満四歳を迎えてもなお、フリストフォルの多忙な日常に変わりはなかった。
ロシア帝国の皇太子であり、新時代の空を統べる初代空軍大臣。
日露戦争を電撃的勝利で終わらせたことで獲得した彼の絶大な政治的発言権は、いまや軍事の枠を遥かに越え、帝国の全土へと及んでいた。
しかし――その強大な権力を、フリストフォルは己の栄華や領土拡張のために振るう気など毛頭なかった。
彼がその権勢のすべてを注ぎ込んでいたのは、ただ一つ。
極寒の大地で泥にまみれ、喘ぎながら生きる「民草の生活の改善」であった。
前世で会社員として生き、世界屈指の治安と衛生環境、そして充実した社会福祉を誇っていた現代日本を知るフリストフォルにとって、二十世紀初頭のロシア庶民の生活は、あまりにも過酷で、あまりにも痛ましいものであったのだ。
彼は、前世の日常にあった「当たり前」の知恵を、次々と帝国の制度として落とし込んでいった。
まず着手したのは、庶民のささやかな食卓の幸福であった。
ロシアの大地において、純粋なバターは貴族や富裕層の贅沢品であり、貧しい民草には手の届かない高嶺の花であった。
そこでフリストフォルは、安価な植物性油脂から作られるマーガリンに、わずかな割合で本物のバターを練り込ませた「混合マーガリン」を開発させ、市場へと流通させたのである。
前世のスーパーマーケットの棚には当たり前に並んでいたその知恵は、帝国の貧民街に奇跡をもたらした。
わずかな銅貨で手に入るその白銀の油脂を、黒パンにたっぷりと塗りたくる。
口いっぱいに広がる香ばしいバターの芳香に、庶民たちは「自分たちも貴族と同じ味を楽しめる」と歓喜の涙を流した。
さらに彼は、冬のロシアにおける最大の死因の一つであった「泥酔者の凍死事故」の撲滅に乗り出した。
過酷な寒さに耐えかね、度数の高いウォッカを呷って道端で行き倒れ、翌朝にはカチコチの凍死体となって発見される――そんな悲劇をなくすため、フリストフォルは身体を芯から温める「生姜湯麦茶」と、微量のニンニクと唐辛子をすり潰した「特製滋養ペースト」の製法を無償で布告させた。
酒を飲む前にこのペーストをひとさじ舐め、温かい生姜麦茶を腹に流し込む。
それだけで内臓の血流が爆発的に改善し、体温が保たれる。
帝都の警察署が回収する行き倒れの遺体の数は、わずか一冬で激減したのである。
そして、公衆衛生の抜本的改革。
「病の悪魔は、目に見えない汚れから湧き出る」
そう説いたフリストフォルは、帝都の各地区に安価で清潔な「国営大銭湯」を次々と建設させた。
料金は民間の浴場の三分の一に設定し、18歳以下の子供は完全無料。
さらに、外から帰った際の手洗いとうがいの習慣を小学校や工場で徹底させ、酒場や食堂には「高濃度のウォッカを含ませた清潔な布で、客が入れ替わるたびに卓を拭くこと」を義務付けた。
『度数の高いウォッカは、病の悪魔を焼き殺して場を清める聖なる力を持つ』
前世のアルコール除菌の理屈を、ロシア人の宗教観と酒への信仰に巧みに結びつけたこの知恵によって、食中毒やチフス、コレラといった感染症の発生率は記録的な低下を見せた。
これらに加え、帝都の地下ではフリストフォルの主導による大規模な「上下水道の近代化改修工事」が着々と進められていた。
清潔な水を飲み、清潔な湯に浸かり、清潔な卓で飯を食う。
文明国としてあまりにも基礎的でありながら、当時のロシアが放置し続けていた生命のインフラが、四歳の皇子の手によって急速に整備されていったのである。
そして――帝都サンクトペテルブルクの民衆が、何よりも熱狂し、涙を流して感謝していたのが、毎日の正午に広場で繰り広げられる「皇子の炊き出し」であった。
鐘の音が正午を告げると、冬宮前の大広場には、湯気とともに信じられないほど甘美な小麦とチーズの香りが立ち込める。
白大理石の特設調理場。
宮廷の最高峰のシェフたちが腕を振るうその中央で、誰よりも忙しなく小さな身体を動かしていたのは、特注の白い小さなエプロンを身にまとったフリストフォルその人であった。
帝室の食生活が和食や中華、あっさりとした洋食へとシフトしたことで、宮廷の倉庫にはかつて過剰に消費されていた高級バターや乳製品が大量に余剰となっていた。
フリストフォルはそれを惜しげもなく供出させ、贅沢な「バターロール」や、ふんわりと焼き上げた「山型食パン」を山のように焼き上げさせていたのである。
さらに、庶民の味となったフライドポテトには、サワークリームに刻んだ玉ねぎとハーブを混ぜ合わせた「サワークリームオニオンディップ」を添えて提供した。
カリカリのポテトに濃厚で酸味の効いたディップをたっぷりつけて頬張るその美味さに、子供たちは目を丸くして歓声を上げた。
だが、広場の目玉はそれだけではなかった。
広場の一角に築かせた煉瓦造りの巨大な薪窯。
その前で、4歳のフリストフォルは自ら打ち粉を振るい、小さな手で生地を器用に丸く伸ばしていた。
自家製のトマトソースを塗り、新鮮なチーズとバジルを散らし、長いピザピールに乗せて窯の奥へと滑り込ませる。
パチパチと薪が爆ぜる音とともに、ふっくらと焼き上がった熱々のピッツァ・マルゲリータ。
あるいは、大鍋で茹で上げられたばかりのパスタに、香味野菜と挽肉のソースをたっぷりと絡めたボロネーゼ。
「はい、焼けたよ! 熱いから気をつけて食べてね!」
フリストフォルが皿を差し出すと、並んでいた貧民街の子供たちや、赤ん坊を抱いた母親たちが、震える手でそれを受け取った。
皿を配り終えると、フリストフォルは自らも温かいスープとパンをトレイに乗せ、広場に並べられた木製の長テーブルへと向かった。
護衛の近衛兵たちが慌てて席を清めようとするのを小さな手で制し、襤褸をまとった孤児たちのすぐ隣に、当たり前のように腰を下ろす。
「お兄ちゃん、どこか痛いところはない? 靴は破れてないかな?」
スープをすすりながら、隣に座ったみすぼらしい身なりの少年の顔を覗き込む。
「は、はい……大丈夫です、殿下……!」
「そっか、よかった。いっぱい食べて、身体を温めてね」
フリストフォルはふわりと花が咲くように微笑むと、少年の冷え切った頭を小さな手で優しく撫でた。
風邪を引いて咳き込んでいる子供がいれば、背中を優しくさすり、親衛メイド隊のチヨノーチェに目配せをして特製の薬湯を運ばせる。
凍えて震えている小さな女の子がいれば、自らの小さな腕でぎゅっと抱きしめ、体温を分けてやる。
身分の貴賤など微塵も感じさせず、同じ卓を囲み、同じ飯を食い、同じ目線で語りかける四歳のツァレーヴィチ。
その光景を遠巻きに見つめていた大人たちの目には、大粒の涙が浮かんでいた。
『あのお方は……神の遣わした生ける聖人様だ』
『我らのような泥にまみれた民のために、皇太子殿下が自らパンを焼き、隣に座ってくださるなんて……』
広場に満ちていたのは、恐怖による服従でも、金による買収でもなかった。
魂の底からの、濁りのない純粋な「敬愛」であった。
◇◇◇
「ふぅ……今日もいっぱい焼いたなぁ」
炊き出しを終え、エプロンを外したフリストフォルは、片付けを進める宮廷料理人たちの活気ある声を背に受けながら、小さく息を吐き出した。
駆け寄ってきたチヨノーチェが、清潔な蒸しタオルを差し出し、主人の粉まみれになった小さな手を丁寧に拭き取っていく。
「本日も素晴らしいご配慮でございました、坊ちゃま。子供たちのあのような笑顔は、どんな贅沢な祝宴でも見られないものでございます」
「みんな、すごく美味しそうに食べてくれたね。……明日はもっとチーズを増やしてあげようかな」
フリストフォルは空を見上げ、満足げに目を細めた。
彼の胸の奥底からは、いつの間にか「赤の革命を防ぐ」などという打算的な計算は、綺麗さっぱりと消え去っていた。
1917年の破滅。
ボリシェヴィキの暴力。
イパチェフ館の地下室の恐怖。
そんな歴史の悪夢など、目の前で美味そうにパンを頬張る子供たちの笑顔の前には、どこか遠い絵空事のように色褪せていたのだ。
ただ、飢えに震える人間を救いたい。
ただ、寒さに凍えて死んでいく民を一人でも減らしたい。
病に苦しむ子供たちに、温かいスープを飲ませてあげたい。
彼がこの時代において目指していた国家の姿――それは、社会主義でも共産主義でも、あるいは冷酷な帝国主義でもなかった。
かつて前世で当たり前のように享受していた、誰もが腹一杯に飯を食い、温かい風呂に入り、夜には安心して眠りにつくことができる、平和で清潔な「魂の故郷・日本」の姿そのものであった。
民主主義と福祉の知恵が築き上げた、世界で最も穏やかで安定したあの社会。
それを、この遅れた極寒の専制君主国において、自らの手で一つひとつ形にしていくこと。
それこそが、神童の仮面を被った元社畜の日本人が、この時代に対して抱く唯一にして最大の誠実さであった。
「……行こう、チヨ。ナースチャ姉さまたちが、お昼寝の時間だって待ってる」
「はい、坊ちゃま」
銀髪の従者に手を引かれながら、四歳のツァレーヴィチは、雪の舞い始めた帝都の道を宮殿へと歩き出した。
背後から広がる、満ち足りた民衆の笑い声。
かつて血の赤に染まるはずだった帝国の未来は、一人の少年の無垢な慈悲によって、どこまでも温かく、穏やかな光の道へと塗り替えられようとしていた。
◇◇◇
鉱山で粉塵に塗れる鉱夫たちに防塵布を与え、工場の労働者たちに八時間労働と温かいジャガイモをもたらしたフリストフォルが、次なる改革の切先を向けたのは――ロシアという大帝国の真の屋台骨、すなわち全人口の八割以上を占める「農民」たちの過酷な現実であった。
一八六一年、祖父アレクサンドル二世によって発布された歴史的な『農奴解放令』。
法の上では農奴という身分から解き放たれたはずの彼らであったが、その実態は、欺瞞に満ちた絶望そのものであった。
領主から土地を買い取るための天文学的な「贖買金」という名の借金を背負わされ、ミールと呼ばれる農村共同体に縛り付けられて移動の自由すら奪われ、結局は共同体の下働きとして囚われの身のまま。
さらにその頭上には、私腹を肥やす地主と、彼らと結託した領主貴族が重くのしかかっていた。
凶作の年に作物を買い叩き、不当な利息で借金を重ねさせ、収穫した小麦の大部分を税や小作料として暴力的に巻き上げる。
地方官憲に訴え出ようにも、役人は地主から賄賂を受け取り、貴族たちは中央の宮廷へと都合の悪い実情を決して上げようとはしない。
帝国の隅々で農民たちが流す血と涙は、公然の秘密でありながら、黄金に輝く冬宮のツァーリの耳には決して届かぬよう、幾重もの分厚い壁によって遮断されていたのである。
――だが、その情報統制の壁は、一人の「お忍びの皇太子」の前には無力であった。
◇◇◇
秋風が枯れ草を揺らす帝都近郊の農村のあぜ道に、襤褸布の外套をまとい、目の下まで深く頭巾を被った小さな影があった。
瓶底の丸眼鏡を押し上げ、足元の泥を踏みしめて歩く少年――世を忍ぶ仮の姿、「トリファ」ことフリストフォルである。
背後には、同じく粗末な頭巾を被り、凛とした気配を殺したチヨノーチェが影のように付き従っていた。
『坊主、見ない顔だな。……腹が減ってるなら、この茹でたカブの皮でも齧りな』
立ち寄った掘っ立て小屋の軒先で、痩せこけた老農夫が、泥のついた手を差し出してきた。
自分たちが食べる実の部分すら地主に差し押さえられ、家畜の餌同然の皮で飢えを凌いでいるというのに、見知らぬみすぼらしい子供にそれを分け与えようとするのだ。
『おじいさん、今年の小麦はどうだったの?』
トリファが尋ねると、老農夫は力なく首を振った。
『豊作だったよ。だがな……去年の不作の時の借金と、飢饉に備えるための特別税だとやらで、全部持ってかれちまった。倉に残ったのは、来年の春まで保ちそうにない藁くずの粉だけさ。……ツァーリ様は遠く、神様は高すぎるよ』
ボロボロのあばら家。
寒さに震える赤ん坊を抱いた母親の、光を失った瞳。
そして、肥沃な黒土の彼方に聳え立つ、贅の限りを尽くした領主貴族の壮麗な館――。
(……分かっちゃいたけど、胸糞が悪いな)
頭巾の奥で、フリストフォルは奥歯をギリリと噛み締めた。
貧乏旗本の三男坊・徳田新之助に扮して城下を歩き、民の苦しみを肌で知るからこそ、悪を裁き、正しき政を行える。
前世の時代劇のヒーローを気取っていたわけではない。
だが、物語に出てくる「正しき貴族」の矜持――ノブレス・オブリージュの精神をその胸に抱くフリストフォルにとって、自らの足元で蠢くこの構造的な搾取を放置することなど、矜持が許さなかった。
悪しき富を生み出す根本的な社会構造そのものを、上から力ずくで叩き壊し、是正する。
それこそが、至高の権力を持つツァレーヴィチとして、この世に生を受けた自らの果たすべき「義務」であった。
◇◇◇
宮殿へと戻ったフリストフォルは、直ちに自室へと籠もった。
彼の隣には、腕まくりをした八歳の次女タチアナが、真剣な面持ちで算盤と計算用紙の山に向き合っていた。
帝国の総人口係数。
各州の穀物生産高。
過去五十年にわたる税収の推移と、国庫の歳出データ。
二人は数夜にわたって数字を突き合わせ、冷徹極まる国家財政の「真の姿」を浮き彫りにしていった。
「……フリスチューシュカ。試算が出たわ」
タチアナがペンを置き、信じられないものを見る目で計算用紙を見つめた。
「貴方の言った通り。……我が国は、民草から税を『搾り取りすぎて』いるわ」
「やっぱりね」
フリストフォルは冷ややかに鼻を鳴らした。
書類が暴き出したのは、政治というものが古今東西において繰り返してきた、醜悪な「積層式増税」のカラクリであった。
数十年前の大飢饉の際、「急場を凌ぐため」として引き上げられた臨時増税。
戦争の軍費を賄うためとして上乗せされた特別税。
それらは、凶作が去り、戦争が終わり、豊作の年が訪れてもなお、「将来の飢饉への備え」というもっともらしい口実をつけられ、何一つとして引き下げられることなく固定化され続けていたのだ。
税金とは、上げるのは容易く、下げるのは至難の業。
その悪弊が何層にも積み重なった結果、ロシアの農民たちは、国家の維持に必要な適正水準を遥かに超えた暴利の重税を、何十年も背負わされ続けていたのである。
「姉さま、農民の税負担を一律で『三分の一』に引き下げても、国は回る?」
フリストフォルの問いに、八歳の首席秘書官は力強く頷いた。
「ええ、十分に。ロシアの広大な版図と総人口を考えれば、無駄な宮廷費と使途不明の官僚特権を整理するだけで、国庫の収支は完全に黒字を維持できる。将来、国全体が機械化され、大規模なインフラ投資が必要になれば増税を検討すべき時が来るでしょうけれど……現在の生産力において、この税率はただの緩慢な虐殺よ」
「よし。なら、やることは決まったね」
フリストフォルは立ち上がった。
4歳の少年大公の青い瞳に、旧態依然とした貴族社会の喉首をへし折るための、冷厳な決意の炎が宿っていた。
◇◇◇
数日後、冬宮の大会議室において開かれた御前会議の空気は、日露戦争の開戦前を遥かに凌ぐ殺気に満ちていた。
皇帝ニコライ二世を前に、居並ぶ大公たちや領主貴族、大地主の代表者たちが、顔を真っ赤にして怒号を上げていたのである。
「――正気の沙汰ではございません!」
「農民の税を一律で三分の一に引き下げ、あまつさえ耕作地に農民自身の私的所有権を認めさせるなど……! それでは我ら貴族の生活が破綻いたします!」
「土地は我が一族が代々受け継いできた財産! 泥にまみれた無知蒙昧な農奴どもに土地を分け与えるなど、専制君主制の根幹を揺るがす暴挙にございますぞ!」
広間を揺るがす貴族たちの猛反発。
彼らにとって、農民の減税と土地の所有権付与は、己の贅沢な生活と特権を根こそぎ奪い取られる死刑宣告に等しかったのだ。
だが――巨大な作戦机の前に設えられた高い椅子の上に、4歳のフリストフォルがすっくと立ち上がった瞬間、室内の怒号はピシリと凍りついた。
その小さな身体から放たれる凄まじい威圧感は、日露戦争を勝利に導いた「軍神」そのものであった。
「みんな、随分とやかましいね」
フリストフォルの澄んだ声が、静まり返った広間に冷ややかに響き渡る。
「生活が破綻する、だって? 今まで民草の生き血を啜って、贅沢三昧で暮らしてきたツケが回ってきただけの話じゃないか」
「な……っ!?」
貴族たちが息を呑むなか、フリストフォルは容赦なく言葉の刃を突き立てた。
「大帝ロシアの大地は、すべてツァーリのものだ。……けれどね、その凍てつく大地を鍬で耕し、石を拾い、汗と涙を流して肥沃な畑へと切り拓いてきたのは、一体誰だい? お前たち貴族か? 違うだろう。そこに泥まみれで生きている農民たちだ!」
幼き指先が、居並ぶ貴族たちを真っ直ぐに指弾する。
「大地を拓いた者が、その土地の権利を持つ。汗を流した者が、その収穫を口にする。それは人間として、あまりにも当たり前の権利じゃないか! それを奪い、倉に閉じ込め、飢えさせておいて、何が貴族の生活だ!」
「殿下! 我ら貴族がいなくては、この広大な帝国を誰が統治するというのですか!」
老貴族の一人が必死に抗弁した。
だが、フリストフォルはその言葉を、嘲笑うかのように一刀両断した。
「己の身を切ってでも、民草の生活を守り、その命を慈しむ。それこそが、高貴なる者に課せられた唯一の義務――『ノブレス・オブリージュ』だよ! 我がロマノフ家がその身を削って減税を認めているというのに、己の贅沢が減るのを惜しんで文句を垂れる者など、大帝ロシアの貴族に非ず! ただの『寄生虫』だ!!」
広間に雷鳴が落ちたかのような衝撃が走った。
「そしてね……寄生虫ですら、宿主を殺さないように努めるのが最低限の義務なんだよ。宿主が死ねば、自分も死ぬんだからね。……だというのに、民草を飢えさせ、凍えさせ、死ぬまで搾り取ろうとするお前たちは何だ? 最早、寄生虫ですらない」
フリストフォルは冷酷無比な瞳で、居並ぶ特権階級を見据え、吐き捨てるように言い放った。
「お前たちはただ、ロシアという生きた肉を貪り食い、骨までしゃぶり尽くそうとする――卑しい『ハイエナ』そのものだ!!」
会議室は、水を打ったような完全な静寂に包まれた。
誰一人として、反論の声を上げることはできなかった。
四歳の神童が放った言葉の裏には、タチアナと共に導き出した完璧な財政データと、何より自らの足で泥を踏みしめて見てきた「現場の真実」の重みが宿っていたからだ。
玉座に座る父帝ニコライ二世が、深く、厳かに頷いた。
「……フリスチューシュカの申す通りである」
皇帝の重々しい声が、帝国の未来を決定づけた。
「直ちに皇帝勅令を発布せよ。帝国全土における農民の租税を一律で三分の一へと減免する。そして、耕作地に農民自身の私的所有権を認め、土地の登記を進めよ。……これに背く者は、領地を没収し、帝室の敵とみなす」
「「は、ははぁっ……!!」」
貴族たちは青ざめ、雪崩を打つように絨毯へと平伏した。
◇◇◇
数日後、帝国の隅々へと布告された皇帝勅令は、ロシアの大地に未曾有の歓喜の嵐を巻き起こした。
税が三分の一に減らされ、そして何より――自分が耕してきた大地が、名実ともに「自分のもの」になったのだ。
泥にまみれた農夫たちが、畑に突っ伏して黒土を抱きしめ、声を上げて泣き叫んだ。
『ツァーリ万歳! 慈悲深きツァレーヴィチ万歳!!』
『神よ、我が子らのために、ついに大地が下された……!』
かつて、共産主義者たちが「土地と自由」というスローガンを掲げて農民を扇動しようとしていたその最大の武器は、いまや皇室自らの手によって、完全に農民たちの手のひらへと与えられていた。
土地を手に入れた農民たちは、かつてない情熱をもって畑を耕し始め、ロシアの大地は爆発的な生産性の向上へと向かって動き出したのである。
「……ふぅ。これで、おじいさんたちもパンをお腹いっぱい食べられるね」
アレクサンドロフスキー宮殿のテラスで、温かい緑茶をすすりながら、フリストフォルは満足げに息を吐いた。
「ええ。貴方は本当に、素晴らしいお仕事をしたわ、フリスチューシュカ」
隣で誇らしげに微笑むのは、書類の山を片付け終えたタチアナであった。
彼女は弟の小さな身体を優しく抱き寄せると、その額に慈愛に満ちた口づけを落とした。
ハイエナどもを叩き潰し、民に大地を返し、帝国の未来をさらに強固なものにした四歳の少年大公。
その小さな背中には、愛する家族と、そして大地に生きる無数の民草の祈りが、温かな光となって降り注いでいた。
◇◇◇
歴史上、いかなる時代においても――急激すぎる改革は、必ずや旧体制の激しい軋みと反発を巻き起こす。
鉱夫や工夫たちの労働環境を是正し、農民の税を一律で三分の一に引き下げ、あまつさえ先祖伝来の領地から農民に私的所有権を与えて自立させる。
その一連の施策は、民草にとっては神の慈悲そのものであったが、これまで民の生き血を啜って私腹を肥やしてきた貴族や大地主たちにとっては、己の喉首を真綿で締め上げられるに等しい暴挙であった。
帝都サンクトペテルブルクのサロンや貴族館では、連夜のように不穏な密議が交わされていた。
彼らが、唯一絶対の専制君主であるはずのロマノフ皇室に対し、公然と不満を鳴らし、反旗を翻すような真似ができたのには、明確な理由があった。
第一に、皇帝ニコライ二世という男が、これまで自ら強力なリーダーシップを発揮して政治を牽引するタイプの君主ではなかったこと。
日露戦争の勝利も、国内の大改革も、すべては四歳を迎えたばかりの神童皇子フリストフォルの主導によるものであり、ニコライ二世はその方針をただ追認しているに過ぎない――貴族たちの目には、皇帝が「まだ乳臭い幼児の傀儡」に成り下がっていると映っていたのだ。
そして第二に、彼らの根底にある底知れぬ傲慢さであった。
(いくら皇室とて、我が一族を切れるはずがない)
始帝ピョートル大帝の時代、あるいはそれ以前のリューリク朝の血を引くボヤール(大貴族)の末裔たち。
数百年もの長きにわたり帝国の屋台骨を支えてきたという自負を持つ彼らは、小名や地主たちを抱き込み、ピョートル大帝以来の名門大貴族を総代として押し立てた。
彼らの狙いは明白であった。
皇帝への「願書提出」や「上告」という合法的な手続きにカマをかけ、連名で特例措置を要求することで、皇室に揺さぶりをかける。
『古くからの名門貴族の特権と領地支配だけは、例外として従来通り認めよ』
そう迫ることで、四歳の子供が描いた改革の青写真に風穴を開け、なし崩しに既得権益を守り抜こうと画策したのである。
◇◇◇
冬宮、白亜の大謁見の間。
豪奢な毛皮と金糸の正装に身を包んだ数十名の大貴族たちが、ふてぶてしい笑みを浮かべながら列をなしていた。
玉座に座るニコライ二世の前に進み出たのは、ピョートル大帝の時代から広大な領地を誇る名門、ヴォロンツォフ公爵であった。
「――陛下。此度の農地勅令ならびに減税の儀、下々の農民どもには過分な慈悲と存じますが、我ら帝国の屋台骨たる貴族にとりましては、領地経営の破綻を招く死刑宣告にございます」
公爵は恭しく頭を下げながらも、その声音には隠しようもない尊大さが滲み出ていた。
「願書に名を連ねた五十余家の門閥貴族に対し、従来の領地管理権ならびに免税特権を『特例』として認めていただきたく存じます。……さもなくば、地方の治安維持も、穀物の集荷も、立ち行かなくなりますぞ」
暗に「要求を呑まねば、地方から帝国を麻痺させてやる」という、脅迫に等しい言上であった。
ニコライ二世が眉間に深い皺を刻み、言葉に詰まるのを見た貴族たちは、内心で勝ち誇ったように口元を歪めた。
やはり、皇帝に我ら大貴族を切る度胸などあるはずがない。
所詮は四歳の赤ん坊の浅知恵。現実の国家運営の前に、皇室は膝を屈するのだ――。
だが。
その薄汚い打算が広間に満ちた、まさにその瞬間であった。
玉座の脇、一段高い場所に設けられた特等席から、小さな人影がすっと立ち上がった。
四歳のツァレーヴィチ、フリストフォルであった。
冷たい美貌の従者チヨノーチェが、音もなく一歩下がる。
フリストフォルは無言のまま、腰に佩びていた儀礼用のサーベルの鞘へと小さな手を伸ばした。
シャリン――。
静まり返った広間に、抜刀の澄んだ金属音が鳴り響いた。
白銀の刀身が冬の光を反射して煌めいた次の瞬間、四歳の少年大公は、両手で握ったサーベルを大理石の床めがけて力任せに突き立てたのである。
ドガァンッ!!
広間の空気を破裂させるような、けたたましい重低音が轟いた。
切っ先は大理石の床板に深々とめり込み、その周囲には蜘蛛の巣のような激しい亀裂がピキピキと音を立てて放射状に広がっていく。
突き刺さったサーベルは、まるで神話の選定の剣のように垂直に聳え立った。
フリストフォルはその柄頭の上に両手を重ね、顎を乗せるようにして、眼下に並ぶ大貴族たちを冷酷無比な青い双眸で見下ろした。
その一撃は、罪人に下される審判の木槌の如く、広間の空気を一瞬にして絶対零度へと凍りつかせた。
そして何より――それは、大戦略家の仮面の下に押し殺されていた、ツァレーヴィチの堪忍袋の緒が完全にブツンと切れた音であった。
「……古くからの一族の権利、だと?」
幼子の声とは思えない、低く、地這うような冷徹な響きが広間を支配した。
「ツァーリより任された領地の管理を、随分と勘違いしているのではないか? ……卿らは、ツァーリの『小間使い』に過ぎんのだぞ」
ヴォロンツォフ公爵の顔から、血の気が引いた。
「な……小間使い、とは……!」
「黙れ」
フリストフォルの眼光が、公爵の言葉を一刀両断した。
「卿らが先祖代々受け継いできたのは、土地の『管理権』であって『所有権』ではない。大帝ロシアの大地は、すべてツァーリの物だ。そのツァーリの財産をいけしゃあしゃあと己の私物と宣い、その土地から生まれる民草――すなわちツァーリの子である民を、家畜同然に扱い虐げて私腹を肥やしているとまで、この私の口から言わねば理解できぬと見える」
フリストフォルの指先が、公爵のすぐ後ろに控えていた大地主の貴族へと向けられた。
「そこの卿。……貴公が地主と結託し、収穫高の帳簿を改竄して過少申告し、裏で農民から作物を巻き上げて私服を肥やしていることは、我が直々の調査で完全に調べがついているぞ」
「ひっ……!?」
貴族が悲鳴を漏らし、泡を食って後退る。
襤褸を纏い、頭巾を被った「トリファ」として、自らの足で泥を踏みしめて集めてきた動かぬ証拠の数々。
机上の空論しか持たぬ貴族たちにとって、それは逃れようのない死刑宣告であった。
「我が一族に古くから仕えてきた忠義に免じ、父上や偉大なる先祖のツァーリたちに顔を立てて、今日まで目を瞑ってやっていたものを……是非もなし。代理人風情が、己の腐った権益を脅かされた程度で皇室にカマをかけ、脅しをかけてくるとはな」
フリストフォルはサーベルの柄に体重を預けたまま、氷のように冷たい笑みを口元に浮かべた。
「そのような輩は、この大帝ロシアには一切不要だ。……潔く腹を切るか、壁の前に立って銃殺隊に蜂の巣にされるか、サハリンへ赴くか。好きなものを今ここで選ばせてやろう」
「サ、サハリン……!?」
貴族たちの間に、絶叫に近い戦慄が走った。
◇◇◇
前世の記憶を持つフリストフォルは、後世のソ連においてスターリンが引き起こした「大テロル」の歴史を知っていた。
反逆者たちを即座に撃ち殺す以前、彼らはシベリアの強制収容所へと送られ、過酷な労働力として使い潰されていた。
だが――フリストフォルからすれば、本土の奥深くにあるシベリアへ流刑にするなど、愚の骨頂であった。
シベリア送りなどという中途半端な処分を下せば、広大な大地の中で現地の不満分子や反乱組織と結託し、いずれ帝国の屋台骨を揺るがす「第二の反逆の芽」を育てることになりかねない。
(……反感を育てれば、それで殺される)
前世で見たアニメの中で、巨大な帝国が反政府勢力によって内部から崩壊していったあの台詞を、フリストフォルは骨の髄まで理解していた。
敵対する意志を持つ者を、本土に残しておくこと自体が致命的なリスクなのだ。
ならば、どうするか。
前世の日本の江戸時代において、幕府が危険人物や重罪人を隔離するために用いた究極の手段――「佐渡島への島流し」である。
海によって本土から完全に隔絶され、逃げ場のない極寒の絶海。
日露戦争において、フリストフォルの大戦略によって南半分を日本に奪われることなく、全域をロシア領として死守したあの島――「サハリン(樺太)」こそが、彼ら既得権益の亡者たちを放り込むための、最高にして唯一の流刑地であった。
「貴様らが居ずとも、国は回る。……私が、そう回させる」
フリストフォルの声が、雷鳴のように広間を圧巻した。
「このロシア本土から叩き出され、オホーツクの冷たい海に沈められないだけ、有難く思うがいい。……サハリンの凍土で、自らの手で鍬を握り、自らの流した汗でパンを食うがいい。お前たちが家畜同然に扱ってきた農民たちが、どれほどの苦痛に耐えてきたかを、その骨の髄まで思い出させてやる」
「へ、陛下! お助けを! このような幼児の狂気に……!」
公爵が玉座のニコライ二世へと縋り付こうとした。
だが――皇帝ニコライ二世は、立ち上がると、冷徹な眼差しで貴族たちを見下ろした。
日露戦争を勝ち抜き、長年の偏頭痛から解放された皇帝の瞳には、かつての優柔不断な影など微塵も残っていなかった。
「……近衛兵。連れて行け」
皇帝の冷酷な一言が下された瞬間、広間の扉が左右へ跳ね飛ばされた。
雪崩れ込んできたのは、サーベルと小銃を構えた屈強なコサック近衛兵たちであった。
「願書に名を連ねた貴族の領地および全財産を直ちに帝室直轄として没収する。当事者ならびにその一族は、明朝のシベリア鉄道特別便にて極東へ移送。サハリンの開拓使の監視下に置け」
「「は、ははぁっ!!」」
「放せ! 私はヴォロンツォフ公爵だぞ! ピョートル大帝の――ぎゃあっ!」
喚き散らす公爵を、コサック兵が無慈悲に銃床で殴り倒し、絨毯の上を引きずっていく。
先ほどまで尊大に胸を張っていた数十名の大貴族たちは、ある者は腰を抜かしてその場で失禁し、ある者は涙を流して許しを乞いながら、次々と広間から引きずり出されていった。
残されたのは、大理石の床に深々と突き刺さった一本のサーベル。
そして、その柄の上に手を重ねたまま、静かに息を整える四歳のツァレーヴィチの姿だけであった。
「……ふぅ。手が痛くなっちゃった」
大貴族たちが一掃された広間で、フリストフォルはふっと息を吐き、突き刺さっていたサーベルを小さな両手でヨイショと引き抜いた。
先ほどまでの軍神の如き冷酷な威圧感は一瞬で消え去り、ただの疲れた幼児の表情へと戻る。
駆け寄ってきたチヨノーチェが、音もなく主人の前に膝をつき、絹のハンカチでサーベルの刀身を拭って鞘へと納めた。
「お見事なご裁決でございました、坊ちゃま。これで、農民たちを縛る悪しき鎖は完全に断ち切られましたね」
「うん。……あいつら、サハリンでちゃんとジャガイモを育ててくれるといいけどね」
フリストフォルは肩を竦め、苦笑いを浮かべた。
◇◇◇
白大理石が敷き詰められたアレクサンドロフスキー宮殿の大浴室には、ゆらゆらと立ち上る白い湯気とともに、爽やかな柚子と柑橘の芳香が満ちていた。
たゆたう湯面のなかで、波紋が静かに広がる。
「……ふぅ。やはり、お前が作らせたこの湯は、身体の芯まで染み渡るな」
大きな浴槽の端に背中を預け、心地よさそうに目を細めていたのは、ロシア帝国の皇帝ニコライ二世であった。
普段はアナスタシアやマリアといった姉たち、あるいは専属侍女のチヨノーチェと入浴することが日課となっているフリストフォルが、今日に限って「パパと一緒にお風呂に入りたい」と、執務室の袖を引いて恥ずかしそうにねだってきたのだ。
政務に追われる父帝にとって、息子と二人きりで湯船に浸かるなど、赤子の頃以来のことであった。
仕事を放り出して飛んできたニコライ二世は、内心では飛び上がるほど歓喜していたのである。
だが――。
ニコライ二世はふと、隣で静かに湯に浸かっている我が子の様子に違和感を覚えた。
いつもならば「いい匂いだね」「極楽、極楽」などと暢気に鼻歌を歌っているはずのフリストフォルが、浴槽の縁に小さな手をかけたまま、胸元まで湯に沈み、じっと押し黙っているのだ。
そして――その青い瞳が、怯える小鹿のように、不安げな光を宿して自らの顔を見つめ上げていた。
(……フリスチューシュカ?)
ニコライ二世の胸を、かすかな痛みが貫いた。
その小さな瞳の奥に揺らめく感情を、父として見誤るはずがなかった。
怯え。
躊躇い。
そして――「己の父親に嫌われやしないか」という、哀しいほどの不安であった。
◇◇◇
湯気で滲む視界の向こうで、フリストフォルは湯の中で自らの小さな指先をぎゅっと握りしめていた。
頭を去来していたのは、冬宮の大広間で自らが引き起こした修羅場の光景であった。
大理石の床に力任せにサーベルを突き立て、クモの巣状に床板を叩き割り、何百年も帝室に仕えてきた大貴族たちを「ハイエナ」「寄生虫」と罵倒し、絶海のサハリンへと容赦なく流刑に処した己の姿――。
前世の歴史知識と、絶対君主としての権力を振るった「合理的かつ冷徹な外科手術」であったことは間違いない。
だが、あの時の自分は、客観的に見てどう映っていただろうか。
(……怖かったよな、あんなの)
胸の奥が、冷たい水に沈められたように痛んだ。
前世の自分は、ただのしがないサラリーマンに過ぎなかったのだ。
誰かを銃殺刑に処したこともなければ、島流しにしたことすらない。
生き残るため、愛する家族をイパチェフ館の虐殺から救うため、そして泥にまみれた民草を守るため――必死になって「冷酷無比な大戦略家」の仮面を被り、虚勢を張って大人たちを威圧してきた。
だが、冷静になってみれば、あれは四歳の幼児の振る舞いなどでは断じてなかった。
父ニコライ二世から見れば、どう映っただろう。
昨日まで甘いココアをねだり、姉の膝の上で微睡んでいた最愛の息子が、突如として血塗られた暴君のように冷酷な目を光らせ、先祖代々の家臣を虫けらのように踏み潰したのだ。
『お前は一体、何者だ』
『余の息子の中に巣食う、冷酷な化け物め』
そうやって恐怖を抱かれ、気味悪がられ、拒絶されてしまったのではないか。
その疑念が、湯の中にいても心臓を凍りつかせるほどに恐ろしくてたまらなかった。
前世の孤独を知るフリストフォルにとって、家族から愛を失うことこそが、死ぬことよりも遥かに恐ろしい絶望であったのだ。
「……パパ」
湯気の中で、フリストフォルの唇から、掠れたような小さな声が零れ落ちた。
「……僕、嫌われちゃった……?」
「何?」
ニコライ二世が目を見張る。
フリストフォルは湯の中に顔を半分沈め、涙で潤んだ瞳を伏せながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「さっきの大広間で……僕、あんな怖いこと言って……。床を壊して、大砲を撃つみたいに怒鳴って……貴族のおじさんたちをサハリンに追っ払っちゃった。……あんなの、普通の子供じゃないよね。パパの言うことも聞かないで、勝手に怖いことして……僕のこと、化け物だって、嫌いになっちゃった……?」
消え入りそうな、本物の「四歳の子供」の弱音であった。
大戦略ゲームの神童でもなく、空軍大臣でもなく、ただ父親の温もりを失うことを恐れて震える、あまりにも儚く、小さな命。
その姿を目にした瞬間――ニコライ二世の胸の奥底で、何かが激しく音を立てて決壊した。
(ああ……神よ。余は何という愚か者だったのだ……)
皇帝は、己の鈍感さを激しく恥じた。
日露戦争の勝利も、国を富ませる大改革も、すべては我が子の神がかり的な英知によるものだと、どこかで当たり前のように受け止めていた。
だが、その奇跡のような知恵の裏で、この小さな身体がどれほどの恐怖に耐え、どれほどの孤独を抱え、どれほど必死に背伸びをして父や家族を守ろうとしていたのか。
その重圧に、どうして今まで気づいてやれなかったのか。
ざばりと、湯をかき分ける音が響いた。
次の瞬間、フリストフォルの小さな身体は、湯気の中で逞しい両腕によって力強く、そして温かく抱き上げられていた。
「わ……パパ……?」
ニコライ二世は、湯船の中で息子を自らの胸元へと抱き寄せ、その華奢な背中に大きな掌を当てて、ぎゅっと抱きしめ直した。
心臓の鼓動が、肌を通じてトクトクと直接伝わってくる。
「……フリスチューシュカ。お前が化け物などであるはずがないだろう」
耳元で響いた父の声は、微かに震え、そしてこれ以上ないほどの慈愛に満ち溢れていた。
「余が、お前を嫌うはずがない。……嫌うどころか、余はお前を、心から誇りに思っているのだぞ」
「……ほ、誇りに……?」
フリストフォルがおずおずと顔を上げると、ニコライ二世は濡れた顔をくしゃくしゃにして、温かく微笑んでいた。
その瞳には、恐怖など欠片もなかった。
あるのは、我が子への無償の愛と、父親としての深い誇りだけであった。
「そうだとも。お前が大広間で言ったことは、すべて正しかった。……民の血を吸い、帝室を侮り、国を腐らせていたハイエナどもを前にして、余は優柔不断で、何もできずにいた。それを、お前がその小さな身体で前に立ち、我が一族の名誉と民の命を守ってくれたのではないか」
ニコライ二世の大きな手が、フリストフォルの濡れた金髪を、何度も何度も優しく撫でた。
「サーベルを床に突き立てたお前の姿は……誰よりも気高く、美しかったよ。お前はただの子供ではない。……大帝ロシアの民を心から愛する、真のツァレーヴィチだ」
皇帝は額を息子の額にそっと重ね、深く息を吐いた。
「だがな、フリスチューシュカ。……お前にそんな役回りを押し付けてしまったのは、すべて余の不甲斐なさのせいだ。お前にあんな恐ろしい顔をさせ、無理をさせていたのかと思うと……父親として、申し訳なくて胸が張り裂けそうだよ」
「パパ……」
「お前がどれほど恐ろしい決断を下そうと、どれほど世界中から恐れられようと……余にとって、お前は世界で一番愛しい、余の自慢の息子だ。それだけは、天が落ちようと絶対に変わらない。……お前を嫌いになることなど、この命が尽きても絶対にあり得んよ」
その濁りのない、絶対的な肯定の言葉。
それを耳にした瞬間――フリストフォルの胸の奥で凍りついていた何かが、熱い湯の中に溶け出すように、崩れ去っていった。
化け物として恐れられることもない。
突き放されることもない。
自分は、この優しい父親に愛されているのだという、揺るぎない確信。
「……う……ぅ……パパぁ……」
フリストフォルの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出た。
前世の大人のプライドも、大戦略家の仮面も、すべてが湯気の中に溶けて消えていく。
四歳の少年は、父親の広い胸に小さな顔を力任せに擦り付け、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
ニコライ二世は何も言わず、ただ湯の中で我が子の背中を優しく、優しくさすり続けた。
立ち上る柚子の香りと、熱い湯の温もり。
そして、父親の確かな体温。
世界を震撼させた幼き軍神は、この湯煙の立ち込める小さな聖域の中で、ようやくすべての重荷を下ろし、ただ父親に愛される無力で幸福な「幼子」に戻ることができたのであった。
◇◇◇
湯気の立ち込める浴室で、我が子の小さな身体を抱きしめ、その大粒の涙を胸に受け止めたあの日。
皇帝ニコライ二世の魂の奥底で、何かが音を立てて激変していた。
(……恥ずかしい。余は、何と不甲斐ない父親であったのか……!)
深夜、子供部屋で安らかな寝息を立てるフリストフォルの愛らしい寝顔を見つめながら、ニコライ二世は自らの拳を白くなるほど強く握りしめていた。
四歳の幼子に、冬宮の大広間でサーベルを抜かせたのだ。
何百年間も宮廷に巣食ってきた百戦錬磨の大貴族たちを前に、小さな身体で立ち塞がり、大理石を叩き割るほどの覚悟で汚れ役を引き受けさせた。
そしてその結果、あの子に「パパに嫌われたのではないか」と怯えさせ、涙を流させてしまったのである。
ツァーリとしてではない。
一人の男として、一人の父親として、これ以上の恥辱と痛恨の極みがあろうか。
ロシア帝国の歴史において、歴代の皇帝たちの間には一つの暗黙の「ジンクス」が存在していた。
――近代化を進め、急進的な改革を断行したツァーリは、必ず非業の死を遂げる。
西欧化を急ぎすぎたピョートル三世は宮廷クーデターで廃位・暗殺され、独自の規律を押し付けたパーヴェル一世は寝所で撲殺された。
そして何より、農奴解放という偉大なる大改革を成し遂げた愛すべき祖父、アレクサンドル二世の最期だ。
急激な変化に反発する過激派の投げ込んだ爆弾によって、冬宮のすぐ傍らで下半身を吹き飛ばされ、血の海の中で息絶えたあの日の惨劇を、当時13歳だったニコライは鮮烈に記憶していた。
ゆえに、ロシアの皇帝たちは保守的にならざるを得なかったのだ。
急激な改革は反発を生み、暗殺を招く。だからこそ、父アレクサンドル三世も、そして即位当初のニコライ自身も、旧体制のバランスを崩さぬよう、波風を立てぬ「現状維持」へと逃げ込んでいたのである。
だが――今、その冷酷な歴史の鉄則に、たった四歳の息子が真っ向から立ち向かっているのだ。
国のため、泥にまみれた民草のために汗水を流し、骨身を惜しまず、未来へのレールを敷くフリストフォル。
その子がやがて座るはずの神聖なる玉座の周りを、あの子自身が小さな手で必死に掃き清めているというのに。
父親である自分が、歴代のツァーリたちが溜め込んできた既得権益と腐敗という「ゴミの山」をそのまま放置し、息子へと丸投げしていいはずがない。
(余の代で、すべて片付けるのだ……!)
ニコライ二世の青い瞳に、かつてない猛烈な決意の炎が宿った。
暗殺が何だ。貴族の反発が何だ。
息子にこの広大な帝国を譲り渡す前に、溜まったゴミ山をこの手で綺麗さっぱり掃除しておかねば、偉大なる先祖たちにも、そして何より愛するフリスチューシュカに顔向けができないではないか。
泥を被るのも、血を流すのも、悪名を背負うのも、すべて父親であるこの余の役目だ。
一念発起し、完全に心を入れ替えた皇帝の行動力は――愛する息子の影響をこれ以上なく色濃く受け継いだ、極めて斜め上の方向へと炸裂することとなった。
◇◇◇
「……陛下? そのお姿は、一体……」
翌朝、私室に朝の紅茶を運んできた侍従武官は、目の前の光景にトレイを取り落としそうになった。
執務机の前に立っていたのは、いつもの豪奢な大元帥の軍服を着た皇帝ではなかった。
仕立ての悪い、ところどころ羊毛のほつれた粗末な平民用のコート。
使い古されて色の褪せた、泥染めの革靴。
そして、手入れされた端正な顎髭をあえて少し乱雑に撫で付け、目深に被ったくたびれた毛皮帽。
そこには、どこからどう見ても、北方の森林地帯から買い付けにやってきた「しがない中年の材木商人」の姿があった。
「うむ。今日の午前中の政務はすべて午後に回せ。タチアナにもそのように伝えておけ」
低く、しかし妙に活気に満ちた声で命じるニコライ二世に、武官は引きつった笑いを浮かべた。
「へ、陛下……そのお召し物で、どちらへ?」
「決まっているだろう。城下へ出るのだ」
皇帝はこともなげに言い放った。
「フリスチューシュカが、なぜあれほど的確に民草の苦しみを救えるのか、余はようやく理解した。あの子は、自らの足で泥を踏みしめ、民の声を直接聞いていたのだ。ならば、父親である余が机の上で書類だけを眺めていて何ができる。……余も行く。民の真実の姿を見に行くのだ」
「し、しかし警護は……!」
「騒ぎ立てるな。大勢でぞろぞろ歩いていては、民が口を閉ざしてしまうではないか。……よいか、街の中では余を陛下と呼ぶな。余の名は『ニコフ』だ。しがない材木商人の、ニコフおじさんだ!」
そう胸を張って宣言すると、ニコライ二世――改め「ニコフおじさん」は、青ざめる近衛兵たちを尻目に、軽やかな足取りで宮殿の隠し通路へと消えていった。
息子が「トリファ」として街を歩くなら、父親は「ニコフおじさん」として歩く。
完全に日本の時代劇――将軍様のお忍び巡幸の血族感染であった。
◇◇◇
冷たい冬風が吹き抜ける帝都サンクトペテルブルクの大通り。
毛皮帽を深く被り、外套の襟を立てて歩くニコフおじさんは、数年ぶり――いや、皇太子時代以来となる下町の喧騒に、目を白黒とさせていた。
「おいおい、材木の旦那! 邪魔だ邪魔だ、ぶつかると火傷するぜ!」
威勢のいい声とともに、揚げ油の香ばしい匂いを撒き散らしながら荷車を押す男が通り過ぎていく。
見渡せば、街の風景はニコライ二世の記憶にある「陰鬱で寒々しい帝都」とはまるで違っていた。
屋台の店先には、息子が考案した安価な混合マーガリンをたっぷり塗った黒パンにかぶりつく子供たちの笑顔がある。
広場の一角にある国営大銭湯の煙突からは白い湯気が立ち上り、さっぱりとした顔の労働者たちが、熱々のフライドポテトを頬張りながら談笑している。
『――Moskau! Moskau! ヘイ! ヘイ!』
どこかの酒場から、空き缶とスプーンを打ち鳴らす陽気なリズムと大合唱が響いてくる。
行き交う人々の顔には、かつて漂っていた飢えの影も、死への絶望もなかった。
そこにあるのは、温かい飯を食い、温かい湯に入り、明日への希望を持って生きる、生きた人間たちの活力そのものであった。
(……あの子は、これほどの奇跡を成し遂げていたのか)
ニコフおじさんは、外套のポケットの中で拳を震わせ、熱いものが込み上げてくるのを必死に堪えた。
四歳の我が子が、命を削るようにしてこの街に灯した温かな光。
その一方で、裏通りに入れば、地主や悪徳商人から不当な借金を背負わされ、官僚の賄賂に泣かされている人々の生々しい嘆き声も、確かに耳に飛び込んできた。
『お役人に訴えても無駄さ。あの連中、地主の旦那から金を貰ってグルなんだから』
『ツァレーヴィチ様が減税の勅令を出してくださったのに、地方の代官どもは「帝都だけの話だ」と嘯いて、まだ元の税を取ろうとしてるんだぜ』
物陰でその声を盗み聞きしたニコフおじさんの瞳が、スッと冷酷な絶対君主の光へと戻った。
(……やはりな。フリスチューシュカの慈悲を現場で握り潰し、私腹を肥やし続ける虫けらどもが、まだこれほど蠢いていたか)
息子が敷いた美しい絨毯の上で、泥靴のまま踏みにじっている奴らがいる。
許せるはずがなかった。
「……待っていろ、民たちよ」
ニコフおじさんは低く呟いた。
「お前たちを苦しめる腐った官僚も、強欲な代官も……この余が、一匹残らず叩き潰してやる。息子の手を汚させるものか」
◇◇◇
その日の夕暮れ。
帝都の視察を終え、裏口からコソコソとアレクサンドロフスキー宮殿へと戻ってきたニコフおじさんは、奥の静かな回廊で、予期せぬ「先客」と鉢合わせることとなった。
前方から歩いてきたのは――。
煤けたつぎはぎだらけの上着を着て、顔の半分ほどもある瓶底伊達丸眼鏡をかけ、手には新聞紙に包まれた熱々の天ぷらを下げた、4歳の少年。
そして、その背後で町娘風の格好をした、銀髪のチヨノーチェであった。
ピタリ、とお互いの足が止まった。
襤褸を着たくたびれた髭面の男(皇帝陛下)。
襤褸を着た瓶底眼鏡のチビ(皇太子殿下)。
静まり返る宮殿の廊下で、二つの異様な姿が真正面から見つめ合う。
「…………」
「…………」
長い沈黙ののち、フリストフォルが眼鏡の端をクイと上げ、呆然とした声で呟いた。
「……パパ? ……何やってるの、その格好?」
「うっ……!?」
ニコライ二世は息を詰まらせ、激しく動揺しながら毛皮帽を押さえた。
「ち、違うぞフリスチューシュカ! パパではない! 余は……いや、俺は材木商人のニコフおじさんだ!」
「いや、どう見てもパパでしょ……髭もそのままだし……」
フリストフォルが盛大に脱力して肩を落とした。
背後では、チヨノーチェが口元に手を当て、肩をプルプルと震わせて必死に笑いを堪えている。
「ふ、フリスチューシュカこそ、その瓶底眼鏡は一体何なのだ……!?」
「僕? 僕は通りすがりのトリファだよ」
「トリファ……!?」
父と子が、お互いに襤褸をまとった姿で顔を見合わせるという、ロシア宮廷史上前代未聞のシュールな光景。
だが、フリストフォルはふと、父の着ている粗末な外套の裾に、下町の冷たい泥がびっしりと跳ねているのを見逃さなかった。
(……パパ。本当に、僕のために街へ行ってくれたんだ……)
不器用で、親バカで、けれど自分を救うために必死で立ち上がろうとしてくれた父親の温もり。
フリストフォルの口元に、自然と柔らかな笑みがこぼれた。
「……パパ。天ぷら、買ってきたんだ。まだ温かいよ」
「……天ぷら?」
「うん。お魚とお芋を油で揚げたやつ。……美味しいよ。一緒に食べよっか、ニコフおじさん」
そう言って差し出された包み紙を、ニコライ二世は両手で受け取った。
その瞳に、じわりと温かな涙が滲む。
「……ああ。食べよう、トリファ」
手をつなぎ、並んで宮殿の奥へと歩き出す、二人の変装した君主たち。
息子を守るために覚醒した皇帝と、家族の平穏を願う幼き神童。
二人の怪童と親バカが手を取り合った時、ロシア帝国を長年蝕み続けてきた暗雲は、容赦なき鉄槌によって、いよいよ粉々に打ち砕かれようとしていた。
◇◇◇
皇帝ニコライ二世と、皇太子フリストフォル。
大帝ロシアを動かす「心臓」と「頭脳」の二人が、揃いも揃って襤褸をまとい、下町へと雲隠れを果たしていたその頃――。
宮殿の奥底にある最高執務室は、機能不全に陥るどころか、驚くほど冷徹に、そして完璧な速度でその歯車を回転させ続けていた。
そもそも、君主や皇太子が不在というだけで国家が麻痺するような軟な統治システムなど、前世の近代国家を知るフリストフォルが構築するはずもなかった。
古今東西、王が前線へ出征し、王子が国外漫遊や儀礼に赴くなど日常茶飯事である。
各省庁の優秀な文官や大臣たちが定型業務を滞りなく代行し、現場を回す官僚機構のレールは、すでに強固に敷かれていたのだ。
そして何より――。
ツァーリとツァレーヴィチが揃って不在であっても、国家の最高意思決定を下し、皇帝の認可印を直接押し込める「鉄の官房長官」が執務室の玉座の前に陣取っていた。
それが、いまや帝国を影から牛耳る八歳の次女、タチアナ・ニコラエヴナであった。
冬宮の大広間において、ピョートル大帝以来の門閥貴族たちがサハリン送りになったという衝撃の凶報は、まだ帝国の全土へと行き届いてはいなかった。
ゆえに、宮殿の執務室の前に押し寄せていたのは、自らの利権にしがみつこうとする愚か者たちの「最後の残り滓」であった。
地方の有力貴族や大地主、旧態依然とした既得権益の亡者たち。
皇帝も皇太子も執務室に不在であると聞きつけた彼らは、「今こそ付け入る隙だ」とばかりに意気揚々と願書を携え、特例措置の上申へと乗り込んできたのである。
だが――彼らは知らなかった。
フリストフォルに対して猛烈な独占欲を燃やし、ベッドへ引きずり込んで甘やかすアナスタシアが「独占型ブラコン」の極致であるならば。
この場に座るタチアナは、弟の平穏と尊厳を侵す者を虫けらの如く排除する、最も冷酷で苛烈な「防衛型ブラコン」の権化であるという事実を。
彼らが足を踏み入れた執務室の中央、黒檀の巨大な執務机の向こう側に座っていたのは、ドレスを着た愛らしい皇女などでは断じてなかった。
仕立ての良い、濃紺のレディースパンツスーツ。
フリストフォルから「チヨノーチェが燕尾服を着るのは、機能性を極限まで高めて護衛と実務を両立させるためだ」と教わっていたタチアナは、動きを縛る華美なスカートを早々に脱ぎ捨て、機能美とシャープさを極めた特注のスーツをその身に纏っていたのである。
すっきりと伸びたスラックスのラインに、無駄のないシルエットのジャケット。
艶やかな長い髪をショールのように背中へ流し、冷徹にペンを走らせるその姿は、八歳という実年齢を完全に錯覚させるほどに、完成された「シゴデキな敏腕キャリア女性」そのものの威圧感を放っていた。
「――お取次ぎご苦労、タチアナ殿下」
貴族たちの先頭に立った中年伯爵が、慇懃無礼に頭を下げた。
その口元には、隠しようもない嘲笑が浮かんでいる。
「皇帝陛下もツァレーヴィチ殿下もお留守の折、このような幼い姫君が書類番を務められているとは、帝室も人手不足と見えますな。……我らの上申書を陛下の机の上に留め置き、特例の認可印を押していただきたい。難しいことは分かりますまい、ただ印を押すだけでよいのです」
女子供を前にした、見え透いた侮りと舐め腐った態度。
部屋の空気に満ちたその不敬な気配を、タチアナの知性は寸分の狂いもなく、正確無比に捉えていた。
(……この者たちは、フリスチューシュカが命を削って整えた法を、土足で踏みにじろうとしているのだわ)
タチアナの瞳から、人間的な感情の光が完全に消え去った。
弟が泣きながら背負った重荷を。
弟が守り抜こうとした民の笑顔を。
この豚どもは、己の贅沢のために再び泥の中に引きずり込もうとしているのだ。
フリスチューシュカの邪魔をする者は、誰であろうと許さない。
タチアナは無言のまま、書類から視線を外した。
そして、机の下――腰のスラックスに巻かれた革のホルスターへと、細い指先を滑らせた。
カチャリ、と小さな金属音が響いた瞬間。
彼女の右手には、冷たい黒鉄の光を放つロシア軍制式ナガン・リボルバーが握られていた。
「殿……下……?」
貴族が怪訝そうに眉をひそめた、まさに次の刹那であった。
タチアナは一切の躊躇なく銃身を跳ね上げ、執務室の豪奢な石膏彫刻の天井めがけて――迷わず引き鉄を絞ったのである。
ドガァァァンッ!!
部屋の空気を引き裂くような、凄まじい発砲音が轟いた。
「ひぎゃあっ!?」
「な、なんだッ!?」
耳をつんざく爆音と、立ち込める白煙。
貴族たちが悲鳴を上げて頭を抱え、床へと無様に転倒する。
天井の石膏がパラパラと降るなか、タチアナは眉毛一本動かさずに、硝煙の立ち上るリボルバーをゆっくりと降ろした。
フリストフォルが提唱した警察機構改革のドクトリン――『誤射を防ぎ、威嚇の機会を与えるため、装填された第一弾目は必ず警告用の空砲とすべし』。
その規定通り、彼女が放ったのは空砲であった。
だが――8歳の少女が、至近距離で躊躇なく実銃の引き鉄を引いたという狂気の事実は、貴族たちの肝を冷水で洗い流すには十分すぎる一撃であった。
「…………」
タチアナは顎をわずかに上げ、見下すような絶対零度の角度で、床に這いつくばる貴族たちを一瞥した。
背中へと流れる長い黒髪が、発砲の風圧でショールのように微かに揺らめく。
スーツのポケットに左手を突っ込み、右手の銃口を床の貴族たちの眉間へと、寸分のブレもなく水平に向け直す。
その姿。
その眼光。
その立ち振る舞い。
それは、神聖なる皇室の大公女などでは断じてなかった。
法と暴力の限界を知り尽くし、冷徹な微笑みを浮かべながら平然と人を消す――どこからどう見ても、裏社会を支配する「インテリヤクザ」の若頭そのものであった。
「……五月蝿いですね」
タチアナの唇から紡ぎ出されたのは、氷柱のように鋭く、冷え切った声音であった。
「女子供と侮って、随分と気安く口を利いてくれたものですね。……誰の許しを得て、その汚らわしい足でこの部屋に踏み込み、戯言を囀っているのです?」
「ひ、あ……タ、タチアナ殿下……!?」
伯爵が腰を抜かしたまま、震える指先で天井を指差した。
「な、何をなさるのです! 我らは上告に参っただけ……! 実弾を込めた銃を貴族に向けるなど、狂気の沙汰――」
「二発目は、実弾ですよ」
タチアナは事も無げに言い放ち、撃鉄をカチリと起こした。
部屋の空気が、完全に凍結した。
「貴方方が持ってきたその紙切れの束、中身を見ずとも分かります。減税の特例措置、農民への土地譲渡の差し戻し……フリスチューシュカが下した神聖なる決定に、泥を塗るための陳情ですね?」
タチアナの青い双眸が、射抜くように細められる。
「よくお聞きなさい。ツァレーヴィチが決定された農地勅令は、すでに絶対の法です。それに背く者は、誰であろうと国家への反逆者と見なします。……ピョートル大帝の血を引くヴォロンツォフ公爵が、いまどこへ向かっているかご存じですか?」
「え……? こ、公爵閣下が……?」
「サハリンですよ」
タチアナは残酷なまでに美しい微笑みを浮かべた。
「我が一族に逆らった愚か者は、先ほど全員、極東の絶海へと流刑に処されました。……貴方方の首が、公爵家の看板よりも頑丈だとでもお思いですか?」
貴族たちの顔から、完全に血の気が失せた。
絶海のサハリン。
あの大貴族ですら一瞬で切り捨てられたという冷徹な事実に、目の前の八歳の少女が放つ殺気が、一切の冗談ではないことを彼らは骨の髄まで悟ったのだ。
「フリスチューシュカの甘美なお昼寝を邪魔するゴミは、この私が一匹残らず片付けます。……命のあるうちに、その紙屑を拾って消え失せなさい。三分以内にこの敷地から立ち去らなければ、シベリア鉄道の貨物列車に放り込んであげますよ」
「ひ、ひぃぃぃぃっ!!」
「も、申し訳ございませんでしたぁっ!!」
先ほどまでの傲慢さはどこへやら、貴族たちは床に散らばった願書を這いつくばって掻き集めると、尻尾を巻いた負け犬のように転がりながら執務室から逃げ出していった。
バタン、と重厚な扉が閉ざされ、広間にふたたび静寂が戻る。
「……ふぅ」
タチアナはリボルバーの撃鉄を慎重に戻し、慣れた手つきで腰のホルスターへと収めた。
そして、机の上に散らばった石膏の粉をハンカチで払い、再び万年筆を手に取る。
冷徹なインテリヤクザの気迫はスッと消え去り、そこには弟の負担を減らすために懸命に働く、健気で知的な姉の横顔が戻っていた。
「これで……フリスチューシュカのお仕事は、また一つ減ったわね」
窓の外を見やれば、帝都の空が夕暮れの茜色に染まり始めている。
そろそろ、泥だらけの服を着た愛しい弟が、お土産を抱えて帰ってくる時間であった。
「早く帰ってこないかしら。……帰ってきたら、たくさん抱っこしてあげなくちゃ」
机の上の決裁書類に躊躇なく「却下」の判子を叩きつけながら、八歳の小さな官房長官は、弟を甘やかす至福の夜を思い描き、ふわりと温かな微笑みを零すのであった。