2代目勇者パーティーには勇者が居ない   作:あめざり

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第1話 骨冠のヤルカ 前編

 吹雪の音には三つの種類がある。

 

 遠くで唸る低い音と耳のすぐ横を切り裂いていく高い音、それから何も聞こえなくなる音。いちばん危ないのは三つ目で、雪が音ごと世界を呑みこんで、自分の心臓の鼓動さえどこか遠くで鳴っているみたいに感じられる瞬間。

 

 あたしはその三つ目の中で斧を構えていた。

 

 鯨の顎骨を削り出した柄に黒く焼き締めた骨の刃をつけた両手斧で、長さはあたしの背丈より頭ひとつぶん高く、重さはたぶんあたしの体重の半分くらいある。

 

 目の前には白い闇があって、その向こうに何かがいた。匂いでわかる。獣脂と血と古い氷の、鼻の奥がつんと痛むほど濃い匂い。

 

 白熊。それも並の大きさじゃない。

 

 足もとの雪がかすかに沈んだ。

 

 右。

 

 あたしは身体を左へ投げ出す。一瞬前まで頭のあった空間を巨大な前脚が薙ぎ払っていき、その風圧で、頭にかぶった白狼の頭骨がびりびりと鳴いた。

 

 雪の上を転がりながら斧の柄を握り直して跳ね起きる。

 

 白い闇の中に黒い影がひとつ。あたしの三倍はありそうなそいつが、後ろ脚で立ち上がってあたしに向かって吠えていた。

 

 怖くはない。

 

 嘘。少しだけ怖い。でもその怖さごと斧を振りかぶって、腰を落として踏み込んで、身体をねじって。

 

 刃が白熊の左の膝を捉えた。骨の砕ける手応えに獣の悲鳴が重なって、巨体がぐらりと傾く。

 

止まらずにもう一回転して、遠心力に乗った刃を今度は首すじへ。

 

* * *

 

 骨冠(ほねかむり)の民。

 

 極北の氷原で暮らすあたしたちのことを、南の人間はそう呼ぶらしい。

 

 その名の由来は見ればすぐわかるはず。民は皆、頭に獣の頭骨をかぶっているのだから。子どもは兎や狐で、大人になれば狼や海豹、ときには海象になり、長老の中には白熊の頭骨をかぶっている者もいる。

 

 かぶる頭骨は自分で仕留めた獣のものに限られる。そして、自分が仕留めた中でいちばん強かった獣のもの。

 

 それが冠(クル)の掟。

 

 より強いものを仕留めたら冠を替え、古い頭骨は氷原の祠に納めて魂を空へ返してから、新しい頭骨を額の上に据える。そうやって民は一生をかけて自分の冠を育てていく。

 

 つまり、冠を見ればその者の強さが一目でわかるのだ。

 

 あたしの冠は十二の冬に仕留めた白狼。ここ三年、白狼より強い獣にはついに出会えずじまいでいた。

 

* * *

 

 白熊はまだ息をしていた。

 

 首の半分まで斧が食い込んだまま雪の上に横倒しになって、黒い目であたしを見上げていた。湯気の立つ血が雪を赤く染めながら溶かしていく。

 

 斧から手を離して白熊の頭の横に膝をつき、両手でその目を覆って。

 

「おまえは、強かった」

 

 と、民の言葉で囁く。

 

「おまえの強さを、あたしがもらう。あたしの頭の上で、もう一度、世界を見て」

 

 白熊の息が止まった。

 

 手のひらの下でまぶたの震えがおさまっていくにつれて吹雪の音が少しずつ戻ってきて、低い唸りと高い悲鳴が交互に耳を叩く。

 

 立ち上がって空を仰いだ。灰色の雲のそのまた向こうに、見えない太陽がある。

 

 勝った。

 

 これで、三年ぶりに冠を替えられる。

 

 

 

 村に戻ったのは次の日の夕暮れ時。

 

 白熊の頭を橇に乗せて毛皮を背負い、肉は雪に埋めて印をつけてきたから、後で皆で取りに行けばいい。二十人の民がひと月は食べていける量のはず。

 

 雪を固めた住居が氷原の窪みに七つ並んでいて、その真ん中のいちばん大きな雪の家の前で、長老のウシュカが待っていた。

 

 背の曲がった老婆の頭には、あたしが仕留めたものよりひとまわり小さい白熊の頭骨が載っている。

 

 ウシュカは橇の上の頭を見て、長いあいだ何も言わない。

 

「……ヤルカ」

 

 しわがれた声。

 

「おまえ、それを、一人で」

 

「一人で」

 

 胸を張ってみせる。

 

 ウシュカの後ろに民が集まってきた。狩りから戻った男たちも、皮をなめしていた女たちも、雪の中を走り回っていた子どもたちも、皆が橇の上の巨大な頭とあたしを交互に見比べている。

 

 囁き声が雪の上を走った。

 

 ウシュカより大きい。

 

 長老の冠より。

 

 ウシュカはゆっくりと自分の頭骨に手をやり、それから民のほうを振り返って低く告げた。

 

「冠送りの時が、来た」

 

 冠送り。

 

 生まれてから何度も聞いてきた言葉。

 

 骨冠の民には古い誓いがある。

 

 ——強きもの、すべて、ほろぼす。

 

 大昔、この世界にはとてつもなく強いものがいた。空の太陽を独り占めにして自分の巣に隠した巨大な何かで、そのせいで世界は冷えきり、長い長い冬が来た。北の果てのあたしたちの土地はその冬がまだ終わっていない場所なのだと、長老たちは言う。

 

 強いものはいつか必ず奪う。そして奪われるのは、いつも小さきもの。

 

 だから民は誓った。強きものを見つけたら、獣でも人でもほろぼす。世界を平らにするために、いつか長い冬を終わらせるために。

 

 その誓いを果たすために一代に一人、民の中でいちばん強い者を南へ送り出すのが、冠送り。

 

 送られた者は南の世界を旅して強きものを狩り続け、冠を替え続ける。

 

 そして、二度と帰らない。

 

 帰らないのは旅の途中で死ぬからだと聞かされてきた。南の強きものは北の獣よりずっと強いから、冠送りの戦士はいつか必ず誰かに敗れて倒れるのだと。

 

 それでも送られることは民にとって最大の誉れで、あたしはずっとその誉れを夢見て育ってきた。

 

 

 

 その夜、大きな雪の家の中で冠替えの儀が行われた。

 

 獣脂の灯りが氷の壁をぼんやりと照らすなか、民が車座になって、喉の奥を震わせる北の歌を低く歌う。

 

 ウシュカがあたしの頭から白狼の頭骨を外した。三年あたしの額の上で世界を見てきた、牙の欠けた少し小ぶりな頭骨。

 

「ありがとう」

 

 眼窩をのぞきこんでそっと言う。

 

 続いてウシュカが持ち上げたのは白熊の頭骨だ。昨日のうちに女たちが肉を削ぎ、脳を抜き、脂を煮出してきれいに磨いてくれていたけれど、まだかすかに獣の匂いが残っている。

 

 重い。

 

 額に据えられた瞬間、首がぐっと沈みこんだ。視界の上半分を白熊の上顎と牙が縁どっていて、眼窩の穴から見る世界は少しだけ狭くて少しだけ高い。

 

 歌声が大きくなっていくなか、ウシュカがあたしの両肩に手を置いた。

 

「ヤルカ。骨冠の民、白熊の冠のヤルカ」

 

「……はい」

 

「おまえは、明日、南へ行け」

 

 心臓がどん、と鳴る。

 

「強きもの、すべて、ほろぼせ。冠を替え続けろ。世界を平らにしろ」

 

「そして」

 

 ウシュカはそこで言葉を切った。皺だらけの顔に悲しみに似た何かが浮かんで、すぐに消える。

 

「……振り返るな」

 

* * *

 

 翌朝、空は珍しく晴れていた。

 

 雲の切れ間から薄い太陽がのぞいて、氷原の雪が目の痛いほどきらきらと光っている。雪の照り返しで目を焼かれないように、目の下に煤を塗り直す。

 

 装束は女たちが夜通し仕立ててくれたもの。

 

 海豹の革の上衣に、裏に白狼の毛皮を縫いつけた外套。白熊の毛皮はまだなめし終わっていないから今回はお預けで、足には海象の皮の長靴、首にはこれまで仕留めた獣の牙を連ねた首飾り。

 

 髪は三つ編みにして骨のビーズで留めてある。銀に近い白で、北の民は皆こういう色をしているのだ。

 

 背中には鯨骨の両手斧、ハルグ。死んだ父さんが、あたしが七つのときに削ってくれた斧。

 

 民が村の外れまで見送りに出てきてくれた。

 

 誰も何も言わない。冠送りの戦士に声をかけるとその声が足に絡みついて帰りたくなってしまうと、そう言い伝えられているから。

 

 民の顔をひとつずつ見ていく。狩りを教えてくれた叔父、皮のなめし方を教えてくれた従姉、雪合戦ばかりしていた幼なじみの双子、そしてウシュカ。

 

 最後に南を向いた。

 

 見渡すかぎりの白の果てに、うっすらと灰色の線が見える。山並み、というものらしいけれど見たことはない。その向こうには森があって川があって、人間の町がある。

 

 そして、強きものがいる。

 

 一歩踏み出すと、踏まれた雪がきゅっ、と鳴く。

 

 二歩目。三歩目。

 

 振り返りたい。

 

 振り返らない。

 

 背中で誰かが声を殺して泣いているのが聞こえた気がした。たぶん双子のどちらか、いや、ウシュカかもしれない。

 

 斧の柄をぎゅっと握りしめる。額の上では白熊の頭骨が陽を浴びて白く光っていた。

 

 強きもの、すべて、ほろぼす。

 

 十五の冬の終わり、あたしの旅はそこから始まった。

 

* * *

 

 南はうるさい。

 

 山を越えて最初に辿りついた人間の町ハーヴェンの門をくぐった瞬間、あたしは思わず斧の柄に手をかけていた。

 

 音。音。音。

 

 車輪が石畳を叩く音に馬のいななき、鍛冶屋の槌と物売りの呼び声、子どもの泣き声、犬や鶏。どこかで誰かが怒鳴っていて別のどこかで誰かが笑っていて、それが全部いっぺんに耳へ流れこんでくる。氷原なら吹雪の三種類さえ聞き分けられればそれでよかったのに。

 

 それから、匂い。焼いた肉と腐った野菜と馬の糞、汗や煙や花や甘い何かが混ざりあって、鼻がばかになりそう。

 

 そして、暑い。

 

 春先のまだ肌寒いはずの季節で、町の人間たちは薄い布の服で平気な顔をして歩いているけれど、白狼の毛皮の外套を着たあたしにはじっとりと汗が滲むほど。額の上の白熊の頭骨まで、なんだか蒸れている気がしてならない。

 

「……おい、見ろよ」

 

「なんだありゃ。獣の頭、かぶってるぞ」

 

「北の蛮族じゃないか」

 

 囁き声があちこちから刺さってくる。

 

 あたしはそれを聞き流した。大陸の言葉は、交易に来る南の商人からウシュカが覚えたのを民の中でも少しだけ習っていたから、全部はわからなくても、自分がじろじろ見られていることくらいはわかる。

 

 かまわない。見られるのは慣れている。

 

 白熊の冠をかぶった者は、氷原でも皆に見られるもの。

 

 

 

 最初に困ったのは「かね」だった。

 

 町の真ん中の広場で、肉を焼いている屋台の前にあたしは立ち止まった。串に刺した肉が脂を垂らしながら炭火の上で回っていて、三日も干し肉しか口にしていない腹の虫がぐうと鳴く。

 

「一本。くれ」

 

 屋台の親父があたしの頭の上の白熊を見て、ぎょっと目を剥いた。

 

「……銅貨、三枚だ」

 

「どうか」

 

「銅貨だよ、銅貨。金。持ってないのか」

 

 かね。

 

 南の人間は丸くて平たい金属の欠片で物を取り替えるらしいと、ウシュカから聞いたことはある。

 

 あたしは背負い袋を下ろして中を探った。干し肉に火打ち石、骨の針と予備の弓弦、それから道中で仕留めた白狐の毛皮が三枚。

 

 一枚を取り出して親父に差し出す。

 

「これ。とりかえる」

 

 親父は白狐の毛皮を見て口をぽかんと開けると、周りをきょろきょろ見回して声をひそめる。

 

「……お嬢ちゃん、これ、本物の白狐だろ」

 

「ほんもの。ヤルカ、しとめた」

 

「これ一枚で、串が百本は買えるぞ」

 

「ひゃく、いらない。いっぽん」

 

 親父が困ったように頭をかいていると、横から細い手が伸びてきた。

 

「待った待った待った! それ、しまって! 早く!」

 

 声の主はあたしより少し背の低い少年で、歳は十三か十四くらい。栗色のくせ毛にそばかす、つぎはぎだらけの緑の上着を着て、背中に古ぼけた弦楽器を背負っている。

 

 少年はあたしの手から白狐の毛皮をひったくって背負い袋の中に押しこみ、袋の口をぎゅっと縛った。

 

「こんな人の多いところで、そんな高いもの見せびらかしたら、盗ってくださいって言ってるようなもんだよ!」

 

「……おまえ、だれ」

 

「ティオ! 吟遊詩人! 見習いだけど!」

 

 少年——ティオは早口でまくし立てると、屋台の親父に銅貨を三枚ちゃりんと渡した。

 

「おじさん、これで一本。この人のぶん」

 

 親父はほっとしたような顔で、串を一本あたしに渡してくれる。

 

 あたしは串とティオを交互に見た。

 

「なんで、ヤルカに、かね」

 

「貸し。あとで返してもらうから」

 

 ティオはにっと笑った。前歯が一本欠けている。

 

「その代わり、ちょっと話、聞かせてよ。北の人でしょ? 骨冠の民? 本物、初めて見た!」

 

 あたしは串の肉にかぶりついた。熱くて塩辛くて、口の中に広がる脂に思わず目が細くなる。

 

 うまい。

 

 それからティオは勝手にあたしの後ろをついて回り、広場の噴水の縁に並んで座ると、弦楽器を膝に抱えてあたしのことを根掘り葉掘り訊いてきた。どこから来たのか、その頭骨は何か、斧の名前は、南で何をするつもりなのか。

 あたしは串の肉を食べ終えてから片言で答えた。

 

「ヤルカ。ほねかむりの、たみ。きた、から」

 

「これ、しろくま。ヤルカ、しとめた。ヤルカの、かむり」

 

「おの、ハルグ。とうさん、けずった」

 

「みなみ、きた。つよいもの、ほろぼす」

 

 ティオは最後の言葉でぴたりと手を止めた。

 

「……ほろぼす?」

 

「つよいもの、すべて、ほろぼす。たみの、ちかい」

 

「すべて、って。全部? この世の、強い奴、全部?」

 

「ぜんぶ」

 

 ティオはしばらくあたしの顔をじっと見ていたかと思うと、急に目を輝かせる。

 

「すっげえ……! それ、歌になるよ! 北の果てから来た骨冠の少女、世界の強者を狩り尽くす旅! 絶対ウケる!」

 

「うける?」

 

「みんな、聞きたがるってこと!」

 

 ティオは弦をじゃらんと鳴らした。

 

「ねえ、ヤルカ。おれを連れてってよ」

 

「……なぜ」

 

「おれ、吟遊詩人になりたいんだ。でも、見習いのままじゃ、誰も歌を聞いてくれない。自分だけの英雄譚が要る。まだ誰も歌ってない物語が」

 

「ヤルカの旅を、おれが歌にする。そしたら、おれは一人前の吟遊詩人になれる」

 

「それに、ヤルカ、かねのこと、わかんないでしょ? 言葉も、まだ下手だし。おれが、通訳と、財布係と、道案内をやる。悪い話じゃないと思うよ?」

 

 あたしはティオを見下ろした。細い腕に薄い胸、握れば折れてしまいそうな手首。

 

 弱い。

 

 どうしようもなく弱い。

 

「おまえ、よわい」

 

「知ってる!」

 

「つよいもの、たたかう。あぶない。おまえ、しぬ」

 

「死なないように、後ろのほうで隠れてる!」

 

 ティオは胸を張った。

 

 変な奴。

 

 

 

 その夜、ティオに連れられて冒険者ギルドという場所に行った。

 

 大きな木造の建物の中は酒場のようになっていて、剣や槍を持った人間たちが長い卓を囲んで酒を飲んでいる。壁の一面には紙がびっしりと貼られていた。

 

「依頼掲示板。魔物の討伐とか、護衛とか、仕事が全部ここに出るんだ」

 

 ティオが背伸びして紙を読み上げていく。

 

「えーと……ゴブリンの群れ、D級。灰色狼、C級……あ、これ」

 

 ティオの指が、ほかの紙より大きくて赤い縁取りのある一枚で止まった。

 

「岩喰い熊、B級。ハーヴェン北の鉱山街道で、鉱夫が七人やられてる。報酬、金貨八十枚……」

 

「いわくいぐま」

 

「熊の魔物だよ。岩を齧って、身体が石みたいに硬くなってるんだって。普通の剣じゃ刃が立たないって」

 

 熊、それも石のように硬い熊。

 

 あたしの額の上の白熊よりも。

 

 胸の奥で何かがぐらりと熱くなる。

 

「これ。いく」

 

「ええっ! 待って待って、B級だよ!? ヤルカ、ギルドに登録もしてないでしょ!」

 

 そのとき、背後からどっと笑い声が起こった。

 

「おいおい、聞いたか? あんな小娘が、岩喰い熊を狩るってよ!」

 

 振り返ると、酒で顔を赤くして腰に剣を下げた大柄な男が三人、卓の前で腹を抱えて笑っていた。

 

 男の一人がふらふらと立ち上がってこちらへ歩いてくると、ティオの肩をどん、と突き飛ばす。

 

「ガキはすっこんでろ。ここは大人の——」

 

 ティオが床に尻もちをついて、弦楽器ががしゃりと嫌な音を立てる。

 

 あたしの手が動いていた。

 

 男の胸ぐらを左手でつかんで持ち上げると、男の足が床から浮く。

 

 ギルドの中がしんと静まり返った。

 

 男は宙に吊り下げられたまま目を白黒させている。あたしより頭二つぶんは背が高く、体重はたぶんあたしの倍はある大柄な男。

 

 それでも、片手で持ち上がる。

 

「おまえ、よわい」

 

 あたしは男の目をのぞきこんだ。

 

「ヤルカ、よわいもの、たたかわない。たみの、おきて」

 

 男をそっと床に下ろすと、男はへなへなと膝をついた。

 

「でも、ちいさきもの、ふむな」

 

 ティオを顎で指す。

 

「つぎ、ふんだら。ヤルカ、おまえ、ほろぼす」

 

 男は青い顔で、仲間のところへ這うように戻っていった。

 

 ティオが床に座りこんだまま、ぽかんとあたしを見上げている。

 

「……ヤルカ」

 

「なに」

 

「今の、めちゃくちゃ格好よかった」

 

「かっこう?」

 

「歌にする! 絶対!」

 

 ティオは床の弦楽器を拾い上げて壊れていないのを確かめると、跳ねるように立ち上がった。

 

「わかった。岩喰い熊、行こう。登録は、おれがなんとかする!」

 

* * *

 

 小さきもの、踏むな。

 

 それは骨冠の民のもうひとつの掟。

 

 強きもの、すべて、ほろぼす。けれど小さきものは決して踏まない。強きものを狩るのは小さきものが踏まれないようにするためで、だから小さきものを踏む者は民ではない。

 

 弱い者とは戦わない。

 

 戦う価値がないから、じゃない。弱い者と戦って勝っても、世界は平らにならないから。

 

 その夜、ギルドの二階の安宿で、あたしはティオの寝息を聞きながら窓の外を見ていた。

 

 南の夜は、町の灯りが空を薄く濁らせていて星が少ない。

 

 それでも北の方角に、ひときわ明るい星がひとつ。氷原の民が「冠星(くるぼし)」と呼んで、旅の目印にする星。

 

 あたしは頭の上の白熊の頭骨にそっと触れた。明日、石の熊を狩る。

 

 額の上の冠が、少しだけ重たく感じられる夜だった。

 

* * *

 

 鉱山街道は灰色の道。

 

 切り立った崖と崖のあいだを、荷車一台がやっと通れるくらいの細い道がうねうねと北へ延びている。両側の岩肌には鉱夫たちが掘った坑道の口がいくつも黒く開いていて、そこから冷たい風が吹き出してきていた。

 

 この風は好き。北の匂いがほんの少しだけ混じっているから。

 

「ヤルカ、ほんとに、ほんとに大丈夫?」

 

 後ろでティオが、三回目の同じ質問をした。

 

 ギルドの登録は、ティオが本当になんとかしてしまった。受付の女の人に、あたしが酔っぱらいを片手で持ち上げた話を身振り手振りで語って聞かせ、最後には「実力は現場で証明させます、失敗したら報酬なしでいいです」と押し切ったのだ。首から下げた木札には、いちばん下の等級であるF級の刻印。

 

 木札の等級なんてどうでもよくて、石の熊が強ければそれで十分。

 

「だいじょうぶ」

 

「根拠は!?」

 

「こんきょ?」

 

「なんで大丈夫だって言えるのかってこと!」

 

 あたしは少し考えてから答えた。

 

「ヤルカ、しなない。まだ、かむり、ちいさい」

 

「……それ、根拠になってないと思う」

 

 ティオの溜め息が崖に反響して、妙に大きく聞こえる。

 

 

 

 最初に見つけたのは荷車の残骸で、道の真ん中に木の車輪がふたつ、ばらばらに転がっていた。荷台は上から押し潰されたみたいに平たくひしゃげ、積荷の鉄鉱石が道いっぱいに散らばっていて、そのまわりには乾いた血の跡。

 

 ティオが口を押さえて後ずさり、あたしはしゃがみこんで地面に顔を近づける。

 

 足跡。

 

 大きい。あたしの手のひらを三枚並べてもまだ足りないくらいで、五本の爪の跡が岩の道に深く、くっきりと刻みこまれている。

 

 鼻を鳴らすと獣の匂いがして、でもそこには白熊とは違う匂いが混じっていた。鉄と石の粉、それから雨上がりの岩みたいな、冷たくて湿った匂い。

 

「……ちかい」

 

「え」

 

「このにおい、あたらしい。けさ。まだ、ちかくに、いる」

 

 ティオの顔からすうっと血の気が引いていくのが見えた。

 

「ティオ。うしろ、さがれ。いわの、かげ」

 

「う、うん」

 

 ティオが崖の窪みに身体を押しこみ、あたしは背中のハルグを抜く。

 

 鯨骨の柄が手のひらに吸いつく、父さんが削ってくれたときからずっと変わらない握り心地。

 

 足跡は道の脇の、ひときわ大きな坑道の口へ続いている。暗い穴。その奥から、ごりっ、ごりっ、と何かを噛み砕く音が伝わって来た。

 

 坑道の中は真っ暗闇。

 

 あたしは入口から十歩ほど入ったところで足を止め、目が慣れるのを待った。北の冬は昼でも暗いから、闇の中で目を使うのは慣れっこだ。

 

 少しずつ輪郭が浮かんでくる。天井の低いごつごつした岩の通路は奥へ行くほど広くなっていて、その突き当たりの、洞窟のように膨らんだ空間に。

 

 いた。

 

 熊の形をした岩の塊。

 

 最初は本当にそう見えた。灰色のごつごつした小山がゆっくりと動いて、壁の岩肌に顔を押しつけている。ごりっ、ごりっ、と岩を齧る音。

 

 大きい。白熊よりひとまわり、いや、ふたまわり。

 

 背中から肩にかけては毛皮の代わりに灰色の岩の板が鱗のように重なっていて、その隙間のところどころで何かがちかちかと光っていた。光っているのは水晶で、齧った岩の中に混じっていたものが身体に取りこまれているのかもしれない。

 

 頭がこちらを向いた。小さな目が、燠火みたいに赤い。

 

 それが、あたしを見つけた。

 

 岩喰い熊が吠えると坑道全体がびりびりと震えて、天井からぱらぱらと小石が降ってくる。

 

 四つ足のまま突進してくる。速い。この重さでこの速さ。

 

 あたしは斧を構えたまま横へ跳び、岩喰い熊の肩があたしのいた場所の岩壁に激突した。壁が砕けて、破片が顔に当たって跳ねる。

 

 着地と同時に、熊の背中へハルグを振り下ろした。

 

 がきん、と坑道の壁を音が跳ねる。

 

 手のひらに痺れるような衝撃が来て、刃が弾かれた。熊の背中の岩の板に残ったのは、白い擦り傷がひとつだけ。

 

 鯨骨の刃が、欠けていた。

 

 ほんとうに、石そのもの。

 

 普通の剣じゃ刃が立たないとティオは言っていたけれど、鯨骨の斧でも同じこと。

 

 岩喰い熊が振り向きざまに前脚を振るい、あたしは斧の柄でそれを受けた。受けた瞬間、身体ごと吹き飛ばされる。背中から岩壁に叩きつけられて肺の空気が全部押し出され、息ができずに目の前が白く明滅して。

 

 熊が迫ってくる。

 

 あたしが壁を蹴って横に転がると、熊の前脚が壁を抉った。

 

 立ち上がって距離を取り、息を吸ってから、ゆっくりと吐いた。背中が痛くて、たぶんどこかにひびが入っている。それでも斧はまだ握ったまま。

 

 考えろ、と自分に言い聞かせる。

 

 白熊と戦ったとき、父さんに教わったこと。どんなに大きな獣にも柔らかいところがあって、それは毛皮の薄いところや骨の継ぎ目、目、鼻、喉、腹。

 

 岩喰い熊の身体をもう一度見る。背中は岩、肩も岩、前脚の外側も岩。

 

 でも、熊が後ろ脚で立ち上がり、吠えながら両の前脚を振り上げたその瞬間。

 

 腹が見えた。

 

 岩の板のない灰色のざらざらした皮膚は、ほかの部分に比べるとずっと薄そう。それから脇の下、前脚の付け根の内側にも岩がない。

 

 岩を齧って身体に取りこみ、外側を硬くしていく熊。でも身体を曲げる場所——関節の内側や、腹に岩をつけられないのは、つけたら動けなくなるから。

 

 つまり、そこが柔らかいところ。

 

 熊の前脚が振り下ろされてくるのに、あたしは後ろに下がらなかった。逆に踏み込む。熊の懐へ、振り下ろされる前脚のさらに内側へ。

 

 熊の腹が目の前いっぱいに広がって、あたしはハルグを下から上へ振り上げる。欠けた刃が腹の皮膚に食い込んだ。

 

 今度は、弾かれない。

 

 熊が、腹の底から絶叫した。

 

 あたしは斧を引き抜いて熊の股の下をくぐり抜け、背後に回る。

 

 熊が四つ足に戻って振り返ろうとした、その瞬間に前脚の付け根の内側がまた開いた。踏み込んで斧を突き入れる。刃ではなく石突きのほうで、脇の下の柔らかい肉の奥へ。

 

 熊の身体ががくんと傾き、前脚が動かなくなる。

 

 それでも熊は倒れない。三本の脚で身体を支えて赤い目であたしを睨みつけ、顎を大きく開いて噛みついてくる。

 

 顎の中は岩じゃなく、赤くて柔らかい口の中。

 

 あたしはハルグを横に構えて、その顎の中へ柄ごと押しこんだ。鯨骨の柄が熊の上顎と下顎のあいだに挟まって、つっかえ棒みたいに口を開かせたまま固まる。

 

 熊が首を振り回して、あたしの身体が宙に浮いた。それでも斧は離さない。

 

 腰の骨のナイフを左手で抜いて、熊の目へ。赤い燠火の真ん中へ。

 

 あたしの身体の重みと共に、押し込んだ。

 

* * *

 

 岩喰い熊が倒れたのは、それからまだしばらく後のこと。

 

 坑道の床に横たわった巨体は岩の山のようにしか見えず、胸だけがゆっくりゆっくりと上下して、それもやがて止まりそうになっていく。

 

 あたしは熊の頭の横に膝をついた。背中も左腕も痛いし、口の中は鉄の味で一杯。

 

 それでも両手で、熊の残った片方の目を覆う。

 

「おまえは、つよかった」

 

 民の言葉で、か細く息をする熊に語りかけた。

 

「しろくまより、つよかった。ハルグの、はが、たたなかった。はじめて」

 

「おまえの、つよさを、あたしが、もらう」

 

 熊の息が止まって、坑道の中がしんと静まる。天井から最後の小石がひとつ、ころんと転がり落ちてきた。入口のほうから足音が近づいてくる。

 

「ヤルカ? ヤルカ! 生きてる!?」

 

 松明を掲げながら、ティオが泣きそうな顔で走ってきた。

 

「……いきてる」

 

「よかったあああ……! すっごい音してたから、もう、崖が崩れたのかと……」

 

 ティオは松明の明かりで岩喰い熊の巨体を照らして、言葉を失っている。そして、しばらく口をぱくぱくさせてから。

 

「……倒したの? ほんとに? 一人で?」

 

と、きょとんとした顔であたしに問う。

 

「ひとりで」

 

「B級を? 登録初日の、F級が?」

 

「えふきゅう、しらない」

 

 あたしは熊の頭を撫でた。岩の手触りは冷たくてざらざらで、ところどころで水晶が指先に引っかかる。

 

「ティオ」

 

「な、なに?」

 

「ヤルカ、かむり、かえる」

 

* * *

 

 冠替えの儀は、ティオに少し離れて見ているように頼んで、坑道の外でひとりで行った。

 

 熊の頭骨を取り出すのには丸一日かかった。岩の板を一枚一枚剥がし、肉を削ぎ、脳を掻き出して湧き水で洗う。現れた頭骨は灰色で重く、ところどころ骨の中にまで小さな水晶が埋まっていて、陽に当てるときらきらと光るのだ。

 

 白熊の頭骨を額から外す。旅に出てからずっと一緒だった冠。

 

 本当なら氷原の祠に納めるべきものだけれど、ここからでは遠すぎる。

 

 あたしは崖の上の、北がいちばんよく見える岩棚まで登って、石を積んで小さな祠を作った。その中に、白熊の頭骨を北へ向けて置く。

 

「ありがとう」

 

 眼窩の奥に、そっと声をかける。

 

「きたへ、かえって。たみのところへ。ヤルカ、げんきって、つたえて」

 

 それから、岩喰い熊の頭骨を額に据えた。

 

 重い。白熊の倍近くあって、首の骨がみしりと鳴った気がした。

 

 眼窩の穴から見る世界が、また少しだけ高く、狭くなる。

 

 熊の岩の板をティオが町の鍛冶屋に持ちこむと、鍛冶屋の親父は目を丸くして、三日がかりであたしの胴当てと両腕の籠手を仕立ててくれた。胴当ては岩の板を革の上に縫い止めたもので、籠手には熊の爪を五本ずつ指の先に沿うように並べてある。

 

 身につけると身体じゅうがずしりと重たいけれど、悪くない重さ。

 

 鍛冶屋は欠けたハルグの刃も見てくれた。

 

「嬢ちゃん、この骨の刃じゃ、もう持たねえぞ。鉄にしたらどうだ」

 

「いや。ハルグ、ハルグ」

 

「……頑固だな」

 

 鍛冶屋は呆れたように笑って、欠けた刃の縁に岩喰い熊の牙を削って嵌めこんでくれた。牙の刃、石を齧る獣のいちばん硬い部分。

 

 ギルドに戻ると、受付の女の人があたしの頭の上の新しい冠を見て、持っていた帳面を取り落とした。

 

 木札の刻印はF級からC級に書き換えられ、飛び級というらしい。前例がないわけじゃないけど珍しい、と。

 

 報酬の金貨八十枚は、全部ティオに預けた。

 

「え、全部!? いいの!?」

 

「ヤルカ、かね、わからない。ティオ、わかる」

 

「いや、そうだけど……」

 

「それと」

 

 あたしは指を三本立てた。

 

「どうか、さんまい。かえす。くし、いっぽんの、ぶん」

 

 ティオはしばらくきょとんとしていて、それから腹を抱えて笑い出す。

 

「律儀だなあ、もう!」

 

 笑い声が崖に反響する。額の上では岩喰い熊の冠の水晶が夕陽を浴びて、ちかちかと光っていた。

 

* * *

 

 人間の強きものに初めて出会ったのは、南へ下って二十日目のこと。

 

 場所は麦畑に囲まれたちっぽけな村、ロウエル。

 

 通りかかったのはただの偶然で、ティオが「ここの宿屋の蜂蜜パンが絶品なんだって」と言い張って、街道から半日も寄り道させられた結果だった。

 

 蜂蜜は、南に来て知ったいちばん危険な食べ物。

 

 舌の上でとろけて、甘くて、甘くて、甘くて、気づくと壺がひとつ空になっている。ハーヴェンの市場で初めて舐めたとき、あたしは本気でこれは強きものの罠かもしれないと疑った。これを知ってしまったら、もう氷原には帰れない気がしてならないから。

 

 だからロウエル村の宿屋の前に立ったとき、あたしの口の中はもう唾でいっぱいだったのに、宿屋の扉には板が打ちつけられていた。

 

 

 

「——鉄腕のゴルドが、ぜんぶ持っていくんです」

 

 村長だという白髪の男が、声を震わせながら言う。

 

 村の広場に集まってきた村人たちは、皆、痩せこけていた。子どもの頬がこけ大人の目が落ちくぼんで、麦畑は青々としているのに誰の顔にも生気が見当たらない。

 

「麦も、家畜も、蜂蜜も。刈り入れのたびに、半分以上。逆らえば、家を焼かれる。去年は、若い者が三人、見せしめに吊るされました」

 

「領主さまは」

 

 ティオが訊く。

 

「領主さまの騎士団は、ゴルドの砦には手を出しません。ゴルドは、昔、王国の騎士だった男なんです。戦で右腕を失くして、魔導の鉄の腕をつけている。その腕で、騎士を十人、斬り捨てたこともあるとか」

 

「ギルドに依頼は?」

 

「出しました。三度。三度とも、冒険者は戻ってきませんでした」

 

 村長はあたしの頭の上の岩喰い熊の冠を、すがるような目で見上げた。

 

「あの、旅の方。もし、もしお強いのなら——」

 

「まって」

 

 ティオがあたしの前に割って入る。

 

「ヤルカ、人間相手は、まずいよ。魔物を狩るのとはわけが違う。相手は元騎士で、手下もいて、それに人殺しは——」

 

「ゴルド、つよい?」

 

 あたしが訊くと、村長は何度も頷いた。

 

「つよい。この辺りで、いちばん」

 

「じゃあ、いく」

 

「ヤルカ!」

 

 ティオがあたしの外套の裾をつかむ。

 

「……つよいもの、すべて、ほろぼす」

 

 あたしはティオの手をそっとはがした。

 

「けもの、だけじゃ、ない。ひとも、おなじ。つよいもの、ちいさきものを、ふむ。それ、ヤルカ、ゆるさない」

 

* * *

 

 ゴルドの砦は村から丘ひとつ越えた先の、古い見張り塔を丸太の柵で囲っただけの代物。柵の門の前には見張りが二人いて、槍を持ってあくびをしている。

 

 あたしは真正面から歩いていった。隠れもせず、急ぎもせず。

 

 見張りがあたしに気づいて、槍を構えて何か叫ぶ。

 

「止まれ! なんだ、てめえ——」

 

「ゴルド、いる?」

 

「あ?」

 

「ヤルカ、ゴルドと、たたかう。おまえら、じゃま。どけ」

 

 見張りの二人は顔を見合わせて、げらげらと笑い出した。それから一人が槍を突き出してきたのを籠手で払うと、岩喰い熊の爪が槍の穂先を弾いて火花が散る。

 

 もう一人が横から斬りかかってきたので、身をかがめて避け、斧の柄の石突きでそいつの膝を軽く叩いた。

 

 ぱきん。

 

 男が悲鳴を上げて転がり、最初の男が目を剥いて後ずさる。

 

「おまえら、よわい。ヤルカ、よわいもの、ころさない」

 

 あたしは門を見上げた。

 

「どけ」

 

 男は槍を放り出して、柵の内側へ逃げこんでいった。

 

「かしらあ! かしらあああ!」

 

 

 

 少し経つと、砦の中から、男たちがわらわらと出てきた。

 

 二十人、三十人。剣に斧、棍棒に弩。痩せた村人とは違って皆よく肥えて血色がいいのは、村から奪った麦と家畜で太ったからだろう。

 

 あたしが門をくぐって真ん中の空き地に立つと囲まれた。

 

 弩の矢が一本飛んできて、首をひねって避けると、耳のそばで岩喰い熊の頭骨が矢をかすめてかちんと鳴る。二本目と三本目は籠手で払った。

 

 剣を持った男が三人、同時に斬りかかってくる。

 

 ハルグを横に一閃。刃を立てずに腹で打つと、三人の男がまとめて吹き飛び、柵に叩きつけられて動かなくなった。死んではいない、たぶん。骨は何本か折れたかもしれないけど。

 

 棍棒の男、弩の男、斧の男。ひとり、またひとりと、一振りごとに誰かが地面に転がって呻いて、それきり立ち上がってこない。

 

 殺さない。殺す価値のない相手と戦うのは、骨冠の民の恥だから。

 

「——そこまでだ」

 

 低い声が空き地に響いた。

 

 男たちがさっと左右に割れて、見張り塔の入口からひとりの男が出てくる。

 

 鉄腕のゴルド。一目でわかった。

 

 身体の大きさはほかの男たちとそう変わらない。四十くらいの日に焼けた顔に、短く刈った灰色の髪、左頬には古い刀傷。

 

 でも、目が違った。ほかの男たちの目は、酒と欲と怯えで濁っている。

 

 ゴルドの目は澄んでいた。氷原の空みたいに冷たく、静かで、底が見えないほど。

 

 そして、右腕。

 

 肩から先が黒い鉄でできていて、関節ごとに歯車のようなものが嵌めこまれ、その隙間から青白い光がちらちら漏れていた。鉄の指がゆっくりと、ひとつずつ曲がっては伸びる。

 

 左手には長い剣。

 

「北の蛮族か」

 

 ゴルドは倒れた手下たちを見回して、ふっと笑った。

 

「手下どもを、殺さずに片付けたな。なぜだ」

 

「よわい、から」

 

「なるほど」

 

 ゴルドは剣を抜いた。

 

「では、おれは?」

 

 あたしはゴルドの目を、まっすぐに見る。

 

「おまえ、つよい」

 

「そうか」

 

 ゴルドの口の端がわずかに上がった。

 

「では、殺すのか」

 

「ほろぼす」

 

 その一言を合図に、ゴルドは踏み込む。最初の一撃。袈裟懸けに斬り下ろしてくる刃を斧の柄で受けた瞬間、両腕がびりびりと痺れる。

 

 重い。

 

 細身の剣なのに、岩喰い熊の前脚と同じくらいの重さが乗っているのだ。

 

 受け流して踏み込もうとしたところへ、鉄の右腕。横から飛んでくる拳を避けきれず、胴当ての岩の板に拳がめりこんだ。

 

 息が詰まって、身体が浮いて後ろへ吹き飛ぶ。地面を転がりながらも、ハルグは手放さない。

 

 立ち上がると、ゴルドはもう目の前にいた。喉を狙って突き出される剣を首をねじって避けると、刃が岩喰い熊の頭骨の顎の骨を削っていく。

 

 この男、強い。

 

 獣とは違う。獣はただ強くて、力と牙と爪があって、それだけで戦うもの。

 

 この男は考えている。あたしがどこへ避けるか、どこで斧を振るか、全部先に読んで、そこへ剣と鉄の拳を置いてくるのだ。

 

 人間の、強さ。

 

 それを目の前にして思わず、胸の奥が熱くなった。

 

 

 

 三十合、四十合。

 

 砦の男たちが、息を呑んで遠巻きに見ている。

 

 あたしの身体は傷だらけで、額から流れた血が左目に入って半分しか見えない。

 

 ゴルドも無傷じゃない。ハルグの牙の刃が脇腹を二度かすめて、服が裂け、血が滲んでいた。

 

 ゴルドは剣を構え直す。

 

「……北の蛮族。名は」

 

「ヤルカ」

 

「ヤルカ。おまえ、いくつだ」

 

「じゅうご」

 

 ゴルドの目が、ほんのわずかに揺れた。

 

「十五で、それか」

 

「おまえ、なぜ、むら、ふむ」

 

 あたしは訊いた。息は荒いけれど、訊きたかった。

 

「おまえ、つよい。つよいのに、なぜ、ちいさきもの、ふむ」

 

 ゴルドはしばらく答えず、それから鉄の右腕を持ち上げて見下ろした。

 

「王国のために戦って、腕をなくした。王国は、おれに勲章をひとつくれて、それきりだった。腕のない騎士に、居場所はない」

 

「だから、奪うことにした。強い者が、弱い者から奪う。それが世の中の理だと、戦場で学んだ」

 

「おまえの民も、同じだろう。強い獣を狩って、その骨をかぶる。強い者が、弱い者を喰らう」

 

「ちがう」

 

 あたしは首を振った。

 

「つよいもの、ほろぼすのは、ちいさきもの、ふまれないため」

 

「おまえは、つよいもの、ほろぼさない。ちいさきもの、ふむ。ぎゃく」

 

 ゴルドは黙って、それから低く笑う。

 

「……ぎゃく、か」

 

 剣を構え直した。

 

「なら、試してみろ。おまえの理が、おれの理より強いかどうか」

 

 ゴルドが踏み込んでくる。剣と鉄の拳を、同時に。

 

 あたしはハルグを捨てた。

 

 ゴルドの目が一瞬だけ見開かれる。

 

 剣が胴当ての岩の板を斬り裂いて、脇腹に食い込んだ。痛くて熱い。でも、浅い。

 

 顔面へ来る鉄の拳を、岩喰い熊の爪の籠手で真正面から受け止めた。両手で、鉄の拳をつかむ。

 

 ゴルドが腕を引こうとしても、引けない。

 

 あたしは全身の力を両腕に込めた。白熊を倒した力、岩喰い熊を倒した力、十五年氷原で生きてきた力。

 

 鉄の腕が軋んで、関節の歯車が悲鳴を上げ、青白い光が激しく明滅する。

 

 歯車、鉄板、その奥から乾いた音が鳴った。ばきん、と。

 

 鉄の腕が肘のところで折れて、ゴルドが膝をついた。折れた鉄の腕の断面から、青白い火花がぱちぱちと散っている。

 

 あたしは地面のハルグを拾い上げて、ゴルドの前に立った。

 

 ゴルドは膝をついたまま、あたしを見上げている。剣はまだ左手に握っているけれど、振り上げようとはしなかった。

 

「……殺せ」

 

 ゴルドは言った。

 

 あたしがハルグを振り上げても、ゴルドは目を閉じない。斧を振り下ろすと、刃はゴルドの頭の横をすり抜けて地面に深く突き刺さった。ゴルドがゆっくりと目を動かして、地面の斧を見る。

 

「……なぜだ」

 

「おまえ、もう、つよくない」

 

 あたしは目線を下に向けながら言った。

 

「うで、おれた。ひざ、ついた。けん、ふらない。おれたもの、もう、つよきもの、ちがう」

 

「たみの、おきて。おれたものは、ほろぼさない」

 

 ゴルドはしばらく何も言わず、それから顔を伏せて肩を震わせ始めた。笑っているのか泣いているのか、わからない。

 

「……それで、おれをどうする。村の連中に、引き渡すか」

 

「ヤルカ、しらない」

 

 あたしは斧を地面から引き抜いた。

 

「むらのひと、きめる。ヤルカ、つよいもの、ほろぼした。それだけ」

 

「でも」

 

 背を向ける前に、ひとつだけ言っておく。

 

「つぎ、ちいさきもの、ふんだら。ヤルカ、また、くる」

 

「そのときは、おれたもの、じゃない。ふんだもの。ヤルカ、ふんだもの、ゆるさない」

 

 

 

 砦の男たちは、頭が倒れたのを見るとほとんどが逃げ散っていった。

 

 ゴルドは村人たちに縄をかけられて、領主の町へ引き立てられていったけれど、どうなるのかは知らない。

 

 村の蔵から奪われていた麦と蜂蜜が見つかって村人たちに返され、その夜、ロウエル村の宿屋の扉から板が外される。

 

 宿屋のおかみさんが焼きたての蜂蜜パンを籠いっぱいに持ってきてくれて、あたしはそれをひとつ残らず食べた。その横でティオが、呆れた顔をして見ている。

 

「ヤルカ、傷、痛くないの?」

 

「いたい」

 

「じゃあ、なんでそんなに食べられるの……」

 

「はちみつ、いたみ、けす」

 

「消さないよ! そんな効果ないよ!」

 

 あたしは最後のパンを口に押しこんだ。

 

 甘いのと痛いの。その両方。

 

 ティオがふと真面目な顔になって訊いてくる。

 

「ねえ、ヤルカ。ゴルドの、あの鉄の腕。持ってこなかったね」

 

「もってこない」

 

「魔物を倒したら、骨とか、皮とか、爪とか、使うのに。人間からは、何も取らないの?」

 

「とらない」

 

 あたしは額の上の岩喰い熊の頭骨に、そっと触れた。

 

「ひとの、ほね、かぶらない。ひとの、かわ、きない。たみの、おきて」

 

「どうして?」

 

 少し考えてから答える。

 

「ひとの、ほね、かぶると。ひとを、かりたくなる」

 

 ティオが黙った。

 

「けもの、かる。いきるため。けものの、つよさ、もらう。ありがとう、いう」

 

「ひと、かる。いきるため、ちがう。ひとの、つよさ、もらっても、ありがとう、いえない」

 

「だから、とらない。ヤルカ、ひとを、かるもの、ならない」

 

 ティオはしばらく黙りこんでいて、それから弦楽器を膝に抱えて、ぽろんと一音鳴らした。

 

「……それ、歌に入れていい?」

 

「すきにしろ」

 

 窓の外では、麦畑が夜風にさわさわと揺れている。

 

 額の上の冠は替わらない夜。けれど脇腹の傷の痛みは、しばらく消えそうになかった。

 

* * *

 

 世の中で何がいちばん怖いかと訊かれたら、あたしは迷わず答える。

 

 膝より深い水。

 

 氷原の海は一年のほとんどを凍っていて、凍っていない海はすなわち死。落ちれば数える間もなく手足が動かなくなり、そのまま黒い水の底へ引きずりこまれていく。泳ぐという言葉は民の言葉には存在しないし、泳げる者なんて、ひとりもいないのだから。

 

 だから目の前に広がる川を見たとき、あたしの足はぴたりと止まった。

 

「……ティオ」

 

「うん?」

 

「これ、なに」

 

「川だよ。ルーネ川。灰牙山脈に行くには、ここを渡らないと」

 

 川幅はたぶん斧を二十本並べたくらいで、茶色く濁った水がごうごうと音を立てて流れている。向こう岸の木々がずいぶん小さく見える。

 

「はし、は」

 

「去年の洪水で流されたって。渡し舟があるはずなんだけど……あ、あれかな」

 

 ティオが指さした先の岸には、小さな木の舟が一艘繋がれていた。

 

 ちいさくて薄くて、板の隙間から水が染みこんでいそうなほど頼りない。

 

「……あれ、のる?」

 

「乗るよ?」

 

「しずむ」

 

「沈まないって! 毎日、人を乗せて往復してるんだから!」

 

 あたしが一歩後ずさると、ティオはきょとんとした顔であたしを見て、それから何かに気づいたみたいに目をまんまるくした。

 

「……もしかして、ヤルカ、水、怖いの?」

 

「こわくない」

 

「怖いんだ」

 

「こわく、ない」

 

「岩喰い熊の懐に飛びこんで、鉄腕のゴルドと殴り合った人が、川が怖いんだ」

 

「……ティオ。だまれ」

 

 ティオは口を押さえ、笑いを必死にこらえているらしく肩を震わせていた。

 

 腹が立つのに、足は動かない。

 

 

 

 渡し守は日焼けした無口な爺さんだった。

 

 あたしが舟の縁に片足をかけた瞬間に舟がぐらりと揺れて、あたしは反射的にハルグを握りしめて舟の真ん中にしゃがみこむ。

 

 岩喰い熊の冠に岩の胴当て、爪の籠手に鯨骨の斧と重い装備を全部合わせたら、あたしの体重と同じくらいかもしれない。

 

 落ちたら、浮かぶ見込みはない。

 

「嬢ちゃん、斧、置きな。舟が傾く」

 

「……おかない」

 

「そうかい、好きにしな」

 

 爺さんが竿で岸を突くと、舟は川面へ滑り出していった。

 

 揺れる舟の足の下で茶色い水がざあざあと流れていく。舟の板一枚を隔てたその下は、底の見えない濁流だ。

 

 息が浅くなって、手のひらには汗。頭の上の冠が急にひどく重く感じられて。

 

 ティオが隣に座って、何も言わずにあたしの外套の袖をちょこんとつまむ。

 

「……なに」

 

「べつに」

 

 ティオは川面を見ていた。

 

「おれ、泳げるから」

 

「……」

 

「ヤルカが落ちたら、おれが引っぱり上げる。だから、大丈夫」

 

 あたしはティオの細い腕を見た。あたしを引っぱり上げられるとは、とても思えない腕。

 

「ティオ、よわい」

 

「知ってる」

 

「ヤルカ、おもい」

 

「知ってる」

 

「むり」

 

「たぶん、無理」

 

 ティオは、へへ、と笑った。

 

「でも、引っぱる。無理でも、引っぱる」

 

 舟が川の真ん中で大きく揺れて、あたしはティオの手首をぎゅっとつかんだ。握れば折れてしまいそうな細い手首。

 

 それでもあたしはその手首を離さなかった。向こう岸に着くまで、ずっと。

 

 

 

 その夜は、川を渡った先の森で野営をした。

 

 焚き火の上でティオが町で買った干し魚を炙っているあいだ、あたしは岩喰い熊の冠を外して膝に乗せて布で水晶の汚れを拭いている。

 

 冠を外すと首がすうっと軽くなって、夜風が汗ばんだ額を撫でていく。

 

「ねえ、ヤルカ」

 

 ティオが干し魚をひっくり返しながら言った。

 

「前から訊きたかったんだけど。ヤルカの父さんって、どんな人だったの?」

 

 あたしの手が止まった。

 

「ハルグ、削ってくれた人でしょ? いまは?」

 

「……しんだ」

 

 ティオの手も止まる。

 

「ご、ごめん」

 

「いい」

 

 あたしは冠の水晶を指でなぞった。

 

「ヤルカ、ななつ。とうさん、しんだ」

 

「……病気?」

 

「ちがう」

 

 焚き火がぱちりと爆ぜた。

 

「みなみから、ひと、きた」

 

 あの冬のことはよく覚えている。

 

 南から船が来た。氷の割れ目を縫うようにして、大きな帆船があたしたちの海岸に近づいてくる。

 

 降りてきたのは二十人ほどの人間で、毛皮の外套に鉄の武器、首からはあたしが今つけているのと同じような木札を下げていた。

 

 冒険者。彼らは白い海象を狩りに来たのだった。

 

 氷原の海岸には冬になると白い海象の群れが上がってきて、その牙は雪みたいに白くて長い。民は年に一頭か二頭だけ群れのいちばん年老いた海象を仕留めて、肉と脂と皮と牙を分けあって冬を越す。

 

 南の冒険者たちは、その群れをぜんぶ狩ろうとした。牙だけを取るために。

 

 白い海象の牙は南でものすごく高く売れるらしく、あとで聞かされた話では、貴族の飾り物になったり薬になったりするのだという。

 

 冒険者たちは海岸に並んだ海象を端から順番に殺しては牙を切り落とし、残りはそのまま氷の上に捨てていった。

 

 民は止めに入った。群れがいなくなったら、次の冬に民は飢える。

 

 なのに冒険者たちは蛮族が何か言っている、と笑うばかりで。

 

 とうさんは叔父とほかの男たち五人と一緒に冒険者の前に立ちはだかった。骨の斧と骨の銛と骨の弓で、鉄の剣と鉄の弩の前に。

 

「とうさん、つよかった」

 

 あたしは焚き火を見つめたまま言った。

 

「たみで、いちばん。しろくまの、かむり。ヤルカ、いまの、ヤルカより、ずっと、つよい」

 

「でも、しんだ」

 

「みなみの、ひと、もっと、つよかった」

 

 ティオは何も言わない。そのあいだに、干し魚が焦げはじめていた。

 

「かいぞうの、むれ、ぜんぶ、しんだ。つぎの、ふゆ。たみ、うえた。こども、ふたり、しんだ。としより、みっつ、しんだ」

 

「つよいもの、きた。ちいさきもの、ふまれた」

 

 あたしは膝の上の冠をぎゅっと抱きしめた。

 

「だから、ヤルカ、ほろぼす。つよいもの、ぜんぶ」

 

「もう、だれも、ふまれないように」

 

 しばらくは焚き火の爆ぜる音だけが夜の森に響いていたが、やがてティオが焦げた干し魚を火からおろしてぽつりと言った。

 

「……その冒険者たちは、どうなったの」

 

「しらない。ふね、かえった。みなみへ」

 

「……そっか」

 

 ティオは干し魚を半分に割って、大きいほうをあたしに差し出した。

 

「ヤルカ」

 

「なに」

 

「ヤルカが、その人たちを探してるわけじゃ、ないんだね」

 

 あたしは干し魚を受け取って、少し考えてから首を振る。

 

「さがさない。あのひとたち、だけ、じゃない」

 

「つよいもの、ちいさきもの、ふむ。どこでも。いつでも。あのひとたち、ほろぼしても、また、ほかの、つよいもの、くる」

 

「だから、ぜんぶ」

 

 ティオはしばらく焚き火を見てから、弦楽器を膝に抱えて弦を一本そっと弾く。低く震えるような音。

 

「……ヤルカの歌、最初はさ、北から来た変わった女の子が強い魔物を倒しまくる、かっこいい冒険譚にしようと思ってたんだ」

 

「うん」

 

「でも、ちょっと、変えるかも」

 

「なぜ」

 

「わかんない。でも、変える」

 

 ティオがもう一度弦を弾くと、今度は少しだけ明るい音がした。

 

 

 

 翌朝、森を抜けて街道に出ると、道端の茶店で旅人たちが噂話をしていた。

 

「——灰牙の峠が、また塞がれたってよ」

 

「またか。これで、今年三度目だろう」

 

「飛竜だよ。峠の上の岩山に、巣を作りやがった。隊商が通ると、上から襲ってきて、荷馬ごとさらっていく」

 

「ギルドは、何してるんだ」

 

「A級の依頼が出てるが、誰も受けないらしい。去年、腕利きのパーティが挑んで、半分が焼け死んだって話だ」

 

 ティオがぴくりと耳をそばだてて、それから恐る恐るあたしのほうを振り返る。

 

 あたしはもう、茶店の親父の前に立っていた。

 

「ひりゅう。どこ」

 

 親父はあたしの頭の上の冠を見てぎょっとした顔をしてから、北東の空を指さした。

 

 鋸の歯みたいな灰色の山並みの中でもひときわ高く、牙のように尖った岩山の頂で、黒い点がひとつゆっくりと輪を描いている。鳥にしては大きすぎる。

 

「ひりゅう、りゅう?」

 

「い、いや。竜の仲間だが、竜じゃない。亜竜ってやつだ。本物の竜は、とっくの昔に滅んだって言うからな」

 

「つよい?」

 

「……A級だ。この辺りで、いちばん」

 

 岩山の頂の黒い点をじっと見上げていると、額の上の岩喰い熊の冠が急に少しだけ小さく感じられた。

 

「ティオ」

 

「……うん。わかってる。行くんでしょ」

 

 ティオは溜め息をひとつついてから、背負い袋を担ぎ直した。

 

「ただし、条件がある」

 

「なに」

 

「おれは、今度こそ、ちゃんと隠れてるから。絶対に、前には出ないから」

 

「わかった」

 

「あと、峠の手前の町で、蜂蜜は一壺までね」

 

「……ふたつ」

 

「ひとつ!」

 

「……ひとつ、はん」

 

「半分って何!」

 

 街道を歩き出しながらティオがぷっと吹き出すので、あたしも少しだけ口の端を持ち上げる。

 

 遠くの岩山の上で、黒い点が大きく翼を広げた気がした。

 

* * *

 

 灰牙の岩山は、登るものじゃない。

 

 下から見上げたとき、あたしは本気でそう思った。

 

 垂直の岩壁にはところどころ爪の先ほどの割れ目と鳥の糞で白く汚れた岩棚があって、それが雲の近くまで延々と続いている。

 

 頂上の少し下にある黒い穴がひとつ、それが巣。

 

 穴の縁からは何かの骨がいくつも突き出していた。馬の肋骨に牛の頭蓋、それから錆びた鎧の胸当て。

 

「……ほんとに、登るの?」

 

 麓の岩陰から、ティオが青い顔で見上げている。

 

「のぼる」

 

「落ちたら、死ぬよ」

 

「みず、より、まし」

 

「比べる対象がおかしいって!」

 

 あたしはハルグを背中に括りつけ、籠手の爪を岩の割れ目に引っかけた。石を掻き崩すための岩喰い熊の爪は、岩に食いこませると驚くほどよく効く。

 

 右手に左足、左手に右足と身体を岩壁に貼りつけるようにして少しずつ上へ。

 

 風が強くて、外套がばたばたとはためいては身体ごと岩から引き剥がそうとしてくるし、頭の上の冠は風を受けて首をぐいぐい後ろへ引っぱる。

 

 下は見ないで上だけを見る。指先の感覚がなくなってきたけれど、それでも登る。

 

 

 

 巣の穴まであと三十歩ほどの岩棚にたどりついたのは、日が傾きかけた頃。

 

 あたしは岩棚の上に腹ばいになって荒い息を整えた。腕がぶるぶると震えて、指の皮は何か所も剥けて血がにじんでいる。

 

 巣の中から流れてくるのは腐った肉と焦げた骨と硫黄の匂い。それから、竜の匂い。

 

 竜なんてとっくに滅びたものだから、見たことはない。なのにその匂いを嗅いだ瞬間、身体の奥がぞくりと粟立った。

 

 古くて、熱くて、乾いていて、何もかもを見下ろしている匂い。穴の奥で何かが動いて、赤い目がふたつ闇の中に灯る。

 

 あたしはハルグを背中から外した。飛竜が巣から這い出してくる。

 

 ……大きい。

 

 翼をたたんだ状態で岩喰い熊の二倍はあって、翼を広げたらたぶんハーヴェンの広場の端から端まで届くほど。

 

 全身を赤黒い鱗が覆っている。長い首に長い尾、尾の先には槍の穂先みたいな骨の棘。頭の後ろからは二本の角が後ろへ反り返るように伸びていた。

 

 前脚はなく、その代わりに翼の先に鉤爪があって、後ろ脚の太い爪で岩をがっちりとつかんでいる。

 

 飛竜は長い首をもたげてあたしを見下ろし、赤い目を細くした。それから顎を大きく開くと喉の奥で何かが光る。オレンジ色の光。

 

「——ッ!」

 

 あたしが岩棚から飛び降りた真上を、炎が通り過ぎていく。

 

 熱い。外套の裾が一瞬で焦げて縮み、岩喰い熊の頭骨の後ろ半分が熱でじりじりと焼ける。

 

 一段下の岩棚に着地して転がり、また立ち上がって見上げると、飛竜が翼を広げていた。

 

 影があたしの上に落ちてきて、空が赤黒い翼で塞がれる。

 

 飛竜は巣から身を投げるようにして崖の外へ飛んだ。広げた翼が風をとらえて、巨体がふわりと宙に浮かぶ。

 

 そして、あたしの頭上に大きな円を描いて旋回する。

 

 届かない。斧が、届かない。

 

 空からあたしを見下ろしている飛竜の赤い目は、面白がっているようにも見えた。

 

 急降下してきた飛竜の後ろ脚の爪が、あたしをつかもうと開く。

 

 あたしが振り上げたハルグと爪がぶつかって、火花。飛竜はそのまま上昇してまた空へ戻っていく。

 

 あたしの足もとの岩棚が爪に削られて、半分崩れ落ちた。

 

 また旋回して、また急降下。今度は尾だ。

 

 槍の穂先みたいな棘が横薙ぎに飛んでくるのを斧の柄で受けると、その衝撃で身体が岩壁に叩きつけられる。

 

 岩喰い熊の冠が、がつん、と岩にぶつかった。嫌な音とともに頭骨の角の部分にひびが入る。

 

 飛竜がまた炎を吐く。岩壁の窪みに身体を押しこんでやり過ごすと、窪みの外側が真っ赤に焼けてしゅうしゅうと湯気を立てていた。このままじゃ、焼かれて終わり。

 

 届かないなら、届くところまで行くしかない。

 

 あたしは窪みの中で、両手が空くようにハルグを腰の後ろに括りつけ直した。外套を脱ぎ捨てる。重いし風に煽られるし、邪魔。

 

 それから窪みを出て岩棚の端に立つと、崖の下は何も見えず、雲が足もとを流れていく。

 

 飛竜が旋回しながらこちらを見ていた。あたしは両腕を広げて、武器を持っていない空っぽの両手を見せつける。

 

「こい」

 

 民の言葉で叫ぶ。

 

「こい! そらの、つよきもの!」

 

 飛竜が吠えて急降下してくる。今度は爪を大きく開いて、あたしをつかみ取るために、獲物をさらって空へ連れ去るために。

 

 爪があたしの両肩をつかみ、岩の胴当ての縁に食いこんだ。痛い。でも胴当てが、爪が肉に届くのを止めてくれている。

 

 足が岩棚から離れ、身体が空へ持ち上げられていく。

 

 風と轟音。

 

 崖があっという間に遠ざかって、眼下に灰色の山並みが広がる。雲の切れ間から、麓の岩陰で小さく跳ねている緑色の点が見えた。

 

 ティオだ。たぶん、あたしの名前を叫んでる。

 

 あたしは両手を伸ばして、自分の肩をつかんでいる飛竜の脚を握りしめた。籠手の岩喰い熊の爪を鱗の隙間に突き立てる。

 

 飛竜が驚いたように身をよじったけれど、あたしはその脚をよじ登り始めた。鱗から鱗へ爪を立てて。

 

 飛竜が暴れ、あたしを振り落とそうと空中で身体を左右に振る。

 

 落ちない。握った手を、離さない。

 

 膝まで、腿まで、腹まで。

 

 飛竜の腹は岩喰い熊と同じで鱗が薄かった。空を飛ぶには身体を曲げなきゃいけなくて、曲げる場所には硬い鱗をつけられない。

 

 腹から翼の付け根へと、飛竜の背中に這い上がる。

 

 風が顔を殴りつけてきて目が開けていられず、耳がちぎれそう。

 

 腰の後ろからハルグを引き抜き、片手で飛竜の背の突起にしがみついたまま、もう片方の手で斧を振りかぶる。

 

 狙いは左の翼の付け根、翼を動かす太い筋の集まるところ。

 

 振り下ろす。

 

 岩喰い熊の牙の刃が、鱗の継ぎ目を割って筋肉に深く食いこんだ。

 

 飛竜の悲鳴が空を裂いて、左の翼がだらりと垂れ下がる。

 

 巨体が傾き、そして落ちていく。螺旋を描きながら、灰色の山肌へ向かって。

 

 飛竜の背中に両手両足でしがみついたあたしの目の前に、地面が迫ってくる。

 

 岩、岩、岩。砂礫の斜面。

 

そして、世界がひっくり返った。

 

 

 

 気がつくと、あたしは砂礫の斜面に仰向けに寝転がっていた。

 

 青い空が見える。

 

 身体じゅうが痛くて、どこが痛いのかわからないくらい全部が痛い。それでも指は動いたし、足も動いた。

 

 首を横に向けると、すぐそばに飛竜が横たわっている。

 

 長い首が砂礫の上に投げ出されていた。左の翼は根元から折れ曲がり、右の翼も落ちたときの衝撃で骨が突き出している。

 

 赤い目はまだ開いていたけれど、もう炎は灯っていない。

 

 あたしは這うようにして飛竜の頭のそばまで行った。膝をつこうとして失敗し、そのまま横に倒れこんで、横になったまま両手を伸ばして飛竜の目を覆う。

 

「……おまえは、つよかった」

 

 声がかすれる。

 

「そら。はじめて、とんだ。こわかった。でも、きれい、だった」

 

「おまえの、つよさを、あたしが、もらう」

 

「あたしの、あたまの、うえで。もういちど、そらを、みて」

 

 飛竜の息が長く、長く吐き出されていって、そして止まった。

 

 

 

「——ヤルカぁぁ!」

 

 斜面の下からティオの声が聞こえてきたのは、それからどれくらい経ってからか。

 

 ティオは泣きながら砂礫の斜面を駆け上がってきて、あたしの横に崩れるように膝をついた。

 

「生きてる!? 生きてる!? 生きてるよね!? 落ちたんだよ!? 空から!!」

 

「……いきてる」

 

「よかったあぁぁ……!」

 

 ティオはあたしの胸に顔を押しつけて、わんわん泣き出した。

 

 重いし痛いし、肋骨もたぶん二本くらい折れているけれど、どかす気にはなれなかった。

 

* * *

 

 冠替えの儀は、三日後。

 

 飛竜の頭骨は、ティオと二人がかりで丸一日かけて取り出した。

 

 現れた頭骨は細長く優美な形をしている。後頭部から二本の角が後ろへ長く反り返り、上顎には短剣みたいな牙がずらりと並んで、赤黒い鱗の痕が骨の表面にうっすらと模様のように残っていた。

 

 岩喰い熊の頭骨の角には、飛竜の尾の一撃をあたしの代わりに受けてくれたひびが入っている。

 

 北がよく見える斜面の上の岩に、石を積んで小さな祠を作る。

 

「ありがとう」

 

 眼窩をのぞきこむ。

 

「おまえの、つめ、いわ、つかめた。おまえの、きば、ひりゅう、きれた。おまえ、いっしょに、たたかった」

 

「きたへ、かえって」

 

 岩喰い熊の頭骨を祠の中に北を向けて置き、それから飛竜の頭骨を額に据えた。

 

 軽くて驚いた。見た目の大きさのわりに岩喰い熊よりずっと軽いのは、空を飛ぶ獣の骨の中が空洞になっているからかもしれない。

 

 眼窩の穴から見る世界はまた少し高くなったけれど、今度は狭くならない。なぜだか、少しだけ広くなった気がした。

 

 

 

 麓の町の鍛冶屋は飛竜の素材を見て腰を抜かし、それから目の色を変えて五日間鍛冶場に籠りっきりになった。

 

 出てきたとき、鍛冶屋の手には見たこともないほど美しい装具が抱えられている。

 

 外套は飛竜の翼の膜をなめして仕立てたもの。深い、深い赤で、陽に透かすと血管の跡が葉脈みたいに浮かび上がる。風を受けるとふわりと大きく膨らんで、まるであたしの背中から翼が生えたみたいに見えた。

 

 肩当てと脛当ては赤黒い鱗を一枚一枚革の上に重ねて縫い止めたもので、岩の胴当ては飛竜の鱗で継ぎ直された。

 

 そして、ハルグ。

 

 鯨骨の柄はそのままに、刃の縁には岩喰い熊の牙に重ねて飛竜の牙が嵌めこまれ、刃の背には尾の先の骨の棘が鋭い鉤のように添えられている。

 

「こいつは、もう、骨の斧なんて代物じゃねえ」

 

 鍛冶屋は汗を拭いながら言った。

 

「おれが五十年生きてきて、いちばんの仕事だ」

 

 あたしが全部を身につけて鍛冶場の外に出ると、通りを歩いていた人間たちが足を止めた。

 

 ひそひそ声に、息を呑む音。子どもが母親の後ろに隠れる。

 

 飛竜の冠に飛竜の外套、飛竜の鱗に飛竜の牙の斧。

 

 ティオが少し離れたところから、ぽかんと口を開けてあたしを見ていた。

 

「……ヤルカ」

 

「なに」

 

「なんか、もう……すごいね」

 

「すごい?」

 

「うん。なんていうか……歌の中の人みたい」

 

 あたしが翼の外套の裾をつまんでひらりと振ってみると、赤い膜が陽を透かして足もとに赤い影を落とす。

 

 額の上で飛竜の角が風を切ってひゅう、と鳴った。

 

「ティオ」

 

「うん?」

 

「はちみつ。ふたつ」

 

「……今日は、特別に、ふたつでいいよ」

 

 ティオは泣き笑いの顔で、そう言った。

 

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