重厚な軍靴の音が支配する作戦室で、小さな靴音が軽やかに響いた。
巨大な作戦卓に集まっていた将軍たちの視線が、一斉に足元へと向けられる。
そこに立っていたのは、ロシア帝国の皇子フリストフォルであった。
当然ながら、三歳にも満たない彼の背丈では、大人の腰ほどの高さがある樫の木の作戦卓の天板すらろくに見えない。極東の地図など遥か頭上だ。
「……フリスチューシュカ?」
執務机から身を起こしたニコライ二世が、困惑と愛おしさが混ざり合った声を漏らす。
フリストフォルは臆することなく、近くに控えていた老侍従を見上げ、涼やかな声で命じた。
「椅子を。僕がこの机を見渡せる高さのものを、そこに置いてちょうだい」
命じられた侍従は皇帝の顔を窺い、ニコライ二世が驚きつつも微かに頷いたのを見て、慌てて豪奢な彫刻が施された肘掛け椅子を作戦卓のすぐ脇へと運んだ。
フリストフォルは侍従の助けを借りてその座面に上がり、卓上の地図を睥睨できる高さを確保すると、真っ直ぐに背筋を伸ばした。
卓上に広げられた極東の海図。
満州、朝鮮半島、そして細長く弧を描く日本列島。
将軍たちは、幼児の気まぐれな悪戯を宥めようと、苦笑混じりの視線を向け合っていた。陸軍大臣のクロパトキンが、優しく言い聞かせるように口を開きかける。
だが――その口調が発せられるより早く、作戦室の空気を切り裂くような幼子の声が響いた。
「みんな、日本を甘く見過ぎだよ」
その声は、子供特有の甲高さを含みながらも、あまりに理路整然と、氷のように冷徹な響きを帯びていた。
将軍たちの苦笑が、一瞬で凍りつく。
椅子の上に立ったフリストフォルは、地図の上に小さな人差し指を伸ばした。
「この戦争は、向こうから仕掛けてきたんだ。日本から見れば、ロシアは蟻と象だよ。普通にぶつかり合えば踏み潰されることくらい、あっちの指導者たちだって百も承知のはずだ。なのに挑んできた……それはね、向こうには『このやり方なら勝てる』っていう勝算があるからだよ」
ざわり、と将官たちの間に波紋が広がった。
国家の指導層がどれほどの慢心に浸っていようと、ここにいるのは修羅場をくぐってきた軍人たちだ。
蟻が象に挑む理由――その言葉の奥にある「敵の合理的動機」という視座の鋭さに、彼らの軍人としての本能が警鐘を鳴らし始めていた。
「彼らの狙いは短期決戦だ。陸で小さな勝利を積み重ね、海で旅順の艦隊を封じ込め、自分たちに有利な条件で早く講和に持ち込むこと。最初からそれしかないんだよ。……けれど」
フリストフォルは指先を、日本列島を取り囲む青い海へと滑らせた。
「日本には、自分だけで国を回せる資源がない。ロシアと違って、鉄も、石炭も、兵隊たちの食べるものや弾薬の材料すら、外から船で買ってこないと生きていけないんだ。完全に海に首を絞められている島国なんだよ」
フリストフォルは顔を上げ、歴戦の海軍提督たち――極東総督アレクセーエフや海相アヴェラーンを、射すような青い双眸で見据えた。
「なら、その物を買っている船を停めてしまえば、どうなるかな?」
――作戦室に静寂が訪れた。
通商破壊戦・海上交通路の切断による、国家経済と兵站の兵糧攻め。
それは日露戦争という局地戦の枠組みを越え、近代国家が総力戦を戦う上での急所を正確無比に抉り抜いた一撃だった。
ロシアが誇る太平洋艦隊の任務を「旅順港の防衛」や「艦隊決戦」という狭隘な戦術に閉じ込めるのではなく、日本の生命線である海上補給路を締め上げる戦略兵力として再定義する――その発想のスケールに、歴戦の将官たちが息を呑む。
「……船を、停める……?」
誰かが掠れた声で呟いた。
椅子の上に立つ小さな皇子の影が、逆光を浴びて、まるで巨人であるかのように作戦卓の地図全体を呑み込んでいた。
作戦卓の上に広げられているのは、満州と朝鮮半島、そして日本海を中心とした極東の局地海図に過ぎなかった。
しかし、椅子の上に立つ三歳のツァレーヴィチ――フリストフォルが視線を走らせていたのは、その紙面の枠を遥か彼方に越えた、全地球規模の盤面であった。
「日本が外から物を買っているのは、主に英国と米国でしょ?」
フリストフォルは淡々とした口調で、卓上にない虚空の海を指差した。
「米国や英国の船は、大西洋からジブラルタル海峡を抜けて地中海に入り、スエズ運河を通ってインド洋に回る。そしてマラッカ海峡を経て、シナ海を北上して日本に辿り着くんだ」
将軍や提督たちの息が止まった。
大人であり、高級軍人である彼らにとって、世界地図を頭に思い描くこと自体は造作もない。だが、目の前でそれを淀みなく語っているのは、生まれてまだ三年の幼児なのだ。
宮殿の中で姉のスカートの裾を握り、甘い菓子をねだり、惰眠を貪っているはずの幼き皇子が、その小さな脳裏に完璧な世界地図と通商路を描き切っている。
その異様さと底知れぬ天才性に、歴戦の提督たちすら戦慄を禁じ得なかった。
「……フリスチューシュカ、お前は……」
ニコライ二世が青ざめた顔で呟く。だがフリストフォルは父の動揺に構うことなく、冷徹に大戦略の駒を動かし続けた。
「シナ海辺りには、ウラジオストクか旅順の太平洋艦隊に網を張らせる。そして黒海とバルト海からも仮装巡洋艦や艦隊を出して、大西洋や地中海、紅海の出口で輸送船団を臨検するんだ」
それは、局地的な艦隊決戦しか頭になかったロシア海軍の首脳陣にとって、目から鱗が落ちるような奇策であり、同時にあまりにも理に適った戦略であった。
「日本向けでなければ、そのまま直ぐに通してあげればいい。けれど、日本向けの品物が少しでも紛れているなら、徹底的に調査して船を足止めする。港に引っ張っていくんだ。……ねえ、そうなったらどうなると思う?」
フリストフォルは悪戯っぽく、しかし冷酷な光を宿した瞳で提督たちを見渡した。
「ロンドンやニューヨークの貿易会社や保険組合――ロイズの連中は、日本航路の船に掛ける戦争保険料を跳ね上げるよね? 航路が危険になればなるほど、保険料は青天井に上がっていく。その天文学的なお金を、ただでさえ借金まみれの小さな島国の日本が、払い続けられると思う?」
「……っ!」
海軍大臣アヴェラーン提督が、喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
軍事とは、ただ銃剣を突き合わせ、大砲を撃ち合うことだけではない。
国家間の経済の血流を止め、兵糧攻めにする総力戦の発想――それをこの幼子は、国際保険機構の力学まで理解した上で口にしているのだ。
「特に、石炭。英国の無煙炭なんかは一発で戦時禁制品としてアウトにすればいい。日本海軍の優秀な船は、あの良質なイギリス炭がなきゃ全力で走れないはずだよ。……石炭が入らなくなった軍隊と国がどうなるか、僕が言わなくても、偉い将軍たちなら分かるよね?」
フリストフォルの問いかけに、広大な作戦室は水を打ったような静寂に包まれた。
誰一人として、彼を「子供の分際で」と一蹴できる者はいなかった。
語られた策のあまりの凶悪さと実効性に、軍人たちの肌には粟が立ち、背筋を冷や汗が伝っていた。
ロシア帝国という巨人の腕力をただ振り回すのではなく、その巨躯で以て世界の通商路の要衝を塞ぎ、島国の首をじわじわと真綿で絞め上げる。
日本軍が満州の荒野でどれほど勇敢に戦おうと、本国へ届く物資と燃料を断たれれば、連合艦隊は港でただの鉄屑となり、陸軍の小銃は弾薬を失って沈黙する。
作戦卓の傍らで、アナスタシアが誇らしげに胸を張り、眩しいものを見る目で弟を見つめている。
そしてロシア帝国の皇帝ニコライ二世は、椅子の上に立つ我が子を、畏怖すら孕んだ複雑な眼差しで見つめ返していた。
提督たちが息を呑むなか、椅子の上に立つフリストフォルは、さらに容赦なく畳み掛けた。
その小さな手は、地図上の日本列島を囲む狭小な海峡群――対馬海峡、関門海峡、そして津軽海峡へと向けられる。
「それと、潜水艦だよ」
フリストフォルの口から出たその単語に、海相アヴェラーン提督はぴくりと肩を揺らした。
ロシア海軍において、国産潜水艇『デルフィン』がようやく就役し、アメリカのホランド型潜水艇の購入などが検討され始めたばかりの、実験的兵器の域を出ない代物である。
当時の海軍将官たちの認識では、故障が頻発する脆弱な鉄の棺桶であり、戦艦主体の正規海戦においては余技、せいぜい港湾防御用のオモチャとしか見なされていなかった。
だが、幼いツァレーヴィチが口にした運用の思想は、海軍の常識を根底から覆すものだった。
「海に潜れて魚雷が撃てる、あのかくれんぼが得意な船にはね、潜って隠れながら、日本が対馬や関門海峡から軍艦や輸送艦を出してきた側面を叩かせるんだ」
フリストフォルは、冷や汗を流す提督たちへ無邪気な笑みを向けてみせる。
「全部沈めてやろう、なんて欲張らなくていい。魚雷を一発でも喰らった軍艦や輸送船は、沈まなくても絶対に足を止めるよね? 攻撃する時に隠れて魚雷を一発撃ったら、潜水艦は深海に隠れてそのまま離脱していいんだよ」
「……足を、止めるだけでよいと?」
誰かが呆然と呟いた。 フリストフォルは「そうだよ」と事も無げに頷く。
「ドアノッカーだよ。コンコン、て敵の扉を叩いて驚かせるの。そこに常時張り付いている必要なんてない。けれど、日本軍の側からしたら『あの海峡にはいつ襲ってくるか分からない鉄の怪物が常に隠れ潜んでいるかもしれない』――その疑心暗鬼とプレッシャーを植え付けるだけで、日本艦隊や輸送船団の足取りは劇的に鈍るよ」
――背筋が凍るような心理戦の提言だった。
日本軍が満州で戦うためには、何十万もの将兵と膨大な弾薬・糧食を、関門海峡や対馬海峡を越えて朝鮮半島や遼東半島へ送り届ける必要がある。
その生命線である狭い海峡に「正体不明の魚雷攻撃」という見えない恐怖をばら撒かれたらどうなるか。
日本の輸送船団は厳重な護衛なしには一歩も港を出られなくなり、駆逐艦や水雷艇はその警戒に釘付けとなる。
航路は迂回を余儀なくされ、陸軍への物資供給速度は致命的に遅延するのだ。
「もしも彼らが安全を求めて、北海道と青森の間――津軽海峡を抜けようとしてもね、その出口のすぐ先にはウラジオストクがある。……日本海は決して自分たちの安全な庭じゃない、一歩出ればいつ沈められるか分からない死の海なんだって、思い知らせてやればいいんだよ」
津軽海峡の東口を扼するウラジオストク巡洋艦隊、そして海峡内部に潜む潜水艦の影。
それは日本列島を完全に包囲し、孤立させるための、極めて現実的で凶悪な罠の配置図であった。
近代海戦における潜水艦の真価を熟知しているフリストフォルだからこそ、この1904年という時代において、時代を十数年も先取りしたドクトリンを迷いなく提示できたのだ。
作戦室の巨漢の軍人たちは、もはや一言の反論も挟めなかった。
椅子の上に立つ小さな皇子は、荒唐無稽な夢想を語っているのではない。今すぐロシア帝国が持つ現有戦力と技術で実行可能であり、かつ敵国の急所を最も効率的に破壊する「必勝の青写真」を、淡々と諳んじているのだ。
「……陛下」
海相アヴェラーンが、震える声でニコライ二世へと顔を向けた。
「直ちに……サンクトペテルブルクの造船所にある『デルフィン』、ならびにバルト海沿岸で建造中および購入予定の潜水艇すべてを、シベリア鉄道経由でウラジオストクへ緊急分解輸送する手配を命じるべきかと存じます。殿下の仰る通り……これは、奴らの喉首に突き刺す刃となります」
ニコライ二世は、我が子の横顔を見つめたまま、微かに唇を震わせていた。
「フリスチューシュカ……お前は一体、どこでそんなことを……神の啓示でも受けたというのか?」
皇帝の問いに、フリストフォルはすっと表情を緩めた。 椅子から飛び降りると、心配そうに見つめていたアナスタシアの元へと駆け寄り、その細い腰にぎゅっと抱きつく。
「んーん。姉さまが『負けるのは嫌』って言ったから、僕、一生懸命考えただけだよ」
駄々っ子のように姉の胸元に顔を擦り付ける弟の姿に、アナスタシアは嬉しそうにその淡い金髪を撫でた。
「えらいわ、フリスチューシュカ。私のために頑張ってくれたのね」
作戦室の重臣たちは、その甘やかな光景を、畏怖と畏敬の入り混じった眼差しで見つめるしかなかった。
姉の腰に抱きつき、その甘やかな温もりに身を委ねたままで、フリストフォルはさらりともう一つの爆弾を投げ落とした。
「次は、飛行船だよ」
作戦室の空気が、ふたたび張り詰めた。
まだ三歳児の我が儘と呼ぶには、これまでに披露された策があまりにも常軌を逸した実効性を持っていたからだ。将官たちは誰一人として笑わず、息を呑んでその次の言葉を待った。
「去年、どうしても僕が欲しいって我が儘を言って、ツェッペリン社の倉庫で埃を被ってたのを買ってもらったでしょう? 足りないなら、ドイツのツェッペリン社から追加で買い取ってもいいよね。……ヴィリー伯父様(ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世)にお願いすれば、喜んで融通してくれるはずだよ」
ニコライ二世の眉がピクリと跳ね上がった。
確かに一年前、フリストフォルが珍しく激しい癇癪を起こし、ドイツのフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が私財を投じて開発したものの、資金難と強風事故で開発が頓挫しかけていた巨大な硬式飛行船を、莫大な帝室費を投じてまるごと買い取らせたことがあった。
皇帝をはじめ宮廷の誰もが、神童皇子の風変わりで高価な「空飛ぶ玩具」のおねだりだとばかり思っていたのだ。
だが――少年大公の視線は、初めからその遥か先を捉えていた。
フリストフォルはアナスタシアの身体から名残惜しそうに離れると、振り返って極東の地図を仰ぎ見た。
「あの巨大な飛行船の足なら、ウラジオストクの基地から飛び立って、日本海を渡れる。佐渡島、新潟、山形、青森、そして北海道の下の辺り――函館や大湊まで十分に届くでしょ?」
幼い指が、日本の裏側――日本海沿岸の都市群を軽やかになぞる。
「あれを使って、上から爆弾を落としてやるんだよ」
――空から、爆弾を落とす。
作戦室にいた陸海の将官たちは、その一言の持つ恐るべき意味を脳内で咀嚼するのに数秒の時間を要した。
そして理解が追いついた瞬間、総毛立つような戦慄が彼らの全身を駆け抜けた。
1904年という現在、人類はまだ「空」を戦争の領域として認識していない。
ライト兄弟が人類初の動力飛行に成功したという報せがアメリカから届いたばかりのこの時代、航空機による戦争など、空想小説の中にしか存在しない概念だったのだ。
ましてや、防空という発想そのものが地球上のどこにも存在しない。
高射砲もない。敵機を迎撃する戦闘機もない。防空壕も、灯火管制の訓練も、何一つとして整っていない。
つまり、1904年の日本上空は、完全なる「無防備な天界」だった。
「……空から、攻撃を仕掛けるというのか。大砲ではなく……」
誰かが上擦った声で呟いた。
フリストフォルは冷徹な眼差しで、その言葉を肯定する。
「そうだよ。高度を上げて雲に紛れて飛んでいけば、地上の敵には見上げることしかできない。鉄砲を撃ったって届きやしないんだ。新潟港の倉庫、鉄道の連絡船、石油の採掘所、あるいは大湊の軍港……そこに、空から一方的に爆薬の雨を降らせてやるの」
日本海側の諸都市――とりわけ新潟や青森は、前線へ物資を送り出すための後方策源地であり、北海道からの石炭や食糧を本州へ送る輸送の結節点だ。そこへ、迎撃手段皆無の「空飛ぶ怪物」が飛来し、無慈悲に爆弾を投下していったらどうなるか。
もたらされる物理的被害もさることながら、真に破壊的なのは「心理的パニック」であった。
祖国本土は安全であるという大前提が崩壊し、いつ頭上から神の雷のごとく爆弾が降ってくるか分からない恐怖に、銃後の国民は狂乱する。
大本営は本土防空のための兵力を割かざるを得なくなり、満州前線へ送るはずだった戦力は大きく削がれることになるのだ。
歴史を知るフリストフォルは、第二次世界大戦におけるバトル・オブ・ブリテンでルフトヴァッフェがロンドン市民に与えた精神的動揺を、そして前世の日本を焼き尽くした空襲の絶望を、あまりにも生々しく理解していた。
それをこの1904年に、先んじて日本列島に叩きつける。
「ツェッペリン伯爵には、もっと大きな船をすぐに造らせるようにお金をたくさん渡せばいい。あの伯父様は飛行船に夢中だから、資金さえ出せばいくらでも協力してくれるよ。シベリア鉄道でウラジオストクへ運んで、そこで組み立てればいいんだ」
海上封鎖による経済の絞殺、潜水艦による海峡封鎖と心理的威圧、そして、飛行船による未曾有の本土直接爆撃。
陸軍の人海戦術と、時代遅れの艦隊決戦しか能がなかったロシア帝国の戦争指導に、突如として持ち込まれた「立体的な総力戦」の概念。
三歳の皇子が示したグランドデザインは、日露戦争という局地戦の枠組みを完全に破壊し、日本という島国を三次元の檻へと閉じ込めるに十分な凶悪さを秘めていた。
「……すぐ手配させよう」
絞り出すような声で言ったのは、ニコライ二世だった。
皇帝の目はもはや、我が子を単なる幼子としては見ていなかった。
帝国の命運を握る預言者を見るかのような、眩暈を伴う敬意と決意が宿っている。
「ツェッペリン社への追加出資、ならびに現存する機体の極東輸送を直ちに命じる。……陸相、海相。フリスチューシュカの言葉を、ただの空論と思うな。すべて軍の最高機密作戦として、実行計画を立案せよ」
「「ハッ……!」」
直立不動で敬礼を返す歴戦の将軍たち。
その喧騒を背に受けながら、フリストフォルはふたたびアナスタシアの横へと戻り、その袖をちょこんと引っ張った。
「姉さま、僕、もう疲れちゃった。お部屋に戻って、二度寝してもいい?」
張り詰めていた空気が一転し、アナスタシアはふふっと花が咲くように笑った。
そして、世界を震撼させる戦略を告げたばかりの弟の小さな手を、愛おしそうに両手で包み込んだ。
「ええ、いいわよ。よく頑張ったわね、フリスチューシュカ。お部屋に戻ったら、温かいココアを淹れてあげる」
子供部屋へ戻ろうとアナスタシアに手を引かれ、扉へと向かいかけていたフリストフォルは、ふと思い出したようにピタリと足を止めた。
くるりと振り返ると、未だ呆然と立ち尽くしていた陸軍大臣クロパトキン将軍の姿をその澄んだ双眸で捉える。
「あ、そうだ。陸軍の話を忘れてたよ」
その無邪気な声のトーンとは裏腹に、紡ぎ出された言葉は、ロシア陸軍が抱える教条主義的な迷走を根本から一刀両断するものだった。
「陸軍はね、無理に朝鮮半島を兵隊で埋め尽くさなくていいの。山ばかりで道も狭い朝鮮半島なんかに入り込まずに、その半島の付け根――鴨緑江と豆満江の向こう側で、堅い陣地を作って軍隊を揃え、じっと『にらめっこ』していればいいんだよ」
クロパトキンの巨躯が、びくりと震えた。
陸軍内部では目下、極東総督アレクセーエフらが主張する「朝鮮半島へ即座に進軍し、黄色い猿どもを海へ叩き落とすべきだ」という強硬論と、シベリア鉄道の輸送能力不足を懸念する慎重論が激しく衝突していた最中だったからだ。
幼い皇子は、その対立の先にある盤面をいとも容易く描き出す。
「ロシア軍がどこにも居ないのを見て、日本は喜び勇んで朝鮮半島に入ってくると思う。でもね、そうなれば奴らは、細長くて出口がない陸の孤島に、自分から頭を突っ込んでくる『袋のネズミ』だよ? 補給線を勝手にどこまでも伸ばして、疲弊してくれるんだ」
フリストフォルは作戦室の壁の地図を指差した。
「じゃあ、困って引き返そう、補給をもらおうと思っても、その背後には何がある? 潜水艦が泳ぎ回る対馬海峡と、旅順やウラジオストクから神出鬼没に出てくる艦隊がいて、日本の輸送艦を片っ端から襲ってるんだ。……退路も補給も海で断たれたら、半島に上がった何十万の日本兵はどうなるかな?」
将官たちの背筋を、冷たい汗が伝った。
おびき寄せの罠だ。広大な朝鮮半島そのものを巨大な鳥かごに見立て、敵主力を吸い込ませた上で、海陸からその退路を遮断する。
「海だって同じだよ。もし戦艦同士の戦いになっても、絶対に無理して攻め込まなくていい。押しては引いて、引いては押して……距離を保ちながら、向こうの大砲の弾と、貴重なイギリス炭を無駄遣いさせればいいんだよ」
フリート・イン・ビーイング――艦隊の存在そのものを圧力とし、無理な決戦を避けて敵の燃料と弾薬をすり減らす遠距離削開戦法。
「こっちはね、シベリア鉄道でユーラシア大陸中から地続きでいくらでも補給を送り込める。バイカル湖の迂回路だって、時間を稼げば完成するでしょ? けれど、シナ海でも地中海でも大西洋でも船を止められて、石炭も弾も届かなくなった日本は、日に日に目減りしていく倉庫の底を、指をくわえて見つめていることしかできなくなるんだ」
幼い声が、冷酷なまでの「時間と資源の算術」を淡々と読み上げる。
「そうやって時間を掛けるだけで、ロシアは何もしなくても勝てるよ。自軍の被害は最小限に、相手には最大の損害を与える――それが戦争の基本でしょ?」
フリストフォルは小さな指を一本ずつ折りながら、この戦争のタイムリミットを宣告した。
「この基本さえ守っていればね……1年は向こうも気合で耐えるよ。2年はギリギリで頑張る。でも、3年目はもう絶対に無理をする。4年目になれば、日本には何もなくなって、戦争を続けるどころか明日食べるパンにすら困るようになって、国民同士で食べ物を奪い合って殺し合う暴動が起きるかもしれない。……5年耐えればね、『お腹が空きすぎてどうにもならないから許してください』って、日本の方から泣きついてくるよ」
「…………っ!」
クロパトキンは息を呑み、拳を強く握りしめた。
それは、彼が胸の奥底で朧げに考えていながら、皇帝の威信や主戦派の怒号に遮られて決して口に出せなかった「持久・消耗戦」の真髄そのものだった。
しかもフリストフォルの提示したドクトリンは、陸軍単体の遅滞戦闘にとどまらず、海軍の通商破壊と海上封鎖、そして敵国の経済的脆弱性と完全に連動した、完璧無比な国家総力戦計画として結実していた。
日本という国家は、長丁場の戦争に耐えうる肺活量を持ち合わせていない。
短期決戦を挑んでくる相手に対し、徹底して土俵に乗らず、時間という名の鉛の毛布を被せて窒息させる。ロシア帝国という巨人の質量を、最も凶悪な形で敵に押し付ける必勝の戦略。
「……フリスチューシュカ」
ニコライ二世が、微かに掠れた声で呼びかけた。
その瞳には、我が子への無上の愛おしさと共に、もはや一人の偉大なる大戦略家を見上げる臣下のような戦慄が宿っていた。
「お前は……ロシアの未来そのものだな」
父の重々しい賛辞にも、フリストフォルは興味なさそうに肩をすくめただけだった。
「僕はただ、姉さまが悲しまないように、一番楽ちんで確実な勝ち方を言っただけだよ」
そう言い残すと、フリストフォルは今度こそアナスタシアの手を引いた。
「行こう、ナースチャ姉さま。ココア、マシュマロたくさん入れてね」
「ええ、もちろんよ。とびきり甘いのを作ってあげるわ」
二人の幼い大公と大公女は、手をつなぎ、楽しげに足音を響かせながら作戦室を後にした。
残された最高司令部の室内には、張り詰めた静寂と、少年大公によって完全に書き換えられた極東の海図だけが、静かに横たわっていた。
帝国の斜陽を宣告するはずだった1904年は、こうして、極東の島国にとっての悪夢の始まりへと姿を変えようとしていた。