ロンドンの空は、年中降り注ぐ細雨と立ち込める石炭の煤煙によって、今日も陰鬱な鈍色に澱んでいた。
ホワイトホールの英国海軍省――アドミラルティの作戦会議室。
重厚なマホガニーの長机を囲んでいたのは、大英帝国の命運を握る最高指導部であった。
首相アーサー・バルフォア、外務大臣ランズダウン侯爵、そして海軍近代化を猛烈な勢いで推進する第一海軍卿、『ジャッキー』ことサー・ジョン・フィッシャー提督。
彼らの眼前に広げられていたのは、海軍情報部が極東から持ち帰った、最新の偵察写真と緊急電信の束であった。
「……信じがたい。これが真に、東洋の島国で起きている現実なのか」
バルフォア首相が、乾いた指先で一枚の写真をなぞりながら掠れた声を漏らした。
そこに写っていたのは、かつて本州屈指の良港と称された新潟港の無残な成れの果てであった。
港湾の木造桟橋は根こそぎ焼き払われ、石油タンクは黒焦げの鉄屑と化し、鉄道操車場のレールは飴細工のようにへし曲がって大穴が口を開けている。
だが、英国の指導者たちを最も慄然とさせたのは、破壊の規模そのものではなかった。
写真の裏に記された、冷酷極まる「定期運行表」の記録である。
「……函館、青森、山形、新潟、そして能登」
ランズダウン外相が、忌々しげに手帳を読み上げる。
「ロシア空軍は、ウラジオストクから三隻の飛行船艦隊を日替わりで出撃させております。高度千メートル以上の絶対安全圏から、一週間に一度、まるで鉄道の時刻表のように正確無比な『ローラーシフト』で港湾部を巡回爆撃しているのです」
「……ローラーシフトだと?」
「はい。日本海側の各港湾に対し、ちょうど一週間おきに、ドラム缶を流用した高密度炸薬弾――いわゆる『ドラム缶爆弾』の絨毯爆撃を規則正しく叩き落としていくのです」
ランズダウンの声は、外交官特有の冷静さを失い、微かに震えていた。
「港湾機能が麻痺し、必死になって瓦礫を撤去し、桟橋を修繕し、ようやく線路を繋ぎ直した『ちょうどその日』に、再び空から巨鯨が現れ、すべてを更地へと叩き戻す。……これを二ヶ月間、寸分の狂いもなく繰り返された日本の地方官憲と人夫たちは、ついに完全に心を折られました。『復旧作業など、命と資材の無駄遣いである』と、日本海側のすべての港で修繕作業が放棄されたとのことです」
「精神の外科手術だな」
冷ややかに呟いたのは、フィッシャー海軍卿であった。
その鋭利な眼光は、極東の地図上に描かれた、海峡を封鎖する赤と黒の印へと向けられている。
「……対馬海峡と関門海峡の状況はどうかね?」
「壊滅的です」
情報将校が直立不動のまま報告を継いだ。
「ロシアのウラジオストク巡洋艦隊による水上通商破壊に加え、正体不明の『海中雷撃』が頻発しております。狭水道を通過しようとする日本の軍送船や補給船団に対し、波間から突然放たれた魚雷が船底を抉る。日本海軍は駆逐艦を総動員して血眼で海面を捜索しておりますが、敵の姿を捉えることすら叶いません」
「潜水艇か」
「はい。露仏の造船所からシベリア鉄道経由でウラジオストクへ分解輸送された小型潜水艇が、海峡の暗がりに群れを成して潜んでいる模様です。日本軍は関門海峡から朝鮮半島へ一歩も物資を送り出せなくなっております。結果として……朝鮮半島北部に釘付けにされた日本陸軍の数十万の将兵は、弾薬も食糧も届かぬまま、鴨緑江のロシア要塞線の前で飢えと病に倒れ、事実上の孤立無援に陥っております」
重苦しい沈黙が、アドミラルティの部屋を支配した。
開戦からわずか半年。
大英帝国がロシアの南下を阻むための「優秀な番犬」として期待し、日英同盟を結んで多額の外債を用立ててやった極東の同盟国は、いまや四肢をもがれ、首を絞め上げられた瀕死の蟻と化していたのである。
「……フィッシャー提督」
バルフォア首相が、すがるような視線を第一海軍卿へ向けた。
「我がロイヤルネイビーの中国艦隊、あるいは地中海艦隊の一部を極東へ急派することはできんのか? 海上封鎖を解き、ロシア海軍を威嚇するのだ。大英帝国の威信を示せば、白熊どもとて尻尾を巻いてウラジオストクへ引き籠もるはずではないか」
かつてならば、それが世界の海を支配するパクス・ブリタニカの絶対の正解であった。
だが、希代の海軍改革者であるフィッシャーは、鼻を鳴らし、机上の海図を乱暴に叩きつけた。
「首相、正気ですか? 我が軍の誇る戦艦を、あの化け物どもの餌食にするおつもりか」
「何だと……? 我が戦艦が、ロシア海軍如きに後れを取るというのか!」
「海軍如き、ではありません! 『空』です!」
フィッシャーは憤怒と、それ以上の恐怖を押し殺した声音で怒鳴り返した。
「極東のロシア海上艦隊の上空には、常に二隻の硬式飛行船――重機関砲と速射砲を腹下にぶら下げた『飛行戦艦』が、海上艦に曳航されるように滞空しております! 奴らは雲の切れ間から、全周を見張っているのだ! 我が艦隊が接近すれば、水平線の彼方から一方的に発見される!」
フィッシャーは冷酷な現実を突きつけた。
「我がロイヤルネイビーの主砲にも副砲にも、真上の高度千メートルを飛ぶ標的を狙えるだけの『仰角』が存在しません。大砲を空に向けることすらできんのです!通常の徹甲弾や機関銃の鉛玉を何千発撃ち込もうと、薄い皮膜に小さな穴が空くだけで、水素に火などつきはせんのだ!着弾と同時に火を噴く特殊な火薬弾でも開発せん限り、あの巨鯨は悠然と空に浮かび続けるのだぞ!」
――後世において、飛行船を炎上・撃墜するために使われることになる『曳光弾』が登場するには、さらに十年以上後の第一次世界大戦を待たねばならない。
防空砲も、迎撃戦闘機も存在しない1904年の大英帝国には、空の巨鯨を燃やす手段など文字通り影も形もなかった。
フィッシャーの額に、脂汗が滲み出る。
「敵の大砲は届かない空の上から、五十七ミリ速射砲の雨とドラム缶爆弾が、無防備な我が戦艦の薄い甲板めがけて垂直に降り注ぐのですよ。……ネルソン提督の末裔たる我がロイヤルネイビーが、反撃の一撃すら放てぬまま、一方的に鉄の棺桶へと変えられる。そんな悪夢の道化芝居を、世界の海で演じさせるおつもりですか!?」
バルフォア首相は言葉を失い、青ざめた顔で椅子へと沈み込んだ。
絶対無敵を誇った大英帝国のシーパワーが、三次元という未知の戦場を前にして、完全に手足を奪われていた。
「……では、外交的な口実を見つけることはできんのか、ランズダウン?」
バルフォアは縋るように外相へと向き直った。
「スエズや紅海、マラッカ海峡でのロシア艦による臨検だ! 我が国の商船の自由航行が脅かされたと騒ぎ立てれば、国際法違反を名目にロシアへ最後通牒を突きつけられるはずだ!」
しかし、ランズダウン外相は力なく首を横に振るだけであった。
「それも……不可能です、閣下。ロシア側の通商統制は、悪魔的なまでに『紳士的』で洗練されております」
外相はポケットから、ロイズ保険組合および東洋汽船会社からの報告書を取り出した。
「ロシア海軍は、日本向け以外の貨物を積んだ我が国の商船は、一切足止めせず即刻通航を認めております。それどころか……船長が日本向けの物資を積んでいるにもかかわらず『積んでいない』と虚偽の申告をした場合、ロシアの臨検将校はそれを明らかな嘘だと見抜いていながら、あえて深く追及せず、苦笑いを浮かべて素通りさせているのです」
「……何だと? 拿捕しないのか?」
「ええ。たまに思い出したように、形だけの詳細な臨検を行う程度です。船員は丁重に扱われ、船が沈められることもなく、紅茶やタバコを振る舞われて解放される。結果として、シティの商人や船主連中は『ロシア海軍は極めて話が通じる紳士たちだ』と呑気に感謝しており、開戦を叫ぶ世論など国内のどこを探しても存在しません。我が国には、戦争を始めるための『大義名分』が塵一つとして落ちていないのです」
「計算されている……」
バルフォアが呻いた。
「ロシアの指導部は、最初から我が国を怒らせぬよう、完璧な匙加減で首を絞めているのだ……」
そして、ランズダウン外相は最も恐るべき、決定的な地政学的現実を口にした。
「それだけではありません。仮に……仮に我が国が無理筋を通してロシアに宣戦布告した場合、何が起きるか。……情報部の試算が出ました」
外相が広げたのは、ユーラシア大陸の広大な地図――中央アジアと、大英帝国の心臓部たる「インド」の地図であった。
「ロシアは今や、空軍と機械化歩兵、そして恐るべき多連装ロケット砲を保有しております。もし英露戦争が勃発すれば、ロシア軍はコーカサスとカザフスタン、ペルシアを瞬く間に蹂躙し、カイバル峠を越えて英領インドへと雪崩れ込んでくるでしょう。防空兵装を持たぬ英領インド軍は、空飛ぶ砲台の前に数ヶ月で壊滅します」
ランズダウンは、バルフォアの目を真っ直ぐに見据えた。
「閣下。……極東の黄色い猿の面子を救うために、大英帝国の王冠の宝石たる『インド帝国』を、ロシアに差し出す覚悟がおありですか?」
部屋の中の空気が凍りついた。
比較するまでもなかった。
極東の島国と同盟を結んだのは、あくまでインドの防壁とするためであった。
その防壁を助けるために、本体であるインドを危険に晒すなど、本末転倒も甚だしい狂気の沙汰であった。
コン、コン。
控えめなノックの音が、作戦室の重苦しい静寂を破った。
入ってきた秘書官が、恭しく一通の電信をバルフォアへと差し出した。
「……バッキンガム宮殿より、国王陛下からの親書でございます」
バルフォアが封を切り、視線を走らせる。
そこに書かれていたのは、英国王エドワード七世から、甥であるロシア皇帝ニコライ二世との間で交わされた、極秘の電信の要約であった。
『最愛のニッキー(ニコライ二世)は、我が国との通商に格別の配慮を払っている旨を約束した。我が王室とロシア皇室は、血を分けた親族である。極東の局地戦のために、親族同士がヨーロッパで血を流す愚行は断じて避けねばならない――』
「……チェックメイトだな」
バルフォア首相は紙片を机の上に放り出し、深く長い、敗北のため息を吐いた。
軍事的には飛行戦艦に対抗できず。
外交的には開戦の大義名分を奪われ。
地政学的にはインドを人質に取られ。
そして王室の血縁ネットワークによって、戦争への扉は完全に施錠されていた。
「……ランズダウン」
首相は、顔を覆ったまま力なく命じた。
「外務省の応接室でお待ちの、駐英日本公使・林董閣下をお通ししろ」
「……何とお伝えになりますか?」
ランズダウンの問いに、バルフォアは冷酷な、大英帝国の冷徹なエゴイズムを剥き出しにした声音で答えた。
「これ以上の戦費を賄うための『日本外債』の追加発行は、ロンドン市場において一切停止する。我が海軍による軍事介入も行わない……とな」
「……日本を見捨てるおつもりで?」
「見捨てるのではない。現実を教えてやるのだ」
バルフォアは冷え切った紅茶のカップを見下ろしながら、吐き捨てるように告げた。
「『ロシアは、満州の門戸開放と英米の利権参入を認めるならば、領土の割譲を求めぬ寛大な白紙講和に応じる用意がある』と、ペテルブルクの駐露大使から打電があった。……林公使に伝えろ。『これ以上戦えば、貴国は地図の上から消滅する。ロシアが慈悲の手を差し伸べている今のうちに、泥水を啜ってでも講和条約に署名せよ』とな」
十分後。
アドミラルティの豪奢な扉をくぐり、やつれ果てた顔で深々と頭を下げた小柄な日本公使を迎えたのは、英国の紳士たちが浮かべる、この上なく冷淡で、そして絶対的な「梯子外し」の宣告であった。
ロンドンの街に降り続く冷たい雨のなか、大英帝国は極東の同盟国を静かに見切り、ユーラシアに君臨する新たな空の覇者との「手打ち」へと、舵を切り始めていた。
◇◇◇
ワシントンD.C.の秋は、ポトマック河畔から吹き寄せる冷風とともに、紅葉した樫の葉をホワイトハウスの庭先へと散らしていた。
大統領執務室――オーバルオフィス。
暖炉の薪がパチパチと爆ぜる執務室のなかで、第26代合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは、分厚い眼鏡の奥の小さな瞳をぎらつかせながら、届いたばかりの暗号解読電信を睨みつけていた。
デスクの脇に佇むのは、白髪の老外交官、国務長官ジョン・ヘイ。
そしてソファには、ニューヨークの金融街ウォール街を牛耳る大物銀行家、クーン・ローブ商会の代表ジェイコブ・シフから届けられたばかりの至急報が広げられていた。
「……ロンドンが、降りたか」
ルーズベルトの低く唸るような声が、静かな部屋に落ちた。
「はい、ミスター・プレジデント」
ジョン・ヘイが静かに首肯する。
「英国外相ランズダウン侯爵が、駐英日本公使・林董に対し、最後通牒に等しい通告を行いました。ロンドン市場における日本外債の追加発行は全面停止。ロイヤルネイビーの派遣も行わない……事実上の同盟破棄、完全なる梯子外しです」
「あの老獪なジョンブルどもめ。極東に火をつけ、黄色い猿に白熊を噛ませて高みの見物を決め込むはずが、白熊が空を飛ぶ怪物だと知った途端、尻尾を巻いて逃げ出しおったか」
ルーズベルトは忌々しげに葉巻を咥えたが、火をつけることなく灰皿へと放り出した。
彼自身、新渡戸稲造の『武士道』を愛読し、ハーバード大学の同窓生である金子堅太郎を通じて日本に強い個人的好意を抱いていた。
有色人種でありながら西洋の近代化を成し遂げ、大帝国ロシアに果敢に挑んだ日本の勇気を、フロンティアスピリットを重んじるルーズベルトは高く評価していたのだ。
だが――大統領としての彼は、極めて冷酷なリアリストであった。
「シフは何と言っている?」
「『これ以上の対日融資は自殺行為である』と」
ヘイ国務長官が、シフからの電信を読み上げる。
「『ロンドンの裏付けを失った日本の債券は、ただの紙屑同然である。ウォール街のシンジケートは、日本向け外債の引き受けを直ちに凍結する。大統領におかれては、即刻、日本に戦争をやめさせられたし。さもなくば、我が国の銀行界が抱える既存の債権すら回収不能に陥る』……とのことです」
「金貸しどもの鼻の利くことだ」
ルーズベルトは苦笑した。
大日本帝国の命脈は、尽きかけていたのではない。
英国とウォール街という二つの財布を同時に閉じられたこの瞬間、完全に「絶たれた」のだ。
「……だがジョン。英国をそこまで怯えさせ、即座に手を引かせた決定打は何だ? 単に極東の日本軍が押し戻されているというだけでは、あの傲慢な大英帝国がここまで無様に引き下がるはずがない」
その問いを待っていたかのように、ジョン・ヘイはデスクの上に分厚い革張りのファイルを置いた。
陸海軍情報部が収集した、ロシアの新兵器に関する極秘報告書である。
「これを」
ヘイがめくった写真には、朝鮮半島北部の上空に浮かぶ、異形の巨鯨の姿が収められていた。
腹下に無数のゴンドラをぶら下げ、大砲と機関砲を突き出した硬式飛行船――ロシアの誇る『飛行戦艦』である。
「情報部が持ち帰った分析結果です。高度千メートルを飛び、真上から一方的に速射砲と爆弾の雨を降らせる空の要塞。……これに対し、現在の地上のいかなる大砲も、海上のいかなる戦艦も、真上を狙う仰角砲は世界中のどこにも存在しないのです」
ヘイは淡々と、しかし背筋の凍るような言葉を続けた。
「ロイヤルネイビーのフィッシャー提督が試算した結論はただ一つ。『我が艦隊を極東へ送れば、空からの一方的な攻撃により、全艦が鉄の棺桶と化す』。……さらに、ロシアは英領インドの喉首に、中央アジアからこの空飛ぶ怪物を突きつける態勢を整えております。英国にとって、日本を助ける代償は『インドの喪失』でした。降りない理由がありません」
「…………」
ルーズベルトの喉が、微かに鳴った。
彼の脳裏をよぎったのは、数年前に米西戦争で奪取したばかりの太平洋の要衝――「米領フィリピン」の防衛線であった。
もしも合衆国が日本に肩入れし、ロシアと敵対した場合、あの空飛ぶ怪物がマニラの上空に姿を現したらどうなるか。
アメリカ海軍の戦艦群は、反撃の砲弾を一発も撃ち上げることすら叶わず、湾内でただ破壊されるのを待つ屑鉄と化すだろう。
「……我々にも、あの化け物を撃ち落とす術はないのだな?」
「皆無です。空を飛ぶ兵器も、それを迎え撃つ大砲も、現時点ではロシア帝国の一強・専売特許でございます」
ルーズベルトは深く息を吐き出し、椅子の背もたれに身体を沈めた。
大戦略の天秤は、すでに合衆国の手の届かない高みで決定づけられていた。
だが――老練な国務長官ジョン・ヘイの瞳には、絶望ではなく、老獪な外交官特有の光が宿っていた。
「しかし、ミスター・プレジデント。我が合衆国にとって、この事態は必ずしも悲劇ではございません」
「……何?」
ヘイは懐から、駐ペテルブルク大使館経由で届いた、ロシア皇室の意向とされる極秘覚書を取り出した。
「ロシア側から、我が国へ向けて極めて魅力的な内示が届いております。……ロシアは、日本との講和において、領土の割譲も、過度な賠償金も要求せぬ方針であると」
「白紙講和だと……? あれだけ一方的に叩きのめしておきながらか?」
「ええ。そして何より――ロシアは講和後、満州における鉄道網および鉱山資源の開発において、『合衆国資本の自由なる参入と共同開発』を受け入れる用意がある、と伝えてまいりました」
「――ッ!!」
ルーズベルトの目が、眼鏡の奥で剥き出しに見開かれた。
門戸開放。
それこそが、ジョン・ヘイが提唱し、合衆国が長年アジアにおいて喉から手が出るほど欲し続けていた、究極の国益であった。
広大な中国市場、とりわけ無尽蔵の資源が眠る満州の門戸を、ヨーロッパ列強の独占からこじ開け、アメリカの鉄道王や鉄鋼王たちを雪崩れ込ませること。
それが今、ロシア自らの手によって、黄金の皿の上に載せられて差し出されたのだ。
「ロシアの意図は明白です」
ヘイが冷徹に解説する。
「彼らは極東において、日本を完膚なきまでに叩き潰して戦意を奪いながらも、完全に殺す気はありません。日本を適度に生かして朝鮮半島に押し込め、自らの防波堤とする。そして背後を固めた上で、我が合衆国を満州の共同開発パートナーとして引き込み、太平洋側における英独への牽制球としたいのです」
「……三歳のツァレーヴィチが背後にいるという噂は、本当なのか?」
「宮廷の確かな筋からの情報です。この冷酷にして完璧なグランドデザインを描いたのは、ニコライ二世ではなく、空軍大臣の椅子に座るあの幼き皇子であると」
「恐ろしい悪魔の落とし子だな」
ルーズベルトは感嘆と戦慄の入り混じった笑みを漏らした。
勝者の傲慢で相手を滅ぼすのではなく、敵には生き残る道を与え、中立国には満州の利権という極上のパイを切り分ける。
大英帝国を手玉に取り、合衆国の喉元を鳴らさせる――完璧なチェックメイトの盤面であった。
「決まりだな、ジョン」
ルーズベルトは立ち上がり、頑強な拳でデスクをドンと叩いた。
「我が合衆国が、この戦争にこれ以上日本の側で介入する理由は塵一つとして存在しない。むしろ、ロシアの差し出したこのディールに乗ることこそが、アメリカの世紀を切り拓く唯一の道だ」
コン、コン。
控えめなノックとともに、大統領秘書官が扉を開けた。
「……大統領。別室にてお待ちの、大日本帝国特使・金子堅太郎男爵がお見えです」
ルーズベルトの表情から、打算と冷徹さがすっと消え失せ、痛ましげな、しかし揺るぎのない指導者の相貌が戻った。
「通したまえ」
入ってきたのは、仕立ての良いフロックコートに身を包んだ、小柄な日本人紳士であった。
しかし、かつてハーバードの学舎で快活に議論を交わしていた面影はどこにもなかった。
金子堅太郎の頬は削げ落ち、目の下には濃い隈が刻まれ、その背中は見えない巨大な重圧に押し潰されるように微かに震えていた。
「……テディ。急な訪問を許してほしい」
金子は震える声で、友の愛称を呼んだ。
「ロンドンからの電信は、すでに届いているだろう。……英国は、我が国への追加融資を拒否した。戦艦の派遣も断られた。……頼む、テディ。合衆国だけが、大日本帝国の最後の希望なのだ。ウォール街に号令をかけ、追加の借款を承認させてはくれないか。我が国の海軍に、石炭と砲弾を買う金を融通してほしいのだ……!」
金子は深く、深々と頭を下げた。
国家の命運を一身に背負った男の、魂を削るような懇願であった。
ルーズベルトはデスクから歩み出ると、旧友の痩せ細った肩に、重々しく大きな手を置いた。
その瞳には、友への心からの同情と、そして一国の大統領としての冷酷な決意が宿っていた。
「……顔を上げたまえ、カネコ」
「テディ……」
「友として、そして合衆国大統領として、君に真実を告げねばならない」
ルーズベルトは首を横に振った。
「ウォール街からの追加融資は、一ドルたりとも出ない。合衆国政府も、これ以上の軍事支援を行うことはできない」
金子の息が止まった。顔から血の気がサーッと引き、紙のように白くなっていく。
「な……ぜだ……? 我が国は、極東の自由と文明のために戦っているのだぞ! 露国という専制君主の巨人を前に、ここで我が国が倒れれば、極東は暗黒に呑まれるのだぞ……!」
「倒れる前に、リングを降りろと言っているのだ」
ルーズベルトは鋭い眼光で、金子の瞳を射抜いた。
「君たちの軍隊は、すでに限界を超えている。関門海峡は潜水艇に塞がれ、鴨緑江の軍隊は孤立し、日本海側の港は一週間ごとに空から焼き払われている。……これ以上戦えば何が起きるか、君ほどの知性があれば分かるはずだ。来年の春を迎える前に、日本は国家として破綻し、餓死と混乱のなかで地上から消滅する」
金子の唇が、屈辱と絶望にワナワナと震えた。
「し、しかし……今さら引けるものか! 開戦からまだ一年も経っていないのだ! 朝鮮半島で、満州で、何万という我が帝国の将兵が命を散らした! 講和など言い出せば、軍部が暴発する! 国民が政府を焼き討ちにする! 『勝つまで戦え』と、日本中が狂乱しているのだ……!」
「だからこそだ」
ルーズベルトは強い語気で遮った。
「ペテルブルクから内示があった。ロシアは、君たちを滅ぼす気はない。……領土の割譲も、賠償金も求めない『寛大な講和』の用意があると言っているのだ」
「……ば、馬鹿な……」
金子は耳を疑ったように目を丸くした。
「勝者が……あの大帝国ロシアが、賠償金も取らずに兵を引くだと……? 罠だ、そんな甘い話があるはずがない……!」
「罠ではない。神の慈悲だ」
ルーズベルトは冷徹に言い切った。
「ロシアは君たちを飼い殺す気なのだよ。朝鮮半島の権益を君たちに認め、満州の門戸を開かせ、日本という国家を生かして極東の防波堤にする。……君たちのメンツは保たれる。国民に対しても『我が国は目的を達した』と大勝利を宣言できるはずだ」
ルーズベルトは金子の両肩を掴み、顔を近づけた。
「カネコ、選ぶのだ。面子のために国を滅ぼし、最後の一人まで飢え死にするか。それとも、ロシアが差し伸べたこの蜘蛛の糸に縋りつき、国家の命脈を保つか」
「…………っ」
金子の目から、一筋の涙が零れ落ちた。
誇り高き大日本帝国のエリートが、世界の冷酷な力学の前に、完膚なきまでにへし折られた瞬間であった。
「……私に、どうしろと言うのだ」
絞り出すような金子の問いに、ルーズベルトは不敵な、しかし救いの手を差し伸べる笑みを浮かべた。
「東京へ打電したまえ。『大統領が動く』とな」
ルーズベルトは胸を張り、世界を統べる王のような堂々たる威厳を放った。
「世界の平和と人道のため、合衆国大統領セオドア・ルーズベルトが、日露両国に対して『名誉ある即時停戦と講和会議の開催』を公式に勧告する。……君たちは敗けて白旗を揚げるのではない。超大国アメリカ大統領の崇高な呼びかけに応じ、東洋の平和のために矛を収めるのだ。そう発表すれば、君たちの国民も軍部も、暴動を起こす大義名分を失うだろう」
金子は崩れ落ちるようにソファーへ倒れ込み、両手で顔を覆って慟哭した。
屈辱であった。
だが、それが大日本帝国という国家が生き残るための、世界で唯一残された細い道であった。
金子が退出した後、執務室の窓辺に立ったルーズベルトは、夕日に染まるワシントンの空を見つめながら、満足げに葉巻を咥えた。
「……ジョン」
「はい、大統領」
「ポーツマスの海軍工廠を手配しろ。日露両国の全権を呼んで、講和条約を結ばせる。……調停者は、このセオドア・ルーズベルトだ」
アメリカは一滴の血も流すことなく、満州の巨大な市場を手に入れ、世界の平和の審判者としての栄誉を独占する。
そして極東の戦争は、三歳のロシア皇子が敷いたレールの通りの終着駅へと、音を立てて滑り込もうとしていた。
◇◇◇
第一次世界大戦。
後世においてそう呼ばれることになる未曾有の総力戦の幕が上がった時、欧州各国の街頭では、熱狂する群衆に見送られた若き将兵たちが誰もが笑顔でこう口にしていた。
『クリスマスまでには帰れるさ』
だが――それが足掛け四年以上にも及ぶ泥沼の塹壕戦となり、毒ガスの煙と機関銃の弾雨の中で夥しい数の命がすり潰される地獄の始まりであるなど、当時の誰一人として予想だにしていなかった。
そして、日露戦争。
フリストフォルの前世の記憶が正しければ、極東の地で繰り広げられたこの戦争もまた、一年以上の長きにわたって泥沼の血を流し続けるはずであった。
旅順の丘で万の兵が屍を晒し、奉天の荒野で砲弾が尽き、日本海でバルチック艦隊が壊滅する。
そしてアメリカの仲介によるポーツマス条約において、ロシア帝国は極東の黄色い小国に屈辱的な敗北を喫し、南樺太を奪われ、帝政ロシア崩壊の決定的な第一歩を踏み出すはずだったのだ。
白人至上主義という世界秩序の背骨に初めて亀裂を入れた、世紀の分岐点。
――それが、どうだ。
1904年、12月。
カレンダーを見下ろしながら、フリストフォルは執務机の上で小さく息を吐いた。
開戦から一年を待たず、戦争は文字通り「クリスマス前」に終わってしまったのである。
ロシア正教のユリウス暦におけるクリスマスは一月七日であるが、カトリックやプロテスタントが祝う西欧の十二月二十五日という意味において、前線の兵士たちは真の意味で「クリスマスまでに」故郷への帰路につくこととなったのだ。
勝者は、完全に入れ替わった。
樺太は南半分を割譲されることもなく、その全域が揺るぎなきロシア帝国の領土として保たれた。
極東の港を空から定期的に焼き払われ、海峡の補給線を潜水艦に断たれ、朝鮮北部で孤立した大日本帝国は、アメリカの仲介という蜘蛛の糸に縋り付き、命脈を保つためだけに講和の席へと引きずり出されたのだ。
だが――この前代未聞の講和条約を、ロシア帝国の首脳陣に納得させ、調印へと至らしめる過程において、フリストフォルが払った労苦は並大抵のものではなかった。
「……納得がいきません、殿下!」
「我が軍は陸海空のすべてにおいて敵を圧倒していたのですぞ! なぜ領土の割譲を求めず、一ルーブルの賠償金すら取らぬのですか!」
帝都サンクトペテルブルク、冬宮の大会議室。
豪奢な軍服を着た将軍や大公、貴族たちが、顔を真っ赤にしてフリストフォルへと詰め寄っていた。
彼らの言い分も、当時の帝国主義の常識からすれば当然であった。
勝者となった大国ロシアの懐には、目に見える巨額の賠償金も、新たな広大な領土も入ってこないのだ。
これでは勝ったのか負けたのか分からないではないか、と彼らは幼き空軍大臣に不満を爆発させていたのである。
しかし、椅子の上に背筋を伸ばして立った三歳のフリストフォルは、そんな大の大人たちを、冷徹な青い瞳で一瞥しただけであった。
「みんな、目先の小銭と地図の端っこに色を塗ることしか頭にないんだね」
その静かな、しかし凛とした声が大会議室の怒号をピシリと遮った。
「僕がこの条約で手に入れたのはね、領土なんかよりも遥かに価値のあるものだよ。……今後百年続く、極東方面の『恒久的な安定』だ」
フリストフォルは卓上の極東地図の上に、小さな指を滑らせた。
「まず、朝鮮半島だ。山ばかりで道も狭く、農業も工業も発展していないあの土地を、我がロシアが直轄領にして一体何の得があるの? 現地の民衆が起こす反乱やゲリラを鎮圧するために、何万もの兵隊を張り付け、毎年何千万ルーブルという国庫の金をドブに捨てる気?」
将軍たちが言葉に詰まる。
「投資しても赤字にしかならない不毛な土地の統治コストはね、全部日本に押し付けて丸投げすればいいんだよ。彼らに統治の泥沼を背負わせ、ロシアは満州の肥沃な大地と資源だけを美味しくいただけばいい。……どうしてわざわざ、自分から貧乏くじを引きたがるのさ」
フリストフォルの冷酷な算術に、大臣たちがゴクリと唾を飲み込んだ。
「そして何より……日本という国の地政学的な価値を、みんなは見落としすぎている」
フリストフォルは日本列島を指先でトントンと叩いた。
「あの国はね、『倒したかったけれど、死なれたら困る国』なんだよ」
「……死なれたら、困る……?」
誰かが呆然と呟いた。
「そうだよ。もしも我が国が過酷な賠償金を取り立て、日本の息の根を止めて滅ぼしてしまったらどうなる? 極東に巨大な『力の空白』が生まれるんだ。そうなれば、その死肉に群がって、南からは領土回復を狙う清国が這い上がってくる。海からはドイツのヴィリー伯父様が極東利権を奪いに艦隊を送り込み、英米も介入してくる。……日本という門番が消えた瞬間、極東は世界大戦の火種になって、第二、第三の戦争が絶対に起きるよ」
フリストフォルの脳裏には、前世の現代史が完璧に描かれていた。
「日本が国家として生きていればね、あの国は生き残るために、自発的に海洋交易国家として太平洋、東シナ海、そして日本海の警備をせざるを得ないんだ。……ねえ、海軍の提督たち。日本海からシナ海に至るあの広大なシーレーンの哨戒を、我がロシア海軍が代わりに行ったら、どれだけの軍艦と、どれだけの石炭を燃やすことになると思う?」
海相アヴェラーン提督の肩が、ビクリと跳ね上がった。
「莫大な……天文学的な燃料費と維持費が、毎年恒例で消えていくことになります……」
「でしょ? だったら、その莫大な警備コストは全部、日本海軍に自腹を切らせて勝手にやらせればいいじゃないか。我が国は何もしないで、安全になった航路を使ってロシアの商船を走らせるだけでいい。日本にタダ働きをさせる経済節約効果だけでも、賠償金なんかより遥かに巨額なんだよ」
敵を生かし、自らの安全保障の盾とし、海の番犬としてただ働きをさせる。
第二次世界大戦後にアメリカが日本に対して行った「西側世界の防波堤化」の青写真を、日露戦争の結末へと完璧にトレースしたフリストフォルの論理に、ロシア帝国の首脳陣は総毛立つような戦慄を覚えていた。
「そして最後に……将軍たち。もっと日本人の『武士道』ってものを勉強しなよ」
フリストフォルは少し呆れたように息を吐いた。
「あの民族はね、合理的な損得勘定なんかより『誇り』と『面子』を何よりも重んじるんだ。下手に追い詰めて恥をかかせれば、彼らは最後の一人まで竹槍を持って自爆特攻してくるよ。そんな狂人と泥沼の戦争を続けたいの? ……彼らには『朝鮮を手に入れたぞ、大勝利だ!』っていう面子のおしゃぶりを咥えさせて、大人しくケージに戻ってもらうのが、一番安上がりで安全なんだよ」
会議室は、水を打ったような完全な静寂に包まれていた。
勝者の傲慢に溺れることなく、百年の大計を見据えて敵国の民族性すら飼い慣らす。
椅子の上に立つ三歳のツァレーヴィチの姿は、居並ぶ百戦錬磨の老将たちにとって、もはや神話に語られる軍神の再来に他ならなかった。
「……フリスチューシュカの申す通りだ」
沈黙を破ったのは、父帝ニコライ二世の重々しい声であった。
皇帝の瞳には、我が子への無上の誇りと、畏敬の念が宿っていた。
「我がロシアは、勝利した。そして未来の平和をも手に入れたのだ。……異論のある者は、一人もおらぬな?」
皇帝の問いに、満場の将官と貴族たちは、一斉に深々と頭を垂れるしかなかった。
◇◇◇
重苦しい帝前会議を終え、ようやく解放されたフリストフォルは、足取りも軽く私室へと戻っていた。
「はぁー……疲れた! やっぱり大人を言いくるめるのって、大砲を撃ち込むよりよっぽど疲れるよ」
部屋に入るなり、フリストフォルは靴を脱ぎ捨てて絨毯の上にペタリとへたり込んだ。
先ほどまで大会議室でロシア帝国の未来を決定づけていた冷徹な戦略家の面影は欠片もなく、ただの駄々っ子のような表情である。
「お疲れ様でございました、坊ちゃま」
背後で音もなく扉を閉めたチヨノーチェが、燕尾服の裾を翻して歩み寄り、フリストフォルの小さな身体を優しく抱き起こした。
「極東の首尾は、これ以上なく完璧でございますね。日本の使節団も、届いた条約案を見て涙を流して感謝していたそうですよ」
「そりゃそうだよ。あっちにとっちゃ、死刑宣告の代わりに特上のご馳走を出されたようなもんだからね」
フリストフォルが口を尖らせていると、奥の寝室からパタパタと小気味よい足音が響いてきた。
「フリスチューシュカ!」
飛び出してきたのは、白いリボンで髪を結んだアナスタシアであった。
彼女は床に座り込んでいた弟を見るなり、迷うことなくその胸元へとダイブしてきた。
「ぎゅーっ! もう、遅いわよフリスチューシュカ! ずっと待ってたんだから!」
「わ、ナースチャ姉さま……苦しい、苦しいよ」
抗議の声を上げながらも、フリストフォルの手は自然と姉の柔らかな背中へと回っていた。
鼻腔をくすぐる、懐かしい柑橘と甘い焼き菓子の香り。
この温もりに触れた瞬間、頭の中で張り詰めていた世界地図や地政学の数式が、心地よい音を立てて霧散していく。
「見て、フリスチューシュカ。あっちのテーブル!」
アナスタシアが誇らしげに指差した先には、小さなモミの木の枝と、その中央に置かれた可愛らしいデコレーションケーキがあった。
純白の生クリームの上に、真っ赤なイチゴのジャムで飾られた小さなケーキ。
「西欧のクリスマスには少し早いけれど、戦争が終わったお祝いに、厨房で一緒に焼かせてもらったのよ! 私特製の、あまーいケーキよ!」
「……うん。すごく美味しそう」
フリストフォルは破顔した。
歴史の濁流を力ずくでねじ曲げ、ロシアを敗北の淵から引き戻し、極東の脅威を骨抜きにした。
すべては、この温もりを守るため。
この甘やかで、怠惰で、愛おしい日常を買い取るための戦いであったのだ。
「早く食べましょ! そのあとはベッドで、夕方までずーっと私を抱っこしてお昼寝するのよ!」
「うん、姉さま。約束するよ」
外では、ツァールスコエ・セローの森に静かに白い雪が降り積もっていた。
世界を震撼させた戦争の終わりと、約束された平穏な冬の訪れを告げるように、暖炉の火がパチパチと優しく爆ぜていた。