2代目勇者パーティーには勇者が居ない   作:あめざり

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第2話 骨冠のヤルカ 後編

 王都は壁でできている。

 

 城壁も家の壁も塀も門も柵も、どこを見ても石と煉瓦ばかりで、それが空を四角く切り取っている。氷原には壁なんてひとつもなかったのに。遠くまで見渡せない場所はそれだけで落ち着かない。

 

 そして人。

 

 ハーヴェンの十倍、いや百倍かもしれない。大通りは朝から晩まで人の流れが途切れないのに、その流れの中を飛竜の冠と翼の外套で歩いていくと、人の波が勝手に左右へ割れていく。

 

「……ヤルカ、目立ちすぎ」

 

「しかたない」

 

「いや、うん、仕方ないんだけどさ」

 

 ティオはあたしの外套の陰に隠れるようにして歩いている。

 

 目指すのは王都の冒険者ギルド本部で、目的はひとつ。

 

 この国でいちばん強いものは、誰か。

 

* * *

 

 ギルド本部はハーヴェンのギルドを十個重ねたみたいな、石造りの大きな建物で、中に入った瞬間に広間じゅうの視線があたしの頭の上に集まった。

 

 ざわめき、それからしんとした沈黙。

 

 受付の奥から慌てた様子で出てきたのは、胸に金色の徽章をつけたひげの長い老人だった。ギルドの偉い人らしい。

 

「……灰牙の飛竜を落としたという、北の娘か」

 

「ヤルカ」

 

「話は、ハーヴェンと灰牙の支部から聞いている。登録からふた月足らずで、B級とA級を単独討伐。本部としても、無視できん」

 

 老人はあたしの首の木札を手に取って、C級の刻印をしげしげと眺めてから、懐から取り出した新しい木札をあたしの首にかけ替えた。

 

 刻印は、A。

 

「特例だ。本来なら、実績を重ねて審査を——」

 

「いちばん、つよい、だれ」

 

 その言葉を途中で遮ると、老人は目をぱちくりさせた。

 

「……なんだと?」

 

「このくに。いちばん、つよいもの。だれ」

 

 老人はしばらくあたしの顔を見つめていたけれど、やがて広間の奥の壁の一角を指さした。そこにはほかの依頼書とは違う黒い縁取りの紙が、一枚だけ貼られている。

 

 黒い縁取りの紙に描いてあったのは、人の女の姿だった。でも右腕がなくて、左腕と両脚は鱗に覆われた竜のそれ。頭には角のような突起があり、尾もある。

 

 その下の大きな文字を、ティオが小声で読み上げてくれた。

 

「……混竜の戦乙女、イゼルヴァ。危険度、S級。報酬、金貨一万五千枚。生死、問わず」

 

「こんりゅう」

 

「古い戦争の時代に作られた、竜と魔物の混ざりものだって。一年くらい前に、北の村を焼いて、勇者様に討伐されて、捕まって……それから、王宮で貴族を殺して、逃げたんだ」

 

「いま、どこ」

 

「北の黒樫の森のもっと奥のどこか。冒険者が何組も狩りに行って、誰も帰ってこないか、何も見つけられずに戻ってくるか」

 

 あたしは紙の中の、片腕の女の絵をじっと見上げた。

 

 竜。

 

 竜は滅んだと聞いたけれど、竜の混ざったものならまだいる。

 

 胸の奥で何かがぐらりと揺れて、それからあたしは老人を振り返る。

 

「こいつ、いちばん?」

 

「……いいや」

 

 老人は首を振った。

 

「そいつは、ある男に、一度負けている」

 

「だれ」

 

「勇者だ」

 

 老人は広間の反対側の、窓際の卓を顎で示した。

 

「ちょうど、そこにいる」

 

 窓際の卓に座っていたのは、四人の男女だった。白い法衣の女に、赤い髪を乱暴に束ねた小柄な娘、卓の横に大楯を立てかけた髭面の大男。

 

 そして、黒髪の青年。

 

 歳は二十を少し過ぎたくらいで、背は高いけれど特別に筋骨隆々というわけでもない。腰には白銀の鞘の剣を下げていて、左の頬に三本の平行な傷痕がある。

 

 爪痕だと一目でわかった。何か大きな獣の、いや、獣じゃない。爪の間隔が獣にしては狭すぎる。人の手ぐらいの大きさの、鋭い爪だ。

 

 あたしが卓の前まで歩いていくと、四人が顔を上げて、赤い髪の娘があたしの頭の上の冠に目を丸くした。

 

「うわ、なにそれ。飛竜? ほんもの?」

 

 あたしは娘を無視して、黒髪の青年だけを見ていた。

 

「おまえ、ゆうしゃ」

 

「……そうだけど」

 

「おまえ、いちばん、つよい」

 

 青年は少し困ったような顔をする。

 

「さあ、どうかな。一番かどうかは、わからない」

 

「ヤルカ、おまえと、たたかう」

 

 広間が静まり返った。

 

 赤い髪の娘は椅子からずり落ちそうになり、白い法衣の女は口元を押さえて、大楯の大男だけが表情を変えずにあたしをじっと見ている。

 

 青年はあたしの顔をしばらく見つめてから、静かに言った。

 

「断る」

 

あたしは多分、驚いた顔をしていたと思う。戦いを断る相手なんて、滅多にみた事がなかったから。

 

「……なぜ」

 

「理由がないから」

 

 青年——勇者は卓の上のカップを手に取って、ひとくち飲む。

 

「君のことは、少し聞いてる。北から来た骨冠の民の子。岩喰い熊と飛竜を単独で倒した。それから、ロウエル村で、鉄腕のゴルドを倒して、村人から奪った麦を返させた」

 

「……しってる」

 

「ギルドは、噂が回るのが早いんだ」

 

 勇者がカップを置いた。

 

「君は、誰も踏んでいない。弱い者を傷つけていない。むしろ、助けてる。そんな相手と、剣を交える理由が、おれにはない」

 

「ヤルカ、ある」

 

「それは、君の理由だろう」

 

 勇者は少しだけ笑ったけれど、その笑い方が妙に腹立たしい。

 

「おまえ、つよい。ヤルカ、つよいもの、ほろぼす。それ、ヤルカの、りゆう」

 

「強いから、戦う?」

 

「つよいもの、いつか、ちいさきもの、ふむ。だから、ふむまえに、ほろぼす」

 

「おれが、いつか弱い者を踏むって?」

 

「……ふまない、かも。でも、ふむ、かも」

 

 勇者はしばらく黙っていたあと、頬の三本の傷痕に指先でそっと触れた。

 

「……わからないな」

 

「なに」

 

「おれが、いつか、弱い者を踏むかどうか。自分でも、わからない」

 

 赤い髪の娘が「ユウト」と咎めるような声を出したのを、勇者は手で制した。

 

「前に、ある魔物と戦った。そいつは、村を焼いて、人を殺した。おれは、そいつを倒した。正しいことをしたと思った」

 

「でも、そいつが村を焼いたのには理由があって、その理由の奥には、人間の、ひどい強さがあった。おれは、それを知らずに、そいつを倒した。結果的に、そいつは、もっとひどい目に遭った」

 

「おれは、弱い者を踏まなかった。でも、踏まれた者を、さらに踏んだ」

 

 勇者の声は静かだった。

 

「だから、わからない。おれが、いつか、弱い者を踏むかどうか」

 

「……なら、ヤルカ、ほろぼす」

 

「それでも、断る」

 

 立ち上がった勇者はあたしより頭ふたつ背が高い。見下ろされているのに、その目には威圧も嘲りもない。

 

「君が、おれを本気で殺しに来るなら、おれは剣を抜く。でも、君の側から、理由を作ることはできない。『いつか踏むかもしれないから』は、理由にならない」

 

「それは、君自身にも当てはまるから」

 

 あたしの手が止まった。

 

「君も、強い。飛竜を落とせるくらいには。君も、いつか、弱い者を踏むかもしれない。だったら、君は、君自身を滅ぼすのか?」

 

 

 

 勇者一行が去ったあとも、あたしはしばらく窓際の卓の前に立ち尽くしていた。額の上の飛竜の冠が重い。

 

 軽いはずなのに。

 

「ヤルカ……」

 

 ティオが恐る恐る、外套の裾を引っぱる。

 

「大丈夫?」

 

「……だいじょうぶ」

 

「嘘でしょ」

 

「……うそ」

 

 あたしは窓の外の四角い空を見た。壁に切り取られた、狭い空。

 

「ティオ」

 

「うん」

 

「あいつ、つよい」

 

「そうだね」

 

「たたかわなかった。でも、わかる。ヤルカより、つよい」

 

 ティオは黙って聞いている。

 

「あいつ、いった。ヤルカも、いつか、ふむかも」

 

「……うん」

 

「ヤルカ、ふまない」

 

 あたしは拳を握りしめた。

 

「ぜったい、ふまない。たみの、おきて。ちいさきもの、ふむな」

 

「でも」

 

 声が小さくなる。

 

「ぜったい、って。どうして、わかる」

 

 ティオはしばらく何も言わずにいたけれど、やがてあたしの手をそっと取って、握りしめた拳を指で一本ずつほどいていく。

 

「ヤルカ」

 

「なに」

 

「おれは、ヤルカに、何回も守ってもらった。ハーヴェンのギルドで。川の上で。飛竜の崖の下で」

 

「……」

 

「ヤルカが、いつか、おれを踏むかどうか。おれにも、わかんない」

 

「でも、少なくとも、今日のヤルカは、踏んでない」

 

 ティオはほどいたあたしの手のひらに自分の手のひらを重ねた。ちいさくて温かい手だ。

 

「それじゃ、だめ?」

 

 あたしは答えられなかった。答えられないまま、ティオの手をそっと握り返す。

 

 

 

 その夜、王都の宿屋の窓から北の空を見上げた。王都の灯りで星はほとんど見えないのに、冠星だけはかろうじて薄く光っている。

 

 民の誓い。

 

 強きもの、すべて、ほろぼす。

 

 あの勇者も強きもの、壁の紙の中の片腕の混竜も強きもの、そして、あたしも。

 

 飛竜の冠を外して膝の上に乗せると、赤黒い鱗の痕が骨の表面にうっすらと模様を描いている。

 

 この冠をかぶったとき、世界が少しだけ広くなった気がしたのに、今夜は少しだけ狭い。

 

「……とうさん」

 

 民の言葉で呟く。

 

「ヤルカ、つよく、なった。でも、わからないこと、ふえた」

 

 答えはない。

 

 窓の外で王都の鐘が、夜更けを告げていた。

 

* * *

 

 その匂いに気づいたのは、王都の東の市場を歩いていたときだった。香辛料と焼き菓子と革の匂いが混ざりあう人混みの中で、ほんの一筋だけ懐かしい匂いが鼻をかすめたのだ。

 

 冷たい海と脂、それから古い氷。

 

 あたしは足を止めた。

 

「ヤルカ?」

 

 ティオの声も耳に入らないまま、匂いを辿って人混みを掻き分けていく。

 

 たどり着いたのは市場の奥のひときわ立派な店構えで、硝子の窓の向こうに白いものがずらりと並べられている。

 

 牙。

 

 雪みたいに白くて長い牙が、花の形に、鳥の形に、女神の形に彫られていた。細かく、細かく、美しく。

 

 店の看板には金の文字で、こう書かれていた。

 

「……白牙商会」

 

 追いついてきたティオが読み上げる。

 

「北の海象牙の専門店。王侯貴族御用達。……ヤルカ、これって」

 

 あたしは答えずに、硝子の向こうの白い牙を見つめていた。

 

 八つの冬の前の氷原の海岸。牙を切り落とされて氷の上に捨てられた、何百頭もの白い海象。

 

 とうさんの、骨の斧。

 

 

 

 ティオはその日のうちに白牙商会のことを調べ上げてきた。見習いとはいえ吟遊詩人で、酒場で歌をひとつ歌えば、酔っぱらいの口は驚くほど軽くなるらしい。

 

「白牙商会は、三十年前にできた商会。会頭は、ロドリゴっていう爺さん。北の海象牙を、王国でほとんど独り占めしてる」

 

「毎年、夏の終わりに、南の港町から船を出すんだって。冒険者を雇って、北の海まで行って、海象を狩って、牙だけ持って帰ってくる」

 

「雇われてるのは、銀狼団っていう、A級の傭兵冒険者団。団長はヘルマン。もう二十年以上、白牙商会の船に乗ってるって」

 

 ティオはそこで言葉を切って、あたしの顔をそっとうかがう。

 

「……今年の船は、ひと月後に出るって」

 

 あたしは宿屋の窓から、東の空を見ていた。

 

「ティオ」

 

「うん」

 

「ロドリゴ。つよい?」

 

 ティオは少し考えこむ。

 

「……身体は、弱いと思う。六十過ぎの、太った爺さんらしいし。剣なんて、持ったこともないんじゃないかな」

 

「でも、お金は、ものすごく持ってる。貴族にも顔がきく。王宮の役人にも」

 

「つよい」

 

「……うん。強い。ヤルカの言う強さとは、たぶん、違う強さだけど」

 

* * *

 

 次の日、あたしは白牙商会の本店を正面の扉から訪ねた。

 

 門番が二人で槍を交差させて止めようとしたので、その槍を片手ずつつかんで、そのままひょいと脇へ押しのける。門番たちは槍ごと横の植えこみに転がっていった。

 

 中は広くて明るくて、白かった。壁一面に彫刻された牙が飾られ、床は磨かれた石で、天井からは硝子の灯りが下がっている。

 

 奥の階段を上がって、いちばん上の階の、いちばん大きな扉を押し開ける。

 

 部屋の真ん中の大きな机の向こうに、太った老人がひとり座っていた。

 

 ロドリゴ。

 

 ティオの言ったとおりの丸い顔に二重顎、指にはいくつもの金の指輪。

 

 ロドリゴは扉を押し開けたあたしを見ても、少しも驚いた様子を見せなかった。

 

「……ああ。噂の、骨冠の娘か」

 

 ゆっくりと手元の帳面を閉じる。

 

「下の騒ぎで、そろそろ来る頃だと思っていたよ。座るかね」

 

「すわらない」

 

「そうか」

 

 ロドリゴは机の上で指を組んだ。

 

「で、何の用だね。飛竜の冠の娘が、わしのような年寄りに」

 

「うみ。きたの、うみ。かいぞう」

 

 あたしは机の前に立つ。

 

「おまえ、ふね、だす。かいぞう、かる。きば、だけ、とる」

 

「そうだが」

 

「やっつのふゆ、まえ。おまえのふね、きた。ヤルカの、たみのうみ」

 

「とうさん、しんだ。おまえのふねの、ひとに、ころされた」

 

 ロドリゴはしばらく黙っていて、それから小さく息を吐いた。

 

「……そうか。それは、気の毒なことをした」

 

 その声には何の重さもない。天気の話をするみたいな、軽い声だった。

 

「だがね、娘さん。わしは、誰にも、人を殺せとは命じておらん。わしは、牙を買っているだけだ。船を出して、冒険者を雇って、牙を持って帰らせる。その途中で何が起きたかは、現場の者の判断だよ」

 

「……」

 

「それで、どうするね。わしを、殺すかね」

 

 ロドリゴが両手を広げる。

 

「見てのとおり、わしは、ただの太った年寄りだ。剣も持っておらん。君のその斧なら、ひと振りで、首が飛ぶだろう」

 

「だが、ひとつ言っておこう」

 

 ロドリゴは身を乗り出した。

 

「わしを殺しても、来年は、別の商会が船を出す。北の海象牙は、王都で、金貨何百枚という値がつく。欲しがる者がいる限り、誰かが、必ず、船を出す」

 

「君の斧は、わしの首は落とせる。だが、王都の貴族たちの、欲しいという気持ちは、落とせまい」

 

 あたしは気付けば、ハルグの柄に手をかけていた。いったいいつからそうしていたのか、それすらわからない程に。

 

 振り上げれば、終わる。

 

 この老人は強い。金という強さで北の海を踏みつけてきたのに、身体は弱い。

 

 弱いものとは戦わない。

 

 小さきもの、踏むな。

 

 この老人は小さきもの?

 

 違う。

 

 でもハルグを振り下ろせば、あたしは剣も持たない老人の首を刎ねることになって、それは戦いじゃない、ただの踏みつけだ。

 

 柄の上で震えている指をロドリゴはじっと見ていた。それから口の端をほんの少しだけ持ち上げる。

 

「……やはり、斬れんか」

 

「……」

 

「噂どおりだ。骨冠の娘は、弱い者とは戦わん。だから、わしのような年寄りは、斬れん」

 

 ロドリゴは帳面を開き直した。

 

「帰りたまえ。わしは忙しい。来月の船の支度があるのでね」

 

 

 

 白牙商会を出るまで、あたしは何も壊さなかったし、誰も傷つけなかった。

 

 通りに出ると、ティオが心配そうな顔で待っていた。

 

「ヤルカ……」

 

「ティオ」

 

「うん」

 

「ヤルカの、おの、とどかない」

 

 ティオは黙った。

 

「あいつ、つよい。でも、からだ、よわい。ヤルカ、たたかえない」

 

「あいつ、ころしても、つぎ、くる。ほしいひと、いるかぎり」

 

「ほしいひとの、ほしいきもち。おので、きれない」

 

 通りの向こうで着飾った貴婦人が白牙商会の店に入っていき、硝子の窓の前で牙の女神像を指さして、うっとりとした顔をしている。

 

「……ヤルカ、どうすれば、いい」

 

 ティオはしばらく何も言わなかったけれど、それから背中の弦楽器を下ろした。

 

「ヤルカの斧は、あのお爺さんには届かない。貴族たちの欲しい気持ちにも、届かない」

 

「……うん」

 

「でも、ヤルカの斧が届くものも、ある」

 

 ティオは東の方角を指さした。

 

「銀狼団。船に乗る、冒険者たち。あの人たちは、弱くないでしょ?」

 

* * *

 

 南の港町、セイレン。

 

 白牙商会の船は港の外れの桟橋に繋がれていて、三本の帆柱を持つ大きな船の甲板の上を、荷を積みこむ人足たちが忙しそうに行き来している。

 

 桟橋の手前にたむろしていたのは、揃いの灰色の外套の胸に銀色の狼の徽章をつけた二十人ほどの男女。

 

 銀狼団。

 

 その真ん中の木箱にひときわ大柄な男が腰かけていた。五十前後で白髪混じりの髭、顔じゅうに古い傷痕があり、背中には巨大な両手剣。

 

 ヘルマン。

 

 あたしが桟橋の入口に姿を現すと、銀狼団の団員たちが一斉に振り返った。飛竜の冠に翼の外套、牙の斧。どよめきが港の風に乗って広がっていく。

 

 ヘルマンはゆっくりと木箱から立ち上がり、あたしの頭の上の冠を長いあいだ見上げてから低い声で言った。

 

「……骨冠の民か」

 

「ヤルカ」

 

「白熊の冠を、見たことがある」

 

 ヘルマンは目を細めた。

 

「八年前。北の海岸で。骨の斧を持った男が、白熊の頭骨をかぶって、おれたちの前に立った。海象の群れを守るために」

 

 あたしの心臓が、どくんと鳴った。

 

「強い男だった。うちの団員を三人、骨の斧で倒した。おれが相手をして、ようやく、止めた」

 

「……おまえが」

 

「ああ」

 

 ヘルマンは背中の両手剣を、ゆっくりと抜いた。

 

「おまえの父親か」

 

 桟橋の上であたしとヘルマンが向かいあうと、銀狼団の団員たちが輪になって取り囲み、港の人足たちは荷を放り出して遠巻きに見物している。

 

 ティオは少し離れた倉庫の陰にいて、約束どおり前には出ない。

 

 ヘルマンの剣は大きかった。刃の幅があたしの手のひら二枚分もあって、長さはハルグと変わらない。

 

「仇討ちか」

 

 ヘルマンが訊いた。

 

「ちがう」

 

 あたしはハルグを構える。

 

「つよいもの、ほろぼす。おまえ、つよい。ちいさきものの、うみ、ふむ」

 

「それだけ」

 

 ヘルマンは少しだけ口の端を歪めた。

 

「……親父と、同じ目をしてるな」

 

 踏み込んでくる。

 

 速い。大きな身体と大きな剣なのに、ゴルドより速い。

 

 横薙ぎの一撃をハルグで受けると、両腕が肩まで痺れて受けきれずに身体が横に流された。ヘルマンは止まらず、刃を返しもう一閃を放つ。あたしは咄嗟に飛竜の鱗の肩当てで受け流すと、鱗が二枚弾け飛んだ。

 

 強い。

 

 鉄腕のゴルドより、岩喰い熊より、たぶん飛竜より。二十年も北の海と南の港を行き来して戦い続けてきた男の、とうさんを止めた強さ。

 

 でも、今のあたしはとうさんより強い。

 

 とうさんが持っていなかったものを、あたしは持っている。岩喰い熊の爪と飛竜の牙、飛竜の鱗、そして飛竜の背中の上で空の風に吹かれた記憶。

 

 ヘルマンが三度目の一撃を振りかぶったとき、あたしは翼の外套をばさりと広げた。赤い膜がヘルマンの視界を一瞬だけ塞いで、その一瞬に低く、低く潜りこむ。

 

 ヘルマンの剣が外套の膜を切り裂いて空を斬ったとき、あたしはもうヘルマンの懐の内側にいた。

 

 ハルグを下から振り上げる。狙いは剣を握る両手だ。

 

 飛竜の牙の刃がヘルマンの剣の柄を握った指ごと打ち据えて、両手剣が宙に舞った。くるくると回って、桟橋の板に突き刺さる。

 

 ヘルマンは両手を押さえて膝をついた。指が何本か、あらぬ方向に曲がっている。

 

 ハルグの刃をヘルマンの首の横に当てると、港じゅうが息を呑んで静まり返った。

 

「……殺せ」

 

 ゴルドと同じ言葉を、ヘルマンは言った。

 

 あたしはヘルマンの目を見た。疲れた目で、二十年分の北の海の冷たさがそこに沈んでいる。

 

「おまえ、おれた」

 

 あたしは言った。

 

「ゆび、おれた。けん、とんだ。ひざ、ついた。もう、つよきもの、ちがう」

 

「……」

 

「でも、ひとつ、きく」

 

 斧の刃を首から離さずに。

 

「とうさん。さいご、なんて、いった」

 

 ヘルマンは長いあいだ黙りこみ、港の風が二人の間を吹き抜けていく。

 

「……『群れを、残せ』」

 

 ヘルマンは低い声で言った。

 

「おれが、とどめを刺す前に。北の言葉で何か言って、それから、たどたどしい大陸の言葉で、そう言った」

 

「群れを、全部は狩るな。一頭でいいから、残せ。そうすれば、また、増える」

 

「おれは、それを、聞かなかった」

 

 ヘルマンは顔を伏せた。

 

「団長だったからな。依頼主の注文どおりに、全部狩った。それが、仕事だった」

 

 あたしはハルグを首から離して、桟橋に突き刺さったヘルマンの両手剣を片手で引き抜いた。

 

 重い。

 

 その剣を港の海へ放り投げると、水しぶきがひとつ上がって、深い水の底へ沈んでいく。

 

「ことし、ふね、でない」

 

 あたしは銀狼団の団員たちを見回した。

 

「でたら、ヤルカ、ふねに、のる。きたの、うみで、ぜんぶ、しずめる」

 

 誰も何も言わずに、倒れた団長と翼の外套の娘を交互に見ていた。

 

 やがて一人が胸の銀狼の徽章を外して、桟橋の上に置く。

 

 また一人。

 

 また一人と。

 

* * *

 

 その年、白牙商会の船は港を出なかった。銀狼団は解散して、ほかの冒険者団に声がかけられたけれど、飛竜の冠の娘が北の海で待っていると聞いて、誰も首を縦に振らなかったらしい。

 

 来年はわからないし、再来年もわからない。

 

 ロドリゴの言ったとおり、欲しい人がいる限り、いつか誰かがまた船を出す。あたしの斧はそこまでは届かない。

 

 セイレンの港の酒場でティオは毎晩歌を歌った。北の氷原の白い海象の歌と、骨の斧で群れを守ろうとした白熊の冠の男の歌。

 

 「群れを、残せ」と言い残して倒れた、ひとりの父親の歌。

 

 最初は誰も聞いていなかったのに、三日目には酒場の親父が手を止めて聞いていて、七日目には港の人足たちがティオの前に集まるようになった。十日目にはどこかの商家の奥方が涙を拭きながら、ティオの帽子に銀貨を一枚落としていく。

 

「ヤルカの斧が届かないところには、おれの歌が届くかもしれない」

 

 ティオは酒場の片隅で、弦を拭きながら言った。

 

「届かないかもしれない。でも、歌ってみる。ヤルカが、届かなくても、斧を振るみたいに」

 

 あたしは蜂蜜酒の杯を両手で包んだまま、ティオの横顔を見ていた。細い腕に薄い胸、握れば折れてしまいそうな手首。

 

 弱い。

 

 どうしようもなく弱いのに、あたしの斧が届かない場所に、届こうとしている。

 

「……ティオ」

 

「うん?」

 

「おまえ、つよい」

 

 ティオが目を丸くする。

 

「え、おれ? おれが?」

 

「ヤルカと、ちがう、つよさ」

 

 ティオはしばらくきょとんとしてから、顔を真っ赤にして弦楽器で顔を隠した。

 

「……ほろぼさないでよ?」

 

「ほろぼさない」

 

 ひとくち飲んだ蜂蜜酒は、甘くて、少しだけしょっぱかった。

 

* * *

 

 「骨かぶりの鍛冶屋」の噂を持ってきたのは、セイレンの酒場の片目の老水夫で、ティオの歌を毎晩いちばん前で聞いていた爺さんだった。

 

「北の骨冠の歌なら、昔、一度だけ、本物を見たことがある」

 

 最後の晩、老水夫は蜂蜜酒の杯を傾けながら、ぽつりと言った。

 

「南の山ん中、エルムって村だ。そこの鍛冶屋が、若い頃、でっけえ獣の頭骨をかぶって、国じゅうを渡り歩いてたって話でな。もう五十年も前のことだが」

 

 あたしの手から、杯が滑り落ちそうになる。

 

「……いまも、いる?」

 

「生きてりゃ、七十を越えてるだろうな。まだ槌を振ってるって噂だが」

 

 ティオがこちらの顔を見たときには、あたしはもう立ち上がっていた。

 

 

 

 エルムは、深い森に囲まれた小さな山の村だ。石垣の段々畑に細い川、水車小屋、煙突から煙の上がる二十軒ほどの家々。

 

 村の入口に立った瞬間、あたしの耳がそれを捉えた。

 

 かん。かん。かん。

 

 鉄を打つ音。規則正しく重く、遠くまで澄んで響く音だ。

 

 音を辿って村のいちばん奥へ歩いていくと、川のほとりに石造りの鍛冶場があって、開け放たれた入口から赤い炉の光と熱気が外まで溢れ出していた。

 

 そして入口の真上、鍛冶場の軒先に、それは掛けられていた。

 

 頭骨。

 

 大きい。とてつもなく大きくて、あたしが両腕を広げても端から端まで届かないほどだ。額からは太くねじれた角が一本前へ突き出し、上顎の牙は一本一本が、あたしの腕くらいの長さがある。

 

 骨の色は長い年月を経て飴色に変わっていて、隣でティオが息を呑む音がした。

 

「……な、なにあれ」

 

「しらない」

 

 あたしはその頭骨から目を離せなかった。知らない、見たこともない獣。

 

 でも、わかる。

 

 これは冠だ。誰かが仕留めて額に据え、世界を見てきた冠。

 

 かん、と最後の一打が響いて、鍛冶場の中の槌の音が止まる。

 

 奥から出てきたのは大きな老人だった。腰は少し曲がっているけれど、それでもあたしより頭三つぶんは背が高く、肩幅は扉の枠いっぱい。革の前掛けの下の腕は丸太みたいに太くて、火傷の痕が無数に走っている。

 

 髪も髭も真っ白で、長い髭を三つ編みにして骨のビーズで留めていた。

 

 骨のビーズ。あたしの髪と同じ留め方だ。

 

 老人はあたしの頭の上の飛竜の冠を見て動きを止め、それから長い、長い息を吐いた。

 

「……来たか」

 

 民の言葉だった。五十年使っていなかったような少し錆びついた響きで、でも確かに、あたしたちの言葉。

 

「冠送りの子か」

 

「……ヤルカ」

 

 あたしも民の言葉で答える。

 

「白狼、白熊、岩喰い熊、それから、飛竜の冠の、ヤルカ」

 

 老人は目を細めた。

 

「ベルクだ。海象、白熊、雪の巨人、岩の蛇、それから、あの、山喰いの冠の、ベルク」

 

 老人——ベルクは、軒先の巨大な頭骨を顎で示す。

 

「五十五年前の、冠送りだ」

 

 

 

 ベルクの家は、鍛冶場の裏の小さな石の家だった。炉の上で鍋が煮えていて、壁には干した薬草の束、窓辺には小さな木彫りの動物がいくつも並んでいる。狐、兎、狼。

 

 ベルクはあたしとティオに、木の椀で茸と鹿肉の汁をよそってくれた。ティオは民の言葉がわからないので、椀を抱えたままあたしとベルクの顔を交互に見ている。

 

「北は、どうだ」

 

 ベルクが訊いた。

 

「ウシュカは、生きてるか」

 

「いきてる。ちょうろう。しろくまの、かむり」

 

「そうか。あのちびが、長老か」

 

 ベルクは少しだけ笑う。

 

「おれが村を出たとき、あいつは、まだ兎の冠をかぶって、雪の中を走り回ってた」

 

 あたしは椀を置いた。訊きたいことはたくさんある。どうやってここまで来たのか、どんな強きものを狩ってきたのか、山喰いとは何なのか。

 

 でも、口から出てきたのはひとつだけだった。

 

「……なぜ、やめた」

 

 ベルクの手が止まる。

 

「なぜ、かむり、はずした。なぜ、かじや、してる。つよいもの、まだ、たくさん、いる。なぜ、ほろぼすの、やめた」

 

 ベルクは長いあいだ炉の火を見つめて、それから低い声で言った。

 

「ヤルカ。おまえ、冠送りが、なぜ北に帰らないか、知ってるか」

 

「……たびの、とちゅうで、しぬから」

 

「そう教わったか」

 

「ちがう?」

 

「ちがう」

 

 ベルクはあたしの目をまっすぐに見た。

 

「帰れないんだ。帰るなと、言われている」

 

 

 

 ベルクの話は長かった。

 

 民の誓い。強きもの、すべて、ほろぼす。

 

 その誓いには続きがある。長老たちだけが知っていて、冠送りの戦士が旅立つ前夜、冠替えの儀のあとでそっと耳打ちされる、最後の一節。

 

 ——そして、さいごの、つよきものに、なったとき。おのれを、ほろぼせ。

 

「おれは、旅立つ前の夜に、それを聞いた」

 

 ベルクは言った。

 

「おまえは、聞かなかったんだな」

 

 あたしは首を振った。

 

 冠替えの儀の夜、ウシュカはあたしの肩に手を置いて「南へ行け」と言った。それから何かを言いかけてやめて、振り返るな、とだけ言ったのだ。

 

 あの、悲しみに似た何か。

 

「ウシュカは、言えなかったんだろう」

 

 ベルクは目を閉じた。

 

「冠送りは、名誉なんかじゃない。民の中で、いちばん強くなりすぎた者を、外へ追い出すための掟だ」

 

「強きものは、いつか、小さきものを踏む。それは、民の中でも、同じことだ。いちばん強い者が村に残れば、いつか、その者は、村を踏む。だから、送り出す。南へ。強きものを狩らせて、狩らせて、狩らせ続けて」

 

「そして、いつか、その者が、この世でいちばん強いものになったら——」

 

「おのれを、ほろぼす」

 

 あたしの声は掠れていた。

 

「そうだ」

 

 ベルクが目を開ける。

 

「冠送りは、北の民が、自分たちの中の強さを、遠くへ捨てに行く儀式なんだ」

 

 ティオが、あたしの袖をそっと引いた。

 

「ヤルカ……? 顔、真っ青だよ。何の話?」

 

 あたしは答えられなかった。膝の上で、両手が震えている。

 

 とうさんが削ってくれたハルグに、民が夜通し縫ってくれた外套、ウシュカの、振り返るな、という言葉。

 

 全部を誉れだと思っていた。民の中でいちばん強いと認められたから、送り出されたのだと。

 

 ちがった。

 

 いちばん強くなってしまったから、追い出されたのだ。

 

「……ベルク」

 

「なんだ」

 

「おまえ、いちばん、つよく、なった?」

 

 ベルクは、壁越しに見るように軒先の方角へ顔を向けた。

 

「山喰いを狩ったのは、四十の年だ。南の果ての荒野で、町をひとつ踏み潰した化け物だった。三日三晩、戦った。仕留めたとき、おれは、自分がこの大陸でいちばん強いものになったと思った」

 

「……」

 

「それで、おのれを、ほろぼそうとした」

 

 ベルクは自分の太い首に手を当てる。

 

「山喰いの角で、喉を突こうとした。誓いのとおりに」

 

「できなかった」

 

「……なぜ」

 

「山喰いが踏み潰した町の、生き残りの子どもが、おれの外套の裾を握って、離さなかった」

 

 ベルクは窓辺の木彫りの動物を見た。

 

「五つか六つの、痩せた娘だった。親も、家も、何もかも失くしていた。おれが死んだら、この子はどうなるのかと思った」

 

「それで、冠を外した。この村に来て、娘を育てた。鍛冶を覚えた。強さを、鋤と鍬と鍋に変えた。村の連中が、畑を耕して、飯を炊けるように」

 

「娘は、三十年前に嫁に行った。いまは、隣の村で、孫が五人いる」

 

 窓辺の木彫りは、たぶんその孫たちのために彫ったものだろう。

 

「おれは、誓いを破った」

 

 ベルクは言った。

 

「骨冠の民として、おれは、失格だ」

 

 

 

 その夜、あたしは眠れずに、ベルクの家の外の、川のほとりの岩の上に座って北の空を見上げていた。

 

 山の村の空は王都よりずっと星が多くて、冠星がはっきりと見える。

 

 近づいてきた足音は、ティオのものだった。毛布を二枚抱えてあたしの隣に座り、一枚をあたしの肩にかけてくれる。

 

「……ベルクさんから、聞いたよ。大陸の言葉で、少しだけ」

 

「そう」

 

「冠送りのこと。最後の、一節のこと」

 

 あたしは黙っていた。川の水音が、夜の中でさらさらと鳴っている。

 

「ヤルカ」

 

「なに」

 

「ヤルカは、いつか、自分を……」

 

 そこで言葉を詰まらせたティオの隣で、あたしは膝の上のハルグをそっと撫でた。

 

「ヤルカ、つよきもの、すべて、ほろぼす」

 

「……うん」

 

「それ、かわらない」

 

「うん」

 

「でも、ヤルカ、まだ、さいご、ちがう」

 

 あたしは空を見上げる。

 

「ゆうしゃ、いる。ヤルカより、つよい。こんりゅう、いる。たぶん、つよい。まだ、しらない、つよいもの、たくさん、いる」

 

「ヤルカ、まだ、とちゅう」

 

 ティオがあたしの横顔をじっと見ている気配がした。

 

「それに」

 

 自分でも聞き逃してしまうくらい、少しだけ声が震えた。

 

「ベルク。いちばん、つよい、なった。でも、おのれ、ほろぼさなかった。ちいさきもの、まもった」

 

「それは骨冠の民として……失格なの?」

 

「ヤルカ、わからない」

 

少し悩んでから、そう返す。

 

「わからないから、あした、きく」

 

「……誰に?」

 

 あたしはそばに置いていたハルグを握りしめる。

 

「ベルクに」

 

「おのでも、ことばでも」

 

* * *

 

 翌朝、鍛冶場の前でベルクが待っていた。革の前掛けは外していて、代わりに大きな鉄の槌を手に握っている。

 

 柄の長さはハルグと同じくらいで、頭の部分はあたしの頭より大きい。黒い、光を吸いこむような鉄だ。

 

「隕鉄だ」

 

 ベルクは民の言葉で言った。

 

「山喰いを狩った荒野に、空から落ちてきた星の鉄だ。五十年かけて、少しずつ鍛えた」

 

「……たたかう?」

 

「おまえは、訊きたいんだろう。おれが、骨冠の民として、失格かどうか」

 

 ベルクは槌をゆっくりと肩に担いだ。

 

「民のやり方で、訊け」

 

「おれは、いまでも、この辺りで、いちばん強いものだ。おまえの誓いのとおりなら、おまえは、おれを、ほろぼさなきゃならない」

 

「そうだろう、飛竜の冠のヤルカ」

 

 あたしはハルグを背中から抜いて、川のほとりの広い砂地に二人で向かいあう。

 

 村人たちが家々の戸口から恐る恐る顔を出し、ティオは水車小屋の陰で弦楽器を胸に抱きしめていた。

 

 ベルクが槌を構えたその瞬間、老人の身体がひとまわり大きくなったように見えた。

 

 背中が伸びて、肩が張る。目の奥に、何か古くて熱くて、とてつもなく重いものが灯る。

 

 五十五年前の冠送りの目。

 

「来い」

 

 ベルクが言った。

 

 あたしは砂を蹴った。

 

* * *

 

 一撃目でわかった。この老人は、今まで戦った何よりも重い。

 

 ベルクの槌をハルグの柄で受けた瞬間、足もとの砂地がずぶりと沈みこむ。膝が勝手に折れそうになって、腕の骨がみしみしと軋んだ。

 

 岩喰い熊の突進、飛竜の尾の一撃、ヘルマンの両手剣。全部をまとめて一度に受けたみたいな重さだ。

 

 受け流して横へ跳ぶと、槌があたしのいた場所の砂地を叩いた。砂が爆ぜて、川の水面がびりびりと波立つ。

 

 着地と同時に踏み込んで、槌を振り下ろしたあとのがら空きの脇腹を狙う。ハルグの牙の刃が、ベルクの脇腹へ。

 

 ベルクは避けなかった。代わりにくるりと回された槌の柄の端が、あたしの斧の刃を下から跳ね上げる。

 

 痺れた手のまま、そのまま柄の端で胸を突かれて、飛竜の鱗の胴当てがばきり、と音を立てて割れる。

 

 突かれた瞬間息が止まり、勢いのまま身体が後ろへ吹き飛んで、砂地を二度、三度と転がった。全身の力が抜け、あたしは今、重力のままうつ伏せで這いつくばっている。

 

「立て」

 

 ベルクの声が上から降ってきた。子を躾ける親の様な、稽古をつけている師のような、言い表し難い声。

 

「冠送りは、倒れたら終わりだ。倒れたまま起き上がれない者は、南で、骨も残さず喰われる」

 

 あたしは砂を掻いて起き上がった。口の中に砂と血の味がして、胴当ての飛竜の鱗が三枚、剥がれ落ちている。ベルクは槌を肩に担いだまま、じっとあたしを見下ろしていた。呼吸は少しも乱れていない。

 

「おまえは、強い」

 

 ベルクは言った。

 

「十五で飛竜を落とす冠送りなど、民の歴史に、一人もいない。おれが十五の頃は、まだ海象の冠だった」

 

「でも、おまえの強さは、若い」

 

「……わかい?」

 

「獣の強さだ。速くて、鋭くて、真っ直ぐだ。真っ直ぐだから、読める」

 

 ベルクは槌を構え直す。

 

「おれは、五十五年、読まれない強さを、鍛えてきた」

 

 

 

 二合目、三合目、十合目と、あたしは何度も、何度も砂地に叩きつけられた。

 

 飛竜の肩当てが割れ、脛当ての鱗が半分剥がれ、翼の外套は槌に巻きこまれて裾が大きく裂ける。

 

 ベルクの槌は、どこへ避けてもそこに来て、どこを狙ってもそこにはいなかった。

 

 読まれている。全部。

 

 ゴルドは考えて戦っていたし、ヘルマンは経験で戦っていた。でもベルクは違う。ベルクは、あたしと同じ戦い方を知っているのだ。

 

 骨冠の民の狩りの仕方。獣の柔らかいところを探して懐へ潜りこみ、回転の力で斧を振って、目を覆う前に息の根を止める。

 

 全部、ベルクが五十五年前にやっていたことだから、全部先に読まれる。

 

 十五合目で、あたしはまた砂地に膝をついた。

 

 額から流れた血が、飛竜の冠の眼窩を伝って目に入る。視界が赤い。

 

「……わかったか」

 

 ベルクが言った。

 

「おまえが、おれに勝てない理由が」

 

「……」

 

「おまえは、おれと同じ道を、歩いているからだ。同じ道の、後ろを。後ろを歩く者は、前を歩く者に、追いつけない」

 

「おれに勝ちたければ、おれの知らない道を、歩け」

 

 おれの知らない道。

 

 その言葉の意味を考える前に、擦り切れた手のひらでハルグを握りしめ直した。とうさんが削った、民の狩りの斧。ベルクが五十五年前に握っていたのと、たぶん同じ形の斧だ。

 

 この斧で戦う限り、ベルクには読まれる。

 

 あたしは立ち上がって、ハルグを両手で構えた。ベルクが槌を振りかぶる。

 

 読まれているのはわかっている。あたしが右へ避ければ、ベルクの槌はそこへ来る。

 

 だから、避けない。

 

 ベルクの槌を迎え撃つために、あたしは真正面からハルグを振り上げた。

 

 ベルクの目が見開かれる。

 

 骨冠の民は真正面から受けない。獣の一撃を真正面から受ける狩人はいなくて、必ず避けて懐へ潜る。それが民の戦い方だった。

 

 あたしは、それを捨てた。

 

 鯨骨の斧と星の鉄の槌が、正面からぶつかる。

 

 音がしなかった。いや、したのかもしれないけれど、あたしの耳には何も聞こえない。

 

 吹雪の三つ目の音、何もかもが呑みこまれる音。

 

 両腕に途方もない衝撃が走って、肩が外れそうになる。足が砂地に膝まで沈んだ。

 

 そして、手の中で何かが折れた。

 

 ハルグの柄。とうさんが七つのあたしのために削ってくれた、鯨の顎骨の柄が、真ん中からふたつに。

 

 刃の側がくるくると回りながら宙に舞う。ベルクの槌も止まっていて、星の鉄の頭にひびが一本、走っていた。

 

 あたしは、折れた柄の手元の半分を握ったまま立ち、そのまま踏み込んだ。

 

 武器はない。でも、岩喰い熊の爪の籠手がある。

 

 ベルクの懐へ。

 

 ベルクは槌を引き戻そうとした。

 

 遅い。ほんの少しだけ、遅い。

 

 七十を越えた腕が、星の鉄の重さをほんの一瞬だけ持て余したのだ。

 

 あたしはベルクの胸ぐらを両手でつかんで、足を払った。大きな身体が仰向けに砂地へ倒れる。

 

 その胸の上に膝で乗って、右の籠手の爪をベルクの喉の上にぴたりと当てた。

 

 

 

 川の水音が戻ってきた。村人たちの息を呑む気配がして、水車小屋の陰ではティオが泣きそうな顔でこちらを見ている。

 

 ベルクは仰向けのまま、あたしを見上げていた。息が荒く、初めてその呼吸が乱れている。

 

「……ハルグを、捨てたな」

 

「すてて、ない。おれた」

 

「同じことだ。父親の斧を、自分から折りにいった」

 

 ベルクの口の端がゆっくりと持ち上がる。

 

「民の戦い方を、捨てた」

 

「……」

 

「おれの知らない道だ」

 

 ベルクは砂の上で、腹の底から声を上げて笑った。その笑い声が山の村に響き渡る。

 

「やれ、ヤルカ」

 

 笑いながらベルクは言った。

 

「誓いのとおりに。おれを、ほろぼせ」

 

 あたしは爪を喉に当てたまま、長いあいだ動かなかった。

 

 それから爪を離し、ベルクの胸から膝を下ろして、隣の砂地にどさりと座りこむ。

 

「……やらんのか」

 

「やらない」

 

「なぜだ」

 

 あたしは折れたハルグの柄を見下ろした。

 

「おまえ、もう、ほろぼした」

 

「……何をだ」

 

「おのれ」

 

 ベルクの笑いが止まる。

 

「おまえ、いちばん、つよく、なった。そして、かむり、はずした。つよさ、すきに、かえた。くわに、かえた。なべに、かえた」

 

「つよさ、ぜんぶ、ちいさきものに、わたした」

 

「それ、おのれを、ほろぼす、と、おなじ」

 

 ベルクは黙っていた。

 

「おのれを、ほろぼす。しぬこと、だけ、ちがう。ヤルカ、そうおもう」

 

「……おまえが、そう思うのか」

 

「ヤルカが、そうおもう」

 

 あたしは民の言葉で、はっきりと言った。

 

「ウシュカ、いわなかった。さいごの、ひとふし。だから、ヤルカ、じぶんで、きめる」

 

「おまえ、しっかく、ちがう。おまえ、さきの、かむり。ヤルカの、まえを、あるいた、ひと」

 

 ベルクは砂の上に仰向けになったまま、長いあいだ空を見上げていた。それから、太い腕で目元を覆う。

 

「……五十五年だ」

 

 かすれた声。

 

「五十五年、おれは、誓いを破った臆病者だと思って、生きてきた」

 

 腕の下から涙が一筋、耳のほうへ流れ落ちていった。

 

* * *

 

 その日の夕方、ベルクは鍛冶場の炉に火を入れた。ひびの入った星の鉄の槌を、炉の中へ。

 

「おい、爺さん!」

 

 ティオが慌てて大陸の言葉で叫んだ。

 

「それ、あんたの一番大事な武器でしょ!?」

 

「もう、使わん」

 

 ベルクは大陸の言葉でぼそりと答えた。

 

「最後に振ったのが、骨冠の娘との手合わせなら、上等な終わり方だ」

 

 ベルクは三日三晩、鍛冶場に籠った。

 

 かん。かん。かん。

 

 鉄を打つ音が山の村に絶え間なく響き続けて、あたしはその音を、鍛冶場の外の岩の上に座ってずっと聞いていた。

 

 四日目の朝、鍛冶場から出てきたベルクは、手に一振りの両手斧を抱えている。

 

 柄は鯨の顎骨で、折れた二本の骨を、継ぎ目に星の鉄の帯を三重に巻いてひとつに繋ぎ直してある。継ぎ目の帯に彫りこまれた細かい文様は民の文様で、氷原の祠の石に刻まれているのと同じものだ。

 

 刃は黒かった。星の鉄の、光を吸いこむような深い黒。その縁に沿って岩喰い熊の牙と飛竜の牙が交互に嵌めこまれ、刃の背には飛竜の尾の棘がそのまま残されている。

 

 ベルクはそれを両手で、あたしに差し出した。

 

「ハルグだ」

 

 民の言葉で。

 

「おまえの父親の骨と、おれの星の鉄だ。二人の、先の冠が、おまえの手の中にいる」

 

 あたしはそれを受け取った。

 

 重い。前のハルグより、ずっと。

 

 でも握った瞬間、手のひらに吸いつくように馴染んだ。とうさんが削った柄の、握り心地そのままだ。

 

「……ありがとう」

 

「礼はいらん」

 

 ベルクは首を振った。

 

「冠の掟を覚えているか。勝った者が、負けた者の強さを、もらう」

 

「ヤルカ、けもの、ちがう。ベルク、ひと。ひとの、つよさ、もらわない」

 

「だから、骨じゃない。皮でもない」

 

 ベルクはあたしの手の中の斧を、太い指でこつん、と叩いた。

 

「鉄だ。おれが五十年、打ち続けてきた、ただの鉄だ。それなら、民の掟にも、触れまい」

 

 

 

 エルムを発つ朝、ベルクは村の入口まで見送りに出てきた。

 

 民の掟では、冠送りの戦士に声をかけてはいけない。声が足に絡んで、帰りたくなるから。

 

 でも、ベルクは言った。

 

「ヤルカ」

 

「……なに」

 

「おまえは、どこまで行く」

 

 あたしは南の空を見て、それから北の空を見た。

 

「つよいもの、いるところ、ぜんぶ」

 

「そして、いつか、さいごの、つよきものに、なったら?」

 

 あたしは新しいハルグを背中に括りつける。

 

「そのとき、ヤルカ、きめる」

 

 ベルクは白い髭の奥で、ゆっくりと笑った。

 

「……先の冠として、ひとつだけ、言っておく」

 

「なに」

 

「振り返っても、いいぞ」

 

 あたしは少しだけ目を見開いた。

 

「振り返っても、足は絡まん。おれが、五十五年、振り返らずに生きてきて、わかったことだ」

 

 歩き出して、十歩、二十歩。それから、あたしは振り返った。

 

 村の入口で白髪の大きな老人が手を振っていた。軒先の山喰いの頭骨の下で。

 

 あたしも手を振り返す。隣でティオが、ぐすぐすと鼻をすすっていた。

 

「……ヤルカ」

 

「なに」

 

「いまの、歌に入れても、いい?」

 

「すきにしろ」

 

 あたしは前を向いた。背中のハルグが、ずしりと重い。

 

 悪くない重さだった。

 

* * *

 

 王都のギルド本部に戻ったのは、秋の終わり。

 

 広間に入るとあの日と同じようにざわめきが波のように広がり、それからしんと静まり返った。ただ、今度の沈黙は少し違う。皆の視線はあたしの頭の上ではなく、背中に集まっている。黒い刃の両手斧に。

 

 あたしは広間の奥の壁の前まで歩いていった。黒い縁取りの紙は、まだそこにある。混竜の戦乙女イゼルヴァ、金貨一万五千枚。いや、数字が書き換えられて二万枚になっていた。

 

 その紙を壁から剥がすと、広間じゅうの息が止まる音が聞こえた気がした。受付の奥から、ひげの長い老人が慌てて飛び出してくる。

 

「お、おい! その依頼は——」

 

「ヤルカ、うける」

 

 紙を、老人の目の前に突きつける。

 

「こんりゅう。ヤルカが、かる」

 

「——それは、困る」

 

 背後から声がして振り返ると、窓際の卓の前に黒髪の青年が立っていた。左頬に、三本の爪痕。勇者だ。今日は一人だった。

 

「その依頼は、俺が受けるつもりだった」

 

「おまえ、うけて、ない。かみ、まだ、かべ、あった」

 

「……そうだけど」

 

 勇者は困ったように頭をかくと、真面目な顔になってあたしの前まで歩いてくる。

 

「あいつは、俺がやらなきゃいけない相手なんだ」

 

「なぜ」

 

「前に、とどめを刺さなかったから」

 

 勇者は、左頬の傷に指先で触れた。

 

「一度目は、俺が迷って刺さなかった。二度目は、刺すつもりで剣を振ったけど避けられて、何人も死んだ」

 

「だから、三度目は俺がやる。それが、俺の責任だ」

 

 あたしは勇者の目を見上げた。あの日と同じ目だ。静かで少し疲れていて、でも底のほうに何か硬いものが沈んでいる目。

 

「……あいつ、つよい?」

 

「強い。片腕になっても、多分この国の冒険者の九割より強い」

 

「なら、ヤルカ、かる」

 

「だから——」

 

「おまえが、かる、りゆう。ヤルカが、かる、りゆう。どっちも、ある」

 

 あたしは、紙を胸の前で握りしめた。

 

「なら、きめかた、ひとつ」

 

 勇者の目が、わずかに細くなる。

 

「……決闘か」

 

「けっとう?」

 

「一対一で戦って、勝ったほうが、決める」

 

「それ」

 

 あたしは背中のハルグの柄に手をかけた。

 

「ヤルカ、かったら、こんりゅう、ヤルカの。おまえ、かったら、おまえの」

 

 勇者はしばらく黙っていた。広間じゅうが固唾を呑んで二人を見ているなか、やがて勇者は小さく息を吐く。

 

「……前に、君は言ったな。強いから戦う、と。俺は、それは理由にならないと言った」

 

「いった」

 

「今度のは、理由になる」

 

 勇者は、腰の白銀の鞘に手をかけた。

 

「受けよう。明日の朝。王都の西門の外、練兵場で」

 

 

 

 その夜、宿屋の窓辺でティオはずっと黙っていた。弦楽器を膝に抱えたまま、弦を弾きもせずに。

 

「……ティオ」

 

「うん」

 

「なにか、いえ」

 

「……何を言えばいいか、わかんない」

 

 ティオは、窓の外の王都の灯りを見ている。

 

「相手は、勇者様だよ。魔王を倒した人だよ。ヤルカが強いのは知ってる。ベルクさんにも勝った。でも……」

 

「ヤルカ、まける、かも」

 

「……うん」

 

「しぬ、かも」

 

 ティオの肩が、ぴくりと震えた。

 

「……決闘って、殺しあいじゃないんだ。どっちかが降参したら、そこで終わり。ギルドの立会人もつくし」

 

「ヤルカ、こうさん、しらない」

 

「知ってよ! そこは、覚えてよ!」

 

 ティオが泣きそうな声で叫ぶ。

 

 あたしは窓辺から離れてティオの隣に座り、飛竜の冠を外して膝の上に乗せた。ベルクとの戦いで、あちこちに細かい傷がついている。それでも二本の角は、まっすぐ後ろへ反り返ったまま。

 

「ティオ」

 

「……なに」

 

「たみの、おきて。おれたもの、もう、つよきもの、ちがう」

 

「うん。ゴルドのときも、ヘルマンのときも、そう言ってた」

 

「ヤルカ、おれたら」

 

 あたしは、冠の眼窩を指でなぞった。

 

「ヤルカも、もう、つよきもの、ちがう。だから、こうさん、する」

 

 ティオが顔を上げる。

 

「……ほんとに?」

 

「ほんと。でも」

 

 あたしは、少しだけ口の端を持ち上げた。

 

「かんたんに、おれない」

 

* * *

 

 翌朝。

 

 王都の西門の外の練兵場は、黒山の人だかりだった。勇者と骨冠の娘が決闘するという噂が、一晩で王都じゅうを駆け巡ったらしい。冒険者も兵士も、商人も職人も子どももいて、貴族の馬車まで何台も停まっている。

 

 練兵場の真ん中には縄で四角く囲った場所があって、その四隅にギルドの立会人。縄の外の最前列にはティオと、勇者の仲間の三人がいる。白い法衣の聖女と赤い髪の魔導士、大楯の大男。赤い髪の娘はティオの隣で、あたしを睨みつけていた。

 

「……ユウトに、怪我させたら、承知しないから」

 

「ヤルカ、しょうち、しない、しらない」

 

「そういう意味じゃない!」

 

 勇者が縄をくぐって、囲いの中に入ってきた。鎧は着ておらず、旅装束の上に薄い革の胸当てだけ。その腰から、白銀の剣を抜く。

 

 聖剣だ。刃が朝の光を受けて、白く、白く光っている。見ているだけで目の奥がじんと痛くなるほどに。

 

 あたしも縄をくぐった。飛竜の冠に、飛竜の外套。裂けた裾はティオが縫い直してくれて、割れた胴当ては飛竜の鱗の残りで継いである。背中からハルグを抜く。黒い刃に星の鉄、そしてとうさんの骨。

 

 聖剣の白と星鉄の黒が、朝の光の中で向かいあった。

 

「……いい斧だな」と勇者が言った。

 

「ベルク。つくった。とうさん、と、ベルク」

 

「そうか」

 

 勇者は剣を構えた。

 

「なら、おれも、本気でいく」

 

 立会人が手を上げて、数を逆に数えた後、下ろす。

 

 勇者は動かず、あたしも動かなかった。読んでいるのだ、お互いに。

 

 この男はベルクとは違って、民の戦い方を知らない。でもあたしの戦い方は、たぶん見ている。ギルドの噂で、ティオの歌で。

 

 なら。

 

 あたしは正面から踏み込んだ。民の戦い方でもない、ベルクに教わった正面からの一撃。ハルグを上段から振り下ろすと、勇者はそれを聖剣で受けた。

 

 白と黒がぶつかる。弾けたのは火花じゃなく、光。白い光だ。

 

 重い。細身の剣なのにベルクの槌と同じくらい、いや、それ以上に重い。正面から受け止められたのだ。

 

 勇者はそのまま剣を滑らせて、ハルグの刃を横へ流した。あたしの身体が前へ泳ぎ、その脇を聖剣が薙ぐ。飛竜の外套が、腰のあたりでざっくりと裂けた。

 

 速くて、重い。そして何より、迷いがない。

 

 あの日、ギルドの卓の前で「わからない」と言った男と、同じ人間とは思えないほど。

 

 剣が途切れない。上から下から横から、それに突き。あたしはハルグで受けて籠手で弾き、鱗の肩当てで流して、それでも少しずつ少しずつ後ろへ押されていく。

 

 背中に縄が触れた。囲いの端で、これ以上は下がれない。

 

 勇者の剣が真上から振り下ろされてきて、あたしはハルグを横に構えて両手で受けた。星鉄の刃と聖剣の刃が十字に噛みあい、勇者が押しこんでくる。膝が沈んで、ハルグの柄の星の鉄の帯が軋んだ。

 

 ——ベルクの、帯。

 

 とうさんの骨。折れない。折れるな。

 

 あたしは全身の力を腕に込めた。白熊と岩喰い熊と飛竜、ゴルドとヘルマンとベルク。狩ってきた全部の強さで、押し返す。

 

 聖剣が少しだけ上がって、勇者の目が見開かれる。その瞬間、あたしはハルグを捻った。刃の背にある飛竜の尾の棘は鉤のように反り返った骨で、それを聖剣の鍔に引っかけて引く。

 

 勇者の身体が前へ傾いで、今度はあたしが懐の内側。ハルグの柄を短く持ち直し、石突きで勇者の胸を突く。革の胸当てがへこんで、勇者は二歩後ろへ下がった。囲いの中の、真ん中へ。

 

 お互いに息が荒い。縄の外で、観衆がどっと沸いた。

 

「……強いな」と、勇者が胸を押さえながら言う。

 

「前に会ったときより、ずっと」

 

「おまえも」

 

「ギルドで会ったときは、まだ、戦ってなかっただろ」

 

「たたかわなくても、わかる」

 

 勇者は少しだけ笑うと、剣を構え直した。両手で、まっすぐ正面に。

 

 聖剣が光り始める。白い光が刃の根元から先端に向かって、ゆっくりと満ちていく。朝の光よりもずっと明るく、見ていると目が焼けそうなほどに。

 

「——これで、終わりにする」

 

 勇者の声が低くなった。

 

「降参してくれ、とは言わない。君は、しないだろうから」

 

「受けてくれ」

 

 あたしはハルグを正面に構えた。避けない。避けたらあたしはこの男に負けたことになるし、強さの勝負から逃げたことになる。真正面から、受ける。

 

 勇者が踏み込み、白い光があたしの視界を埋め尽くした。

 

 

 

 衝撃は、なかった。いや、あったのかもしれない。でも何も感じなかった。吹雪の、三つ目の音。全部が白に呑みこまれる。

 

 気がつくと、あたしは練兵場の土の上に仰向けに倒れていた。空が見える。秋の高い、青い空。

 

 両手の中には、ハルグの柄の感触がある。折れていない。星の鉄の帯もとうさんの骨も、ちゃんと繋がっている。

 

 でも、頭が軽い。

 

 首を横に向けると、少し離れた土の上に飛竜の頭骨が転がっていた。右の角が、根元からなくなっている。白くなめらかに光っている断面は、聖剣に断ち斬られた痕。

 

 あたしの冠が、欠けた。

 

 足音が近づいてくる。勇者だった。聖剣を下げたまま額から汗を流して、肩で息をしている。勇者は、あたしの横に膝をついた。

 

「……大丈夫か」

 

 あたしは答えずに、しばらく空を見ていた。それから、ハルグから手を離す。

 

「ヤルカ、おれた」

 

 声は、自分でも驚くほど静かだった。

 

「かむり、かけた。おの、はなした。ひざ、じゃない。せなか、ついた」

 

「……うん」

 

「おれたもの、もう、つよきもの、ちがう」

 

「ヤルカの、まけ」

 

 縄の外で観衆がどよめき、立会人が手を上げて勇者の勝ちを告げる声が遠くに聞こえた。

 

 勇者は転がっていた飛竜の頭骨を拾い上げて、あたしの胸の上にそっと置いてくれた。あたしはそれを両手で抱いて、欠けた角の断面を指でなぞる。

 

「……ごめん」と、勇者が言った。

 

「冠を、壊すつもりはなかった」

 

「いい」

 

 あたしは首を振った。

 

「つよいもの、に、まけた。かむり、かける。あたりまえ」

 

「……」

 

「ゆうしゃ」

 

「うん」

 

「まえ、おまえ、きいた。ヤルカも、いつか、ちいさきもの、ふむかも。なら、ヤルカ、ヤルカを、ほろぼすのか」

 

 勇者は、黙って頷いた。

 

「こたえ、ある」

 

 空を見上げたまま、あたしは言う。

 

「ヤルカ、つよきもの、すべて、ほろぼす。かわらない」

 

「そして、いつか、ヤルカが、さいごの、つよきものに、なったら」

 

「そのとき、ヤルカ、きめる。どうするのか」

 

「でも、それ、まだ、ずっと、さき」

 

 あたしは、胸の上の冠をぎゅっと抱きしめた。

 

「おまえ、いる。ヤルカより、つよい。だから、まだ、さき」

 

 勇者は長いあいだ、あたしの顔を見ていた。それから、ゆっくりと笑う。

 

「……じゃあ、おれは、しばらく、君より強くいないといけないな」

 

「そう」

 

「責任重大だ」

 

 あたしも少しだけ笑うと、あちこちがずきずきと痛んだ。

 

「ゆうしゃ」

 

「うん」

 

「こんりゅう、おまえに、ゆずる。やくそく」

 

「……ありがとう」

 

「でも」

 

 あたしは、勇者の目をまっすぐに見た。

 

「ヤルカ、また、くる」

 

「もっと、つよく、なって。かむり、かえて。また、おまえと、たたかう」

 

「そのとき、ヤルカ、かつ」

 

 勇者は立ち上がって、聖剣を白銀の鞘に収める。

 

「待ってる」

 

 短くそう言って、手を差し伸べてきた。

 

 あたしはその手をつかまず、自分で土に手をついて起き上がった。勇者は差し伸べた手を少し困ったように引っこめて、それから声を上げて笑う。

 

 縄の外では、ティオが泣きながら何か叫んでいた。

 

* * *

 

 あの決闘から、あっという間に一年が過ぎた。

 

 南の果ての海は、青い。氷原の海みたいな黒くて重たい色じゃない、空をそのまま溶かしこんだような明るくて透きとおった青。浜辺の砂は白くて陽射しは肌を焼くほど強く、外套なんてとても着ていられない暑さだ。

 

 それでもあたしは外套を脱がないし、脱げるわけがない。これは、あたしの冠の一部なのだから。

 

 

 

 深淵の顎(あぎと)。南の海の漁師たちは、それをそう呼んでいた。

 

 三十年前からこの海に棲みついている大海蛇で、長さは漁師の小舟を五十艘つないでも足りないほど。夜の海から音もなく浮かび上がっては、舟ごと人を呑みこんでいく。漁村がひとつ、またひとつと海辺から消えていった。

 

 ギルドの依頼書は、S級。あたしはその依頼書を見たとき、三日間宿屋の部屋から出られなかった。

 

 海。膝より深い水。それも、底が見えないほど深い南の海。

 

「……やめとく?」

 

 三日目の夜、ティオがそっと訊いてきた。

 

「誰も、ヤルカを責めないよ。水が怖いのは、ヤルカのせいじゃない。北の民は、みんなそうなんでしょ?」

 

 あたしは寝台の上で膝を抱えたまま、首を振った。

 

「こわい」

 

「うん」

 

「でも、うみ、ちいさきもの、いる。りょうし。こども。ふねに、のる。まいにち。こわいのに」

 

「……うん」

 

「ヤルカ、こわいから、いかない。それ、ヤルカが、ちいさきもの、みすてる、おなじ」

 

 ティオはしばらく黙っていて、それからへへ、と笑った。

 

「じゃあ、おれ、また、引っぱる係ね」

 

「むり」

 

「たぶん、無理」

 

 そういうわけで、あたしは海に出た。

 

* * *

 

 どうやって深淵の顎を仕留めたのかは、ティオの歌を聞いてもらえばいい。あいつの歌は、この一年で国じゅうに広まった。

 

 「骨冠のヤルカ」。

 

 北の氷原から来た獣の骨をかぶった娘が、強きものを狩りながら南へ下っていく歌だ。岩喰い熊の坑道に飛竜の空、鉄腕のゴルドの砦と白い牙の港、山の村の先の冠。そして、勇者との練兵場の決闘。

 

 歌の中のあたしはずいぶん格好よく描かれていて、正直ちょっと恥ずかしい。でもひとつだけ、ティオが絶対に削らなかった一節がある。白熊の冠の男が南の冒険者の剣の前で、最後に言い残した言葉。

 

 ——群れを、残せ。

 

 王都の貴婦人たちのあいだで、北の海象牙の彫刻を身につけるのが少しずつ流行らなくなってきたらしい。「野蛮な趣味」だと、陰口を叩かれるようになったのだとか。白牙商会の店の硝子の窓には今年の夏、「閉店」の札が下がった。

 

 あたしの斧が届かなかった場所に、ティオの歌が届いたのだ。

 

 あいつは今、南の港町の大きな酒場で専属の吟遊詩人として雇われている。見習いの札は、とっくに外れた。それでもあたしが旅に出ると言うと、あいつは必ず弦楽器を担いでついてくる。

 

「だって、歌の続きが、まだあるでしょ」

 

 そう言って。

 

 

 

 浜辺の岩の上に腰を下ろして、あたしは新しい冠を膝に乗せた。深淵の顎の、頭骨。

 

 細長い流線形で、岩喰い熊よりも飛竜よりも大きい。額から後頭部にかけて鰭の骨が扇のように何本も立ち並んでいて、骨の表面は海の底の光を吸いこんだみたいに角度を変えるたび青と紫と銀に色を変えて光った。上顎の牙は、真珠のように白い。

 

 外套は二枚、重ねてある。下には飛竜の翼の膜。深い赤で、去年勇者の聖剣に裂かれた箇所はティオが青い糸で縫い直してくれた。上には深淵の顎の鱗を細かく連ねたもの。陽を受けると、波の反射みたいにきらきらと揺らめく。

 

 胴当ても籠手も脛当ても、海蛇の鱗で継ぎ直した。岩喰い熊の爪は籠手の指先に残してあるし、飛竜の鱗も肩当ての縁に少しだけ。狩ってきた全部が、あたしの身体の上に重なっている。

 

 首からは、ひとつだけ飾りを下げていた。飛竜の冠の、右の角のかけら。あの日練兵場の土の上から勇者が拾って、黙って渡してくれたものだ。

 

 飛竜の頭骨は灰牙山脈の頂の、岩喰い熊の祠の隣に北を向けて納めてきた。欠けた角も一緒に納めようと思ったけれど、やめた。このかけらだけは、持っていたかったから。あたしが初めて正面から負けた日の、かけら。

 

 浜辺の向こうから、ティオが手を振りながら走ってくる。

 

「ヤルカー! 北からの船が、港に着いたって!」

 

 あたしは立ち上がった。

 

「きた?」

 

「うん! 北の海沿いの港から! 交易船! で、船乗りの人が、噂話してたんだけど」

 

 ティオは息を切らしながら、あたしの前で立ち止まった。

 

「今年も、北の海に、海象狩りの船は出なかったって。二年続けて。それで、氷原の海岸に、白い海象の群れが、戻ってきてるって」

 

 あたしはしばらく何も言えず、それから北の空を見上げた。南の海の空は青くて明るくて、冠星なんてどこにも見えない。でも、あの方角にある。氷原も民もウシュカも、白い海象の群れも。

 

「……それと」

 

 ティオが少しだけ声を落とした。

 

「勇者様の話も、聞いた。三か月前に、北の黒樫の森のずっと奥に、一人で入っていったって。まだ、戻ってないらしい」

 

「……そう」

 

「心配?」

 

 あたしは首を振った。

 

「しない」

 

「なんで?」

 

「あいつ、やくそく、した。ヤルカより、つよく、いる」

 

「つよいもの、かんたんに、しなない」

 

 ティオは、少しだけ笑った。

 

「そっか」

 

 あたしは深淵の顎の冠を額に据えた。重いけれど、首はもう沈まない。

 

 この一年であたしの首も腕も脚も少しずつ太くなって、背も指の関節ふたつぶんくらい伸びた。十六の夏。眼窩の穴から見る世界はまた少しだけ高くなって、そして広くなった。

 

 白熊の冠をかぶって氷原を出たあの朝、あたしは強きもの、すべて、ほろぼす、と誓った。その誓いは今も変わらない。変わったのはたぶん、「ほろぼす」の中身。

 

 斧で倒すことや膝をつかせること、鉄の腕を折ること、剣を海へ投げ捨てること。強さを鍬と鍋に変えることや、歌で欲しがる気持ちを少しずつ冷ましていくこと。全部、ほろぼす。全部、違う。どれを選ぶかは、相手を見てあたしが決めるもの。

 

 そしていつか、あたしが最後の強きものになったとき。そのときもあたしが決める。ウシュカが言わなかった、最後の一節の中身を。

 

 でも、それはまだずっと先のこと。世界には、まだあたしより強いものがたくさんいるはずだから。

 

「ヤルカ、次は、どこ行く?」

 

 ティオが弦楽器を担ぎ直しながら訊く。

 

 あたしは、浜辺の砂の上に置いていたハルグを拾い上げた。鯨骨の柄に星の鉄の帯、黒い刃。岩喰い熊の牙と飛竜の牙、飛竜の尾の棘。それから、この一年で新しく加わった深淵の顎の真珠色の牙。とうさんとベルクと、狩ってきた全部の強きものがこの斧の中にいる。

 

「きた」

 

「北? 帰るの?」

 

「かえらない。まだ」

 

 あたしは、ハルグを背中に括りつけた。

 

「おうと。ゆうしゃ、かえってくる。まつ。そしたら、また、たたかう」

 

「……勝てそう?」

 

「わからない」

 

「わかんないんだ」

 

「わからない。だから、いく」

 

 ティオが、ぷっと吹き出した。

 

「それ、ヤルカらしいや」

 

 あたしは浜辺を歩き出した。白い砂を踏むと、きゅっと鳴く。氷原の雪と同じ音だ。二歩目、三歩目。それから立ち止まって、振り返った。

 

 青い海と白い浜の向こうに、深淵の顎が棲んでいた底の見えない水。

 

 怖かった。今も少しだけ、怖い。でも、あたしはあの海に出た。振り返っても、足は絡まない。ベルクの言ったとおりだ。

 

 あたしは前を向いた。額の上で深淵の冠の鰭の骨が潮風を受けて、ひゅうと鳴る。遠い北の氷原で吹雪が鳴らす、一つ目の音。遠くで唸る低い音に、よく似ていた。

 

 

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