冬の澄み渡る寒空を切り裂き、帝都サンクトペテルブルクの巨大な係留施設へと悠然と降下してきたのは、ロシア帝国が総力を挙げて完成させた純国産硬式飛行船アルバトロス級の一番艦――『ツァレーヴィチカシャロットであった。
日露戦争の初陣を飾ったドイツ製の『ツァーリカシャロート』をさらに大型化・洗練させたその銀色の偉容は、極東ウラジオストクからユーラシア大陸を越え、日本からの特別な客人たちを乗せて帝都へと舞い降りたのである。
宮殿の迎賓広間には、異様な緊張感が張り詰めていた。
豪奢な礼装に身を包んだ近衛兵たちが左右に居並び、玉座の脇には腕組みをした父帝ニコライ二世と、いつになく殺気めいたオーラを漂わせるアナスタシア、マリア、タチアナの姉妹たち、そして燕尾服姿のチヨノーチェが控えている。
重厚な扉が静かに開かれた。
入ってきたのは、数名のフロックコートを着た日本の外交官たち。
そして――その中央に守られるようにして、小さな歩幅で絨毯を踏みしめて歩いてくる、一人の幼い少女の姿であった。
「…………」
その姿を目にした瞬間、広間にいた誰もが息を呑んだ。
少女の名は、「藤ノ宮のどか」。
明治天皇の系列たる宮家に深く連なる名門の血筋を引き、日露百年の融和のために、海を越えてロシア宮廷へと差し出された「誠の証人」であった。
艶やかな濡れ羽色の黒髪は、伝統的な日本髪に結い上げられ、小さな簪が揺れている。
身に纏っているのは、極上の絹に雅やかな花鳥風月が織り込まれた、目も綾な友禅染の振袖であった。
丸みを帯びた小さな輪郭、白磁の肌に、黒く大きな瞳。
それは、日本の古い民話に語られる「座敷童」がそのまま現実世界に抜け出してきたかのように、息を呑むほど愛らしく、可憐な佇まいを持っていた。
だが――。
フリストフォルの観察眼は、彼女を取り巻く空気の痛々しさを、一瞬にして見抜いていた。
(……ガッチガチやん)
少女は、小さな両手を帯の前でぎゅっと重ね、背筋をピンと伸ばして、必死に「大日本帝国の名誉を背負う者」として気丈に振る舞おうとしていた。
しかし、その小さな爪先は目に見えてカタカタと震え、顔色は血の気を失って紙のように白い。
フリストフォルは当初、覚悟していたのだ。
徹底的に日本を叩きのめし、手酷い敗北を突きつけた手前、送られてくる人物が自分やロシアに対して激しい敵意や、暗い復讐の炎を宿していてもおかしくはないと。
だが、蓋を開けてみれば、そんな雰囲気など微塵も存在しなかった。
彼女を縛り付けていたのは、恨みなどではない。
言葉も通じず、文字も読めず、肌の色も文化も全く異なる極寒の異国へと、たった一人で放り込まれることへの、底知れぬ「恐怖」と「怯え」。
そして、一歩でも過ちを犯せば祖国を再び戦争の危機に晒しかねないという、あまりにも重すぎる「国家の重圧」であった。
まだ自分とそう歳の変わらない、幼い少女。
その小さな背中に、日本の大人たちは国家の存亡という途方もない荷物を丸ごと背負わせ、この雪の帝国へと送り出してきたのだ。
(……前世の同胞たちめ。こんな小さな女の子に、何て過酷な役目を押し付けて)
前世が日本人であったフリストフォルの胸の奥底で、痛ましさと、そして保護者としての強い義侠心が疼いた。
ふと横を見やれば、あれほど「泥棒猫を引き裂いてやる」と息巻いていたアナスタシアやマリアすらも、あまりにも小さく震える座敷童の姿を前に、完全に毒気を抜かれたように目をパチクリとさせていた。
「……フリスチューシュカ、あの子……」
アナスタシアの囁き声を背に受けながら、フリストフォルは躊躇うことなく歩み出た。
ロシア帝国の空軍大臣としての冷徹な仮面を脱ぎ捨てる。
そして、脳内の言語中枢のスイッチを、普段はチヨノーチェと二人きりの時しか使わなくなっていた、久しく眠る母国語――「日本語」へとカチリと切り替えた。
コツ、コツと、小さな靴音を響かせて歩み寄る四歳のツァレーヴィチ。
のどかは怯えに瞳を揺らしながらも、逃げ出すことなく、必死に頭を下げようと身を強張らせた。
だが、その小さな肩に手が触れるよりも早く、静寂に包まれた広間に、どこまでも優しく、滑らかな「極東の言葉」が響き渡ったのである。
「――遠いところから、よく来てくれたね。藤ノ宮のどかさん」
「……え……?」
のどかの身体が、雷に打たれたようにピクリと硬直した。
信じられないものを見るように、ゆっくりと顔を上げる。
目の前に立っているのは、白鳥の羽毛のように淡い金髪と、澄み渡る青い瞳を持つ、ロシア帝国の皇太子であった。
それなのに、その小さな唇から紡ぎ出されたのは、拙い通訳の言葉などではない。
あまりにも自然で、暖炉の火のように温かく、寸分の訛りすらない、懐かしい「祖国の言葉」そのものであったのだ。
フリストフォルは、驚きのあまり言葉を失っている少女の前で、ふわりと柔らかく微笑んだ。
そして、震えるのどかの小さな冷たい両手を、自らの両手でそっと包み込んだ。
「船も、空飛ぶお船も、怖かったでしょう。……言葉の通じない遠い国に来て、不安でいっぱいだったよね」
「あ……、あ……」
「でもね、もう大丈夫だよ。ここには、君をいじめる人なんて一人もいない。お腹が空いたら美味しいご飯をあげるし、寒いなら温かいお風呂も用意してある。……君はもう、国のことなんて背負わなくていいんだよ」
フリストフォルの瞳には、敵国の皇太子としての威圧など欠片もなかった。
ただ、異国の空の下で一人震える同胞の子供を慈しみ、守ろうとする、温かな兄の光だけが宿っていた。
「ようこそ、ロシアへ。……僕の家へ来てくれて、ありがとう」
その瞬間であった。
張り詰めていた糸が、プツリと音を立てて切れた。
「……ぅ……あ……っ」
のどかの大きな瞳から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
気丈に繕っていた表情が、一瞬にして崩れ去る。
異国の恐怖も、重圧も、孤独も、目の前の幼きツァレーヴィチがくれた母国語の温もりの中に、すべてが溶け出してあふれ出していく。
「……っ、うわぁぁぁぁぁんっ……!」
少女は子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、フリストフォルの胸元へと、その小さな顔を力任せに埋め込んだ。
フリストフォルは何も言わず、ただ優しく、その背中をとんとんと叩き続けた。
広間を包んでいた凍りつくような緊張感は、完全に霧散していた。
後ろで控えていたチヨノーチェが、目元をわずかに潤ませながら静かに微笑み、玉座のニコライ二世もまた、我が子の慈悲深さに胸を打たれたように深く頷いている。
そして――さっきまで嫉妬の鬼と化していたはずのアナスタシアが、オロオロと眉を下げて駆け寄ってきた。
「も、もう! 泣かないでよ、私のハンカチを貸してあげるから! フリスチューシュカ、この子、小さくて折れちゃいそうじゃないの!」
「そうよ、マリアのクッキーも分けてあげるわ!」
二人の姉までもが、すっかり庇護欲を刺激され、慌てて少女の周りを取り囲んでいた。
極東からやってきた、座敷童のような小さな客人を迎えたアレクサンドロフスキー宮殿。
日露の百年融和の象徴として差し出された少女の涙をきっかけに、少年大公の日常は、さらに温かく、そして賑やかな新しい季節の幕を開けようとしていた。
◇◇◇
温かいタオルで涙を拭い、チヨノーチェが淹れてくれた香ばしい麦ほうじ茶を一口すすったことで、藤ノ宮のどかはようやく、小さく息を吐き出すことができた。
アレクサンドロフスキー宮殿の私室サロン。
ふかふかの豪奢なソファにちょこんと腰掛けたその姿は、色鮮やかな振袖の裾も相まって、やはりどこからどう見ても日本の古い民話に語られる「座敷童」そのものであった。
まだ四歳であるフリストフォルと並んでも、頭半分ほど背が低く、手足も驚くほど細く華奢である。
怯えたように黒い瞳をパチパチと瞬かせるその可憐な姿を見つめながら、フリストフォルは手元の外交文書の控えに目を通し、内心で深く、呆れ混じりの感嘆のため息を漏らしていた。
(まったく。霞が関の狸親父どもめ、やってくれたな……)
前世の記憶を持つフリストフォルには、この「藤ノ宮のどか」という少女が、いかなる経緯で選ばれ、いかなる計算のもとにこの極寒の帝都へと送り込まれたのか――その政治的カラクリが、手に取るように透けて見えていたのである。
時計の針を少し巻き戻す。
東京の宮城において、明治天皇からロシア皇帝ニコライ二世へと「百年続く融和のために人を出す」という親電が打たれた直後、日本政府の首脳部――元老の伊藤博文や山県有朋、そして宮内省の首脳陣は、前代未聞の「人選の難航」に頭を抱えていた。
何よりもまず、相手の情報であった。
ポーツマス講和条約が締結され、日露両国の間で外交情報が共有されるにつれ、大日本帝国の指導者層を戦慄させたのは、ロシア軍を勝利へと導いた「影の最高指導者」の正体であった。
開戦時、わずか三歳。
世界の海を見渡し、日本のシーレーンを締め上げる全地球規模の通商破壊を提唱。
陸軍の無謀な突撃をいなし、鴨緑江の背後に誘致して補給線を干上がらせる遅滞ドクトリンを徹底。
さらに、世界初となる航空軍種「ロシア帝国空軍」を創設し、自ら初代空軍大臣の椅子に座って飛行戦艦を指揮し、日本海側の港湾を定期空爆して継戦能力を粉砕した。
それだけにとどまらず、帝都においては8時間労働制を敷き、公衆衛生を改善し、減税と食糧改革を断行して内政すらも完璧に回してみせた、規格外の怪物。
フリストフォル・ニコラエヴィチ・ロマノフ。
神童、あるいは麒麟児――そんな生易しい言葉では到底形容できない、さながら「生ける現人神」の如き皇太子。
この四歳の軍神に見合う子女を、一体どうやって選べというのか。
宮内省と元老たちの選考基準は、極限まで絞り込まれ、そして異様な方向へと純化していった。
第一に、年齢である。
相手が四歳の男児である以上、年が離れすぎた娘を送れば単なる監視役か姉のようになってしまう。
将来的な両国の皇室外交、あるいは婚姻の可能性までをも考慮すれば、同年代である「四歳から五歳」の年齢枠が絶対条件であった。
そして第二に――これこそが最も過酷な条件であったが、「徹底してフリストフォルの邪魔にならないこと」であった。
自尊心が強く、自己主張の激しい名門の令嬢など送ってみろ。
あの世界秩序すら書き換えてしまう神童の逆鱗に触れ、不興を買えば、せっかく繋ぎ止めた日露の平和のレールが一瞬にして爆破されかねない。
結果として求められたのは、気性が極めて大人しく、自ら前に出ようとせず、まるで「案山子」のように静かに寄り添える性質であった。
内向的で、物静かで、趣味といえば部屋の隅で絵本を読んでいることくらい。
出しゃばらず、騒がず、相手の知性を脅かさない、徹底した無害さ。
その上で、天皇の血統に連なる宮家の直列・縁の家という、針の穴を通すような条件を重ねていった結果――最後にただ一人、白羽の矢が立ったのが、この「藤ノ宮のどか」であったのだ。
長閑という名が示す通りの、穏やかで大人しい性質。
少し臆病で、人見知り。
同年代の子供と比べても頭一つ小柄で華奢なその肉体。
そこには、大日本帝国の元老たちが張り巡らせた、極めて老獪で、したたかな「計算」が込められていた。
『あの才気走るロシアの若き神童とて、本質はまだ四歳の男児である』
『これほど儚げで、小さく、守ってやりたくなるような少女を目の前に差し出せば……いかなる冷徹な軍神とて、必ずや男としての「庇護欲」を激しく刺激されるに違いない』
国家の存亡という途方もない重圧と、大人の打算。
そのすべてを小さな背中に押し付けられ、着物を着せられ、親元から引き離されて、遠く一万キロ彼方の異国の宮殿へと放り込まれたのだ。
あの広間で、彼女がガチガチに震えていたのも当然であった。
(……まったく。日本のジジイどもめ、狙い通りだよ! 完璧に術中にハマってやるよ!)
フリストフォルは内心で悪態をつきながらも、ソファの上で大人しくお茶を飲む座敷童を見つめ、口元を緩めた。
悔しいが、そのしたたかな計略は、フリストフォルに対して「百点満点の大正解」を叩き出していた。
前世が日本人である彼にとって、この健気で、大人しく、控えめな日本家屋の温もりを宿した少女の姿は、どうしようもなく愛おしく、守ってやりたい存在そのものだったのだ。
しかも――その効果は、フリストフォルだけに留まらなかった。
「……ねえ、フリスチューシュカ」
ソファの反対側から、アナスタシアがおずおずと覗き込んできた。
さっきまで「泥棒猫を引き裂いてやる!」と絶叫していたはずの双子の姉は、すっかり毒気を抜かれ、それどころか捨てられた仔犬を見るような目で、のどかをじっと見つめていた。
「この子、本当にお人形さんみたいね……。手なんて、私の半分くらいしかないわ」
「マリアのクッキー、食べられるかしら……お口が小さすぎて、こぼしちゃいそう」
隣ではマリアが、焼きたての星型クッキーを小さな皿に乗せ、心配そうに眉を八の字に下げていた。
パンツスーツ姿のタチアナすらも、万年筆を胸ポケットに収め、眼鏡の奥の瞳を微かに和らげて呟く。
「……随分と、過酷な荷物を背負わされてきたようね。あのような小さな身体で、よくぞ大陸を越えて」
敵対心など、最初から成立し得なかった。
これほど小さく、これほど無害で、これほど庇護欲をそそる少女を前にして、情け深いロマノフ家の皇女たちが冷酷になれるはずがなかったのだ。
「のどかさん」
フリストフォルが、柔らかな日本語で呼びかけた。
びくりと肩を揺らした少女の前に、マリアから受け取ったクッキーの皿をそっと差し出す。
「これね、僕の姉さまたちが焼いたクッキーだよ。甘くて、サクサクしてて、すごく美味しいんだ。……一つ、食べてみる?」
のどかは、恐る恐るフリストフォルの顔を見つめ、それから皿の上の黄金色の星を見つめた。
震える小さな指先を伸ばし、壊れ物を扱うようにクッキーをひょいと摘み上げる。
そして、小さな口を精一杯開けて、サクリと音を立てて齧った。
バターの香ばしい香りと、優しい甘みが、少女の口いっぱいに広がっていく。
「…………っ」
のどかの黒い瞳が、ぱあっと見開かれた。
その頬が、みるみるうちに桃色の温かな血色を取り戻していく。
「……おいひい……です……」
ぽつりと零れ落ちた、小さな小さな日本語の感想。
その無垢で愛らしい反応に、言葉の意味は分からずともニュアンスを察したアナスタシアとマリアが、歓声を上げて手を叩いた。
「まあ! 笑ったわ! すっごく可愛い!」
「もっとお食べなさい! マリアがいくらでも持ってきてあげるからね!」
二人の姉が駆け寄り、のどかの両脇に座り込んで、頭を撫でたり背中をさすったりと、甲斐甲斐しく世話を焼き始めた。
最初は目を白黒とさせていたのどかも、彼女たちから放たれる温かな体温に包まれるうちに、少しずつ、少しずつ強張っていた身体を解きほぐしていった。
フリストフォルは、温かいお茶をすすりながら、安堵の息を吐いた。
大日本帝国の元老たちが仕掛けた「庇護欲の罠」は、ロシア皇室の子供部屋を、より一層温かく、賑やかな楽園へと作り変えていた。
極東の島国からやってきた、小さな座敷童。
彼女の来訪は、日露の百年を繋ぐ架け橋であると同時に、少年大公の愛すべき日常に、新しい、穏やかな風を吹き込もうとしていた。
◇◇◇
前線の将軍たちから「救国の軍神」と畏怖され、帝都の民草からは「パンと芋の生ける聖人」と崇め奉られる四歳の皇太子、フリストフォル。
だが――そんな世間の熱狂をよそに、双子の姉アナスタシアだけは、鼻を鳴らしてどこ吹く風であった。
神童だの軍神だのと、外の大人は勝手なことを言っている。
あの子が本当は誰よりも甘えん坊で、夜になれば自分の胸に顔を擦り付け、「ナースチャ姉さま、もう歩けない」「もっと寝てたい」と情けない声を上げて駄々をこねるただの小さな男の子であることを、世界で一番よく知っているのは他ならぬ自分なのだ。
生まれながらにして大人の精神を宿す弟に引っ張られ、その歩調に合わせるように日々を過ごしてきた結果、アナスタシアの精神的成熟は同年代の子供たちを遥かに凌駕していた。
三女のマリアよりもよっぽど「しっかり者のお姉さん」としての自負と責任感を、彼女はその小さな胸にしっかりと育んでいたのである。
――もっとも、その成熟したお姉さん気質と、弟への「過剰すぎる独占欲」が同居しているのが、アナスタシア・ニコラエヴナという少女の業の深さであった。
弟に向ける嫉妬の炎は、たとえ家族であっても容赦なく燃え盛る。
生まれたばかりの弟アレクセイにフリストフォルがかかりきりになった時ですら、枕を抱えてドス黒いオーラを放っていたほどだ。
しかし同時に、彼女には致命的な「チョロさ」があった。
姉のマリアが涙目の上目遣いで「ナースチャ、これ一口だけちょうだい……?」とあざとい妹モードで懐に飛び込んでくれば、途端に押しに弱くなり、「も、もう……仕方ないわね!」とあっさり折れてしまうような、純朴でお人好しな一面を持ち合わせていたのである。
そして今――。
そのマリアの側にも、かつてない異変が起きていた。
普段は絶妙なバランスで「頼れる姉」と「甘え上手な妹」のスイッチを切り替えて世渡りをしてきた三女マリアが、極東からやってきた藤ノ宮のどかという存在を前にして、完全に「姉モード」のスイッチを常時フル点灯させてしまったのである。
「私がのどかの面倒を見るわ! 私はフリスチューシュカのお姉ちゃんだもの!」
「ダメよナースチャ! 順番から言ったらマリアの方が上なんだから、マリアがお姉ちゃんとしてお世話するの!」
サロンの真ん中で、アナスタシアとマリアが互いに一歩も引かず、頬を膨らませて睨み合っていた。
姉×姉。
普段ならどちらかが妹役に回るはずの二人が、揃って「私が一番のお姉ちゃん」を主張し始めたのだから、その自己主張の激しさは留まるところを知らない。
そして――その激しい火花の真ん中に、小鹿のように華奢で、座敷童のように愛らしい藤ノ宮のどかを放り込んだらどうなるか。
結果が現れるまでに、大した時間は必要なかった。
「ほら、のどか! お口を開けて? あーん!」
アナスタシアが、銀のスプーンに乗せたふんわりと甘いイチゴのムースをのどかの口元へと差し出す。
「ダメよナースチャ、そんなに大きなお口で食べられないわ! ほら、のどかちゃん、こっちの小さく切ったスポンジケーキの方がいいわよね?」
すかさずマリアが、一口大のケーキをフォークに刺して反対側から割り込んでくる。
「あ……あ、あの……」
振袖の袂をぎゅっと握りしめたまま、のどかは黒い瞳を白黒とさせていた。
右からは金髪碧眼の双子の皇女が猛烈な勢いでお菓子を迫り、左からは少し背の高い麗しい皇女が満面の笑みでケーキを差し出してくる。
当然ながら、言葉は通じない。
アナスタシアたちが話しているのはロシア語であり、のどかが話せるのは日本語だけだ。
文法も、語彙も、何一つとして共通点はない。
――それなのに。
「これ、すっごく甘くて美味しいのよ!(スプーンを口元にトントンと寄せるジェスチャー)」
「こっちもふわふわなのよ!(両手を頬に当てて幸せそうな顔をするジェスチャー)」
「あ……えっと……ど、どちらも……(両手を胸の前で小さく振る)」
「まあ! 両方食べたいのね!? いい子ね、順番に食べさせてあげるわ!」
「まずはマリアのケーキからよ!」
不思議なことに、手振り身振りと、豊かな表情、そして全身から溢れ出る圧倒的な「好意」だけで、意思の疎通が奇跡的な精度で成立してしまっていた。
言葉の壁など、少女たちの猛烈なパッションの前には紙屑同然であった。
のどかは恐る恐る小さな口を開け、マリアのケーキをパクリと食べ、続いてアナスタシアのムースをトロンと飲み込んだ。
「…………っ、おいひい……です」
のどかが両手を頬に当ててふわりと微笑むと、二人の姉は同時に歓声を上げて抱きついた。
「可愛い! もう、本当に小鹿さんみたい!」
「見てナースチャ、お口をもぐもぐさせてるわ! リスさんみたいね!」
アナスタシアはのどかの黒髪を優しく撫で回し、マリアは華奢な背中をとんとんとリズミカルに叩いて慈しむ。
最初は「言葉も通じない異国で処刑されるのではないか」と怯えきっていたのどかも、この二人の姉から注ぎ込まれる無制限の温もりにすっかり毒気を抜かれ、今やされるがままに小さな身を預けていた。
遠巻きに見れば、まるで二頭の大きな白い子熊が、森で拾ってきた小さな黒い小鹿を、全身を舐め回すように甲斐甲斐しく毛繕いしているかのような光景であった。
そんな騒がしくも微笑ましいサロンの隅で、フリストフォルはソファに深く腰を沈めて温かい緑茶をすすっていた。
隣には、燕尾服姿のチヨノーチェが静かに控えている。
「……平和だなぁ」
フリストフォルは、心底から染み渡るようなため息を漏らした。
息巻いて自分を骨が軋むほど羽交い締めにしてきたアナスタシアとマリアであったが、いざ蓋を開けてみれば、二人の関心は完全に「のどかのお世話合戦」へとスライドしていた。
愛すべき小鹿の出現によって、姉たちの過剰な独占欲と愛情の矛先が、見事に分散されたのである。
「……坊ちゃま」
ふと、チヨノーチェが銀盆を抱えたまま、涼やかな眼差しでフリストフォルの横顔を見下ろしてきた。
その口元には、どこか悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「何、チヨ?」
「いえ。……ほんの少しだけ、寂しそうなお顔をされているように見えましたので」
「は、はぁ!? 寂しいわけないでしょ!」
フリストフォルは湯呑みをソーサーにカチャリと置き、慌てて否定した。
「あんな風に一日中ベタベタ甘やかされるの、本当はすっごく体力が要るんだからね! これで僕の自由な時間が増えたんだよ! 最高じゃないか!」
「左様でございますか。……ですが、先ほどからアナスタシア様とマリア様が一度も坊ちゃまのお名前を呼んでおられませんが、よろしいのですか?」
「うぐっ……!?」
痛いところを突かれ、フリストフォルは言葉に詰まった。
見れば、向こうの絨毯の上では、アナスタシアがのどかの帯を直してやり、マリアが自分のショールをのどかの肩にかけてやり、「似合うわ!」「お姫様みたいね!」とキャッキャと大騒ぎしている。
先週まで「私の世界で一番のフリスチューシュカ!」と自分を追い回していた二人の姉の視界から、完全に自分が締め出されていた。
前世の成人男性のプライドを総動員して平気を装うフリストフォルであったが、その唇がほんの少しだけ尖っているのを、チヨノーチェは見逃さなかった。
「……ふふ」
銀髪の従者が優雅に一礼し、温かいお茶を注ぎ足す。
言葉は通じずとも、身振り手振りと笑顔で通じ合う極東の少女とロシアの皇女たち。
そして、自由を手に入れたはずなのに、どこかちょっぴり手持ち無沙汰そうにお茶をすする、愛らしい四歳の軍神。
雪の降る宮殿の子供部屋は、国境も文化も飛び越えた、春の陽だまりのような温かな笑い声に包まれていた。
◇◇◇
藤ノ宮のどかがアレクサンドロフスキー宮殿へとやってきて、数日が過ぎた。
アナスタシアとマリアによる「お世話合戦」と、身振り手振りを交えた奇跡的なボディランゲージによって、少女の顔からは最初の絶望的な怯えこそ消え去っていた。
だが――前世で日本人として生き、異文化の壁にぶち当たった経験を持つフリストフォルには、のどかが心の奥底に隠している「見えない棘」が、痛いほど理解できていた。
どれほど姉たちが無邪気に愛を注ごうとも、根本的な「言葉の壁」は依然として立ちはだかっているのだ。
急な抜擢と出立によって、ロシア語の教育など一切受けてこなかった四歳の少女。
お腹が痛い時、喉が渇いた時、何かに不安を覚えた時、それを自らの母国語で訴え、正確に汲み取ってくれる大人が周囲に一人もいないという状況は、子供の精神を確実に削り取っていく。
手振り身振りで愛想笑いを浮かべながら、その実、心の底では常に孤独な緊張の糸を張り巡らせている――そんな痛々しい我慢を、フリストフォルは見過ごすことができなかった。
(……僕が四六時中、あの子の話し相手になってあげられれば一番いいんだけどな)
夜の執務室で、フリストフォルはペンを置き、小さく息を吐いた。
しかし、自分はロシア帝国の空軍大臣であり、内政改革を推進する皇太子だ。
連日のようにタチアナと机を並べて政務に追われ、その合間にはアナスタシアからの猛烈なスキンシップを受け止めねばならない。
物理的にも、そして姉たちの激しい嫉妬を考慮しても、自分がのどかにべったりと付き添うわけにはいかなかった。
ならば、どうするか。
答えは、最初から一つしか存在しなかった。
「――チヨ」
暖炉の火が静かに揺れる執務室で、フリストフォルは温かい緑茶のカップをソーサーに置き、背後に控えていた専属従者を見上げた。
「はい、坊ちゃま。何でございましょうか」
漆黒の燕尾服に身を包んだチヨノーチェが、銀髪を微かに揺らして音もなく歩み寄ってくる。
フリストフォルは真剣な、しかしどこか申し訳なさそうな色をその青い瞳に宿して告げた。
「君をね、のどかさんの専属の世話係として……しばらくの間、貸し与えたいんだ」
「…………」
その言葉を聞いた瞬間、普段はいかなる事態にも眉一つ動かさないチヨノーチェの涼やかな瞳が、わずかに見開かれた。
主人の身辺警護と生活のすべてを預かる筆頭メイド長である自分が、主の手元を離れ、極東から来た客人の世話に回る。
それは、宮廷の序列からすれば前代未聞の配置転換であった。
だが、フリストフォルは言葉を継いだ。
「理由は……チヨなら、もう分かってるよね」
「……はい」
チヨノーチェは静かに視線を伏せた。
ロシア語を一切解さない、幼き藤ノ宮のどか。
そんな彼女に対し、宮廷の礼法を教え、生活を支え、何よりその心の声を過不足なく受け止められる人間が、この広大なロシア宮廷に一体何人いるというのか。
完璧な日本語を操れる人間など、この帝国広しといえど、前世の記憶を持つフリストフォル本人か、日本人を祖父に持ち、マルチリンガルのチヨノーチェ――世界でこの二人しか存在しないのだ。
そして、のどかという少女は、日露戦争の講和を成立させ、極東の百年融和を繋ぐための「国家の急所」そのものである。
彼女が異国の宮殿で心身を病み、万が一のことがあれば、大日本帝国との絆は根底から覆りかねない。
誰よりも信頼でき、何があっても裏切ることのない絶対の忠臣であり、かつ少女の心に寄り添える唯一無二の存在。
チヨノーチェ以上の適任など、天地がひっくり返っても見つかるはずがなかった。
「……私の代わりの、坊ちゃまのお世話は?」
チヨノーチェが、わずかに声音を揺らして尋ねた。
主の身の回りを離れることへの、隠しようもない寂しさと名残惜しさが、その短い問いの中に滲み出ていた。
フリストフォルは苦笑いを浮かべ、自らの小さな手をひらひらと振った。
「僕には、タチアナ姉さまやオリガ姉さまがいるし、親衛メイド隊のみんなもいるから大丈夫だよ。それに……ナースチャ姉さまが、ここぞとばかりにお世話を焼きに飛んでくるだろうしね」
「……ふふ。確かに、アナスタシア様は大喜びなさるでしょうね」
チヨノーチェの口元に、ふっと柔らかな笑みが戻った。
主が自分を遠ざけようとしているのではない。
世界で一番大切で、誰にも任せられない最重要の任務だからこそ、唯一無二の信頼を込めて自分に預けようとしているのだという真実が、彼女の胸の奥を誇らしく、温かく満たしていた。
チヨノーチェはすっと背筋を伸ばすと、燕尾服の胸元に右手を当て、優雅に、完璧な角度で頭を垂れた。
「坊ちゃまの仰せのままに。……あのおいたわしい小さき姫君を、このチヨノーチェが、命に代えてもお支えいたします」
「ありがとう、チヨ。……君がいてくれて、本当によかった」
主従の間に交わされた、言葉以上の信頼。
こうして、ロシア帝国で最も美しく、最も有能な燕尾服の筆頭侍女は、極東からやってきた座敷童の「絶対の守護者」として遣わされることとなったのである。
◇◇◇
翌朝。
アレクサンドロフスキー宮殿の一角、のどかにあてがわれた豪奢な客室の扉が、静かにノックされた。
「……は、はい……」
朝の光が差し込む部屋のなか、慣れない天蓋付きベッドの端に座り、所在なげに振袖の裾を弄んでいたのどかが、びくりと肩を跳ねさせた。
扉が開き、音もなく入ってきたのは――仕立ての良い漆黒の燕尾服に身を包み、銀髪を後ろで凛々しく束ねた、長身の麗人であった。
のどかは息を呑んだ。
昨日の謁見の際、フリストフォルの背後に控えていた「男装の美しい従者」であることは覚えていた。
近衛兵よりも凛々しく、宮廷の誰よりも隙のないその佇まいに、のどかは「何か無礼を働いて怒られるのではないか」と、たちまち身体を強張らせた。
だが。
その銀髪の麗人は、のどかの座るベッドの前に進み出ると、裾を乱すことなく流れるような所作で膝をつき、目線を少女の高さへと合わせた。
そして――。
両手を膝の上に重ね、日本の一流の女房言葉と何ら変わらぬ、完璧な礼法をもって深々と頭を下げたのである。
「――おはようございます、のどか様。よくお眠りになれましたでしょうか」
「……え……?」
のどかの黒い瞳が、見開かれた。
耳に飛び込んできたのは、流暢な、あまりにも透き通るような美しい「日本語」であった。
顔を上げたチヨノーチェは、いつもの冷徹な仮面を和らげ、まるで春の木漏れ日のように穏やかな微笑みを浮かべていた。
「驚かせてしまい、申し訳ございません。本日より、のどか様の専属侍女としてお仕えいたします、チヨノーチェと申します。……私の祖父は、極東の日本の生まれでございました。ゆえに、日本の言葉も、作法も、すべて心得ております」
「にほん……の……」
のどかの唇が、小さく震えた。
「はい。我が主、ツァレーヴィチ・フリストフォル殿下より、『のどか様が寂しい思いをされぬよう、全霊をもってお側でお支えせよ』との命を賜り、参上いたしました」
チヨノーチェは、のどかの小さな冷たい手を、優しく両手で包み込んだ。
「これからは、何も我慢なさる必要はございません。お腹が空いた時も、お寒さを感じる時も、お悲しい時も……すべて、このチヨノーチェに母国の言葉でお話しくださいませ。貴女様のお声は、すべて私が受け止め、殿下にお届けいたします」
その言葉が、どれほどの救いであったか。
言葉が通じない恐怖のなか、笑顔の仮面を張り付けて耐え続けていた幼い心に、チヨノーチェの日本語は、砂漠に染み渡る清らかな水のように染み渡っていった。
「……ほんとうに……にほんごが……通じるのですね……?」
「はい。嘘偽りはございません」
「……あの……わたし……」
のどかの瞳に、じわりと大粒の涙が浮かんだ。
「……お手洗いの場所が……わからなくて……ずっと、がまんしてて……」
消え入りそうな、あまりにも切実で子供らしい告白。
それを耳にした瞬間、チヨノーチェの表情がふわりと崩れ、愛おしさに満ちた柔らかな笑みが零れた。
「まあ……! それは大変でございましたね。さあ、すぐにご案内いたします。……よくぞ我慢なさいましたね、偉い子でございます」
チヨノーチェはのどかの身体をふわりと抱き上げ、優しく背中をとんとんと撫でた。
安心しきったように、チヨノーチェの首元に小さな腕を回すのどか。
言葉が通じる。
それだけで、異国の宮殿は「冷酷な檻」から「温かな我が家」へと姿を変えたのだ。
その頃――執務室のフリストフォルは、平和が訪れたはずの部屋で、別の意味で頭を抱えていた。
「ふふ、フリスチューシュカ! 今日はチヨがいないから、私がぜーんぶお世話してあげるわね!」
「ダメよナースチャ! 朝のお着替えは、お姉ちゃんであるマリアの役目よ!」
「書類の確認が終わるまで、フリスチューシュカは私の膝の上です。二人とも、静かにしなさい」
チヨノーチェという絶対的な「防波堤」がのどかの元へと派遣された結果――フリストフォルの身の回りの世話を巡る主導権が、完全に姉たちの手へと戻ってきてしまったのである。
右から抱きつくアナスタシア、左から服のボタンを留めようとするマリア、そして膝の上から離してくれないタチアナ。
(……あれ? 僕、自分の首を絞めてない……!?)
揉みくちゃにされながら、フリストフォルは遠い目をして天井を仰いだ。
のどかの平穏と引き換えに、自らの怠惰ライフがさらに甘美で過酷な修羅場へと突入したことを悟りながらも、少年大公の口元には、どこか諦めと幸福の入り混じった笑みが浮かんでいた。