ファミコン皇室のреволюция   作:星乃 望夢

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第十二話 ロシアンソングデカルチャー

日露戦争の終結という、ロシア帝国の命運を握る巨大な車輪をその手で力ずくで押し留めてから数日。

 

ツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿に差す冬の日差しは、どこまでも柔らかく、静謐であった。

 

暖炉の薪がパチパチと心地よい爆ぜる音を立てる私室の中で、フリストフォルは全身の骨がふにゃふにゃに溶けてしまうかのような、かつてない開放感に浸っていた。

 

(……終わった。本当に、一つ終わったんだ……!)

 

肩の荷が、ようやく一つ降りたのだ。

 

前世でごく平凡な社畜の日本人として生き、気がつけばロシア帝国ロマノフ王朝の皇子として転生していたあの日から、フリストフォルの精神には片時も休まることのない鉛のような重圧がのしかかり続けていた。

 

自意識が目覚めた直後の、言葉の通じない恐怖。

 

ロシア語の怒濤の格変化と愛称の奔流に溺れ、化け物扱いされるのを恐れて口を閉ざしていた暗黒の一年間。

 

そして、自らの名を知り、隣にアナスタシアがいることを知った瞬間に突きつけられた「1918年、一家虐殺」という呪われた未来。

 

お先真っ暗な運命に絶望し、せめて死ぬまで美味いものを食って怠惰に過ごそうと割り切った矢先、今度は帝国の破滅の序曲たる日露戦争の勃発。

 

双子の姉アナスタシアや姉妹たち、そしてチヨノーチェに甘え倒す日々は、確かに魂の救いであり、極上の癒やしではあった。

 

だが、それは痛みを麻痺させる鎮痛剤に過ぎず、首元に突きつけられた「死の運命」そのものを解決してはくれなかったのだ。

 

前世ではただ歴史戦略ゲームの画面を眺め、会社で上司の顔色を窺っていただけの一般人が、国家の最高首脳部を相手に大戦略の青写真を敷き、新兵器を開発し、全地球規模の通商破壊と兵站の綱渡りを指揮したのである。

 

その心労たるや、胃に何個の穴が空いても足りないほどの激動であった。

 

それが今、完全に実を結び、大惨事となるはずだった戦争は、ロシア側の完勝と極東の百年安定という最高の形で幕を閉じたのだ。

 

満たされた。

 

これ以上ないほどに、心が軽く、弾んでいた。

 

ふつふつと胸の奥底から湧き上がってきたのは、前世からずっと持ち続けていた、懐かしい衝動であった。

 

(……あー、歌いたいな)

 

前世の彼は、歌うことが大好きだった。

 

流行りの邦楽、アニメの主題歌、ボーカロイドの曲。

 

仕事帰り、終電を逃しかけた夜に一人カラオケのボックスに飛び込んでは、マイクを握って大声を張り上げ、日頃の鬱屈を吐き出すのが何よりのストレス発散法であったのだ。

 

気分が乗れば、風呂場でも台所でも、自然と何かしらのメロディを口ずさむ癖があった。

 

しかも彼は、歌に関してちょっとした「下地」を持っていた。

 

中学生の頃、合唱コンクールの練習中に音楽の担当教師から真顔で呼び止められ、『君、ちゃんと勉強すれば本格的なオペラ歌手になれる声帯をしているわよ』と絶賛された経験があったのだ。

 

その時に面白半分で徹底的に叩き込まれた、腹式呼吸の極意と、喉を傷めずに頭蓋骨を響かせる発声の技術。

 

身体は三歳の幼児へと退行していても、その「魂の呼吸法」だけは、前世の記憶とともに鮮明に刻み込まれていた。

 

「すぅ……」

 

フリストフォルは絨毯の上で立ち上がると、深く、丹田へと冷涼な空気を吸い込んだ。

 

小さな腹がぐっと張り、横隔膜が押し下がる。

 

頭蓋の鼻腔と口腔を柔らかく開け、声の出口を整える。

 

選んだ曲は、アニソンでもJ-POPでもなかった。

 

ロシアという大地に生まれ変わり、そして前世のゲーマー時代から耳にタコができるほど聴き親しんできた――あの哀愁と情熱に満ちた、美しき旋律。

 

「――Расцветали яблони и груши〜♪(林檎の花、梨の花が咲き乱れ〜)」

 

暖炉の前、三歳のフリストフォルの唇から紡ぎ出されたのは、あまりにも澄み渡り、そして驚くほど朗々と響き渡る歌声であった。

 

『カチューシャ』。

 

後世においてロシアを代表する歌曲として世界中で愛されることになるその歌を、フリストフォルはカラオケで十八番を歌い上げるかのように、伸びやかに歌い始めた。

 

「Поплыли туманы над рекой〜♪(川の面には、霧が立ち込める〜)」

 

子供特有の鈴を転がすような透明感を帯びながらも、喉を締め付けない本格的な腹式呼吸から放たれる声は、ベルベットのような豊かな響きを帯びて部屋の隅々へと広がっていく。

 

宮殿の分厚い樫の壁を震わせるほどの声量と、完璧な音程。

 

そして何より――歌っている本人が、楽しくてたまらなかった。

 

「Выходила на берег Катюша〜♪(岸辺に現れたのは、カチューシャ〜)」

 

フリストフォルは小さな両手を腰のあたりで軽く振り、頭と肩をトントンと左右に小気味よく揺らしながら、全身でリズムに乗っていた。

 

ご機嫌そのもののステップを踏み、暖炉の火の粉の爆ぜるリズムに合わせて、無邪気に首を傾げてみせる。

 

「На высокий берег на крутой〜♪(険しく切り立った、高い岸辺の上に〜)」

 

重圧からの解放。

 

生き延びた歓喜。

 

そして、愛する家族の待つ平和な世界への凱歌。

 

前世のカラオケボックスで培ったストレス発散の熱量が、三歳のツァレーヴィチの可憐な肉体を通じて、眩いばかりの生命力となって解き放たれていた。

 

 

◇◇◇

 

 

その頃、子供部屋へと続く静かな廊下を歩いていたチヨノーチェは、ふと足を止めた。

 

銀髪の従者が手にした銀盆の上には、フリストフォルのために淹れたばかりの温かいハーブティーが湯気を立てていた。

 

「……これは?」

 

チヨノーチェの美しい眉が、微かに動いた。

 

宮殿の奥から流れてきたのは、これまで聴いたこともない、しかし一度聴けば胸を締め付けられるほどに美しく、情熱的な旋律であった。

 

哀愁を帯びた短調でありながら、どこか力強く、ステップを踏みたくなるような独特のテンポ。

 

そして何より、その歌声の主が誰であるかを悟った瞬間、チヨノーチェの涼やかな瞳が驚嘆に見開かれた。

 

(坊ちゃまの……お声……?)

 

透き通るような高音。

 

だが、幼子の拙いハミングなどでは断じてない。

 

一流の劇場で歌い上げる声楽家のように腹の底から響き渡り、微塵のブレもなく音階を駆け上がっていく、完璧な発声。

 

チヨノーチェは音を立てぬよう気配を消し、静かに私室の扉の前へと歩み寄った。

 

隙間から中を覗き込めば――そこには、暖炉の橙色の光を浴びながら、頭と肩をご機嫌に揺らし、まるで楽しげな小鳥のように歌い踊る主人の姿があった。

 

「Ой ты, песня, песенка девичья〜♪(おお、歌よ、乙女の愛の歌よ〜)」

 

その小さな横顔には、作戦室で見せていた冷徹な仮面も、弟の看病で見せていた痛ましい悲壮感も、欠片すら残っていなかった。

 

ただただ、生きていることを喜び、歌うことを楽しむ、一人の無邪気な子供の輝きが満ち溢れていた。

 

(……ああ。坊ちゃまは、本当に……)

 

チヨノーチェの唇から、ふっと微かな、そしてこの上なく温かな吐息が漏れた。

 

言葉が話せず、夜泣きもせず、怯えるように天井を見つめていた一歳の頃の姿を、彼女は誰よりも近くで見届けてきたのだ。

 

どれほどの重圧を、あの小さな小さな胸の奥に押し込め、一人で戦い続けてきたのか。

 

それが今、冬の光の中で、これほどまでに晴れやかな歌声となって解き放たれている。

 

チヨノーチェは扉を開けるのをやめ、主人のご機嫌なワンマンステージが終わるまで、静かにその美しい歌声に耳を傾けることにした。

 

「……Катюша〜♪」

 

最後の小節を歌い終え、フリストフォルは「はぁーっ!」と大きく息を吐き出した。

 

肺の中の空気をすべて吐き出し、胸に手を当てて満足げに天井を仰ぐ。

 

「ふぅ……スッキリした! やっぱり歌うのって最高だなあ!」

 

首を回し、肩をパタパタと揺らしながら、フリストフォルは子供らしい笑声を漏らした。

 

血塗られた帝国の運命を少しだけ押し戻した少年大公の部屋に、ひとときの平和を祝福する歌の余韻が、暖炉のぬくもりとともにいつまでも優しく漂っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

『カチューシャ』を朗々と歌い上げ、満足げに息を吐き出したフリストフォルは、まだ気づいていなかった。

 

その美しき旋律に心を奪われていたのは、扉の隙間から目を細めて聞き惚れていたチヨノーチェ一人だけではなかったということに。

 

「……はぁ、本当に素晴らしいお声……」

 

チヨノーチェが銀盆を抱えたまま、うっとりと目を瞑って主人の歌声の余韻に浸っていた――まさにその足元である。

 

彼女の燕尾服の裾のすぐ脇、床にぺたりと這いつくばるようにして、二つの小さな頭が並んで扉の隙間へと張り付いていたのだ。

 

双子の姉アナスタシアと、美味しい匂いならぬ「楽しそうな気配」を嗅ぎつけて合流していた三女マリアであった。

 

「……フリスチューシュカが」

 

「……歌ってる……すっごく上手に……!」

 

二人の姉の大きな青い瞳は、感動と興奮のあまり爛々と輝いていた。

 

そして次の瞬間――。

 

バァンッ!!

 

「フリスチューシュカーーッ!!」

 

「フリスチューシュカ、すごい! 天使みたい!!」

 

勢いよく扉が左右へ跳ね飛ばされ、二つの白い影が猛烈な勢いで室内に雪崩れ込んできた。

 

「うわっ!? な、ナースチャ姉さま!? マリア姉さま!?」

 

飛び退く間すらなかった。

 

床にへたり込んでいたフリストフォルの小さな身体に、アナスタシアとマリアが左右から猛然とダイブし、そのままラグマットの上で揉みくちゃの抱擁が始まったのである。

 

「もう! 何よ今の歌! 聴いたことないけれど、すっごく綺麗だったわ!」

 

「お胸がぎゅーって熱くなったわよ! フリスチューシュカ、どうして今まで歌ってくれなかったの!?」

 

「わ、わ、苦しいってば! 顔をすりすりしないで……!」

 

左右から交互に頬へ激しい口づけとハグを浴びせられ、フリストフォルの短い金髪は一瞬で鳥の巣のように乱れていく。

 

背後では、扉を開け放たれたチヨノーチェが、紅茶のトレイを掲げたまま「あちゃあ」という表情で立ち尽くしていた。

 

「ねえ、もっと歌って!」

 

アナスタシアが弟の肩を揺さぶり、顔を至近距離まで近づけて懇願する。

 

「他にも知ってるんでしょう!? あんなに上手なんだもの、一つだけのはずがないわ! ね、もう一曲! もう一曲だけ歌ってちょうだい!」

 

「マリアも聴きたい! フリスチューシュカのお歌、もっと聴かせて!」

 

二人の愛くるしい姉たちから、濁りのない純粋な瞳で拝み倒される。

 

本来ならば「もうおしまい」「子供は早く寝る時間だよ」と誤魔化すところであった。

 

だが――日露戦争という国家の危機を乗り越え、前世の社畜時代を含めても人生最大の重圧から解き放たれたばかりのフリストフォルである。

 

その心は、かつてないほどに晴れやかで、そして完全に「ハイ」になっていた。

 

(……まあ、いいか! 戦争も終わったんだし、無礼講だ!)

 

前世のカラオケボックスで培った宴会部長の魂が、三歳のツァレーヴィチの肉体の中で完全に目を覚ましてしまった。

 

「……分かったよ。じゃあ、とっておきのやつを一曲だけね」

 

フリストフォルが立ち上がると、アナスタシアとマリアは歓声を上げてラグの上にちょこんと正座し、目を輝かせて待機した。

 

フリストフォルはチヨノーチェに目配せし、部屋の中央のスペースを広く取らせる。

 

選んだのは、先ほどの叙情的な『カチューシャ』とは百八十度真逆の――爆発的な熱量を誇る伝説のナンバーであった。

 

前世の日本において、新世紀の幕開けとともにインターネット黎明期を駆け抜け、正体不明の空耳Flash動画とともに一世を風靡した、あの狂乱のディスコソング。

 

フリストフォルはフッと不敵な笑みを浮かべると、背筋をピンと伸ばし、腕を胸の前でしっかりと組んだ。

 

そして――。

 

「んっ、んっ、ん〜……♪ フンフンフン〜、フンフンフン〜♪」

 

小気味よいリズムを刻む鼻歌で勇壮なイントロを奏でながら、フリストフォルは足を動かし始めた。

 

背筋を微動だにさせず、組んだ腕を維持したまま、左右の脚を斜め前へとリズミカルに、交互にピッと蹴り出すステップ。

 

ロシア舞踊の魂、いわゆる「コサックダンス」の基本ステップである。

 

三歳の短い手足が、驚くほど軽やかに、そして完璧なキレをもって床を踏み鳴らす。

 

「まあ……!」

 

「ダンスもできるの!?」

 

姉たちが息を呑むなか、前奏のクライマックスとともに、フリストフォルは満面の笑みでその美声を解き放った。

 

「――Moskau! Fremd und geheimnisvoll〜♪(モスクワ! 未知なる神秘の都〜♪)」

 

朗々たるテノールの響きが、ドイツ語の力強い歌詞を乗せて部屋いっぱいに炸裂した。

 

まさかのドイツ語である。

 

しかし、ロマノフ家にとってドイツ語は母アレクサンドラの母国語であり、日常的に耳にしている言語だ。

 

違和感どころか、そのリズミカルで歯切れの良い発音は、子供部屋の空気を一瞬にして熱狂のダンスホールへと塗り替えていく。

 

「Hey, Cossacks, hey! Hey, Cossacks, ho!〜♪」

 

フリストフォルは頭と肩を激しく左右に揺らし、コサックのステップを踏みながら、時折「ハッ!」「ホッ!」と威勢のいい掛け声を挟み込んだ。

 

そして、サビの爆発。

 

「Moskau! Moskau! Wirf die Gläser an die Wand, Russland ist ein schönes Land, Ho, ho, ho, ho, ho, HEY!〜♪(モスクワ!モスクワ!グラスを壁に投げつけろ、ロシアは素晴らしい国だ、ホ、ホ、ホ、ホ、ホ、ヘイ!〜♪)」

 

豪快極まりないロシア讃歌。

 

酒をあおり、グラスを叩き割り、笑い飛ばして踊り明かせという、圧倒的な生命力の奔流。

 

三歳の皇子が、短い足をピコピコと前へ突き出しながら、キレッキレのステップで「モスクワ! モスクワ!」と拳を突き上げて熱唱しているのだ。

 

その光景の凄まじいシュールさと、底抜けの愛くるしさに、見守っていた者たちの感情は完全に決壊した。

 

「あははははっ! 何それ、すごい! すごすぎるわフリスチューシュカ!」

 

アナスタシアが立ち上がり、弟の真似をして手を叩きながらピョンピョンと跳ね回る。

 

「モスクワ! ヘイ! ヘイ!」

 

マリアも一緒になって手拍子を打ち、見よう見まねで足を斜め前に蹴り出すステップを真似て、スカートをひらひらと揺らして大笑いしている。

 

そして扉の脇では――。

 

「……ッ、ふ……くっ……!」

 

常にクールで表情を崩さないはずの銀髪の従者チヨノーチェが、震える手で銀盆を口元に押し当て、顔を真っ赤にして必死に笑いを堪えていた。

 

主人のあのキレのある足さばきと、あまりにも堂に入った宴会芸の破壊力は、いかなる軍事機密よりも彼女の腹筋を無慈悲に粉砕しかけていたのである。

 

「……Natascha, ha, ha, ha, du bist schön, ha, ha, ha〜♪」

 

「HEY!!」

 

最後のキメポーズとともに、フリストフォルがビシッと腕を組み直して片足を前方へ突き出すと、子供部屋は割れんばかりの拍手と大歓声に包まれた。

 

「ブラボー! ブラボーよ、フリスチューシュカ!」

 

「もう一回! もう一回やって!」

 

アナスタシアとマリアが抱きついてきて、再び絨毯の上で転がり回る。

 

「はははっ、もう無理! 息が切れちゃったよ!」

 

フリストフォルは仰向けに倒れ込み、天井を見上げながら声を上げて笑った。

 

前世の記憶も、国家の重圧も、陰謀も戦争も、すべてがこの笑い声のなかに吹き飛んでいく。

 

冬のロシア宮殿の奥深くで響いた、時代を半世紀以上も先取りした狂乱の宴。

 

怠惰と平穏を愛する少年大公の日常は、血塗られた歴史の暗雲を完全に吹き飛ばすほどの、眩い光と温もりに満ち溢れていた。

 

 

◇◇◇

 

 

『カチューシャ』、そしてもう一曲。

 

歌い終えたあと、興奮冷めやらぬアナスタシアとマリアから「ねえ、あのお歌、なんていうお名前なの!?」と目を輝かせて詰め寄られた時、フリストフォルは内心で冷や汗を流しながら、必死に頭を回転させた。

 

一曲目の『カチューシャ』はいい。ロシアのありふれた少女の愛称であり、歌詞の通りだ。

 

だが、二曲目である。

 

まさか『めざせモスクワ』などという、帝政ロシアのど真ん中でナポレオンのロシア遠征やクーデターを連想させかねない物騒極まりない邦題をそのまま口にできるはずもなかった。

 

「ええと……あっちの踊る曲はね、『もすかう』だよ」

 

「もすかう?」

 

アナスタシアが不思議そうに小首を傾げる。

 

「そう。モスクワの古い、ちょっとおどけた異国風の呼び方さ。お祭りの歌なんだよ」

 

苦し紛れの適当な言い訳であった。

 

だが、幼い二人の皇女にとっては、その少し舌足らずで響きの愛らしい『もすかう』という単語だけで、すでに魔法の呪文のように魅力的であったのだ。

 

そして――フリストフォルの誤算は、己の歌唱力が「ただの子供の余興」の枠を遥かに踏み越えていた点にあった。

 

前世の彼は、学生時代の通知表において、音楽の評定「5」をただの一度たりとも落としたことがないという、筋金入りの絶対音感とリズム感の持ち主であったのだ。

 

中学生時代に声楽の教師から仕込まれた喉の開き方、息の乗せ方。

 

三歳の小さな身体であっても、その魂が刻み込んだ音感は寸分の狂いもなく機能し、半音の揺らぎすら許さず、完璧なピッチと豊かな響きをもって二つのメロディを具現化させてしまったのである。

 

その奇跡的な歌声の記憶を、熱狂したアナスタシアとマリアが自らの胸の中にしまい込んでおけるはずがなかった。

 

「オリガ姉さま! タチアナ姉さま! 聞いて、大変なの!」

 

二人は子供部屋を飛び出すなり、長女オリガと次女タチアナの部屋へと雪崩れ込み、身振り手振りを交えて弟の「神業」を報告した。

 

最初は「またナースチャたちの大げさな悪戯かしら」と優雅に微笑んでいた上の姉たちであったが、マリアの案内で恐る恐るフリストフォルのもとを訪れ、ピアノの前でその歌声を直接耳にした瞬間――二人の上品な大公女は、絵画のように硬直した。

 

ピアノが得意なオリガが、震える指先で即座にその旋律を鍵盤の上に拾い上げる。

 

『カチューシャ』の胸を締め付けるような哀愁の短調。

 

そして『もすかう』の、思わず身体が跳ね上がってしまうような躍動的なエイトビート。

 

「……信じられないわ」

 

タチアナが両手を胸の前で組み、ため息を漏らした。

 

「哀愁と、情熱と……こんなに心を揺さぶる歌、聴いたことがないわ。フリスチューシュカ、貴方は一体どこでこんな旋律を……」

 

もちろん、神の啓示で押し通した。

 

天才児という便利な免罪符がある限り、大人たちは勝手に「神童の奇跡」として解釈してくれるのだ。

 

だが、一度放たれた名曲の魔力は、皇室の子供部屋の中だけに留まることを許さなかった。

 

最初の感染源となったのは、宮殿の使用人たちであった。

 

オリガが弾くピアノと、姉弟たちが楽しげに合唱する声を耳にした侍女や料理番たちが、掃除をしながら、料理の仕込みをしながら、無意識のうちにそのキャッチーなメロディを口ずさみ始めたのである。

 

そして決定打となったのが、宮殿の警備に当たっていた近衛兵――屈強なコサック兵たちであった。

 

「……おい、聞いたか? 小さき殿下が、部屋でコサックのステップを踏みながら物凄い歌を歌っていらしたらしいぞ」

 

「モスクワを讃える、豪快な酒盛りの歌だそうだ!」

 

血気盛んな兵士たちにとって、『もすかう』の持つ力強いリズムとコサックダンスの親和性は、まさに魂への直撃弾であった。

 

非番の夜、兵舎の酒保でウォッカをあおった兵士の一人が、机の上に飛び乗って腕を組み、足を斜め前に蹴り出しながら「モスカウ! モスカウ!」と叫んだ瞬間、兵舎は爆発的な熱狂の渦へと呑み込まれた。

 

グラスを壁に投げつけ、足を踏み鳴らし、大男たちが肩を組んで「ヘイ! ヘイ!」と野太い声を張り上げる。

 

これほどまでにロシア人の荒々しい生命力を肯定し、酒と祖国を陽気に讃える歌が、過去に存在しただろうか。

 

近衛兵たちの口から街の酒場へ。

 

侍女たちの口から市場やパン屋へ。

 

二つの歌は、野火が乾いた草原を焼き尽くすかのような勢いで、帝都サンクトペテルブルクの街路を、そしてシベリア鉄道のレールを伝って、帝国全土の民草へと瞬く間に伝播していったのである。

 

日露戦争が終わり、極東から続々と故郷へと帰還してきた兵士たちを迎えたのは、街の至る所で響き渡るこの二つの新曲であった。

 

駅のホームや広場では、娘たちが澄んだ声で『カチューシャ』を歌い、愛する男たちの無事の帰還を涙ながらに抱きしめた。

 

国境を守り抜いた兵士の誇りと、故郷で待つ乙女の祈りを歌ったその切ない調べは、戦争を耐え忍んだ民衆の心に深く、深く染み渡り、誰もが涙を流して口ずさんだ。

 

そして夜になれば、街中の居酒屋が『もすかう』の狂乱に包まれた。

 

フリストフォルが広めたカリカリのフライドポテトを山盛りにし、冷えたウォッカのグラスを掲げて、労働者も復員兵も一緒になってテーブルの周りでコサックダンスを踊り狂う。

 

「モスカウ! モスカウ! グラスを壁に投げろ! ロシアは素晴らしい国だ! ホ、ホ、ホ、ホ、ヘイ!!」

 

日露戦争の勝利という高揚感。

 

八時間労働制によってもたらされた、夜の自由な時間。

 

高カロリーのポテトで満たされた胃袋。

 

そこへ投下された、魂を鼓舞する極上のポップミュージック。

 

民衆の間に漂っていたはずの帝政への鬱屈や、革命家たちが煽り立てようとしていた陰鬱な不満の空気は、腹の底からの笑い声と熱狂のダンスステップによって、跡形もなく吹き飛ばされていた。

 

「……ねえ、チヨ」

 

アレクサンドロフスキー宮殿のテラスで、遠く帝都の街から風に乗って微かに聞こえてくる「ヘイ! ヘイ!」という楽しげな歓声を耳にしながら、フリストフォルは温かいココアのカップを握りしめ、遠い目をしていた。

 

「僕、ただ一人カラオケのノリでストレス発散しただけなんだけど……。どうして街中で僕の持ち歌がオリコンチャート一位独走状態になってるわけ?」

 

「おりこんちゃーと、が何なのかは存じませんが」

 

背後に控えるチヨノーチェが、燕尾服の胸元に手を当て、どこか誇らしげに、そして可笑しそうに目を細めた。

 

「市民も兵士も、殿下のお歌に夢中でございますよ。……皆、お腹いっぱい美味しいものを食べ、殿下の作られた歌を歌って、笑い合っております。あのような幸せそうな帝都の冬は、私の記憶の中にもございません」

 

「……まあ、みんなが楽しそうなら、いっか」

 

フリストフォルは苦笑交じりに小さな肩をすくめた。

 

腹を満たし、生活を守り、そして最後に「歌」を与えた。

 

意図せぬ副産物ではあったものの、彼が前世の記憶から無邪気に解き放ったメロディは、ロシアという巨人の傷ついた心を癒やし、破滅の運命からさらに遠くへと押し流す、何より温かな防壁となっていた。

 

「フリスチューシュカー! 早く来て! オリガ姉さまたちと、もう一回『もすかう』を踊るわよ!」

 

部屋の奥から、アナスタシアの弾んだ呼声が響く。

 

「はいはい、今行くよ、ナースチャ姉さま」

 

フリストフォルはココアを飲み干すと、パタパタと小走りで温かい光の満ちる部屋へと戻っていった。

 

外に広がる白銀の世界を照らすように、宮殿の窓からは、今日も楽しげなピアノの音と幼い笑い声が、絶えることなく響き渡っていた。

 

 

◇◇◇

 

 

元来、フリストフォルがその透き通るような声で歌い上げた『カチューシャ』という楽曲は、林檎と梨の花が咲く春の岸辺で、遠い国境を守る恋人に想いを馳せる、しっとりとした哀愁漂う抒情歌であった。

 

三歳の幼児の純真な歌声と相まって、それは聴く者の涙腺を刺激する美しいバラードだったのだ。

 

――だが、問題はその後であった。

 

その直後に投下されたもう一つの劇薬――『もすかう』。

 

酒を呷り、グラスを壁に叩きつけ、コサックのステップで床を踏み鳴らすあの爆発的ディスコソングの熱狂が宮廷から軍隊、そして民草へと瞬く間に伝播した結果、ロシア人たちの間で奇妙極まりない「不都合」が生じてしまったのである。

 

『……おい、殿下が下さったあのお歌だが』

 

『ああ、林檎の花が咲くカチューシャだな。心洗われる素晴らしい名曲だ』

 

『しかしよ……あの陽気極まりない「もすかう」を踊り明かした後にカチューシャを歌うと、どうにもしっとりし過ぎてテンションの置き場に困らんか?』

 

『言われてみればそうだ! 酒を飲んで腕を組んで足を蹴り出した後に、急に涙ぐむのは忙しすぎる!』

 

ロシアという民族の、底抜けに大雑把で、底抜けに陽気なバイブスが火を噴いた。

 

「二つの歌を続けて気持ちよく歌いたい」という極めて短絡的、かつ情熱的な欲望に突き動かされた帝国軍楽隊や劇場の音楽家たちが導き出した結論は、あまりにも明快であった。

 

――ならば、カチューシャの方も景気良くテンポを倍にして、行進曲(マーチ)にしてしまえばいいではないか!

 

かくして、『カチューシャ』はテンポをグンと引き上げられ、小気味よい裏拍と勇壮な金管楽器を効かせた、ノリノリの「高速マーチング・ソング」へと勝手に魔改造されてしまったのである。

 

そして、その火に油を注いだのが、ロシア庶民と軍人たちの「音さえ鳴れば何でも楽器にしてしまう」泥臭い生命力であった。

 

太鼓(ドラム)がない?

 

そんな些細な問題で、歌と踊りを諦めるロシア人などこの大地には一人として存在しなかった。

 

「おい、あの裏の倉庫に転がってる空っぽのドラム缶を持ってこい!」

 

前線から帝都へ持ち帰られ、使い道のなくなった爆雷用の空ドラム缶を引っ張り出してくれば、それは一瞬にして腹に響く重低音を叩き出す巨大なバスドラムへと早変わりした。

 

ドラム缶がない場所では、部屋を暖める鉄製のペチカ(薪ストーブ)の側面を薪でガツンガツンとリズミカルに引っぱたいた。

 

工場や工事現場では、転がっていた一斗缶や鉄のバケツを金槌で叩いてハイハットの代わりにした。

 

そして、街中の酒場(トラクティール)においては、もはや日常の食器すべてが狂乱のパーカッションと化したのである。

 

大男たちが革の長靴で床をダンダンと蹴り鳴らす。

 

机の上のウォッカの空き瓶やグラスを、手にしたスプーンやフォーク、ナイフで「チリン! カンカン!」とリズミカルに叩き鳴らす。

 

『Расцветали яблони и груши!――(カン!カン!)』

 

『Поплыли туманы над рекой!――(ドンドン!チリン!)』

 

『――Moskau! Moskau!(ドガァァン!)』

 

太鼓がなくとも、ドラム缶とストーブと酒瓶があれば、そこは即座に熱狂のマーチング・パレードの会場となった。

 

しっとりしたバラードだったはずのカチューシャは、空き缶を打ち鳴らし、靴を踏み鳴らして飛び跳ねる大衆ダンス・マーチへと変貌を遂げ、そのまま雪崩を打つように『もすかう』へと繋がる究極の「お祭りメドレー」として、ロシア全土の通りや兵舎を席巻していったのである。

 

 

◇◇◇

 

 

「……ねえ、チヨ。あれ、何?」

 

ツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿。

 

執務室の窓辺で、温かいココアのマグカップを両手で持った三歳のフリストフォルは、庭園の向こうから風に乗って聞こえてくる凄まじい金属音のアンサンブルに、引きつった笑いを浮かべていた。

 

宮殿の中庭では、非番の近衛兵たちと宮廷の庭師、さらには掃除のメイドたちが一緒になって輪を作っていた。

 

真ん中に置かれた巨大なドラム缶を屈強な兵士が棍棒でドカドカと連打し、メイドたちがバケツを一斗缶のように叩き、兵士たちが銃床を地面に打ち付けてリズムを取っている。

 

そして、信じられないほどアップテンポで勇ましい『カチューシャ』と『もすかう』が、冬の空へと木霊していた。

 

「……坊ちゃまのお歌に触発された軍楽隊と民衆が編み出した、最新のストリート・ミュージックだそうでございます」

 

背後に控えるチヨノーチェが、書類から目を離し、なんとも言えない生温かい微笑みを浮かべて答えた。

 

「最初は歌劇団がアレンジしたそうですが、街の居酒屋や前線の兵舎で『叩けば何でも太鼓になる』と広まりまして。今や帝都中の食器とペチカが、リズム楽器として酷使されているとのことです」

 

「……兵器だけじゃなくて、音楽まで現場が勝手に魔改造するの!?」

 

フリストフォルは頭を抱えてソファに突っ伏した。

 

対潜爆雷をドラム缶爆弾に魔改造し、機関砲を逆さ吊りにしたロシア軍人たちの悪魔的応用力は、文化方面においても遺憾なく発揮されていたらしい。

 

(僕が歌ったカチューシャは、もっとこう……切なくて、胸がキュンとするような乙女の純愛ソングだったはずなんだけどなぁ!? なんで空き缶とストーブを叩き割る勢いで突撃行進曲になってるんだよ!!)

 

前世の歴史を知るゲーマー脳をもってしても、このロシア人の底なしのタフネスと悪ノリの進化スピードは予測不可能であった。

 

そこへ、部屋の扉が勢いよく開け放たれた。

 

「フリスチューシュカ! 見て見て!」

 

飛び込んできたのは、両手に銀のフォークとスプーンを握りしめたアナスタシアであった。

 

その後ろには、厨房から持ち出してきたとおぼしき銀の大盆を抱えたマリアが、満面の笑みで続いている。

 

「ナースチャ姉さま、それ……」

 

「これね、叩くとすっごくいい音がするのよ!」

 

カン! カカン! チリン!

 

アナスタシアが手際よくフォークで銀盆の縁をリズミカルに叩いてみせる。

 

澄んだ金属音が部屋に響き渡ると、マリアが「ヘイ! ヘイ!」と楽しそうに手拍子を打ち始めた。

 

「ほら、フリスチューシュカもスプーンを持って! みんなで新しいカチューシャを歌いながら、もすかうを踊りましょ!」

 

「ちょ、姉さま、食器でお行儀悪く音を鳴らしちゃ……」

 

「いいのよ、街のみんなだってやってるんだもの! ほら、カンカンカン!」

 

アナスタシアに小さな銀のスプーンを手渡され、手を引かれてラグマットの中央へと引っ張り出される。

 

二人の姉は、もはや完全にこの新時代の「ストリート・マーチング」の虜になっていた。

 

「……はあ。もう、どうにでもなれだ」

 

フリストフォルは諦めの境地で苦笑いを浮かべると、手渡されたスプーンをテーブルの空き瓶の縁に当て、小気味よいリズムを刻み始めた。

 

チリン、チリン、カン、カン!

 

「――Расцветали яблони и груши〜♪」

 

フリストフォルがアップテンポのメロディを口ずさむと、アナスタシアとマリアが歓声を上げて銀盆を叩き、足を蹴り出すステップを踏み始める。

 

扉の脇では、チヨノーチェが銀盆の陰で肩を小刻みに震わせ、必死に笑いを堪えていた。

 

外の街庭からも、宮殿の子供部屋からも、陽気な金属音と笑い声が途切れることなく響き渡る。

 

貧困の嘆きも、革命の火種も、戦争の硝煙すらも。

 

ドラム缶とストーブとスプーンが打ち鳴らす、前代未聞の愉快なリズムの前に、綺麗さっぱりと掻き消されていた。

 

 

◇◇◇

 

 

どれほど豪奢な宮殿で甘やかされ、至高の美味を口にしていようと――前世において下町の安酒場と路地裏のラーメン屋を愛した社畜の魂にとって、時折無性に吸いたくなる空気というものが存在した。

 

それは、土埃と揚げ油の匂いが混ざり合う、泥臭くも活気に満ちた「市井の雑踏」の空気である。

 

ツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿を抜け出し、帝都サンクトペテルブルクの下町へと繰り出す際、フリストフォルは完璧な「擬態」を整えていた。

 

豪奢なシルクの衣装を脱ぎ捨て、身に纏うのは煤けた羊毛のつぎはぎだらけの上着と、裾の擦り切れた古着のズボン。

 

白鳥の羽毛のように艶やかな金髪は、わざとボサボサに乱して古びた平民用のキャスケット帽のなかに押し込む。

 

そして仕上げに、顔の半分ほどもある、度胸試しのように分厚い「瓶底伊達丸眼鏡」を鼻頭へと装着する。

 

その瞬間、ロシア帝国の皇太子であり、世界を震撼させた空軍大臣の姿は完全に消滅した。

 

そこに現れたのは、どこにでも転がっている下町の悪ガキ――世を忍ぶ仮の名を名乗る少年、「トリファ」であった。

 

そもそも、金髪碧眼という容姿は、広大なロシア帝国はおろか、西欧や海を越えたアメリカ大陸にまでありふれた白人の特徴に過ぎない。

 

宮廷でツァレーヴィチとして見せている威厳や怜悧さを完全に脱ぎ捨て、前世の素であった「くだけた現代日本人」の気さくな調子で歩き回る瓶底眼鏡のチビを、あの大帝国の神童皇子と結びつける人間など、この世に一人として存在しなかった。

 

(……くぅ〜、たまんないねぇ! これだよこれ、この感覚!)

 

道端の雪解け水を飛び越えながら、トリファことフリストフォルは内心で快哉を叫んでいた。

 

身分を隠して町民に混ざり、悪を懲らしめたり人情に触れたりする――日本の時代劇において、貧乏旗本の三男坊・徳田新之助に扮する『暴れん坊将軍』、あるいは桜の刺青を隠して遊び人を気取る『遠山の金さん』、ふらりと下町に下りて民草の声を拾う『大岡越前』。

 

日本人の遺伝子に深く刻まれたあの「高貴な身分の者が身分を隠して下町で遊ぶ」という至高のロマンを、今まさにこの異国の帝都で体現しているのだ。楽しくないはずがなかった。

 

「……坊ちゃま。あまり遠くへ行かれますと、宮殿の警備隊が蜂の巣をつついたような騒ぎになりますよ」

 

背後から、目深に被ったショールから美しい銀髪をわずかに覗かせ、貧しい町娘風の地味なワンピースを着崩したチヨノーチェが、静かな足取りでついてくる。

 

当然ながら、彼女という絶対の護衛兼相棒を連れずに一人で脱出できるほど、宮殿の警備は甘くはない。

 

彼女を共犯者に引き入れたからこそ、このお忍び散歩は成立していた。

 

「大丈夫だってチヨ。ちょっとお散歩して、屋台を冷やかすだけだからさ」

 

トリファは笑いながら、賑わう大通りへと足を踏み入れた。

 

下町の空気は、日露戦争前の陰鬱さが嘘のように明るく、芳ばしい匂いに満ちていた。

 

フリストフォルが広めたジャガイモの揚げ物屋台の隣には、早くもその油鍋を流用した「第二の食文化」が花開いていた。

 

魚の切り身や野菜に小麦粉の衣をくぐらせ、熱い油でカラリと揚げる屋台――そう、「天ぷら」である。

 

日本の開国とともに極東から持ち込まれ、フリストフォルの知識とチヨノーチェの祖父のルーツを通じて民衆へと伝わったその調理法は、極寒の帝都において安価で熱々の贅沢として労働者たちに熱狂的に受け入れられていた。

 

そして、その天ぷら屋の親父たちが鍋の前に立ち、器用に油の中で具材をひっくり返している道具こそ――日本から伝わった、あの長い竹製の「菜箸(さいばし)」であった。

 

その時、通りの広場の方から、ドカドカとけたたましい金属音と、威勢のいい野太い歌声が響いてきた。

 

『Расцветали яблони и груши〜!』

 

『モスカウ! モスカウ! ヘイ! ヘイ!』

 

見れば、非番の兵士たちや港湾労働者、市場のおかみさんたちが数十人ほど集まり、輪になって足を踏み鳴らし、手拍子を打っている。

 

例の「マーチング・カチューシャ」と「もすかう」の即席パレードであった。

 

だが――耳の肥えたトリファの眉が、眼鏡の奥でピクリと動いた。

 

「……うーん。テンションは最高なんだけど、リズムがバラバラだな」

 

ある者はバケツを叩き、ある者はペチカの鉄板を蹴り、ある者は手拍子を打っているが、拍子がずれていてグルーヴ(一体感)が生まれていないのだ。

 

前世でロックバンドの演奏やドラムのリズムに親しみ、音楽の成績「5」を維持し続けた元社畜の血が、ムズムズと騒ぎ始めた。

 

「……よし。僕がリズムの骨組み(ビート)を作ってやるか」

 

「坊ちゃま……? 何をされるおつもりで」

 

怪訝そうなチヨノーチェを置き去りにし、トリファは目にも留まらぬ速さで周囲の路地裏や屋台を駆け回った。

 

天ぷら屋の裏に転がっていた、底の抜けていない空のドラム缶。

 

魚屋の隅に積まれていた、大小のブリキバケツ二つ。

 

金物屋の店先で埃を被っていた、浅い鉄鍋と、四角い一斗缶。

 

酒場の裏口から回収した、空のウォッカ瓶二本と、真鍮製の丸いお盆。

 

それらを広場の片隅、荷車用の木箱の上に手際よく配置していく。

 

中央にドラム缶。右手にバケツ。左手に一斗缶と鍋。頭上の位置にお盆と瓶。

 

あっという間に広場の真ん中に組み上がったのは、廃材だけで構成された、驚くべき幾何学的配置の「即席ジャンク・ドラムセット」であった。

 

十九世紀末、アメリカ南部のニューオーリンズで産声を上げたばかりの黎明期のジャズドラム。

 

それを、21世紀のストリート・パーカッションの視点で、道端のゴミ同然の廃品から再構築してみせたのだ。

 

そしてトリファは、呆然と見守っていた天ぷら屋の親父の前へと駆け寄ると、ペコリと頭を下げた。

 

「おじさん! その長いお箸、二本だけ貸して!」

 

「あ、ああ? 持っていきな、坊主。だが油で滑るぞ?」

 

手に入れたのは、油の染みた頑丈な二本の「菜箸」。

 

太さといい、長さといい、竹のしなりといい、ドラムスティックの代用としてはこれ以上なく完璧な代物であった。

 

トリファは瓶底眼鏡を指先でクイと押し上げると、小さな木箱の上に腰掛け、即席ドラムセットの前で菜箸を構えた。

 

「すぅ……」

 

息を吸い込み、菜箸の先端同士をカン、カン、カン、カン、と四拍打ち鳴らす。

 

次の瞬間――。

 

ドガァンッ!! パァンッ!!

 

広場の空気を切り裂くような、凄まじい衝撃音が轟いた。

 

「……な、なんだ!?」

 

騒いでいた労働者たちが一斉に足を止め、振り返る。

 

そこにいたのは、三歳児の小さな身体を躍動させ、信じられないほどの神業で廃材を叩き鳴らす、瓶底眼鏡のチビの姿であった。

 

右足の踵でドラム缶の縁を力任せに蹴り込み、ズドン!と腹に響くバスドラムの重低音を響かせる。

 

左手の菜箸が一斗缶のスネアを弾くように叩き、パアン!と小気味よいアクセントを刻む。

 

右手は流れるような動きで大小のバケツのタムを駆け巡り、トコトコトコ!と軽快なロールを刻んだかと思えば、真鍮のお盆のシンバルをカァン!と鮮烈に引っぱたく。

 

チチチチ、トン、パァン! ドコドコ、カン、パァン!

 

ただの騒音ではない。

 

そこには、この時代の人間が誰一人として聴いたことのない、20世紀のロックとジャズが融合した「完璧なエイトビートのグルーヴ」が脈打っていた。

 

菜箸のしなりを最大限に利用し、手首のスナップだけで叩き出される爆発的な推進力。

 

「……す、すげえぞ、あの坊主!」

 

「おい見ろ! ドラム缶と鍋を叩いてるだけなのに、身体が勝手に動き出しやがる!」

 

広場を埋め尽くしていた群衆の目が、一瞬にして色を変えた。

 

バラバラだった足踏みが、トリファの刻む力強いビートに吸い寄せられるように、一つの強烈なうねりへと統合されていく。

 

ドッ、パン、ド・ドッ、パン!

 

完璧なリズムの土台が敷かれた瞬間、労働者の大男が我慢できずにウォッカの瓶を掲げて叫んだ。

 

『Расцветали яблони и груши〜〜!!』

 

ドガガガガァンッ! カァン!

 

トリファが絶妙なタイミングでシンバル代わりのお盆を強打し、バケツを叩き鳴らして合いの手を入れる。

 

手拍子が重なり、靴を踏み鳴らす音が大地を揺らし、歌声が百人、二百人と膨れ上がっていく。

 

そして、ビートが加速した瞬間――トリファは立ち上がり、ドラム缶の上に飛び乗る勢いで菜箸を乱舞させながら叫んだ。

 

「もすかうッ!!」

 

『Moskau! Moskau! ヘイ! ヘイ! ホ、ホ、ホ、ホ、ヘイ!!』

 

爆発する歓声。

 

飛び跳ねる群衆。

 

廃材のドラムセットから放たれる狂乱のビートに乗って、下町の広場は一瞬にして巨大な野外フェス会場へと変貌を遂げた。

 

汗を飛び散らせながら菜箸を振るうトリファの顔には、心からの、前世でも今世でも味わったことのない純粋な笑顔が弾けていた。

 

群衆の端で、ショールを被ったチヨノーチェが、驚きと呆れ、そしてこの上ない愛おしさに満ちた瞳で、その小さなドラマーを見つめていた。

 

(……本当に、何というお方でしょう)

 

宮殿で世界秩序を操るツァレーヴィチが、下町で菜箸を握り、ドラム缶を叩いて民衆を熱狂させている。

 

歌い踊る人々の顔には、飢えの影も、戦争への恐怖も、革命への憎悪も、欠片すら残っていなかった。

 

そこにあるのはただ、美味いものを食い、美味い酒を飲み、最高のリズムに合わせて笑い合う、生きている人間の歓喜そのものであった。

 

「ヘイ!!」

 

最後の一撃でお盆をカァンと鳴らし、トリファが両手の菜箸を頭上へ高々と突き上げると、広場は割れんばかりの拍手と地鳴りのような口笛に包まれた。

 

「ブラボー! 最高だぞ、チビ助!」

 

「名前は何て言うんだ!?」

 

歓声が降り注ぐなか、トリファは瓶底眼鏡を直しながら、ニカッと歯を見せて笑った。

 

「トリファだよ! 通りすがりの、ただのトリファさ!」

 

これぞ、時代劇の正しき去り際である。

 

拍手喝采のなか、天ぷら屋の親父に菜箸を返すと、トリファは人混みの隙間を滑るようにすり抜け、路地裏へと飛び込んだ。

 

「ふぅ……! 腕がパンパンだ! でも最高に気持ちよかったぁ!」

 

息を切らして路地の壁に背中を預けるトリファの前に、チヨノーチェが音もなく歩み寄ってきた。

 

彼女は懐から清潔な白いハンカチを取り出すと、主人の額に浮かんだ汗を優しく拭き取った。

 

「お見事な演奏でございました、トリファ様。……ですが、そろそろ宮殿へお戻りになりませんと、アナスタシア様が『フリスチューシュカが神隠しに遭った』と泣き叫んで、近衛兵を総動員して街中をひっくり返してしまいますよ」

 

「う……ナースチャ姉さまなら、本当にやりかねないな……」

 

想像して冷や汗を流したフリストフォルは、苦笑いを浮かべながら瓶底眼鏡を外した。

 

「よし、帰ろうチヨ。……姉さまに、お土産に熱々の天ぷらでも買って帰ろっか」

 

「ええ、喜ばれると思いますよ」

 

冬の夕暮れが、帝都の屋根を茜色に染めていく。

 

路地を出れば、広場の方から、まだ名残惜しそうに『カチューシャ』と『もすかう』を合唱する民衆の声が風に乗って聞こえてきた。

 

小さな手でつないだ温もりとともに、少年大公は、自らが守り抜いた愛すべき帝国の街路を、軽やかな足取りで宮殿へと帰っていった。

 

 

◇◇◇

 

 

帝都サンクトペテルブルクの宮殿で三歳のフリストフォルが解き放った『カチューシャ』と『もすかう』の旋律は、やがてシベリア鉄道の鉄路を滑り、凍てつく大河を越え、ユーラシア大陸の隅々へと爆発的な勢いで伝播していった。

 

民衆は空き缶や鍋を叩いてマーチを奏で、酒場では労働者が足を踏み鳴らし、兵士たちは肩を組んで熱唱する。

 

だが――歌っている間はずっと気合いと筋力でコサックダンスを踊り狂うあの『もすかう』という楽曲に、ロシア帝国の誰よりも凄まじい熱量で呼応した集団が存在した。

 

言うまでもない。

 

そのステップの、その魂の、その名の起源たる――本家本元、真の『コサック』たちであった。

 

帝都から遥か南、冬の冷たい風が吹き抜けるドン川流域の広大な大草原。

 

馬を駆り、シャシュカを振るい、自由と戦いを何よりも愛する荒くれ者たちの集落――スタニツァ。

 

普段、彼らにとって「帝都の近衛兵」という存在は、どこか鼻持ちならない連中として映っていた。

 

皇帝の側近として栄誉ある『近衛コサック連隊』に選抜される男たちといえば、もちろん武芸の腕前こそ確かであるものの、荒野を駆け回る無頼漢だらけのコサック全体から見れば「宮廷で行儀見習いができるほど育ちが良く、礼儀正しい優等生」でなければ到底務まらない仕事だったからだ。

 

「ケッ、ペテルブルクの坊ちゃん兵め。宮殿のピカピカの床で、貴族の女どもに愛想を振りまくのが関の山だろうが」

 

野卑な笑い声を上げ、分厚い羊毛の帽子を目深に被った古参の荒くれコサックたちが、集落の居酒屋で濁ったウォッカを呷っていた。

 

そこへ、冬の休暇を得て帝都から数週間ぶりに里帰りしてきた一人の若き近衛コサック兵が、泥のついた長靴を鳴らして飛び込んできたのである。

 

「親父たち! 呑気にくだを巻いてる場合じゃねえぞ!」

 

若者は興奮のあまり肩で息をしながら、店の中央の丸テーブルへと詰め寄った。

 

「ペテルブルクから、とんでもねえ宝を持ち帰ってきたんだ! 我が主、三歳にして日露の戦を制した小さきツァレーヴィチ・フリストフォル殿下が、俺たちコサックのために下賜してくださった『神の歌』だ!」

 

「ああん? 三歳のガキが作った歌だと?」

 

胸毛を覗かせた巨漢のコサック長が、不審そうに片眉を吊り上げた。

 

「俺たちを子守唄で寝かしつける気か、ええ? そんな軟弱な歌に――」

 

「黙ってこれを見ろッ!!」

 

若き近衛兵はマントを脱ぎ捨てると、腰のシャシュカを帯ごと外して床に放り投げた。

 

そして、胸の前でビシッと両腕を組み、背筋を鋼のように伸ばした。

 

「フンフンフン〜♪ フンフンフン〜♪」

 

勇壮なイントロを鼻歌で刻みながら、若者の足が猛烈な勢いで動き出した。

 

腰を限界まで沈め、左右の足を交互に、矢のように前方の虚空へと蹴り出す超絶ステップ。

 

酒場の床板がバコン! バコン!と凄まじい地響きを立てる。

 

「……な、なんだあのキレは……!?」

 

「おい、まさか……マジのステップを踏んでやがるのか!?」

 

野次馬たちが息を呑むなか、若者は肺の空気をすべて吐き出すように、酒場の屋根を吹き飛ばさんばかりの雄叫びを轟かせた。

 

「――Moskau! Fremd und geheimnisvoll〜〜!!」

 

ドイツ語の歌詞など、荒くれコサックたちには一言も意味など分からなかった。

 

だが、そんな言語の壁など、この爆発的なリズムの前には塵芥に等しかった。

 

重低音のビート。

 

跳ね回る野生のエネルギー。

 

そして、サビの直前、若者が渾身の力で叫んだ合図――。

 

「Wirf die Gläser an die Wand――ッ!!(グラスを壁に投げつけろッ!!)」

 

パリーーーンッ!!

 

若者は手近にあったウォッカの空き瓶を引っ掴むなり、迷うことなく店のレンガ壁めがけて全力で投げつけた。

 

ガラスが粉々に砕け散り、強烈なアルコールの匂いが店内に充満する。

 

「Russland ist ein schönes Land! Ho, ho, ho, ho, ho, HEY!!」

 

大地を踏み抜かんばかりの跳躍とともに、若者が拳を天へと突き上げた。

 

――静寂。

 

酒場の中の数十人の荒くれコサックたちが、口を開けたまま硬直していた。

 

そして、次の瞬間。

 

「…………ウラァァァァァァァァッッ!!!!」

 

地獄の釜の底が抜けたかのような大歓声が、酒場を木っ端微塵に揺るがした。

 

「なんだこの歌はァァッ!!」

 

「グラスを投げろだと!? 酒を飲んで踊り狂えだと!?」

 

「おいおいおい、最高じゃねえか!! これこそ俺たちコサックの魂そのものだッ!!」

 

古参のコサック長が机を蹴倒して立ち上がると、手元のグラスを一気飲みし、そのまま――ガシャァァンッ!!と頭上の梁めがけて叩き割った。

 

「踊れェッ!! ツァレーヴィチの歌だ!! 足を止めた奴からウォッカを頭からぶっかけるぞッ!!」

 

狂乱の宴が幕を開けた。

 

帝都の下町で行われていた微笑ましいステップなど、足元にも及ばない。

 

本場・本物のコサックたちによる、筋骨隆々の肉体が躍動する地鳴りのコサックダンス。

 

三人、十人、三十人の大男たちが一列に並び、胸の前で腕を組み、猛烈なスピードで左右の足を交互に蹴り出す。

 

跳躍し、空中で脚を割り、着地と同時に再び低く腰を沈めて床を叩く。

 

「モスカウ! モスカウ! ヘイ! ヘイ!」

 

ガシャン! バリィン! ガシャン!

 

歌詞に忠実に、歌の合間ごとにウォッカの瓶とグラスが雨あられのように壁や床へと投げつけられ、粉砕されていく。

 

飛び散るガラス破片すらも、踏み荒らす長靴のステップによってジャリジャリと心地よいリズム楽器の一部へと変えられていく。

 

抜き身のサーベルを頭上で旋回させ、髭面の男たちが笑い転げ、肩を組み、汗とアルコールを撒き散らしながら夜が明けるまでステップを踏み続けた。

 

これほどまでに自分たちの野生と誇りを刺激し、命の躍動を肯定してくれる歌を、彼らは他に知らなかった。

 

「ツァレーヴィチ万歳ッ!!」

 

「小さき殿下こそ、俺たちコサックの真のアタマンだッ!!」

 

荒くれ者たちの魂は、ただの一曲のディスコソングによって、完膚なきまでに鷲掴みにされていたのである。

 

 

◇◇◇

 

 

帝都サンクトペテルブルク、アレクサンドロフスキー宮殿。

 

執務机の上で、チヨノーチェが差し出してきた南部地方からの特異報告書を眺めていたフリストフォルは、頭を抱えて深々と机に突っ伏していた。

 

「……ねえ、チヨ。僕、目の錯覚かな? ドン地方とクバン地方の居酒屋で、ガラス器と酒瓶の破損率が前年比800パーセントを記録したって書いてあるんだけど……」

 

「錯覚ではございません、坊ちゃま」

 

チヨノーチェは銀髪を小さく揺らし、完璧なポーカーフェイスの裏で微かに口元を震わせながら報告を読み上げた。

 

「殿下のお歌が南部コサック集落に届きました結果、荒くれ者たちが歌詞を文字通りに解釈いたしまして。歌うたびに『グラスを壁に投げつけろ』の合図とともに瓶を叩き割るのが、現地における絶対のマナーとなってしまったそうでございます」

 

「バカなの!? 怪我人出るでしょ、絶対!!」

 

フリストフォルは悲鳴のようなツッコミを上げた。

 

前世のドイツ人がエキゾチックなロシアの豪快さをイメージして作ったディスコソングの歌詞を、本物の荒くれコサックが「ツァレーヴィチからの直々の命令」として文字通りに実行してどうするのだ。

 

「おかげさまで、現地のガラス工場は空前の特需に沸き立っているとのことです。……それと、もう一つご報告が」

 

「……まだ何かあるの?」

 

恐る恐る顔を上げたフリストフォルに、チヨノーチェは一枚の羊毛の親書を恭しく掲げた。

 

「南部全コサック軍の長老たちより、連名で殿下へ誓詞が届いております。『殿下のためならば、いつでも十万の騎兵が命を捨てて駆けつける。我らの魂の頭領万歳』……と」

 

「…………」

 

フリストフォルは完全に絶句した。

 

ただのカラオケ。

 

ただのFlash動画の思い出。

 

前世のネットのネタ曲をご機嫌に歌い踊っただけの三歳児が、気がつけばロシア帝国において最も獰猛で、最も皇帝の座を脅かしかねない最強の武力集団――「全コサック騎兵」の絶対的な忠誠心を手中に収めてしまっていたのである。

 

「……はあ。もう、何がどう転ぶか分かんないや……」

 

フリストフォルは力なくソファの背もたれに倒れ込み、天井を見上げた。

 

革命の火種を消すために労働者を守り、戦争を終わらせるために兵站を組み、ストレス発散で歌った歌が、帝国の暴れ馬たちの手綱をガッチリと握り締める結果となる。

 

(まあ……もし本当に革命が起きそうになっても、あの荒くれ者たちが十万騎で守ってくれるなら……僕のお昼寝ライフの安全性は、また一段と上がったのかな……?)

 

前世のゲーマー精神で無理やりポジティブに納得することにしたフリストフォルは、小さくあくびを噛み殺した。

 

窓の外では、今日もどこかの兵舎から、かすかに「モスカウ! ヘイ! ヘイ!」という野太い大合唱と、何か硬いものが景気良く割れる音が、冬の風に乗って響いてきていた。

 

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