ロシア帝国は現在、ドイツのツェッペリン社から完成機や部品を買い付ける一方で、国内の造船廠や工兵工廠において、国産硬式飛行船『アルバトロス級』の本格的な独自開発・建造をスタートさせていた。
ツァーリカシャロートの成功によって、空の巨鯨が持つ戦略的価値に帝国全土が沸き立っているのだ。
だが――その全ての始まりとなった、最初の飛行船の購入劇。
そこに秘められていたフリストフォルの「真の動機」を知る者は、この世界において彼一人しかいなかった。
時計の針を少し巻き戻す。
1900年7月2日、ドイツのボーデン湖上において、フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が心血を注いだ硬式飛行船の第1号機『LZ 1』が、人類の航空史に不滅の初飛行を刻み込んだ。
三回にわたる試験飛行で、当時の最高峰であったフランスの半硬式飛行船『ラ・フランス』の速度記録をあっさりと塗り替えたLZ 1であったが、その先進性ゆえに当時の保守的な軍部や出資者たちからは理解を得られず、資金難に陥ったツェッペリン伯爵の手によって、翌1901年には惜しくも解体・保管される憂き目に遭っていた。
骨組みをばらされ、湖畔の格納庫の片隅で無残に埃を被っていたその悲劇の機体――。
それを自らの二歳の誕生日に、父ニコライ二世へとねだり、帝室の莫大な私財を投じて買い取らせたのが、他ならぬフリストフォルであった。
当時、彼はまだチヨノーチェと二人きりで、秘密裏にロシア語の猛勉強を重ねていた時期であった。
頭の中は完全に日本語でありながら、舌足らずな唇で「パパ……あれ、ほしい。おおきな、おふね……」と、拙いロシア語の単語を一生懸命に並べ、青い瞳を潤ませて強請ったのだ。
初めての男児が言葉を覚え、巨大な乗り物に憧れを抱いたと信じ込んだ親馬鹿のニコライ二世は、狂喜乱舞して電信を飛ばし、ツェッペリン伯爵の元から機体の部材と特許をまるごと買い取ってくれたのである。
周囲は皆、幼き皇子の無邪気な「空飛ぶオモチャのおねだり」だと微笑ましく見守っていた。
だが、フリストフォルの小さな頭の奥底にあったのは、無邪気さとは程遠い、極めて切実で冷徹な「生存戦略」であった。
(第二次世界大戦まで行けば、戦闘機や対空砲の餌食になって飛行船なんて戦場から完全に姿を消す。でも……第一次世界大戦の頃までなら、空を泳ぐ無敵の鋼鉄の鯨でいられるんだ)
フリストフォルが求めていたもの。 それは戦争の兵器などではなく、来るべき破滅の日のための「究極の脱出用」であった。
1917年に帝国が崩壊し、翌年に一家揃ってボリシェヴィキの銃弾に倒れる定め。
もしも歴史の修正が利かず、最悪の革命の嵐がペテルブルクを呑み込もうとしたその時――陸路も鉄道も暴徒や反乱兵に封鎖され、港の軍艦が赤旗を掲げたとしても、宮殿の庭から垂直に浮上できる飛行船さえあれば、家族全員を乗せて悠然と空から国境を脱出できる。
目指す先は、ドイツか英国であった。
血生臭い革命のロシアを飛び立ちさえすれば、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世も、英国王室も、ロマノフ家とは濃厚に血を分かち合った親類縁者ばかりだ。
特に英国王室の血筋には、前世の現代に至るまでロマノフ朝の血を引く子孫たちが脈々と受け継がれていたことを、フリストフォルは知識として知っていた。
亡命先として空から駆け込めば、無碍に追い出されるような真似は決してされないはずだという、極めて現実的な計算が成り立っていたのである。
愛する姉たちを連れて、破滅のロシアから逃げ出すための「ノアの方舟」。
それこそが、二歳のフリストフォルが埃を被ったLZ1を買い取らせた、唯一にして最大の理由であったのだ。
(……それが、どうしてこうなったんだか)
微睡みの中で、フリストフォルは内心で自嘲の笑みを漏らした。
家族を乗せて国外へ逃げるための「脱出用の方舟」として手元に置いたはずの船が、まさか日露戦争という局地戦に引っ張り出され、手作りの爆弾を満載して日本海を渡り、人類史上初の実戦空爆を指揮する羽目になるとは。
当時のフリストフォルには、夢にも思い描けない歴史の悪戯であった。
だが、結果としてそのオモチャは、ロシア軍に新時代の翼を与え、極東の戦局を塗り替え、自らの発言権を押し上げ、そして今こうして、愛する家族の健康と平穏を買い取るための最大の武器となった。
「……ん、フリスチューシュカ……?」
隣で眠っていたアナスタシアが、夢心地の声で身じろぎし、弟の身体をさらにぎゅっと引き寄せた。
反対側からは、マリアが小さな寝息を立てながらフリストフォルの手を握りしめてくる。
未来の亡命の心配など、今のこの温もりの前には、どこか遠い絵空事のようであった。
逃げるための船は、すでに戦うための翼へと姿を変えた。
ならば、逃げ出す必要すらなくなるまで、この手で歴史を徹底的に作り変えてやればいいだけのことだ。
両側から伝わる最愛の姉たちの体温に包まれながら、フリストフォルは今度こそ何の打算もない、ただの幼子としての安らかな眠りの中へと沈んでいった。
◇◇◇
ロシア海軍へ装甲護衛空母の青写真を手渡す一方で、フリストフォルは水上艦隊――とりわけ駆逐艦や巡洋艦の足回りを支える「対潜兵装」の開発にも精力的に着手していた。
自軍が潜水艦という見えない刃を実戦投入している以上、敵国である日本海軍が同様の兵器、あるいは小型の水雷艇による奇襲に打って出てくる可能性は常に想定しておかねばならなかった。
もっとも、1904年という時代における潜水艦の性能など、フリストフォルからすれば児戯に等しい。
長時間の潜航など不可能であり、鉛蓄電池の容量が尽きればすぐに海面へ顔を出さねばならず、何より潜航深度は深くてもせいぜい四十メートル前後。
現代の原潜のように深海に潜むことなど不可能な、極めて脆い鉄の筒に過ぎないのだ。
(水の中に潜っているなら、周囲の水圧ごと叩き潰せばいい。大砲で直撃を狙う必要なんてないんだから)
そうしてフリストフォルが考案したのが、後世において『爆雷』と呼ばれることになる対潜兵器であった。
大掛かりな新技術など必要なかった。
外殻には、石油や塗料の輸送に使われている円筒形の「ドラム缶」の構造をそのまま流用。
内部に大量の爆薬を限界まで詰め込み、底面には水圧の変化によって作動する簡易な静水圧信管を取り付ける。
一定の深さまで沈降した瞬間、水圧でピストンが押し込まれ、撃針が雷管を叩いて水中で轟然と炸裂する仕組みである。
水中で生じる強烈な衝撃波は、至近距離にいる潜水艦のリベットを吹き飛ばし、耐圧船殻を容易く圧壊させる。
この新兵器が、シベリア鉄道を通じて極東の最前線――ウラジオストク軍港へと送られたのは、日露の戦火が激しさを増す中において至極当然の配備計画であった。
だが、運命という名の歯車は、しばしば開発者の意図を超えた方向へと勝手に転がり出すものである。
ウラジオストク要塞の薄暗い補給倉庫。
山積みにされた無骨な円筒形の爆雷の山を前にして、腕組みをして立ち止まった者たちがいた。
極東の空を制する帝国空中機動艦隊の、陸軍工兵たちであった。
「……おい、見ろよこれ」
「海軍の旦那方が届けてもらった新しい魚の罠だろ? それがどうした」
「どうした、じゃねえよ。よく見ろ。……丸いじゃねえか」
工兵長が泥のついた軍靴で、床に転がっていた爆雷をコツンと蹴った。
当時の駆逐艦における爆雷の投下方式は、まだ火薬や圧縮空気で遠くへ飛ばす投射機など存在せず、艦尾に組んだ鉄のレールの上に並べ、固定ピンを抜いて自重で海へと「転がり落とす」という極めて原始的なものであった。
横にして置けば、人の手で容易に転がせる。
その単純明快な幾何学的構造を目にした瞬間、工兵たちの無骨な顔に、下卑た、しかし悪魔的に冴え渡ったニヤリとした笑みが浮かんだ。
「……なあ。俺たち、毎回の出撃で何に一番泣かされた?」
「そりゃあ、重い砲弾を両腕で抱えて、風が吹き込むハッチから手作業で落とす地獄の重労働だ。腰が砕けそうになるぜ」
「だよな? ……だが、もしこの丸い樽のケツに、衝撃信管か長い導火線をねじ込んで、飛行船のキャビンにレールを敷いて並べたら……どうなると思う?」
「…………ッ!」
工兵たちの間に、戦慄と歓喜の沈黙が走った。
1週間後……。
ウラジオストクを飛び立った大型飛行船『ツァーリカシャロート』の腹腔内には、海軍の駆逐艦と全く同じ鉄製の傾斜レールが、後部貨物ハッチへ向けて何列も敷設されていた。
そのレールの上には、水圧信管を衝撃信管へと換装された、ドラム缶爆雷がずらりと並べられている。
朝鮮半島北部、日本軍の大規模な兵站基地と宿営地の上空。
高度千二百メートルの雲海から姿を現した白鯨の後部ハッチが、ギギギと音を立てて全開になった。
「ストッパーを外せ! 転がせェッ!!」
工兵長の怒号とともに、固定用の鉄ピンが引き抜かれた。
ゴロゴロ、ゴロゴロ、ゴロゴロ……!
滑り台を滑り落ちるように、数十個の巨大な鉄の樽が、レールの上を猛烈な勢いで転がり、機体後方から虚空へと次々に吸い込まれていく。
人間が息を切らして一発ずつ放り投げる時代は終わった。
重力に引かれて縦一列に空へ吐き出されたドラム缶の群れは、地上へ向かって恐るべき密度の死のカーテンを形成したのである。
ヒュオオオオオオオッ――!!
地上で空を見上げた日本軍将兵が見たのは、天から降り注ぐ「鉄の樽の雨」であった。
次の瞬間、大地が狂ったように波打った。
ドガガガガガァンッ!! ズドォォォォンッ!!
爆雷とは、そもそも水中で分厚い鉄の潜水艦を粉砕するために、通常の榴弾とは比較にならないほど大量の炸薬が詰め込まれた高密度爆弾である。
それが地表に激突して一斉に炸裂したのだ。
地上に咲き乱れたのは、土煙などという生易しいものではなかった。
黒煙と爆風の巨塔が基地の端から端までを一瞬で薙ぎ払い、兵舎も、弾薬庫も、馬防柵も、その衝撃波の前にマッチ箱のように粉々に吹き飛んだ。
点ではなく、面として大地を帯状に削り取る暴力――後世において『絨毯爆撃』と呼ばれる戦術の原型が、現場の泥臭い閃きによって完成した瞬間であった。
帝都サンクトペテルブルクの空軍大臣執務室で、極東からの戦果報告書をめくっていたフリストフォルは、思わず持っていた紅茶のカップを取り落としそうになった。
「……は? 駆逐艦用の爆雷を飛行船の後ろから転がして、敵の基地を更地にした……?」
報告書には、海軍用の兵器を勝手に徴発した工兵部隊の処罰を求める海軍省の抗議文と、それを遥かに上回る熱量で「至急、ドラム缶爆弾をあと五百個送れ」と要求する現地の航空隊からの電信が添えられていた。
「坊ちゃま、前線の兵士たちというのは、実に……たくましいものですね」
苦笑いを浮かべながら書類を整えるチヨノーチェに、フリストフォルは額を押さえて深いため息をついた。
(……僕はただ、海軍のために近代的な対潜兵器を作ってあげただけなのに。どうして現場の連中は、勝手に第二次世界大戦の重爆撃機みたいな真似を始めてるんだよ……!)
兵站戦略家が敷いたレールの遙か先を、現場のロシア兵たちは自らの腕力と悪知恵で、より凶悪に、より効率的な破壊の形へと猛スピードで突き進んでいた。
◇◇◇
極東の最前線において、ロシア空軍の現場が引き起こした「勝手な超進化」は、対潜爆雷の絨毯爆撃化だけに留まらなかった。
満州や朝鮮北部の戦場において、複葉機がもたらした衝撃はすでに日常の光景へと溶け込みつつあった。
フリストフォルの指示によって機首にプロペラ同調機銃を積み、着陸脚の衝撃をバネで殺す頑丈な複葉機が、超低空で敵陣へと突入していく。
コックピットの両脇からマキシム機関銃を猛連射し、塹壕に伏せる日本兵の頭上へ容赦のない機銃掃射を浴びせかける戦法は、敵味方双方にとって見慣れた、そして恐るべき新時代の脅威となっていた。
だが、地上の友軍を救うその華々しい活躍をるうちに、後方に浮かぶ巨大な飛行船の工兵たちは、またしても余計な、そして悪魔的な閃きを抱いてしまったのだ。
「……なぁ。複葉機の機銃掃射ってのは、確かにすげえが、一瞬で通り過ぎちまうだろ?」
「そりゃあ飛行機だからな。落っこちねえように猛スピードで飛び去るしかねえ」
「だろ? ……だがよ。あの空飛ぶ白鯨が、頭上にプカプカ浮かんだまま、一方的に鉛の雨を何千発も降らせ続けられたら……もっと楽に敵を狩れるんじゃねえか?」
爆弾を落として立ち去るだけの「爆撃手」では物足りなくなったロシア軍工兵たちは、直ちにウラジオストク軍港の海軍工廠へと足を向けた。
彼らにとって、海軍の倉庫は便利な「部品の宝箱」に他ならなかった。
そこで彼らが目をつけたのが、海軍が水雷艇や高速魚雷艇を撃退するために開発を進めていた、最新鋭の「三十七ミリ水雷防御機関砲(ポンポン砲)」であった。
小銃弾とは比較にならない質量を持つ三十七ミリの炸裂弾を、ベルト給弾によって毎分二百発以上の高速度で連射できる自動機関砲。
本来ならば艦載砲として甲板に上向き、あるいは水平に据え付けられるはずのその砲を、工兵たちは事も無げに「上下逆さま」にして飛行船の腹の下へと吊り下げたのである。
飛行船の竜骨下部に開口部を穿ち、砲架を逆さにボルト留めする。
さらに、地上からの小銃弾を跳ね返すための半球状のドーム型防弾鋼板を取り付け、射撃手と装填手が外の景色を見渡せる片側ラインには、何重にも張り合わせた分厚い防弾ガラスの観察スリットを設けた。
誕生したのは、水平から真下までを自由自在に薙ぎ払える、全周旋回式の「腹部機関砲塔」であった。
後世において第一次世界大戦のツェッペリン級が、機銃や小型砲、大量の爆弾を満載して空の要塞と化したあの「重武装飛行船」の概念が、十数年の時を飛び越え、現場の思いつきによって忽然と産み落とされたのである。
その新型砲座を吊り下げた『ツァーリカシャロート』が、朝鮮半島中部の山岳地帯に布陣していた日本陸軍の輜重連隊と砲兵陣地の上空に姿を現した日の戦闘は、もはや一方的な虐殺であった。
上空八百メートルの安全圏で静止した銀色の巨鯨。
その腹の下に取り付けられた鉄のドームから、地上の敵陣めがけて黒い砲身が突き出される。
ポンッポンッポンッポンッ。
独特の重低音とともに、三十七ミリ機関砲が火を噴いた。 天頂から一直線に降り注ぐ、榴弾の連続打撃。
地面に着弾するや否や次々と爆煙と金属破片を撒き散らす大口径の弾幕は、野砲を牽引していた輜重馬の群れを薙ぎ倒し、砲兵が隠れていた土嚢陣地を粉々に砕き、木造の兵舎を屋根ごと蜂の巣にして吹き飛ばしていった。
飛行機のように飛び去ることもなく、飛行船はゆったりと円を描きながら、照準を敵陣の真上に固定し続ける。
地上から反撃しようにも、頭上ほぼ垂直に位置する敵に対して大砲は仰角が足りず、小銃を向けようにも、照準器の真上から炸裂弾がシャワーのように降り注いでくるのだ。
首をすくめて塹壕の底に張り付くことすら許されず、日本軍の輜重部隊はわずか10分の連続射撃によって完全に壊滅した。
帝都サンクトペテルブルクの空軍省。
執務机の上で、前線から送られてきた新型機銃座の写真と図面を眺めていた三歳のフリストフォルは、頭を抱えて深々と天を仰いだ。
「……ねえ、チヨ。僕の目の錯覚かな? これ、どう見てもAC-130ガンシップの先祖返りだよね……?」
「坊ちゃまのおっしゃる横文字の意味は存じ上げませんが……」
書類をめくっていたチヨノーチェが、涼やかな顔のまま苦笑いを浮かべた。
「海軍省からは『我が軍の最新鋭機関砲を勝手に上下逆さまにして空に持ち去るとは何事か』と、前回の爆雷の時よりも三倍長い抗議書が届いております。……もっとも、陸軍の満州軍司令部からは『あの空飛ぶ機関砲のおかげで、敵の補給路が完全に消滅した。全飛行船に最低二門ずつ装備させろ』と、熱狂的な感謝状が添えられておりますが」
「……本当に加減ってものを知らないんだから」
フリストフォルはため息をつきながら、冷めかけた紅茶をすすった。
自らはただ、生存のために最低限の兵站と基本ドクトリンを提示しただけに過ぎない。
だが、一度「空から一方的に敵を殴る快感」を覚えてしまった現場の軍人たちは、フリストフォルの想像を絶する獰猛さで、あらゆる兵器を空へ持ち上げ、世界最強の航空兵器へと勝手に魔改造を繰り返していた。
怠惰な余生を願う幼きツァレーヴィチの思惑を置き去りにして、ロシア帝国空軍という怪物は、誰も止められない速度で戦場の常識を喰らい尽くし、巨大化し続けていたのである。
◇◇◇
三十七ミリ機関砲が地上を耕すように炸裂し、日本軍の輜重隊を蜂の巣にしたという戦果を耳にした時、ロシア軍の現場が歓喜の次に抱いた感情は「さらなる大火力への飢え」であった。
一度絶大な威力を目の当たりにすれば、より巨大な砲を、より圧倒的な破壊力を積みたがる――それは後世の第二次世界大戦において、巨大な重戦車に15.2センチ榴弾砲を強引に載せて『猛獣ハンター』や『ギガント』を生み出したソ連軍のDNAと何ら変わらない、ロシアという大国ならではの「大砲崇拝」のお国柄であった。
「三十七ミリであれだけ吹き飛ぶなら、野砲や艦載砲を空から撃ち込めば、敵の要塞ごと消し飛ばせるんじゃねえか?」
そんな現場の短絡的な欲望から始まった次なる改造計画であったが、流石に陸軍の三インチ(76.2ミリ)野砲は反動が強烈すぎ、従来の吊り下げキャビンに押し込むにはあまりにも手狭で重量バランスを崩す危険があった。
だが、そこで開発を諦めるようなヤワな精神を、ロシアの工兵たちは持ち合わせていなかった。
『一つの部屋に入り切らないのなら、キャビンごと小分けにして増やせばいい』という、極めて乱暴かつ合理的な「足し算の理論」が現場で導き出されたのである。
ドイツから導入し、国内で建造が進む硬式飛行船は、船体の底部を頑丈な軽合金の三角形トラス竜骨が貫いている。
重量物を分散して吊り下げる分には、むしろ複数のゴンドラに分けた方が構造力学的にも理に適っていたのだ。
そうして、船体の腹下に増設に次ぐ増設を重ねた結果――前代未聞の「五連ゴンドラ構想」が完成してしまった。
第一に、最前部に位置する視界良好な「操縦・指揮ゴンドラ」。
第二に、中央部にレール投下軌条を備え、ドラム缶爆雷を数十発抱え込む「爆弾倉ゴンドラ」。
第三に、横向きに配置され、側面へ弾幕を張るために三十七ミリ機関砲を左右に二基並列配置した「側方掃討ゴンドラ」。
そして第四、第五として、その前後に海軍から分捕ってきた57ミリ速射砲を、頑丈な緩衝砲架とともに一門ずつ据え付けた「前方砲術ゴンドラ」と「後方砲術ゴンドラ」。
合計五つもの戦闘区画を腹下にぶら下げたその姿は、もはや偵察用や爆撃用の飛行船という枠を遥かに踏み越えていた。
空高くに鎮座し、眼下の敵陣めがけて重砲弾と機関砲の弾幕、そして爆雷を叩き落とす――人類史上初の『飛行戦艦』が、現場の過剰な火力欲によって忽然と姿を現してしまったのである。
帝都サンクトペテルブルクの空軍大臣執務室。
極東の造船所から送られてきた、もはや怪獣映画の絵コンテとしか思えない飛行戦艦の完成図面を前にして、三歳のフリストフォルは呆れを通り越し、奇妙な感動に胸を打たれていた。
(僕が教えたのは、ただ『飛行船から爆弾を落とせるよ』っていう最初のきっかけだけだったのに……)
そこから先は、現場の軍人や技師たちが、あれよあれよと勝手に狂気の進化を積み重ねていった。
戦争は技術を進歩させる、とは古今東西よく言われる言葉だ。
だがその実態は、高尚な科学の探求などではない。戦場で生き残りたい、敵をもっと効率的に粉砕したいという、人間の剥き出しの「あれも欲しい、これも欲しい」という強欲と欠乏感の連鎖なのだ。
足りないものを足し、重いなら分散し、隙間があるなら大砲を詰め込む――その泥臭い執念の果てに、かつて誰も見たことのない異形の兵器が産声を上げる。
科学がまだ高度に細分化・成熟しきっておらず、軍事力学の教科書すら存在しない1904年という黎明期だからこそ、こうした荒々しくも生命力に満ちた「技術の暴走」が許されるのだ。
「……すごいね、チヨ。人間って、本当に戦争になると頭が回るんだね」
図面を指先でなぞりながら呟いたフリストフォルの横顔を、チヨノーチェはどこか誇らしげな、そして少し困ったような微笑で見つめ返した。
「坊ちゃまが蒔かれた小さな種が、ロシアの土壌でとんでもない大木に育ってしまいましたね。……海軍の提督たちも、今や文句を言うどころか『空飛ぶ砲台に我が軍の砲手を乗せろ』と志願者が殺到しているそうですよ」
「そりゃそうだよ。敵の大砲が届かない空の上から、57ミリ砲を撃ち下ろせるんだから、砲手にとっちゃこれ以上の天国はないでしょ」
フリストフォルはふうと息を吐き、机の上の図面を丁寧に丸めた。
前世の歴史知識をわずかに漏らしただけで、時代はすでに史実の第一次世界大戦の兵器体系すら飛び越え、レトロフューチャーの空想戦記のような領域へと突入しつつあった。
だが、その飛行戦艦が放つ無慈悲な砲火こそが、ロシアの兵士たちを泥沼の死から救い、極東の戦争を最短で終わらせるための決定的な鉄槌となる。
幼き空軍大臣は、自らの手で解き放ってしまった時代の怪物を思い浮かべながら、小さく、しかし確かな手応えを感じていた。
◇◇◇
現場の兵士たちが勝手にパラシュートを背負って敵の頭上へ飛び降り、世界初の空挺強襲を成功させてしまったという事実を前に、フリストフォルは諦めの境地で深く息を吐き出した。
(……もう、こうなったら仕方がない。中途半端に野放しにして全滅されるくらいなら、僕がちゃんとした『教科書』を書いてやるしかないか)
一度解き放たれてしまった怪物の首輪を外したままにしておくほど、フリストフォルは無責任ではなかった。
手探りの思いつきだけで動いているウラジオストクの「空中降下猟兵隊」に対し、空軍大臣たるフリストフォルは、正式な軍事教範としての「空挺作戦ドクトリン」を電信を通じて徹底的に叩き込むこととなったのである。
まず彼が現場に教えたのは、空挺兵という存在が担うべき真の任務の本質であった。
「いいかい。空挺兵の仕事はね、敵のど真ん中に飛び込んで力比べをすることじゃないんだ」
訓令の中で、幼き大臣は冷徹にその役割を定義した。
第一に、敵後方の指揮陣地司令部の強襲と、通信網の切断。
第二に、敵の補給物資集積所や弾薬庫の奪取、あるいは放火による兵站機能の完全遮断。
そして第三に、前線の友軍地上部隊が進撃を開始するタイミングに合わせ、敵防衛陣地の背後を急襲する「前後からの挟撃」である。
敵の喉元と背中に刃を突き立て、パニックに陥らせて陣形を崩壊させる。
漫然と飛び降りて白兵戦を挑むのではなく、目的を絞り込んだ外科手術のような運用を行えと命じたのだ。
そして――フリストフォルが何よりも厳格に、それこそ違反者は即座に軍法会議にかけると脅すほど徹底させたのが、「出撃のための安全基準」であった。
第一に、作戦空域における完全なる制空権の確保。
第二に、降下地点に対する「事前の徹底的な火力制圧」。
飛行戦艦による三十七ミリ機関砲と五十七ミリ速射砲の乱射、ドラム缶爆雷による絨毯爆撃、さらには沿岸部であれば艦砲射撃を限界まで叩き込み、敵の指揮統制能力と反撃能力を完全に粉砕させた段階でなければ、兵員降下のハッチを開くことを一切禁じたのである。
要するに、「やるべき下準備をすべてやり尽くし、空から敵をボロボロの壊滅状態にして、暇になってからスカイダイビングをやりなさい」という、極めて過保護な許可条件であった。
本来の空挺作戦とは、敵の虚を突くハイリスクな奇襲攻撃であり、事前にそこまで派手な砲爆撃を行えば「ここに降下します」と敵に教えているようなものだ。
だが、フリストフォルに言わせれば、そんな教科書通りの奇襲など二の次であった。
無謀な空挺降下がどれほどの精鋭部隊を犬死にさせてきたかを知るフリストフォルにとって、世界で最初に生まれた降下猟兵たちを消耗品としてすり潰す気など毛頭なかった。
真の危険を伴う奇襲作戦の切り札は、将来の大戦のために温存しておけばいい。
まずはこの生まれたばかりの新戦術を兵士たちの身体に安全に馴染ませ、一人でも多くの経験者を無傷で生還させることが、今のロシア軍にとって何よりも重要だったのだ。
この手厚すぎる訓令が前線に届いた時、荒くれ者揃いの降下猟兵たちの反応は、フリストフォルの予想を遥かに超えるものであった。
「……ツァレーヴィチは、我々が思いつきでやった蛮勇を責めるどころか……」
「俺たちの命を守るために、空飛ぶ大砲で敵を更地にしてから降りろと仰っているのか……!」
屈強な工兵や歩兵たちが、手にした命令書を握りしめ、ボロボロと大粒の涙を流して感激していた。
ロシア軍の伝統であった「兵の命など代わりの利く藁束に過ぎない」という冷酷な扱いしか知らなかった彼らにとって、これほどまでに兵士の命を惜しみ、過剰なまでの火力で露払いをしてくれる最高指揮官の存在は、まさに神の使徒そのものであった。
「ウラー! 慈悲深きツァレーヴィチ万歳!!」
「殿下のために、敵の司令官の首を獲ってこいッ!!」
現場の忠誠心と士気は、留まる所を知らず天井を突き破っていった。
だが――帝都の執務室に座すフリストフォル自身は、ただ居心地の悪そうに肩を竦めるばかりであった。
(……みんな、僕のことを神童だの軍神だの崇めてるけどさ……)
前世の記憶という、人類の歴史が血で書き上げた「カンニングペーパー」を横目で見ているだけの立場なのだ。
自分には何の独創性もない。先人たちの流した無数の血の教訓を、ただこの時代に横流ししているペテン師に過ぎないのだという引け目が、フリストフォルの胸のどこかに常にあった。
本当に恐ろしく、そして偉大なのは、何もない暗闇の中から、たった一つのきっかけを与えられただけで正解へと手を伸ばしていく、この時代の人間たちの方なのだ。
ただの安全用具だったパラシュートから、自力で空挺戦術という未来を掴み取ってみせた現場の兵士たちの獰猛な生命力。
(カンニングペーパーなしで答えに辿り着く連中なんだ。……そんな優秀な兵隊たちを、僕の知識不足や怠慢で死なせてたまるもんか)
自分ができることなど、ほんの少しの知恵を授け、彼らが無事に生きて家族の元へ帰れるように、安全のレールを敷いてやることくらいだ。
「坊ちゃま。極東の降下猟兵隊より、鹵獲した敵将校の軍刀が献上されました。……殿下への感謝の品だそうです」
チヨノーチェが布に包まれた刀を恭しく掲げると、フリストフォルは苦笑いを浮かべながら、小さく息を吐いた。
「怪我人が出なかったなら、それでいいよ。……まったく、手のかかる兵隊さんたちだ」
幼き空軍大臣が敷いた過保護なセーフティネットの上で、世界最初の空挺部隊は、傷ひとつ負うことなく敵軍の背後を蹂躙する「無敵の空の猟犬」として、その爪を研ぎ澄ましていた。