」だった。地下三階の見張りの記録にミレーユが夜ごと檻の前を訪れていたことが残っていたのだ。脱走を手引きしたのではないかと疑われたものの証拠は出ず、帳面はすべて没収された。

 

 だがミレーユは帳面の写しを三冊作っていた。一冊は王都の外れの古い教会の告解室に、一冊は王宮の監察官の執務室の前に名前を書かずに置いてきて、残る一冊は手元に残してある。

 

 ハーゲン伯爵家は当主の死後、商会の帳簿を王宮の監察官に調べられることになった。表向きの理由は相続の手続きだ。帳簿の中に北方の「修道院」への不自然な送金が見つかったという噂も流れたが、それが何を意味するのか公式には何も発表されていない。

 

 竜血薬は王都の市場からいつの間にか姿を消した。ミレーユはそれを確かめてから王都を出て、北へ向かう乗合馬車に乗った。リンデン村の焼け跡を一度見ておきたかったのだ。

 

 

 

 リンデン村の焼け跡には新しい小屋がいくつか建ち始めていて、生き残った村人たちも少しずつ戻ってきている。

 

 ミレーユは村の外れの墓地を訪ねた。四十二の新しい墓標が並ぶその一つの前に、女が座っている。粗末な喪服をまとい、焼け焦げた木彫りの人形を腕に抱いたその女は凱旋行列の日、大通りの人垣の後ろで檻車を見つめていた女だった。

 

 ミレーユは少し迷ってから女に近づき、自分が何者で何を知っているのかを話した。教会の地下の竜のこと、竜血薬のこと、伯爵のこと。

 

 女は黙って聞いていて、ミレーユが話し終えるとしばらく墓標を見つめていた。

 

「……教会の地下に、何かいるのは、知ってたよ」と、女は言った。

 

「夜中に、泣き声みたいなのが聞こえることがあった。村の年寄りは、昔の戦の亡霊だって言ってた。司祭様は、聞かなかったことにしろって」

 

「伯爵様の兵隊が、ときどき来て、教会から箱を運んでいった。村には、そのたびに、少しお金が落ちた。冬を越せる程度の」

 

「みんな、知ってたのかもしれない。知らないふりをしてたのかもしれない」

 

 女は腕の中の人形を撫でた。

 

「でも、この子は、知らなかった」

 

「六つだった。教会の裏で、猫と遊ぶのが好きだった。あの夜も、猫を探しに行って、戻ってこなかった」

 

 ミレーユは何も言えなかった。

 

「あんたは、あの魔物のことを、わたしに教えに来たのかい」

 

「……はい」

 

「わたしに、あの魔物を、許してほしいのかい」

 

「ちがいます」と、ミレーユは首を振った。

 

「あの人は、許されたいとは、一度も言いませんでした。あなたの子を死なせたのは自分だと、何度も言いました」

 

「わたしは、ただ、あなたに、知っていてほしかっただけです。何があったのかを」

 

 女は長い間黙っていたが、やがて口を開いた。

 

「知っても、この子は、帰ってこないよ」

 

「……はい」

 

「伯爵様が悪かったのかもしれない。村のみんなも悪かったのかもしれない。わたしも、悪かったのかもしれない」

 

「でも、火をつけたのは、あの魔物だ」

 

 ミレーユを見た女の目は、あの日と同じ空っぽの穴のようだった。

 

「わたしは、あの魔物を、一生、憎むよ」

 

「それで、いいんだろう?」

 

 ミレーユはしばらく答えられずにいたが、やがて小さく頷いた。

 

「……はい」

 

 イゼルヴァならたぶんそう答えるだろう、と思ったのだ。

 

 

 

 勇者ユウトは王から与えられるはずだった領地を辞退した。

 

 左頬の三本の傷は聖女セシリアの癒しの術でも完全には消えなかった。竜の爪でつけられた傷は竜の呪いを帯びている、とセシリアは言ったが、ユウトはそれが本当の理由かどうか疑っている。消したくないとどこかで思っているのかもしれない。

 

 翌月、勇者一行は予定どおり東の国境へ出発した。その前夜、魔導士ロゼはユウトに言った。

 

「ユウト、あんた、まだあいつのこと考えてるでしょ」

 

「……考えてる」

 

「次に会ったら、殺せる?」

 

 ユウトはしばらく黙っていた。

 

「殺すつもりで、剣を振る」

 

「当たらなかったら?」

 

「もう一度、振る」

 

 ロゼは呆れたようにため息をついた。

 

「……ほんと、めんどくさい勇者」

 

 それでもロゼはユウトの隣を離れなかった。

 

 東の国境の砦で勇者一行は魔族の残党を討ち、王都にはまた新しい歌が生まれた。けれどその歌の中に、混竜の戦乙女は出てこない。吟遊詩人たちは勇者の物語からあの魔物をそっと外したのだ。聖剣に貫かれて膝をつき、それでも屈しなかった魔物には、英雄譚の中に収まる場所がなかった。

 

 

 

 北の果て、黒樫の森を抜けたさらに北の名もない山脈の麓に、古い遺跡がある。

 

 崩れた石の壁と割れた天井の隙間から細い光が差し込んでいる。

 

 遺跡の奥には百二十七本の硝子の筒が並び、そのすべてが割れている。筒の底に沈んでいるのは骨と形の崩れた肉の塊、それに竜の鱗の破片だ。

 

 そしていちばん奥の一本、かつて彼女が眠っていた筒の中に、片腕の女が膝を抱えて座っている。緑の液体はとうに干上がり、硝子は彼女自身が砕いた。

 

 イゼルヴァは、そこにいた。

 

 右肩の傷は塞がったが、腕は生えてこなかった。ミレーユの紙に書いてあったとおりだ。左の太腿の傷も塞がって、もう脚を引きずることはない。剥がされた鱗も誰にも剥がされないまま二十日ごとにまた生えてくる。

 

 昼間は森で獣を狩り、夜は筒の中で眠る。

 

 ときどき、人間がやってくる。張り紙を見て金貨を夢見て剣と弓を携えた冒険者たちだ。

 

 イゼルヴァは彼らを遺跡の入口で待ち、帰れ、と言う。帰る者は帰し、帰らない者は帰さない。

 

 それを決めるのは彼女だった。誰の命令でもなく。

 

 

 

 ある夜、イゼルヴァは筒の中で目を覚ました。胸の奥がひどく静かだ。

 

 竜の声はリンデン村の地下で最後の竜が死んでから、一度も聞こえていない。この大陸にはもう竜はいないのかもしれないし、混竜も自分一人かもしれない。

 

 イゼルヴァは左手で自分の胸に触れた。そこにあるのは鱗と人の肌の継ぎ目だ。

 

 魔物として作られ竜の血を持ち、竜を殺すために生まれ、命令を失って目覚め、自分で決めて竜を殺し、村を焼いて人を殺し、勇者に討たれて檻に入れられ、鱗を剥がされ鎖をかけられ、腕を捨ててここにいる。

 

 許されるつもりはなく、救われるつもりもない。誰かの仲間になるつもりも、誰かの物語の脇役になるつもりもなかった。

 

 ただ、ここにいる。

 

 イゼルヴァが硝子の破片の向こうの暗い天井を見上げると、崩れた隙間から星が一つ見えた。

 

 いつか勇者が来るだろう。剣を抜いて、今度は迷わずに。

 

 そのとき自分は、爪を構えるだろう。今度も、迷わずに。

 

 どちらが倒れるかはわからないが、それを決めるのは物語ではない。

 

 イゼルヴァは目を閉じた。

 

 冒険者ギルドの記録には、今もこう残っている。

 

  混竜の戦乙女 討伐任務

  状態:討伐済み

 

 その下に、後から赤い線が一本、引かれている。

 

 誰が引いたのかは、わからない。

 

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