日露戦争の講和条約がアメリカ・ポーツマスの地で正式に調印されてから数日後のこと。
帝都サンクトペテルブルク、冬宮の皇帝執務室に、一本の極秘暗号電信が直接届けられた。
発信元は、東京の皇居。
差出人は――大日本帝国皇帝、明治天皇であった。
執務机の前で、ロシア皇帝ニコライ二世はその電文を一人、静かに凝視していた。
電信に綴られていたのは、外交辞令の枠を遥かに越えた、一国の君主からもう一国の君主へと宛てられた、魂の籠もった感謝の言葉であった。
『戦勝の栄誉に溺れることなく、我が国の主権と誇りを重んじ、領土の割譲も賠償金も求めず、不戦と融和の道を示されたロシア帝国皇帝陛下の類まれなる寛大なる英断に対し、深甚なる敬意と感謝の誠を捧ぐ――』
電文を読み進めるニコライ二世の指先が、無意識のうちに己の右側頭部――こめかみのあたりへと伸びていた。
そこには、いまも白く細い一本の古傷が刻まれている。
(……大津……か)
ニコライ二世の脳裏に、十三年前のあの忌まわしき日の記憶が、鮮烈に蘇っていた。
一八九一年、皇太子時代に訪れた極東の島国。
大津の街道において、警備に当たっていた日本人巡査・津田三蔵の手によって突如として振り下ろされたサーベルの凶刃。
寸でのところで命を取り留めたものの、頭蓋に刻まれたその一撃は、ニコライの肉体に「慢性的な偏頭痛」という消えない呪いを遺した。
事件直後、日本に滞在していた折には、皇太子としての気品と分別を保ち、「狂人一人の凶行を以て、日本国民全体を憎むことはない」と公に宣言してみせたニコライであった。
だが――帰国し、治らぬ古傷の痛みに毎夜苛まれるうちに、彼の心は暗い怨嗟の色に染まっていったのだ。
野蛮な東洋の猿。
背後から刃を振るう、理解不能な黄色い人種。
事あるごとに日本人を「マカーキ」と侮蔑し、極東において妥協を許さぬ強硬姿勢を取り続けた背景には、常にあの日の頭痛と、拭い去れぬ屈辱の記憶が存在していたのである。
だが――。
日本人への底なしの嫌悪感を抱き続けたニコライ二世の心の片隅に、どうしても憎みきれない、ただ一つの光景があった。
それは、事件の報を聞くや否や、周囲の制止を振り切って東京から京都へと駆けつけた明治天皇の姿であった。
大国の皇太子を傷つけてしまったという痛恨の極みに震えながらも、誠心誠意、一国の元首としてこれ以上ない手厚い謝罪と配慮を尽くしてくれた、あの威厳に満ちた天皇の誠実さ。
全国の日本国民から届けられた数万通の見舞い電報や謝罪の手紙、そして己の命を絶って謝罪の意を示した民間の女性――。
あの事件に際し、日本という国が国家の総力を挙げて示した「誠意の重み」を、ニコライ二世は生涯忘れたことはなかったのだ。
「……あの時の天皇は、今も……あの時の誠実な陛下のままであられたか」
ニコライ二世の唇から、深く重い吐息が零れ落ちた。
もしも、ロシア軍の将軍たちが望んだように日本を完膚なきまでに叩き潰し、過酷な賠償金を取り立て、領土を奪い尽くしていたならば――かつて己に向けられたあの誠実さは、憎悪と復讐の炎へと変わり果てていただろう。
日本を生かし、武士道の誇りを立て、将来の防波堤として手を取り合う道を選んだ。
我が子フリストフォルが「今後百年続く極東の恒久安定」と説いたその講和の真の価値が、今まさに、この一通の電信によって証明されていた。
そして、電文の末尾には、さらに驚くべき一節が添えられていたのである。
『――日露両帝国の間に結ばれたこの絆を、単なる一時の休戦に終わらせることなく、子々孫々に至る百年の真の融和とするため、我が皇室に連なる系列家より、人を差し出す用意あり。両国の永遠の友誼の証として、ロマノフの宮廷にてその誠を受け止められたし』
「……人を、出す、と?」
ニコライ二世の青い瞳が、見開かれた。
それは、極東の島国が持ち得る、最も重い「誠意の誓約」であった。
皇族、あるいはそれに準ずる名門の血筋の者を、ロシアの宮廷へと送り届ける。
西洋的な王室外交における親善使節であり、東洋的な誓いにおける「証人」であり、そして何より――将来的な両国の血の融合をも視野に入れた、文字通りの「不退転の絆の申し出」であったのだ。
コン、コン。
静まり返る執務室の扉を、小さなノックの音が叩いた。
入ってきたのは、分厚い書類を抱えた七歳のタチアナと、その手につかまり、眠そうに目を擦りながら歩いてくる三歳のフリストフォルであった。
「……パパ? 呼んだ?」
フリストフォルの幼い声に、ニコライ二世の張り詰めていた表情が、たちまち柔らかな父の顔へと崩れた。
皇帝は机を回り込み、歩み寄ると、膝をついてフリストフォルの小さな身体を両腕で抱き上げた。
「パパ……?」
不思議そうに小首を傾げるフリストフォルの額に、ニコライ二世はそっと自らの額を重ねた。
フリストフォルが宮廷に導入してくれた柑橘の湯治と、滋養に満ちた食生活のおかげで、ここ数ヶ月、ニコライ二世を苦しめ続けていたあの古傷の偏頭痛は、奇跡のように消え去っていた。
肉体の痛みが消え、そして今、魂の奥底に燻っていた十三年間の呪いすらも、完全に解き放たれようとしていた。
「フリスチューシュカ。……お前の言う通りだったよ」
ニコライ二世は震える声で、我が子の淡い金髪を撫でた。
「お前が敷いてくれた平和のレールは……余の古傷の痛みすらも、完全に癒やしてくれた。大日本帝国の天皇から、感謝の親書が届いたのだよ。両国の百年の友誼のために、皇室から人を送りたいと」
抱き上げられたフリストフォルの頭の中で、前世の歴史知識が高速で回転した。
(……天皇の系列家から、人を出す……!?)
それは、明治の日本人が持ち得る、最大級の「返礼」であった。
誇りを保たれ、国を救われた日本は、ロシアを恐るべき仇敵ではなく、「仁義をもって応えるべき大国」として遇することを決断したのだ。
極東の背後を完全に固め、ロシアをアジアの争乱から解放する。
自らが描いたグランドデザインが、当初の予想を遥かに超える強固な「同盟の絆」となって結実しつつあることを、フリストフォルは確信した。
「……よかったね、パパ」
フリストフォルは小さな両手で、父の首にぎゅっと抱きついた。
「これで、もうパパの頭が痛くなることもないね。日本とは、ずっとずっと仲良しでいられるよ」
「ああ……そうだとも、我が愛しき息子よ」
ニコライ二世は力強く我が子を抱きしめ返し、満足げに微笑んだ。
隣でその光景を見守っていたタチアナが、知性に満ちた瞳を細め、静かに胸の前で十字を切る。
極東の島国から差し伸べられた、百年を誓う手。
かつて帝国の斜陽を告げるはずだった血塗られた戦争は、一人の少年大公の英知によって、ユーラシアの二大帝国を固く結びつける、新たな夜明けの産声へと姿を変えていた。
◇◇◇
日露戦争という未曾有の国難を乗り越え、極東の島国を事実上の防波堤として手懐けてから、季節は巡った。
1905年の陽光がアレクサンドロフスキー宮殿を包む頃、フリストフォルは満四歳の誕生日を迎えていた。
4歳。
本来であれば、木馬に跨って宮殿の廊下を駆け回り、侍女にお菓子をねだり、無邪気に泥遊びに興じているだけで許されるはずの年頃である。
しかし――戦争を勝利へと導き、大改革の幕を切って落としてしまった少年大公の執務室には、依然として帝国全土から膨大な重要書類が押し寄せていた。
そんな幼き弟の姿を、誰よりも胸を痛め、深い憂慮の瞳で見つめていたのが、今年で8歳を迎えたロマノフ家の次女、タチアナ・ニコラエヴナであった。
(……この子の小さな両肩に、いつまで大人の業を背負わせる気なのかしら)
タチアナは、執務机に積まれた公文書の山を前に、細い眉をキュッと寄せていた。
もちろん、他の姉妹たちの弟への愛情が足りないわけではない。
長女オリガは美しいピアノで弟の心を鎮め、三女マリアは天性の愛嬌でおねだりをして弟の相好を崩させ、双子の姉アナスタシアに至っては「私のフリスチューシュカ!」と叫びながら一日中ベッドで抱きしめ倒し、全身全霊で癒やしを与えている。
だが――知性の人であるタチアナは、冷徹に理解していた。
どれほど甘やかして癒やし尽くそうとも、翌朝になれば再び机の上に書類が山積みになるのだ。
甘やかしは擦り切れた精神を一時的に誤魔化すカンフル剤に過ぎず、四歳の肉体にのしかかる「実務の重圧」の根本的解決には、何一つとしてなり得ない。
ならば、自分がやるべきことは何か。
答えは一つしかなかった。
弟の頭脳を理解し、その思考をトレースし、弟が背負っている過酷な実務そのものを、自らの手で半分奪い取ってやることだ。
タチアナの行動は、迅速かつ貪欲であった。
弟が一体何を考え、どのような論理で政策を紡ぎ出しているのか――タチアナは執務の合間を縫ってフリストフォルの膝元に通い詰め、その思考のアルゴリズムを一つひとつ聞き出しては、驚異的な勢いで学習を重ねた。
そして、フリストフォルが説く統治の極意は、タチアナの澄んだ知性を目覚めさせるに十分すぎるほどの衝撃に満ちていた。
『法と、罪と、そして情け。この三つのバランスを絶妙に取る「天秤」を持たなきゃいけないんだよ、姉さま』
フリストフォルは前世の名奉行たちの精神――「大岡裁き」の真髄を語った。
杓子定規に法を適用して民を牢屋に放り込むのではなく、罪の背景にある人間性に寄り添い、情けをかけて悔い改めさせ、社会を支える納税者へと立ち直らせる。
厳罰による治安の維持ではなく、慈悲と秩序を両立させる高度な司法の知恵。
さらにタチアナを瞠目させたのは、経済を血液のように循環させるフリストフォルの資本論であった。
『一日八時間労働にして、有給休暇を与えて、工場を三交代制で回すんだ。休ませても給料を払う。……資本家たちは最初は「破産する」って叫ぶけれど、結果はどうなると思う?』
答えは、帝国の統計資料が雄弁に物語っていた。
休養によって疲労から解放された労働者たちは、驚異的な集中力で機械に向かい、産業事故と不良品率は劇的に激減した。
三交代制によって工場や鉱山は安全に「24時間フル稼働」を維持し、生産量はかつてない勢いで爆増。
十分な給料と自由な時間を手に入れた労働者たちは、街でフライドポテトや天ぷら、新しい服を買い求め、市場に莫大な金が回り始めた。
税率を下げても、経済全体のパイが何倍にも膨れ上がった結果、国庫には前代未聞の税収が雪崩れ込んでいる。
先行投資の重要性と、継続的利益回収の妙手。
民を富ませることこそが、最大の国力増強に繋がるという近代経済の黄金律。
8歳という、驚くべき吸収力を誇る黄金の成長期。
そして何より、「世界で一番愛する弟の重荷を、何としてでも減らしてあげたい」という至純の献身。
タチアナは、フリストフォルが持つ知識を恐るべき速度で自らの血肉へと変え、いつしか宮廷において「筆頭秘書」として立ち回るようになっていたのである。
◇◇◇
「――内務省からの治安対策予算の増額案ですか? 却下です」
執務室に、8歳の少女の凛とした、冷徹な声が響き渡った。
豪奢な制服に身を包んだ内務次官が、直立不動の姿勢のまま冷や汗を顎から滴らせている。
タチアナは手元の万年筆の先で、書類の予算項目を冷ややかに指し示した。
「民衆を取り締まる秘密警察の増員など、殿下の目指す国家像には一ルーブルたりとも不要です。民草が不満を持つのは、腹が減り、未来に希望が持てないから。その予算はすべて、帝都近郊の公衆浴場の増設と、孤児たちへの職業訓練学校の設立へと振り替えなさい。修正案を明日朝一番までに提出すること。……以上です」
「は、ははっ……直ちに修正いたします、タチアナ殿下……!」
老獪な内務官僚が、まるで歴戦の宰相の前に平伏するかのように深々と一礼し、逃げるように執務室を辞していった。
その様子を、机の向こうで分厚い座布団の上にちょこんと座っていた四歳のフリストフォルは、目を丸くして眺めていた。
(……す、凄すぎる。タチアナ姉さま、完全に仕上がってる……!)
官房長官もかくやという、完璧な切れ味。
かつては三歳の幼児がいちいち官僚たちの言い訳を聞き、印鑑を押し、説教を垂れていた面倒な実務の九割近くが、今やタチアナという「鉄の秘書官」の手によって高速でスクリーニングされ、的確に処理されているのだ。
「……ふう」
重厚な執務室の扉が閉ざされ、カチャリとオートロックの鍵が下りた音がした。
その瞬間――。
先ほどまで老獪な官僚たちを震え上がらせていたタチアナの「冷徹な知性の仮面」が、ガラガラと音を立てて崩れ去った。
タチアナは手にしていた万年筆を机に置くと、フッと深く長い息を吐き出した。
そして、メガネを外し、机を回り込んでフリストフォルの元へと歩み寄ってきたのである。
その瞳には、先ほどの冷厳な光など微塵も残っていなかった。
あるのは、溺愛と、蕩けるような甘い情愛の光だけであった。
そう――世間において、「普段は厳格で真面目な姉ほど、心を許した弟の前ではとことん甘くなる」という現象が存在する。
そしてその法則は、この8歳にして帝国の実務を牛耳る小さな才媛、タチアナにも、極めて強烈に、そして濃厚に発揮されていたのだ。
「……フリスチューシュカ」
「あ、タチアナ姉さ……わっ!」
タチアナはフリストフォルの小さな身体を両腕で軽々と抱き上げると、自らの椅子へと連れ戻り、そのまま自分の膝の上にすっぽりと座らせた。
そして、4歳の弟の首筋に自らの顔を深く埋め、すうっと音を立てて息を吸い込んだのである。
「あぁ……フリスチューシュカの匂い……。柑橘とお茶の、とってもいい匂い……」
「タ、タチアナ姉さま、くすぐったいよ……!」
ジタバタともがくフリストフォルであったが、タチアナの細い腕は、まるで宝物を抱きしめるように決して離そうとはしなかった。
ぎゅっと抱きしめ、頬をすりすりと擦り寄せ、愛おしそうに金髪を指先で梳いていく。
「お仕事、終わったわよ、フリスチューシュカ。今日もよく頑張りましたね」
その声音は、アナスタシアのような激情的な熱狂とも、マリアのような小悪魔的なおねだりとも違う。
どこか母性に似た、深海のように静かで、底なしの包容力に満ちていた。
タチアナはフリストフォルの小さな額にチュッと優しい口づけを落とすと、トロンと蕩けた瞳で弟を見つめた。
「書類を見るたびに、胸が締め付けられそうだったわ。こんなに小さな身体で、どれだけの未来を一人で考えていたの……? でも、もう大丈夫。難しい大人の相手は、全部お姉ちゃんがやってあげるからね」
タチアナの手が、フリストフォルの肩を、背中を、優しくトントンとリズミカルに叩き始める。
「私の前では、賢い空軍大臣じゃなくていいの。……ただの、可愛い可愛いフリスチューシュカでいていいのよ」
(……あ、これ、完全にアレだ……)
膝の上で包み込まれながら、フリストフォルの前世の社畜脳が、猛烈な既視感に打たれていた。
激務を終えて残業から帰宅したバリキャリOLが、玄関を開けた瞬間に部屋着に着替え、飼っている愛犬や愛猫、あるいは年の離れた最愛の弟に顔を埋めて「成分」を限界まで補給し、自らを癒やしている――家の中だけで見せる、あのオフモードの光景そのものだったのである。
外では無敵の鉄の女。
家の中では、弟を抱きしめてデレデレにとろける甘やかしの化身。
(……8歳にしてこのギャップを極めてるなんて、将来どんな魔性の女帝になっちゃうんだよ……!)
内心で激しくツッコミを入れながらも、フリストフォルの全身からは、ことりと力が抜けていった。
知性で自らの重荷を完璧に理解し、実務を肩代わりしてくれた上で、これ以上ない極上の温もりで甘やかしてくれるのだ。
抗えるはずがなかった。
「……ん、タチアナ姉さま……あったかい……」
フリストフォルが素直に甘えて胸元に顔を擦り付けると、タチアナは満面の、この世で最も幸せそうな笑みを咲かせた。
「ええ、好きなだけここにいなさい。……お昼寝の時間まで、ずっと抱っこしていてあげるからね」
静まり返った執務室の中。
8歳の敏腕秘書官の腕の中で、4歳の少年大公は、心地よい疲労感と絶対の安心感に包まれながら、至福の微睡みの中へと深く深く沈んでいった。
有能すぎる姉の実務力と、底なしの弟愛。
その二つの強固な防壁に守られながら、フリストフォルの夢見る「至高の怠惰ライフ」は、着実にその領域を広げつつあった。
◇◇◇
アレクサンドロフスキー宮殿のサロンに、軽やかで澄み切ったピアノの調べが流れていた。
象牙の鍵盤の上を白く細い指先が鮮やかに滑り、秋の陽光に透ける美しい旋律を紡ぎ出している。
ピアノを奏でていたのは、ロマノフ家の長女、オリガ・ニコラエヴナであった。
今年で11歳になる彼女は、まだ冬の訪れには間があるこの季節、10歳の少女であった。
彼女は、生まれながらにして類まれなる才能に恵まれた才女であった。
とりわけ音楽や芸術の方面においてその感性は際立っており、一度耳にした音を寸分の狂いもなく音階へと変換できる「絶対音感」の持ち主であったのだ。
フリストフォルが前世の記憶から掘り起こした『カチューシャ』と『もすかう』。
フリストフォルが宿す「原曲の記憶」と、オリガが持つ「絶対音感」という二つの天賦が合わさったからこそ、あの二つの名曲は半音の狂いもなく五線譜の上に完璧に書き起こされ、帝国全土へと正しく伝播することができたのである。
だが――そんなオリガもまた、決して非の打ち所のない完璧超人というわけではなかった。
(……オリガ姉さまは、パパにそっくりなんだよな)
サロンのソファに腰掛け、姉の奏でるピアノに耳を傾けながら、四歳のフリストフォルは内心でそう呟いていた。
周囲からも「皇帝陛下に一番よく似ている」と評されるオリガは、父ニコライ二世を心から深く慕っていた。
意志が強く、頑固で、情け深い。
だがその一方で、物言いが時に粗野であり、感情を率直に表に出しすぎる不器用な面を持ち合わせていた。
その率直さゆえか、神経質で信心深く、格式を重んじる母アレクサンドラ皇后とは、どうしても性格的に反りが合わないところがあったのだ。
だからこそ、次女のタチアナが生来の聡明なリーダーシップを発揮して母を優しく気遣い、気難しい母と率直すぎる姉、そして幼い弟妹たちの間を取り持つ「小さな母」として立ち回るようになっていたのである。
そしてオリガは、誰よりも「感受性の強い娘」でもあった。
かつて、母の故郷であるドイツのダルムシュタットを訪れた時のことだ。
オリガと妹のタチアナ、そして従姉のエリーザベトは、家庭教師のミス・マーガレット・イーガーに連れられて地元のおもちゃ屋へと立ち寄ったことがあった。
『自分用と贈り物用に、好きなおもちゃを選んでよいですよ』
そう告げられた時、オリガは棚に並ぶ豪奢な人形や美しい玩具をすべて素通りし、店の中で一番小さく、質素な玩具を一つだけ手にとって、他の一切を買い求めることを頑なに拒否したのである。
不思議に思ったミス・イーガーが理由を尋ねると、幼いオリガは真剣な面持ちでこう答えたのだ。
『あの美しいおもちゃは、きっと街の他の女の子のためのものです。……お家に帰って、私たちが留守の間におもちゃを全部持って行ってしまったと知ったら、その子がどんなに悲しむか考えてみてください』
自分は帝国の皇女であり、何不自由なく満たされている。
ならば、名も知らぬ誰かの喜びを奪ってはならない――そう子供心に他者の痛みを慮る、純粋で優しい心を彼女は確かに宿していた。
だが、その感受性の強さは、時として大人の放つ毒にも無防備に染まりやすかった。
日露戦争が勃発したばかりの頃、宮殿の執務室を行き交う大人たちの好戦的なレトリックを耳にしたオリガは、突如としてミス・イーガーの前でこう言い放ち、家庭教師を心底から驚愕させたことがあった。
『ロシアの兵隊さんが、日本人を全員殺してくれることを願うわ。一人たりとも生かさないでほしいの』
過激すぎる言葉に顔を青ざめさせたミス・イーガーが、静かに窘めるように言った。
『オリガ様。日本にも、貴方の父上と同じように民を愛する天皇という皇帝がおられるのですよ』
その言葉を聞いたオリガは、はっと息を呑み、長い時間考え込んだ後――ぽつりと、消え入るような声でこう答えたのだ。
『……日本人が、私たちと同じ人間だとは知りませんでした。大人たちが言うのを聞いて、猿のような化け物だと思っていたのです』
大人の侮蔑を純真さゆえに真に受けてしまっていた己の無知を恥じたオリガは、それ以後、敵であっても人の死を聞いて喜ぶような言葉を二度と口にしなくなった。
母とは衝突しがちで、不器用で、純粋すぎるがゆえに傷つきやすい。
けれどその胸の奥底には、他者を思いやることのできる温かな良心を確かに持っている――それが、長女オリガという少女の真の姿であった。
ピアノの軽やかな音色がふわりと止まり、最後の和音がサロンの天井へと溶けていった。
オリガは鍵盤の蓋を静かに閉じると、ピアノの椅子の上でくるりと振り返り、ソファに座る弟の姿をじっと見つめた。
(……本当に、この子は)
オリガの青い瞳に、複雑な、しかしこの上なく誇らしげな光が宿る。
彼女にとって、四歳のフリストフォルは、どれほど背伸びをしても敵わない「規格外の天才」であった。
まず、「料理」という分野。
家事全般があまり好きではなく、不器用なオリガにとって、2歳にして厨房に立ち、極上のピザやシフォンケーキを焼き上げ、帝国全土の食生活を塗り替えてみせた弟の手腕など、最初から白旗を上げてひれ伏すしかない領域であった。
そして、彼女が唯一誇れるはずの「音楽」という分野。
確かに絶対音感を持つ自分なら、ピアノの腕前で張り合うことくらいはできる。
だが――「10歳の自分が、四歳の弟と音楽で互角に張り合えている」という事実そのものが、もはや敗北を意味していた。
4歳にしてあれほど豊かな腹式呼吸を操り、誰も聴いたことのない神がかり的なメロディを紡ぎ出す弟の天賦の前に、彼女のプライドは心地よい白旗を掲げる他なかったのだ。
ましてや、政治と軍事の領域に至っては、言うまでもない。
民草の貧困を救うために8時間労働制を敷き、七つの海を見渡して大英帝国の野心を封じ込め、空飛ぶ軍艦を指揮して戦争を勝利へと導いた大戦略家。
勝てる要素など、どこをどう探しても一つも見当たらなかった。
普通ならば、これほど完璧すぎる弟を前にすれば、年上の姉として劣等感を抱き、嫉妬に狂って心を閉ざしてもおかしくはない。
しかし――オリガは、決して卑屈になどならなかった。
「……ふふ」
オリガはピアノの椅子から立ち上がると、軽やかな足取りでフリストフォルの元へと歩み寄ってきた。
そして、ソファに座る弟の隣に腰掛けると、躊躇うことなくその小さな身体をぎゅっと抱き寄せたのである。
「オリガ姉さま……?」
見上げるフリストフォルの鼻先を、オリガは細い人差し指でツンと小気味よく突いた。
「相変わらず、可愛らしいお顔ね。……こんなに小さな手で、世界中の大人たちを震え上がらせているなんて、誰にも信じられないわ」
その声には、嫉妬など微塵もなかった。
あるのは、己の愛する弟が世界一優秀であることに対する、長女としての絶対の誇りであった。
料理ができなくたっていい。
音楽の才能で追い抜かれたって構わない。
政治や戦争の難しいことなど、弟にすべて任せておけばいいのだ。
なぜなら――どれほどフリストフォルが神童として崇められようと、世界を統べる大戦略家になろうと、彼が「自分の最愛の弟」であるという揺るぎなき事実だけは、この世の誰も奪うことができないのだから。
賢い弟を認め、慈しみ、全力で愛する長女でいられること。
それこそが、オリガにとって何者にも侵されない「最初の姉」としての勝利であった。
「……フリスチューシュカ。貴方が守ってくれたこの国が、私は大好きよ」
オリガはフリストフォルの淡い金髪に頬を寄せ、優しく囁いた。
「戦争が終わって、街のみんなが貴方のお歌を歌って笑っているのを見るたびにね、私、胸がいっぱいになるの。……貴方は私の、自慢の弟よ」
「……ありがとう、オリガ姉さま」
フリストフォルは少し照れくさそうに目を細め、姉の細い腕の中に身体を預けた。
アナスタシアの激しい独占欲とも、マリアの甘え上手な小悪魔さとも、タチアナの頼れる実務的な包容力とも違う。
不器用で、率直で、しかし誰よりも真っ直ぐに自分を肯定してくれる長女の温もり。
四姉妹の愛の形は、それぞれに違っていた。
だがそのすべてが、冷徹な大戦略家として歴史の激流と戦い続けるフリストフォルの魂を、何よりも優しく、何よりも温かく包み込む、絶対の安息所であった。
「さあ、お茶にしましょう。……今日は厨房から、美味しいビスケットをたくさん運ばせてあるのよ」
「うん、姉さま。一緒に食べよう」
秋の柔らかな光が差し込むサロンで、二人の姉弟の笑い声が、先ほどまで奏でられていたピアノの余韻のように、穏やかに響き渡っていた。
◇◇◇
鏡の前に立つ銀髪の従者は、銀糸の刺繍が施された漆黒の上着にすんなりと腕を通し、首元のタイを寸分の狂いもなく結び直した。
今年で19歳を迎えたチヨノーチェ。
フリストフォルがこの世に生を受けたあの日から仕え始め、今年で四年目の月日が流れていた。
引き締まったしなやかな体躯と、匂い立つような気品を宿した立派なレディ。
彫刻のように整った涼やかな美貌に、透き通るような白磁の肌。
後頭部でシンプルな黒のバレッタによって束ねられた銀髪は、すっきりと開いた襟足の美しさを際立たせ、仕立ての良い燕尾服のラインは、下手に着飾った貴族の若者など足元にも及ばないほどの優美な陰影を描き出している。
年頃の娘であれば、舞踏会の噂や若い士官との逢瀬に胸を躍らせる季節であろう。
だが、チヨノーチェの身辺には、そうした浮ついた話題はただの一つも存在しなかった。
それどころか――彼女は今や、ロシア宮廷の侍女や見習いの娘たちにとって、夜毎の夢に現れる「麗しき燕尾服の貴公子」として、熱烈な憧れと黄色い吐息を集める対象となっていたのである。
そして、その影響力は彼女個人の枠を遥かに越えていた。
フリストフォルの身辺の世話を担当する専属メイドは、チヨノーチェ一人ではない。
皇子の成長に伴い増員された彼女たち――ツァレーヴィチの身辺警護と生活を支える専属の侍女たちは、皆が自然と筆頭メイドであるチヨノーチェの背中を見上げ、その装いに倣うようになっていたのだ。
ふわりと広がる旧態依然としたフリルのメイド服を脱ぎ捨て、機能性と端正さを極めた黒の燕尾服に袖を通す。
長い髪は華美に飾ることなく、清潔なシニヨンにまとめ上げるか、シンプルなバレッタや黒紐で凛々しく括る。
彼女たちが整然と列をなし、宮殿の廊下を行き交う姿は、さながらプロフェッショナル精神を芯に抱いた若き貴公子の親衛部隊そのものであった。
『ツァレーヴィチ専属親衛メイド隊』。
宮廷の誰もがそう呼び、他の区画で働く普通のメイドたちが羨望の眼差しで見つめるその精鋭部隊の頂点に、筆頭メイド長として君臨すること――それは、チヨノーチェにとって何物にも代えがたい至高の誇りであった。
だが。
彼女の胸の奥底を満たしている真の誇りは、そんな形式めいた地位などでは断じてなかった。
(……坊ちゃま)
ふと、チヨノーチェの切れ長の瞳が、甘やかな熱を帯びて微かに細められる。
皇宮には、四人の麗しき姉宮たちがいる。
激しい独占欲で抱きしめるアナスタシア、小悪魔のようにねだるマリア、実務を背負うタチアナ、そして優しく肯定するオリガ。
彼女たちがフリストフォルに注ぐ愛情は本物であり、血の繋がった家族ゆえの強固な絆で結ばれている。
しかし――「家族である」ということは、決して超えられない一線を引くということでもあった。
フリストフォルが、異国の前世の記憶に苛まれ、日本語で弱音を吐き、情けない愚痴をこぼし、前世の素顔をそのまま晒して甘えられる相手。
それは、血を分けた家族である皇女たちではなく、世界でただ一人、秘密の共犯者たるチヨノーチェだけであった。
『チヨ……もう嫌だよ。肩が凝っちゃった』
『チヨ、緑茶を淹れて。あのお菓子も食べたいな』
家族ではないからこそ、無防備に寄りかかってくれる。
世界中の誰にも見せない魂の素顔を、己の膝元にだけ預けてくれる。
その事実が、彼女の胸をどれほど誇らしく、どれほど甘美に満たしてきたか。
自分こそが、あの小さき軍神にとって唯一無二の「特別な女」であるという確信。
それこそが、チヨノーチェの生きる意味そのものであった。
生涯を賭けて、この御方に仕え上げる。
その誓いは、もはや揺るぎない鋼となって彼女の魂に刻み込まれている。
そして――聡明なるチヨノーチェは、ヨーロッパの宮廷社会が連綿と受け継いできた「影の歴史」を、誰よりも深く熟知していた。
幼き皇子や大公が思春期を迎え、少年から大人の男へと脱皮するその過渡期において、誰がその手ほどきを受け持つのか。
貴族社会の悪習として、街の娼婦や素性の知れぬ娘によって病を移されることを防ぐため、信頼の置ける年上の世話係メイドが、その初夜の相手――「男としての作法」と「女の躰」を教える寝所の手ほどき役を務めることは、欧州宮廷において公然の秘密であり、極めて普遍的な慣習であった。
やがて、数年の後。
愛しき坊ちゃまが、男としての熱を帯び、女というものを知るその時が必ず訪れる。
その最初の一歩を導く役目を、他の誰かに譲る気など、チヨノーチェには微塵もなかった。
(……手付きの女などに、坊ちゃまを触れさせはしない)
誰かの手垢のついた、使い古しの身体で主を迎えることなど、彼女の矜持が断じて許さなかった。
誰にも肌を許さず、誰にも心を奪われることなく、己の清らかな純潔のまま、主の最初の男としての目覚めを受け止める。
それは、彼女が祖父の眠る極東の血筋から受け継いだ「操」の概念であり、主に対する究極の忠義の結晶であった。
女としての純潔を、主の未来のためだけに捧げ、守り抜く。
その重すぎる誓いを、彼女はとっくの昔に、誰に命じられることもなく自らの魂に課していたのである。
「……ふふ」
鏡の中の自分に向かって、チヨノーチェは冷徹な貴公子の仮面の下に、一瞬だけ蕩けるような艶めいた微笑みを浮かべた。
燕尾服の胸ポケットに懐中時計を滑り込ませ、銀盆の上にフリストフォルのお気に入りの緑茶の茶器をセットする。
準備はすべて整った。
背筋を凛と伸ばし、足音もなく扉を開ける。
その先には、今日も難しい顔をして執務机に座り、そして誰もいなくなれば「チヨ〜」と情けなく甘えてくるはずの、世界で一番愛おしい主人が待っている。
至高の忠義と、誰にも明かせぬ秘めた情念を胸に抱きながら、銀髪の麗しき筆頭メイド長は、誇らしげに宮殿の絨毯を踏みしめて歩み出した。